ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 襟足をあと一センチ(1)2017年4月7日 01:45へし宗で高校生パロです。スーパー現実主義な長谷部と、夢を追いかける宗三が、宗三のひょんなお誘いで卒業までルームシェアするお話です。ふたりの過去や、家庭環境のことも、これから書いていければいいなと思います。タイトル回収までいかなかった追記4/7:評価、ブクマありがとうございます! 受験勉強の合間に、本当にゆっくりですが書いていきます。シリーズ登録に誤りがございましたので修正しました。「ただいま戻りましたー……」 駅から少し離れたところに古ぼけた小さなアパートがある。鍵を回し、錆びた扉が変な音を立てないように細く開けて、隙間から体を滑り込ませながら宗三は呟いた。部屋の中は真っ暗でしんとしている。無理もない。宗三がバイト先のタイムカードを押して帰る時、時計は既に二十二時を回っていた。 狭い玄関には、白いスニーカーが端にきちんと揃えられている。自分の趣味には合わないそれをしばし見下ろしたあと、靴を脱いで反対側の端に揃えた。 暗闇の中、壁を頼りにしながら台所を通り過ぎ、自分の部屋へと向かう。足元に注意はいらない。この家には、台所の床に物を放置するような人は住んでいない。扉を開けると畳の感触を足の裏に感じた。これまた音を立てないように扉を閉め、背負っていたリュックを下ろすと、襖の隙間からひとすじの光が漏れている。眉を顰めて近づき、隙間から向こう側をのぞき見た。必要なものしか置かれていない無機質な部屋の、角の机で青年がシャープペンを動かしている。いい加減見慣れたその背中に、聞こえないように密かにため息をついて襖を閉めた。まったく、彼はこんな時間まで何をしているのだろう。 歯磨きをしてさっさと寝てしまおうと、宗三はスマホのライトを片手に再び台所へ向かった。歯ブラシと歯磨き粉は流し台にまとめて置いてある。この暗闇の中で自分と相手の歯ブラシを取り違えたりしたら、大問題だ。目線の先を照らして、一瞬立ち止まる。先程は気がつかなかったが、コンロの上に小さなフライパンが置いてあった。中身の予想がついてしまう自分に若干嫌気が差したが、そのままずかずかとコンロに近づいた。そしてその中にライトを向ける。一人分のキャベツと人参の野菜炒めだ。傍には、ボールペンで走り書きされたメモが一枚。『火にかけて食え』「……はぁ~」 今度は大げさにため息をついた。少し響いたが気にしない。どうせ部屋に籠って勉強中の彼は、聞こえていようが素知らぬふりだ。 高校三年生に進級してからおよそ一ヶ月。 宗三と長谷部は、この春から、訳あって同棲している。***「同棲じゃない。ルームシェアと言え」 向かいに座った光忠に、長谷部は顔を顰めた。今は昼休みだ。食堂に行く生徒もいれば、陽のあたる渡り廊下に出て昼食を食べる生徒もいる。長谷部はいつも教室で、燭台切と大倶利伽羅と一緒に昼食をとる。どちらかというと、ふたりが勝手についてくる、と言った方が正しいのかもしれないが。「うん、わかった。じゃあ、宗三くんとのルームシェア上手くいってる?」「上手くいく訳がないだろう!」長谷部の鋭い声が教室に響いた。生徒が一斉にこちらを振り向いたが、本人は全く気にしていないようだ。「毎日毎日夜遅くまでバイトばかりして、しかも夕飯は食わずに寝るんだぞ! あの貧弱な体でそんな生活をしたら、いつか体を壊すことくらいわからないのかあいつは!」 次々と放たれる言葉は止まらない。その気迫に圧されて燭台切は肩をすくめた。どうやら相当鬱憤が溜まっていたらしい。大倶利伽羅はもう慣れたものと、燭台切の隣でカレーパンをかじっている。「確か、宗三くんって専門学校志望じゃなかった? だから余計お金がいるんじゃないかな」「下宿しながら専門だと? どこに行くつもりなんだ。そもそも何故そんな無茶をする必要がある?」「さあ。僕は知らないけど……」 というか、宗三くんが専門学校志望って、結構有名な話だけどなあ。そう光忠は思ったが、口には出さなかった。このことを、宗三本人は話すことがない。進路指導のホームルームがあるから、自然と志望が専門学校であることは知られてしまう。