ごく最近、一回り年上の、新しい友人ができた。昨日、彼からこんなメールが届いた。

 

「人は自分の外の現象を理解しようと物理学を発展させていますが、それは実は自分自身の探究にほかならない。望遠鏡や顕微鏡をのぞいたら、そこに映っていたものは自分だったというオチ。“悟り”とは誰かが用意したこのオチに気づくことだと思っています。」

 

 

 

「自己紹介代わりに」と、こんなメールをくれた彼は、現在、社会人として働きながら、大学で宇宙物理学なる学問を修めているらしい。

 

ブラックホールってそもそもなんなんですか? というあまりにも漠然とした質問に、彼は「鉄の原子」やら「引力」やら「光の速さ」やら「核融合」やらのサイエンス用語を随所に用いながらも、このド文系人間にもわかるように、丁寧に解説をしてくれた。ものすご~くわかりやすかった。ブラックホールは各銀河にひとつずつ、必ず存在しているのだと言う。

 

「じゃあ、もしかして、この、ひとりひとりの人間の中にも……“私”の中にも、ブラックホール的なものはあるんでしょうか?」

 

そう言うと、彼は即座に「そうですよ」と力強く頷いてくれた。思わず、小さく飛び跳ねてしまった。私自身が宇宙そのものだなんて、あまりにも素敵な話ではないか。

 

 

 

私は理系の学問から逃げて逃げて逃げまくって生きてきた超感覚的な人間ではあるが、自分が普段、漠然と感じている「本当の世界の仕組み」のようなものを、サイエンスの人たちが数式に置き換えて、目に見えるものとしてこの世に表してくれることが、本当に嬉しくてたまらないのだ。偉そうだが「ほら、やっぱり! だから言ったでしょう!?」なんていう風に思ってしまうのだ。うん、やっぱり偉そうですね……!

 

宇宙の果てで起こっていることと、人間の体の中の一番小さな細胞で起こっていることが一緒だったり(銀河の写真と、脳内神経細胞の写真がそっくりなんていうのは有名な話ですね)、曼荼羅をぼんやりと眺めているうちに、宇宙の成り立ちを確信してしまったり……。

 

「望遠鏡や顕微鏡をのぞいたら、そこに映っていたものは自分だったというオチ。“悟り”とは誰かが用意したこのオチに気づくこと」

 

言い得て妙だと思う。

 

 

 

宇宙の正体は自分だし、自分は宇宙そのもの。

 

この、誰か(本当は自分自身)が仕掛けた壮大な冗談を、冗談だと見抜いた瞬間を、“悟り”と呼ぶのだろう。

 

そして“悟り”はぜんぜん特別なことじゃなくって、本当に、誰にでも訪れるものなのだと思う。だって、「それ」の正体は、他でもない、自分自身なのだから。自分自身が「それ」であったことを、「思い出す」だけで良いのだから。

 

思い出したら、楽になるんじゃないかな~。

 

 

 

月曜の朝から話が壮大すぎてすみません……! 宇宙の仕組みをあらわした「曼荼羅」ってものについても解説しようかと思いましたが、長くなりそうなので、それはまたいつか。

 


天台宗の開祖である最澄さんの言葉に「一隅(いちぐう)を照(て)らす」というものがある。「一隅」とは、いま自分がいる場所や置かれた立場のこと。いま、自分が置かれた場所で、できることをやり切って、自らを光を放って生きていきましょう、という意味なのだろう。いい言葉だな、と思う。

 

昨日、茨城県最北端の、「超」がつくほど山奥のお寺に、ご縁があってお参りさせていただいた。友人夫婦の車に乗せていただいてのお参りだったのだが、徒歩で行くとしたら、最寄のバス停から約2時間、人気のない山道をえんえん登り続けなくてはならない。そんな辺鄙なところに建つ、あまりにもひっそりとした、寂しげなお寺だった。

 

「私たち以外誰もこないよ、こんな山奥!」などと軽口を叩きながら門をくぐると、北関東なまりの強い、物腰柔らかなご住職があたたかく迎えてくださった。ご住職の笑顔を見た瞬間、来てよかった、と思った。彼は終始にこやかに、お寺の歴史や、その辺りの気候について解説してくださった。筑波山よりも高い標高に建つお寺の周囲は、冬になるとマイナス20度まで下がるらしい。

 

「誰もいらっしゃらないかもしれないけど、誰かがいらっしゃるかもしれないから、毎日開けているんです」

 

