老友ふじさわ

(1)第20号昭和50年3月1日 発行所藤  沢  市老人タラブ連合会社会福祉協議会(市9mに) 印刷所三  光  堂 「むかしはよかった」という、としよりの口ぐせが、つい出てしまうことになる。 江戸時代から、わたくしたちの祖先は、老年が人生でもっとも楽しいような生き方をし、老人が権威をもつような風習をつくりあげた。 落語に出てくるご隠居さんの咄ですら、そのあたりの事情を、よくものがたっている。 八つぁんや、熊さんは、ご隠居さんの年弱をねらって遊びにやってくるが、そのざっくばらんなやりとりのうらに、あったかいこころのかよい合いが、しみじみ感じられる。 敗戦は、ながい間の、わたくしたちの風習をくつがえした。 戦後の改革は、もっぱら日常生活に関するところが多く、家族制度がこわれたり、若い人の言い分がとおるようになった。 日常生活にうもれて生きている一般市民である老人は、この風習の変化をもろにかぶることになってしまった。 夫を戦争でなくし、死ぬ思いで育てた子どもに、いまはほっておかれる母親。 戦後の苦しい生活の中で子どもを大学にやって一人前にしたのに、いまは時代が変わりましたからと、息子にうモぶかれている父親。 たしかに時代は変わった。 時代が変わったのだから変わったように生きよう。 古いタイプの権威にかじりついて失地回復をはかるのでなぐ、新しい市民の権利として、平等の立場から老人の生きる権利を求めていこう。 こんなことを考えていたら、窓の下で、「チ、チ、チ、チ……」と鳴いた。 幼い加わいい声である。 うすべにの苔をふくらませはじめた草木瓜のあたりであろうか。一一一一一一一一一一一一 梅がほころび、笹鳴きが聞かれる季節になった。 といっても、そうした情趣にたっぷり浸れるというわけにはいか|||!|郎次 鴫 き藤沢市老人クラブ連合会  会長神埼長‥一一一一笹ない。 汚染だの、騒音だのと、ほのぼのとした早春の気分などとはおよそ縁のないものがはばをきかしているからである。 節分になれ・ ば、むかしの節‐‐‐一 分の目の夕ぐれ をI 初午がくれば、むかしのお稲荷さんの庭の目だまりを1 ただ、とおく思い出してはなつかしむばかりである。 そこで第20号(2)

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昭和50年3月1日会歌によ せ て松寿会乗合長 中 根 々ヘ  ヨ 松寿会が生まれまして今年で十 とうございました。二年になりました。生みの親の三輪梅三郎氏の温い御心使いで発会当時からすくノヘと育て参りましたが三年目から氏の後を私がお引受けしていつか十年を過ぎてしまいました。幸な事に会計の小島しげよさんは創立当時からの会計でもあり実に至れりつくせりのお働きを会のためにして下さいますのと他の役員の方々も自分の事として御協力下さいますので本当によい会に育って嬉しく思います。会の内容や行事の事はこの度小島さんが作詩して下さいました会歌の中に充分含まれて居りますので皆様方に御披露中しあげます。なお私事になりますがこの度市連合会長及び県連合会長から永年勤続会長として表彰して頂きました事は身に余る光栄と感謝致しております。これも偏に市当局の方々のご指導と会員皆様方の御厚意の賜物と厚くお礼中しあげたくこの紙上を拝借させて頂きました。おりが 松寿会々歌    鵠沼桧寿台東   作詞小鴫志げよ        (炭坑節の曲)0桧のみどりのさわやかに 波の音ぎき育ちし我等 春夏秋冬温暖で 年より若きはそのせいよ        サノョイく・巻と秋にはバスの旅 ョイく バスの中では歌が出て 子供にかえって笑い合い 腰のいたさも忘れます          サノョイく・匠の島弁天近く見て ョイく 桜吹雪の散る町よ あねさんかぶりの会員が 奉仕に一日ささげます         サノョイョイ白月の例会待ちどおし ョイく 元気はつらつ若やいで 歌やおどりで手をとりて 楽しくすごそう桧寿会         サノョイ/へ            おわり庭球と夫婦生活   鵠沼松寿台東 片 山 藤 樹 私は若いころ、自分の体力づくりに、ひところ、庭球に凝ったことがある。 短かい経験だから、あまり大きなことは言えないが、ご存じのようにテニスには、シソダルとダブルスがあるが、凡そ、その人の個性が、そのままプレイに出るのはシングルであろう、敵味方はともに一人なのだから、自己の判断で、どう走ろうと打ち返そうといいからだ。 ところが、ダブルスとなるとそうはいかない、もう一人の味方がつくんだ、それはあくまで味方同志であり、二人が力をあわせなければ勝つどころか打ち介うことすら出来なくなる、ところが力を合せるということは、互いの持てる力をフルに出し合うことではなく、むしろ、力をわざと殺して使うことすらある。ダブルスのコツは、敵の動きと共に 絶えずパアトナアーの動きを見、それを補うように、動かねばならない、かと言って、その彼我の結合が攻守の行動に、「相互関係」、を意識したとしたら、たちまちモのペアの球筋は乱れてしまう、つまりもう一人の味方は自分のためにいるパアトナアーではなく、むしろ、相手のためのパアトナアーとして自分はいるのだと、宣ハから思い込むこと、これがプレーの要締であり、ダブルスの妙味でもあろう。 その頃のある目、私は、女性とダブルスを組み合った試合に出たことがあるが、そのとき私は本当のテェスの素晴しさを感得したことを忘れない。私はこの試合で、敵の組んだ女性は落着きはらってガンガソ打ち込んでくるのに、私と組んだ彼女はスッカリあがってしまい、たじたじで困ったが、そんなとき私は、プレーに対する斗志よりも、まづ彼女のパアトナアーとして、彼女の打ちやすいよう、守りやすいよう肖ハーし、たとい彼女の打球やフットワークに乱れがあっても気にしないで、彼女の硯さをほぐさせ、終始のびやかにゲームを遅んだことで、試合が終って、お茶を呑んだとき、勝敗を神  `’     `y   `’ 別前                 にの                 し誓                 てい                   `プレエヤアーとして の、私の態度に、み んだから魚鼓のよう な拍手を送られたこ とであった。  私達の、夫婦生活 の上にもこうしたこ とが言えるのではな かろうか、お互いにもあらたに、縁あってダブルスを組んだ以上、そこにはシングルのとぎとはちがった、相共に選んだ人生の伴侶としての、温かい愛情と協力によって、妻のために夫は、毅然たるプレエヤアーとして、また、夫のために妻は、より良きパアトナアーとして、私が在るんだと思い合うことによってこそ無限大の倖せが生れるものだと言えよう。

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第20号(3)昭和50年3月上目私 の人 生片瀬わかやぎ会 佐 このたびI-福寿のひろば」の回覧を拝見させて頂き、若い方々、老人の方々のいろくのお話しとか、作文、短歌等も読み本当に私の今後の生活に活用させて頂くことができますことを心から嬉しく存じます。 つきまして平凡な私の人生の経験の中で少しでも皆様のご参考に 過ぎにし九月六日敬老の祝日に先きかけて吾が老人クラブ(若竹白)では、地域腕白の母親クラブの愛情こもれる敬老の催しに招かれ一同感激いたしました。 先ず小さいお子様方の御案内によりまして、(ジャパソライソ)の会場に導かれ、母子一体となりてのお出迎えを受け、午前十時よりの開会で幼稚園から中学までのお子様方(みどり子供会)の、よくそろった器楽の合奏に始まり、小学生のお嬢様の、お琴による六没のしらべや、日本舞踊の藤浪、男子の寸劇、全児童の合唱と時のたつうちに昼食となり、クラブのお母様方の腕によりをかけられての、ちらし寿しの折詰や、お吸物に加えて果物のデザートまで、実に、お心のこもりしおもてなし、藤  キミなればと思いペソを執りました。 私は福島県の片田舎に生まれ二十才にて結婚し、二男、四女の子供をもった老人です。十年前夫は亡くなり、その後は長男と同居しております。現在の住所行熊山には昭和四十七年八月より住んでおります。 結婚後は福島市で主人と二人でr~////z~f//7ZgSz~/////~4Sf/////~J~Z///zzsy~/i\又お菓子は老人向含にとて習い覚えられた、玄人もハダシの立派な和菓子で、その一つ/Åに暖かい心がこもり、一同深く感喜させられました、午後はお母様方と老人が手を取り合ってできるゲームや合唱など、実に含め細かな番組を組んで頂き、老人遠水若返り、し商業を営み、使用人は全然使わず小さな店を持ち二人で頑張ってまいり、六大の子供を育て上げました。財産も何も無く本当の自力で毎日の生活を営んでおりました。 主人も私も恥かしい話ですが、浅学ですので、せめて子供だけには何とか人様のまね位はさせたいと思っており、少し大胆な理想とは思いましたが東京か仙台に出し教育を受けさせたいと思い、心の中で夢のような希望を持って毎日を励んでおりました。 長女はちょっと早目でしたが満し下さいましたよし、誠に尊いの心持ちで、このすさみかけた世の中を身をもって子孫に伝えたいとの御希望を伺い嬉しく存じ、私達老人も今後折の有ります度に老若、手を取り合って少しづつでも親睦の輪を広げ明るい世界に一歩づつ前進して頂‘くよう、お願いし、   定刻の二時となりましたの   で一同大満足、感激にひた   りながら、画会具に見送ら敬老会にことよせて  鵠沼若竹会 草 場 花 綾れて家路に向いました。 まわらぬ筆をもってこの様な明るい世界を目ざして前進せられます立派な母親クラブの有りますことを、御披露し今後少しでも多くの方々に、共に手をつないで助け合い親睦の翰を広げていただきたいことを念じつつ拙ぎ筆を措きます。 和をつなぎ一歩/へと大きな輪  共にきずかん明るい御代をばし時の立ちますのも忘れて打ち興じました。この母親クラブの会員達はみどり子供会を作られ、母親クラブとみどり子供会の合体で、お催し下され、趣旨としては一人でも多くの人達と睦み合う心持ちの輪を広げたいお考えのもとに、この様な愛情こもれる会を催ナ八才で結婚させ東京に住みましたので、長女の家へ長男と二女の二人を下宿に頼み身のまわりの世話をして貰いましたので費用も割合少くて望みをかなえる事ができました。その後次々に子供が太きくなるにつけ、どうしようと思っていた矢先、太平洋戦争となり、子供は勉学を一時中止と言う破目になり、お先ぎ真暗となりましたが、当時は戦争で主人や、息子を亡くされた方が多いのに我家では丁人も失いませんで本当に仕合せだと思っております。 終戦後の食糧不足の折には随分苦労しましたが、私も若かったので強く、何とか凌げたので肋かりました。何もかも不足の時代で、それに商売も思うようではなく、育ち盛りの六大の子供をかかえ無我夢中でした、子供達を一人前にするまでは自分を犠牲にするよりほかに途はないと思い、人様の真似は子供を仕上げてからと、自分に言い聞かせ晴れて、その日の到来を夢みて日夜精励して、漸やく何とか夢をかなえることがでぎ、どなた様に褒めて頂かなくとも、自分だけで満足しております、子供達には財産は何一つ与えることはできませんでしたが、ただ身につけた教育だけで満足して巣立ってくれましたので喜んでおります。 私達夫婦は自分の宗のことだけで精一杯で、何も社会には役立つことはできませんでしたが、六人の子供を世に送り出したことで、その償いをさせてもらったと思っております。 神奈川県民となり、藤沢市民となったことは、私にとってほんとうに良かったといまさら深く感謝していると同時に本県及び藤沢市が他に先駆けて老人福祉に努力下さることを皆様とともに有難く思っております。 私は子供達に親孝行をするよう望んでおりませんが、それぐの子供が、旅行に誘ってくれ、各地を見物させて貰っております。 又昨年秋にはわかやぎ會が発足し、入会させて頂きまして急に私の身辺も広くなり、また会長さんのお計らいで、次々といろノÅの場所を見学して何かと得ることができ、また良いお友達もでき、毎日がますます楽しくなりました。 私は子供全部を仕上げるまで四十年かかり、その後六年間主人と二人暮らし、最早人生の九五八Iセソトは過ぎ、残り五八Iセソトがほんとうの自分の人生ですので精々身体に注意して、自分の自由計画として一日も無駄にせず、何か社会のためお役にたちたいと張りきっております。第20号(4)

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日昭和50年3月1思い出すまゝ (勇気ある方たち)  松寿会東   廻 神  清 もうだいぶ前のことでございますが、鵠沼松が岡の方が、藤沢駅のベンチの上に土足で上っている人に注意をなされた記事を読んだことがございますが、注意をしなくてはならないようなことはたくさんありますが、なかなかできないものです。 いつも通勤の時ごI緒になるある社長さんは、腰の低いやさしい方でございますが、目にあまる行為に対しては、ハッキリと注意をなされます。 私などはそんな場合でも、それをのがれて通してしまいます。よいことをするにはよほど勇気が必要なものです。 新聞である女流作家の「女性の目」というところで、その中に混んだ電車に小学生低学年らしい男の子が、おけいこの行きかかえりか、バイオリンのケースを横にさげて入って来た、あちらにぶつけ、こちらにぶつかりして、おとなはその子に遠慮してよけてやるよう 場など、スイガラやその他でだいにするが、その子は平気でふるま ぶ汚れて居ることです。い、そのひとにもぶつけて来た、  時には掃除されていることもごそれでその人は、平手でその子の ざいますが、よごれる方が早いの頭をピチャソぃぐ.、ヽ『’/{..ヽ・―”..'/',yV"'1Sj。・’xj『”.'/',『・./―.、・・‘jで、いつも汚          心                   りμと打った。 ( J. n          lれっぱなしのそれでその`子はケースを縦にして、身をかがめるようにしてだきかかえ、その人の方を見たのでニコツとして見かえしてやった。 AnJc5‘rlノわけです。近頃一般社会では、他人の子供に対してまで、躾けとして、叱るというような、モ俳 句遠藤楽生会 青 木 芳 春行くほどに母の里なりたんぽ咲く○信の名もなき賀状二三枚号重ね来て卯の春をむかえけり十年を経て盆樹の花盛り二十号読み更かしけり春灯下沢ふかきまで春の陽がこぼれ落つ藤芽ぐみ来てよく浮かぶ他の鯉友だちに誘はれて立つ春の旅老ひてなほ夢は捨てまじ明の春祝はゞやしっかり歩む雛の主`ような感じが)いたします。″それでこれはヘー人ではたいへんなことだから、どこかの団体にでもお願いしてみようかなとも考えてみました。 ある日曜日の朝そこを迎りますと、二心十人ぐらいの             J方たちが清掃ヘ:j~j’ INr¥“rt7ぺをなさって居⑧万万よよな。よにツにんだ風潮はと’心‘いづい`いパづづにバ心こんと見られなくなりました。 それから朝の通勤の時にいつも感ずることですが、江の電から国鉄に至る陸橋の上や階段それに広たら侠成会の方たちで、天理教、PL教団の方たちもなさっているらしいとかで、いままではキレイになった時どなたがなさったのかも考えず、しょっちゅう汚れていてしようがないとぼやくぐらいのことで、いくじなしで誠におはずかしい次第でございます。 この勇気ある方たちのマネをしたり、参加させていただくこともなかなかできにくいもので、この方たちに感謝の気持を、外野から声援を送るということにもとうてい及びませんが書かせていただきました。㈲」半円行東親和会  小泉敵前 三月二十三日朝五時起床、孫、ひこ五人で新幹線で正午岡山に着く、岡山城は藩主池田綱政が慶長十一年、宇喜多秀家に命じて築城させたもので、建物の外側を黒板を張りめぐらしたので、為に鳥城又は金鳥城とも言う。後楽園は江戸初期の文化財で当初の姿を今に伝えている、備前藩の御庭園で、日本三名園の一つである、貞享三年藩主池田綱政が家臣津田永忠に命じて築園させ 十四年の歳月を費して元禄十三年に完成した。小堀は遠洲の流れをくむ廻遺式庭園である。岡山城はその美しい姿を旭川の川面に写している。白壁土蔵造りの考古館は倉敷何の両面にその情ちょの一番よくただよう処であった、考古館は吉備地方で出土した縄文式、弥生沢の石器、古墳時代の遺物、石棺、はにわ、墓記、加わら、刀剣など陳列してある。石上の石段には閉口した。王子岳で岡山市を一望できる。ロープウェイで下り、石山国際ホテルに宿る。翌朝八時にハイヤーで最上稲荷に詣り見物する、この稲荷は伏見稲荷、豊川稲荷と日本三大稲荷の一つである。国宝の桧皮葺比翼入母屋造りの吉催津神社、室町時代の画僧官舟が小僧時代を過した寺として有名な宝福寺、備中国分寺を見学して帰途に着く。昭和50年3月1日

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第20号(5)詩 辻堂富士見丘クラブ   西田きみ鈴虫さんましょうねo可哀想な鈴虫さん! あなたは死んでも、わたしの心に今も生きています。 ○金扇白桃の胴   (明治百年の唄の節にて)   遠藤楽生会     青木 ス゛へ日明治生れで 大正夫婦鈴虫の声がとうく消えてしまい  昭和初めは世も平和ました               子供かずく生んで育てた 十月二十四日          親の役目も五十年きれいな声はとうくきこえなく  今じゃ社会の人となるなりました           ・雨も降ったよ嵐も吹いたあわれな鈴虫さん はかない命   泣いて明した夜もあったでしたね              あの日あの時共に手を取り鈴虫さん本当にきれいな声でよく  あつい涙で耐えて来た鳴いてくれましたね、そしてわた  夫婦五十年山と谷しを慰めてくれましたね。    臼昭和元禄時代は変わる忘れません!・ 本当にありがとう  親子孫ひこゆづり来てお礼をいxます          爺とばxとは出来る仕事を鈴虫さんの命日は十月二十四目ね  共に達者で助け合いお花をあげ、お線香をたてxあげ  あすの希望に夢を持ち村岡老人クラブ連合会歌    川名喜楽会     豊島北龍一、村岡よいとこ湘南地区の   藤沢市内の東南部  ここに六つの老人クラブ   みんな明るい気持を持って  いつも心は朗らかに   その日くる目を楽しみ合っ   て  家庭は平和でクラブも平和   四百余名近い男女の集い  大きな仲間で喜こび合って   生きがい求める同志たち  明治大正昭和へと 川名老人タラブ会厭    川名喜楽会      豊島北朧川名よいとこ来て見ておくれ  川山耕地の自然あり高い丘には氏神の  御霊神社が鎮座され住民福祉の向上を  御守護下さる有難さここに老人クラブがあって  八十近い会員がみんな朗らか心も豊か  その目をくる目を楽しみ合っ  て明治の青年元気のよさが三代つくした美徳のがらを   それが長寿の秘訣であってまいて残そう明治の青年 これが社会へ意義ある奉仕やがて神にも仏にも なって福祉の村岡をつくってあげたいま心が 順に胸にIぱいだこれが村岡老人クラブ 連合会の精神だ明治大正昭和へと  三代つくした尊い美作若い人々も交流はかり  家庭を平和に楽しむ場所と生きがいつくる老人クラブ  この意に協力同志によって大正青年この意味さとり  正しき理解と立派な心美花を手に待ち入会されて  共に喜こぶ楽しいクラブみんなの力で大きく育て  あすといわずに今日からに川名老人大学クラブ  これがクラブのなすべき使命みんな仲よく元気を出して  長いぎしながら社会のために奉仕活勤よろこび合って  まことの美徳をつとめましょここは川名の老人クラブ川柳   亀井野亀楽会 瀬戸重之   むかしあこが おび○恍惚に往時憧れ今怯え○五十年御世話を掛けた今さらば○黄泉でも気を付けて行け一人路○蓮の台半座を分けて吾を待て○香住いて叱った妻に掌を合せ   辻堂互楽会 馬場徳治○夏ひるね畳の上に大の宇なり第20号(6)

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日昭和50年3月i天ぷら 若い歌手麻丘めぐみさんのヒット曲私の彼は左ききの唄で思い出したが私は別の意味で残念ながら左党ではない全くの下戸で体質的なものであろうかアルコールには絶対的に弱いのである、従って食気一途で中でも好物の一つに天ぷらかおる。 欧米人が来日して、先づ興味をもつもの 第一は何といってもフジヤマ、男性なればゲイシャガールで次は男女共に日本のスキヤキと天ぷらであるといわれているのである。これ程有名な天ぷらは日本古来よりの日本独特の伝統的な料理であるとのみ思い込んでいたのだがそれが全く意外にも外来のものであると、ものの本に書いてあったのに只々唖然とした次第である。 さて天ぷらの語源や起源には多くの説かおるようだがその主なものを拾って見ると、ポルトガル語9M Tempero(テソペロ)といいそれはシーズングつまり調理の談議美 夢 跡 酔 歩味つけという意味を持つことで、亦スペイソ語でM Templo(テソポラ)このテソポラは寺院とか金曜日の祭日等と多分に宗数的な意味あると記されている。 ポルトガル語のテソペロがいつの間にか天ぷらになったものか亦スペイソから長崎に伝わった頃キリシタンの肉を食べてはいけない金曜日に肉にかわって魚を油で揚げた料理をご馳走されたものであった、そこで日本人がこれはお寺の料理と判断してスペイソ語のテソポラが天ぷらになったとも記るされている。これを見ると日本人が野菜を揚げたものを精進揚と呼んでいるのもウナヅケるのである。 尚別の辞書によるとメッキの指輪をテソプラ指輪、特にニセ学生をテソプラ学生と称している、これ等は中身を包むコロモの花の美しさを表現したものであるが何となく後味の悪い表現である。 外来人の好む天ぷらに妓んでスキヤキも亦日本の代表的なものであるが、このスキヤキの語源が亦非常に面白いものである、当初外人が渡米した時鉄板の上でビーフステーキを作ったのを見た日本人がこれを作るのに一工夫した結果農具の鋤を火の上で焼きその上で牛肉を焼いたことからスキヤキの名称が生れたと言い伝えられ、モの後日本入試に調理工夫され現在のスキヤキが生れ欧米人の間で賞味されているとは全く奇妙な関係y.旧でもある。そのスキヤキの牛肉は百グラム三百円以上とは滅多に口にすることが出来ないとは誠に情けない隈々である。 さて天ぷらの王者は何といっても海老の天ぷらであると思う、特に日本近海で捕れる車海老の天ぷらの味は絶対的なものであるが現在街の飲食店等で食べさせてくれるものの大半以上が遠洋漁業で捕った大正海老又はメキシコ海老で然かも冷凍のもので日本近海の新鮮な車海老が持つ磯の香りと何ともいえぬ甘味のあるものとは全く比較にならないものである。この車海老の漁場も海の汚染等でその漁獲量は過去の比ではなく日と共も減少従って庶民のロには入り兼ねる高価な存在とはたってしまったのである。 私はこの車海老の天ぷらで苦汁をナメだことがある、それは今から四十七八年往訪で当時私は二十六才往であったと思う、仙台に旅した時のことで仙台の公開近くの道路に軒を笠べた露唐沢の天ぷら呈の店が各店共魚天ぷらIケ五銭也の看板が出ていたので食意地の張った私は一軒の店に飛込み早速海老天を注文した、この時の車海老の天ぷらの味は今でもよく覚えて居る、咬みしめた瞬間ローぱいに広がった車海老独特の何ともいえぬ甘味に酔ったのかのように知らずくの内に五木を平げいざ勘定のとき魚の天ぷらが五絃であるから海老の場合は十銭往と腹勘定をしていたら一円二十五銭即ち一匹二十五絃也の請求を受け全く仰天した次第である何故かなれば私が泊った仙台駅近くの佐々木旅館の宿泊料が一泊二食付きで一円五十銭だったのに対して僅かな立吹いで一円二十五銭也を支払わされたことは当時の私には相当な痛手であったことは笑えぬ事実だったのだ。 何といっても天ぷらの味は種は素より揚げ油と共に天汁が重要なものである 私も一応は東京の有名店を始め関西地方の天ぷら屋の軒をくぐったが夫れくの持味があり大変美味く喰わせて呉れた、吾が藤沢でも他に負けない店が沢山ある。 私はある天ぷら職人さんが作業して居る姿を見たときその人は揚げる天ぷらの種を指でつまんで煮立った油の中に指先毎入れて平気で居るのを見て驚いた私はその人に尋ねた、修練すれば煮立った油の中に指を入れても平気なのかと聞くとその人は笑いながらこの指先には天ぷらのコロモが付着て居るので火傷しないのであると説明されて或る程と合点したのである。 ところで東京方面の老舗等の看板に天ぷらと笠んで金ぷらと記るされたのを見かけたが実は私はこの金ぷらは何であるか全く知らなかったのであるが最近ある本で金日昭和50年3月1

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第20号(7)ぷらとは椿油で揚げたものを金ぷらと称すると記るされその上天ぷらの揚げ油では椿油が最高のものだと説明されていたのである、この記事を見た私はこの椿油で揚げた天ぷらを喰ったことを思い出したのである、それは私が確か中学二年生位の時で長崎県の対馬に旅したとき友達の家で椿油で炒めたヒジキの炊き込み飯と対馬特産の椿油で揚げた天ぷらのご馳走になったことを思い出したが何の天ぷらであったか、どんな味であったかは全く覚えていないが椿油で揚げた金ぷらを朧ったことは間違いのない事実である。この文章を書きながら金ぷらの床をいま一度この舌で試したいと思うが果して純粋の椿油で揚げる店があるのか例え有っても定めし高価であろうから現在の私には舌の届かない高嶺の花としてアキラメルことにした。 今から十二年位前迄石上の江の電線浩治に小さな天ぷら屋さんがあった読者の中にはご存知の方も居られることと思うが、非常訃味くて亦大変安いので有名であったので私はよく通ったものである。ある日天ぷらの大変お好きな前金子市長さんにこの店の話をしてご案内申上げ大変喜んで頂き逆にご馳走になった、亦元総理片山哲先生の夫人その他多くの知名人をご案内していづれも喜ばれた思出がある。この天ぷら屋さんも今は藤沢から茨城方面に移ったと伝え聞いたがこの天ぷら屋さんについてもう一つの思出があるそれは昭和三十六年私が市役所を停年退職した時在職中大変お世話になった当時の金子市長さんご夫妻と私が奉職当初証人になって呉れた現商工会議所会頭兼子一郎氏竣に常州会館の設立者池m進氏を厚顔敷くも茅屋にお招き申し上げ前記天ぷら屋の主人の出張を求めお座敷天ぷらの会を催し大変喜んで頂いたことは私と天ぷらのツナガリを持つ最高の思出であった。 この天ぷら屋の主人から天汁の作り方の=ツを伝授されたのでご披露申上げるそれは正油一、八リットル約一升に床淋〇、三六リットル約二合と砂糖六〇〇グラム約百五十匁を煮立て保存しダシ汁を適当に薄めて使用すればよいとのことで尚この天汁の素は前記スキヤキの味付亦魚や野菜等の煮物用に利用出来るので大変重宝なもので特にそば汁や冷むぎ、うどん等に利用したが誠に便利なものであるそこで皆さんのご家庭でもお嫁さん等に教えて頂けば私が天ぷら談議を書いたことも万更無駄ではなかろうと自からを慰めている次第である。人間の魂片瀬紅葉会  飯塚あt 最近の話題といえば 超能力とか、霊魂の有無とかいろくと人間社会には訳の分らない事が多く話の種になっている様です。 人間によらず 有りとあらゆる物体、生ある物は必ず滅すという事は庄でも知っている事でしょう。然し人生の限度はモの限りにあらずという事でしょうか。 霊魂、この世にとどまりて 生き代り、死に代り、などいう台詞も聞きますが。死者は昔は土葬でした。今は灰になります。骨もかさかさになり小さいつぼに入れられて土中に埋まります。土葬ならば魂も一しょに埋まるという事も考えられますが、火葬では何か割り切れません。魂という物は想像のものなのと思いますが、死して魂は天国、或は極楽そして落伍者は地獄に落ちると定まっておりますが 千万、億万年の昔から、生れて死して魂が天国か地獄に行くならば、大変な満員になった事でしょう、天の隅からはみ出て落ちると思います。 今の目本の生活所ではない様な気がします押し合い、うごめき、我れ勝に 仏様、神様のそば近くへと争っているのではないでしょうか。 この世の生活の延長の様に魂になっても魂同志争っているのではないでしょうか。 人間誰でも 天国極楽と良い所へと望んんでいるのは当然の事と思います。我が魂の行く所が尚いつまでも さまようているのかと思いますと、死んで魂の行く所もないと思わざるを得ません。事実我が魂もあるのなら、その行くべき所の安定を望んでおhソますが、いまだに 霊魂の有無について、学者方の論説にはっきりした確答が得られておりません。 目で見たというのではなく写真とか夢とかによって論じているようですが、そんな不明確的な論説でなっとくは出来ません。 夢というものはとても出来ない事を見るもので、私でさえ 超能力の人間になった夢をよく見ます、天をかけ走り、高い所からわけもなくとび降ります。論義にいたっては、非常に能べんになり出来ない事がない夢を見ます。目がさめて ばかくしく思いますが学者の夢は、それが真実となるのでしょう。夢などによって真偽を論じるのは、どうかと思いますが。ともかくも 回目にも死というものが待っている老人にとって、霊魂の有無など、あわのような事をいわれても、不安があるばかりです。 宇宙を征服せんとする学者、月世界に挑戦する化学者達によって宇宙をさ迷う、宮浦の形あらば教えて下さい、と願うばかりです。 ですが、我が体の滅する時、霊魂が何こへ行こうが、かかわりなく、静かに迷う事なく 滅して行きたいと願っております。第20号(8)