ただ、それがどこなのか、何のために行くのかを知っている生徒はひとりもいなかった。 燭台切は目の前で吠える長谷部を不思議な気持ちで見つめた。長谷部はどこか他人に無関心なところがある。クラスの流行も噂話も、全く気にかけないのだ。「まったく……そもそも最初にけしかけたのはお前だろうが、燭台切」「ごめんね? なんか面倒なことしちゃったかな」「今更謝られた所で変わらん。お前に怒っている訳じゃない」 そう言って鼻を鳴らした長谷部に光忠は苦笑をこぼす。なんと理不尽な八つ当たりだろうか。大倶利伽羅は呆れて息を吐いた。 さかのぼること一か月前。ことの始まりは、教室の窓際で船を漕ぐ宗三を燭台切が見つけたことだった。クラス替えしたばかりで少し緊張した空気の中、燭台切は宗三に声をかけた。持ち前の明るさと人当たりの良さで。「宗三くん、大丈夫?」「……ああ、燭台切でしたか? ええまあ、大丈夫です」宗三が一人暮らしをしていて、そのためにバイトに明け暮れているのは既に学校では有名な話だった。「バイトしてるんだっけ、大変だね」「お金を貯めないといけないので……」 小さなあくびをしながら宗三は答えた。さばさばした物言いでありながら、聞かれたことにはちゃんと答える。きっと真面目な人なのだろうと、燭台切は感じた。もともと燭台切は世話焼きな性質だ。彼の力になりたくなった。そして、何か自分にできることはないだろうかと考えたのだ。 燭台切の脳裏に浮かんだのは、不器用な友人のことだった。「あのね、宗三くん。僕の友達にも一人暮らしをしてる子がいるんだけど、その子と同棲するのはどうだろう?」「はい?」 宗三がぽかんとした顔で聞き返す。燭台切は宗三の顔色を伺いながら続けた。「家賃をふたりで払うんだよ。部屋によっては、今よりも安くなるんじゃないかな?」「なるほど……」 宗三は神妙な顔で何やら考え込んでいた。 チャイムが鳴る前に、燭台切は宗三に長谷部のことを教えた。クラス替えで、ちょうど三人は同じクラスになったのだ。コンタクトを取るのは簡単だった。「僕からも長谷部くんに言ってみるから、もし本当にその気になったら、ふたりで話してみてね」 長谷部の所に宗三が近場の2Kの部屋のチラシを持って来たのは、それから数日後のことだった。 話していて当時のことを思い出したのか、長谷部の目つきが険しくなる。冷たい塩おにぎりを食べながら低い声で言った。「まあ、所詮は互いの利害が一致したから一緒に住むことにした、それだけの関係だ。別に深く関わる必要もないな」 なんとも長谷部らしい考えである。燭台切は、長谷部がこういうことを言うと、本当は少しだけ胸がざわつくのだ。それでも燭台切は微笑んで頷いた。高校に入ってから今まで一緒にいてわかった。長谷部の人への考え方は自分とはまるで正反対なのだ。 「いいんじゃないかな。君がいいならそれで」 そんな燭台切を見て、大倶利伽羅が少し眉を釣り上げる。だが誰も気づかなかった。 自分なりに結論を出して、機嫌も落ち着いたらしい。それにしても、と長谷部が切り出した。「夜飯を作っておいてやると食うが、それまであいつはどうやって生活してたんだ」 燭台切は内心驚いた。けれど何となく悟られたらまずい気がして、表面上は平静を装っておく。「どうしてたんだろうね。というか宗三くん、長谷部のご飯は食べるんだ?」「逆だ逆。俺が作らないとあいつが食わん。これで体を壊されたら、さすがに気分が悪い」 なるほど。燭台切は納得した。長谷部なら、たとえ一緒に暮らしていようが、食事は自分で用意しろと言いそうなものだ。それがわざわざ夕食を用意するなんて、どういう風の吹き回しかと思えば。(やっぱり長谷部くんは長谷部くんだ) そうこうしているうちに、三人とも昼食を食べ終えた。長谷部は素早くおにぎりのラップを丸めると、じゃあ、と手に持ったノートを掲げて教室を出て行った。その背中に光忠がひらひらと手を振ると、大倶利伽羅がぽつりと呟いた。「……珍しいな」「そうかな? 多分いつもの勉強だと思うよ。長谷部くん、熱心だもんね」 にっこり笑って燭台切は振り返る。 長谷部と光忠達が話すようになったのは、この高校に入ってからだ。