そう言って歯を見せて笑った、還暦はとうに越えているだろうご住職の後ろには、「一隅を照らす」の文字が書かれたポスターが貼られていた。

 

 

 

少し前に、『置かれた場所で咲きなさい』という本が大ヒットしていたが、それも、この「一隅を照らす」とまったく同じ意味なのだろう。いま自分がいる場所で、懸命にやれることをやっていくこと。自分の半径1メートルをまずは照らしていくこと。

 

私には、なにができるだろうか。

 

私には……。

 

 

 

私の「一隅を照らす」は、ブログを毎朝更新すること。

 

毎朝、誰よりも早く起きて、ひとりPCに向かい、ひっそりと文字を重ねていくこと。内容はまあアレだとしても(修行します……!)少なくとも、通常のタイムスケジュールで生きていらっしゃる方々が、一日のどの時間帯にアクセスしたとしても、何かしらの新しい文章が必ずそこにアップされているというのは、もしかしたら、自分が思っている以上に、頼もしいことなのかもしれない……。

 

そんなことを思うと、どんなに寝不足でも、だるくても、身体が自然と布団をはねのけて、机に向かうようになるから不思議なものだ。

 

もちろん、自分自身の楽しみというのが一番大きいけれど、それ以外のもっと強く、もっとやさしく、もっとあたたかな気持ちも芽生えつつある自分に気づき始めた昨今である。

 

 

 

あなたの「一隅を照らす」はなんですか?

 


「その時になったら、その時の自分がなんとかしてくれるさ~」

 

最近の私の合言葉である。

 

そう、私は、将来の自分に対する悩みってやつを、人生から断捨離してやろうと思っているのである。

 

いや、昔からよく言われるように、「悩み・苦しみは人生のスパイス」、「悩み・苦しみがあるからこそ……」的な部分は確かにある。それは認める。影が濃ければ光も強い。完全にそれらを人生から排除してしまうつもりはないし、そんなことはどんな人間にだってできないだろう。でも、必要以上に悩みにとりつかれて、「いま」というものをないがしろにしてしまうのも、阿呆らしい話だな、と思ったのである。それこそ本末転倒だよな、と。

 

 

 

どうして「未だ来ていないなにか」に心がとらわれてしまうかというと、ひとえに「(未来の)自分を信頼できないから」である。「その時が来れば、その時の自分がなんとかするだろう」と思うことができないから不安になる。「いま」の自分が考えて考えて考えることによって、「未来」の自分をサポートしてやらねば……なんて考えて、それで「悩み」を手放せない。

 

でも、どんなに「いま」の自分が不安になって、どうしようかと考えて、考えて考えて考えて、頭でこねくり回して、結論らしきものをどうにかこうにかひねり出したところで、実は、「未来」の自分には一切関係がなかったりするのだ。言うまでもなく、人生には「いま」しかないから。「その時」が「いま」となった時(変な日本語だ)の自分しか、実際に目の前のことを「どうにかできる」人間はいないのだ。

 

 

「その時の自分がぜったいになんとかしてくれる!」そう思いこんで、「いま」を「いま」として楽しむ。本当にはそれしかやれることはない。

 

もちろん、過去からの教訓を胸に刻むことは大事だし、それをもとに未来への対策を練ることも必要な作業だ。でもそれに時間をかけすぎると、「いま」しかない人生が、「まだ起きていない、なにかよからぬこと」への不安というもののトーンに支配されてしまう。

 

 

 

やるべきことを考えなくてはいけないときは、時間を決めて取り掛かる。30分でも2時間でも、近くのカフェにノートを持っていって、真剣に自分会議をする。その時間内に答えを出してやる、という気迫で臨む。

 

時間が来たら、答えが出ても出なくても、それ以上考えるのはやめる。どのみち頭で考え続けたところで結論なんて出やしないのだ。本当に「その時になってみないとわからない」ことしかないのだ。じゃあなんでこういうことをしたかというと、そうでもしないと「いま」の自分が納得しないから。納得しないことには忘れられないから。

 

一度真剣に考えて、「いま」の自分を納得させた上で、そのことを頭から追い出してしまう。するとある時、ぜんぜん関係ない瞬間にインスピレーションのような形で「答え」がやってくる。それをキャッチしたら「いま」の自分の仕事は終わり。あとはリラックスして、「その時の自分」にすべてをお任せする。

 

そうやってしか物事は進んでいかない。

 