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日昭和50年3月1短歌 辻堂富士見丘クラブ 西田きみ○独り居の慰さめほしきわが庭の  さくら犬空にひろがりて咲く○満開の梅に春雨ふりそxが  白き花冷ゆる夕となりたり○雪の中旅立ちゆきし乙女らの  史蹟探求の奈良雪よやみませ○頂きしフランスのすみれ淡雪に  ふるえつI咲く紫の花○カーネーションにフリージヤの  花さしそえて 心和めど         思ひはるけく 東部第一ことぶき会 石渡 静○子守りして女と遊びし所かと  故郷へかえりしばしたxずむ○八ケ年女と学びし学舎の  跡は此処ぞと妻に教えり○干草の匂ふ道辺に子守して  友と遊びし所だと懐しく          妻に語りね    辻堂互楽会 馬場徳二〇親思ふ心々の贈りもの  齢ひ至りて老を楽しむ  善行団地寿会 石井淡水○青葉光福祉センターを取りまけ  そのことのみに足らふ心か○手踊りに舞合服はへ小部屋には  切絵はりつx楽しむ人等○湯槽には昼の陽一ぱい射し居つ つ  ラジウムの湯は溢れ溢るる○池水を落す水面に色のある  魚集ひ居り口を揃えて○今こxに集ひ楽しむ一時も  寝たきり老人のあるを思はめ  第七ことぶき会 布川行風  わがふるさと○まだ癒えぬ足曳きなずみひた歩 む  わが五十寇のふるさと○住職の留守の方丈に招ぜらる  寺にゆかりの消息聞くと○父の背にあけびを取りし背戸の 径俳句 辻堂富士見丘クラプ 西田きみ○紅椿一りんさしある道祖神○笹竹の中に花菜青々と○遠くより水仙の香り瑞泉寺 いね○寝ていて煩の冷たき余寒かな○手にもふれず頌にもふれず         散るばらの花 大庭第一むつみ会 高橋亮一郎○夢多き尼も泣いてる天城山○批判して籾かみしめる稲のでき○栗の実のはねる音聞く松之風○松風の音の深さや神の森=ソクリート披ひて車つき走 ○木枯しに葦しも泣いてる雀たち  る○幼くて父と詣でし裏山の  墓は二十七世父の名刻む○供ふべき華の用意もあらざれば  夏ぜんまいを手折りまいらす○僧の墓に家々の墓いくっづく  丘は青く明るし鶯鳴くも○案内するふるさと人の姿見つつ おぼろなれどもあざやけぎもの○白っぽき緋のきりしまと笹か枝 に  ぬきて地蔵の御堂飾りき○改築の成れる御堂へ思ひ出の  っながらぬままに鐘の音を聴  く○衣濯ぎ顔も洗ひし小川いま  流れもあえず竹落葉せり○帰らんまたふり仰ぐ山門に  露座の大仏見送りたまふ  第T」とぶき会石渡 静○病床で思ひは深し父母の愛○玉子売り小づかい呉れし母懐し○夕食を作る間子守頼まれる   今田共楽会 藤本茂作○秋の夜や鈴虫の声勇ましし○風の中こうろぎの声聞こゆ○秋の夜は虫の鳴く声多く聞く   善行白瓜会 山崎五一〇梅雨続く気をとりなおす梅酒             かな○盆栽の皐月大胆に修めけり○庭石に啼く青蛙梅雨ながし○酒青く砂丘の月の松うつす○吟詠の影稿上に月流る   辻堂互楽会 瀬戸林蔵○梅一輪一枝つよし庭の隅   辻堂互楽会 馬場徳二〇春霞フト信号の変りける|i    同     林 やえ子○風鈴も淋しくひ2く冬の夜   円行東親和会 小泉敬助○美少年魂去りて白虎隊○ポルトガルもたらせ来る小鉄砲    片瀬紅葉会 飯塚あい○夏盛り山の青葉や目にしみる○網買いてトソボ追ふ孫龍はから○ひと休み新茶の匂ひ初夏の風○涼風やしのぶ風鈴すだれごし○昼顔の女王に雑草みな家臣 片頻出わかやぎ会 谷口喜太郎○梅雨寒や軒に積みたる古躍○大屋根を飛びきて垣の螢かな○飴王を含み子遍路寺の坂○お地蔵の笠被せ直す炎天下○大寺や土堺を越えて萩白し    遠藤楽生会 青木芳春○竹はねて里にこだます大どんど○縁に読む着ぶくれ翁を陽が包む○世の人と交はりうすく日南ぼこ○孫がつぎ足してのはなし初電話○紅梅や美くしく生く未亡人    同     青木すみ女○着ぶくれて足もと重きまで老ひぬ○焚火して昼餉の工夫五六人○冬の陽を背に蒔伐り機うならせ る○梅の軸かけし新居を陽がのぞく○初けいこ扇新たに黒田節    同    桜井九華○焚大してつくじり焼の甘藷の味○けむたさにうしろ向きなる焚火 かな○焚火する人も時局の話しかな○植木屋の鋏の音や年用意○初鶏の声もきかれぬ世のうつり    同     田代ちか女○落葉焚き孫もつぶらな手をかざ し○年用意祖母のならはし捨てがた く○嫁ぎし娘久方ぶりや小正月○着ぶくれていつしか覚ゆ肩のこ○闇汁やこの宗の幸を祈りつx    同     長田孫太郎○お汁粉も作り娘を待つ小正月○団子焼いつしか闇の迫りけり○孫連れて村の鎮守の初参り    同    桜井兼吉○古里を訪ふて焚火の輪に入りぬ○焚火よりはなるれば寒さ身にま とふ○着ぶくれて我身重しと通院す    同    桜井久女○枯芒雨に暮れゆく柏の道○枯れ庭の隅に明るし寒椿○音をたてx昌生むところ春の川○袖垣の上や紅梅二三輪○黒松の根/の如し冬牡丹 感   謝 先日、市老連事務局へ、壱万円の寄付がとどけられました。 その方は、本鵠沼の鈴木さんということだけで、詳細なおところやお名まえは明かされず帰っていかれました。 紙上を借りて厚くお礼を中しあげ、みなさま方にご披露いたします。 なお、このあたたかいおこころざしは、市老連会計にくり入れさせていただきます。 ありがとうございます。*************************************昭和50年9月15目

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(1)第21号 発行所藤  沢  市老人クラブ連合会社会福祉協議会(市務局内) 印刷所三  光  堂  (きょうも暑くなりそうだな)と思いながら見あげると、標の梢が朝のひかりの中で、のびのびと天を指していた。 暑さなどには少しも勤じたいような王者の風格であるo 「本は、性が自然で素直でございますからぬ。悪いことは考えませんし、慾の深いこと七考えません。人間のように、ここは住みにくいから、よそに住居を筰の水」の一節だが、なるほど、水雲、本の精などということばがあるように、樹齢何百年というような木には、強い生命力も強い意志もあるのだろう。 そういえば、わたくしも、幼い日、あの横浜空襲の夜、炎に染まった空を背に、この律が、ゆるぎもせず、そびえて見えたことを、はっきり記憶している。峻 の葉 山沼      三尤資  朝作随移そうといフここともございません。 天から与元られた場所に住みつぎます。まことに運命に従順でございます」 それは、いかにも、黙って耐えているといった姿であった。 ちかごろ「忍耐」 「辛抱」 「我慢」ということばが、まったく影をうすくしている。 署いといってはすぐにへこたれ、寒いといってはすぐにちぢかんでしまいがちである。 空説を充たすにも、三分間も待てばすむような時代になり、物心豊かで、我慢するここらを培う場面すらなくなってきている。 かつてなんなく歩いた道のり心こ牡は、非上 蜻氏の小説「陽 いまでは、乗りものを利用してさえ遠く感じるようになってしまった。 もちろん、文化の発達や生活向上は大いに必要であるにちがいない。 しかし、モの中で、わたくしたち人間は、自分のこころやからだを弱いものにしてしまってはならない。 幼いころから、節倹のこころを身につけ、質素を美徳として、耐える意志のつよさをぎたえてこられたおとしよりに学んでいかなければならない。 こんなふうに、わたくしは、大きく立派な寺を見あげるたびに、いくたびかの風雪をこえてこられたおとしよりの方々のことを思う。そして、年輪の美しさ、尊さをしみじみ考えさせられる。 けさもそんなことを考え、暑さにまけてしまいそうな自分をはげまし、梢か見あげながら、ネクタイを結んだ。     ‐--一九七三・八―『―第21号(2)

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昭和50年9月15目一万という数字  石川第二言盛会 広 瀬 柏 安 昭和五十年という年-何というくぎりのよい年でしょう、私は何か記念すべき事業とか計画を起したいような気がする。 私は少年時代に、人生五十年という言葉を間いて人間の一生は五十才まで生きれば一人前であると信じて居た。しかし、男子七十一才、女子七十六才が平均年令といわれる今日では、五十年は活動年限である、時間にして四十三万八千時間、其の中半分は眠って居るので、意識して活動する時間は約二十万時間、これだけの時間を有効に利用するかしないかが成珀べ不成功の別れ目となる。ところで私は過去を振り返ってみたIII。 ところが自分には何もない、毎日朝が来れば起きて飯を朧い、働き、談笑し、夜になれば眠る、これを毎日ノヘ繰り返したに過ぎない。今後も座だこれを継続する、 思えば誠に平凡な生活であり、また生涯でもある。 数年前のことであるが私、だるまの色紙を数枚書いてみた事かおる、これを誰が話したのか御所見の元村長高橋引責先生の耳に入った、早遠火生から電話で、書いたのが有ったら持って来て見せるようにとのことであった。そこで私もす)様持参して批判を乞うことにした、先づ座敷に通される、直ぐ目に付くのはだるまの掛軸や観音像実に見事な作品ばかりである。やがて先生は私の作品に目を通し始められたが、しばらく無言--やがて口を開いて残念ながら絵がばら/\Λに、締まりがついていないから僕が教えてやるから付いて来いというので書斎に案内された。 そしてしばらく先生の手ほどかを受けた、その時先生のお話はこうであフ凡。僕が若い時分、だるまを書こうとして鎌倉の某禅寺を訪ねて管長に教えを乞うたところが師のいわく圃は教わるものでは壮い、皆うものである。といって敢えて呉れなかったという。また少年の時代に画聖といわれた父君が、お前囮を物せんとするならば一万枚言け、そしたら其の中には少しは人に見られる様な物が書けるかも知れないII、とのことであった。一万枚という数字、これはなまやさしい数ではない、即ち一生の勉強である。 また話は別であるが、昨年四月に行われた知事表彰の中、高倉の民生委員広田保君と私が加わって借りました、誠に自己宣伝になって中訳ありませんが、何で仏如きものが何等功績もないのに最高の表彰を受けるのかと考えてみると広田谷は勤続二十七年以上、私は二十八年以上という、共に半ばな数字ではあるがいづれも一万口以上となる、式の当日仏の座席の斜め前に座って居た婦人が▽ざわ目につく、というのは被表彰者は中年?老人が多い中にまだ二十代かと思われる若さと美貌の婦人なので、どう表彰績が有る0かと思っりの紳士であった、この方は横浜 れない。要するに口では一方位との方で昭和六年一月ハ日生れとあ 簡単にいうが仕事の上では大変なる、小生は明治三十五年一月八日 ものである、一目一円づつ積んで生且、共に一月八日生れというの 行っても二十七、八年かからかけら奇しき縁か私知れない、紳士の れば一万円にならない、物価の方脱誤はお医者さん、即ち県の監察 では狂乱状態の、貨弊的価値は低医、消印三十五年より奉職して今 いが、物の数では極めて貴さがあ目に至るまで死体解剖、実に一万 心o払は常に高橋先生父君の雨の休という、この方にはほんとうに 教訓一万枚を心の守り札として皆川が下がる、今日嗣某医であれば る、老化を意識せず、詩吟平民何千回腸と収入があ心てあろう 耶、盲進、その他すべての事に練に、コソラリーマソに甘んじて、 習一万回をモットーとして特進ししかも人の鎗炉心変死体、惨たん たならば、幾分たりとも前進する目をおおい、悪果昇をつく腐爛死 ことと確言して居る、しかしてこ体か物ともせず取組んで、ひたす れに専念するとき老化を防ぎ、寧ら事件の解明に精進する心意気に ろ若返りするのではないでしょうはほんとうに胸を打たずには居ら か。     辻堂富士見クラブ 西 田 ぎ みよべの雨尉れてぬれにし山すげの  夕日の中のハゼの明るし まろぎ実の藍に朝日きらめく                扶の陽の緑一ぱいにひろがりてわが心臓一と時たりと休まずに   洗髪おえし すが/yしさよ ハれ生かし給う有難さ思ふて名簿をめくって見たところ、こ サクノヘとキャベツをきざむの方は同伴の夫人で対泉者けとな           音きこゆ二本の鶏頭の紅輝やぎて わが 胸裡の次第に熟し昭和50年9月15日

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第21号(3)耕余塾と古田茂片加山わかやデム八 名 収 重 坪 明治五年藤沢市の羽鳥に小笠原東陽が招かれて読書院という寺子屋が出来、六年に羽鳥小学校、ハ年には羽鳥に師範学校が設置.十年には立派な学舎、耕企望が建てられ明治の教育の黎明期に一躍、羽鳥は県下文教の中心の地となった。共役耕今泉には各地より笈を負いて学ぶ者多く畿多の人材が躍出した事は天下周知の事であるがこれは小笠原東陽の功績だけではない、羽鳥の三郷が東陽を池上に訪ねた時は彼は本門寺の一問に居て憎徒に漢籍を教えその傍ら門前で占屋をやっていてやっと糊口を過していた、かにしろ家旅が多ぜい母親と妻との他に子供が六大、三郷が行った特は東陽は小川で菜ツパを洗っていた、この漢平骨を連れて来て犬先生にした三郷の功能は実に偉大なものである、此の三郷ば八郎右三門だけではわ知らない、一体これは何という人知、八郎右三門という名称は三郷本家に阿代も伝わる名士の職名だ、東陽を連れて来た八郎右ヱ門よ本名を三背皮辻川という。 三斯佐次郎の父、松之前は文久二年九月に若くしてコレラ病で死亡当時佐次郎が数え年の十六才の時、佐次郎は才気波高、幕末から明治初年折柄の村方騒動、名主出入の激動の中に身を投じ苦心俳諧、単なる地主のお坊っちやんではなかった。当特赦酒樽突の徒が多いといわれた村を教育教化の力で改善をはかっか先覚者三媛佐次郎の偉業に対して応援した一人に中島信行があった。 中島信行は土佐の荷止、神奈川県令となったり、国会開設初代の衆議院議長ノ目自党の副総理となフベこの中島が先づ自分の子供を二人耕今塾に学ばせた、兄が後の商工犬巨中島久万古だブヤんな関凪からか土佐の荷止竹内訓示子供の茂を料金塾に入れた、これ示横浜の古旧家の養子とたって古川茂。 古田茂が料今泉に入った時は八寸、当時小笠原東陽は既に胸を恚らって居たので国学者松岡利紀が卒失悦煙 古田茂は松川先生に師づした、後年言円座は綴岡刊紀の拡を称えて羽鳥坂田に墓碑を建てている。 然しこの茂少年ナカナカのいたづら、説々筒袖の袖をもいでしま言上二鵬家へ持ってくる、いつも頁子さん(佐次郎氏夫人)が桁けやる、吉田茂が総題となってからある目耕今塾時代の先輩で在塾中同宗で面倒を見て頂いた横浜市戸塚の豪商の子であった加藤与吉氏 二回に平七と襲名)を大磯の私邸に招いていたづらの想い出店に花を咲かせ得意の達筆を揮って何枚もの言を加藤氏に贈ったという。 没後に吉田茂少年の腕白ぶりを一つ披露する、東有道緑の鉄道が開治一一十年問通し、間もなく耕今泉生か初めて汽車で東京ぺ遠足をした、その時、藤沢四百の旧家の坊っちマん青氷見太郎サソなにしろ西村の財閥だからお父さんが当時初めて流行り始めた学帽をかぶらせてやった。 長足からの帰り新橋から汽車に圭二にところ運わるく吉田と同じハコだっヽべ吉田は青木の帽子を見つけてイキナリ青木覚さんの頭からこの学帽をひったくった。  『青氷、ぎさまナて1牛だ万へは、きさまひとだけじゃないかI』とそのまx進行中の汽車の窓をあげて窓から外ヘポイッと投げ捨てた。yニニh坦遠藤俳壇 遠藤楽生会  青木芳春人の中セル着るでなし修遠足薫風や肩を並べて歩をゆるく蜘蛛の子のむらがりこぼれ青嵐   大磯鴫立庵にて松風や 庵に風鈴吊るしたく笠置いて 梅雨の呉れ聞か西行倣   仝   青木すみ虫穴を気にしつセルの外出妻蕉風の中に迎へし女王かなあざ今かな滝の図柄今夏の帯岩肌によるめく松の芯の向かたんぽxや寺苑外れし田圃道    仝   桜井九華借を解く間ももどかしき暑さかな嫁ぎたる娘もすこやかよ衣更匝仕事の頭上かすめて初つぼめ親子して時局談議や冷奴老ひの身のしょざいもなくて春炬燵    企   長田孫太郎薫風や選挙終りて里静かその中に白き牡丹の花の犬夏帯や妻湯上りの薄化粧風凪ぎし夕べを垂れて吹流し見えかくれ緑の中の志賀の池    企   田代ちかボール投げ子等陽炎の中走る若葉風五色に照らふ寺の森伊豆の旅花のトソネル通りぬけ梅雨時や昨日にかわり今日の照りぬれ縁や庭のつxじのまっ盛り    仝   桜井ヒサ掃除する頭上かすめて夕つぼめ花菖囲ほめ/ヽヽ、客の足運ぶ自転車を土手にあづけて目高収り夏祭り客帰るころ星の空風鈴の皆々来客と閲子澄ます    仝   桜井兼吉雑草を刈るや匂ふて栗の花山百合や谷聞にひそと香を放つ夏やせもなく児の肌の黒々と夏休み子には短く惑じしと空模様気になりそめし登山かな第21号(4)

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昭和50年9月i5日愛は死よりも強し鵠沼秘跡台東 片 山 藤 樹 人生とは お互いに与えられた命数に向って旅をつづけるようなものだが その自分をふりかえって 私の人生は決して平坦なもOではなかった それどころかけわしい苦難にみちたいばらの中をかきおけてきたような道だった 長い起伏のあいだには 順風を帆にはらんでゆく船のごとく 倖せに充ち足りたこともあったが 時として人生とは不幸の集積から或るものではないかと つくづく思いあぐむことさえあった そんなとき 私の座右の銘として いつ読んでも また幾だびくりかえし読んでも 常に新たな感動と勇気をふるいたたせて呉れるものに ロシヤの文豪ツルゲーネフ(一八一         ゆうかん  ずずめ八―一八八三)の「勇敢なる雀」と題する 心温まるような短篇かおる。  「私は猟からもどって 庭の並木遣を歩いていた 犬が私の前を白樺を風がはげしくゆすぶるとこかけてゆくと犬は急に歩みを≒ 見ると並木道の 行手に まだ嘴のまわりの黄色い子告がいた   9にこげ は      しらかぱ順には柔毛が生えている 並木のろからみれば 子告は巣から振り落されたのにちがいない やっとはえかけた翼を力なくひろげたまま じっと身じろぎもせずにいるo 犬はそろそろと歩み寄った すると不音Jにま近かの木の棺から胸毛の黒い親告がまるで石つぶてのように犬のスグ鼻先へ落ちてき      言ノみ   さかだた モれも総身の羽を逆立て 見       ぎよ5そう  けんめいるもあさましい形態をして 懸命にあわれな声をふりしぼりながら 牙歯をむきだしにした犬のロめがけて二度ばかり襲いかかった 観賞は予告の命を敦おうとしたのだ 身をもって予告をかばおうとしたのだ けれどもその小さな体ははげしい恐怖におののき吟声は次第にかすれて途切れ ついに気を失って倒れてしまった その身を犠牲にしたのである。 告にしてみれば 犬の姿はどんには 径物のそれにも増した大きな力があったのだ 意志よりも強い何ものかが 損く 親告に身を投げかけさせたのだ 大は立ちど宜って じりじりと後ずさりをした 彼もこの力に打たれたものとみえる 私は当惑している大を急いで呼びかえし 身のひきしまる思いでモこを立ち去った どうか笑わないでほしい          しゆくぜん たり私はこの小鳥の前に粛然として襟を正したのである。」 私はいつもこの物語を読み終ったあとに 死んでもな叔子告をとられまいとして 予告の上に折重たって倒れている親告の姿を思い浮べ こみあげてくるものを押えながら このけなげな愛の発露の前に この可憐な愛の使者の前に 心より敬意を表すると共に声を大にして「愛は死よりも 死の恐怖よりも強し」愛 愛 そうだ 愛は太陽と共に霊気のごとく温風さながら万物にふり注ぐ そこには国境もなければ 敵味方の差別もない すべてを超越したら●●●it,.‘W`゛・,・へ.・'・,心/`,1.tjゝ/'l.,・ぺ'゛・,¢ゝ,.゛l・㎡〃・,s.1ゝ/1ヽ゛W゛り。へ、・I゛,/`。・`'4/゛。1・心“・。老人の生き方  ル瀬紅葉会 飯  塚  あ 老いさき短かい老人の生き方といっても、何を目当に生きて行くべきか、ですね。 一人くの老人が一人/宍違った生活をしている以上、その生き方にも千差万別があると思います。明日を約束出来ない、私たち老人が一生懸命生き続けてきて、今ここに至り、また先の事を考えて生きて行かなければならないとは残酷だと思います。 朝に起き、今日をいかに過ぐすべぎか。夕べにその一日を生きのびた事を感謝し、その曰くを生きて行く他はないのでしょうか。 老人センターに来られる多くのお年よりは、全く何の苦労も忘れた様に明るく楽しく過ごしていられます。家庭に居てもそうでしょうか。いろくの生活の中で、顔に年輪のしわをつくっているあるおの それが愛なのだ 愛 これに)ばあちゃまは、龍を背に畑に出かよってのみこの愛隔心よって乙け、土に向かって一生懸命戦ってこそ 宇宙に生存する すべての(いました。身体を二つに折って畑生者が 生きつ生かされているのいに取組んでいる老母もいます。≒し時を出て行く事で紛らわしているのだそうです。 これでは、畑に出て労働にたえているお年寄りが不幸なのか、至れりつくせりの生活のおばあちゃまが幸福なのか分りません。一人ノヘヽが自分な生かすために、それAへ自分を働かしているという事です。私も、身体は至って壮健です。それで老人ホームのおばあちゃまが病身で入院している所に、婦人同志会の人達と時々奉仕に行ぎます。 明るい病室、テレピはあり、付き添う人も優しく親切でうらやましい様な病室の生活に見うけました。不安もない、神様だけに頼って生ぎておられる様でした。が、何年もの間ベツトから下りる事が出来ない患者さんが多くおられたのには驚ぎました。そしてまた何人かの患者さんが、只じっと身を横たえてその日/Åを無心に送っておられたのにも驚ぎました。 肉身の人が来られても、うつろ昭和50年9月15日

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第21号(5)小刻みにして 行手に何か獲物でも嗅ぎつけたらしく忍び足をはじめた人間に恐怖をあたえるようになりました。 食料品や化粧品の容器ビソ、カン、プラスチック、乳白ガなにか大きな怪物に見えたことであろう モれにもかかわらず 子     とつさ きき45いど告のこの咄嵯の危急に挑んだ親告″f,゛S`‐″’.くyだということを この小さな動物が身をもって教えて呉れたことに 私もまた 今さらのごとく襟を正したことでした″/″’゛’I″f″`一~4・’″・ぐ゛`】s/φ゛`・Iんどん消耗させ、燃焼して地球の酸素を減らし、公害をまぎちらし、人類の早期滅亡達成を推進しているのかもわかりま またある御隠居様はよく出歩かれます。老人会、俳句会、詩吟会鎌倉彫の会などに毎日を忙がしく送っていますので、私は大変にうらやましく思いました。 家の者が勤めに出かけたあと留守を守り、一日中家事に追われ、テレビも落ちついて見られないので、皆が寝静まってから夜半のテレビを一人でじっくり見ている様な自分を省りみて、何と優雅な生活に明け暮れている事かと、そのおばあちゃまに御幸せですね。一日でいいからあやかりたいですと中しました。とその方の曰く、私はちっとも楽しくないのよ、こうでもしていなければ一日をどうして送ればいいか我が身を持て余しているの。孫の守は、年よりは甘やかすから困る、洗濯や食べた食器を自分の物だけでも洗おうと思うと、おばあちゃまいいんですよ、お庭の草取hソ位と思うと、そんな事しないで、あれもこれも取上げて私のする事は何にもないの。もう無用な人間のように扱われている様で家に居る方がつらいのと幸福そうに見られた自分をなげいてふいました。それで一日/Xの立つな目をそっと開いてじっと見つめてはいましたが、もう身内の誰であるか判らない様でした。かつては友人であった私達の事さえ無論判りません。まさにこんな悲しい生き方が現世にあるのです。それでも生きつづけていくのです。色々の老人の生活の中で一番胸をうつ生き方ではないでしょうか、そして生きて行く事の非情なまでの難かしさがありました。無病息災の私はこうしたおばあちゃまを、年こそ余り差はありませんが時々お見舞に行きましたが、何となくいつも悲しくなりますので今は行きません、行く気になれなくなったのです。それでも奉仕は他にいろくとありますので、今は患者さんのおむつをたたんだり、着物の破れを繕ったりと何か仕事があります。これも生きて行く道の一つだと考えてやっております。 老人の行く道はこの先そう長くはないのですから、悔のない生ぎ方をして行きたいと願っております。 多ぜいの御老人遠の、より幸福に楽しみ多い人生を全うせられる事を祈りましょう。ろい出して居られました。これを見られた方は、私ばかりでなく、ゴミについて深い関心をはらわれることでしょう。 はじめ回収業者によってうまく仕分けられているのではないかという考えをもちましたが、人手不足と人件費という点で、とてもそんな甘い考えが通るものではないことがはっきりいたしました。 地球の資源を無駄費いして、どせんが、そうでないとしたら早急に考えなくてはなりませんね。 まえに横浜の保土ケ谷沢から久保町に至る線路わきの楯のところが、よいゴミ捨て場となって居りましたが、さすが大きな市だけあって、ゴミ捨て場の規模も大きいなと感じたことかおりましたが、当市もこれにならって他からうらやましがられるようになっては困ります。 私たちの日常生活を考えますと、ゴミが重大なポイソトをしめて居ることがわかります。 生活に必要なものでも、すぐに不必要な領分に廻されて、いらないもの、あっては困るもの、これがありすぎて困る時代となってまいりました。 昔ならば、モこらにほおって胆けば風化作用で消えてしまったでしょうが、今ではゴミゴソとしてラス、これらのものは、消費文化の名に於て、使い捨て時代の産物として、消費者が包装紙、容器代すべて自己負担で消費して、ゴミの山を築いたようなものです。いや山は築きませんが、市の清掃部に処分をまかせきって居る訳でございます。 いったいこのゴミはどうなっているのでしょう。 古新聞、雑誌、空カソ、空ビソ、プラスチック容器、これがIケ所に集められて、それぞれガラス、カソ、紙類と分けられて再製されて、役立っているのではないかと、少しは気楽に考えて居りました。 ところが、前に私が市の焼却場に行ってみたことがございます。その待はまだゴミの自動車が入って米て居りませんでしたが、事務所の方に案内していただき、地下の焚き口を見せていただき、簡単に説明をうかがいました。 それらのすべてが、台所のゴミと一緒に釜に入れられてしまうのです。台所のゴミは水分を多く合んでいて燃えにくいし、プラスチックは高熱を出し、釜の壁にくっついてしまい、釜を早くいためてしまうとのことでした。 大きなチエソで運び出される灰にまざったビンやカソのチエソからはずれてわぎに落ちたのを係の方が半身入ってかがんでそれをひ第21号(6)