もともと光忠と大倶利伽羅は幼なじみだった。他県から来たらしく、新しい教室に一人でいた長谷部を捕まえたのが光忠だったのだ。「一年の時からずっとそうだよね。すごいなあ」「いや……」「あれ、違った?」「気のせいだ。何でもない」 大倶利伽羅は、長谷部が出て行った引き戸を見つめる。そして一度ゆっくり瞬きをすると、立ち上がって自分の席へと帰って行った。*** 温いシャワーの粒が、体についた泡を洗い流していく。頭から肩、胸から背中へと、全ての泡を落としてから、最後に顔に豪快にかける。ごしごしと乱暴にこすってからシャワーを止めた。顔の水滴を乱暴に払って、長谷部はぷはっと息を吐いた。浴室のドアを開けて、出しておいたバスタオルを掴む。 学校が終わってバイトから帰ったら、まずシャワーを浴びること。これが長谷部の日課だ。忙しくても、時間帯がばらばらになっても、この一連の流れを長谷部は欠かさない。 濡れてぼさぼさの髪は軽く絞るだけにして、首からタオルをかける。部屋着に着替えて台所に向かうと、珍しい人物が出迎えてくれた。「ただいま戻りました」「……早いな」 宗三が振り返って無愛想に言う。対する長谷部も、ぶっきらぼうに返した。「どうした」「今からバイトです。ちょっと時間があったので、荷物を置きに来ただけですけど」「そうか」 必要最小限のやりとりである。愛想のかけらもない。とても男子高校生のする会話ではないが、長谷部は何も感じなかった。どうせ家賃のことがあるからつるんでいるだけである。利害を共にする人間であればこそ、別に友人でもなんでもない。 宗三のことなど気にもとめず、冷蔵庫を開けて中を物色する。と、背後から鋭い声がかかった。「ちょっと」「何だ?」「髪、いつもそうなんですか?」 宗三が指さしたのは、濡れたままの長谷部の髪だ。しずくが落ちてくるほどではないが、水気を含んだ重い毛先が揃って下を向いている。指先でいじってみると、冷たかった。「そうだが」「全く……」 宗三は怒っているのか呆れたのかわからない様子で、自室へ入っていった。仕事を増やすなと言わんばかりだ。 そんな憐れみの目を向けられる覚えのない長谷部は、パタリと閉じられた扉を睨みつける。程なくして宗三は戻ってきた。そのままずんずんと歩いてきて、右手に持ったそれを長谷部の眼前に突きつけた。プラスチックの光沢。安っぽいドライヤーだ。「シャワーの後は髪を乾かしなさい! 寝癖がつくでしょう!」 数秒の間それを見つめる。 長谷部はそっぽを向いて冷蔵庫の扉を開けた。宗三の眉がつりあがる。「ちょっと。聞いてます?」「面倒だ」 にべもなく長谷部が言い放った。タッパーに入った餃子と回鍋肉を掴んで、扉を閉める。どちらも、長谷部がバイト先でもらったものだ。親切な店長で、何かと食事面でお世話になっている。 フライパンをガスコンロに乗せて火をつける。宗三はドライヤーを掲げたまま、長谷部の空いた左手側に回り込んだ。「ご飯より髪が先ですよ。早く乾かしてしまいなさい」「別にいいだろう。そんな決まりはどこにも」「ほら早く」 意外としつこい。鬱陶しいと睨みつけると、宗三は挑発的に顎を引き上げた。しばしの硬直状態。 折れたのは長谷部だった。眉間に皺を寄せて渋々左手を差し出すと、間髪入れずにドライヤーを乗せられた。あまりの速さに長谷部が驚いている隙に、宗三は何食わぬ顔で距離を取っていた。返却はさせないつもりらしい。「じゃあ僕はバイトなので」「おい」「使ったら部屋の前に置いておいて下さい、あといい加減夕飯いいです」「おい、ちゃんと飯は」 食え、の言葉を待たずに宗三はあっさりと出て行ってしまった。仕方なく一旦つけたコンロの火を消し、ドライヤーを持って洗面台に向かう。コードを差して電源を入れると、オレンジの噴出口から温風が出て来た。やたらとうるさいモーター音の割に、風の勢いは弱い。「何なんだ、全く……」 ぼやきながら髪を乾かす。一人暮らしを始めてから自然乾燥に頼っていたが、幼稚園のころから自分でやっていたので扱いは慣れている。それ以前は髪を乾かした覚えはない。誰かにしてもらった記憶もなかった。 無心で手を動かしながら、長谷部は宗三のことを考えていた。一人前には多すぎる餃子と回鍋肉に、宗三が気が付かなかったわけがあるまい。