二章 誘い

<二章 誘(いざな)い>

 痛み――
 胸の、心臓のあたりに。鈍い痛み――鈍く感じるのは、自分の神経がもう、まともに機能していないからだ。ばっくりと開いた胸部の肉の切れ目から、冗談みたいに勢いよく血が噴き出ている。いや――噴き出ていた。……今はもう、その勢いを失いつつある。
 怪我は他にもあった気がしたが、胸以外に痛みは感じていなかった。感覚そのものが消えかけている。
 何も、感じられなくなっていく。
 目に映るのは、夜の闇に妖しく舞う、紅色の花びら。
 花弁は、旋風に乗って螺旋を描いて舞い、徐々に一つの塊のようになり――そして、神楽木燎一の目の前で、人の姿かたちを成した。
「面白い気配がしたと思ったのだけれど……」
 それは女だった。真白(ましろ)の小袖に身を包み、ぼうっと浮かぶように佇んでいる。夜の闇より、なお暗い艶のある黒髪。透き通るような白い肌。どこか虚ろな、濡れたような光を湛える瞳……。
 美しい女。だが――――
(バ……ケ、モノ……)
 本能が、そう告げた。
「……酷い怪我」
 女がこちらに手を伸ばす。動かない身体では何の反応もできなかった。ほどなく、白くたおやかな指が胸の傷口に触れ、みるみるうちに血に赤く汚れる。だが女は気に留めた様子も無く、そのまま神楽木の胸を一撫ですると、包むように、開いた傷に手のひらを柔らかく押し当てた。
「人としてのお前は、もう、じきに死ぬわ」
 死ぬ。命の終わり。その事実をそのまま教えるのは、優しさか、冷たさか。女の顔には何の表情も無く、その心を知ることは叶わなかった。
「もう少しだけ、仮初めの生を続けたい? 絶望しかない孤独の中で――」
 淡々と、女が問う。その不穏な問いの意味をどれほど理解していたわけでもない。しかし――
(死にたく、ない――)
 そう告げ、うなずいた。
 もっとも、夢現にも似た感覚の中では、それができたのかどうかは分からなかった。……だが、返答は相手に伝わったようだった。
 女の瞳の光が、揺れる。
「……そう」
 初めて女の表情が、わずかに動いた。……それでも、その心は分からなかったが。
 女が自らの口元に、神楽木の血に塗れた手を持っていった。血よりも赤いその舌で、指を舐めるような仕草をすると、指に黒っぽい、小さな固まりが摘まれていた。
 女はそれを神楽木の胸に当てた。薄れる五感で、その感触をかろうじて感じる。ぴくん、と、かすかに跳ねるように反応したのは、自分の身体――ではなく、女が持つその小さな何かだった。
「なら、受け入れなさいな」
 言葉を告げ、女はそれを神楽木の傷口に押し込む。
 瞬間、忘れかけていた痛みの感覚が強烈に蘇った。
「――――――ぐッ」
 女はさらに、深く、指を押し込む。胸の奥、体の芯に、異物が侵入する不快な感覚。
 不快感はすぐに激痛になった。身体がたちまち熱を帯びていく。しかし、感じるのは悪寒。
「――はっ――がぁっ、うっ」
 今にも止まりそうだった細い呼吸が、一瞬で激しいものに変わる。血の混じった呼吸だ。自分ではない誰かに肺を鷲掴みにされ、強制的に空気の出し入れをさせられているような呼吸。息を吸う度、吐く度に、痛みと、締め付けられるような痛みが胸部を襲うが、止めることができない。
「うげえっ、が、はっ――」
 ほどなく、胸部から吐き気が込み上げてきた。猛烈な痛みと吐き気に胸を掻き毟る。
「…………」
 女は、そんな神楽木の様子を、ただ静かにじっと、見下ろしていた。
 やがてその姿が、指の先から淡い紅色の花びらに変わっていく。一枚、また一枚と、夜の闇に溶けるように消えていく。
 痛みと吐き気と悪寒。自分の身体の中で、それだけがどんどん大きくなっていく。視界には、花びらの紅色と、肌の白と、闇……それらがぐるぐる回り――やがて、すべて紅色に埋まる。
「私は桜……私に逢いに来て……。桜の花の舞う場所に、私はいるわ…………」

 深い水の底から急浮上するような感覚。同時に、夢の中で感じていた痛みと吐き気と悪寒が、急速に引いて行く。
 静かに目を開くと、見覚えのあるような無いような、白っぽい天井があった。
 自分の居る場所は……ベッドだ。布団も掛けられている。周囲を見渡すと、いくつかのビンの入った棚、ひとつだけ置かれた机、背もたれのある椅子と、丸椅子――丸椅子は、座る部分の一部が破れて中の綿が見えていた。後は、薬か何かの特徴的な匂い。病院と似ているようで似ていない空間。今は、窓から射すオレンジの光に染まっている。
 いずれも馴染みはあまりないが、見覚えはある。学校の保健室――に、寝ていたらしい。
 枕元には、わずかにだがぬくもりと、部屋の匂いとは違う匂い。嗅いだ事がある気がする……が、どこで嗅いだのかは思い出せなかった。少し前まで誰かがいたのだろうか。だが今は、部屋には他に誰もいない。
 静寂。
 音が無い。保健室の中はもちろん、外からも誰の声も聞こえてこない。時刻は、太陽の傾きからすれば夕方だろう。まだ生徒がいてもおかしくなさそうな時間だが。
 窓から外を見れば、グラウンドが広がっている。……誰の姿も見えないグラウンド。
 徐々に目が覚めてくるにつれ、眠りに就く前の出来事が思い起こされる。
 教室にやってきた二人組。自らを『化身』という存在だと称していた。
 教室は、誰もその二人の蛮行に反応しない異常な空間だった。自分は……三階から落ちて、怪我ひとつなかった。そして、グラウンドで蠍に攻撃され…………。
(たしかそこで、気を失――――)
 ドクン
 心臓が、一つ鳴った。
 違う。そのまだ少し先を、覚えている。
(傷、は―――― !)
 がばっ
 布団を跳ねのけ、胸を見下ろす。
 赤い血に染まった服に、穴があいているのが見えた。
 間違いない。どういう理屈かは分からないが、桜の枝が――突き刺したのだ。胸を。
 完全に貫かれていた、はず。
 だが怪我は……無いようだ。肌を触ってみても、乾いた血の感触があるのみ。傷も、わずかな痛みすらも無い。服に付いた大量の乾いた血の方が、むしろ何かの冗談のようだった。
(…………)
 何が何だか、わからない。
 胸を刺された記憶に間違いはない……はずだ。思い出すだけで全身が引きつりそうになるような不快な感触も、枝から滴る血も、はっきりと覚えている。そして、その後は――――
(あれ……その後は、どうなったんだっけ?)
 桜の木に刺された後のことは、全く思い出せなかった。あの二人がどうなったのかも、自分がどうやってこの保健室に来たのかも。
 何も――
(いや――――)
 もうひとつだけ、思い出したことがある。
 暗く艶やかな黒髪、胸の痛み、血、濡れたような輝きの瞳――――
 思い出したのは、夢。
 昨夜も見た夢――そう、昨夜、確かに同じ夢を見ていた。
(夢……夢、か……?)