それでもどうしても考えることをやめられないときは、「ああ、自分はいま、このことについて考えたいのだな」ということを自分でしっかりと認めて、主体的に考えること。なんとなく、「自分の意志に反して」考えさせられ続けているような気分になるから、考えることが苦しくなるのであって、「自分で選んで」考えているのだ、ということを認めてしまえば、少し気が楽になって、肩の力が抜ける。その時がチャンスだ。ふわっとリラックスしたところに、答えはやってくる。

 

そう、答えはひねり出すものではなく、やってくるものなのだ。人間にできることは、その答えがやってきやすい状態を整えるだけ。「いま」をリラックスして生きることだけ。

 

 

 

「その時になったら、その時の自分がなんとかしてくれるさ。考えても仕方ない。いい匂いの入浴剤を入れたお風呂に浸かって、お笑いのDVDでも見て、今日はさっさと寝てしまおう。」そんな風に考えて、「いま」を楽しむことに徹した人の方が、深刻そうに青白い顔をして肩で息をして「未来」のことを考え続けていた人よりも、結果、なんだかうまく行っているのを良く見るのだ。悩み続けるのが馬鹿らしくなるではないか。

 

好みの問題だとは思うけれど、それならば私は、「いま」をリラックスして生きることを選びたい。

 

雨の土曜日。できるだけリラックスして、「いま」を生きていきたいですね。

 


昨日、アンパンマンは菩薩なんだぜ、「ぼくの顔をお食べよ!」は究極の布施行なんだぜ、という記事を書いた。書きながら思ったのは、「布施っていうのは、執着を手放すための、よくできたレッスンのうちのひとつなんだなあ」ということ。

 

「喜捨(きしゃ)」という言葉もあるが、布施をするときには、する側に必ず「よろこび」がなくてはならないのだ。嫌な気分のままに無理やりになにかを他に与えたところで、それは真の意味での布施にはならない。

 

でも、よろこびを持つためには、まずは執着というものを手放さなきゃいけないわけで……。

 

じゃあ、その執着っていうものはどこから来るのかっていうと、過去やら未来やらの「幻想」からなんですね。

 

言うなれば、布施というのは、「いま」「ここ」にしっかりと自分の舵を下すための修行なのだ。

 

 

 

たとえば昨日「無財の七施」の一番目、二番目に挙げた「(慈)眼施」「和顔(悦色)施」は、いずれも、いつだってやさしい表情で人に接することの大切さを説いているが、これだってその時その時の感情にひきずられていたら、ぜったいにできないことだ。

 

直前になにか嫌なことがあった人に、「さあ、眼施・和顔施です! にっこりとした表情を他に施しましょう!」なんて言っても難しいことだと思う。どうしたって、すでに起こってしまったことへの怒りや悲しみや、未来への不安の方が先に立って、「にっこりなんてしてられるかーーー!!!」って気分になってしまう。それは人間として至極まっとうな反応だ。

 

しかし、すでに起こってしまったことを、くよくよめそめそむかむかあーすればよかったこーすればよかった……と自分の脳内で弄びつづけたり、まだ起こってもいないことを、くよくよめそめそむかむかあーでもないこーでもないどうしようどうしようどうしよう……とこねくり回してみたりしたところで、状況はひとつとして変わらないのだ。だって未来も過去も、手で触ることのできない、いわば実体のないものだから。言ってみれば、両方、幻想なのだから。

 

それならば、「いま」「ここ」に心をどっしりと落ち着かせて、にっこりと過ごしていた方が、周りにとっても、なによりも自分にとってもぜったいにいいに決まっている。もちろん、過去を反省したり、未来はこうしてみよう、と頭を使うことは大事だが、一度決めたらもう過去も未来も思い切って手放して、「いま」「ここ」に徹してしまうこと。ただただ目の前のことを淡々とやっていくこと。

 

その態度が、自然と、「他になにかを施す」ことにつながっていくのかな、と。

 

布施行を積んでいるうちにどんどんどんどん執着は離れ、執着を手放すうちにどんどんどんどん自然な布施行を積んでいくことになる……。

 

おもしろいな、と思う。本当にこの世はよくできているなあ!

 

 

 

余裕があるときに誰かになにかをしてあげることは誰にだってできる。でも、余裕がないときにやってこそ、大きな修行になり、それが大きな「よろこび」をも自分にもたらしてくれるのだと思う。

 

 

 

さて、新月の金曜日。今日も一日、機嫌よく、気持ちよく施して参りましょう!