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昭和50年9月15日明治生れジャワカラナイ     鉛白よ三吉會  美 夢 路 酔 歩 漫 談 明治生れの言々から見た現代世椙には追着けないことだらけであるが、特に現代青年男女の服彼程奇妙というか全く理解と判断に若しかというより解らないといった方が適切な言葉かも知れない。 その代表的か二つに男性でありながら髪をのぱし然かも肩のあたり迄タラシて居る姿かおる。 この長髪族の出現で思い出されるのは「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺であるが長髪族が現わ社ば床屋が暇になる。そのおかけで理髪料金の値半が早められ吾々のハゲ頭の散史料が千五百円にもなってしまったのだから誠にウラメシイ限りである。 この長髪族も最近ではパーマ迄かけて居るのが出現したのには全く驚いたものだ。 畳々の若い時代に女性の會は何といってもみどりの黒髪、鴉の濡れ羽色等と表現した長い髪が現在では千早レ毛どころか黄赤みどりと色取り/Åに染め土げるのみか借げもなくブッタ切って中には刈上げにしてボーイシュ等といってシャー/Åとして居るのをよく見かけ全く男女が入れ変ってしまった感がするのである。 特に衣類も随分逆の場合を見かけるのである。背け地味な黒っぽいものは専ら男性用であったが赤を始め色模様の派手な柄を平気で着用し大道を洲本している。昔なら色気違かチソドンやと間違えられたであろう。こんな姿で街を歩レている若者の姿は全く男女の判別が出来たい、特にパソタロソやジーパソスタイルの後姿は一層困斜である。僅かに昨年あたり迄は女性の場ふ口は靴のカカトが絹くて少し高かったので男女の判別が出来たのどか、昨今では男性がこの型の所々平気で使用し然かも内股で本いて居るのをよく見かける。斜面の場合は流石に女性特有の胸のボイソで見分けられるのである。但し、中にはベチャパイもある。今に男性がボイソ的整形手術をするのではなかろうかと今から心配して居る。もしそうなったら益々マゴツクであろう。 今の若い男性の女性化乍心配するが、若い女性で赤軍医で活躍しているのは例外としても社会人としての職場進出は男性に伍して活勤しなければならないので多少の男性化はウナヅケル点を認めなければなるまい。 背といっても戦前迄は長靴は男性専用のものであったが現在ではその名もブーツと称して女性専用となり男性が使用するのは僅かに雨降りのゴム長靴位のものである。 亦言々が小中学生時代に岩穴金ボクソの面前のガイトウがこれ亦女性専用と変ってミリクリールックとか称している帽である。 熱海の海岸での百一お宮の一場面で百二が着用していたマントも女性専用となり男性の使用は皆無となった、今にボー歯の下駄ばきの女性が現われて男性をケットバスのではなかろうかと恐をいだくものである。 こんなことを考えると今に中年の宍ハチヤソ連中が吾々が昔着ていた二食マワシつまりインバネスを着てヒゲを生しステッキを特って街に現われるのではなかろうかと想像したくなるのである。 こんなことを言っても世界各国とも時代と共にその服装の移り変ること位は私達明治生れ者にもよく解っているのである。 私遠の若い時代、流行の先端的服装にアッ。几ハアがあったが丸マゲ姿でこれを着用し然かも色違いの腰巻の裾をのぞかせた下駄ばぎ姿の図は当時としても全く頂けないものであった。 当時の女性の髪型に日本髪以外に夜会巻、二百三高地、サザエのツボヤキ、耳カクシ等と当時としてはハイカラ族に属した女性も多く見かけたものである。 何といっても明治生れの私達には和服の女姿が一番美しく思われた、特にキリリット締めた帯の上のフクラミはいい知れぬ懐しさと親しみが感ぜられたのである。現在のボイソとは全く比べものにならぬ美しい色気とミリョクがあったものだ。特に凧の吹く街でよく見かける光景に着物の上前の祉のあたりに手を添えて裾の乱を防いでいる姿のオクユカシサは誠に美しいものであって、鏑水漬方、伊東保水画伯のIブクの絵を想像したくなる。こんなときチラリと白いハギのあたりが目についた時の仏]気とシゲキは現代女性の太モモ漏出のミニ姿とは全く比較にならぬものである。 さて今の女性が大モモ迄出して大道を潤歩している不行殼(但し明治生れの者が見た場合)姿に移行した最大の原因は何といっても昭和50年9月15日

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第21号(7)下、ハキを着用し始めたことである。昔は男性専用であった猿又が女性が使用するようになるとズロースこの言葉は関東大震災直後から戦後の始め頃迄それからはパンティこの頃ではショーツとか言う相である将来は何と呼ばれるのかμ この下着を女性が一般的に使用するようになったのは日本橋の白本屋デパートの火災の時からと伝えられている。 こんなことを余りセソサクスルと一層頭がハゲルのではなかろうかといわれながらも若い女性のミニ姿を楽しんで居る御人も相当居るのではかろうか、私もその一人かも。 然し何といっても毎年一月十五目の成人の目の嬢さんの着ものの晴姿は日頃のミニ姿で澗歩していたのとは打って変って内股のチョコく歩きは矢張目本女性のみが持つ特有の美しさで絶対的である、そして中には日本髪の桃割れ、高島田(大抵がカツラであるが)又、地頭で結った洋風の日本マゾは歌劇蝶々夫人を思い出させるのである。 今後何年生きられるか知れないが、どんな変り方をするのか案外昔に戻るのではなかろうか何故かなれば昨年迄のミ元が今年ロングスタイルに返ってきたからであるのと同時に婦人の和服姿が口と共に増加していることは日本女性の真の美に対する再開阻ではないかと推足すると何か嬉しくなるので 前田耕兵さんは拙ない私の駄文にカットを毎回画いて頂いて居る方であるが、私はまだ一度もお目にかかったことがないのである。且だ奇妙に感ぜられることと思うが、実は前田桔兵さんの奥さんが払の関係している店の責任者でその店の宣伝用マッチのデザインが大変立派であったので何人のデザイソか伺ったところ御主人の耕兵さんの作品と伺い厚韻致も私の駄文のカットを対顔したところ気軽にお引受け下さったのである。 さて前田さんはこの方面の専門家ではなく全くの素人さんで横浜ドリームラソド0営業課長さんのある。 こんなことをいっても明治以前生れの人達は私と同じ様な見方をして居たのであろうことは知って居てもついこんなことを書いてしまったのである。  俳句・川柳   たちばなクラブ 杉浦古都 老人会夏の旅まどろみの折々覚ます紅葉渓流の音を涼しく遠浅間青葉光詞に育ちし親子杉梅雨晴の岩谷躾音吐見立つ発電所十四とや梅雨の吾妻川梅雨晴れの足かろやかに善光寺青葉風読経の尼の愛らしぎ長野路や果樹の袋の梅雨照りに白根山若葉を裾に火山灰光る妙義山の兜を仰ぐ青嵐   亀井野雅楽会 青山ひろ子  「母の日」母の日に母のない子は尚あわれ母の日に顔も見せない子供達  「車」花街に色香をしのぶ人力車伝統の歌舞伎を見せる車引  「舟」渡し舟のどかな風情どこへやら野崎村舟とかごでの生きわかれ  「太 る」赤ちゃんは九々太って愛嬌もの太り出し貫禄ですと世辞云われ  「包 み」バス旅行土産の包み標にみち町娘包みを胸に日和下駄  「船」亀井野和楽会 堀川喜重三本丸は船頭だけが汗をかぎ野崎から帰るお染は屋形船      同    鈴木 昇船旅は海の広さに気の長さ  「太る」 同    堀川喜重センターで踊るばあさんみな本り気にすればする程太る年の頃      同    鈴木 昇姐さん饅頭怖い太り過ぎ駆け出した肥満児バスに采遅れ  「カステラ」同   鈴木 昇カステラヘ見向きもしない左利きカステラを見舞に貰う不仕合せ      同    堀川喜重カステラもうまく切れない           老やもめ  「花」一切 同   鈴木 昇ハイセイコー勝って        花束騎手がうけ涼しさを広げたように花火上げ     亀井野亀楽会 瀬戸重之病棟の窓でうき世を覗いて居真心の膳部寝床で喧みしめる梅雨明けて大腸菌が泳ぎ出し風鈴が既往を語る生身魂(いきみたま)老友にあいたしせめて年四季に前田耕具さんのこと   第ぶことぶき会 美 夢 跡 酔 歩要職にあられ大愛郷繁忙の申にもかかわらず毎回礼のために描いて下さって居る方なのである。 御住所は市内亀井野三二I五亀井野テラスにお住いの当年三十三才とのことである。コ胱お目にかかってお礼を申上げたいと思いながら図法類な礼は今日に至ってもまだお目にかかって居ないのである。 前にコ茨些少のお礼を差上げた処遂に市老逓にご寄附を頂いた次第でそれ以来ご芳志にアマエて毎回お願して居る次第である。これが前田耕平さんと礼の関係であるo第21号(8)

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昭和50年9月15日わが里へのy           遠藤楽生会 藤沢駅よりおよそ十キロ余り、なんの公害もなく、緑多い空気の甘い静かなわが里、遠藤へどうぞお出かけ下さい。殊に有名な宝泉寺の禅林が、先年市より古里の森に指定され、ベンチ、便所、迂回路などもでぎ、最近は地区内の児童はもちろん、市内や茅ケ崎市の幼稚園児や、小学生たちが先生や母親たちに付添われ、青葉の下で嬉々とたわむれている姿をよく見受けるが、私達までが全心に還ったような気になります。寺は小高い丘なので、西には富士山をけじめ、箱根、犬山、丹沢の山脈の眺望がよく、それに加えて眼下の小出川の曲賜加奈精しく一幅の絵のようであります。それに移りゆく四季の眺めも格別で、春は桜秋は萩、夏は涼を求めながらの散策、或はキヤソプにも最適の場所といえよう。晩秋より冬の間は落葉を踏みながらの木の実拾いはいかが、落葉樹が多いので冬の季内水  義  春節に入っての方が前記の山脈や、小出川のうねり等が、見通しはよレわけであります。境内には開腹大王を始め、鬼婆、青鬼、赤鬼、その他の像が立ち並び、市内でも珍らしいのではあるまいか、更に境内には徳本節、六地蔵石朧を始めとし、石造文化財など見るべきものが多く、本室内には雲板(寛文三年)華鬘、求心越、尊心の両禅師の筆になる額、開山如玄和尚の下駄、開基伝来の長槍等も寺宝として、大切に保存されているが、目下のところは、和尚の許しがなければ拝観できたいことになっています。なお、宝泉寺の守り神としての金比羅様も震災後仮社に祀られていたが今秋中には再建されることになっていることと、御嶽神社境内にある     陰形の道祖神この他宝泉寺には由緒ある西国三十三体の観音像が本堂内に祀られてあるが何れ観音堂も二、三年の内に再建されることであろう。 当地には皆様のご存知のように市の無形文化財として指定されている遠藤盆おどりがあり、現在民族芸能保存会の会長は、山本良治氏で、氏は、保存のため熱心に努めて居られますが、三十名以上の見学の申込みがあれば、いつでもご要望に応えられることでしょうから、お申込みなさって下さい。 (電話八七-五八三二) 当地へのお出は、藤沢駅、北口五番線より、小出まわり、六地蔵ゆきか、用田ゆき9ハスのご利用が便利で、松原バス停下車、寺まで約七分です。途中神社がありますべこの神社は御嶽神社と称し、遠藤の鎮守でありますが、由緒深く相模風土記によれば、御神体は運座の作といわれています。境内にも石造文化財としての俗に四本手庚申が建っていますが、庚申塔としては(明勝二年)藤沢でも二番目に古いものの由、それとこれも市内では一基だけと服部先生に伺って居りますが、陰形の道祖神があります。建立弟月日中佐立者の名は刻んでありませんが、他の石像と共に祀られております このほか、神楽殿(舞台)も市内でも、あるいはこの近郷でも大きくしっかりした立派な建物であるとは、その道の先生からも聞いております 神社の紹介になりましたが、神社より三〇〇米ばかり往くと寺への入口になり、手前右側に山桜の巨木があります。目通りのめぐり一丈余(三米余)高さ約十米毎年花もみごと咲きます。市の天然記念物の指定は受けておりませんが文化財保護委員長服部先生や植物担当の諏訪先生にもご高覧願ってありますが、市内でも、もっとも大きい由です。なんだか郷里の宣伝にこれ努めたようですが、近くでもあり日の永い時季には、午後からでも、ゆっくり、ご見学なりお子様を連れられての遊びもできるでしょうと、敢て拙文をものし紙面を割愛し頂いた次第であります。  俳  句    亀井野亀楽会 錦織むつ 夏 四 句朝な朝な目にあでやかな        ペチュニアの花所在なくうつyに聞けり風鈴の音紫陽花になき人偲ぶ夕かな   鉄ハシゴの錆を落す鎖落す手許さわやかに青葉風    円行座視和合 小泉敬介           九十六才横綱に今一息そ九十九坂巻立や書院の窓に梅一輪隣からとなりににほう沈丁花忘れずに今年も来たか渡り鳥     片瀬紅葉会 飯塚あい菖蒲笛湯上りの孫ほほ焼ける雨後の日々昨日の竹の子          背のびせり田舎家の軒場に菖蒲ゆれにけり二人して散歩の買物新茶かな雨けむり牡丹静かに花震う 辻堂富士見丘クラブ 西田きみ泣ぎぬれて瞳見合わす合歓の花突風に遠くとびゆく枯葉かな笹竹の中に花菜青々と垣根ごし語る肩に散る紅葉遠くより見る黄葉の庭しづか  片瀬わかやぎ会 谷口喜太郎畑仕事聯に眠る子冬ぬくし下萌や無縁仏の欠茶碗めがね拭き通す針穴日脚伸ぶわが影を残して流る春の川のび/\、とくつろぐ蚊帳や山の宿     今田共楽会 藤本茂作横須賀や港に浮ぶ船の数横須賀行ぎは乗りかへと大船で*************************************昭和51年3月15日

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(1)第22号 発行所藤  沢  市老人タラプ連合会社会福祉協議会(事 務 局 内)  印刷所三  光  堂 停留所でハスを侍っているときふと、道ばたに蕗の服をみつけた。近寄ってみるとやわらかな、うすみどりの加わいい姿である。 わたくしの住んでいるのは立石の、小高いところで、立春を過ぎても、冷たい凧の日が多く、バスを待つ間も身に謁みるほどだが、その蕗の聯めむっくりした姿はわたくしの心をほのぼのとさせてくれた。 近ごAべ,福祉見直し論」などということがよく言われる。間つ待ノく◇y を 「福祉社会」を物今金でっくりあげようという姿勢から、ここらの豊かな福祉社会をきずく姿勢への方向をねがう声であろう。 「病院巡礼」ということばがある。老人福祉の大きな施策としてすすめられた老人医療無料化が、治療の必要もないのに、暇つぶしや、話し相手を求めて病院を渡り歩く老人、つまり「病院巡礼」を生んでいるというのである。 県下のある町で、つい最近、高藤沢市老人クラブ連合会   会長神埼長次郎令者基礎調査がまとめられ、地域の中に、話し相手のいない老人が三割以上もあると発表された。 これらのことを考えあわせると、かたちの上では「ひとりぐらし」でかくても、心のうえでO「ひとりぐらし老人」は、そこここにおおぜいいるのだと言わざるを得ない。 冬には炉ばたの語らいがあり、夏には、夕涼みの縁台という語らいの揚が、かってはあった。 しかし、そうした楽しい語らいも、今ではその揚をすっかり失ってしまっている。 老人クラブが果たさなければならない役わりは、今こそ大きいものがあるとわたくしは思う。 クラブのなかまが、互いに心を通わせ、冷たい凪の中でみつけた蕗の茎のようなほのぼのとしたよろこびをわかち合えるようにしていきたいものである。 芽麦畑のとおくにバスが見えてきた。窓ガラスをキラキラ光らせて近づいてくる。 わたくしは、蕗の蓄の傍をはなれ、ふりかえりながら、バスに泉った。第22号(2)

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花壇善行団地寿会   石 井示談一-水 花を愛する心、それにも増して 微笑ましく、側通る人々も引きつ花を培う人の心は何と楽しいもの けられて、立ち止ってばその季節でしょう。           ノÅの花に目を楽しませて居ま 私達苦行団地には老入会の人々 す。が思い思いに「寿花壇」に花を培  小学校の生徒さん、中学の諸君って居ります。まことに楽しく、 も時々花壇に写生に来ます。 老入会の人々が僅か半汗か一汗位を区切って、各々季節の花の種をまき、雑草を抜き、肥料を与えて自ら楽しみ、見る人々をも楽しませて呉れる事は有難いことで、スそれが老人達の健康法にも通ずるとあれば何かすがすがしさを覚えます。 私は花は作りません。只見て楽しんで居る側の者ですが、それを時に好さな短歌に托し、花の心に触れ、花の特徴を生かそうと「写生」に励んで居ります。。 元来「写生」というものは「生を写す」と書きます。即ち人ならば人の命を、花ならば花の特徴を、心に触れて写す事なのです。 「老友ふじさわ」を見ましても、俳句や短歌の作品が多々あります、年寄りの「ヮビシサ」 コ我れさ」を是等の短詩型に托して、表現せらるこ俘、同感の至りと中しマ 十月五日日曜日台風十三号の為 き今更の様に自分の過去を板元 がりそうかと云っても時代は違うヽぃ昭和51年3月15日昨夜より天候急変し予定していた って見つめ先輩より受けた数々 明治の事は通らない判断に苦しむ小学校の運動会も中止になってしまった其の日あゆみ会の会長さんが雨の中九月十五日付の老友ふじさわを持って来て下さいました。早速会員の皆さんに配布私も目を通させて頂きました。市長さんの朝のケヤキ、石川第二老盛会の一万と云う数字鵠沼松寿会の方の愛想感 鵠沼北あゆみ公言 埼 市 子様な事ばかり多いご時世です。私も主人を戦争で亡した一人ですあらゆる険しい山坂を越えて居るので其の体験は後々に残して置き度いと何時も心し乍ら何の取柄も無い自分ですが健康の為いつも自分なりに働き続けて居ります。一                へ一日を無事に務めて我部屋の古さ心`は死よりも強し、第四身会の明治 の教えの慎重ねた年輪数々の休 机に向うたのしさ、 去る八月頃の歌に左の様なものがあります。  吾が歩みいつか後ろ手に組む  尉のそのままに佇つ日葵の花 それから幾月「寿花壇」もぞく/Å秋の花が咲き初めました。 サルビアの赤、バラの紅、鶏頭の紅、それぞれの赤にも花の特徴が見られます。昔有名な漢詩に「五月の花よりも紅云々」と云うのがありましたが「十月の花は紅い深し」とても申しましようか、 「寿花壇」の花を中心としての拙歌を披露し御批評を仰ぐものです。  バラの花余り紅けれ近づきて  虻は静止のさまに唸りつ  花散りつ はらはら散りつバ  ラの花 秋おのづから土に落  付く  花園の隅に育ちて桔梗のむら  さき淡く咲き放ついろ  雨降りつ 雨はあがりつ秋寒  くサルビヤの花いつまても赤  く  浮き出でてコスモスの花揺れ .居り二列手を振る園児が通る昭和51年3月15目

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第22号(3)老木は哭レている美 夢 跡 酔歩 老友ふじさわ第二十一号昭和五 いものてある。ナ年九月発行の葉山市長さんの随  この老木がいつ頃植えられたの想、朝の棒の一節に棒の梢が朝の か樹今は何年位たっているのかと光の中でのびのびと天を指してい 駅の人に伺っても返ってくる返事だ、という岩出の文があった。  はサーとか知らないというばかり この文を見た私はあることを思 かこれがユーカリ樹であることさいうかべ何か言い知れぬ怒りと共 え知らないのには全く驚いたのでに悲しみを感ぜずにはいられなく ある。何故私がこの老木にこんななくなったのである、それは江の 関心を抱くのか、私が始めてユー電の江の島駅横内にぶざまそして カリを知ったのは今から約二十年邪魔者扱いさながらに薄汚ない使 位前のことである、それは横浜の所のそばに仕方なく置いてもらっ 貿易商の方でユーカリを白から栽ているユーカリ樹の老木の惨めな 培して各地に無料で配布せられ当姿を思出したからである。    時の新聞の記事によれば、、ユー 市長さんの文にあったように木 カリじいさんと呼称せられていた霊又は木の精かおるならこの老木 方にお目にかゝってからである。ユーカリ樹は哭いてるのではない それ以来私か知っている範囲のユかと思われてならないのである。 Iカリ樹の中では前紀江の島駅の 私達老人もこの老木のような達 ユーカリが毅大なものである。命に泣いている方が数知れずいら  元来ユーカリ樹は豪州が原産地れるのてはないだろうか、何とか てあってこゝにはこのユーカリ樹して生きがいのある老後を送りだ が∵大ジャングルを形成しているとのことである。 甫太平洋の彼方から淋しく異郷の土地で惨めな姿を晒していると思えば何とかしてこの老木を労ってやりたくなるのである。 仏は最近このユーカリ樹に対する朗らかな明るい事実を発見したのである、それは神戸製鋼藤沢工場に伺ったとき会社の前庭に数多くのユーカリの若木が添木をされて植えられていたのに目を見張ったのである。そこで電話でお伺いした処同社の環境保全のお仕事をしていらっしやる飯田さんがご説明して下さったのによればこのユーカリは社木として神戸製鋼藤沢工場だけても現在六百本も植樹されているとのことに仰天せずにはいられなかったである、それのみか全国の同社関係の社に対し十万本を植樹するとのことに再度吃驚させられたのである。何故にユーカリが社木に選らばれたのか聞きもらしたがフト私の頭にうかんだのに亀井野にある県立のゆうかり園のことである、この施設は肢体不自出光を収容していることを思出したので早速電話して園とゆうかりとの関係を伺ったところそのお答はユーカリ樹のようにスクスクと成長するようにとの願からこの名称が生れたとのことであると伺ったとき神戸製鋼の社本として選らばれたのも回じこころではあるまいかと察したのである。 県立のゆかり園にはその名に応わしく相当数のユーカリが植樹されているのであろうと伺ったところ二、三本位とのことであるので前記飯田さんにお願してゆうかり園に応わしい位ユーカリをTハイお植になってはとお奨めしておいたのであるがさてどうなることか、飯田さんユーカリを沢山栽培してこの葉のみを常食としているコアラを輸入して育て皐Pさるようお願します。 最後に哭いている江の電江の鳥駅構内の老木に温かい手を差延べて頂くよう江の島鎌倉観光株式会社の社長さんにお願いします。何と申しましても藤沢市内では目通し廻りニメートル以上もある最大なものでありますとともに私の知って居る限りてはこの老木以上の大木を見たことかありません出来得れば豪州産のユーカリ樹の標示位は出してもよいてしよう、そして多少とも観光資源として利用されても満更てはないと思うので附記いたします。第22号(4)

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昭和肌年3月15日遠藤地区に伝わる古民謡(踊)モ の  一 ―--・遠藤楽生会 青 本 義 春 近年その土地に伝わる、昔なが き、先生方は収録されて行かれまらの民謡(踊)の、研究がさかん すが、踊りのともなうものは、日になって来たことは、まことに悦 を改めて、芸能保存意の人達に、ばしい。             協力を願い、8ミリに収めて貰う 現在七十代、八十代のかたぐ ようにして居ります。然しながら、には、昔よく唄われた、唄や、踊 やがて消えゆくことてあろうと思りを、まだ/Å正確に、ご存じで へば、淋しいきわみてあります。嬉しいことだが、’この人達が亡き そこでせめて歌詞の一部づつてもあとは、やがて消えてゆく運命 紹介さして頂くことにいたしましにあるのてはないでしようか、か た。ようのわけて、この研究をしてお   ○糸取り唄られる先生方が、最近よく私宅を  早くおかえりざいごのお客尋ねて来られますので、てきるだ   朝草刈るのがおそくなるけ協力をしております。当地には           ハアガラく 盆おとり唄をけじめ、焼米価唄、  とうだ糸取り目が出るか麦打唄、木挽唄、日比唄、糸取唄、   糸目ところかひまが出るなげ唄(流し唄)等かおり、幸い           ハアガラノÅ唄える方が健在てすので、その人’赤い手がらの島田のうちは達にお集りを願い、唄っていただ   なぜか心がまとまらぬ         ハアガラノÅ 鳥田くずしてもう丸まげに  しんじよしみたか見ておくれ         ハアガラ/Å お嫁とるなら糸取りむすめ  色は白くて気はやさし         ハアガラノÅ  ○木挽唄 ハアー 木挽や山下の山にも住むがヨー  本の実かやの実 喰やあせぬヨーハアサラコン            くハアー 両手合せて片膝ついてヨー  他人の木を挽く木挽さんだ            ヨー      ハアー‘サラコンノヘ~ ハアー相模横山照手の姫はヨー 夫のためだと車曳くぞヨー      ハアーーサラコンノÅハアーとこの山でも丁半場でもヨー   てら元貸元内の人だヨー   ハアーサラコンノÅハアーー・女房よろこべ今度の山はヨー 金貨銀貨を背負つてかえる   ハアjサラコン/Åハアー元じめ縁は大黒縁だヨー おかみ縁は恵比奇縁だヨー   ハアーサラコン/xIハアー大工左官はもぅこりくだヨー 木挽さんなら今一度ヨー   ハアーサラコンノxIハアー お前のほうから ほれたじゃないかヨー今更いゃとはそりゃ気のまよい ヨー ハアーサラコン/Åハアー 心棒する気にや・レで阿たびたびなるがヨー・∩づ…… 車も片翰じやまわりやせぬ            ヨー   ハアーサラコンノÅ ○麦打唄ひろいお庭で麦打てば音のよさねのよさ里にひゞけるハアコンナレノÅ麦打つ音と暇の声里にこだまし今日の僣さよ   ハアコンナレノÅ見あげて見れば宝泉寺見おろせば門前矢崎 かりごめ   ハアコンナレノヘ,男は高きみねの松 あさましやおなごは谷の這いふじ   ハアコンナレノÅあなたのを聞声きたさに七ツハツ山こえてここまで   ハアコンナレノÅめでたやここのだんなさまいつ来ても恵比寿顔して   ハアコンナレ/Å二昭和51年3月15目

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第22号(5) 夕顔だなのかなだより あらわれ出たるあけち光秀    ハアコンナレノÅ写真の説明 大正の末期頃まてと記憶しているが、当時は、センバで火光や小麦を扱いたので、ほとんど穂首てち切れてしまい、粒にはならないので、その穂首をよく晴れた日を選び、庭いっぱい拡げて乾し、六月末から七月の中句頃まての、皐四い日の盛りを、打ったものだ。頃をうたいながら、クルリで打つ、なかノÅ調子のよいもので、おのづから力が入るわけてあるが、兎も角重労働で、身体中汗が流れ出ば大地主の家で作男や女中を使っ こと≒若い山本梅治氏、桜井太ていた。扱き機もセンバから足結 吉氏が後継者として官治氏の指導機に変ったが、それても足踏機の で心配ないことを確信したので、内はクルリ打であった。その後、よ 民俗芸能保存会で、これを芸能と  ………sEEE:: ::: :§E17 1:゛更ル|篇ルミU乗願N濯    .際||・‘・,. ゜ .||=・: ・s万万||る、一番苦しいのは、額の汗が遠 い脱穀機が出現するようになり、慮なく服の中に入ることであっ 石油発動機や、電気にかわり、クた。               ルリ打は完全絶えたのであるが、 暇をうたいながら、天勢て打つ 当地ては回十九年の秋天先輩官治だ家は大百姓の家で、いいかえれ 関太郎氏が頃を受継いて居られたして復活、回年九月市主催の民俗芸能大会に出演している。 右の文中、日盛りに打つということは麦穂が陽熱で焼けるように乾いているので、クルリ棒が高くから振りおろされ、打たれると実がボロノÅになりやすいので、この時刻を昼休みもせずしたのである。詩・短歌    辻堂富士見丘クラブ         西田 きみ  春 嵐ベ桜が美しく咲きました  硝子戸ごしに見る桜  せっかく咲き出しだのに  もう春風が 吹き散らしている桜は吹雪の様に散っていったわたしは むしように春風が きらいになった春嵐よ やんておくれもう吹かずにいておくれわたしの心の花を傷つけないでおくれせっかく一年まって咲いた花なのにわたしの心の花を傷つけないでおくれこんど吹いたらわたしは もう泣いてしまう    辻堂富士見丘クラブ         西田 きみ○黄水仙あけ方の雪にうつむきて  春はまだかと花ふるえおり○あけ方の雨にさらく消えゆき  し淡雪なれどわが愛は消えず○赤き葉の也はあせねとしおれゆ  く ポインセチヤの使命終りぬ○便りなき日は淋しくて春の陽の  暖かき午後歌集よみてまつ○手の届く処に咲さし桜花  頬よせて見んうす紅の花   六合亀楽会 片野千花子○立ち上らんと俎燧やぐらに  すがりつゝ   腰の重さに足のよろめく○我ながら歯がゆき動作のろのろと 慣れていよいよ老いゆく日々か   片瀬紅葉合 浜野 かく○一年を無事すごした除夜の鐘  年改りて我はねむれり○紅梅は口毎にホヽエみて  うぐいす初合口を待つ○若人よ夢と希望に毎日を  胸をば張りて正しき道を一一(6)第22号