長谷部は自分で自分が不思議だった。考えてみれば、このドライヤーのことも、もっときつく言い返してやればこうして押し付けられることも無かっただろう。それができなかったのが何故だかわからなかった。 どうせ他人なのに、と。「……くそ、調子が狂う」 髪が完璧に乾いたのを確かめて、スイッチを切る。コードを綺麗に機体に巻き付けたそれを、長谷部は宗三の部屋の前に置いた。 [newpage] 昼休みの教室は賑やかだ。四月頃に比べると、随分過ごしやすい空気になった。男子の騒ぐ声。女子の笑い声。様々な音が溢れている。春から夏へと、少しずつ気温も上がってくる季節だった。それでも開け放たれた窓から吹き込む風は爽やかだ。 そんな中でひとり静かに、宗三は机でスケジュール帳を眺めていた。まだ新しい六月のページには、既にたくさんの書き込みがされている。そのどれもがバイトの開始時間だ。「今日は、コンビニで二十二時まで、と」 文字をなぞって確かめる。宗三は三月生まれだから、卒業間際まで深夜のバイトを入れられない。誕生日が四月や五月の人が少し羨ましかった。もし深夜のバイトを入れられたら、もう少し効率良く稼げるのに、と思う。 長谷部と同じ部屋に住み始めてから、二ヶ月が経った。ほとんど初対面の人間と同居するなど、正直すぐに破綻するのではないかと思っていたので、実は驚いているのだ。これまで長谷部のことは、学年でもかなり上の成績を誇る秀才だということしか知らなかった。ただ気難しいからとっつきにくい、とも。(せっかく頭が良くて、顔も平均以上なんですから、もう少し愛想良くすればいいのに) そうすればきっと女子が放っておかないだろう。現実はといえば、逆に距離を置かれている感じさえ覚えるが。 宗三がバイトを終えて家に帰るのはだいたい二十二時か二十三時ごろだ。高校生の男子ならその時間はテレビを見るか、ゲームか、家族と話すか、そうやってゆっくりと過ごしているだろう。もしかしたらとっくに寝ているかもしれない。 でも、長谷部は違う。ご飯も作って、家事もして、そのうえあんなに夜遅くまで勉強に励んでいる。受験勉強なのかもしれないが、それにしたってやり過ぎではないだろうか。休む時間がとれているとはとても思えない。(なんて……僕が心配することじゃありませんかね) そこまで考えて、宗三は思わず自分に呆れてしまった。バイトの予定でびっしりと埋まったスケジュール帳に指を滑らせる。先日、バイト先の先輩に「ちょっと細すぎやしないかい」と心配されたのを思い出した。 だって仕方がない。ごく一般的な高校生が食べていくためには、そんな無茶だって必要なのだ。 顔を上げると、窓際で長谷部が昼ご飯を食べているのが目に入った。そばにはいつも通り燭台切と大倶利伽羅もいる。頬杖をついて、遠目に観察する。 宗三の席からは、彼らがどんな話をしているのかわからない。燭台切はいつもにこにこと楽しそうだ。長谷部は彼に何か答えているらしい。倶利伽羅はその輪の中で、静かに相槌を打っている。もうすっかり見慣れた光景だ。 あの二人といる時は、長谷部は少しだけ表情が豊かになる気がする。それでも笑顔は見たことがないけれど。(……友達、なんでしょうね。長谷部の。) 今まで気にもしなかった、ただのクラスメイト。彼が『気難しい同居人』へと名前を変えてから、彼に関する知識が少しずつ増えていく。勉強ができる。料理もできる。四月のスポーツテストでは満点近い点数を叩き出していたから、運動も得意なのだろう。まさに完璧。仏頂面と合わさると、いっそ嫌味なくらいだ。(何というか。まるでロボットみたいですよねえ) 自分のことを、他人だと割り切ってそう接しているのは宗三にも伝わっている。 冷たい人。 それが、宗三が長谷部に抱いた最初の印象だった。*** 辺りがすっかり夜の闇に包まれた、二十二時。街灯が、雨で濡れたコンクリートを照らしていた。その上を、傘を差したスーツ姿の人々が歩いて行く。車が水飛沫をあげながら通り過ぎる。 その日は朝から雨が降っていた。昼間は少しずつ気温が上がってきたが、やはりまだ六月だ。雨が降ると意外と冷える。そしてこんな夜中まで、宗三は慣れた手つきでコンビニのレジ打ちをこなしていた。