 ――――違う。
 現実に、何かがあったのだ。それもきっと、自分の命に関わる重大な何かが。
 だがその夢の記憶は、手からこぼれる砂のように、さらさらと消えて行く。起きた直後に夢をまだ覚えているときの、夢現の感覚。放っておけばまた完全に忘れ去ってしまうような気がして、必死に記憶を繋ぎ止めようと夢の詳細を思い起こす。
『私に逢いに来て……』
 それは、夢の最後の言葉。
 舞う桜の花の紅(くれない)色とともに、消えゆく記憶からかろうじて掴み取る。
「…………行かなくちゃ」
 神楽木はベッドを抜け、静寂の校舎を後にした。

「……と、いうわけで。狐の予想通り、やっぱり神楽木君は化身になってたよ」
「桜の木が……。妖花が口封じに殺そうとした……?」
「……どうだろうな。ともかく、少し想定外の事態になった。……そうそう上手くいくとも思っていなかったがね」
「……これから、どうするの?」
「素直に協力してくれるかなぁ? 蠍が、いきなり殴りかかったりするから……」
 はあ、と、朽我がため息をつく。
「…………」
「……『正体』は、確認できたの?」
「……いや。終始、『人形(じんぎょう)』――人の姿のままだったよ。何の化身かはまだわからないね」
 三人の間を、しばしの沈黙が流れた。
「……手詰まり、かしら」
「まあ、とりあえず『監視』は置いてきたよ。神楽木君に何かあれば、知らせてくれるはずさ」
「……他の誰かに連絡は?」
 蠍が横目で狐を見ながら問うた。
「……まだ、妖花の存在を確認できたわけでもないでしょう」
「桜の木が動いたのだ。この地に留まっている可能性は高い」

 そこは、学校からの帰り道……だったはず。そんなうろ覚えの記憶を頼りに、しかし案外、迷わずそこには着けた。というより、普段通る帰り道を辿ったら、その場所で必然的に足を止めることになった。
 帰り道にある公園。水と緑が散りばめられた、そこそこの広さを持つ空間。その、一角。
 壊れたレンガの破片と、飛び散った血痕。
 そして――舞う桜の花びら。
「…………」
 指先が震えそうになるのを堪えながら、歩数にすればほんの数歩の距離を、ゆっくりと進む。一歩進むごとに、自分の鼓動がやけに大きく耳に響き、血の気は逆に全身から引いて行く。
そこは公園の外周に近い場所だった。園内を巡る水路の端に、水が流れ落ちる小さな滝がある。高さは人の胸くらい。レンガで造られたその側壁の一部が破壊され、夥しい血痕が一面に広がっていた。
(ここだ――――)
 昨夜自分が見ていたはず情景の絵は、記憶にはほとんど残っていなかった。だがそこに立った時、記憶の片隅の、取り出せないくらいの奥底にある何か――あるいは、単純な直感と言った方が適切なのかもしない、それが告げた。ここが昨夜の『夢』の現場だと。
 昼の熱気の名残は水辺に冷やされ、少しひんやりとしたものに変わりつつあった。その空気を肌に受けながら、神楽木は眼前の景色から目を離せずにいた。何かが起こった後なのは瞭然だった。だが、恐らくそのときの形のままでだろう、その場所は放置されていた。今も、誰も目も向けていない――というか、公園自体に人の気配が全くない。沈みかけた陽に仄暗くあたりが染まり、無人の空間に木々が黒い影を描く中、静かに流れる水音だけが響く。
『人間にも見えはするが、気に留めることはない』
 蠍の言葉が思い起こされる。
「これも『化身』が関係してるから、なのか……?」
 昼の教室での情景、目覚めた後の静寂に包まれた校舎――それらと、目の前の光景がどこか重なる。
「…………」
 破損したレンガの壁に触れてみる。見た目通りの、硬く、熱の無い質感。厚さもそれなりにある。それが、まるで豆腐の角でも崩したかのように大きく欠けていた。少し離れた場所には、直径数センチはある穴が開いた箇所もあった。どちらも、とても人間の力によるものには思えない。工事現場で使われる機械でも使ったか、……あるいは、人外の力を以て破壊したか。
 そして、壁にべったりとついた血痕。靴越しの感触に違和感を覚えて足元を見れば、草が乾いた血に塗り固められていた。血は、壁を中心として地面にもかなりの範囲に広がっている。相当の出血があったのだろう。
(……何かに襲われたんだ。何かを、見たはずなんだ――)
 血だまりの跡の中心に立ち、壁の反対方向――襲ってきたモノがいたであろう方を振り向く。
 目に映るのは、足元一面の血痕と、いくつかのレンガの破片。それと、点々と散った赤黒い色がそこかしこに見えた。……かなり遠くにまで、血は飛んでいた。
 その惨劇の名残を、舞い散る桜の淡色が彩る。
(間違いない。この景色を、俺はあのとき見ていた――)
 ……だが、記憶しているのはこの情景の色だけ。自分の身に何があったのか、自分が何を見ていたのか――記憶をいくら探っても、何も思い出せなかった。
 夕闇の色は、すでにかなり濃くなっていた。近づく夜の刻が、忍び寄るようにあたりを冷気で包んでいく。
 自分は何か、とんでもないことに巻き込まれている。暗い血に淡く映える桜をぼうっと見つめながら、神楽木はようやくそのことを理解し始め――――
「……桜の――――花だって?」
 ふと、気付いた。瞬間、頭を重く覆っていた淀みが一つ、消える。
 今は、春を迎えていくらかが経つ頃――――
 今年の桜は、ほとんどのものがすでに散っていた。……その、はずだった。昨日までは、このあたりの桜の木々に花は咲いていなかった。
「桜……」
 未だ霞のかかった記憶に、はっきりと浮かぶもの。
 薄紅に輝く色。
『私に逢いに来て――――』
 ドクン――
 ひとつ、心臓が強く鳴る。
『私は桜……』
 花弁は、風もない中ひらひらと、ただひとつの方角から妖しく舞い降りている。
『桜の花の舞う場所に、私はいるわ――――』
(……行こう)
 迷いは無かった。

 凄惨な現場を少し離れれば、街にはいつもと変わらぬ日常が静かに広がっていた。あの現場の一帯だけが、平和な日常から切り取られたようだと、そんなことを神楽木は思いながら、花びらに導かれるままに、通学路を離れ馴染みのない道を進む。
 徒花町(あだはなちょう)――それが、この街の名前だった。どちらかと言えば田舎の街。大きい街ではないが、さりとてそのすべてを網羅できているわけでもない。宵の闇が濃くなる中、見知らぬ道に一人、徐々に人影も民家もまばらになっていく中を進むとなれば、不安と焦燥は大きくなる。自然、神楽木は早足になっていた。
(くそ――何で、こんなことに……)
 募る苛立ちを自覚しながら、開けた田んぼの間を抜けると、いつの間にか、木々が濃い影を描く鬱蒼とした小高い山の近くまで来ていた。細い川を隔てた眼前の山の上方から、桜の花びらは舞い降りてきている。だが花びらの出所までは、茂る木々の葉に遮られて見ることができない。
「…………」
 橋もない川を、水面から顔を出す飛び石を踏んで越え、木々の間に忍び入るように進む。舗装もされていない、山に寄り添うように巡る細い道をいくらか進むと、忽然と、その山を登っていく階段が現れた。
 桜の花びらは、階段の上から舞っている。
 神楽木はひとつ、息を吸うと、階段に足を掛けた。階段は途中でカーブしており、行く先は見えない。街灯も無く、空や街から漏れ届く薄明かりすらも周囲の木々に遮られ、暗く深い宵の影があたりを包む。その中、闇に自ら飲み込まれにゆくような階段を、その道なりに舞い積もった花びらの淡い色が、ぼんやりと、おぼろげに照らし導いていた。
 石造りの階段は綺麗に平らではなく、おまけに所どころ苔(こけ)生(む)しており滑りやすい。年代ものであることは間違いなさそうだったが、それ以上にほとんど手入れがされていないようでもあった。そんな歩きにくい段を、一つずつ登っていく。
 この先に、何がいるのか。
 そして、自分の身に、何が起こっているのか――――
 答えの出ない問いかけを何度も繰り返しながら、いくら登っただろうか。多少の時間は費やしたようにも思うが、不思議と発汗も呼吸の乱れもなく、登った距離の感覚もないまま、いつの間にかその場所に、神楽木は辿り着いた。
 それほど広くはないが、少し開けた場所。
 朽ちかけた、人に久しく忘れられたような場所。鳥や虫の声も、なぜだか遠く感じる場所。
 その場所の入り口に立った神楽木の足元から、石畳の道が真っ直ぐに伸びていた。その、一番奥――
 一本の、満開の桜の木の下。
 そこに、それはいた。
 さあああああ――――
 不意に、一陣の風が吹くと、黄昏に無数の花びらが鮮やかに舞った。その中、亡霊のように白く浮かぶ人影。人の姿形をしていたのは、はたして想像していた通りだったのか。自分でも分からなかった。
 ドクン――
 神楽木の心臓が、一つだけ打った。
 出で立ちは、真白の小袖。白い肌に、薄く色づいた唇。風になびきもしない、闇より暗い艶を持つ、長い黒髪。
 そして、神楽木を真っ直ぐに見る、濡れたように輝く瞳……。
「やっと、来てくれたのね……」
 柔和な微笑み――だが、神楽木の心が決して安らぐことのない微笑み浮かべて言った、それがその女の第一声だった。
 低く、澄んだ声。
 声も姿も、微かに残る神楽木の夢の記憶にあるものと、寸分違わない。
「いらっしゃいな……もっと、近くに…………」
「…………」
 乞われるままに、女の元に歩いて行く。十と数歩程度の距離。どうしようもなく長く感じるその距離を、一歩ずつ詰める。
 恐怖も、高揚も、無かった。
 足をひとつ進めるごとに、女の身体の委細が見えてくる。
 見た目の年の頃は、自分と同い年ぐらいだろうか。だが、同年代の人間に覚える一種の親近感のようなものは全く感じられなかった。真っ白の和装に、目深に切り揃えられた黒髪――和人形を思わせるその装いもさることながら、柔らかに、しかし悠然と立つ姿、静かな表情、それでいて面白がるように人を覗く、どこか虚ろな瞳……そのいずれもが、自分と同じだけの生を経た存在に纏えるものには思えなかった。
 女まで二歩と少しほどの間を置いた位置で、神楽木は歩を止めた。
 君は――と、誰何(すいか)の問いを口にしかけ、ひとつ、躊躇う。そして、
「お前は、誰だ」
 あえて粗暴な言葉を選んだのは、得体の知れない相手と、この状況への不安に対する、精一杯の虚勢だった。
 一方の相手は、そんなこちらの心境など気にも留めなかったのか――あるいはすべて見透かしていたのか、特に意に介した様子もなく答えた。
「誰……?」
 こちらを覗く目はそのままに、袖を唇に当て、一時(ひととき)考え込むしぐさを見せた後、
「お前の生にとどめを刺したのは私……。お前を助けたのも、私…………」
 そう告げた。女はさらに言葉を続ける。
「そして――」
 一呼吸。
「桜の『化身』よ」
 言葉を彩るように、淡色の花びらが一つ、二つ、ひらりひらりと舞った。
「桜の…………化身……?」