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昭和51年3月1陥今朝、妻が国旗を出してゐるのを見て、今日は旗日だナと気付いたわけだが、それから半日もたって午後用達しに出たが、実はこうしたものを書こうと思って、気づけて見て廻ったが、残念ながら日の丸はとこにも一つも見当らなかった。○寄書きにし掛け征きし日の丸硫       むくろ どうくつ 黄島に弟の骸骨と洞窟にゐむ ちしりよ5げきやく○致死量の劇薬と共にちりめんの 国旗吾家は金庫に死蔵す       昭和22∴‥]・15目縁●これは当時の私の短歌作品だが 戦時のあの頃を想起して、ミッドウェー海戦ての致命的敗北によって我連合艦隊は主力艦船の殆とが壊滅され、相次ぐ各海域での敗戦によって、海軍の兵力が大きく後退して以来、南方海域の制圧によって、海上輸送の道が完全に絶たれ、陸軍が肉弾で占領した前線基地が袋の鼠になってゐるのに、強がり一点張りで、私達国民の耳目を覆ってきた海軍部内にも、さすが敗戦の変色が濃くなってきた、昭和十九年九月、当時米美を中核とする敵連合軍は、所謂、島伝い作戦で北進して、富士山を標的としての日本本士包囲作戦によって、グアム島を制挺した米軍は、愈々、東京襲撃の足がかりとして、硫黄島の上陸作戦を開始せんとして既に行動を起していた、これに対し我軍は、首都防衛の東京湾の前線基地としての硫黄島は、最重要の要塞としてどうしても死守せねばならぬ、こうした緊迫した状況下で、払方では、私の末弟に令状が来て、海軍に入団し千葉@時ならぬ日とは、さだめし父上 の祥月命日でもあろう。 徴兵検査で第二国民兵に編入されたこの人の父は、戦時下せめてものご奉公にと、戦時勤労動員による国民徴用金を待つまでもないと、すすんで自分の職業を捨てて軍需工場に働いてゐた、言はばそれで充分、良心的に国民としての義務を果していたのてはないか、それをス、赤紙をつけて召集さ目の丸は還らず鵠沼市松寿会東 片 山 藤 樹県館山にて三ケ月の教練を受けて、昭和二十年一月末、硫黄島最後の第五次守備隊として前線に向ったが、聞もなく彼我の戦斗が開始され、四十日に及ぶ攻防の死斗の末三月十七日全員玉砕が公報として出された。○戦歿の父もつ家族はばからず時 ならぬ日に半旗出しており○表札をたしかめて来ぬ日の丸を 掲ぐる家風いま時ご立派なりれ、鉄砲の持ち方も知らないまま現地教育するとして、輸送船団の船底で、敵営の爆雷を受け、戦団もろ共銀の餌食となって果てた、「天皇陛下万歳なんて糞でも喰えダ」、それところか写真にしか見れないが、父は浸水してくる最後まで俺達の名を呼びつづけ、母上に呉々も頼むと言い遺して逝ったにちがいない、今日の半旗はその父上の、国家に対するせめてもの反抗の証しだ。●世界戦史にも見られるように、国運を賭けてのこうした戦禍の陰には、いづれもさまざまな彼我に悲惨な犠牲が出ることは、残念ながら覚悟の上でもあり、言うまでもなく、私達が一信総勤員、総決起によって挑んだ当時の戦時下に      じゆっ  こういしようてきあっての、前述のような後遺症的な様相もまた、遺家族の気持は充分判るが、つい先般行われた日本人記者団との会見で、天皇陛下が、お述べになったように、「残念なことではあったが、己むを得ないことであったと思う」、のご一語に尽きるのではないか。○市役所にだけ立つ日の丸の三十 年表ひしもの還るに未だし○突き出てれど日の丸尻目に団地 族赤旗はためく抗議テモに急ぐ●思考して、往古より日の丸が日本の歴史の中に生かされ、明治のご維新以来、私達国民が日の丸の中で日の九と共に、勤勉にして叡智に富む国民性が、営々として築き上げてきた国家、その日本国家を世界に宣揚した国旗に対する尊厳     きよくじつ いしよおちよ5白地に赤き旭日を国威の象徴として仰ぎ見てきた、当時の国旗に対する私達の敬慕が、敗戦によって一朝にして見失われた、この無惨な国民感情が、戦後三十年の歳月を蚤だ今日も、未だ私達の心に還って未ない。それ故、意義ある国の祝祭日にも国旗を揚げる気持になれない、省みて、国民としてまことに残念なことてあり佗びしいことと言はざるを得ない。@私達の多くは共に、明治、大正、昭和の三代に生き、日清、日露、第一次大戦と幾多の事変に常に勝利を収めてきた軍国日本が、初めて打ちのめされた敗戦の体験が容易に癒え難いことは判るが、、さりとて今日、世界の先進国としての日本の、しかも全人口の四十%を占める、戦後の、何も知らない、何故か判らない若い世代が、国旗に対し威信と尊厳と敬虔な愛着を以て国家の象徴と見倣し扱ってゆくためにも、現状のようなこうした一旗不在のとも言うべき、国いつまでも持続してはならないのてはなかろうか。@払は口説大衆に向って、希くは日の九が戸毎にはためいた、曽ての日に還る日の、一日も早がらんことを望んで己まない。合掌-一一一一昭和51年3月15目

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第22号(3)老木は哭レている美 夢 跡 酔歩 老友ふじさわ第二十一号昭和五 いものてある。ナ年九月発行の葉山市長さんの随  この老木がいつ頃植えられたの想、朝の棒の一節に棒の梢が朝の か樹今は何年位たっているのかと光の中でのびのびと天を指してい 駅の人に伺っても返ってくる返事だ、という岩出の文があった。  はサーとか知らないというばかり この文を見た私はあることを思 かこれがユーカリ樹であることさいうかべ何か言い知れぬ怒りと共 え知らないのには全く驚いたのでに悲しみを感ぜずにはいられなく ある。何故私がこの老木にこんななくなったのである、それは江の 関心を抱くのか、私が始めてユー電の江の島駅横内にぶざまそして カリを知ったのは今から約二十年邪魔者扱いさながらに薄汚ない使 位前のことである、それは横浜の所のそばに仕方なく置いてもらっ 貿易商の方でユーカリを白から栽ているユーカリ樹の老木の惨めな 培して各地に無料で配布せられ当姿を思出したからである。    時の新聞の記事によれば、、ユー 市長さんの文にあったように木 カリじいさんと呼称せられていた霊又は木の精かおるならこの老木 方にお目にかゝってからである。ユーカリ樹は哭いてるのではない それ以来私か知っている範囲のユかと思われてならないのである。 Iカリ樹の中では前紀江の島駅の 私達老人もこの老木のような達 ユーカリが毅大なものである。命に泣いている方が数知れずいら  元来ユーカリ樹は豪州が原産地れるのてはないだろうか、何とか てあってこゝにはこのユーカリ樹して生きがいのある老後を送りだ が∵大ジャングルを形成しているとのことである。 甫太平洋の彼方から淋しく異郷の土地で惨めな姿を晒していると思えば何とかしてこの老木を労ってやりたくなるのである。 仏は最近このユーカリ樹に対する朗らかな明るい事実を発見したのである、それは神戸製鋼藤沢工場に伺ったとき会社の前庭に数多くのユーカリの若木が添木をされて植えられていたのに目を見張ったのである。そこで電話でお伺いした処同社の環境保全のお仕事をしていらっしやる飯田さんがご説明して下さったのによればこのユーカリは社木として神戸製鋼藤沢工場だけても現在六百本も植樹されているとのことに仰天せずにはいられなかったである、それのみか全国の同社関係の社に対し十万本を植樹するとのことに再度吃驚させられたのである。何故にユーカリが社木に選らばれたのか聞きもらしたがフト私の頭にうかんだのに亀井野にある県立のゆうかり園のことである、この施設は肢体不自出光を収容していることを思出したので早速電話して園とゆうかりとの関係を伺ったところそのお答はユーカリ樹のようにスクスクと成長するようにとの願からこの名称が生れたとのことであると伺ったとき神戸製鋼の社本として選らばれたのも回じこころではあるまいかと察したのである。 県立のゆかり園にはその名に応わしく相当数のユーカリが植樹されているのであろうと伺ったところ二、三本位とのことであるので前記飯田さんにお願してゆうかり園に応わしい位ユーカリをTハイお植になってはとお奨めしておいたのであるがさてどうなることか、飯田さんユーカリを沢山栽培してこの葉のみを常食としているコアラを輸入して育て皐Pさるようお願します。 最後に哭いている江の電江の鳥駅構内の老木に温かい手を差延べて頂くよう江の島鎌倉観光株式会社の社長さんにお願いします。何と申しましても藤沢市内では目通し廻りニメートル以上もある最大なものでありますとともに私の知って居る限りてはこの老木以上の大木を見たことかありません出来得れば豪州産のユーカリ樹の標示位は出してもよいてしよう、そして多少とも観光資源として利用されても満更てはないと思うので附記いたします。第22号(8)

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昭和51年3月俳句    遠藤楽生会 青木 芳春○夢の間にすぎし光陰喜寿の春○喜雨のあとけろりとしてる月の貌○虫干や見られたくなき文出づる○捕虫網蝉鳴く位置の高すぎる○石蕗の黄やわずかに昼の陽が届く    同     青木すみ女○敬店口夫のグラスに妻がさす○送られし旅荘のお礼夜の電話○いただきし土産ひもとく夜の炬燵○初霜の雫の光る竿を拭く○眉寄せて初冬の夕べ針運ぶ    同     桜井 九華○店の身のしよざいもなくて春炬燵○職もたぬ老の坂道秋深し○な谷母にたむけし今朝の亥の子餅○水打て小縁に暫し渋茶かな○吊りもちに足を取られて秋の帽    同     目代ちか女○稲架垣の高く組まれし旧農家○着古しや胸に迫りて冬仕度   ○西伊豆の史跡めぐりや浜小春  ○年の瀬や暮るるに早し厨事   ○土肥全山中の模型や石蕗の花                    同     長田孫太郎 ○世の移り洋服を着て案山子立つ ○老の手の皺もふえたる目貼して ○風花や家路を急ぐ頬冠り    ○生垣の根/にも欲し薮柑子   ○木枯しや高言に残る樗二三                    圓     桜井ひさ女 ○親子して一と日愉しむ密柑狩  ○山茶花の快いて母の忌近よりぬ ○掃き寄せて夕べの庭に落葉焚く ○故郷に死る細道芒埋め     こ年の募只に忙しさ百姓家                    同     桜井 兼吉 ○石蕗の黄や冷たき雨の降りつゞ  く              ○目貼りせる耶屋のひそかや風邪  良妻             ○紅葉燃ゆ夕日間もなく落ちんと  す              ○薮柑子いとしき會実二三    ○薮柑子色紙に描かれ額の中                   辻堂富士見丘 西田 きみ ○ジェット機の音残すごとばらゆ  れる             ○ばら咲けど空しさつのる目党か な○五月晴れ朝は電話をして見た言○大杉の根元に時雨しのぎけり○神橋に車かえして初詣゛ 片瀬山わかやぎ会 谷口喜太郎○敬老日甘えてならし鍬を取る○窓下を浪打ちよする坦坦かな○旅便り坦坦強めてつづけけり〇涸川を猟師横切りもの追えり○老仲間軍歌に果し年忘れ    片瀬紅葉会 飯塚 あい○水恋しホースの霧に赤トンボ○樗二つ我家の庭のしぶさかな○山系花や一輪のこりて春迎え○紅梅はほよごらたれと池凍る○アパートに裾権はためく春の風    六合和楽会 真田千代子 ○祖梶野の一握りなる若菜鏑む○枚混し聖言詮をもつ牛寄れり      同   石橋 いと○趣味窯に神酒くみかわし老の春○寛ぐや壷に水仙ほのにおう    同     池田 弥枝○初日出宇宙の神秘に心打つ  ○新年会一杯の酒興を添え   ○晴着著て羽根つきし我が十代 ○初詣参道うめる人心        同     堀川 喜重○梅薫る社に老の筆供養    今田共楽会 藤本 茂作○冬の風棒揺ぶる肌寒し○雪ふれば犬は喜ぶ人ちぢむ○師走には誰も喜ぶ餅の音   円行東親和会 小泉 敬助○横綱は今一息に庭の松○三役はとこへ行かうか関の松○秋立や地神の森に虫の声川柳    六会和楽会 堀川 喜重○老さきを忘れて今日初日影    同     鈴木  昇○老の坂気力で登れ龍の年○おみくじも吉と出ました初詣○願いごと多くて迷う初詣○忙しさも去って静かに羽根の音○羽子板を夢に子供は年を越し    同     高田 貞三〇すがりつき泣いたむかし白髪婆    六会亀楽合 青山ひろ子○長年に龍の学風が天高く○年寄を労わる心子におしえ○初春の気高き富土に幸折る○本年も手を取り合いてすこやかに悼 老友ふじさわ前号発行後、次の方々がご逝去になりました。謹んで追悼の意を捧げます。 西俣野第二松盛会会長       飯田 義平殿 苦行白具合会長       橋本 寿人殿 川名富士見丘喜楽会会長       藤林金太郎殿 亀井野新田老盛会会長       佐藤 久古殿*************************************昭和51年9月15日

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(1)第23号 発行所藤  沢  市老人タラブ連合会     が、なんと、明治五年生まれ、満  今春の役員改選で、図らずも、j暫‰百旧識の高令である。      わたくしが、市老巡の会長をつと‘  一回帽 その百四識の老彫刻家が、三十 めさせていただくことになった福務会 印  半分ものしごとの材料を買い入れ がヽみなさまのご支援によってヽは 三     たというこの記事を見て、わたく 前向きの市老逓活動をすすめていしは深く胸をうたれた。     ぎたいと思っている。 わたくしたち老人は、ややもす  からだを休め、頭をやすめて、ると、うしろばかりを、ふりむき 慰労、慰安の日々を送ることも結がちである。          構だが、ただそれだけの連続で かかしはああだった。     は、かえってからだにも頭にもよ 若い頃はこうだった。     くはない。 と、過去にばかりこころを惹か  手足をつかい、顛をつかって苫れて、前を見ることか忘れがちで 労しながら積極的に努力することある。              は、とりもなおさず自分の健康優 これから先のことは、もう自分 特や生きがいにつながることになには関係がない。自分には、こう ろう。したかがやかしい過去があった  暑い夏が去って、さわやかな秋と、昔がたりばかりをしていたの を迎えた。では、回目への意欲も、進歩もな  わたくしたち老人にとって、もべ○IV                っとも活動しやすい季節だ。「前向きの姿勢」ということば  前向きでいこう/を合いことば 前向きの市老連を  -ごあいさつI      会長 岡 村 彦 市平櫛田中という彫刻家が自分の製作に使う材料を、三十年分も買へ空秋いこんだという記事をなにかの鈴江で見かけた。 この、平櫛田中という人は、芸 がよく使われるが、わたくしたち に、お互いにがんばりたいと思術院会員であり、文化勲章に輝 老人こそ、この前向きの姿勢とこ うoく現代日本の彫刻界の大御所だ ころがたいせつである。第23号(2)

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昭和51年9月15目 最近、道徳教育の是非について、いろいろその在り方が論議されているようだが、我国は建国以来「遠他律を国の絞り事の基」として国政が治められてきた、そのあらわれとして、明治以来、学校教育に修身という、課目がおかれて、言はば、国民の基礎人格の形成につとめられてぎた。 しかし当時私達が学んだ修身教育には、省みて、その内容には、多分に抽象的な概念に基くところがあって、その説かれている徳目は、高邁というか、深遠というか、どうも抑を着せられたようなところが多く、凡そ、日々の生活面での実践には、尚、具体性に欠けていた感が多かった。 我国は、江戸末期から、明治維新及中期にかけての教育文化は、所眉、黒船の通商来航を契機として、目本の黎明期ともいわれて、もっぱら、西欧文明の吸収に注がれ、一時期は、文明開化の風潮にのった頌向もみられたが、当時の、ロ本の国情は、まだまだ、学問といえば、お寺の和尚ささや、庄組さまの教化にたよられていて、無学文盲の貧農漁民の親達の多くは、やたらと子供を産みもうけても、愛情だけでは、家庭の教育はでぎず、おのずと知識は教師の授業という、学校教育のみによって授けられ、仲びのびと育つべき大切な生長期にある愛児が、自由性の欠けた、何か涸ぎきったような潤いのない、はめこまれたような丸みのない、人間が形成されてゆくという結果となり、それに明治、犬正、昭和と募っていらた、車両主義教育0強化が支配して、いつしか、所謂、「君国のためには命を鴻毛の軽きに比す」という。至上命令の下、冷戦で、単身肉弾となって敵艦に突っ込んで征った 紅顔の少年収も、又その一人息子の遺族となった親達も、戦後三十今年を経た今日になって、当時の、起るべくして起きた国難に殉ずるに、銃後にまた前線に、一億総けっ起して戦っべ国民全休の責任の結果として、自らに問い自らに盲いているのではないか。 その主因として、当時の、一部戦争指導者によって唱導され、国策遂行された、相手国を無視し侵略を目的とした大東亜共栄圈、米国ワシントンの大統領府の屋上高く日章旗を掲げようとした聖戦完遂、こうした野望の武運長久祈願敦 育 と 道   鵠沼宿根府会東 ら川徳山  藤  樹は、神に通じる出もなく 全欧界の識者の相容れざるところとなり、英国リットソ郷を団長とする、国際連盟各国の調査団によって、つぶさに調査報告され、ここに、世界列強の連合軍の白頭性徴によって、敢なく族滅される結果となった○育との一致を基調としたものでなければならない。 なぜなら、人間の知蜃は、モの進むところ、無限であり、叡智もまた、為すところ万能であって、これが、医学、科学、化学、工学等あらゆる部門への平和的利用の研究と進歩は、宇宙の万物に無限に、永遠の福利をもたらしてきたのみか、大自然(月世界)をも征服して止まるところを知らない。 そこで敢て、世界○科学者に向って警告したいことは、すなわち「智置出でて大協あり」ということで、人間に徳育の伴はない人智のみが暴走した結果が、どんな弊害をもたらしたか かっての日本が昭和の初期、過ぐるロ清、日露の両戦役の勝利によって、全世界に、富国強兵を旗印として、強力なる武力を背景として経済浸暗に野望を燃やし、台湾、朝鮮半島、樺太についで、不法にも支那大佐をも浸蝕し思考して、教育はあくまで、恰 ていた間に、当時、国際連盟国間の中で、もてあまし者として、異物扱いとなっていた日本に、この積年の日本の非行を監視してきた列国が、日本に大鉄槌を与えるべく、米国科学者達によって開発された兵器、すなはち原予予不ルギーにより製造され、日本に対し行使された、彼の原子爆弾の投下の結果が、どんなに悲惨なものであったか、世界対句の被爆国としての吾々日本人が一番よく思い知らされたことではあるまいか。 これは日本が、あぎらかに、所謂、天洙として彼るべくして彼った宿命であったとしても、今日この苦しい体験から目覚め、自ら憲法によって戦争の放棄を全世界に宣言し、なお、所謂、非核三原則をその国是として堅持する、吾々刊本人から見て、敢て彼らに警告したいことは、現在、米、ソ、中仏、同等一連の科学先進国が、自ら開発してまで、核兵器を保有し丁、はみたものの、世界の現状からして使えもしない、また使ってはならない、危険ぎわまる景物をかかえていても、食卓に劇薬を設い昭和51年9月15日

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第23号(3)て食事をしているようで、心愉しくあるまいと言うことだ。 要するに、吾々人間は社会人として、いつの場合でも常に、所謂、自他共に祝福し得る客観的境地に立って物事を見つめ考える判断力が大切であって、まづ地域社会から、大きく国家間の問題のすべてが、互いにその国の主権を尊重し、内政に干渉せず、米国が現在とりつつある、世界の番兵気取りの干渉を撒底的に排撃して、あくまで興国の地域民族間の、自主志向に依る、政策と外交にまかせて、世界各国がすべて互いに、相手国の立場に立って、自国の外交政策を考える、相手国の繁栄に協力し、て白雨の経済発展を考える、この民族共存の大理念が、各国間によって、完全に実践された時、はじめて、世界全人類共通の希求である、地球の上に戦い0ない、真の世界平和が顕現されるであろう。遠藤地区に伝わる古民謡(踊)|lモ の ニ ーー  遠藤楽生会  青  本   義  巻      こぼれ松葉をあれ見やさんせ  ○盆おどリ唄さあさ皆様おどろじやないか とかくこの世は瞑がつま盆んょくと待ちるが豆んょ 豆んつがすぎれば秋がくる松にや松むし稲穂にやほたる 流れ川には水すまし逢うのうれしさ別れのつらさ 逢うと別れがなけりやよい吾が宗は喜寿の夫を始め、私、 出掛る者が重なり、私は嫁に来 二回も呼んだので、うるさいな寝一若夫婦、孫三人の七人家族、孫の て五十三年来の淋しい思いて、 つかれないよと叱られた始末、長男は三月末より九月までの半年間研修のため、愛知県の某家にお世話になっており、たまく夫は市へ合併当時の村会議員仲間で、満二十年目で旧交を温めようというので温泉旅行にでかけ、末の孫娘の高校生はバレーの練習のため合宿生活、嫁は佐渡旅行にと、にわかに三人だけの生活になると淋しくて/へ、私が嫁にきたときは三夫婦と兄弟で戦時中は十三人家感所 近藤楽生今宵 木 す み朝の読経には旅行中の者が無事に帰宅するようにと祈り、心安らいで留守居、いつも孫がお爺ちゃんに、切手、使箇、はがき、ノートと、何でもねだり、お爺ちゃんも喜んで出してやる、家内の円満とは何と幸わせであろう、誰一人意地悪はなく、私達夫婦も愛される老人になりたいと願っております。人様に会えば皆なつかしく、他人の噂をいうでもなく、いつも族であったが現在は約半数の家族 深夜台所で物音がすると息子を 笑顔で話し合い、この世の極楽此のところ、前記のようにたまく 呼び、今何か音がしたよ、と、 処にありと感謝して居ります。 枯れて落ちて右二人ずれ空の星ほど男はあれど わしの思うはぬしひとり竹にうぐいす梅にはすずめ これが気ちがい取りちがい  ○臼 挽 綴目を挽かせてただ帰いさせうかょ 泊めて帰すが女の役よ泊めて帰すはいとやすけれど 中にかたまる児にこまる臼をまわせば手と手が触れて あつくなったよ胸の内臼をまわして限と限があえば 恋のほのおが燃えあがる目がまわるよに仕事がまわりや 地しぼり畑も苫にやならぬお前一人と定めたからにや 浮気するょなわしじやないお前の戸きぎや味噌すりやめて すり子木かついでおどり出す  ○甚  句めでた/へ,の若松さまは 枝も茂れば葉もしげる呑めよさわげよ今宵が限り 明日は出舟の帆をあげる相撲じゃまけてもけがさえなけりや 晩にやあたしが負けてゃるうたえくとせめかけられて 唄は出やせぬ 玉の汗山で伐る木は沢山あかど 思いきる本はさらにないわたしとお前は門ならとびら 朝に別れて晩にあうほれたふりすりゃどじめが辿う 駒下駄へらしに通うゃがる  ○投げ唄(流し唄)わたしゃお前に首だけほれて 下駄はいても未だ足らぬ声はすれども姿は見えぬ 声と姿とかおりやよいお前百までわしゃ九十九まで 共にしらがの生えるまで道くはなれて逢えない時は 月が鏡と なればyよい声じゃ呼ばれぬ手じゃ招かれぬ 胴の文句でさとりゃよい賠い夜道を辻いたいばかり あの娘想うて通いゆく逢でてうれしゃ帰りの道は 心うきノÅ足かるく第23号(4)

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昭和51年9月15日死を顕われていた事と思います。 正に、私達老人にとっては、万人の老人が心の中で、安楽死を望んでおります。 ふいっと消える様にこの世から去って行く事を願ってやみません。が、人生の宿命といいましょ安楽死と安眠片瀬紅葉会 飯 願  あU 皆さま、今日は。また紙上を少 もっとく此の世に未練があるのしばかりお借りして、皆さまと心 ではないのですか。時位、ふいっと消えて行きたいと 間を、私達は安らけく眠りたいと なります。外にばかり楽しさを見いう望みです。ね、そう頻ってい 願っていますが、人間は生れて、 つけないで、家庭内での楽しさをますよね皆さま。        原罪といふ罪を背負っているとい 見つける事だと思います。楽しい 最近も、どこか0お寺さまで、 う事です。死ぬ時は犯した罪を謝 家には一日中笑がたえません、病ぽっくりと死にたいという御老人 して、くいあらため、心残りなく 気してもきっと家中で看て下さるの集まりがありヽ新らしい下着を 眠る事が安眠だと思います。   でしょうヽ別れがぎてもヽ平和の                       ごうを一つにして、お話をしたいと思  入間の業なのです、死に面して、 つけ、死ぬ時はぽっくりと行ける  皆さま屯、そうありたいと望ん 中では、この世にかじりついていいます。             すべてが無になり、意識なく呼吸 という事でヽそのために祈る会合 でおられるのでしょう。安楽死を る見惨めさはないと思います。 過日、ある紙上に、御老人の方 を停止できましだらこれこそ最大 なのだそうです。ほんとうにそう 願う’までもなく、これはもう楽人  どうでしょうかo私達も早晩ヽが(自分は安楽死ではなく安眠を ○幸福な事だと思います。     ありたいと思いますが祈って、そ になった様なものです。行く先が 安楽死などという言葉が必要になしたい)と、のべられていました。  然し人間誰にも軒ダあり中々死 う多易く死ねるでしようかo   どうであろうと、笑をたxえて、  ってくるでしょうが、然しその昌勿論、其の御老人は、休もお弱く、 というものは悟れません。それで、  己れの過去を反省して、見て何 さようならとはっきりいえると思 賜・なく死を迎えるとしたら精神的お床の中で呻吟しておられました。病魔に苦しみ生きる望みを失った の悔もなかったと信じた特にヽそ いま寸y。肉泣を、少しでも楽にと願うのが、 の願は達しられますo当然’その苦しみから早く安楽 安楽死という事でしょう。に安としたといえましょう。ほん皆さま、どうですか、これは満 とうの安眠をもとめられますo囚地獄、極楽という言葉が、古代 足めする方法ではしよう。でもこ 万作よく、平和で暮せる腫に努力 何か、非常に良い言葉の様に聞 の昔からいひ伝えられ人間の酎を の方法は、現在行う事によって得 いたしましょう・終りえます、がこの言葉は、犯罪とし 善に導引くためのヽいましめめの られるのと違いますか。て法に禁じてあるのだそうです。 言葉だと思いますoはたして地獄  老いては子に従えとか、老人にでぽ、安眠とは、どうなるのでし とか天国とかが存在し、死して宣 対していろ/へ不利な言葉もありょう(安らかに眠る)言葉に少し 魂の行ける所があるでしょうか。 ますけど。                    らいくヘノの差があってもやはり同じ目的  未来は空なりともいいます。や  まづ、家庭内の平和を老人からで、病魔から苦悩を解放すること はりこれは生前の生活の中でのい 保つ事です若い人を制してはいけうか、その望み通りに行かないの だと思います。それで、私達老人 ましめだと思いますが、ともあれ、 ないのです。老人は自分自身を判です。死の一瞬前までもきっと、 はどんな方法でもいxから、死ぬ 死は必ず来るのですから、モの瞬 していけば、必ず家の中は楽しく昭和51年9月15日

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第23号(5)遠藤の焼米揚き   遠藤楽生会 青 木  義 春 昭和三十七年頃、芸能として復活したもので写真のようう焼米抑きは明治末頃、某家で行われたのが最後であったと聞いているが、苗代に蒔いた種籾の残りを蒸して煎り、これを二斗張りという大きな日に入れて、橋く杵は兎の餅橋台の絵にでてくるような形の杵で長さ約一米位のもの三本、普通は三人で唄に合せて橋く、その時日の内ぶちを二回叩き中に橋台込む、んの友達や、若い衆(青年)を招き行ったもので、古老の話による 焙きあげた米に大豆を煎り、石八日で挽いて皮を除いたものをI{割か二割位い、混合して食べたが、作なかノヘの美味で忘れられない。}一般家庭での焼米作りは昭和の初}期まで続いたと記憶している。]憑lalljj iダ白lii宍)  || k]ルUプ1ヨ瓢彭ヅ|:=1:1::|゜:゜日゜:|゜謳i4レブ ̄言 蕊訟,||,lllこれを三人して交互につくと音が絶えず、トソトントントントントンと聞こえ、唄のリズムに合ってなかなか素晴しい、これは一種のと若い衆が多い時は一本の杵に、二、三人も手をかけ大服いで、随分だのしかったとのことである。 一般家庭でも焼米は田を作る家あそびで娘さんのある家で、娘さ では拵えたがひっそりと抑いた、 ○焼米謁唄○めでたやここの床の間に や 金銀できざんだ恵比寿、 大黒○めでたやここの床の間に や 唐金の銚子に銀の盃○やき米つきにたのまれて 恥かしや いとこに袖を 引かれて○鎌倉見たか江戸見たか 江戸は見た鎌倉名所はま だ見ぬ○江の島前で米つけば 音のよさぬのよさ岩へひ びける○空とぶ鳥にやるぞ文 落すなよ羽がいてしめて届ける○しめたる羽がや落しても わが殿が届けた文はおとさないみの虫の赤ちゃん本庁∩辻堂高士見丘青葉会 西  田  き  み○みの虫の赤ちゃん どこから来た○ 本の箱の上に本の枝のように 立っている 丈はIセンチ位かしら:・:・○おや、小枝かしらとよく見ているとョチく歩きだしだのでみの虫とわかった人間をだまそうとしたってもう駄目よあなたなんかにもうだまされないわわたしは おかしくなって笑いだした鈴  蘭庭に鈴らんが咲きました葉のかげから天使の鈴のような白い小さな花が並んで見えます恥しそうに静かに咲いている可憐な姿泣いているような淋しい花天使の涙の雫が 星の雫がしと/Åと落ちているような淋しい花わたしの好きな鈴らんの花丁度わたしのように静かに独りで泣いているようなわたしのように淋しい花第23号(6)

