月刊「e船団」 「香りと言葉」2007年7月号
歳時記のかおり 七月 汗の香 7月は「汗の香」と思っていましたら、ある日、耳寄りな会話が聞こえてきました。 「清少納言ってね、自分の汗のニオイが好きだったんだって!」 「うん、わかるなー。脱いだTシャツや自分の足のニオイ、わざと嗅いでみたりするよね」
で、清少納言の汗の話の出所を聞いてみると、『枕草子REMIX』(1)だという。近頃の若者は面白いモノをよく知っていて頼もしい、です。 早速買ってみてみると、こうです。 七月ばかりに、風いたう吹きて、雨など騒がしき日、おほかたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香すこしかかへたる綿衣(わたぎぬ)の薄きを、いとよくひき着て、昼寝したるこそ、をかしけれ。(第四十一段)
「汗の香すこしかかへたる綿衣」は汗のニオイがちょっと染み込んだ綿入れ、つまりこの時代の夜着のこと。それをひっかぶって昼寝をするのっていいわよ、ということのようです。この本、清少納言と著者の酒井順子の架空対話が挿入されていて、それが抜群に面白いのだが、著者は自分にこう言わせている。 酒「自分の汗の匂いに陶然とするって、よくわかるー。私もね、すごく汗をかいた日に自分が脱いだTシャツを嗅いでみたりするの、大好き」 そして更に、口に出すのはためらうが、としつつ、 酒「好きな人だと、靴下でも嗅げる」 清「私も、好もしい人の場合は、自分の汗の匂いを嗅ぐようにして、相手の汗の匂いを嗅いでしまうこともあるわねー」 酒「あら、ちょっとエッチ」
という具合。好きな人のなら足の臭いでも好き、という件には後でまた触れることにして、ここで面白いと思うのは、「酒」さんがあせを「かく」と言っていること。だって、枕草子には、「七月ばかりに・・・」の段以外にも汗が4回出て来るのに、1度も「(汗を)かく」とは書かれていないから。「清涼殿の丑寅のすみの・・・」の段の冷や汗も含めて、どれも汗は「あえる」ものだ(2)(3)。「あえる」(文語は「あゆ」)は、「零える」と書かれ、「汗、血、乳などがしたたり落ちる、流れる」ことだという(4)。では、汗を「かく」という言い方がまだ無かったかというとそうでもないようだ。万葉集にも、「検税使大伴卿が筑波山に登る時の歌」に「・・・筑波の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆き 木の根取り うそぶき登り・・・」などとあるし。
ただ、『日本国語大辞典』(4)に、「汗をかく」の「かく」は漢字では「掻く」と書かれ、「からだや心の中に収めておいた方がよいものを、外面に現わしてしまう」ことで、「他に対してみっともないものを、体の外に出す。汗、いびきなどにいう」とあるところをみると、「かく」は清少納言に敬遠されたのかしら。だとすると、好きな人の汗は「かく」ではなく「あえる」の方がいいかも知れない。〈木の下のあいつ、あいつの汗が好き(坪内稔典)〉などもきっと「あえ」た汗だろう。ちなみに、「香」は現代では良いニオイを指すことが多いが、清少納言も「汗の香」と書いているように、昔は中国でも日本でもニオイの良し悪しにかかわらず使われていた。
そこで、その汗のニオイであるが、実は、汗は99%以上が水分で、出た直後はほとんど無臭であることが知られている。それがなぜ臭うようになるかについては、『ヒット化粧品』(5)の解説がわかりやすい。
健康な人間の皮膚には皮膚常在菌と呼ばれる微生物郡が生息しています。通常は無害で、むしろ病気の原因となるほかの細菌から人体を守ってくれているのですが、実は体臭の発生にも重要な役割を演じています。 常在菌が栄養源としているのは、皮膚上に蓄積した老廃物(あか)や汗、皮脂などの分泌物ですが、なかでも皮脂の主成分である脂肪は大変栄養価が高く、代謝される過程でイソ吉草酸やカプリン酸などの低級脂肪酸と呼ばれる非常に臭いの強い物質を生成します。足や腋の下の臭いを集めて分析すると、こうした低級脂肪酸がかなりの量含まれていることを確認できます。 微生物が活発に活動するためには、栄養源のほかに水と温度、すなわち高温多湿の環境が必要です。腋の下はこうした微生物の生育に適しているだけでなく、アポクリン腺というタンパク質を豊富に含む汗を分泌する汗腺が密集しているため、とくに臭いを発生しやすい環境にあるといえます。
ここに汗臭さの成分として出ているイソ吉草酸やカプリン酸は、では、どの位臭いのか。 においの強さにはいろいろな現わし方があるが、ここでは嗅覚閾値をみてみたい。嗅覚閾値とは、「どのくらいに薄めてもにおうか」を表す数値で、ちょっと皆さんがよくご存じのものと比べてみると(6)、
お酒の成分のエチルアルコール:0.52ppm お酢の成分の酢酸:0.0060ppm 宿酔のモトのアセトアルデヒド:0.0015ppm イソ吉草酸:0.000078ppm
イソ吉草酸は桁外れに閾値が低いことがわかる。薄めても薄めても臭うのである。もっとも、流石にウンチの臭いのモトとして有名なスカトールの0.0000056ppmには一桁負けているが。 ここではppmというお馴染みの単位を使っているが、これはパーツ パー ミリオン(parts per million)つまり100万分の幾つに当るかを示す単位である。私たちがいちばんよく使う「%」はppcつまりパーツ パー セント(parts per cent)である。上記のようにゼロがいくつも並ぶと、分かりにくいし間違いのもとでもあるので、もっと微量を示す単位が使われることも多い。
ppc(%:parts per cect):100分の幾つ ppm(parts per million):100万分の幾つ ppb(parts per billion):10億分の幾つ ppt(parts per trillion):1兆分の幾つ
など。これってお金で考えるとわかりやすいんですよ。1ppmは100万円の中の1円、1ppbは10億円の中の1円、という具合に。ついでですが、「微」がppmを示すことを知ったときは驚きました。中国には微量を示す単位が10分の1刻みに延々とあるらしい。
割、分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃・・・空虚、清浄。
清浄が10のマイナス21分の1乗を示す単位だったなんて。 すっかり脱線しましたが、じゃ、同じ汗の筈なのになぜ好きな人の汗のニオイだけが好きなの?ということになりますよね。それは、汗にはその人の体臭が溶け込んでいるからだと思われます。近年、ヒトにも遺伝子によって決まるニオイ型というものがあって、あるヒトがあるヒトを好きになることと深く関わっていることが分かり始めているのです。
要するに、「汗の香」は水に溶けたアナタです。大事にしましょう。
では、また来月。 〔参考文献〕 (1)酒井順子著『枕草子REMIX』(新潮文庫、2007年) (2)榊原邦彦編『枕草子 本文及び総索引』(索引叢書33、和泉書院、1994年) (3)田中重太郎著『枕草子全注釈』(角川書店、1972年) (4)『日本国語大辞典』(第二版、小学館、2001年) (5)日本農芸化学会編『くらしの中の化学と生物―ヒット化粧品』(学芸出版センター、2003年第2版) (6)川崎通昭他編『におい物質の特性と分析・評価』(フレグランスジャーナル社、2003年)
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