『化身』――――すでに何度か聞いた言葉。しかしそれが何なのか、ここに来るまでにそれほど知れたわけでもない。人と別の生き物が融合して一つになった存在――と、学校に来た『化身』の一人、朽我は言っていた。
 そしてこの女は、自らを桜の化身だと言う――
「お前の一番知りたいことを答えると、そうなるのかしら……。名前なんて知りたいわけではないのでしょう?」
 この目の前の桜の化身とやらが、自分に今起こっていることに関係しているのだろうか。……恐らくは、そうなのだろう。
 女は、じっとこちらを見たまま、神楽木の次の言葉を待っているようだった。
(……聞きたいことは、山ほどある)
 昨夜、一体自分に何が起こって、今の自分は――どうなっているのか。
 蠍たちが言ったように、やはり、『化身』となったのだろうか。
 ……そもそも、『化身』というのはどういう存在なのか。
 そして、この女は自分にどう関わっているのか。女の言った、神楽木の命にとどめを刺して、そして助けた……とは、どういう意味なのか。
 自分は一体、どうなってしまったのか――――
 疑問が次から次へと沸いてきては、堂々巡りに陥ってしまう。
「……何なんだよ、その『化身』ってのは……」
 数秒は時間を掛けた後、ようやく、嘆息とともに絞り出した言葉はそれだった。
「……化身はね、花や虫……妖となった生き物たちが、人の命を喰って同化したもの……」
「……なんだって?」
 突飛な内容――であると同時に、おおよそは一度聞いた内容でもあった。そのため、今回は頭と心にいくらか余裕を持って聞くことができた。だが、記憶しているものとは微妙にその内容が違う。微妙な、だが、大きな違い。
「人の命を……喰った?」
 喰った――言葉の意味は理解できても、それが示す事実が解らない。自分の身体を見下ろすが、喰われて無くなった箇所どころか、齧られた跡すら無い。
 そんな自分の姿は、女にはいくらか可笑しく映ったようだった。
「ふふ……お前、お名前は?」
「神楽木……燎一」
 表情を和らげた女があやすように紡いだ問いに、つい馬鹿正直に答えてしまう。
「そう……燎一、よくお聞きなさいな」
 女が一歩、神楽木の方に踏み出す。神楽木の目を真っ直ぐに覗きながら、言った。
「今のお前は、桜の『化身』……。ただの桜ではないのよ…………妖の、桜。人間と、妖の花が、ひとつの命になった存在……それが、今のお前」
「何を――言っているんだ」
「昨日の夜――」
 女が、また一歩、神楽木の方に歩を進めた。
 じわり。
 女の言葉に、自分の奥底の何かが反応したのか。背中に汗が浮かんで一筋、流れる。
「昨日の夜の出来事を、お前、覚えていて?」
「……いや」
 昨夜。ほとんど思い出せない情景。記憶にあるのは、今目の前にいるこの女の瞳と、かすかな面影。花の色と血の匂い――――
 女の視線が、神楽木の目から胸のあたりに移る。気付けば、女は神楽木のすぐ前に迫っていた。すうっと上げたその白い手も、よく見える距離。……綺麗な手だ、と、ほんの一瞬、状況を忘れて神楽木は思った。いつも見ている神楽木自身の手とは違う、繊細なガラス細工を思わせる細い指がしなやかに動く。
「お前の心臓にはね、種子が埋め込まれているの……」
 指の腹が、神楽木の胸に触れる。制服越しに、柔らかな重み。
 瞬間、びくんっ、と跳ねるように脈打ったのは、心臓。体は――裏腹に、凍りついたように動かせずにいた。
 心臓、種子、埋め込まれた――――
 単語が、頭を巡る。
「……妖の、花の種子」
 女は言葉を続けながら、変わらずどこか虚ろな目で、神楽木の胸を見つめている。神楽木の胸に向いてはいるが、ここには無い何かを見ているような、そんな目――――
「命を蝕み、生きる種子よ…………」
「何を――そんな、そんなことが……あるわけ――」
 神楽木の言葉を遮るように、女はさらに半歩、神楽木の懐に潜り込むように進む。花の香にも似た匂いが、ふわりと鼻孔をくすぐる。
「思い出して……昨夜のことを……」
 女の吐息が、頬に微かに触れる。その瞳は再び神楽木の眼を見上げていた。目深にかかった黒髪の奥から覗く、濡れたような暗い輝きに見つめられ、少しずつ、夢の内容が鮮明になっていく。
 血の匂い、動かない体、桜の色、胸の痛み、そして、瞳の輝き――――
(そうだ。この女が、俺の心臓に、何かを――――)
 氷水に頭から突っ込まれたように、全身から急速に血と体温が引いていく。同時に、心臓のあたりに、疼くような違和感――それが本当の感覚なのか、錯覚なのかは分からなかったが。
「俺は……一体、どうなって――」
 自分の胸を、抉るような勢いで鷲掴みにする。女の手の上からだったが、今は構う余裕が無かった。冷たく細い女の指の感触は、力を込めれば折れてしまいそうですらあったが、女は抵抗の動きも見せないまま言葉を続けた。
「今日お前は、化身の――人外の力に身をゆだねたのではなくて? ……少しだけ、だけれど」
「今日? 俺が……?」
 全く身に覚えがない。不可解なことはたくさんあったが、自発的に何かを起こしたことは無かったはずだ。
「今のお前は、まだ完全な化身となってはいない……。お前自身の鼓動が弱まるとき、初めて妖の――化身の力がお前を満たす……」
 女の声が、言葉が、一語一語、脳に沁みるようにしんしんと響く。ひとつずつ、認めがたい事実を、優しく、しかし抵抗もさせないままに刷り込むように。
「それは、そう……お前の生命(いのち)が散りゆくとき…………」
「…………!」
 霧が晴れるように、昼間の記憶の最後の断片が、神楽木の頭に蘇った。学校に来た二人の化身。その一人、蠍に襲われたとき、グラウンドの桜の木があり得ない動きをし、その枝が身体を貫いた。その後――
 枝を伝って滴り落ちる血とともに、自分の身体から急速に力が抜けて行き――同時に、別の何かが身体に満ちていった。そして自分は再び立ち上がり、蠍をを打ったのだ。記憶が本当にぷっつりと途切れるのは、その直後だ――――
 あのとき、自分に溢れた力。蠍を打った尋常でない身体能力。あれは――あれも、『化身』の力だったのか――
「俺は……やっぱり『化身』なのか……?」
 何度かそう言われはしたが、認められずにいた事実。自覚が無かったと言えば、嘘になる。自身の身が、すでに「普通」でないことは、とうに気づいてはいた。が、どうしてもそれを受け入れることが出来なかった。受け入れたく、なかった。だが蘇る記憶とともに、現実が目の前に突き付けられる。
「なんで……俺が、そんな――」
 そんな存在に。人と他の生き物が融合? ――おぞましい。それは生理的な、人の本能から来る嫌悪感だった。なんで、そんな存在に、自分が――――
 ぐるぐると不快に巡る思考に熱湯でも注ぐように、女は言葉を続ける。
「……お前は妖の種子によって生かされ、種子もまたお前の命によって生かされている……二つの命はひとつではない……今は、まだ」
 女の虚ろな瞳が、俄かに、湿った熱を帯びる。
「……やがて、種子が完全にお前の命を喰らい、喰われるとき…………ああ、早く、見たいわ……その姿を――――」
 頬を、女の指が撫でた。その恍惚とした表情に、だが神楽木は反応らしい反応も見せなかった。
 確定した最悪の事実の前に、情報も考えも気持ちも、何も整理できずにいた。ぐちゃぐちゃの頭に、だがはっきりと湧き上がるのは、強烈な負の感情。
「お前か……?」
 絶望と、不安と、怒りと――それらが混ざった大きな塊。ぶつけるところを探せば、それはすぐ近くにあった。
「お前が、やったんだな……?」
 女の眼を見る。先刻見せた、熱に浮かされたような色はすでに消え、出逢ったときと変わらぬ涼しげな瞳がそこにあった。
「……ええ。お前に妖の花の種子を与えたのは、私――――」
 その言葉を、最後まで聞き届けはしなかった。
「お前が、俺を『化身』にしたのか!? 何で! 何でそんなことしたんだよ!?」
 激情に駆られるままに、叫びながら女の衣服の衿を掴み上げる。
 女は、抵抗どころか少しの身じろぎさえもしなかった。神楽木が睨みつける先にあるその瞳は、変わらずどこか空虚に、わずかな動揺すらも見えない。泰然と、穏やかとさえ言える表情を浮かべている。――それがさらに、神楽木の神経を逆なでした。
(こいつ――ッ)
 まるですべて予想通りと言うように。あるいは、人を――自分など、取るに足りないゴミのような存在とでも思っているのか。
「答えろ!」
 衿を掴む手に渾身の力を込め、殺意を込めて女の涼やかな眼を睨みつけた。ドス黒い感情が胸のあたりに熱く渦巻く。女の顔を殴りつけたい衝動が膨れ上がっていき、それが爆発しそうになる瞬間、女が再び口を開いた。
「……お前を助けるためにはね、そうするしかなかったの…………」
 怒りに震える神楽木をいなすように、襟をつかむ手に自分の手を添える。
 女の言葉と、ひんやりとした柔らかな指の感触が、神楽木の頭を少しだけ冷静にさせる。
「どういう――ことだ」
 衿を掴む手はまだそのままに、声のトーンを落とし、尋ねる。
「お前は怪我をしていたの……もう、手の施しようがないような怪我」
 服を掴む手に、女の吐息が触れる。
「怪我……?」
 夢を、もう一度思い起こす。掠れる記憶の中、確かに、怪我をしていた感覚はあった。手の施しようがない怪我――だったかどうかは、よく分からないが。
 不思議と、夢の、女が現れる以前の部分は、未だ何も思い出せずにいた。自分が見ていたモノ、聞こえていた音、嗅いでいた匂い……その何もかもが、霞がかかったように曖昧だ。ただ確かに、胸にあった痛みは、女が『種子』を自分に与える前からあった――――
「…………」
 では、女は自分を「助けた」ことになるのか。しかし――それなら、そもそも「怪我」の原因は何なのか。
さっきから、ひとつ質問の答えが返って来ても、その度またひとつ、新たな疑問が生まれて来るだけだった。混乱が一向に収まらない神楽木に、女が言葉を続ける。
「放っておけばお前は死ぬだけだった……それが、人を外れ、化け物になることで命をつないだ。……そういう道を選んだ、それだけよ」
「化け物……」
 それも……分かっては、いたことだった。三階から落ちても怪我ひとつない――それどころか、心臓を貫かれても死なない身体。異常な身体能力。他人には「見えない」蛇や異形の存在と、それを認識できる自分――
 バケモノ。
『人としてのお前は、もう、じきに死ぬわ』
 昨夜。
『もう少しだけ、仮初めの生を続けたい? 絶望しかない夢の中で――』
 死ぬか、『化身』となって生きるか。その問いかけに、自分は、命をつなぐことを、選んだ。
 そうだ。その選択を、自分はしたのだ。この女に、自らを化身とすることを願った――――
「そう、か……」
 すっかり気勢を削がれ、力無い声で呟く。
「……よろしければ」