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昭和51年9月15日明治生れの心意気   (人生劇場の節)一、明治大正昭和と生きて   すいもあまいも 咬しめま   した     ねんりんだて  重ねた年輪 伊達てはないぞ   昭和の若衆 ついてこい二、明日の命はわからぬなぞと   くらい気持は さらりと捨   ててあす明日にはあしたのてば兪べほう希望を持これが長生 させるもと三、五十六十は花ならつぼみ   七十八十は 働きざかり  九十になって 追加さても   百迄待と 追かえす四、忿間百迄わしゃ九十九迄   共に白髪の 生えますまて  皆んな仲よく 手をとり合っ  て   行くのがわれ等の クラブ   ですとしより小唄  (お座敷小貝の節)一、明治、大正、昭和まで   苦労重ねて来たけれど    今じゃ苦労の    甲斐あって     その日その     目が極楽だ二、昭和のこの世はあ  りがたい   老人福祉の迫間   らけ    楽しくその日    が居られる     感謝の気持     を忘れるな三、感謝することそん  万々ない   みのりの稲穂と   同じことの この世に生れたつとめ です人生の華藤沢市東部地区老人クラブ ことぶき会美夢路駄作集      甘菜削言冷飯匹自白) バス旅行等で肌って下されば幸いです下げる頭は光ります光る頭はとおといぞ(真室川音頭の節で)一、としよりクラブと  言うけれどコリヤ  まだまだ 若いぞ  見ておくれ  本当の花を咲かす  のはコリヤ  これから先きの  心意気ドソトコイ  くニ、宍心ではないぞ  顔のしわコリヤ  あたましらが  頭の白髪も同じこ 一と世間の荒波乗越えてコリヤがんばりつyけたこのからだ      ドソトコイノyI四、光る頭でこれからも   世間の加役に立つように  三、苦労重ねて 小飲を育て尽して行くのが答れ答礼コリヤ  この歳迎えた ものだもの  しわも白髪も 苦にゃならぬ            コリヤ  昔偲べば 亦楽し ドソトコ四、人生の苦楽を話し合いコリヤ集い合うのがみんな仲よく長生きしょうぜこのクラブほがらかに    コリヤ 健康でドソトコイく五、皆で胴およ 人生のぐちも苦労も みな忘れ今が吾等の華じゃものコリヤ手拍子揃えて 皆暇おう      ドントコイノヽ、、利をクラブの歌     (草津節で)いんなでおいでよ、としよりクラプ「ドッコイショ」 が谷りや宍い      T一Iリヤ」        「チョイナく」三、皺をのばして、腰までのばし        「ドツコイショ」   おまけに寿命が           [コーリヤ」    亦のびるよ        「チョイナ/へ」  ぐち くろ5  わす四、愚痴と苦労を、忘れることが        「ドツコイショ」   長生きさせます           「コーリヤ」    おらが会よ        「チョイナく」 うぐいすな   むかし五、鶯啼かせた、昔をしのび        「ドツコイショ」   入歯とばして「コーリヤ」    笑い合ふよ        「チョイナく」六、笑い声すりや、貧乏神も        「ドツコイショ」   おしりからげて「コーリヤ」    逃げて行くよ        「チEイナノヘ」     わら ごえ     笑い声よ一一チΞ/‘ナ?/\ご へ』    いで              .二、お出でなされよ としよりク   ラブ「ドツコイショ」    く   せけん    米れば世間が「コーリヤ」     ひろ     広くなるよ嫁もしゅうと右、息子も孫も      フrッコイショ」 皆んな揃って「コーリヤ」  なごやかによ      「チイョナノÅ」一一一一昭和51年9月15目

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第23号(7)[圈二回短歌   辻堂富士見丘青葉会 西田きみ  富士見丘老人クラブ発会式を祝して○目の覚めるまっかなつゝじ 水盤に  白百合そえて発会式祝う○幾とせをはや過ぎたれど 変らぬ 友を  なつかしく思う 春の集り○いつまでも青春よと 電話にて  友と語りて笑いあいたり○南瓜のつる犬小屋の屋根   はい上り 大き実 二つ結びてくれぬ○好きな歌 歌いつゝ過す幸せを  思えどなどかみたされぬ日々○僧力み木魚を叩き冴え返る○猫の世に三角恋のありにけり○卒業の日の校門に触れもして○一浪が青葉の山を生かし居り○浜長閑母より先に子の走る    仝     青木 すみ○高校の娘は浴衣着て大人めく○月見草夜毎咲き継ぐ河原道○解体卓出と積まれぬ夏の草○たのしさは揃ひ浴衣の柄合せ○夏祭り御礼の電話忘れ傘俳句    片瀬山わかやぎ会           谷口喜太郎○玉垣の掛大根や里日和○鈴紅葉散りて青空広がりぬ○空濠の底より上がる花埃○梅の香を払うに欲しき赤毛せん ○堪え忍ぶ竹に積りし雪払い       仝     田代 ちか○積る雪払へば竹はぐっと伸び                   ○由緒ある小出川辺や草を摘む    ル願紅葉会 飯塚 あい    ○錆釣りの舟漕ぎ出だし波静か○つばくろの子は電線に楽譜のごと                   ○訪へば翁は茂りし散市道○綱を張る蜘蛛を暫く見つけけりI               ]    仝     桜井 ヒサ鎌倉や紫陽花寺を訪ふことに○温室に入れば触れけり蜘蛛の糸○忙しさも解放されて夏祭り○電話かけ七夕ゆぎを誘い合ふ○花菖蒲今日はフラワーセンター に    仝     長田孫太郎○新茶の香ほめく老女満足げ○石仏の顔も明るく百合捧ぐ○百合の香の漂ふ山路語り往く    仝   宇野 ミヨ○またI人孫ふえてくる夏休み○一丁目五丁目かける虹の橋○桐の花高家少なくなりにけり  ○山鳩の鳴きし夏の夜豪雨なり○行きちがう舶あやめに触れく て○題枯れて抗ちし小舟や水鏡    今m呉楽会 藤本 茂作大庭高砂会 高橋亮一郎 ○ハ重椿見事に咲いた花の数○掛といの音も輪になる水鏡○梅の香を汲んで千宗の茶立かな仝あじさいの日々に色澄し雨期半ば○春の雲ふわふわ宙に浮いており○浴衣縫ふよろこび踊りのこと想 ○雨上りまぶしきまでの青葉かな ふ○おだまきの花咲き少女美しき    仝     桜井 兼吉○青梅を落すや亜鉛屋根に音○蜘蛛の糸顔にふれもし山路ゆく ○寝返りを打つ時額の蚊がはなれ ○蜘蛛の子がむらがりこぼれあた  り這ふ                仝     有馬しな代○蜘蛛張りし巣の巧みさよかすみ網○庭の隅色あざやかに七変化○梅雨晴れの木の葉つやめき吹か れおり○麦の穂の波立つ野路を語りゆく○紅梅や幼き友の家と知る○尋常木花は小さいが匂い良し      遠藤楽生会 青木 芳春 八、わしの若い時、なんぞはおよ  し「ドツコイショ」   きうちゆ5じたい   宇宙時代だ[コーリヤ」    追いつかぬよ        ツーyョノーナノヘノー九、口は立っても、足腰立たぬ        「ドツコイショ」   脱を立てずに「コーリヤ」     にこにこと        「チョイナく」十、親じゃ親じゃと、言ふのはお  よし「ドツコイショ」   小供がありゃこそ          「コーリヤ」    楽いん居よ        「チョイナく」   ずいぶんたっしや  まえ ぶじ十一、随分達者で、お前も無事で        「ドツコイショ」    あいさつ交すも          「コーリヤ」     久しぶりよ        「チョイナく」十二、月に一度は、としよりクラ   ブ「ドツコイショ」    命の洗濯「コーリヤ」     するがよいよ        「チョイナノÅ」第23号(8)

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昭和51年9月15日趣水 野 佐 忠 氏  叙勲の栄にかがやく-------------------------------  藤武市老連相談役水野佐志 氏は、多年にわたる保護司と しての功績によって、五十一 年春の叙勲において勲五等瑞 宝賞を受けられた。  本会にとっても、まことに 名誉なことであり、ここに祝意をこめて披露する次第です。-、/ベー/Q、/Q、’~,’XZX//≒J/≒,/-ベー/-へ,-/Q-,ぐlr-x昧 の 作品展近づくQ、、5X~/ /浜ステーショソビル六階で開かれることに決まりました。 縮図、書道、手芸、工芸、生け花、俳句、短歌、ふるって出品し   「しのぐ」とい弓言葉がありま  そのこと自体、けっして悪いてください。 ・詳細は事務局まで囲碁・将棋大 会 県下の問罪・将棋を愛好するおとしよりの代表選手が一堂に集す。               傾向ではなく、むしろよいことで  「しのぎよい天気ですね」など すが、中には、自身の努力をせずと、暑さ、寒さを堪えるという意 に、ただ主張だけをするような不味で、よく使われます。     心得な例もなくはありません。 辞書によると、(障害、困難な  自己の努力を怠った他力本願にどと闘って、それをのりこえる。 応えることは福祉とは言えないでまた、それを堪え忍ぶ、我慢する しよう。こと)と畳かれています。 考えてみますと、わたくしたちの日常には、この、「しのぐ」こい、技を競い合う囲碁・将棋大会 とヽ「忍ばなければならない」こが十一月五目、および十一月九日 とが、いろいろあります。面目、県の老人福祉センターで聞かれます。 近く、藤沢代表を決定する予退会を、藤沢老人福祉センターで開 おとしよりの生きがいを高める 六回。ともしび運動の一環とし 催の予定―趣味の作品展も、ことしはもう第 て、十月二十二日から四目間、揃  腕をみがいておいてください。 戦時中は、「欲しがりません勝つまでは」などと、国の目的のために、私欲を棄て、我慢することを強いられてきたのですが、現今の社会の風潮は、みんながそれぞれの主張を、遠慮なく声を大にして述べるようになってきました。 残暑はまだまだつづいていますが、庭に芙蓉が咲き、朝夕の風がさわやかな九月を迎え、猛暑をしのぎ通した喜びを覚えながら、「しのぐ」ということばから、あ且これ考えています。*************************************昭和52年5月1日

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第24号(1) 発行所藤  沢  市老人タラプ連合会社会福祉協議会(事 務 局 内)  印刷所三  光  堂は、ちょうど来藩中のキグレ犬サーカスの観覧であった。 閉講武には、岡村彦市学長から昭和五十一年度 市老連のおもな足どり修了証書が授与され、(これでま 四 月 事務監査た就職条件がよくなる)の声などあって楽しい、しかも意義ある催しが終了した。な 学 習 風 景心熱    県老遮事務担当者会議五 月 評議員会(総会)開催六 月 春の湯治旅行(水上温泉)    正副会長改選による事務    引き継ぎ九 月 第十六回老人福祉大会    県老人大学へ参加    老人ふじさわ二三号発行十 月 高令者趣味の作品展出品    高令者囲碁、将棋大会へ    参加十一月 第八回老人ズポーツ犬合    老人のための県民のつど    いへ参加十二月 秋の湯治旅行(白浜温泉) 一 月 新年賀詞交歓会    関東甲信越ブロック    老人クラブ総決起大会二 月 第十五回モデル老人大学三 月 役員、関係職員合同研修    会回答蓼モデル老人大学開講 受講学生は、市内各老人クラブ 第二目 高令者の交通安全代表二七〇名、いずれも若々しく  講師 藤沢警察署交通課長ハツラツ、(ことしは、女学生が           宮沢 章氏多いナ)というささやきが聞こえ 第三目 晦事問題解説るほどの学園ムード。       講師 神奈川政経懇話会 講義の日程は             ヽ      大川 進氏第一日 藤沢市の老人祖母    第四目 老後の健康 講師 藤沢市社会部長      講師 藤沢保健所         柴 幹夫氏           有本住子氏そして、最終日程の社会見学に(2)第24号

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日昭和52年5月1 大正十四年の三月、当時庚申堂に店をもったばかりのある朝早く、一人の虚無僧が私共の表てに立った、安宿から出てきたとこらしく二銭玉をその目の施しに上げてから、新妻が気をぎかせてお盆ににぎりめしと味噌汁に沢庵を添えて差出すと、むさぼるように食べはじめた。 尺八を背中差しに深編笠をとった普化宗の輪袈裟をかけ紋付袴姿 しゆぎよ5そ5 ひげの修行僧は、白髭の見るから気骨たくましい風格で、空腹が満たされた嬉しさからか一枚の懐紙を取       aやたて    ぽつり出すと、腰の矢立をとって墨こんあざやかに、ただ一字「程」と次の詩一首をモウー枚にさらさらとしたためると、無言で私に手渡し丁ねいに目礼して立去った。○物を乞ふさげす身にありてうつ し世の人の心を知るぞえにしえ 以来起伏のはげしかった五十余年間を▽心に神棚に上げて、いつもこの時の「程」の一字を守りつづけてきたつもりだが、長い間の喜怒哀楽のすべての感情に、至って血の気の多かった私が、いつの場合にもこの「程」がブレーキとなり、中庸となって、どうにヽか大過なく安らいの今日を迎えられたことに妻と感謝している私である。何か大きなものが欠けている、大きな落し物に気付かない結果ではあるまいか。 よく言われる「言論の自由」とか「人間は感情の動物だ」という。そうかといって個々の感情がそのまま勝手放題に発言されたりしたらどうなるか、まず大切な社会の秩序は保たれないだろう。 何故なら、人は互いに社会とい米子〇一ケー------‥---鵠沼松寿公吏 片 山  藤 樹○つつがなき安らひにありて神棚 の程の一字をしづかに見上ぐ○子息らの伸びゆく様を安らけく 見守りつをり後に位置して これは独り私ばかりでなく、現在の私達の日常は朝の目醒めから、新聞にラジオテレビに、入ってくるものは実に日まぐるしい、とても信じられないこと、いかがわしいこと・でIぱいだが、これはう連帯性をもって、四六時中神というか仏というかそうした大自然の恩頼のまにまに、常に、生きつ生かされているのであって、又それなるが故に、単に対人関係ばかりでなくだ、動植物から器物にいたるまで、すべて、生きゆくための天与の素材に対しても同様に、凡そ、見るもの見えるもの聞くもの聞えるものからくる、すべての喜怒哀楽の感情に対しだ、物事はすべて相対性で、自己の言い分を相手に理解して貰うためには、まず相手方の言わんとすることを、よく耳かしげて聞きまた分析していきなり発言することかく、一歩前で一息しグッとブレーキし、感情をコントロールして中庸を採りあくまで自己の主観を抜きにして客観的にしかも徐ろに対処することが大事で、この点の「程」を守ることが何よりも大切なことだこの「程」の一字と、物事に対する「素直さ」こそお寺の和尚が踊じる百巻の経典よりも、もっともっと大切な人間処世の原占Jであるろノo○点訳にいそしむ妻のかたわらに 夜更け起き出て紅茶を運ぶ○老後など思考の外に詩集目指す      とうげんぎよう 書室に吾は桃源の境 人はまず内に在っては円満な家庭の構成から、出でては近所隣りから、更には地域社会、大きく国家間のすべてが、その人その国民一人ひとりの個性からくる意見とか主義主張に依って募られてゆく、集団の力が、その国の思想や志向を方向づけてゆくのであり、また将来その国の運命をも支配する大きな影響をもたらす結果となるのであって、その一粒の種子とも言えるお互い一人ひとりが、いつも日々の生活環境の中にあって、身近かな感情にこの「程」を守り、鏡に向っての身だしなみと共に物事に対する「素直さ」を守って、冷静な判断と着実な考察によって社会に処してゆくことが何よりも大切なことで、こうした人々の心の触れ合の集積によってこそ、真の福祉社会も、平和国家の建設も遂進されてゆくものと言え           合 掌昭和52年5月1日

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第24号(3) 藤沢市と児玉将軍と中しても現在天下の話題の人昭和の怪人児玉誉志夫とは全然何の縁りもないことを言明しておくことにする。 さて私がこれから書こうとする児玉将軍とは日清、日露の戦争に非凡な頭脳を以って一大貢献をせられ特に明治三十七、八年の日露戦役には満州軍総司令官大山元帥の側近にあって全軍の総参謀長として、この日露の大戦を大勝に導いた一大偉人である。ではその大偉人が何故藤沢に関係があるのか、現在の若人達は勿論明治生れの人々でも現在では名将軍児玉源太郎の名を忘れており亦若い人達は名前さえ聞いたことがないと思うのである。ところがこの児玉源太郎将軍が吾が江の島に大正十年七月二十七日に遷座式が立派に挙行せられ以来五十有六年児玉神社藤沢市と児玉将軍東部地区ことぶき会連合会 美 夢 路 酔 歩として祭褐されているのである、この神社が江の島にあることを知っている人達が何人いるか江の島以外の人達には殆ど知られていないのではなかろうか。 さて皆さんが江の島神社にお参りに行った場合よく聞く言葉に弁天さまにお参りして来ましたと言われるのであるが、江の島神社とは三つのお宮があって一番手前の「エスカー」から降りた場所に昨年から立派に改築せられた社殿と社務所が辺津の宮で祭神は田寸津比売命であって新社殿の偏に弁財天即弁天さまが安置されているのである。 次が中津の宮で祭神は市寸島比売命で辺津の宮から金亀桜の前を通り小高い場所に存在している、        たきりひめのみこと次は奥津の宮で多紀理比売命が祭神で位置は彼の有名な稚児ケ渕に下る手前で特に拝殿の天井には抱一筆のハ方睨の亀の絵が画かれている。以上三女神が初られているこの総称が江島神社であるが、さて私が皆さんにお伝えしたい児玉神社は金亀桜の手前の石段を下ると右側に児玉神社の石の鳥居が第一第二第三とあってその先に児玉神社の社殿があるのである。 さて日露戦争の名将軍の中で神として胴られて特に万人に知られている神社は乃木神社と東郷神社でいずれも東京に立派な社殿があり常に多くの人々が現在でも参拝しているとのことである。 特に乃本将軍は彼の激戦に次ぐ激戦で多くの決死隊勇士を始め多くの将兵を戦傷死せしめ特に将軍の息子二人も壮烈極わまりなき戦死を遂げられたのであることは余りにも有名である、亦明治大帝の崩御の際静子夫人と共に殉死せられたことは明治生の私達には忘れられないことである。特に日露戦争の大勝利を決定づけたのが日本庭火海戦である、この日明治三十八年五月二十七日敵艦見ゆとの報らせに接し鎮海湾に特期していた我日本海軍連合艦隊司令長官東郷大将はZ旗を揚げ皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよと訓令を発したことも亦有名である現在横須賀にその当時の連合艦隊旗艦として保存されている三笠艦の艦橋に立たたれ雙眼鏡を片手の偉容が偲ばれるのである。 さてこの大戦争以前に陸軍は奉天の大会戦を以って陸軍の勝利の結末を期するため奮斗せられた将軍であることは余り知られていないのである、私も司馬遼太郎の坂の上の雲や江島神社の相原宮司さんから頂いた「江の島しるべ児玉神社誌」等を読むまでは知らなかったのである。 満州軍総司令官大山元帥の総参謀長として縦横無尽の大活躍をせられ奉天火会戦を以って我が陸軍の総決戦とする迄には並々ならぬ激戦苦闘の限りが続けられたことは今ここたに新に記すまでもないことである。 さて私が少年時代臥薪嘗胆という言葉をよく聞かされたことを覚えている、それは明治二十七、八第24号(4)

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昭和52年5月1日年の日清戦争で清田は朝鮮を清田の属国であると宣言し我が日本が直接朝鮮との、接近各種締約の一切を破棄するよう一方的に中込む等の無礼極わまる度重なる態度に対し遂に日清の国交断絶となり明治二十七、八年に亘る一犬戦役には我国は多大なる犠牲と膨大なる国費を使ってこの無礼極わまる清国を激減我が日本の犬勝利となったのではあるがこれが講和談判の我方の中出に対し露仏独の三犬強国は極東永遠平和のためと称し遼東半島その他の占有の放棄を要求し謳濁乱と台湾のみの占領と戦賢二億両を以って講和の決定を見なければならない全く不利な条件に屈伏しなければならぬ三国干渉の前に臥薪嘗胆の思いであったのだ。このとき既に十年後に起る日露戦争の芽生の種をロシヤは蒔いたのであることは十年後に如実に現われたのである明治三十三年の北浦事変以来露田は日清講和条約に対し日本の遼東割譲は東洋平和に害ありと仏独を誘い前記三国干渉により遼東道附を我が国に強要した披露国は種々なる口実を設け遼東の占領を企てやがて韓国の境鴨緑江に迄陸軍の大兵を派兵し満州併呑の野望を露骨に表わす迄に至ったのである、これに対し我国が平和解決の望を伝え反省を求めたことに対しても何等答えることもなく海陸の軍備を促進しすでに大兵団を北緯の境上を圧し、ウラジオ艦隊の一犬活動と旅順港の整備拡張等実に目.に余る侵略的野望を露骨に表し我国の危殆はその極に達し遂に日露の国交断絶に至ったのである、かくて宣戦の詔勅は公布せられ大本営の動員が下ったのが明治三十七年二月十一目であった。 さて広田の極東京は多く旅団編成の狙撃隊とコザツク騎兵及び砲兵、騎砲兵で特にコザック騎兵の名声は全世界に轟いていたのである。シベリヤ鉄道及び東清鉄道の補助工事を完了軍隊輸送力を増加頻りに南方に兵力を増し旅団を師団の編成に改め各兵科も夥しく増加されたのである。 これに対し壮言も各軍団を編成し黒木大将を司令長官とする第一軍団は鴨緑江の渡河戦より進軍九連城占領、奥大将を司令長官とする第二軍団は我が海軍の掩護のもとに上陸遼東の敵を中断した後北方の敵に一撃を加え更に金州南山の敵に向い先ず金州城を攻め落した但しこの戦斗で我軍の死傷四千を越え敵も亦五百の死体を遺棄俵順方面に潰走せしめたのである。 次に第三軍の編成司令長官は乃木希典大将であった次で野津大将を司令長官とする第四軍団が編成されたのである。 敵の総司令官クロバトキソは遊説に大軍を集中一挙に我軍の撃破を期しそれに備えたのであるが我車も激戦に次ぐ激戦苦戦に次ぐ苦戦の結果飯山及び前山保の占領の米俵順総攻撃が開始せられるに至ったのである、このときの敵将はステッセル将軍であったのだ乃木将軍の第三軍は前記の通りあの死闘に次ぐ死闘二〇三高地の難戦は今尚有名なもので.ありこれ亦私共明治生れの者達には終生忘れ得られないものである。 我軍の強襲と肉迫による遼陽陥落後敵軍総司令官ク号ハトキソは遂に楽天を根拠地とし原沢一帯の地に堅牢なる陣地を構築本国より大軍を送らせその数二十八万八千金を迫加以って我軍の北進を遮断潰滅を期したのである。 この半天の敵に対し犬山総司令長官と児玉参謀総長は首軍団の司令長官を召集明治三十八年三月一目を期して楽天総攻撃開始の命令をドしたのである。 黒木第一軍団、奥第二軍団、野津第四軍団は敵の正面より攻撃右翼よりは川村大将率いる鴨緑軍団が迫った。この軍団は予備後備の老兵の集合であって、すでに長期の戦役に人的資源の危機に顔していたことの実証である。 左翼よりは急速北上を命じた乃木軍の第三軍団は敵の側面と後方撹乱と敵の後方よりの増援遮断等最も困難なる部署の戦いであったのだ首班の勇猛果敢なる前進包囲攻撃等両軍人乱れて混戦激闘十日間敵は遂に我が軍の勢に屈し敵将ク号ハトキソ将軍は北方に退去を命じた時に明治三十八年三月十日常天占領の栄ある常天入城とはなったのである。後にこの日を陸軍記念日と定められたのである。 当時としてはこの会戦こそ有史以来の大会戦でその戦線の延長は五十有金星戦闘員は彼我の数実に八丈万金であった、我軍の犠牲死傷者は合せて約五万敵は十六万を失い戦場に遺棄した死体二万余、捕虜三万余と記るされているモの他大砲小銃及弾薬等莫大なる数に連した0であるがこの戦闘で我軍も弾薬等は殆底をついた状態で皆無に等しいものであったのだ。 児玉将軍は楽天入城後極秘の内に帰国を考えたのである、それは楽天の大勝で国民はこの大勝に酔い国力がすでに尽きていることを却ってか知らずか新聞が伝える我軍の連戦連勝に「ウラル」を越えてロシヤ帝国までも征くべしといっている国民大衆に政治家迄も雷同している状態を知っていたのである。           ・ 今後三ケ月たてばロシヤ本国からの派兵で満州のロシヤ軍は強大昭和52年5月1日

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第24号(5)なものになり現在の日本車の三倍 見したとも伝えられている、かく 我国は前記陸軍記念日も海軍記念 ソ迄攻撃を続けた場合強大なる大 等の恩恵に浴した人達にょって生にもなるであろう、我軍の将兵は して五月二十日楽天に帰営するこ 日も今は只昔物語りとなってしま ロシヤ陸軍の巻返しは必定であっ 前将軍が指南の地を常に賞されて大量の戦死戦傷等でいちじるしく とが出来たのである。      ったのである。         たであろうその結果万一目水軍の 居られた事等によって江の島の地低下している実状であることにつ  さて当時世界注視のバルチック  陸では半天、海では日本海の大 敗戦にもなった場合を考えたら今 が選ばれここに児玉神社の設立といて司馬遼太郎の坂の上の雲によ 大艦隊はウラジオストックに向っ 捷にときの米国大統領は交戦両国 次の太平洋戦争の敗北は無かった はなったのである。れば三倍のロシヤ車に対抗するた て偉風堂々の航海を続けたのであ に対し講和の勧誘により日露両国 であろうがその以前に我国はどう  奇しくも乃木将軍も亦藤沢に御めには日本としては更に六ケ師団 る、かくて待ちに待った五月二十 は之に応じ米国ポーツマスに於て なっていたであろうか現在の北方 縁があったそれは乃木将軍が学習を新に編成し戦費十億円を用意しなければならないのであるがモの当時の目本の国力から見れば全く夢物語りであったのだ。 軍人ながら大山、児玉両将軍はこの辺の国力財政事情に対する金勘定を充分理解していたのである従って北退した敵の陣地ハルピソヘの北進に対してはこれを押えることを決したのである。 上京した児玉将軍は元老伊藤博 七日戦艦見ゆとの警報に接しここ文、桂首相、寺内陸相、山本海相、 に日本海の大海戦の火蓋は切られ領土問題の比ではないのである。 院々長時代学習院の生徒を片瀬西岸天火会戦で陸軍の北進を止めた 浜で海水浴させたことが縁となっ児玉将軍の先見の明は誠に見事で て現在江の電経営のモータプールあったのではなかろうか私は将軍 の入口正面に将軍の銅像が建てらに対し感謝したくなるのである。 れていたが終戦と同時に取払われ さて児玉将軍が何政江の島に神 てしまったのであるが銅像の台石として神社に褐られたのか、それ の一部は二〇三高地から運ばれたは日清の戦役で我が領土となった ものであると称されているがどの台湾の第一次総督は禅山海軍大将 石か現在も台座のみは残っている次が桂大将、第三次は乃木大将の が私には解らないこのこともつい小村外務大臣の他彼我の意見の交 後第四次総督として児玉将軍が就 でに附記して厭きます。  終換を重ね明治三十八年九月五日両 任せられ後藤新平氏を民政長官と山県有朋ヽ長岡外史等に対し早期 世界海戦史上比類のない大勝利を 国全権委員の調印十月十四日両国 して迎え困難なる台湾の統治の実講和交渉開始を米英等に要請する 得たことは世界列国から賞讃を博 皇帝陛下の批准を経て十六日休戦 効を見事になし遂げ特に塩、樟脳よう建言したのである・     したのである、この日は後に我国 に至ったのである。       等の専売判の復活特に製糖事業の 将軍は楽天に帰営するに当り東 の海軍記念日に判定されたのであ  ここで考えさせられることは連 開発等に意を在がれたことは余り郷日本海軍連合艦隊司令長官と会 るが太平洋戦争で敗戦国となった 戦連勝の勢に乗った陸軍がハルピ 知られてはいないのであるがこれ第24号(6)

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日昭和25年5月1Wq4・ 一、まち遠しかった春  辻堂富士見丘 西田きみああ軽くなりました厚い衿巻をとって何枚も重ねていたセーターを           ぬいでさっぱりとした春着に着かえてああ軽くなりました、やっぱり、春はいいですわねもう春がぎたのですわ……嬉しいですわね・.・:・・四月の温かい日。  二、夢早く温かくなって先生と旅行がして見たいと思って元気を出しています夢で、でもいい希望をもって目覚めて希望をもって夕の鐘に感謝の祈りを捧げよう明日の朝目覚めるその時まで先生のみ胸で 幸せの夢を見様わたしは杖をつかねば歩けない悲しい身障者俳 句    遠藤楽生会 青木芳春○迎年やまだ命あること想う○生きがいは俳句にありと年迎う○寒酷し砥ぎすまされし月の鎌○寒敵し老僧力み木魚打つ○寒林を突さすごとく風吠ゆる    同    青木すみ女○あづかりし産婦すこやか雑煮餅○屠蘇陽の顔ほてらせて客迎う○初孫の白足袋指う宮参り○毛糸編む嫁の真心胸を打つ○破魔弓の主抱きあげて写さるる    同   田代ちか○野地蔵の裾に燃えおり漫珠沙華○寒雀牛のこほれ餌つつきおり○家を建つ槌音冴えて寒酷し○福寿草買来て置きぬ陽の洋間○辰年も恙なくすぎ初脂り    同    長田孫太郎○山椿紅重ね合い咲き盛り○元日や香煙たなびく大伽藍○舗装路に落葉まろばせ風荒ぶ    同   桜井ヒサ○陽の縁に語る老友福寿草○初春や何年ぶりかに友の来る○老二人語らい尽きず昼矩舗○鉢いっぱい盛り上り咲きシクラメン○落ちなんの陽に紅増しぬ寒椿    同    有馬しな代○盆栽の松と並べて福寿草○麦を踏むことも松の内すぎてよ○寒心くし小雨書れたる麦の青○寒酷し石焼きいもの声尖る○別れ来てそこはかの梅尾を引くも    同   桜井兼吉○風花の中に嬉々とし園児たち○餅箇きの音は聞こえず世の移り○寒玉子うかと落せば黄味ふたつ○長閑なる日の暮れなづむ牛の声○寒梅のほこ.ろび初めて日に匂う    同   宇野ミヨ○お彼岸や夫の墓前に子と共に○早春の庭にふくらみ牡丹の芽○羽子をつく音もまれなる時世かな○かるた取り皆華やかに首飾りて○松や梅活けて我が家の明の春  片順接葉会  飯塚あい○冬楽し友と集いて温泉の宿に○石畳黄葉一色に染まりけり○満水のダム黙しおり冬うかぶ○一と目づつ冬去りてゆく畳の陽○老二人心こころや曽我の梅 片瀬山わかやぎ会 佐藤キミ  (藤沢市民まつり)○好天に恵まれ店は大当り○買う人の心となった作る人○丹精をこめた作品よろこばれ○来年も又と張切る同友会○生甲斐の仕事見つけて若返り 片瀬山わかやぎ会 谷口喜太郎○逃げるふりして撃たれいる水鉄砲○露の坂老いの日課の兄馴らし○平凡にきようも暮れけり月見草○ご法話の果て山門の月明り○終列車発もしホームを冬の月  鵠北あゆみ会 宮崎市子○冬至とはライトをつけて畑帰り 六会円行東親和会 小泉敬助○師走風骨身にしみる寒さかな○ロッキード破れ長屋で年を越し○思うよう行ぬもままよ致治(まつりごと)短歌  (をりをりのうた)  辻堂青葉会  西田きみわが心いたく悲しきこの夕盲ひし人の歌よみ返す青じその香り漂ふ庭に立つ我を照らせる十六夜の月花がさのごとたわわにたれしこでまりのましろき花に雨ふりやまず歩かねば足が弱るといいし娘のばら咲く庭にわれをさそひぬ見学も長野旅行も弱き故行かれぬ淋しさ歌詠みてをり*************************************昭和52年9月15日