ここは比較的駅から近いので、残業上がり、もしくは飲み会帰りのサラリーマンが多く訪れる。「ありがとうございました」 マニュアル通りの挨拶と、軽い会釈。高校一年で始めたバイトなので、もうやり方は体が覚えていた。店の中を見渡すと、もう客の姿は見えなかった。とりあえず今の男性で、いったん波は終わったらしい。宗三は無言でほっと息をついた。 店の奥では、商品棚の整理を終えた細身の青年がうーんと伸びをしながらこちらへ向かってくる。肩が凝ったのか、ぐるぐると腕を回す度に、真っ白い髪がふわふわと揺れた。それから、雨粒のついた窓に目をやって、困ったように言った。「いやぁ、雨は悪くないが、これから毎日これだと思うと少し骨が折れるよなぁ。天気予報見たかい? 今日から梅雨入りだとよ」「……本当ですか、店長……」 小さなあくびを漏らして、宗三は答えた。店長と呼ばれた白い髪の青年は、そんな宗三を見て小さく笑う。レジカウンター裏に回って、お疲れさん、代わるぜ、と同じく白い歯を見せた。宗三は素直に後ろに下がる。「傘の入荷数、増やしといて正解だったな、と。……きみ、最近疲れが溜まってるんじゃないかい?」「いえ、そんなことはありませんよ」 すました顔でそう答えた。確かに低気圧が苦手な宗三にとっては、これからは少し苦しい季節だ。でも、わざわざそれを彼に明かすことも無いと思った。しつこく聞かれたら答えてもいいが、かえって気を遣わせるだけだろう。「そうかい、ならいいが」 青年はあっさりと追求をやめた。宗三はそんな彼の態度が気楽で好きだった。お先に失礼します、と頭を下げると、彼は振り返らずに軽く手を上げた。 ***「……ただいま戻りました」 いつも通り、錆びた扉を静かに開いて帰宅する。ビニール傘の水気を払って玄関に立てかけてから、ほとんど脱ぎ捨てるように靴を脱いだ。つま先で適当に隅に寄せておく。 壁に手をついて暗闇の中を進む。いつもより重い気がするリュックを背負ったまま、無心で足を動かし続ける。心なしか、自室が遠い。(頭が、痛い……) いつの間にか、ズキズキと鈍い痛みが宗三の頭に巣食っていた。無意識に眉根を寄せてしまう。これは嫌な感じだな、と思った。こめかみを親指で押してみたが、痛みは軽くなってくれない。壁に添えていた手を外して両手で試しても、結果は変わらない。(困ったな) 両手で頭を押したり揉んだり、そんなことをしながら暗い廊下を歩いていたからだろう。宗三は目の前に迫った扉に気づかなかった。そのまま、扉に派手に突っ込んでしまったのだ。ゴンといい音がした。軽く視界に星が弾けた。 自分の不注意を少し後悔した。ぶつけた額をさすって、扉を押し開ける。もうなりふり構う気も失せて、リュックをその場に降り落とした。どさりと重い音を背後で聞いて、宗三は布団も無い床にうつぶせに寝転がった。畳が頬とこすれて痛い。 倦怠感に身を任せて目を閉じる。やっと帰ってこられた安心感で、抗いがたい眠気に襲われた。けれども同時に、先程の頭痛も再び蘇る。ズキズキと、宗三を苦しめる。「うるさいぞ」 突然頭上から声が降ってきた。 薄く目を開くと、襖から長谷部が顔を出していた。明りがまぶしくて、その姿は影になっている。 そういえば襖を挟んで隣は長谷部の部屋だったな、と今更ながらに宗三は思い出した。「何をしてる」「バイト帰りです」「……いつもいつもバイトってお前な……」 明らかに苛立った声で、長谷部は襖を大きく開いた。いきなり明るくなった視界に耐えられず、反射的に宗三は瞑って顔を背けた。白い光が、目の奥を刺すようだ。「ちょっと」「いくらなんでもやり過ぎじゃないのか」「閉めてください、眩しい」「お金は十分足りてるだろうが、遊ぶわけでもなしにそこまで」「ねえ」 矢継ぎ早に繰り出される言葉を遮って、宗三が強く言う。すると長谷部は眉間に深く皺を寄せた。一瞬ためらってから、宗三の部屋に一歩立ち入り、後ろ手に襖を閉じる。でも完全には閉めなかった。隙間から漏れる光が、宗三の部屋を薄明るく照らす。 腕を組んで見下ろす長谷部の表情は、よく見えない。ただひたすらに威圧的だった。「なぜそんなに働く必要がある?」