 打ちのめされ沈む心に、女の声が割り込んだ。
「そろそろ、手を離してもらえるかしら?」
「え?」
 言われて、自分がずっと衿を掴みっぱなしだったことに気付いた。
「え、あっ……いやっ」
 何とも間抜けな声を発しながら、慌てて手を離す。……この女を、命の恩人と呼ぶのは何か腑に落ちなかったが、記憶から浮かび上がる事実から判断すれば、胸ぐらを掴んでいい相手ではないことになる。
「そっ、その――」
「なあに?」
 女は特に気にした様子も無く、相も変わらず、落ち着いた所作で乱れた衿を直しながら答える。
「ご、ごめん――」
 しかしこの神楽木の謝罪は、なぜだか女にとっては予想外だったようだ。一瞬、驚きに目を大きく開くと、袖を口に当て、くすくすと笑いだす。
「ふふふ――気にしなくていいのよ。……お前、いい子ね」
 これまでの笑みとは、少し異なる女の笑顔。
「…………」
 いい子、という言葉には抵抗があったが。
 女に怒っている様子が見られないのと、その笑顔を前に、まあいいか、と思ってしまった。
「……ところで」
 しかし、神楽木の気が緩んだのも束の間。女の目が不意に、すい、と細まる。
「……お前、蛇の化身に逢っていて?」
「蛇?」
 憶えは当然、あった。昼に教室に来た二人組の片方、朽我、と名乗った男。彼は大蛇から人間に変化(へんげ)し、そして自らを『蛇の化身』と、そう称していた。
「ああ、逢ってる――」
「そう……道理で」
 いつの間にか、女の瞳に鋭い光が差していた。気の触れた人間が、束の間の正気を取り戻すように。
「? ……どういう意味だ?」
「もっと二人でゆっくりお話ししたかったのだけれど…………残念」
 ザッ
 言い終えるが早いか否か、新たな来訪者を告げる足音が響いた。
「……久しいな、妖花」

 聞き覚えのある声に振り返って見渡せば、今いる場所は、かつては神社の境内だった場所なのかもしれないと、神楽木は今さらながら思った。
 神楽木と女がいるのは、開けた場所の一番奥、登ってきた階段の反対に位置するところだった。そこから改めて見ると、階段付近に鳥居の名残らしきものがあった。名残、と表したのは、それが土台の部分しか残っていなく、鳥居が根元で折れたと言われればしっくりくる様だったからだ。二つ、綺麗に対象にあるその土台の中心を通って、階段から神楽木と女のいる位置――この広場の再奥まで、真っ直ぐに石畳の道が伸びている。その両脇、鳥居がまだ健在であったならそれをくぐった直後にあたる位置に、小ぶりな桜の木が一本ずつ立ち、石畳の道にアーチを描くように花を咲かせていた。
 石畳を一直線に抜けた先、鳥居の方に身体を向けている女の背後に、一際大きな桜の木が立つ。桜の木のすぐ後ろには、半壊した――というより、朽ちかけた小さな社(やしろ)があった。鳥居と同様、原型を留めていない。
 しかし、それ以外のもの――狛犬だとか、拝殿や賽銭箱、手水舎といった、神楽木のイメージする「神社」にあるものは、何も、その残骸や遺構すらも見つけることはできなかった。石灯籠も無く、当然、明かりもない。建造物らしきものは、半壊した鳥居と、小さな社のみ。……ここが神社だったとすると、ずいぶん淋しい造りであるように、神楽木には思えた。
 黄昏の闇に沈むその空間を、宵の空に黒々と浮かぶ木々の葉が抱くように彩る。そして、神楽木と女を、背後の満開の桜の木が薄く照らしていた。
 その空間に割り込んだ足音と声は、神楽木が入ってきた方向と同じ方向、鳥居の方からだった。誰そ彼時も終わろうとする刻の中、まだかろうじて判別できる相手の風貌には覚えがあった。それは――――
(……蛇の化身の方――じゃない?)
 蛇の化身に逢ったか、と問うた女の言葉。だが、立っていたのは蠍だった。蠍、一人。
 昼に教室に現れたときと同じ無表情、抑揚のない声。ただ一つ違うのは、その手に提げた抜き身の刀。
「存外に、あっさりと貴様の元に辿り着けたな」
「……お久しぶり」
 一往復の短いやり取りで、神楽木に分かったことは二つ。
 ひとつは、二人が知り合いであること。もうひとつは、それがあまり好ましくない意味での知り合いであること――――
「ああ、実に久しい……『厄災』の日、以来になるか」
「……そう、ね」
「長かった――と、言っていいのだろうかな。だがそれも今日で終わりだ。……もう逃がさん」
「逃げる? 私が、あなたたちから? ふふ……身の程を知りなさいな」
「……よく、知っているさ。刺し違える覚悟くらいは、とうに決めているよ」
「まあ、怖い……」
 双方、眉すら露とも動かさずに言葉を交わす。蠍は、初見のときから変わらぬ刺すような眼光、対する女は仄かな笑みを浮かべ、互いに視線は相手の目から一瞬たりとも外さない。
 すでに陽は完全に落ちていた。夜の闇に呑まれゆく中、二人の間を埋める空気さえもが、言の葉に潜む敵意に身を竦めるかのように、静かに、淡々と冷えてゆく。
「……怖い、か。命を弄ぶ妖花めが、笑えない冗談を言う」
 蠍が、右足を一歩引き、腰を落とす。
「しかし、やはりしたたかな奴よ。正直、可能であれば――」
 じわり、その皮膚が黒ずんだかと思うと――次の瞬間には、バケモノの姿に変わっていた。『穢粧』と、蠍自身は言ったか。昼に見た、人と、サソリを無理やりごちゃ混ぜにしたような、この世の者ならざる姿形。そのおぞましさに、見るだけで神楽木の背に悪寒が走る。
「こんな場所では戦いたくなかったのだが、なッ―― !」
 蠍の言葉の最後は、肺の空気ごと、短く、鋭く吐き出すように発せられた。それとともに、その身が女に向かって一直線に疾る。
 その、ほぼ同じ瞬間――――
 フシュルルル――
 空気が漏れるようなその音は、蠍からではなく、神楽木の背後、頭の少し上の高さから聞こえた。ゾッとするほど、近く。
本能が警告してくるがままに、振り向き仰ぐ。音の焦点が合う位置は、神楽木から桜の木をはさんだところ。今まで大して意識を向けていなかった、半壊した社の、かろうじて残っている屋根のあたり。
「――!?」
 神楽木が見咎めたのは、赤い粘液質の肉に、白い牙。それが大きく開かれた大蛇の口だと理解するまでの、一瞬の間――その間が終わるより早く、蛇は神楽木の方に向かって弾けた――ように見えた。視界の中で蛇の口が急速に膨れ上がる。
 反応できなかった。何百分の一秒か、あるいはそれ以下の時間か。身体を寸分も動かせぬまま、神楽木は蛇の動きをただ目で追う。だが、もとより蛇は神楽木には向かっていなかった。その牙の矛先は、女。神楽木の横にいる女の、まだ背を向けているその後頭部に飛ぶように迫り――
 ゴグッ!
 神楽木の視界に突如、人の大腿ほどの太さの線が割り込み、蛇の姿を一瞬で掻き消した。その向こうで鈍い音が鳴る。
(桜の木が――――ッ!?)
 蛇と、女の間にあった桜の木。その枝の一本が一瞬で伸び、女を守るように蛇の突進に割り込んだのだ。音は、蛇の牙がその枝に突き立てられたものだった。
 化け物、桜の化身――女の口にした単語が頭をよぎる。女がやったのか。どうやって――だが、それを考えている余裕はなかった。
 フォヒュ――ッ
 空気を鋭く切り裂く音は、またしてもすぐ近く、またしても意識の外、蛇に気を取られた神楽木が失念していた場所からだった。音を追って視線を鳥居側に戻せば、蠍が女すぐ近くに迫っていた。持っていた刀が届く距離にまで。
 蠍の踏み込みは右足。刀を持つのは右手一本。水平に倒した刃を女の胸めがけて最短距離で突き出す。
 慌てて身構える神楽木とは対照的に、女はその悠然とした立ち姿を崩していなかった。大蛇には一瞥すらくれていなかったのか、刀が眼前に迫った今も、伸びた指の一本一本までもが、蠍が現れたときから寸分違わぬ位置にある。
 刀の切っ先が胸元に届く寸前、女の姿が、揺らぎ、刀がすり抜けた――と思ったのは、神楽木の錯覚だった。女は左の足を引き、体を開くようにして体軸をずらしていた。刀が貫いたのは、その残像。蠍の刀は、流れる髪の間を縫うように、その一本にも触れられぬまま虚空を貫く。
 蠍が二の太刀に転じるより早く、女が動いた。蠍に対して半歩。踏み込む――というほど鋭くはない、すべるような、一切の澱みの無い動き。その流れに沿わせるように、蠍の肩と胸の中間に、女の手のひらが触れた。
そのまま、蠍を軽く押した――ように、神楽木には見えた。だがそれは、見た目とは裏腹に強烈な力を伴っていたらしい。蠍の体は大きく吹き飛ぶ。
「妖花ぁぁァァ!」
 瞬間、轟いた叫びは、蠍――では無かった。声のした位置を神楽木が見れば、女の背後で先ほどの蛇が桜の枝から牙を引きぬいたところだった。その身体が、一瞬でウロコに覆われた半人の異形へと変わる。顔面に、朽我の面影を残した異形――それが、蛇の胴から生えた足で地を蹴ると、桜の枝をすり抜けるようにくぐり、女に迫る。
 だが、そのときにはすでに女は動いていた――神楽木の方に。
「えっ!? お、おい――」
 ボケっとしていたわけではないが、さすがにこの動きは神楽木にとって予想外だった。背筋を走る緊張に身を固くする神楽木の腰に、女はするりと手を回してきた。華奢な腕――そこに柔らかく力が込められると、女は神楽木の身体に自らを強く引き寄せた。
 とさ、と、軽い手ごたえとともに、女の体重が神楽木の胸に預けられる。神楽木の口元のすぐ下に、女の黒い髪が見えた。ふわりと、女の匂いが漂う。女はさらに強く、その身体を神楽木に密着させると――
 真上に、跳んだ。神楽木を道連れに。
「――――っ!?」
 景色が糸を引いて動き、一瞬の後、視界一面に薄桃色が映る。眼前に桜の花があった。この「境内」の大きな桜の木の、地上からは離れた高さにあるはずの花々。それが、目の前に。
 女の跳躍は、数メートルの高さに達していた。生身でぽんと中空に身体がある、その感覚に身が竦む。ほどなく、跳躍の頂点まで達したときに訪れる、一瞬の無重力感が神楽木の身体を包んだ。後に続くであろうものは当然、
(落ちる――――)
 その恐怖に全身が引きつる。しかし、落下は訪れなかった。代わりに、すとっ、と、軽い着地の感触。足元を見ると、桜の枝が女の元まで伸び、そこに女の足が留まっていた。枝はわずかにたわんだが、無事に二人の重さを受け止めきる。
 ひとまずの安堵。しかしそれは一息の間も続かなかった。枝越しに見える地上では、朽我が女を追って、跳躍で迫ろうとしていた。
「……ふん」
 女は冷たい笑みで朽我を見下ろしたまま、足元の枝を一撫ですると、後ろ向きに再び大きく跳躍した。今度は、高く、ではなく、遠く。桜の木から距離を取る。
 女と入れ違いに枝に足を掛けた朽我は、再び女を追わんと、跳躍のために下肢に力を込め――
 ぼごっ
 そこで枝が、根元から折れた。
 踏み切りを空かされる形になった朽我は、折れた枝とともにあえなく落下し、追撃が中断される。
(枯れた、のか――!?)