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第25号(1)会長 岡 村 彦 市 雨が降りつづき、夏が尻切れとんぼのようになって過ぎていきました。 梅雨があけるのを待ちかねたように、どっとなだれこんできた暑い夏でしたが、こんどは、まるでこそこそと退散していった感じです。 陰陽道では、酷暑の侯を三伏というのだそうですが、伏して酎えぬき、この夏を越されたみなさまといっしょに、こころから秋を欲び迎えたいと思います。 朝、目を覚まし、うすももいろの芙蓉の花がひらいているのを見つけたとき、わたくしたちは、いのちの尊さをしみじみ味わうわけですが、これからはしばらく過しよい季節、ゆたかなこころで 発行所藤  沢  市老人タラブ連合会社会福祉協議会(市ぢ局内) 印刷所三  光  堂日々を送りたいものです。  個々の芙蓉の数とな  りしかな(老人センター温室にて)   ×   × さて、秋といえば、そこここで敬老の催しが開かれる季節、わたくしたち老人にとっては、まことにおりがたいことですが、いたおりを受けることだけに慣れてしまわず、自立することをこころがけなければなりません。 藤沢市では、いま高令者事業団の設立に拍車をかけています。 高令者が、自らの技能をいかして働く場をつくりあげようと努めていてくれるのです。y すでに、その作業セソターを含めた、事業団の施設娃股が決まり、来春四月には発足のはこびになってきました。 いずれ、モの詳しい内容が、市当局から発表されることになるでしょうが、いたずらにうしろばかりをなつかしがっていずに、前向きで、やる気で、自立の道を歩いていきましょう。暮れそめし老人の目の菜をきざむ第25号(2)

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昭和52年9月15日 老人福祉の完全なまでに、行きわたった昨今、その恩恵に浴する私達老人は、感謝の念をどのように表現したらよいでしょうか。 この世は正に老人天国といえましょう、老人になり目々安穏に暮し得られる幸福は何より勝るものと恩います。 私達の父母の時代を省りみますと、当時の一部の老人は家庭的に恵まれ、金銭に         (SI孟三一ふly{Ξヨ幽聊!一Ξも不自由なく平穏な毎日を過せた方もありましたが、多くの老人は不幸な運命の下で生活し、い生活であったと思います。 現在はどうでしょうか優雅にこよなき生活が送れます。医療は無料のため、腰が痛い、手足がしびれる、風邪をひいた等、少しの故障でも医者の門をくぐります、勿論、お薬も無料、そして次は老人センターで一日中面白く過すほか時々には安い費用で楽しい温泉旅行にも行け、その上お小遣までも一申-一一----巾---人すから長い間にはお互に不満不足も生じると思います。お嫁さんが決して満点の人ばかりとは云えませんが、私自身を省りみて恥しいことですが私は実母のそばで気ままに過してぎ九ので姑に仕えた経験もなく嫁の立場は何とも言九九義理ではありませんが、我家も息子に嫁がくれば、我も姑のI人となり、その頃私の娘も家におりまのその日の暮しも楽ではなかったと いただけ、誠にもって老人天国で思います。収入を得る道の絶えた はありませんか、至れり尽せりで老人は息子遂に頼るより仕方なか 幸わせそのものの生活だと思いまったでしょう、家から外に出る機 す。然しともするとその生活がず会も少く毎日気まずい思いを繰返 れることがあります、それは老人し、その上病魔に犯されても充分 遂の特にお婆ちゃまの集りで必ずな医療も受けられず、寿命を五年 と言っていい程嫁に対する不満をも十年も縮めたことと思います。 訴えています、世間話しはそのIまた自由な時間も少く毎日家に居て雑事やら孫の子守やらで、鍛し点に絞られています。年代の違うものどうしが一緒に生活するんでに暮していればと思っており咄こす ○ 現在夫も八十才で頂くお金と娘二人の収入の一部で細々と暮しておりますが、息子夫婦は親がどのようにしているか関心はないようです。 そこでお嫁さんと同居している老人が姑としての不満はいろ/Åあっても生活が安定し老先きの不        安がないのですΞxl画一ヨマ自x一手Å畢‘一∃~圭一いからその点幸せだと思います。どうぞ福祉制度に感謝しながら、その恩恵を充分うけて、余】短歌    石原長生会 漆原 嘉吉○大鳥居くぐりて奥に鎖れる  神に詣でて心静けし○五百の人心をこめて植た梅  すくノヘ育て老いて盛に○五百の人赤白たれ梅千本が  きそいて咲けば吾も鶯も○回治からさか濡く浮世たどりつ つ 九十年は夢の又夢  辻堂富士見丘青葉会 西田 きみ○脳血栓のため足腰たたず師の君 の厚き治療に歩けてうれしき○マツサージの有難き治療の甲斐 ありてつかまり立てし喜びに泣く○薮椿ぽとりと落ちてサイレンの 今宵も悲し救急車すぎゆく○小夜更けて祈りておればいづこ ゆく救急車の笛の切なく悲し一一一一一一行旅松葉会飯 厘  あしました。 これが反っていけませんでした息子夫婦は別居して孫ができ親子水入らずの家庭であっても息子との親子関係はぶっつりと切れました。というわけですが、ただ円満したから姑のほかに鬼千匹の小姑 生を楽しく過してください。もいる家族と言うわけで、モこへ新らしく来る嫁にいろく苦労させるに忍びないので初めから別居昭和52年9月15日

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第25号(3)   そのI  遠藤の地名と遠落武者盛遠.遠藤の地名は、その曹、遠藤武者盛遠(文覚上人)が旧領主でありしがため、遠藤と呼ぶようになったという、伝説があるが、果してそうか、どうかは疑わしい。 現在北原の内田久吉氏の庭内の褐の中の石碑中央に、遠藤武者盛遠神削、向って右に、明治十二年、左に五月再建と、陰刻され祀られてあるが、只古さを物語るものとしては、石造の苔むした手洗鉢として使ったであろう三十センチ角の高さ十五センチ深さ十センチ位のものが一個ある。藤沢地区の伝説と民話遠藤葉生白 青 木 義 春 皇国地誌によると、盛遠塚、中央(遠藤の中央)より、東北々字北原の圃陥にあり、高さ三尺、周囲六間原頭に五輪の古塔二基を樹つ、浬伝に、旧領主たる、遠藤武者盛遠の、招魂俳なりと云々、あり、皇国地誌の発行されし百余年前には、塚もあり五輪塔も、勿論あっ,たのであろうが、明治十二年五月再建とあるので、五輪塔は無きものと誰も信じていた。ところが本年五月一日の早朝内田氏が突然私宅を尋ねられ、話を承はると、隣家の内田正亀氏宅の裏に、稲荷さまが祀ってあるが、その附近の草むらに、見馴れぬ石があるとのことで話があったので両氏が堀出して見ると、五輪塔であったとのこと、そして本年四月下旬再建した、前のよりひとまわり大きい銅板葺の祀の中に納めたから見てほしいとのことであった。私のような素人が見てもわかるわけでもないが乞われるままに早速伺って見ると、五輪塔に間違いないこと、前述の手洗鉢と同質の石であることから、皇国地誌にある五輪塔と思われる、形は小さいが、よく整った立派なものである。 この五輪塔が出て来てから褐を大きく広く再建したわけではないのだが右に石碑、左に五輪塔を並べると恰度よく納まった。五輪塔が出ることも予想もしていなかったのに、全く不思議という外はない。不思議なことといえば今一つ、それは前述の内田久吉の姉さんが昭和十二、三年の頃らしいが横浜へ行儀見習いとして、某家へゆく事に約束してあったので、伺って見ると私のところでは他から依頼してしまったので、もう必要はないとあっさり断わられた、而も持っていた財布をいつか紛失し、帰ることもできず魚屋の前であまりにも消然としていたのであろう、魚を買いに来た奥様に事情、を聞かれ、その由を正直に話す心 と、よしそれなら私の家で当分依頼しようとのことで、ご厄介になっている内に、たまく私の実家には遠藤武者盛遠様が祀ってあると話したところ、主人が驚かれ、私の宅は盛遠の弟の遠藤筑前守義孝の後裔である。そして義孝が祀ってあるとの話をされたとのことで瑕を頂き実家に帰る時木札に遠藤筑前守義孝と書いて、若干の祭祀料と共に渡され、兄さんの俳のかたわらへ祀ってほしいとの念願で、モの木札(神社)は現在でも大切に祀られておるが、まことに奇しき縁といわざるを得ない。私に只解けぬ点は皇国地誌が発行され、明治十二年までの間は数年ばかりであるのに、どういうことで再建され手洗鉢だけ久方氏宅にあるかである。○あは/\と雨のやみにし早春の晴るるともなくもやの漂う   遠藤楽生会 青木 義春○天職と心得今日も日盛りを 若き夫婦は畑へ出てゆく○帰り来て風鈴の音かほめながら 妻は急ぎつ喪服脱ぎ居り○腕時計はづせばバソドの跡だけ が 日焼まぬがれ白き輪残る    同     窪島美恵子○せせらぎの音のかすかにひびく 朝峡の岩間の百合さゆらかず○みずき散るこの故郷の峡流に 遊びし日々は遠く去りたり○やぶらんの紫深き露の庭 小授鶏三羽がつっと小走る    同     官治ゆき子○目も病まず老ひの日々ありがた し時に書を読み時に針持つ○我が命と比ぶる梅が咲きましたと 京に住む子に電話にて云ふ○かにかくに生き長らへて再びを しみじみ拝む奈良の大仏第25号(4)

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昭和52年9月15日藤沢の西南部を歩く(モの 一)片瀬わかやぎ会  名  取  重  坪俳句 片瀬山わかやぎ会 谷口喜太郎○伝言板記して発ちぬ花の駅○無作法に草腹脱ぎたる花疲れ○庭先に子を守る老婆麦の秋○二階より応ふ大声様かな○炎昼や無言で屈む長き貨車    片瀬松葉会 飯塚 あい○我が影が天にほのめく夏盛り○雪渓を眼下に老のリフトゆれ○様子や宗の大将かけ巡る○霧の幕閉ざれしまま大文字○団扇風記億ょびく老夫婦    遠藤楽生会 青木 芳春○抱きあげている児の重み銀河濃し○おはぐろの止まる川杭やせて立つ○風ねむる刻目まわりの燃えさかる○夏祭り輿はそこまで来し気配○風にとぶビールの泡や夏座敷    同     青木 スミ○終バスの帰宅の安緒天の川  一、まえがき 老人クラブというとバスを巡ねた温泉旅行が魅力のある行事と見られているのか、観光業者からの案内のパソフレツト等が絶えず送られてくる。たまには歩るけ歩るけ運動も兼ねて市内の活きている現代史を充分調べながら訪ねて見るのも老人にとってたのしいものであると思う、この点昨年頃遠藤の青木様が藤沢の西北部を克明に老友ふじさわ紙上に発表されたが極めて貴重な資料であった。 私は青木様と対称的に藤沢の西南部をご紹介する。但しお断わりしておきますがこの記事はえらい先生方の文献などからの技ぎ書でなく、全く私のメモや聞き書きで或は誤っている点もあると恩うが 対して諮りとすべぎ施設に何がああまり人に知られていないことを るか。ご紹介する。なにしろ拙文だから  殆んど何等自慢の施設は無い、次回(その二)は此の土地開発の 唯一つ、南部地域に公共下水道の恩人、中村沢羅夫氏の知られてい 整備されている事こそ天下に誇りない私生活を書きたい。     得る材料だ。                 公共下水道の整備の急務は日本  二、藤沢市南部下水  全国各都市共通の叫びであるが問    処理場      題は終末処理場の建設適地だ、い コースは藤沢駅北口から辻堂団 つどこでも此の問題で行きづまる地行バスの終点下車、団地の中を 終末処理場無くして公共下水道の歩るいて数分、県交通公園の西側 機能を発揮することは出来ない、だ、大部分の皆様は市の施設とし それが案外無関心の輩のある事はて既にご見学したであろうが私が 私は慨嘆に堪えない。是非知って貰いたいのは此の土地  茲で皆さんに調べて頂きたいのに処理場が出来る時の附近の住民 は前の市長今、藤沢名誉市民金子の藤沢市百年の繁栄の礎を迫る計 小一郎氏が書かれた、「苔生立と圃に対する熱意だ。       歩んで来た道」という小冊子であ 今日藤沢市が他の日本の都市に る。この三十四ペーヂに全国的に本市は優秀下水道都市と知られるに至ったと経過が記されている、薗かにそれに違いないが金子氏は建設省久保下水道課長にお願いして「受益者負担省令」の布告の手続をとった為と述べられているが、終末処理場の件などに就ては、ただのI言もふれていない、率直に評すればそんな苦労は知らなかったのかも知れない。 下水道受益者負担の法令は藤沢市が建設省令第一号だからといって何も日本最初ではない。あの北国、北の庄、悲劇のヒロイソお市の方で有名な福井市は昭和二十年戦災で焼かれ昭和二十一年大賞災に遭い市は壊滅的な打撃を蒙った。全市民は「よしっ、市の再建は公共下水道の整備で進もうと」昭和52年9月15日

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第25号(5)條を上げた足羽川の下流に先づ立派な終末処理場を建設し北国第一の文化都市を築き上げたのだ、話が横道にモれたが此の辻堂終末処理場の建設の周囲に当時十三戸の住宅があった。 最初此の地に処理場が出来る事に就いて勿論反対だった、それに再に拍車をかけての反対はお隣りの茅ケ崎だ、茅ケ崎の某市議などは夜中に辻堂地区へ這入hソ込んでベタノQ、と反対ビラを張りつけて行く始末。 藤沢市が附近住民を集めての処理設置の説明会は催された。 第一回は昭和三十八年七月十六日午後二時より松下保養所(次回に記述)で開催、市側から八名出席、附近の住民の他に富土見ケ丘からも三名ご出席があった。 市では住民の認識を深める催しとして先づ埼玉県川口市の下水処理場ヘー同を招待見学の予定をたてて終った。 松下保養所の広間から眺めた相模湾迄に連なるは実に荒漠たる弐拾八万坪の原野、曽ての帝国海軍の演習場だ、ここで訓練を経、ここから巣立った幾多の将兵がIII即ち吾が父が、夫が、吾が子が海底の藻屑と消えたり或は南方に玉砕したりあの痛ましい戦争という人類の不幸をもたらした根源の環境でもあったという事を想った時、この環境こそは今後永遠に平和と栄光に輝き繁栄と文化の都市づくりに貢献しよケとそれを次代に伝えなければならないとはげしい意欲が一同に湧上った、貧弱な川口市の施設などは見学の必要は無い、モれよりも公害のおそれのない最もすぐれた模範となる処理場を至急造れ。 かくて、市は早速建築工事に着手、四系列人口弐十万のし尿を処理する計画、第一系列は実に昭和三十九年八月五日通水火を挙行したのであった。三、松下保養所 松下保養所は藤沢市辻堂の西南端、字勘久六八八七番地にあるが終戦前の海軍演習地に隣接し、即ち元の岡田別荘のことである。 明治時代から電気の実験などに使用されていた乾電池は、屋井と岡田であった、その岡田の別荘で大正年間に岡田が設けたものだ。 モの広大なこと面積実に七千坪、豪壮な邸宅満洲な庭回、テェスコートもあり、殊に風致を添えた松林(これは現在は松クヒ虫の被害で面影を失った)湘南随一の豪華別荘と呼ばれていた。 但し現在保養所と称えられている建物の所在地だけが藤沢市で広い庭回の部分は茅ケ崎市に這入っている。岡田は名門の出で一年志願の兵籍があった、時に日露の戦役に応召、所謂准尉として出征、三月十日の奉天の大戦に参加したという。 当時戦線では各国観戦武官は勿論、ロシアの将校も全部懐中電燈を持っていたが日本の将校は持っていなかった。 茲で岡田は外人の電燈を拾って凱旋したという、丁度当時松下幸之助は大阪で自転車屋毎日チューブを張っていた所へ岡田が訪ねてこれを松下が自転車のランプに利用を工夫した、果してこれが大当り松下電器産業が実に世界の電器主として名声を博する第一歩をきづいたのであったという。 不幸にも岡田は息子の代になって事業不振此の広大な大別荘も手放さざるを得ないような窮地に陥いった。 昭和三十三年松下は岡田の恩誼に報いて、この広大な土地全部を数千万円(当時としては素晴らしい高値)で買った。 此の土地は現在のスプレントールやテュスコート及びナショナル学園のある所である。 此の邸宅は三十年頃から地元の自治会が、多彩な催しや種々の会合にも利用させて頂き附近住民のコミュニティーに随分お世話になった。刀珍客○お中元子供の育ち見せに来る○ハイビスカ短き命今日も咲く○蜘蛛の囲にまんまとかかhソ朝の髪○手花火を児の意に任せ縁の先    同     田代 ちか○小綬鶏の親子に逢ひぬ木下闇○二三日梅雨仲休み布団干す○調を始めて聞かぬ厨窓○盆おどり老若男女の輪の和み○分家の児抱いてさとしぬ天の川    同     長田孫太郎○鯛を緑に聞きおり風呂あがり○病室に百合の香ほのか友の臥す○紅添へて子等はなやかに盆踊り○遠雷に取り込む婆の曲り腰○雷遠く雨降って欲し農なれば    同     桜井 兼吉○闇空をつん裂くように大花火○花数多つけん山百合咲きほこる○嫁がする三日も梅の土用干○土用干の梅の匂ひの風に乗り○白百合の清々しさや田舎墓地    同     桜井 ヒサ○眼にしみる新緑の奥 滝の音第25号(6)

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昭和52年9月15日国旗掲揚推進会   五周年記念を迎へて    渡内老人クラブ 山 本 直 之国旗掲揚推進会なる。誠に近代 旗が無い、持ってはいるが忘れた、稀に聞く何か奇妙に思はれる会が何故生れ、又その動機とその人はと問はれると、斯のやうに速答が出来ます。面倒くさい、何か戦争を想起するようで識だ、なんてに分れる所罰しなければ国民から国旗が廃退し 村同地区連合会傘下各クラブ会長かねないと、憤激を強くし、去る 会議を開き、開催を決定四月三日四七年四月現村岡老連会長である 午後一時より村岡公民館三階ボー豊島北麗氏が会を発起したのであ ルにて会員多数出席し、来賓の臨(○席も受け盛大且つ敵粛裡に進行、 以来会長は自から本会の推進運 団体表彰として二会社個人表彰と営のため会長となって、機会ある して九二名が選ばれ各々代表者に毎に各クラブの長を通じ之が啓蒙 会長より賞状が授与され受胎者代潜在意識の上に見られるのもあっ の手段方法として歌を詞り印刷物 表の挨拶の中に各戸に日の丸がた。とし配布又、実践家庭には村岡老 闘翻とする日まで実践推進の決意○タ納涼 夫と共に縁にあり○姫百合の素直さ嫁の性に似て○手花火に子供が闇をやぶりけり○目焼して子の阻するどく光りける   同     宇野 みよ○夕縁や風鈴の音をじっと聞く○つかの間を咲ける花なり遠花火○蝉なくや冷たき水を飲みたくて○蝉の殼草にすがりて風にゆれO朝顔の花は昨日より二つ殖え思ひ起すだにあの恐ろしい戦争  世界の先進国に於いても一国の 巡国旗掲揚推進協力会と印した文 が発表され誠に意義深い式典を閉wが終りとなった事は国民各層に様 国民がその国土地域に現住する限 字に上部に日の丸をカラーで配し じ、後刻各クラブ員による持前の々な感情を抱かしめたが占領事の り仮令イデオロギーの違う民族で 朧一回センチ横六センチのワッペ 得意の芸が披露され笑いに花を咲支配下に一部は於かれ、デモクラ も廉ある場合とか祝祭日には必ず ソを配布し其の家の見易い箭所に かせて散会となった。ツー思想が国民の損に根強く拡が 国旗を掲揚して喜び合う風習があ 掲出貼布の依頼するなどご百葉よ  終に茲に拙ない文でしたが本会りつつ実に三十有余年、まあ回治、 るやうに聞いている。にも拘らず り実践でと・その情熱を傾け続け の活動状況を御紹介致し会員諸氏大正、生れの人は特に痛感する事 日本人が先述の事由の下に、或は られつつあります。       こ御健勝を祈念して居ります。に国家の表徴であるべき日章旗( 考え違いから、之等を拒否すると  斯のやうな氏の寧日なき努力の             以 上目の丸)が国の判定された、祝祭 はどうも納得がゆかない、言語同 結果年を追って効果は揚り実践宮口o俗に言はれた旗日に拘らずI 断でしかない。         庭の増加が見られつつあるものの部少数家庭を除いて丑戸毎に掲揚  そうかと言って各人の自由意志 目的達成までに陵未だしの感を強されていない現実であることでし 決定に係る事柄なので、どう斯う くする実情である。よ以ノoの指図、干渉は許さるべぎではな  今年は会の創立五周年を迎へた勿論その内容を聴いて見ると、 .いが、此の借ではね1.何んとか のでIツ此の辺で一節つけようと   円行東親和会 小泉 敬助ひと山ふた山み山こ江富士の加山を又こ江て相模平野を散歩する岐阜の久良で鵜飼して濃尾平野を見学し三島大社へ参詣し日本一の犬木犀三洋の海岸散歩する伊豆O天城へ登山して空気植物手に入れて下田港で帰舟昭和52年9月15目

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(7)第25号私のクラブ員に  こんな人が居る 氏名を紹介中上ますと、鈴水松之劫さんです昭和四十一年十一月頃より現住の渡内五六四-四四に転入し来たり、今はほんとうに悠々自適ともいへる平和な生活を御夫妻で送られて居る誠に怨言しい境遇であられます。 若い頃からの趣味が写真撮影で、殊に古仏像の撮影と研究には県内はもとより遠く県外の神社仏閣にあるもの、又は路傍に苔むした、まるで永い風雪の為文字の判読も仕兼ねる像を探しては撮影し収録しては銘鑑を調べて製作年代を究めることに老後の大きな生甲斐とされて居る状況です。 偶々渡内老人クラブの存在を知松木松之助氏って入会を希望され、去る五十年四月に御夫妻共々正会員として入会されたのでありました。 昨年の十一月頃、同氏は何かクラブに記念になるものを寄贈したいと発想され、考えた揚句、自分の最も得意とする写真でも撮して全員を一冊のア火ハムに収めて贈ろうと企画され今年の二月初句より着手し連日のやうに写真機を肩に重い三脚を片手に持って毎戸を訪問主旨の説明から始まり納得すれば場所とか服装は自由でと話しかけ、従ってある人は応接間あり、庭先あり、居間ありで、服装も作業衣の艦あり、正装婦人あり、等で多様でありましたが、出来るだけ気易く、まあリラックスでと皆様ポーズも各様で快よく撮影に応じたようですが中には変な縁起担ぎから極めて小数ではあったが拒んだ人も居たとも聞きましたが氏の情熱を煩けた説得に心を勤かされ殆んと全員が近代的カラー写真で撮されアルバムに収録の上見事完成四月十七日寄贈されたのでした。クラブでは之に応えるに次文の如き感謝状と記念品を定期総会席上贈呈することに役員会に決定して実行しました。   感謝状全文あなたは曽ての趣味と卓越せる技術を生かしクラブ会員の写真アルバム作成に長日月に亘り献身的努力を払はれ見事完成寄贈せられたるは誠に奇篤の至りであります、クラブは尊重保存につとめ後世に美徳を伝へんとするものであります。 本日総会に当り会員総意により記念品を贈って感謝の意を表します。 年 月 日 渡内老人クラブ圖犯、クラブ全員のアルバム調製 希望者がありましたなら25局 一〇四五番に連絡すれば手段 方法等快く応じて下さいま す。念為   渡内老人クラブ      会長,山本直之記△美の焦点シリーズ▽ そのI素j ぷ4tf’i直松寿会東 片 山 藤 樹 我国は、管て、永い間、鎖国、封建主義の時代がつづき、共闘、所謂、武家政治によって国政が行玉のように扱はれた時期があった。           打ち鳴らす鐘に平和を祈る日世界禄べぎたが、当時は、働く吾々は今日もテロ沁び庶民の生活と権利は殆ど認められず、偶々 明治維新の大政奉還によって、天皇親政の御代とはなったが、侍に代って、富国強兵を旗印しとする、軍部支配の台頭となり、真の国民大衆の与論は充分政策に反映されないまま、同宗経済の42%が軍事予算に計上され、遂に国民は侵略を目的とした戦争に巻き込まれ、幾多の同胞が血と汗によって築き上げた、国土と権益と人命と財産は敗戦によって悉く烏有に帰した。今日になって考えると、冷や汗のようで、当時、吾々国民の大切な生命は「君命の為には、命を鴻毛の軽きに比す」なんて軽視され、また家庭では「生めよ殖せよ」で国民をシヤボソ 終戦にようて、こうした永い間の、いろいろの苦しい経験から立ち上り 茲に 吾々国民を為政者とする、主権在民の日本国家が生れ、国民一人ひとりによってつくり上げられた、平和憲法の下、自由にして民主的な、今日の国家が建設された。説く神父かたことなれば敬虔にむしろはげしく人の胸うつ 人間尊重の世の中となり、人と人の平等が叫ばれ、男女同権が強調されている近頃の思潮は、もとより全国的に共鳴されるところである、人権を無視するということは、いついかなる場合も許さるべ一一一一一(8)第25号

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昭和52年9月15日きでなく、人間はひとしく平等であるべきで、また男女同権云うまでもなく同権であらねばならない。倖せは自らのもの夕焼けに向へば今日も風暖かし しかし、ここに一つの問題として私見を提起したいと思ふ。それは、男女同権とは、男女が全々相等しい形に置いて、何事にも同権であらねばならぬとする人があるならば、これは自然の摂理を無視した考えと云はざるを得ない、何故なら、男女は人と人としては同じであっても、男に生れ、女に生れ、女性には子供を生むという、自然の性的摂理があり、性格的にも根本から相違のあることは云うまでもない、人に限らず、物理的にも、陰と陽、十(プラス)とI (マイナス)の二つの対立とまたその合一によってこそ、万象を、生命を、そして運命をも生み出すように出来てゐる。      もやみはるかす朝露の中万象は始動の前の静けさ保つ このように、縁あって結ばれた夫婦は、心身の合一によって、只に子女を産み儲けて子孫繁栄の基をなすばかりでなく、所謂、異性の肉体が互いに相補はれる生成発展は、相反する二つ力が融合し、大きく一つになったとき生れるものである。深かぶかと額づく妻と写真の妻に香焚く彼岸会の今日 凡そ、健全なる夫婦のおり方は、夫が主唱し、妻がこれに従いてゆく、これが自然の姿であって、これは前述のように、夫婦が一家を営んでゆく上には、そうあらねばならないもので、これは形の上からみると、夫が妻を支配するかのようだが、実はその妻の素直でひたむきな追随が夫のすぺてを和らげ、却って、内面的には妻が夫を支配することになるのであって、そこに夫婦愛の真の調和による夫婦同権と云へる団らんが生れると思ふ。売らん哉の皿盛りにサンマ並べられ秋の光りがそこより放つ 夫婦はいつも向い合った一対の反射鏡と云はれるように、夫は一家のリーダアシップとして、毅然一老人アパートのお知らせI こんど藤沢市ではひとり暮らしで住宅に困っているおとしよりに、極力地域の中で生活していたたる態度でプレーを、また妻はこうした夫のより良きパアトナアとして、ひたむきの愛情と信頼によって、あたかも車の両輪のごとく、相協力してゆくところに前進も発展もあると云へよう。だけるよう昭和五十二年度の新規事業として、老人アパートを六合地区に建設中です。入居資格等は次のとおりです。一、入居資格 田 市の住民基本台帳に登載さ  れ、または外国人登録原票に  登録されている、満六十五才  以上のひとり暮らしのおとし  よりo    ょゎぃ  ひな       一 ② 独立して日常生活ができ、いつも齢変らぬ雛とかたわらの室]咲きの桃共に春を待つ顔    一 自炊可能であること。       じゆう ごおせい昔から 「柔よく剛を制す」と云はれてきたが、これはあらゆる体験から生れた真理で、妻の柔つまり素直さが、夫の剛を制した例は多く、夫婦の円満は何よりも妻の素直な服従による支配力が、美しくも 又愉しき調和による一家の繁栄が責らされるものである。③ 次の理由等により住宅に困 っていること。 ア、立退要求を受けているこ   と。  イ、老朽家屋、もしく   は保健衛生上著しく   劣悪な住宅に居住し   ていること。二、中込期限 昭和五十二年九月否‥[か ら昭和五十二年九月十目 まで‐-――-----之-                          〃  ゛               〃  げ               ’  実に素直こそ女性の美の焦点でI                          ″あろう。            一                          J三、中込場所 老人生きがい課、または市民セ ソター四、入居料 入居料は所得に応じた負担をし ていただきます。五、居 室 一室二十平方メートル(居室六 帖、押入、炊事場)十室六、アパートの所在地 市内亀井野宇大久保一、一一四 ~一 (六会駅東側、徒歩約三 分)七、その他、詳細については老人 生きがい課へお問い合せくださ い。  (電話二五1一一一一 内線四 二三・四二四)*************************************昭和53年6月1日

