大分市府内町コンパルホールの裏手に『ばんぢろ』という喫茶店がある。
前回、外山恒一のトークショーの会場探しに付き合った際、外山さんと初めて行った。
マスターの二宮さんがとても芸術全般に造詣が深いので、いつかまた一人で、芸術関連の話をしに来ようと思っていた。
18時~21時まで、ずっと2人で話していた。
内容は、珈琲の入れ方からはじまり、映画、文学、美術、学校教育、原発など多岐に渡った。
色々な話を聞いて、参考になった。
もちろん一番勉強になったのは専門である珈琲の話なのは言うまでもない。
二宮さんは元々福岡にあった『ばんぢろ』という喫茶店のマスターの最後の弟子で、のれんわけをして大分に店を出している。
もう1人久留米に兄弟子がいる。
今もあるのかは知らないが昔は喫茶店の世界でも徒弟制度があり客に珈琲を出すまでに一年半もの時間がかかったらしい。
その修行時代の話。
珈琲は豆だけではなく入れ方が大事であるという話。
話を聞きながら、気持ちの問題ではなく、珈琲を入れるには色々な要素があり、科学的に一つ一つ分析していると思った。
具体的に書くと。
お湯の太さ。太さという表現はピンとこないかもしれない。
「太さって?」
マスターに再度聞きなおした。
「太さって、こういうことだよ」
マスターはお湯の太さを説明するのに水道水の蛇口を開け閉めして蛇口からでてくる水の量を調節して教えてくれた。
なるほど、水は細くなったり太くなったりする。
このお湯の太さを表に浮き出た粉の状態を見ながら粉の下の状態を正確にイメージし調節していく。
そうして、お湯の温度。
家で作る珈琲を思い出せばわかるが、冷めたら不味くなる。
珈琲は温度差に弱い。
沸騰したお湯で珈琲をいれると珈琲は少し冷めただけで味を豹変させるのだ。
対処法として低温抽出法がある。
温度差をなるべく小さくする。
珈琲を抽出できる最低の温度が何℃、その何℃のお湯が粉と接し何℃でフィルター内で地層をつくり、こされた後に何℃の珈琲として完成する。
そういうことが全て頭に入っている。
「地層?」
珈琲の話で突如出てきた地層の意味が掴めず聞いた。
もともと勘違いしている人が多いがフィルターは珈琲の粉が抽出した珈琲に混ざらない為だけにあるのではなく、フィルターにより地層をつくる為にある、と。そういう意味だった。
地層とは、フィルターに張ったお湯により、大小さまざまな粉を大きいものと小さいものにわけ、あたかも断層のような状態をフィルター内に作り、下に滴る珈琲という液体の出来を均一にするとのことだ。
あと考案した道具、珈琲豆の酸味や苦味、珈琲豆の油分、濡らすと蒸らすの違い、蒸らし方、深煎り浅煎りの相違、珈琲の歴史、豆の現状、などを聞き、珈琲についての本の名著を1冊分読んだ気がした。
全く退屈せずに、一時間以上聞いていた。
というのも、よくバーテンダーにカクテルについて聞いていたが、それよりもなお『ばんぢろ』のマスターは、自分の方法を言葉にすることが上手だった。
本人も今まで弟子を2人とり教えたことがあるらしいが、必ず
「味を言葉にして説明しろ」
というらしい。
言葉にすることの重要性についても再認識して本当に感心した。
映画の話では大島渚や若松孝二の話などを中心に。
その後、文学では中上健次。
音楽ではCOCCO。
現代アート、芸術の定義、原発、学校教育など。
話題は多岐にわたり、気づけば3時間があっというまにすぎていた。
その間、珈琲を二杯飲んだ。
今まで珈琲の味をこんなに味わって飲んだのははじめてだった。
本当に美味しい。
濃くて、優しいとろみが舌に絡みつき、それでいて、後味がさっぱりしている。
「珈琲の味がわかっても、あまり得はないよ。むしろ、もし、珈琲の味がわかるようになったら、どこででも珈琲が飲めなくなる。不便だ」
冗談のように、そう言っていたが、本当に、今はそう思う。
最後に『何故?』第二章の話をした。
僕にとって『文学』の行く末と『何故?』の行く末は同じ意味だ。
大げさに聞こえるかもしれないが、『何故?』が倒れれば『文学』はもうこの国では消滅するとさえ思っている。
いわば最後の砦。
『何故?』第二章の話は一時間くらいだろうか。
話していて、完全に気持ちが固まった。
自身の長きに渡る人生から手繰り寄せた話を、僕のような一介の永遠の同人誌作家に、親身になり心のこもった話をしてくれて、貴重な時間を割いてくれて、感謝してもしきれない。

店を出て、冬風は冷たかったが、胸には、また沸々と、あの頃の熱情が込みあがってくる。

人は、すぐに、型に、はめたがる。
こっち、と、あっち、と、わけたがる。
こういうものだ、と、説明しやすいものを作りたがる。
しかし、ほんものには、必ず、矛盾がある。
そんな矛盾を全部受け入れることが、秀でたひとや、優れたものの条件だとも言える。
おれは、おれの文学を貫く。
おまえも、おまえの文学を、貫け。
魂をこめた、おまえの全てを、ぶつけた作品ならば、おれは決して否定しないし、誰も否定できないだろう。
感嘆し、感動し、心奪われるだろう。
しかし、魂をこめず、適当な、技巧だけの、作品などを寄こそうものなら、誰の胸にも届かない。
どうでもいい奴らに「お上手ですね」と言われるだけの話だ。
そんな原稿用紙なら、破り捨て、おまえに送り返す。
技術など、どうでもいい。
稚拙でも、何でもいい。
形容詞がうまくなくとも、何でもいい。
ただ今を生きる、現代を、全力で生きる、おまえの心持ちが伝われば、それでいい。
その為に、まず、おまえが全力で生きていないといけない。
全ての事象に、安易な、誰かがこしらえた結論を、あてがうな。
その全てを捨て、自分自身の頭で考え、行動し、その全てを、作品に転換しろ。
起きている、一秒一刻、『何故?』と問え。
『今』を見渡せ、目を凝らせ。
もう一度、『何故?』の原点に戻ろう。
全力で、書いた作品のみを、『何故?』に寄稿して欲しい。
テーマは、おまえが抱える、おまえの人生における『テーマ』だ。
それがこの世界の誰かと繋がっていれば、なおいい。
だが、それをはじめに考えるな。
まず、『自分のテーマ』をしっかり確認し、全身全霊を、作品にぶつけろ。
小説の体裁にこだわるな。
ヨシとされているものに合わせるな。
おまえのテーマを描くのだから、その方法論は、おまえが編み出すしかない。
今は、まだ、この世界にはないはずのものなのだ。


冷たい夜風に吹かれながら、そんなことを考えていた。

『何故?』第二章、そろそろ発進するかもしれない。



(いや、もう、はじまっている。)