 


【無財の七施】

 

1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する

 

2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する

 

3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する

 

4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する

 

5.心施(しんせ) 他のために心をくばる

 

6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る

 

7.房舎施(ぼうじゃせ) 自分の家を提供する

 

 

 

 

ツイッターで友人がこんなことをつぶやいた。

 

「私自身が愛でいれたら、そんな幸せなことはないなぁ。アンパンマンみたいに、分け与えられる人でありたい。」

 

この言葉に深く感じ入ってしまった。こんなことをサラリと言える彼女を尊いと思った。そして、私もそうありたい、と強く思った。

 

 

 

そこで、冒頭に挙げた、仏教の「無財の七施」を思い出した。仏教では「布施」(他になにかを施し与えること)を修行のひとつに数えているが、なにも金品じゃなくても、相手に「施し与える」ことはできるよ、っていう教えがこれで。なるほど、自分と誰かさえいれば、この場で即座に実践できるものばかりである。

 

で、これ、1~5までは割と一般的なことが書いてあるけど、6と7だけやけに具体的で、ちょっと違和感を覚えませんか?

 

私の解釈としては、「6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る」っていうのは、なにも電車やバスなどの公共機関の座席に限らず、自分の立場とか名誉とか、そんなものも含まれるのかなあ、と。いつまでもそんなものにしがみつかずに後続にサラッと席を譲る人こそがかっこいいんじゃないか。いいなあ。素敵だなあ、そんな人……。

 

「7.房舎施(ぼうじゃせ) 自分の家を提供する」も、この物騒なご時世、自分の家にのべつまくなしに誰かを招き入れるなんてことは難しく……。で、思ったのが、これって「時間」と「場所」を提供するってことなのかな、と。悩みを抱える友人を公園やカフェや居酒屋に誘ってじっくり話を聞いてあげるとか。あと、比喩としての「家」になってあげるっていうことなのかな、とも思います。話を聞いたり、場合によっては抱きしめてあげたりすることで、その人を雨風から守ってあげる。そういう行動が房舎施なのかな、と。

 

 

 

で、この「無財の七施」の実践者としてつとに有名なのが、友人も例に挙げた、アンパンマンという名の国民的ヒーローなんですよね……。彼はすごいですよ~。七施、ぜんぶサラリとやってのけていますから。

 

アンパンマンの布施行の中でとくに特徴的なのが、「4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する」ですよね。だって、

 

「ぼくの顔をお食べよ!」

 

ですからね……。なんなの、アンパンマン。こんなこと、君じゃなきゃ言えないよ……! 文字通り(文字通りすぎる!)の「身施」ですよ。見上げた男ですよ!

 

 

 

アンパンマンが「本物だなあ」と思うのは、この布施行をぜんぶ「やってやろう!」なんて思わずに、自然にやっていることで。(い、いや、多分ね……。会って話したことがあるわけじゃないから、多分、ですけど……。)彼は、その時その時を、懸命に、ひたすらに他を利することに使っているのですよね。損得なんて一切考えずに、その場でできることをやってしまう。それが証拠に、彼、しょっちゅう、

 

「顔が欠けて、力が出ない~~~」

 

とか言ってるじゃないですか……。後で自分がどうなるかなんてこと、なーんにも考えずに、ただひたすらに、目の前にいる、お腹がすいていたり、元気がなかったりする人に、自分の顔を差し出しちゃうんですよね。損得考えてたら、ひとかけらだって、誰かに自分の顔なんか与えられませんよね。

 

見上げた男ですよ! 若干、へなちょこで頼りないけど、心意気は最高ですよ!

 

 

 

すごいなあ、アンパンマン。アンパンマンこそ菩薩だと思う。子どもに人気があるのも頷ける話だ。

 

 

 

布施って、された人だけじゃなくて、した本人の心にも明かりが灯る行為なんですよね。実は自分のための行為でもあったりする。他を利することが、そのまま己を利することになる。

 

なんてよくできているんだろう、とこの世の仕組みに感服してしまう。

 

アンパンマンみたいに、損得関係なく、サラリと布施行を積めちゃえばいいんですけど、まあなかなか難しいですよね……。でも、最初は若干力が入ったり、ぎこちなかったりしてもいいから、とにかく続けることかなあ。そうしたらいつかアンパンマンのような「愛と勇気だけ」の境地に達することができるかもしれない。(まあ、顔が欠けたら力が出なくなるってこと、少しは学習しなさいよ、アンパンマン……とは思いますけどね……。)私も修行を積みます。まずはにっこりすることから。

 

 

 

 

南無アンパンマン菩薩。

 

©Yoko Koide