 折れた枝の断面を見やると、つい一瞬前まで女と自分の重みを支えていたはずの枝――生命力に溢れる力強い姿をしていたはずのその枝は、ボロボロの、老木のような体になっていた。
 女は神楽木を伴ったまま、舞う花びらを思わせる柔らかさで地に降り立った。……落下の高さを考えれば、本来なら決して軽くはない衝撃があるはずだが。
 一瞬の嵐のような攻防が終わり、両陣が睨み合う。
 女は境内の中央付近に悠然と立つ。女の正面、桜の木の下(もと)には朽我。女から見て右前方には吹き飛ばされた蠍。どちらもすでに、いつでもこちらに向かって来られる態勢を取っていた。
 ――人外の戦い。
 束の間、訪れた凪に、神楽木の全身から今さらのように大量の冷や汗が吹き出す。
 これは「殺し合い」だ……それも、バケモノ同士の。昼に出会った二人はもちろん、今傍らにいる女も、人外の何かなのだ。あまりにも突拍子もない、そして恐ろしい状況に、しかし今自分が巻き込まれつつあることを、ようやく理解し出す。
「……燎一」
「!!」
 不意に耳元で囁かれた自分の名前。情けないくらいに、神楽木の身体がビクりと一瞬大きく震える。
「ちょうどいい。化身の『力』を教えてあげるわ」
「なん……だって?」
 女は神楽木の腰に絡めていた腕を解くと、身体ごと神楽木の方に向き直った。蠍たちは――
「妖花……殺す……殺おぉぉぉす!」
「……早まるなよ、朽我。奴は強い」
 先の分かれた長い舌をちらつかせながら、朽我がくぐもった威嚇の声を上げる。……女に対し激昂する様は、昼に学校で相対した時とはだいぶ印象が異なる。その朽我を制しつつ、蠍も構えた刀の切っ先を喉の高さに上げ、油断なく女ににじり寄る。そんな二体の化身に、一見無防備に隙を見せる女を、しかし逆に警戒しているのか、蠍も朽我も直ちに女に迫ることは無かった。
 女は、そんな二体の異形を気にも留(と)めていない様子で、神楽木に話を続けた。
「これを、お使い」
どこから取り出したのか、女の手に、宵闇に光る何かが握られていた。それは、傷一つない綺麗な指に、およそ不釣り合いな代物。
「これ、って……刀……?」
 それは抜き身の短刀だった。鍔も何もない白木の柄に、真っ直ぐ伸びた刃。刃渡りは、家で見る包丁よりは少し長いか。だが、自分にそれを差し出す意図が、理解できない――――
「……どう、すんだよ――こんなので」
 これで戦えということか――神楽木が最初に思ったのはそれだった。だが。
「言ったでしょう……お前自身の鼓動が弱まれば、妖の力が表に出るの…………」
 この女は、一体何を言っているのか。何を、自分にさせようとしているのか。
 女の、短刀を持っていない方の手が神楽木に伸びた。白い指で、汗の浮かぶ神楽木の首筋を一撫でする。ゾクりと、寒気が走った。
 鼓動。弱まる。短刀。
『それは、そう……お前の生命(いのち)が散りゆくとき…………』
 先刻の女の言葉が、脳にフラッシュバックされる。徐々に、女の意図を察するにつれ、背筋に嫌なものが登ってくる。
 刃に煌めく月光が、一瞬、神楽木の目に差した。首深くその切っ先を突き立てるイメージを思い浮かべてしまい、すぐに後悔する。冷たく無機質な刀身を見ているだけで、首に一筋残る女の爪の感触が、チリチリと不快に疼く。
「い、嫌だよ!何で俺が―― !」
 声を必死で荒げ、全力で拒絶する。
(何で俺が――冗談じゃない――ッ!)
 自分には関係ないこと。そのハズだった。
(バケモノ同士の争いだ。自分には関係ない。それもこいつらがやってるのは、喧嘩とかそういうレベルじゃない。完全な殺し合いじゃないか。関係ない。しかも、こいつはこの短刀で、俺を――)
「――ふ、ふざけるなっ!」
 神楽木は、刀を差しだす女の華奢な手を殴るように振り払った。
 それが、女の隙を生むと見てとったか。
「オオオオォォォォォ!」
 叫び、というより唸り声を上げて、朽我が女に向かって疾った。その声を聞きながら、神楽木は三体の化身たちに背を向けて、この空間の出口――壊れた鳥居の方に向かって全力で走り出した。

「ふん……」
 神楽木との会話を中断させられた女は、わずかに険が差した眼で朽我を一瞥する。と――
 ずごっ
 突如、朽我の眼前の石畳を割って、桜の木が生える。急成長して進路を塞ぐその木に、しかし朽我は怯むことなく、さらに一歩を踏み込む。
 激突する――その、刹那
 朽我の体がぐにゃりと曲がったかと思うと、ぬるりと木を巻くように脇を抜けた。減速することなく、猛然と女に迫る。
「まあ……」
 女が手を一振りする。ふたたび、みたび、朽我の前に再び桜の木が出現する。が、朽我は同様に、不自然に体をぐねらせ回避しつつ「直進」する。妨害をものともせずに、朽我はほどなく女の元に達した。
「シャアアアァァァァァッ!」
 狙ったのは、女の喉笛か。人間の面影が残る顔が二つに割れるかというほどに、大きく口を開け、慣性のままに女に突っ込む。
「…………」
 女は表情を変えずにそれを待ち受ける。朽我の牙が届く、その寸前――
 ずごぎっ
 四度目の木の出現。今度は、女と朽我の間ではなく、女の足元からだった。これまでのものより早く、瞬きする余裕もないほどの間に、女の体を乗せ数メートルの高さまで成長する。すんでのところで獲物を逃した朽我の牙は、木の幹――女の首があったはずの場所に、深々と突き刺さった。
「――――ッ!」
 朽我の顔が歪む。それは、一つは獲物を逃した悔しさ、そしてもう一つは、次に自らに訪れる危機を予測してのことだった。女を連れて伸びた木――その枝の一本が、急旋回して下方に鋭く伸びる。その先には、朽我の頭部があった。牙を深く木に取られた朽我には、避けることはできない。
 どしゅッ
「――があぁッ……」
 錐のように尖った枝が、朽我の首筋、延髄のあたりを、紙でも破るかのようにあっさりと貫く。耳に響く嫌な悲鳴とともに、朽我が白目を剥いて崩れ落ち――動かなくなった。
「――ふッ!」
 次いで上がった声。発声の主は蠍だった。いつの間にか回り込んでらしい――伸びた木の、その枝に腰掛けるようにいる女の背後、死角になる位置から、人間にはあり得ない跳躍力で、そのさらに上へ躍り出る。
 ごすっ
 女の頭上から、刀が振り下ろされる――しかしその刃が女を捉えることは無かった。刃が触れる直前、女は、その手の先から桜の花びらになって散華していく。振り下ろされた刃は花びらの間をすり抜け、女が乗っていた枝を穿つ。紅色の花びらが、あざ嗤うようにひらひらと舞う。
 蠍の刀は枝を切り落とすには至らず、一寸ほどを残したところで止まっていた。その切り込んだ付近からたちまちに細い枝が芽吹くと、蠍の刀に絡みつかんと螺旋に伸びる。
 瞬間、蠍の目が揺らぐ。刀を引き抜きにかかるか、それとも刀を諦め柄から手を離すか――
 一瞬の迷い。しかしその一瞬は致命的な時間だった。蠍の背後から伸びた別の枝が、瞬く間に蠍の胴に巻き付くと、その状態で太さを急激に増し、蠍を絞め上げる。
「く――――ッ!」
 蠍の顔が苦悶に歪む。脱出は――不可能だった。

「――はっ、はっ」
 攻防はわずかな時間の出来事。二体の化身が無力化されたころ、神楽木燎一はようやく鳥居の跡まで到達しようかというところだった。
 焦りが足をもつれさせ、それがさらに焦りを生む。一歩一歩がスローモーションのように重い。走る時間にすればほんの十秒にも満たないはずの距離が、恐ろしく長く感じられた。
(あと、少し――)
 あと少しで、ここから出られる。
 その後は逃げ切れるのか――その疑問が何度か頭をよぎるが、今は無理やり考えないように頭の隅に押し込め、足を動かす。ここから逃げることができなければ、その後も何も無いのだから。
(とにかく、逃げるんだ――)
 一歩でも遠くに。幸いにも、背後から聞こえてくる物音は、また戦闘になったことを神楽木に知らせていた。二人を相手にしつつこちらを追う余裕は、女には無いだろう。
(あと、少し――)
 鳥居に差し掛かる。ここに来る時に登ってきた階段が見えた。その向こうに、木々の隙間から漏れる明かりが映る。神楽木の住む街の明かり。もうずいぶん長い間、見ていなかったかのように思えた。
(帰るんだ、元の世界へ……早く、帰――)
 ちょうど鳥居の抜けるとき――そのときにはもう、背後が静かになっていることに、神楽木は気付いていなかった。
 風が、背後から神楽木の頬を撫でて通り過ぎた。風に運ばれるのは、ふんわりと立つ甘い香りと、そして――――桜の、花びら。
 花びらは神楽木の前に割り込むと、宵の帳に色鮮やかに、風に乗って螺旋を描く。たちまちに花びらの密度が濃くなったかと思うと――――そこには、桜の化身の女が立っていた。
「…………燎一」
 女は優しい微笑みを浮かべ、神楽木の名を呼んだ。
「う――」
 逃げられない。その事実が、氷のように冷たく神楽木に浴びせられる。
「うわあああぁぁぁぁ!」
 殴り飛ばしてでも駆け抜けたかった――それをしなかったのは、単純に暴力で敵わないのが明白だという、それだけの理由だった。全力で、脚で地面にブレーキをかけると、反対方向――つまり境内に向かう方向に、ほとんどパニックになりながら体を向け、足を踏み出そうとし――