「……あなたに関係ありません」 内側から殴られるように痛む頭を押さえて、宗三は長谷部を見上げた。そうするとどうしても明りが眩しくて、目を細める格好になる。さっきからこの光と、長谷部の声とで、余計に頭痛が激しさを増していた。どんどん苛立ちが募ってくる。「たしか、専門学校に行きたいんだろう。そのためか?」「関係無いと言っているでしょう……!」 細められた宗三の眦がビクリと震えた。土足で胸の内に踏み入られた気分になり、一気に怒りが膨れ上がる。 本当は怒鳴ってやりたい。だが、大きな声を出すのもつらいのだ。唸るように答えた宗三のそんな気持ちに、長谷部が気づいているのかどうか。宗三は下唇を噛んだ。 わかるまい。長谷部には。普段から自分など視界にも入っていないような態度を取るくせに。なのにどうして放っておいてくれないのだろう。なぜ他人なら他人らしく、こういう時に距離を取ってくれないのだろう。 専門学校に行きたい。それがどれだけ無茶なことか、宗三だってわかっている。それでも引くに引けない訳があることを、目の前の男は知らない。 それまで仁王立ちだった長谷部が少し姿勢を崩した。片側に体重をかけて立つ。なおも高圧的な態度は変わらない。「最近あまり寝ていないだろう。飯も少ない。体を壊すぞ」「言われなくてもわかってますよ」 ただ事実だけを述べただけ、という平坦な声には、心配なんて気持ちはかけらも感じられなかった。教師に叱られているようで、宗三は反感にますます目をつりあげる。 ようやく目が明るさに慣れてきた。宗三を見下ろす長谷部の顔には、なんの表情も無い。いつも通りの仏頂面だ。それが、余計に宗三には気に食わなかった。 彼の言うことは正しい。だが、自分の立場から正論を吐いているだけにすぎない。宗三のことを理解しているわけではない。 むしろ、こんな男には理解されたくないとさえ感じた。「お前の事情は知らんが、体を壊したら元も子も無いだろう」「そうですね」 長谷部を睨みつけたまま、そう吐き捨てた。長谷部は特に臆した様子も見せない。怪訝そうに首を傾げた。「そこまでして専門学校に行くことがあるのか?」「……は?」 だが、さすがにこれには宗三も絶句してしまった。「なぜそこまでするんだと聞いている」「それは……約束をしたから」 宗三の脳裏に、ふたつの影が浮かぶ。夕暮れのオレンジの光。握った手がするりとほどけて、その影は自分に背中を向けて消える。「約束だと?」 その思い出は、長谷部の尖った声で引き裂かれた。 我に返って見ると、長谷部は明らかに機嫌を悪くしていた。何がそんなに彼の気に障ったのか、宗三にはわからない。長谷部は腹立たしげに顔をしかめて言い放った。「体よりも大事な約束なんてあるか」「……大事ですよ」「そんなものがどうして大事なんだ。必ず叶うものとも限らないだろう。相手が破らないとも言い切れない。そんなものに賭けてどうなるというんだ」 そんなもの。 宗三が今までずっと大切に抱えてきた、小さな約束。何年も前に離れ離れになってそれきりの、ふたつの影。それを必死に追いかけて宗三は今日まで努力してきた。 それを今、目の前の男は『そんなもの』と言い切った。「あなたに……」 遂に怒りが沸点を超えた。「あなたに何がわかるんですか!」 目の前の長谷部の脚を、力いっぱい突き飛ばした。よろめいた長谷部の体を、立ちあがりながら自分の体ごと押し倒そうとする。もつれ合ったふたりの体が襖にぶつかって大きな音を立てた。「関係ないことでしょう。あなたには」 長谷部の胸倉を掴み上げて、その上半身を襖に押し付ける。宗三の剣幕が信じられない様子で、長谷部は目を見開いていた。藤色の瞳に宗三の姿が映っている。宗三自身も自分が理解できなかった。ただ脳内が、焼き切れそうに熱かった。「……他人のくせに!」 だから、そんな言葉が口をついて出た。 必要以上の会話は好まない。愛想もない。挨拶さえしない。同居を始めて2ヶ月と少しの間、ふたりが会話らしい会話を交わしたことは、まだ数えるほどしか無かった。それは、互いが互いを『他人』として認識しているからだ。友達ではなく。 長谷部が息を飲んだ。きゅっと唇を噛み、ゆっくりと一つ瞬きをした。開かれた瞳に、いつもの冷たい光が戻る。