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(1)第26号藤沢市生きがい  福祉事星団発足/ 各方面の注視と期待をあっめて藤沢生きがい福祉事業団が、去る四月発足した。 高令化社会のかずかずの問題の中で、生きがいをどこにどう求めていくかという課題は、もっとも重要であり難問であるが、この画期的な事業はまことに大きな意味をもっている。月45  発行所藤  ’沢  市老人クラブ遣合会(計詐万作)三印よu所堂 発足技一か月余、現在就労希望の登録も予想を越え、各企業や個市老連この一年の歩み(昭和五十二年度)行事-‐-- -人の家庭などからの注文も殺到、活気にあふれるスタートである。 かかし取った杵づかということばがあるが、ながい間きたえあげた技能をいかし、注文者から喜ばれるようなしごとをしあげたときの充足感は、なににもまさる生きがいであろう。 毎日朝から晩までということでなく、週何日、モれも限られた時l間だけをマイペースではたらくことは若さを保つうえでも必要なことといえよう。 詳細は藤沢市生きがい事業団 (電話 二七-一一〇〇)にお問い合わせください。寿言-----|ゲ7.t淮ik111212413~時随‐‐宿老巡事務局国鳥職員退職ヽ鈴木職員  就任。  ・同右飲送迎会を開催した。  ・秋の見学湯治旅行を実施した。   (下田温泉 参加者一二I一名)・関東ブロック老人クラブ総決起大会 に鈴木副会長が出席。・新年賀回文歓会を開催した。・モデル老人大学開講した。・川崎大師および横浜三渓園を見学す る。乙頌寿手帳ぎりかえ配布。・役員脳回収員合同研修会を実施した。・随時各地区老巡総会・研修公等に岡 村会長、菊地常務が出席。・常任理事会  二回・理 事 会  七回・県老連主催市長村事務担当者会議に 担当職員出席。・事務監査を執行した。・評議員会(総会)を開催した。・老友ふじさわ第二十四号を発行した。・春の見学湯治旅行を実施した。 (群馬県伊香保温泉        参加者一一九五名)・県老連リーダー研修会に七クラブ会 長が参加。・関東ブロック指導者研修会に岡村会 長が参加。こ毘七四老人福祉大会を開催した。・老人のための県民のつどいにI①ク ラブ会長が参加。・県主催高令者問碁・将棋大会に代表 選手首三名が出場。・県主催高令者趣味の作品展にハハ点 の作品を送る。・第九回老人スポーツ大会を開催した。第26号(2)

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昭和53年6月1日 つい先日、あるそば屋に立寄ったとき、明治元年以来現在までのそぱの代金の変遊説が店内に掲げてあるのを見た。 もり・かけの値段のうつりかわりである。 私の七十有今年の来し方が、そばの値段の変遷とかさなって、懐しく思い出された。 いったい、そばは、いつの頃からわれわれのたべものとして登場したのだろうか、原産地はどこなのだろうかなどと考えているうち調べてみたい思い立って、ついに藤沢中央図書館まで出向くところとなった。 係りの方のお世話になって、槙原路郎著のそば事典を拝借することができた。 もともと私は、モばが大好きで現在でももりなら二杯はたいらげることができる。遺稿 蕎 麦 談 義故美 夢 路 しかし、汁の多いものや、種ものとなると二つは無理だ。 日本各地に、それぞれそげの名所があることは、みなさんもご承知のとおりだが、あの有名な威服に「信州信濃の新そばよりも、わたしゃあなたのそばがよい」というのがある。 これも今ふうに言えげ穴 コマーシャルソングのひとつで、信州モばはきわめて有名である。 私は何度か、信州方面に旅してそばをたべたが、なるほどそば独特のかおりがすばらしい。 しかし汁の味は、たんとなく、いまひとつ私の舌になじめないとそのたびに感じたが、それは、私が東京地方のモばの味にならされているからであろう。 ただし最近では、信州・甲州あたりでも、東京地方流の味に変わってきているようだが、果たして酔参モれがよいことか、おるいことか-―、その地方独特の味を残しておくのもたいせつなことだとも思うのである。 昨今は、ほとんどその風習が見えなくなったが、引っ越しそばというのもなつかしい。 なぜ引っ越しの時、そばを配るのか、絹くながくのおつぎ合いを願うということと、近所(そば)の意味とをからませたものだろうが、なかなか情味のあるしゃれである。 さて、このそばの原産地は、広く東アジアの北部・中部だそうでタデ斜の一年草だという。 シベリアや、インド・東アジアでは、広く食川として用いられていたが、現在の目本のそばのたべ方とは異っていたようである。 それではそれが、いつ頃から日本に伝来したのだろうか。 北方大陸から、朝鮮半島を経由 して渡来したのが八世紀頃といわ れるが、その栽培は容易で、生育 期間も短いところから、各地でさ、かんに栽培されることになった。 さて、モの食べ方だが、いまのようになったのは、一六二四~一六囚四頃南東寺に来た朝鮮の客僧、元珍が、ツナギに小麦粉を用いることを教えてから急迫に発達し、数十年後の寛文年代から、そげ粉ハに対して小女粉二の割が人々の好むところとなった。  これが、二八そばである。  現在のモばは、この二八ではなく、囚六そばか、七三そばという方がいいような割合だと思えるが 「ニハそば」の名称を唐名に用いているところも多い。 唐名といえば、東京地方の老舗で「史料」 「薮」の名がよくつかわれているが、なにかそば屋の伝統や風格を思わせる。 ところが、これについて調べてみると、むかし信州の見料土地の名で、モばの一番粉に対し、つなぎの麦粉を三分混ぜて作ったものを各地に伝え「更料そば」と呼んだのが「見料」のおこりだそうであり、またコ数」の方は、やぶを切り開いた焼畑で栽培した、肥料などをあまり使わないそばを「薮そば」と呼んだことが、その起こりなのだそうである。 さてそれでは、そば代ただしもり、かけについて明治初年からの代金の変遷を見てみよう。 明治維新、もりかけ代は二十四文であった。二十四文が、今の金額に換算して何程かは、明治生まれの私にもわからないが、明治前の一両が、一円に変ったのはご存じの通りで、モの一両は四〇〇〇文であったことなどでおよその見当がつこう。 明治元年、そ0二十四文のそば代が五厘になった。 モの後明治四年   五厘 米一升  三銭三度明治十年   八厘 米一升    三銭昭和53年6月1目

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第26号(3)明治二十年             この年、日英同盟が結ばれ世の    一銭 米一升    五銭 巾は景気づいてきた頃である・明治三十一年           明治三十七年 一銭五厘 米一升 十四銭ハ厘    二銭 米一升 十二銭四厘明治三十五年            この年、日露戦争がはじまった 一銭ハ厘 米一升 十二銭四厘 が、日露戦争中、もりかけは、二絃から三銭五度ぐらいとなり、米 昭和十年は十三絃二度だったが、この頃栴京米の輸入が行なわれ、内地米の三割安であったという。 明治三十九年頃、そば代二銭に対し、種ものは一銭高、駅のすし弁当が十銭であったというo明治四十年   三銭 米一升 十六銭四厘大正元年   三銭 米一升 二十銭ハ厘大正六年    十三銭  米 三十五銭 一大不況の時代であった。昭和十六年 十六銭 ◎が制定され、第二次世界大戦が勃発し、この頃からしばらくはそば星のそばとは縁がうすくなるのである。昭和二十五年    十五円昭和二十八年米 八十四円二十円  米 九十五円五銭 米一升  二十一銭 昭和三十五年 私はこの頃、大人の鉄湯代とそば代とが同額であったことを覚えている。大正七年   六銭  米 三十六銭五厘 あの有名な米駆動が各地に起った。大正八年     七鉄  米 五十五銭大正十二年     九銭  米  五十銭 関東火災災の年である。昭和五年   三十五円  米 一三七円昭和四十五年   一二〇円  米 二I一円昭和四十九年   一八〇円  米 三一五円 あの石油ショックの年である。昭和五十年   二〇〇円  米 三六五円 昭和五十年以降については、あらためて記すまでもなく、みなさんよくご存じの通り、もり・かけ代金も、二三〇円から三〇〇円になった。十銭  米 三十三銭  昔は、モば屋にはいって、先ず目につくものは、もり・かけ○○銭、または、○○円であったが今では、種もののメニユーが主であって、もり・かけのかげはうすい。 私の若い頃、田舎から出たでの若者が、もりかけ十銭と書いてあるのを見て「もりかけ下さい」と言ったら、両方が出され、十銭払おうとしたところ二十銭とられたという話があった。 最近は、モば星にはいって、もりやかけを喰うのは、なにか気がひけ、ザルそばや桓屯のを注文しなければ恰好がつかないような気になるが、大いばりでもり・かけをたべたいものである。 老人のヒガミかも知れないが、店舗も立派にたり、なんとなくそば凰ののれんも気軽にはくぐれなくなった。 五銭か十銭で宸ったもり・かけの時代が、ほんとうになつかしく侭ばれる昨今である。三室さんを悼む 美夢路酔歩というしゃれた筆名で、毎号洒脱な文を書いておられたのは、市老巡副会長三皇虎之前さんであった。 その三皇さんが、本紙のために「蕎麦談義」の原稿を遺して亡くなられてしまった。 もうやがて百か目になろうかという今、遣稿となってしまったその文を読みかえしながら本紙を絹んでいると五銭か十銭で、あり、かけを喰った時代を病床でなつかしく億んでおられる姿が目にうかび胸の熟くなるのを禁じ得ない。 いくたびか本紙に掲載された文を通じても、そのひとがらは、みたさんのよく知るところであろうが、まことに凱々とした凧格であぅた。 俗に言う苦労人で、世事のうらおもてに通じ、会の司会などは独特の持ち味があり、市老遮にとっても欠くことのできない存在であった。 まことに残念なことである。 いまごろは、美夢路酔歩の名のように、美しい夢の路をひとりで旅しておられることだろうが、こころからご冥福を祈りながら、本紙をモの霊前に干回けたいと思以ノ○(編集子)「-一一一一第26号(4)

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昭和53年G月1日リIダ1つ一段渡内老人クラブ 石 今良く巷間で老人クラブの、まんねり化か叫ばれています。老人クラブの体質を時代に即応したものに、変えさせて行くためにも日々常に積重ねている、学習活動を基礎として、リーダー回の役割は極めて蒐荷なのではないでしようか。それなのに老人クラブのりIダー胆の中には、老人クラブの目的基本方針本質や、組織運営クラブの活動等について、研究不足の点が多いのではありませんか。 今迄の惰性でリーダーをやっている方も、あるのではないでしようか。其の点を補足するめにも、市老遮主催のりIダーつくりの、s/ 4)O    llVの熱意を井  寅  吉教育を年一回実施されて居る様ですが、予算の関係もある事と思いますが、年二回位に増加実施なされては、それには必要な資料を、県老巡にあるパンフレット(老人クラブの手引、老人グラブ運営指針、実験老人クラブ活動報告書)等折衝の上、配布を受け之を基礎に、リーダー養成に一段の御配慮が、必要ではないでしようか。之れは市老連ばかりではなく、地区老巡にも謂れる事です。より良ぎリーダーの養成に、市老連の方々が開眼し、大いに此の点に啓発され、尚一層の御努力を願って庄みません。したという。大庭と遠藤の境に小糸川があるが、左岸に駒寄せというところがあり、駒を山へつなぎ、此処で馬を洗い清め、威風堂々とこの社に向かい、遠中小糸川に架る橋を渡って、参拝されたのであると云われ、この橋の名は、景親がお成りに(来るという意)なるというのでお成り橋といい、或は稲利橋、狐橋とも呼ばれていた。稲利橋とは稲利社にゆく橋の故だろうし、狐橋とは、稲利様と狐は背から関係が深いと一般に信じられていたからと思う。 昔はこの社の境内に、大きな松や杉があって、昼なお暗く、うっ大黒橋と市指定古里の森の遠望そうとしていたとのことだが、現在では眉間に家屋が建ち並び昔のかもかげはない、木造の社屋も石の初に変り、お成り橋も駒寄せの場も、西部開発のために消え去ったことは淋しいことである。○門柱に出生  した橋の石相模風土記に載っている橋の名は、遠藤地区では、刈込バス停近くの小出川に架る大黒橋だけであるが、この大黒橋と、前述の稲利橋に当地の豪農であった。窪島家から、江戸時代の末期寄附されたと伝えられていた。長さ約一丈、幅一尺五寸、厚さ一尺の石が各二本宛あって、荷車中馬力(馬の曳く車)の輪通りに使われ、永い開校に立っていた。当時は、板橋や丸大橋土橋がほとんどであったので、輪通りだけでも、石であれば朽ちる心配もなく安全であった。 然し世も移り、コンクリートの出現によって、橋もまたコソクリIトにどんく改まるようになった。従ってこの大黒橋も稲利橋もコソクリートとなった為に、今までの石も不要となり、大黒橋の石は寒川町の某家の門柱となり、稲利橋の石は、当楽生会第一会長の長田氏が小出中学のPTA会長の時代開校の門柱になったのである。 石は何れも、石工の手により削り直されたが、どちらも伊豆の小松石とかで美ごとなものである。小出中学は、茅ケ崎市藤沢市の組合中学であったが、一昨年の春、発展的解散をしたので、現在は小出小学校の門札が掛けてある。 思えば永い間、荷車や馬力や、人畜にさんざん踏まれたり蹴られたりしたその石が、どちらも門柱に出世したということは、まことに不思議でならない。 因に窪島家ごI族は現在でも長々繁栄されておられますことをお伝えする。(前号藤沢地区は、遠藤地区の誤り)遠藤地区の 伝説と民話その二  楽生食青 木 義 春○大庭景親と    大瀬戸稲利遠藤の矢尻に大瀬戸稲利という社があるが、伝説によれば大庭城の裏鬼門にあたり、景親が時折戦勝祈願に、乗馬で家臣を従え参拝昭和53年6月1日

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第26号(5) 市老連傘下百三十数ケのクラブが存在する中に、渡内老人クラブのあることを地区外の老友の皆さんの中には恐らくご存じない方が多いではと思われます。私自身も地域外は良く判らないのが残念ながら現実です。 そこで此の際、編集部にお願いして紙面の片隅をさいていただき各単位クラブが逐次各々のクラブの規模とか活動状況又は苦労あった点、また喜び等を紹介して頂きそれらを参考とし活動の指針にでもと常ねに考えて居る一人です。まあ中にはそんなことは無意味と仰しゃる方もあろうかとも思考されますが、賛成さるクラブは、ペソリレー式に掲載して頂いたなら紙面も一層面白い楽しいものになりはしないでしようか、釦何でし そこで先ず私のクラブからと思いまして書き始めたものの、投稿規定で字数に制限があり、又、私は元より文章家でもないし、美辞麗句で飾ることも下手ですがまあ極平易で拙文ではありますが紹介させて頂きます、御容赦下さい。 私のクラブの位置は村岡地区東部に住設し大船を境に最近開発も概ね終り住宅地発展途上区域です、クラブ員の数は六月一日現在で男子十八名、女性四十七名計六十五名居ります。 結成されたのが去る四十八年五月でそれ以前は員数不足で柄沢喜楽会に所属してなかば居候的な存在でしたが、その後逐次員数も増えたので独立したクラブ結の構想による行事も為さず極めて事なかれ主義で消極的でしたが、之れではクラブの存在意義もないし目的にも添わない、此の借では俗に言う寝たぎり老人クラブの誹を免れないやろう何かせねば、と本年四月、定期総会役員改選時現副会長石井寅吉氏を推選頂きました、氏は曽て永い警察畑で培われた強固な意志と不退転の気脈で企たことのない白面の女性が、白手拭で嬢さん被りの装で相伍して何か若返ったなど幅きも談笑の中に聞かれ、和気相即の中約二時間の作業を終了、冷えたジュースに喉を潤し散開意義深いポラソテ″ヤを終えた。第二は、健康増進、講演会開催、五月二十三日 会場渡内会館 講師 市民健康課 松島保健婦テーマ 老人健   康管理に   ついて所要時間を最初一時間を講演に、残り一時間吸殻の散乱は目にあまる、何んとか一つ公徳心に訴えてみよう、と吸殻入の設置を思いつき、渡内、関谷入口の二箇所に、高さ約八十セソチ赤塗円筒型に吸殻人を正面に左横下部に渡内老人クラブ、一九七七、五、二五、設と白ペンキで書き設置した。また、此の設置に就海神奈中の管理課責任者に了承を得て酒酔の悪戯防止の為、時刻表示板ポールに纏着、その後の反応如何がと目下観察中ですが果たしてどうか、一般的に好評です。此の文は六月初句です、計画に添って逐次実行に移して成果を挙ぐるべく一同張切って居ります、以上です。他クラブの紹介を待って居ります、ではお元気で御活躍を期待します。ク ‘フ 。フ 紹 介 シリーズ①    渡内喜楽会 山  本  直  之S                                II成してはと勧奨もありましたし結成に踏切りました。 この結成に就而は市側の関係役職員の方々の理解ある御指導と、柄沢喜楽会幹部諸賢の皿かい御支援を頂き、前記年月に市の老人セソターに於て式を挙行し一人歩きを始めたのです。結成以来歳月夢の加しとかで、四年を経過して来たものの恥かしいことながら独自画担当を引受けられ協力委員三名を選任協議を重ね年間行事起草案を策定役員会の承認を得て推進しつつあります。  第一は奉仕活動町内自治会の  管理に係る花壇の除草清掃と  バス停附近の清掃 五月十六  日、実施。 出場人員二十二名、此の中には家庭に在っては、庭の草一本校いを座談会茶話会を兼ね質疑応答、体験発表に向け多数の人々より活溌な質疑応答体験談の発表あり、健康管理の重要性を再確認し、二時間に亘る講演会を終了。猶本会に柄沢地区より十名参加す。第三、環境の美化推進実施        五月二十五日 県道藤沢~大船縁神奈川中央バス停に、パス侍中の喫煙室による第26号(6)

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昭和53年6月1ロ生 命 の 尊 さ鵠南地区松寿台東 片清潔に老いを生くべし青春とは張りもつ人の生涯のもの老たけしと思ふてならじ千年の松資力とみどりを伸ばす老いたりとも尚自らをたゆみなく励ましゆかむ生くる限りを忍従を婦道とされてきし妻も若き世代の嫁らとはなやぐかなしみを分ち合う日もいつか来む頬の温みを頬にうつしついつとなしに性のしぐさもうとましく肩寄せ合いつ老いらくの日々 まことに人生とは そうあるべきが 自然現象であり それと共にまた 二世を誓い合った夫婦生活として 丁度 常緑りもつ松の葉のそれのように たとえ枯れて落ち果てても形ある限り 結び結ばれ合ってゆきたいもので もとより 万人共通の希求であろう。山  藤樹が人間の果敢ない宿命であり 摂理であって いつかはどちらかが 先立つ結果が招来する。明日のこともさだかならぬに憎み合い蔑みあいて生くる悲しえ 明日のことも 分らぬ命をもち合いながら ともすれば やれ何のかのと 憎み合い 妬みあい意地を張り合っているのをよく見受けるが 何て匹ハな 浅ましいことかと言わざるを得ない。 衣 食 住に如何に満ち足りた生活をしていても 憂え悲しみ不足不満等で 精神生活に欠けるところがあっては その都度 血圧を上下して 脳神経の細胞を犯しているから 決して健康は保たれない。 安らかに かだやかに 飽く迄も 「自他共に喜び合う境地」に於て 心豊かな日暮しをしたいもしかし それがそういかないの のである。明日ありと思ふ心は徒さくら夜に嵐は吹かぬものかは散るさくら残るさくらも散る花の明日をも知れぬ果敢なき世なれば 正に人間の一生は 老少不定の境をゆくもので 一寸先が闇だと言へるのが 人間の遁れられない摂理で 「始 中 終まぼろしの如くなる一期」と言うべきであろ このように 浮草にも似たようなのが人間であり 自分の力では生きられない お陰なしでは生かされないのが人間である されば 神仏の加護 天地大自然の恩恵 社会大衆の連帯性によって 生きつ生かされていることに感謝し その人その人に与えられた 所謂 「天与の命数」 を怖れることかく憂ゆることなく 立向ってゆく精神力 肉体的努力が大切で いつ何時 モの楊に立ち到っても 常に後顧の憂いのないよう 不断の心構と共に 老人の老人たる生甲斐を求めつつ しかも今日石二目を愉しく 周囲から愛され親しまれる老人として 天寿を全うしたいものであります。        合 掌の? 変な考えでしょう。子守歌は赤ちゃんが専門に聞く歌ですものね。老人に子守歌とは、頭が少し狂ってぎたのかなと、思うでしょう。あの子守歌、赤ちゃんにとっては必要な歌なのでしょう。 「この子は、いい子だねんねしな・::・ 松葉のかずよりまだ愛い……」 と静かな口調で、赤ちゃんの耳から身体中に流れていきます。このメ乙アイーに赤ちゃんは、またとない良い気持に、と安心感とでゆったりと眠りにとけこんでいきます。 モの子守歌を、老人に聞かせ様というのでは勿論ありません。赤ちヤんの専門の「いい子だ、ねんねしな」は、私達老人は、孫のため今でも歌う事でしょう。私達老人の子守歌とは、もっと/へ巾の広い事です。たとえば朝の目覚から初めましょう。老人は目覚が早いです、目がさめた時、いろ/\、の鳥、小難鶏のやかましい叫びでもいいのです。夏なら朝の蝉の声、あらゆる物の鳴き声を子守歌と思いましょう。起きてまたすぐ一一一一 皆様今日は、御鏡峨いかがですか、御元気に毎日を過ごされてと思っております、払も七十五才ほんとうに年を電ねてきました。 日一日と年というものが、ひしと身に追っております、呑気な事を云っておりましても何か不安が追いかけております。こんな特、老人ヽと 子守  汗顔松葉会 飯歌尿あ   いホッとした事で自身から不安が少しでも遠のいてくれたらと思いますが皆様も、そんなお心持ではないでしょうか。年毎に追ってくる老は逃れ様もありませんが、それと一しょ払不安に戦いていては生きてゆく気力もありません。ねそうでしょう、それで私は子守歌昭和53年6月1日

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第26号(7)寝かされるのと思いますが、いい 味な物なし、ます/へ身体は健康え私達への子守歌は寝かせるため となります。ではないのです。子守歌の中の心  さて冬なら日向ぼっこ、夏なら良い旋律を御聞き下さい。ね、い 庭の木やりとか草の手入の間、何いもんでしょう。寝起が悪くって こかでお洗濯の水の音が聞こえて何か文句を云いたがっている貴方 ぎます。いいでしょう、物が美し9Q”一゛ッと思わずル笑が浮か くさっぱりになってゆくメロディびます。この素適な子守歌に聞き Iですほれます。これは第一の子守歌の  私達も心が美しくなる音です、初まりで、それからはどんな音で づら週な子守歌ではないでしょう                  9 ,も子守歌になります。        夜になりました、お風呂に入り お聞きなさい、共同生活であれ ましょう。ぽかあっと扇げが昇    いろば、お祖父ちゃま、お嫁さん、孫 りました、よい香りの湯げの中で達、多ぜいの家族のがや/へごた ぽしょノヘというお湯の音、さらくみんなその音階を黙って聞き っと身体を洗ってさっとお湯をかますとみんな子守歌に聞こえま けます。その音を心ゆく迄身体です。               受けとめて見ましょう・ お年よりのぐちも忘れます、お     ぁた嬢さんへの不満も口からは出ませ  正に心服たまる最上の子守歌でん。               はありませんか、それから、お床                       むさぼ (チソチロリソのザクく、バリ の中に夢を貧りましょう。きっとi/\’のさっとごち走様)という落 赤ちゃんの安らぎと同じに良い夢語の通りになりますよ。 ご飯の茶わんに箸が当っての食事です、お茶づけざくく、お新香を入歯でたべてバリくで、何と愉快な子守歌つきの御食事でしょう。何を食べても文句なし、不路に入る事でしょう、一日の老人の子守歌はこうして毎日々々色々の音階の中で終ります。時には老人センターに行ぎましょう。 踊る人の手拍子、歌う人の高らかな声、食べる人の口をもぐくと動かす音、みんな子守歌に聞こ…               ・ゝえます。老人センターにはいろJ隨  想くの趣味のお教室がありまして心 酔歩の筆名で脈々とした、随想謡曲、詩吟とお腹の底から子守歌を歌いますoヂ芸となれば、紙を切るハサミ0音、御習字ならば筆のすぐる音、碁や将棋ならば、パチリノÅと、またとない心良い音の子守歌が聞こえます。温泉の様なお湯に入り、身も心も温まります。電気のアソマさんにトコくかかりながら目を細め、洛中に流れる旋律にうっとりとなっています。 何と皆さま、朝から晩まで私達は子守歌を聞いているのですよ、ほんとうに安らぎを覚えます。愚痴も不満もあるわけはありません、でも、やがて生涯の終る時がきます。けれども良い子守歌を聞きながら、うと/~と眠れますでしょう、そうありたいですよね。 私達の心に大いなる安堵をあたえてくれる子守歌、最大の幸福感を一生を通じて与えてくれる子守歌毎目々々を楽しく聞いて暮らして行きましょう。W`lj,sへs゛゜・,〃lヽ`4/l,「'・,lへss1″・1を書いていた三皇虎之助さんが逝去されました。 いつも読者の共感を呼ぶ様な、面白おかしな文章でした。思えば大正十三年頃のこと、目下NHKで放送されている人気番組の鳴門秘帖等の活弁として、当時川甘草畝の名で爽やかな弁舌で、モの名調子は、私達少年の魂をつかみ血を沸かせたものでした。 活動写真が映画と名を変え川村さんが属していた映画館東館も焼失し「今の錦町を出はづれたあたりにあった」川村さんもトーキーの普及と共に職を失い、一時不遇であった。 其の後三皇さんは、市の職員になるやメキく持前の力を出し重要なポストを歩いて来られ、退職後は、老人クラブ連合副会長とし)て、よく軽妙洒脱な司会ぷりは皆枯  比  勇 象様ご存知の通り、劇中劇でのアドリブでも(台本にない台詞) 「その活動写真はこの先の東の方の舘でやってます」と言ったら観客がドット沸いた。そのせりふだけ妙に私は億えている。 三つの名を使い分けた三室さん、今頃はあの世でも局囲の人を楽しませているのでしょうか。 (註)当時の鳴門秘帖は日活の谷   崎十郎主演で、五週か六週   間の連続時代劇でした。第26号(8)