 踏み出せなかった。何か冷たいものが、神楽木の右の手首に絡みついていた。
「仕方のない子ね……今回だけよ……」
 それは女の指だった。ひんやりとした指の感触に、体温を氷点下まで下げられたように寒気が走る。柔らかく、添えるように掴まれているだけ――だったが、たったそれだけで、神楽木の全身は引きつり、動かすことができなかった。
細い指の一本一本が、しなやかに冷たく、神楽木の皮膚に浅く沈む。背中に女の身体の重みがかかった。首筋に、女の吐息が触れる。
 女の左の手が、背後から神楽木の脇を抜けて伸びる。その手には、短刀。一瞬、神楽木の胸を抱くような形で、その手が眼下を通り過ぎる。刃が、月の光を鈍く跳ねた。
 女はさらに身を寄せながら、神楽木の右の手のひらに、短刀の柄を添える。同時に、手首に当てられていた女の右手の指が、神楽木の手を撫でるように手先の方に動くと、互いの指を絡ませるように、神楽木の右の手ごと、短刀の柄を逆手に握り込んだ。
 逃げなければ――頭ではそう思いながら、身体はわずかな抵抗もできずにいた。身体が竦み上がるような恐怖――いや、それだけではなかった。妖の花の化身の、服越しに感じるその身の線と、仄かに立つ香。神経を狂わせる毒が沁み入るように、恍惚とした何かが神楽木の身体を支配してゆく。
「身を……ゆだねなさいな」
 一時(ひととき)、息をすることも忘れ、女の身体の動きをその身に受ける。女の左手が、神楽木の胸に、心臓を押さえるように当てられた。その手に少し力が加わると、女の身体がさらに深く、重ねるように押しつけられる。ふわりと、一際強く、花の香が漂った。
 とくん――
 胸にひとつ、鼓動が響く。
 女の手に導かれ、短刀を持つ神楽木の右手がすうっと持ち上げられる。腕に絡みつくようにかかった女の長い髪が、神楽木の体に沿って流れ落ちていくのが見えた。細く、それでいて、濡れたように冷たく重い髪…………。
 右手を包む手に、わずかに力が込められた。神楽木の指越しに、短刀を強く、握る。
 すぅ――
 女が息を吸う音が、耳元で聞こえた。
 その手と体で、締め付けるように女が神楽木の身体を包む。そして――
 ざぐっ
 神楽木の頸(くび)に、短刀が突き立てられた。
「――――ッ!」
 激痛に、一瞬で神楽木は我に返った。声にならない悲鳴。呼吸も、できない。
 女はさらに、首を引き切るように刃を抜いた。
 ぶづっ
 音にすればそんなような、丈夫な何かが切れる重い感触が、再度の激痛とともに首に走る。
 殴られたような衝撃――それは、噴き出す血の反動だった。
 神楽木はその場にもんどりうって倒れ込む。女の身体はいつの間にか離れていた。痛みから逃げようと転げ回り、だがもちろん、逃げられるはずもなく、あたりを鮮血に染めていく。
「お、ま、え――――ッ!」
 地面から視線を這わせるように周囲を見るも、すでに女の姿は無かった。あたりにあるのは、旋風に舞う、血の色とどこか似た紅色の花弁のみ。
(――く、そッ――)
 その視界が、急速に霞んでいく。体から、力と熱が抜けていき、首の痛みも鈍いものに変わってゆく。光も音も、消えてゆく。何も考えられなくなってゆく。その中でたった一つ。感じるもの――
 どくん――
 鼓動。ひとつ。
 体に何かが充満していく。血管にガソリンを突っ込まれたようだ。失われかけた熱が、急速に戻ってくる。しかし、その熱は元あったものと、似て非なるもの。温かみの無い熱。
 どくん――
 鼓動はすぐに大きく、連続した鳴動となる。
(――なん――だよ、これ――)
「私の『巣』に入って、無事で出られると思わないことね……」
 それは、誰に対しての言葉だったのか。鼓動がガンガンと頭に響く中、妙にはっきりと、消えた女の声だけが残った。

 桜の木の拘束は、妖花の女が消えると同時に解けた。刀を桜の木の枝から引き抜くと、蠍は静かに地面に降り立った。枝に貫かれた朽我も、急所は外れていたのかすでに立ち上がり、首に刺さった枝を折り引きぬくのが見えた。
 二人から少し距離を置いて、首から血飛沫を噴きながら転げまわる神楽木燎一を見ながら、蠍は考えていた。
(奇襲は失敗した……。撤退するか? だが――)
 慎重に、しかし迅速に判断しなければならない。それは昼と同じ――いや、もしかしたら、もう記憶にないずっと昔、まだ人の身だった頃から変わらずそうなのかもしれない。気がつけばその習慣の中に蠍は生きていた。そして判断のミスも遅れも、いずれも命取り――文字通り、命取りになる。それもずっと、変わらないことだった。
 にも関わらず、一連の出来事の中にある、いくつかの腑に落ちないことが、今なお蠍の決断に躊躇いを生んでいた。
 昨夜――神楽木が化身にされた夜、何故、妖花はその場にいたのか。化身は、別の生き物が人と一つの命になったもの――そこに妖花は確かに関わってはいる。だが、妖花がその場にいる必要は、無い。
 それと、妖花の女――――
 先ほどまで、戦闘中ですらこの神楽木を自分の傍に置いていた。自分の手元に。それは何故だ? 自分たち二人を相手にしてなお余裕は――あったのだろう。それは認めよう。だがこれも、その必要は、無い――――はず、だ。
 助けて逃がしたかった――わけではないのは明白だった。妖花自身の手で、神楽木の首を掻っ切っている。――しかし、何故? ……口封じに殺害したいというわけでもないようだった。それならば、自分たちがこの場に到着する前にやっているだろう。
 そもそもこの神楽木燎一は、一体何の化身なのか? ……蠍はまだ彼の『正体』も、その片鱗すらも見てはいない。
 当の神楽木は今、大量に失血し、地面にうつ伏せに倒れている。動きも、徐々に小さく、弱くなっていた。
 ――既視感。
 昼にも同じような状況があった。あのときは、神楽木を攻撃したのは妖花ではなかったが、桜の木――妖花の『眷属』となりうる存在だった。そしてその後、神楽木は明らかに人外の力を駆使し、蠍に一太刀を浴びせたのだった。
「…………」
 刀を握る手の、そのひらに、じっとりと汗が滲むのを蠍は感じた。
 地に伏していた神楽木は、やがて動きを止め――そしてやはり、昼間と同様に立ち上がった。出血も、痛みも、まるで無いように。ただし昼間とは異なり、今度はその顔が上げられ、蠍を、真っ直ぐに見た。
 ひたり。嫌な予感が背中を登る。
 この神楽木燎一は、何の化身なのか。
 ぽっかりと空いたような疑問。何か重大な見落としをしていたのかもしれない――その可能性にようやく気付いた今、撤退の前に、神楽木の『正体』を何としても見極めなければいけない。
 神楽木が、だらりと垂らしていた腕を、ピクリと動かした。
「――――!」
 反射的に身構える。だがそれ自体は、攻撃を意図した動作ではないようだった。神楽木の前方に弧を描いて上げられた手は、彼の正面で止まる。
 ひたり。ひたり。嫌な予感。嫌な予感ッ――
 神楽木の腕が、大きく横に振るわれた。瞬間。
 境内を取り囲んでいた木々の花が、一斉に狂い咲いた。
 月明かりを受けて宵闇に浮かぶ、淡く儚い色。それは妖しく、美しく、この世の闇を彩る花。
 桜の――花。
 ――この神楽木は、何の化身なのか。
 考え得た、最悪の可能性。それが今、確信に変わる。
「朽我、気をつけろ! この男も『妖花』だ!」

 二度目の「覚醒」は、前回よりは自覚を持って受け入れられた。
 つい今しがた感じていた痛みや脱力感は、嘘のように消えていた。頭が――いや、感覚が、冴えわたっている。自分の身体と、それのみならず、この空間の隅々までに、研ぎ澄まされた自分の神経が行き届いている、そんな錯覚――本当に錯覚なのか、判らないほどの。
 鼓動は、相変わらず頭に響いている。が、不快感は今はもう無い。むしろどこか心地よく、高揚感を誘(いざな)っている。首からの出血もすでに止まっていた。短刀の刺さっていたあたりに触れてみれば、一筋の線のような感触があるのみ。傷口は塞がっているようだった。
「朽我、気をつけろ! この男も『妖花』だ!」
 蠍の声が、やけにクリアに聞こえる。声に空気が震え、闇に消えてゆくその様すらを、肌で感じられるようだった。
 朽我が、こちらを見るその目に、静かに殺意を込めていくのが分かった。蠍も、完全にこちらに刀の切っ先を向けて構えている。どうやら『妖花』とやらであるらしい自分も、女と同様、彼らにとっては敵となるらしい。……先に踏みこんでくるのは、蠍か、朽我か――あるいは同時か。今の自分なら、そのいずれにも対処できるだろう。
 向かってくるのなら……殺す。
 何の感慨も無く、そう思った。それが、この世の理(ことわり)。ただ、それだけのことだ。
「…………」
 どこを見るともなしに、前方にぼうっと視線を据えたまま、意識を少しだけ、周囲に向ける。
 桜の木々。自分の「登場」を祝福するかのように、満開の花で出迎えたくれた。今は自分の命に従うだろう。そのときを心待ちにしているようにも感じられた。
 本能が理解している。
(ここは、俺の『巣』だ……!)