宗三の手首を掴み、静かに言った。「ああ」 その手に僅かに力が籠る。「他人だ」 宗三は長谷部から手を離した。長谷部はそのまま宗三の手を押し戻す。そしてそっと襖を開くと、間から体を滑り込ませるようにして自室へ消えていく。最後にちらりと宗三に目をやって、今度こそ襖を完全に立て切った。 宗三の部屋が、再び暗闇と静寂に包まれる。自室に一人取り残された宗三は、大きく息を吸った。興奮していた頭が徐々に冷えていく。それに伴って、怒りで忘れていた頭痛も帰ってきた。なんだか余計に酷くなった気がする。頭を押さえて宗三は溜息をついた。(柄でもない……) 感情に任せてひとを押し倒すなんて。 ゆるゆると長谷部の部屋のほうに顔を向ける。閉め切られた襖の向こうは静かだ。長谷部は今どうしているのだろう。またいつものように勉強に戻ったのだろうか。 あの熱を持たない藤色の瞳を思い出した。 胸の内に冷えた空気が広がる。宗三は立ち上がると、畳んでいた布団を引きずり出した。疲れたから、さっさと寝てしまいたかった。風呂は明日の朝にしよう。それでも歯は磨こうと、壁を伝って部屋を出た。スマートフォンを探して明かりをつけるのが面倒だった。 窓から差し込む街灯の僅かな光を、ステンレスのシンクが跳ね返している。そこに見慣れた皿の影があるのを認めて、なぜか胸がちくりと痛んだ。足は台所を一直線にそこへ向かった。そして引き寄せられるようにその皿に触れた。中身まではさすがに暗くてわからない。指先が、そばに置かれたメモ書きに掠ってかさりと音を立てた。窓からの光だけでは、暗くてとても読めない。(……でも、大体想像は付く) そんな自分が可笑しかった。それからすぐに悲しくなった。 他人だと言うくせに、どうしてこんなことをするのだろう。自分はそんな長谷部に、そのまま返しただけだ。長谷部が自分のことを他人だと言うのだから、自分にとって長谷部も他人でしかないのだと。それ以上の関係ではけして無いのだと。だのに長谷部があんなに驚いた顔をするとは思わなかったのだ。 どんなに遅く帰ってきても、宗三は今まで長谷部の作る夕飯を残したことは無かった。もともと夕飯はほとんど食べない習慣が付いていたから、最初は少しつらかった。それでも毎日食べたのは、長谷部のささやかな優しさを無碍にしてはいけないと思ったからだ。 それが本当に優しさだったのかは、今ではわからなくなってしまった。(……今日は……) 皿のふちを指でそっとなぞった。そして、宗三は洗面所へ向かった。 初めて、長谷部の作った夕飯を残した。***「それで最近、長谷部くんのお昼が豪華なんだね」 梅雨の時期特有の長雨は、まだ止まない。今はちょうど昼休みなのだが、いつもは中庭や渡り廊下に出て行く生徒も、皆教室の中に入っている。だから教室は、いつもより窮屈で騒がしかった。 そんな中でも、燭台切と大倶利伽羅は長谷部の机に集まった。燭台切は、長谷部の昼食に『おかず』があるのを見て嬉しそうだ。「おい。笑い事じゃないぞ」「ごめんね、ちゃんとわかってるよ。宗三くんと喧嘩したから、宗三くんがご飯を受け取ってくれなくなっちゃったんだろう?」「喧嘩じゃない……!」 笑顔でそうストレートに言い表した燭台切に、長谷部が頭を抱える。長谷部の目の前には、おにぎりに加えて野菜炒めの入ったタッパーが置かれている。「また残されたのか」 大倶利伽羅が気の毒そうに尋ねた。興味が無いふりを装いながらも、さっきから箸の進みが遅い。彼は彼で長谷部のことを心配しているのかもしれなかった。 長谷部くん、お昼休み終わっちゃうよ、と燭台切が食べかけのおにぎりをつつく。「半分残す、とかならまだわかるがな。毎日、全部綺麗に残されてみろ。さすがに腹が立つ」「そうだね。じゃあ、早く仲直りしちゃおうよ」「あいつが勝手に怒っただけだ。それにな、ただの他人なんだから、別に仲直りする必要は……!」「長谷部。声が大きい。宗三に聞こえる」 小声で大倶利伽羅がたしなめる。はっと気がついて宗三を見てみると、机に突っ伏して寝ていた。どうやら聞かれてはいなさそうだ。「最近、よく寝てるよね。疲れてるのかな」「さあな。放っておけばいい」「長谷部くん……」 燭台切が眉をひそめた。