 片手を高く掲げる。ざわ、と、風も無い中、枝葉が擦れる音が鳴る。桜の木々の「視線」が、自分に集まるのが感じられた。そして――
「散れ……!」
 囁くように、一言。
 刹那。
 あたりが、薄桃色に染まる。それは、夥しい花吹雪。周囲の満開の桜の花が一斉に散り、たちまち花びらが空間を埋め尽くしたのだ。蠍も、朽我も、自分さえも、その色に包まれ、視界を奪われる――だが、花に触れるすべてのものは、今、自分の知覚の中にあった。
 真っ先に動いたのは朽我だった。花びらの舞う向こう側、膝を落とし、体を沈み込ませる――どうやら、こちらに向かって来るつもりらしい。盛り上がる脚の筋肉の動き、呼吸、目線……そのすべてが、その身に触れる花びらを通し、手に取るように『視えて』いた。
 蠍にも動きがあった。腹部が盛り上がり、その口元に向かう空気の流れが起こる。何かを叫ぼうとしている――
「待て、朽我!」
 しかし朽我はその声に間髪を入れず、こちらへの攻撃に移った。大腿、膝、つま先――と力が伝播し、バネが弾けるように地を蹴る。……研ぎ澄まされた今の自分の感覚の前には、そのすべてがスローモーションのように感じられた。
 朽我が駆ける。花びらに邪魔され、その目ではターゲットである自分の影はロクに捉えられていないはずだった。だが、その狙い――花に遮られる直前に見ていたはずのこちらの位置に、正確に攻撃を加えようとしていた。こちらから数歩手前、恐らくは彼の間合いなのであろう地点で、朽我が、バケモノの――「穢粧」の長い首を後ろに引くように、頭をもたげた。同時に、口を開く。噛みつくための、予備動作。
 その動作の頂点、それ以上後ろに引けないところに蛇の頭が到達する、そのタイミングに合わせ、こちらから一歩、踏み込む。力が溢れんばかりに漲ってくる――というような感覚は無かった。ただ、自分の体がどこまでも滑らかに動き、何の抵抗も無く世界に干渉できる――それを、静かに理解していた。
 幾重にもなる花のカーテンを抜け、朽我の姿を目で捉える。不意に眼前に――それも、最悪のタイミングと正確な間合いで現れた相手に、その表情が驚愕に歪むのが見えた。
「ふッ!」
 腰を十分に捻り、朽我の喉――穢粧の今は、どこが正確な喉か分かったものではなかったが、そのあたりをめがけて拳を振り抜く。
 ゴッ
 引いて衝撃を逃がすことはできなかったはずだ。まともに一撃を叩きこんだ感触。手ごたえはあった。
 朽我は、体を縦に回転させながら吹き飛んだ。地面に何度も叩きつけられるように転がってゆき、最後は境内を囲む木の一本に後頭部からぶつかり、止まった。気道か内臓のどこかでも傷つけたのか、激しく吐血しながら痙攣している。呼吸も満足にできないようだった。だが――
(……まだだ)
 きっと致命傷ではない。『化身』の身体――まだそれほど把握できているとは言い難いが、これまでの戦いと、何より今の自分の「本能」が告げる。とどめを刺せと。
 倒れた朽我に、今度はこちらから距離を詰めようと踏み出す。だがもう一人の相手が、みすみすそれを許すようなことは無かった。
「ちッ!」
 舌打ちは前方から。だがそこから音もなく迂回した蠍は、斜め後方から迫っていた。……速さや機敏さは、朽我より蠍の方が数段上のようだ。しかも、花びらが視界を遮る中、それも移動している目標に対し、それなりに正確な間合いとタイミングで一撃を放つ。
 蠍の刀が閃いた。横に薙ぐ斬撃は、視界が悪い中で相手を捉えるには最良の選択だろう。それも、本来であれば死角からになる一撃だ。しかし――その軌道のすべてが、今の自分には「視えて」いた。
 蠍に対し半身を開くようにして、胴を水平に狙ったその一撃を、振り向きもせずにギリギリでかわす。
「――!?」
 驚愕と、絶望の混じった蠍の表情。その刃がほんの僅か届かないとき――それは、相手がかろうじて躱したとき。もしくは――――完全に、見切られたとき。それが今は後者だと、蠍は理解できぬ手合いではないようだった。
 足を止め、空振りした体勢の蠍に身体を向ける。その勢いそのままに腰を回し、回転に拳を乗せるように、蠍の胸元に向かって一直線に打ち抜いた。
「ぐっ――!」
 くぐもった呻き声。拳は確かに蠍を捉えた――それもそのはず、蠍は回避の行動を取ろうとしなかった。代わりに蠍は、拳が当たる直前、両手から刀を手放した。
 何のために? その思考に追い付くのが、一手遅れた。
「――痛ッ!?」
 拳が蠍を捉えた手ごたえと同時、肘から手首にかけて、焼けるような痛みが走る。腕を引こうとする――と、痛みがさらに強烈に増す。
 蠍が、拳を打った腕を抱え込むように、がっちり固定していた。そして、蠍の肩から伸びる、腕とは別のハサミ状の器官――それが、拳を繰り出した腕に突き立てられていた。みるみるうちに、赤い血が溢れだす。皮膚を易々と食い破り、筋繊維に到達する程度には、腕にハサミは食い込んでいた。
「逃げろ、朽我! 俺もすぐに追う!」
 蠍が叫ぶ。まだ倒れていると思った朽我は、すでに立ち上がろうとしていた。回復が、思いのほか早い――だが、それに注意を向けている余裕は無かった。
 ドグッ
 腹部に衝撃が走る。蠍が腹を蹴って両者が反対の方向に吹き飛ぶ。昼のグラウンドと同じ蠍の行動。違うのは、離れ際にハサミの刃で腕の肉を抉られたことだった。
「――ぐッ!」
 血飛沫が舞った。頑丈な化身の体にも、痛みと傷がはっきりと走る。
「……こ、の――ッ」
 距離はそれほど開かなかった。蠍はこちらに背を向け、朽我がいる方とは別の方向に走り出す。ちらりと朽我を見れば、ふらつきながら境内の外に逃げようとしていた。――遠い。両者を一度に追うことはできない。
 受けた傷に痛みはあるが、腕は動く。距離が離れているのは朽我だったが、まだ動きは鈍い。ならば――まずは、蠍を仕留める。そう判断し、蠍を追う。
 手痛い反撃をしてはきたが、打撃によるダメージはやはり残っているのか、蠍の足取りは重い。追い付ける。確信し、脚に力を込める。一歩、二歩――三歩目は、蠍のすぐ後ろ。
 捉えた――――
 思ったそのとき、蠍の体が、視界の下方に消えた。
「――――ッ!?」
 蠍は急停止し、四つん這いのような姿勢で伏せていた。「サソリ」の本来の姿勢に近い。その背を見下ろせば、今までずっと背に張り付けられるように畳まれていた蠍の長い尾が、頭をもたげ神楽木に向いているのが見えた。その先端には、黒光りする針――
背筋を走る悪寒。考えるより早く、無理やりに身を捩り、尾の線上から頭を逃がす。
「うおぉぉぉぉッ」
 ほぼ同時、突き上げられた針が、神楽木の顎のあった位置を唸りを上げて通り過ぎた。
(この野郎――ッ!)