なんだかんだと言いながら毎日夕飯を用意して、食べてもらえないと怒っている。そう意地にならずに、素直に謝ってしまえばいいのにと燭台切は思う。でも考えてみれば、そもそも長谷部がここまで誰かにいらついているのも初めてかもしれない。「おい、長谷部」「なんだ?」 大倶利伽羅に呼ばれて振り向く。大倶利伽羅はどこか険しい表情で、宗三をじっと見ていた。どうしてそんな顔をするのかわからない長谷部も、つられて宗三に首を向けた。「宗三、具合が悪いんじゃないか?」「具合が?」 宗三は普通に昼寝をしているようにしか見えない。すると燭台切も、ああ、と納得したように声を上げた。「もともと細いもんね。もし低血圧だったら、この時期はつらいかも」 たしか頭痛が酷いんだっけね、と燭台切は呟く。 心配そうな燭台切の顔を見て、長谷部はもう一度宗三を振り返った。宗三は眠ったまま動かない。たしかに普段からよく居眠りをするとはいえ、ここまでぐっすり眠っているのも、おかしいような気もしてきた。「……どうだろうな。どうせいつもの居眠りだろう」 それでも、長谷部は認めようとしなかった。 それがほとんど意地だということも、何となく自分で気がついていた。*** 解きかけの問題集から手を離して、長谷部は大きく伸びをした。あくびも一緒になって出る。学校帰りに中華料理屋でバイトをして、まかないを持って帰って、シャワーを浴びて、夕飯を食べた。その後は寝るまでずっと勉強だ。いつも通りである。 時計を見ると、二十三時を回ったところだった。ここまで時間を忘れて勉強したのは久々だな、と、ぼんやり思う。気分転換に水でも飲もうと、凝った首を回しながら立ち上がる。「……ん?」 そこで初めて気がついた。 胸騒ぎを覚えて、もう一度時計を見る。やっぱり時刻は二十三時を回っている。嫌な予感を膨らませながら、長谷部は部屋を隔てる襖に指をかけた。少し迷ってから、思い切って開く。 部屋の中は真っ暗だった。「まだ帰ってないのか……?」 部屋を出ても、台所も真っ暗だ。洗面所を見に行ったが、やっぱり人の気配も無かった。玄関にあるのは自分の靴だけだ。 宗三は、遅くても二十三時には帰ってきていた。それが今日いきなり、何の連絡も無く、帰りが遅くなるなんてことがあるのだろうか、と長谷部は考える。高校生の二十二時以降のバイトは法律で禁止されている。「確かあいつのバイト先って、コンビニだったよな……」 個人店ならわからないが、コンビニなら法律を破らせてバイトをさせることはないだろう、と長谷部は思った。宗三の性格を鑑みても、まずありえない。 とりあえず電話でもしてみようかと思い立ったが、宗三とは連絡先を交換していないことを思い出した。いくら他人で、気に食わない相手とはいっても、さすがに電話番号くらいは聞いておくんだったな、と後悔する。 もう少しだけ待ってみようと自室に戻ったが、勉強する気分にもなれない。ましてや、燭台切と大倶利伽羅に、宗三は具合が悪いのかもしれないと言われた直後だ。悪い想像ばかり膨らんで仕方なかった。「……放っておけばいい。あいつが無理をするから悪いんだ、別に体調が悪かろうが死にはしないだろ……」 そう自分に言い聞かせるも、問題集が手につくわけもない。部屋の静けさが耳に痛い。 もう一度時計を見る。あと少しで二十三時半だ。 長谷部は舌打ちをして立ち上がった。学校で使うカバンから教科書とノートを全部出し、代わりに財布と家の鍵を放り込む。問題集を片付けるのも忘れて、長谷部は家を出た。 外は土砂降りの雨だった。もう一度舌打ちをして、靴箱の傘立てにあった自分の傘を引っ掴む。 コンビニなんて何軒もある。宗三がどこで働いているのか、そもそも本当にそこにいるのかも知らない。それでも長谷部は傘を差して、雨の中を早足で歩いた。 別に心配なんかじゃない。宗三のためじゃない。ただ自分が、落ち着かないだけ。 こんな真夜中に一人で出歩くなんて、警察に見つかれば間違いなく補導されるだろう。けれどそんなことは長谷部の頭からはすっかり消えていた。それだけ自分が必死なのだということに、今の長谷部は気がつくことができなかった。 傘を雨粒が激しく打ち付ける。 街灯が冷たく照らす夜の街を、長谷部はひたすら歩き続けた。