 瞬間、無防備になった蠍の背を踏み抜くように、渾身の力で踵を打ちおろす。
「――がッ……」
 何かが砕けるような鈍い手ごたえ。蠍が大きく身体を逸らせて悶絶する。
 咳き込みながら身体を痙攣させる蠍に、油断なく注意を向けたまま、素早く周囲に目を配る。
(朽我は――)
 その気配は、自分の感覚の及ぶ範囲から消えている。姿も見えない――気づけば、視界はすでに晴れていた。桜の花びらはほとんど地に落ち、わずかな名残が宙に踊るのみ。
(逃がしたか――)
 どうする……追うか? だが、蠍を放置しておくわけにもいかない。
 ドクン――
 いや、俺は何を考えているんだ。蠍はここで殺してしまえば――
 殺す? 今俺は、何を――
 突如、思考が纏まらなくなる。そして――
 ドクン――
 鼓動が、大きく響き出す。それを境に、身体を満たしていた力が急速に抜けてゆく。激しい脱力感。入れ替わりに、悪寒が身体を襲う。
「な……なん、だ……」
 たちまちに、立っていられなくなる。たまらずその場に膝と手を付くと、悪寒はすぐに吐き気を伴った。内臓を全部裏返しにされたような、抗いようのない不快感。心臓がドクドクと、尋常じゃない速度で動悸する。汗が、噴き出した。
 喉のすぐ下のあたりまで、不快な何かがこみ上げる。それを吐きだすのを必死に堪えながら、すぐ横にいる蠍を見る。この状態でもしかかってこられたら――
 思った矢先、突然、蠍の体が不自然な角度で跳ねあがって視界から消えた。
「……仕方のない子ね」
 冷水のような声は、這いつくばった体勢の頭上から唐突に浴びせられた。
 声の主が誰かは、確認するまでもない。先刻までこの場にいた、化身の女だ。……自分の、首を切った女。
「お、ま――」
 止まない吐き気を無理やり押しのけ、それだけを絞り出す。顔を睨みつけてもやりたかったが、それは出来なかった。振り仰ぐための力すら、入らない。
「もう少し、力を使えるかと思ったのだけれど……」
 小さな嘆息とともに、女が言う。失望したような、それでいて何か面白がるようなその声。それにさらに怒りを覚えるも、今の自分には何もできない。
 せめてもと、視界にかろうじて映るその足を精一杯睨みつける。その足は、地面に絨毯のように敷かれた花びらの上を、緩やかに歩いていった。
「さて……」
 境内の端のあたりでその足が止まる。女の前には、境内を囲む桜の木々。
「……少し、訊きたいことがあるの」
 女の声は、明らかに自分に向けられたものではなかった。しかしそれへの返答は無い。女の近く、その正面のあたりから、ぎり、と、歯を食いしばる音だけが耳に届いた。
「この子が化身になったことを、どうやって知ったの?」
 変わらず、返事は無い。
 訪れた沈黙の中で、少しずつだが吐き気が収まっていく。何とか顔を上げると、こちらに背を向けている女と、それに向き合うように桜の木に拘束された蠍の姿が目に入った。蠍は、螺旋に伸びた枝で木に磔にされていた。一目見ただけで、強烈な力で絞め上げられていることは知れた。見ているだけで自分の身体が軋みそうなほどに。
「忌まわしい……妖花め」
 やがて、蠍が声を絞り出した。質問に対する返答ではなかったが。
「…………」
 女は、何も言わず、反応らしいものも見せていない。その表情は……見えない。
「貴様に……安息の――地など、ある、と、思うな……!」
 皮肉気に唇の端を吊り上げながら、蠍が言葉を続けた。直後に、激しく咳き込む。酸素が行き届いていないのか、顔も紅潮していた。
「安息? ……そんなもの、ただの一度たりとも望んだことは無いわ」
 そして、一時の沈黙。やがて女は再び問うた。
「……あなた、私たち以外の『妖花』に逢ったことがあって?」
「…………」
 蠍は、これにも答えない。代わりに、唇の端をさらに吊り上げ、女に歪んだ笑み投げた――ように、神楽木には見えた。そして――
「……ごぶッ」
 血の塊を、吐き出す。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。蠍の顔は呆けたような表情になったかと思うと、支えの糸を失った人形のように、その首がかくんと折れる。
「……え?」
「……ふん。自決、か」
 女はつまらなそうに呟くと、神楽木を振り返りながら、告げた。
「燎一……よく、憶えておきなさいな。化身は決して不死身ではないの……」
 そこで一旦言葉を区切る。目を細め、言い聞かせるように神楽木の目を覗き込みながら、小首を傾げるような仕草とともに、続ける。
「死ぬときは死ぬのよ……こんな風にね」
 そう女が語るそばから、蠍の体は、さらさらと、砂のように崩れてゆく――――
「え――――」
 塵――見間違いかと目を凝らす先、蠍の身体は間違い無く、塵と化していた。ほどなく、二つ三つの息をするほどの間に、その身体のすべては塵となり、虚空に消えた……。
「死ん、だ……のか……?」
 間の抜けた問いであることは、分かっていた。人の――人と呼んでよいのか未だに分からないが、それでも、人の、死。頭では理解していたはずの概念。それが今、現実に起こったことなのだと、その事実がじわりと胸に湧き上がる。
「死んだ……」
 同時に、ついさっきまで蠍たちと戦闘していた自分を思う。
(俺は、何をしていた……?)
 戦闘――正確に言えば、殺し合い、だった。化身の二人は殺すつもりで自分に襲いかかり、自分もまた殺すつもりで相対した。何かに憑かれていたような自分――だが、拳や足には、相手を打ったその感触が今も残っている。明確に殺意を持って打った、その感触――
(そんな、俺は――)
 見下ろす自分の手は――血に濡れてなどいない。見知らぬバケモノのものでもない、よく知った自分の手だった。いつも見る自分の手。この手で、自分は蠍たちを殺そうとしたのだ。その事実に、今さらながら恐怖を覚える。
 不可抗力だった――それに、蠍にとどめを刺したのは、自分ではない。自殺か、そうでなくとも女がやったことだ――誰に問い詰められたわけでもないのに、言い訳じみた言葉が次々と頭をよぎる。だが、必ずそれらと同時にやってくる、ぬぐい切れない罪悪感――
 と、不意に、呆然と見つめる先にある自分の手に、それとは別の白い手が添えられた。
 ビクッと、情けないほど大仰に体が震える。並んだ二人の手を見て、初めて自分の手が震えていたことに気づく。白い手の元を見上げれば、女の顔があった。
「…………」
 女は、相変わらず涼しげな顔。なぜか、その薄い微笑みと、触れる手の冷たさが、今はほんの少しだけ心を落ち着かせた。
「蠍は……」
 震える声で、言いかける。何を言おうとしていたのか、自分でも分からなかった。
「……私たちはね、他の化身と共には生きていけないの」
 女は、諭すように、そう告げた。
「お前も、自分を守れるようになりなさい」
 自分を守る。それは、言いかえれば、他の化身を――
「生きたいと……望んだのでしょう」
「お、俺は…………」
 そう、確かに昨夜、初めてこの女と逢った夜、そう願った。その思いは、今も変わっていない。
 相手が自分を殺しにかかってくるなら、自分の身は守らなければならない。
 原始的で、本能的な生への欲求。人の法も及ばない世界で生きるこの化身たちには、それが当たり前なのかもしれない。
(だけど……だけど、俺は――)
 まだ力の入らない体を動かし、蠍が拘束されていた木の元に移動する。蠍の姿は……もう、無いが。
「…………」
 最後に蠍の姿があった空間に向かい、静かに手を合わせる。女は何も言わなかった。
 蠍は、その胸に何を秘めていたのだろうか。今となってはそれを知る術も無い。ただ、彼の無念だけが、虚空と、自分の胸とに残る。
 合掌を解くころ、もう一つ、懸念しなければならないことを思い出していた。
「朽我――もう一人の化身は……」
 自分たちを殺しにかかってきた、もう一人の存在。どう対処するかはともかくとして、女と、そして自分に迫る重大な危機は、完全に消えたわけではないはずだった。
「逃げたようよ」
 しかしあっさりと、女が告げる。……正直、最も予想していなかった答えだった。
 女を前にしたときの朽我の様子を思えば、このまま大人しく引き下がることは無いと思っていいだろう。必ず自分たちを殺しに来る――女も、それはわかっているはずだった。怪我をしてはいたが、致命傷だったとも思えない。というか現に、この場から逃げおおせる程度には、すでに回復していたのだ。
 この女なら――手負いだった朽我を仕留めることは、簡単にできたのではないか? だとすれば、逃げたというより「逃がした」ということになる。なぜみすみす見逃したのか。それとも、自分と蠍の戦闘に気を取られていたとでも言うのだろうか……。
「……どうして」
 そのまま、疑問を口に出す。女は少しの間を空け、目をすうっと細めながら、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「……あれではもう、長くは無い」
「……どうして、そう言える?」
 しかし、女はそれには答えなかった。
「……燎一。気が向いたら、またいらっしゃいな。今日は、ゆっくりとお休み……」
 静かに微笑みを浮かべ、こちらの胸に手のひらを軽く触れさせる。
「何を――」
 言いかける端から、身体に奇妙な浮遊感が訪れた。手を見下ろせば、その端から桜の花びらになって、ひらひらと舞っている。
「え――」
 慌てて女を見る。狼狽(うろた)える自分の様子が可笑しかったのか、袖を口元に当て、くすくすと笑っていた。
「お、お前――う、うわ――」
 花びらへの変化は、すぐに手先から腕を登り、頭部にまで達した。笑う女の表情を瞼に残し、視界がブラックアウトし――――
「うわぁぁぁぁ――……ああ、れ?」
 視界が回復するまでの時間は――実際にはどのくらいの時間だったのかは分からないが、体感では一瞬だった。目に飛び込んできたのは、今しがた見ていたものとは全く違う、ただし、見覚えのある景色。
 目の前には木々がまばらに生え、その向こうに、開けた広い場所――田んぼが広がっている。どこかからともなく聞こえる、流れる水音。そして遠く、街の灯――
 混乱する頭を振るように、背後を見る。階段が、あった。鬱蒼とした、すでに真っ暗になっている山の中に割り入っていくような階段。
「ここは……神社に続く、入り口……」
 今までいた神社の廃墟のような場所。それがある山の入り口に、立っていた。
「…………」
 あの女がやったのだろう。何から何まで……自分の、理解を越えたことばかりだった。
 しばし佇んでいると、徐々にあたりに虫の声が響き出す。それを聞きながら、ようやく、今日という日が終わりつつあることを知った……。
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