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日昭和53年6月1短歌   葛原 漆原嘉吉(九〇才)  藤沢市文化財    石川・角田氏邸の梅先代が心つくして植えた侮今日は大関明日は横綱盆踊り手足揃うて身もかろくうつ手の調子 村ほがらかに卒寿山登り下りは多かりし明日さいころ何と何やら      遠藤・官治ゆき子槙きこぼす白髪をうとむうかららに卑屈に生きて先ざぎ思ふ若きらは皆出で行きぬ老ひわれら芋の皮むき煮ころがし食まむ目ざむれば飯の匂ひの流れ来てけふの命もたしかと思ふ   遠藤四四五・窪島美恵子一、四つどめの花群白く暮れ残り  二日の月は輝き初めぬ一、椿の実はぜて落ちくる音のす  る庭に一目の仕事初めむ一、十年前記しおきたるメモ帳を  読みつつ夜具の綿入れすます      遠藤・青木義春元朝の国旗を立てて日の本の国の平和をひたすら祈る稲架解けば竹のふれ合ふ音のして夕べの里にこだまするなり這ひ初めし孫に此処までと蜜柑置き手を打ちながら招く賑はい      辻堂富士見ケ丘         西田きみゆく春を惜しみて咲ける紅つつじまっ赤に燃えて夕日の中に薮つばき実生の苗の生ふれども花咲く春ははるかに遠し‘春嵐吹きあれる夜ひとりねのまくらに近くかなしき雨音弱りしと思ふ心に紅ばらの生命燃やせと次々に咲く絶え間なく降る春雨にめぐまれて庭のヒヤシンスも土もたげたり  菖蒲沢老人会・与安チヨすぎし日につぎ木せし柿今みのり見事にさがり味もまあヽ夏の目中庭のかたすみ古い池食用がえるで こいも半分立冬や一月前の暖かさ庭の小菊もいろあざ中かに年の暮 其様の暖かさで野菜中すく農家もピソチ俳句   遠藤生楽会・青木芳春亦を待つポストは赤く塗られいる老臭を振り 落したく 午の亦吾が伺い堪ゆねばならじ 寒椿寒灯下 悔みの手紙書きつづる点眼の 雫冷たし 寒灯下   同     田代ちか女細入の 縫い替いそぐ師走の灯花八ツ手鉄垣の外へ のぞき咲く命あることの倖せ日向ぼこわか庭のそこらまで来て笹鳴す幼稚園のパス待つ母子息白し   同     長田孫太郎眠りいて 化石の如し 小春犬ひらヽとタ陽に燃えて紅葉散るトンネルを出づれば密柑の黄がまぶし菊人形色とりぐの衣着せて寒月やうしろより来る靴の音   同    桜井ヒサコスモスの花をゆらして電車すぐ=スモスの色動きおり庭の隅堪えて生く未亡人あり 冬椿稲を刈る今世の長婦手袋すお彼岸や父の墓前に語りかけ   同    桜井兼吉笹鳴や陽の縁にひとり読みつづく街路樹の葉は落ちつくし風尖る昼の庭に今日も笹鳴き来し気配落葉掻き庭の掃除や爺留守居夕づく陽土手を染めおり悦子鳴く   同   宇野 ミヨ秋晴の空にこだまし 鈴割れてあるかなしの風コスモスの色勤くうれ柿の高きに残り二つ三つ庭に咲く山茶花ほろろ散る夕べ秋空や吹っとぶ如く千切れ雲   同    青木すみ女  密柑狩り留守を待つ子に刻長し 抱かれ来し孫が焚火の人気もの 冬灯虫めがねして辞書を引く                    片瀬山 わかやぎ会      谷口喜太郎癒えて佇つ店頭の秋果美しきいつも二羽何鳥ならむ実南天  野仏の肩を動かぬ冬の蝶    冬枯ゃ石段高き瑞泉寺     千両や曽孫の小さき力瘤        片瀬山わかやぎ会      箱根五句 伊藤胡星     箱根路・やまねく尾花にさそわれて 初雪の富士ながめつつドライブす紅葉する箱根山荘静かなり温泉の宿のみじかきどてら裾寒し湯上りに食ふ公魚のうまきかな   片瀬松葉会・’飯塚あい霜月の風染めてゆく老の這松ケ枝や夢まだ多き老の春冬枯や水子地蔵のこばれ花竹の影風に遊べり白障子紅梅を九つ十っと老二人川柳    亀井野和楽会・堀川喜霊入歯でもいっこう減らぬ口小言川柳を縁に老後の友があり振り向けば笑顔が後について来るああ言えばこう言う老の天邪鬼      亀井野団地亀楽会          青山ひろ子老夫婦三里のっぽに灸すえて赤提灯いい気になって午前様旅役者大根だけど顔でもて   亀井野和楽会・鈴木  昇坊っちゃんも風呂で泳いだ土佐日記御利益の琴平参り汗をかき灯台も入れて三脚位置を含め   亀井野和楽会今日までの道の起伏よ老の坂           喜 重年令などは忘れて今日の初笑           喜 重うとまれぬ程に生きたや老やもめ           喜 重物ぐさなわが身たしなめ老の髪           い と濃く磨りて心経写し老の春             い とままごとの女王笑顔で年が明け             伊 平目標を決めて馬年祭を打ち             伊 平    亀井野・亀楽会また一つ馬齢重ねる新年会             側 子今年こそ若駒のごと生きヽと             燃 子不況風はねとびかえせ馬年に             撫 子どこかしら具合が悪い齢だもの             撫 子*************************************昭和53年9月15日

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(1)第27号敬老会はじまる 秋恒例の地区敬老会が、ことしもはじまつた。藤沢市内十一地区の社会福祉協議会と市とが共催で、やすらぎ荘を会場に十五日間にぎやかにつづく。去年の敬老会風景 市所行旅発 藤老人クラブ連合会 社会福祉協議会(事 務 局 内)  印刷所 亜 紀 印 刷 ことしの敬老会に招かれる七十七歳以上の老人数は四三三七人、昨年の三か二二人に比べて、実に四百人を越える増加ぶりである。 また、金婚を迎える夫妻はコニ六組、ダイアモンド婚の夫妻は一三組、長寿万々歳である。 敬老会の各地区日程は次のとお 九月六日 東部地区  ″七日 御所見地区  ″八日 片瀬地区  ″九日 長後地区  ″十二日六合地区  ″十三日西部地区一  ″十四日村岡地区  ″十九日西部地区二  ″二十日鵠沼地区一  ″二十一日鵠沼地区二  ″二十二日明治地区 九月}千六日遠藤地区  ″二十七日辻堂地区一  ″二十八日辻堂地区二 本紙が発行される頃には、すでに.何地区かの敬老会がすんでいることになろうが、今年度は、式典のあとの第二部アトラクションも、ナツメロや奇術を織りまぜた構成で、例年とはひと味おもむきをかえ、耳にも目にもたのしんでもらおうということである。 市老連新役員揃う 去る五月の総会において選任された本会新役員のうち、欠員であった副会長一名および、地区椎せんによる監事三名が、先の常任理事会、理事会において決定した。 会 長   岡村彦市氏 副会長   秋本島三氏 副会長   鈴木堅造氏 副会長   吉村喜三郎氏 監 事   中岩甚吾氏 監 事   清水長三氏 監 事   関戸宣安氏の方々であるが、これで、すべての役員が揃った。 クラブ数も増加の一途をたどり内外ともに充実整備の段階に入った市老連のために、機関車の役をお引き受けくださった役員の各位に敬意と謝意を表わした。 どうか、常任理事、理事、評議員の方々をはじめ、全会員があしなみをそろえ、この機関車に続いて欲しい。第27号(2)

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昭和53年9月15日遠藤地区の民話と伝説 その几       楽生会 青 木 義 春 O琵琶島の名の     起りと弁天様 当地区の北部に、琵琶島という小字がある。此処に高さ約七、八米のコー○坪ばかりの山林が、まわりは平坦な窪地の中にはつんとあり、めづらしい存在である。 その昔形状が楽器の琵琶に似ているところから、琵琶島と名づけられたと伝えられている。このまわりは湿地であるため、南北両側の堀の水は、蓼魅の時でも殆ど絶えることなく小出川の源でもある。北側は十数米も高く、南側はやゝ低い、昭和初期頃までは北側には県道の際まで五、六尺もめぐる松が何本もあり、南側には雑木が茂り遠藤から菖蒲沢に通ずる道があるが極めて淋しい谷であった。 湿地でも畑であったため以前は耕作されていたが現在は荒地で人通りも却て以前より少い様子でやっぱり淋しさはある。 扨てこの島の中央に、亨保十六年(一七T二年)に祀られたという、弁天様の石の祠があった。 旧地主は、当地でも尤も旧家といわれている北原の伊沢家で(現生は久重氏)明治十年頃のことらしいが、菖蒲沢の亀井氏にこの島を含めノュ町何反とまとめて売却されたが、亀井氏日く、私は土地は売って頂くが、弁天様は神様であり、恐れ多いので遠慮したいとのことで、伊沢家では、弁天様を自宅え迎え、宅地内に祀ってある北原町内としての下官、日吉様と稲和様の中え合祀して置かれたのである。 それが数十年経っての昭和十年頃のこと現在琵琶島町内の下官としての合祀近くに七、ハ尺もめぐったであろう、松の大木が雑木林の中にあった。夏の夜のこと、北原の方から火の玉がふわりふわりととんで来て、桧乃大木のところ元来るとフット消えてしまう、これがいく夜かP’(町内の人達が三人も四人も見たというので、噂さが高くなり、或は北原元移されている弁天様が、元のところ元お還りになりたいのではないだろうかということになり、氏子の人達が相談、伊沢家元代表の方が二人してリヤーカーで伺いその由を伝えた。伊沢家では悦んで快諾されお返し下されたとは事貢のことで不思議なことである。其の後終戦後の昭和廿四年の春と記憶するが祀を新築、現在の合祀の中に右にこの弁天様、中央に大六天様、左に稲和様が祀られているのである。 O現在島に祀つてあ   る弁天様について 島に現在祀ってある弁天様は、山本卯之助氏が大正二年一月建立されたものである。山本氏は、宝泉寺の東にあたる茶堂山及びその地続きで製糸工場を経営されていた方で、大正十二年の大震災で工場が全壊、ために惜しくも復興されることもなく終ったが、弁天様を深く信仰されていた。よく弁天様は音楽の神であり、財宝の神といわれ、七福神の中にも女性とし祀ふロの島琶琵て只一人異彩を放っているわけだがエ女たちも、往復五キロもあるこの弁天様え毎月二回の休日(一日・十五日)遊びがてら参詣していた。筆者も当時は廿三才の若い衆ざかり、往き帰りよく同道して愉しいことであった。 では山本氏が何故新らたに弁天様を建立されたかエピゾートがある。山本氏が所用のためこの下の道を通りすぎようとすると、大きな蛇が草むらの中に横たわっていた。蛇は天秤棒位あったという。今日では農家でも天秤棒は全然使用しないが、天秤棒にも槍天秤と普通荷を担ぐ荷天秤との二夕通りがあるが、蛇の大きさを表現するには槍天秤であろう、槍天秤は普通杉丸太直径三寸より三寸五分程度のもので、長さは五尺五、六寸、両端を尖らしたもので、よく大小麦の束を四杷六杷と串剌にし一定の場所に担ぎ出したものである。民具の説明になったが、山本氏はこの蛇の尾を握り県道端まで引ずり上げ、俺が戻るまでこゝを動くなと云い残し六地蔵で実弟が理髪業をしているのでその話をした。弟日く、兄さんとんでもないよ、その蛇は弁天谷(前述の弁天様が祀いられた谷であるので弁天谷とも呼んでいた)の主だよ元の場所え帰してやれとのことで、早速戻って見ると身じろぎもせず蛇はいたのである。弟の言葉を素直に受入れ早速元居た場所に移し帰宅されたが、その後昭和53年9月15日

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第27号(3)蛇のことが、弁天様のことが脳裏をはなれない。その翌年弁天様を島に祀られたとは、奇しくも現在弁天様の祀られているすぐ上の県道脇に正立工業所があるが、その家のおばあさん、ハル様が卯之助氏の実子で、よく子供の頃父から聞かされたとは筆者が直接伺った話なのである。 よく庶民の間で蛇は弁天様の春族であると信ぜられ、弁天様と蛇にまつわる話は各地にあるようであり、稲利様の春族としては狐であると信ぜられている。 当時は確かに大きな蛇が棲んでいたようで、よく農家では、朝飼前に草を一荷宛刈ることが永い間習慣づけられていた(草は堆肥の材料に)この草刈にゆき、弁天谷で大きな蛇を見かけたという人は当時何人かいたと耳にしているが免角大きな蛇に突然遭遇するとだれもが度胆をぬかれ、慌てこ`一宅その怖さに気力を失い一日二日寝込んだという話は、あちこちに残っていて笑えない事実のようだ。殊に蛇は小さぐてもよく赤い舌をペロく出すが、大きい蛇になると恰も火を吐くように思えて一層怖さを感ずる由である。 昨年の春、公民館の主催で郷土めぐりをすることこgり、不肖ながら筆者が案内役をすることになった、前日念のため下調査のため近くの知り合の宅を尋ねたところお婆さんがお茶を入れて下され、馳走になりながらお婆さんの話では、今でも弁天谷には大きな蛇が居て、宅のお爺さんが見られたという。勿論大正時代の蛇が永らえているとは信じられないが、湿地で夏は涼しく、清水が湧き出るところであり、北側の高い土手は越冬に適しているので、要するに蛇や縦の棲むには最適の場所と思えるのである。 因に今日でもデ銑11菜所では時折鳥居や祠の上屋を新らしく取り替えられ、信仰かハよけられている。 大分夜も更けて来た、もう十二時だ、さあ出掛けようかなんてまるでお隣りへでも行くような軽々しいぢいちゃんの言葉、丸で夢の様だなあと孫たちに笑われながら乗用車に乗り込む。毎年のことで用意は家中の勢ぞろいをさをさ怠りない第一番に山の天候を睨む、よし之なら大丈夫と水筒、辨当、山は涼しい、むしろ夏でも寒いの例海抜三千七百七十六米の別天地その霊峰頂上、奥宮神社を目指しの挑み成るか成らんか、一、六勝負だ。其連年其数を増し、殊に日曜等には登山に駐車は置場なしの様想にも出会いかねない光景も見る有様、先づ地元の静岡、愛知、山梨、東京、神奈川、千葉、京都、奈良、岡山、遠くは九州、福岡等の車も数限りないナンバーを競って居る時代の進運に驚かざるを得ない状景を呈して居り、未明の登山入口な胸つきハ丁のザクザグ道も悠々進行、普通の登り方では、水前寺清子歌手の歌ではないが三歩進んで二歩戻ると云う様に生やさしい登山道ではない。如何に若々しい青壮年の人たちでも彼の九合目では二十歩あるいて腰のばしノ二十歩進んで息を整え、それを幾度か繰り返し繰り返しそれを何十辺も【随筆」 日本一霊峰富士山頂に      挑んで十年の佳話ごとを耳にしながら車の中に待期しつヽ厚木インターより東名高速に入り約一時間余り御殿場を経て富士の富国駐車場え灯を目当てに車は走る走る、実に痛快だ約二時間にて駐車場に落ちつく。自動車産業え発達と之に追従した道路公団え通路整備は至る処隅なく行き渡り、随って登山希望者も用田第ニ長生会   長谷川 卯之助にも共々案内で道は持ち、電灯ですぐ繋ぎ五合目、六合目、七会目ハ合目などからは愈々おはよう頑張ての合言葉は山のエチケット、団体登頂などは勢いよくヤッショコラショの掛声勇しくニェウー登山行としてバスガール式ピッピの笛に合せたファイトファイト等、そう云う組はハ合目、九会目の様辛抱しP’けるうち漸く奥の宮神社の鳥居えくれば噫よかった、先づこれで頂上だなあと一安心。 疲れた足をいたわり乍ら奥宮神社に登拝、宮司さんに挨拶し登頂。高令者名簿にサインをすませ宮司さんからの慰労の言葉、御神酒を戴き次で臭上獄と記し、ある立派な扇子を恭しく受ける。之は正しく七十才以上の齢、高令者えの特権で如何に早時間で登頂し、どんな壮者であろうとインテリーであろうと其枠には該当出来ないのが第27号(4)

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昭和53年9月15日特点のようです。先づ行事が終っ  て張り合いよく、登山進めて山頂たらカメラに託して鳥居前の記念 まで六時間なら下山三時間、八時撮影腹拵え約一時間之休憩を取っ  間なら四時間、青壮年者なら予定て除に神社に一礼して下山とする 時間通りの行動にすませるが回筒下るに随って色々の人に会う。齢 令者登頂は特権と記したが惜しい称々高令者になると若い登山の人だ事に年波には勝てず特権を得る様たちから慰労の言葉や年令を問わ になると心身に疲れを増し特権何れるので怖々時間のかゝるのも之 ものぞやの様想となりますので出に程よく応答しながら中には握手 来得ることなら世の諸賢の若さを攻めになる場合も多々ある。更に 特って登頂を望むと同時に不断心偶々ふれ会う絶世の美人のさしの 身の鍛えを望んで止まない訳ですべる握手にも出会い山ならではの 言葉は余談に走ったが時計は五時感無量、外人客に片言の英語でユ 半を過ぎ、六時を刻んで道は暗くウグッデーの挨拶でも彼等の心境 愈く五合目駐車場に着いた時は八は嬉しいらしくオーオーおじいち 時半から九時になり帰途の車の中ゃん元気ね、なんて反対に返し言 には疲れた身体をゆるやかにしな葉の愛想よさ、態々三、四歩進ん がら山の様想に思いを浮べつこ氷で肩を叩きに来る輩もあり同じ山 に辿りつくのが毎年十時から十一に心を草めて登頂は又格別と泌々 時、山はやっぱりいこgあ、又来オリンピック精神とでも云うか、 年の登頂を夢見ながらゆっくり風国際愛を表現し人類愛を登山情著 呂に入りなごやかに皆と乾杯し食にはっきり浮き彫りにされて居る 事をすませて寝床に這入りのばす様な感にうたれ、自ら互に握手の 足の心よさ。求めに応じつヽ下山の道づれとし  富士登山の仲間こは四年前から富士喜楽会と云う会が設立され全国に約百五十人の会員を持ち会長は東京の銀行頭取さん加藤氏、副会長は静岡富士宮の薬草字の寿年の渡辺氏で随分熱心な方々ばかり時々の会報季節だよりの投稿友愛通信等行き届き随分の熱狂ぶり、会員を中心に登山者年々増員し、 (七十才以上)相撲番付け等も記録され会員の総会年一度(勿論会費制)場所を改め会合を持ち既に京都で二回、富士の宮市にある立派な富士の宮神社、東京青山の修養団本部等各一回宛登山反省会をかねた総会、談話等もあり中には大学総長の暦任者等及び小学校新大学生友々の様な感じ、花咲ヂイサンや浦島太郎、桃太郎、兎と亀等の昔話の出来る輩で賓に賑々しい誰とでも話が通じるなごやかさ仲間は皆富士登頂者なので元気発剰、酒も呑めば歌もうたう、踊りもやれば冗談話も出来る。富士の山からノーエのノーエ節を初め、いろんな金興が飛び出し、いつまでも登ろう富士の山の合言葉で時の過ぎるのを閉じた。 高令者登頂者は会員以外を含めて約五百入金そのうち男性四百五十人ヽ女性五十七人これは近年ウーマンリブの関係影響もあってか大分登頂者が増して来たと云う会長のおはなしだった。どうあっても最後は男性の方の登頂者が多く東京に百二、三十人、静岡は流石膝元だけあってか五、六十人、神奈川の四十人前後(中でも藤沢市は毎年三人から五人位)それに千葉の三十人、次いで埼玉の二十数人、山梨はお膝元でも五、六人から十人以内、愛知の二十五、六人、京都の人が案外多く平均二十人位その他北海道、九州、四国其他各県の人たちの集りから成って居る様で何れにしても健康の男女の集りで心身共に総じてしっかりしたものばかり、一口這入った酒宴の際は此の戸の耐性最年長者所謂、相撲番付の横綱さん同志の世界旅行は如何ですかなどのユーモアも飛び出し噫永生きしたのだから二人そろって行きましょうなど握手握手の連発で健康ならでわの合言葉、いつまでも登ろう富士の山ではお互に御自愛をでお別れする。二十昭和53年9月15日

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(5)第27号死 の 荘 厳鵠南地区松寿会束   片  山  藤  樹 地球上の すべての人類が 老若男女の別なく 何らの前兆も予告もなく 持ってたスプーンの食餌が 遂に口にできない程の アツと言う間の出来ごと 一家団槃の夜 眠りについたままの永眠など いつ何時 どんな場所で起るかも知れない 逃れることも 一時延期も許されない 公平に平等に 一人の洩れもなく 否応なしに 必ず一度は果さねばならぬ責務 全く以て摩謬不思議な現象それは生の終止符【死】であるすべての人間はいづれも 死ぬべき宿命にある  oこのようにo●人の寿命は無常なり●出づる息は 入るいさを待つ ことなく●風の前の露 なお讐にあらず●賢きも愚きも 老いたるも若 きも定めなき習なり●されば先づ 臨終の事を習う て後に 他事を習うべし  日運上人 妙法尼御返事 たしかに 前述のように 人間は 肯定も否定もなく 日々の生活の中に 心の奥底深く 死を如何に見つめて生くるべきか 必然的に死に向つて生きているとは言へ 現実の吾々が どういう心境で 追い込まれてゆく死に対処すべきか 幻想としてながら 死後の吾々は イエスの主の神のみ許に還ると信じられ 或いは神に昇天すると言はれ 主に還ると言い 空界に散華すると言い また地獄行きとか 極楽詣りとか いづれにしても 死への決意と対決 これは人間のもって生れた宿命として誰しもが 只一人で旅逝く道である以上 T人ひとりが考うべき命題であろう この問題の解明については 何千年もの昔から 所謂 大聖人とも呼ばれた 古今東西の数多くの仏教学者が あらゆる難行苦行を重ね 辛酸をなめっくして 究明にっとめられたが、肝心の 吾々人間のもっ 所謂 生と死の超剋生命の玄妙 死生の脱却にっいては 遺憾ながら 誰一人として遂に 完全な解決 完結には至らなかった そして こうした人達が その間に感得した それぞれの 学説の成果とも言うべき 所謂 経典を編纂されたが この経典たるや高邁と言うか 深遠というか とても 一読会得し難いほどむづかしい 漢語の羅列で しかも 浄土宗では 人間の死後は一方通行で 誰一人として見て帰って来たものも無ければ 証拠もないのに地獄行きとか極極楽浄土とか こうした古典的に凝り固った 自閉症のような 既成の宗教に対しこれに飽き足りないとする 戦後新時代の人々はすべてに現実主義を求めている 社会大衆の 信教の自由に対する思潮に乗って 例えば 創価学会 PL教団等 数多くの 所謂 新興宗教々団が台頭し 戦後の仏教信仰に対する言はば 流れを大きく変えたがそれはそれとして 兎も角 これを以て独自の宗派となし 例えば法然上人は浄土宗を 空港上人は真言宗を 日蓮宗上人は日蓮宗をと云うように 自ら宗祖となって自らの仏説を掲げ しかも その宗門の象徴とも唱うべき 題目日蓮宗は南無妙法蓮華経 浄土宗は 六字の名号 南無阿弥陀仏というように 各宗各派が 以来何千年 その法灯の下 広く社会大衆に布教し 宣撫することによって 兎角 人間凡夫のもっ 疑心暗鬼と 一切の煩悩を取り除き普く衆生に勧請し 兎角 荒み勝ちな人心をして 仏心に帰依せしめ 延いては 国家社会を和平安泰にみちびくための 言はば 教宣活動の一環として 善男善女による信仰が、これからも 未来永劫に勤められてゆく事であろう         合  掌(6)第27号

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9月15日昭和53年 旧聞に属することで中沢ないが、春まだ浅い二月中旬、私達東部地区ことぶき会の仲間五十名で三河七福神めぐりと三谷温泉の旅というバス旅行に参加、地元観光社員に引率されて二泊三日を回遊、参拝した。 ご存知の通り、三河の国つまり愛知県下東部各都市に点在している数多い寺院のうち、七寺院に七福神が祀られている。昨今は、観光と信仰がタイアップしており、まことによき時代であ 七福神は、いづれも寺院本堂にご本尊様と同居のかたちでその傍に大方は華やかに鎮座している。順次寺苑から本堂と見学し参拝してから、ご住職の寺の由緒、由来の説明と法話を、仏妙ならぬ神妙に拝聴したものである。 さて、当時参拝した七寺院とも、一行が本堂に着座すると「皆さん、合掌しながら真言を十回唱えて・:」とご住職の指示があり、掲出されてある真言を読みながら、ぼそぽそとご住職に唱和これを実行したものである。 私がメモした七寺院の真言は次の通りで、いづれも原文のまま、安楽寺のみは漢字が併記されてあった。三明寺(豊川)おんそらそばていえいそわか宝珠院(幡豆郡吉良)うんぬんしきそわか妙福寺(碧南)おんべいしろまんだやそわか長円寺(西尾)おんまいたあれいやあそわか宝福寺(岡崎)うんぬんしきそわか法蔵寺(蒲郡)おんいんだらやあそわか安楽寺(蒲郡)おんまかきやらやあそわか’ 以上私たちが唱えた真言の内容は、難解な仏教用語であると一応考えてはいたが、参拝する寺院毎にご住職の指示通り唱えているうちに、一体この真言とは伺を意味するものか。という考えに変ったものの、遂に惰性で一寺院十回、七寺院で七十回を唱えてきたことになる。 当時、ご住職の解説もしていただけなかったし、時間的制約があって解説を求めなかったのは当方の不覚であった。 私たちはよく、意味を解さず、本にある通りに、また数えられた通り念仏、題目等を唱えているようだ。実際はどのような意味があるのか詮索も、研究もしないことが多い。 一つの教えである以上、その内容を知らずに唱えるということは全く非礼、不自然なことだと思う。もっとも、解からないところに有難味があるといわれれば、それまでである。 前記の真言にしても、その後今更照会するのもどうかと思っていた矢先、私の檀寺で伊勢原市の大宝寺佐々木住職にこのことをお話したところ、快諾され大要次のような回答をいただいたので、老友のためここに発表させていただくことにした。 さて、真言であるが、一般に真言というと真言宗で多く用いられているもので梵語のお経のことである。他宗でも用うるが、真言宗程ではない。普通のお経は漢字になおってぃるのに、なぜ漢字になおさずに梵語のままで読むかというと、漢字になおすと誤まったり、言葉ではいいつくすことのできない深い意味を有するところからで、そのまま梵語で読む場合が多いのである。とのことである。 三河七福神の寺院で唱えられるお経のことであるが、要約すると次のようになる。 ※おん……というのは帰命・帰依・供養という意味がある。 ※うん・そわか……というのは真言の聖護で、一切の災難を除き我々を幸福にするとか、ものごとが成就する。という意味がある。 ところで、○三明寺(豊川市)弁才天 おんそらそばていえいそわか日‥我は心から弁才天に帰依する。 弁才天の加護により一切の災難 を除き幸福を成就したまえ。○宝珠院(幡豆郡吉良)寿老人 うんぬんしきそわか=我は長寿延命なる寿老人尊に対昭和53年9月15日

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第27号(7) し帰依す。寿老人尊の加護によ  り一切の災r争艮き幸福の成就 り一切の災難を除き長寿延命の  ならんことを。 成就ならんことを。      O安楽寺(蒲郡市)大黒天O妙福寺(碧南市)毘沙門天     おんまかきやらやあそわか おんべいしろまんだやそわか  =我は一切の災難を除き福徳財宝=我は福徳利益を授けらる毘沙門  を請来する大黒天に対し帰依す。 天に対し帰依す。毘沙門天の加 護により一切の災難を除き福徳 利益の成就ならんことを。○長円寺(西尾市)布袋 おんまいたあれいやあそわか=我は衆生を救うという弥助菩薩  (布袋)に対し帰依す。弥助菩 薩(布袋)の加護により一切の 災難を除き幸福の成就ならんこ とを。○宝福寺(岡崎市)福禄寿 うんぬんしきそわか=宝珠院と同じ、ここでは福禄寿。O法蔵寺(蒲郡市)恵比寿 おんいんだらやあそわか=我は一切の災難を除き幸福を与 える帝釈天(恵比寿)に対し心 より帰依す。恵比寿の加護によ 又は大黒天の加護により一切の 災難を除き福徳財宝の請来の成 就ならんことを。以上の如く大まかに解釈することができる。との回答に接したもので、解かったからこそ、有難味が倍加した次第ではなかろうか。 当時同行された皆さんはもちろんのこと、日時こそ違え参拝された方も、本誌読者各位も、これを理解され皆さんの信心教資とされるならば老友のため望外の喜びである。老人サロン開設毎週月曜日自由に お使いください  「六階のへやが空いているのでお年寄の方々に自由に使ってもらえたらI-―’」と、この度、藤沢雛人形製作所から、へやの提供があり、さっそく「老人サロン」として週一回利用することになりました。 このへやは、鵠沼の秩父宮記念体育館前のビルの6階にあります。およそ三十人程が使える広さ。卓球、マッサージ用健康器具などが備えてあり、冷暖房も完備。又、本、囲碁、将棋も用意されてます。 利用できる日は、原則として毎月曜日ですが、利用希望者が多いようでしたら週二回にする予定もあります。 なお、へやの掃除等の管理は、利用者にまかされるわけですが、ボランティアの方々の手助けもありそうです。 利用希望者は、直接、老人サロンの方へおでかけください。自由に使用できます。クラブ活動や、趣味、会合などに大いに利用してください。 とき 九月四日(月)から毎週月曜日 午前十時~午後四時。 ところ 鵠沼二I四八番地(秩父宮記念体育館前)藤沢雛人形製作所六階。 問い合せ 老人生きがい課(内線四二二番) へどうぞ。藤沢駅         至東京      醤混   東京電力プ谷言言E’ぐ↑〈老人サロン案内図〉第27号(8)

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昭和53年9月15日俳句     片瀬山わかやぎ会         伊藤胡星 (悼愛犬ジョニー二月)迎へくれし ジョニーは亡くて         冬の門ジョニーなき犬小屋 悲し寒の菊又してものぞく矩燧に ジョニーなしもの音に 雨戸開くれば夕時雨昇天のジョニー 安かれ冬の月     片瀬山わかやぎ会         谷□喜太郎迷い未て 峡の小茶屋の心太金魚売露地の奥にて 銭(ぜに)数ふ踏切に荷の肩替える 金魚売花火線香 のぞく背な越し髪匂ふ夕立の晴れて 日当る太仏殿      遠藤楽生会            青木義春 走り根にまつぶ小路や 嘲れリ今そこに嘲りいしが翔ちにけり小手毬の素直に風を受流したんぽヽのほけし架の川越しぬ白藤のすがしさ朝の歩を運ぶ      遠藤楽生会         青木すみ老夫婦はげまし生きぬ夏蜜柑傘さしてやりたや 牡丹咲く上にたんぽゝや墓苑明るく雨上り乳房吸ふ兄は満ち足りて汗しとべ客の膳 繩のとび来て恥らぬ      遠藤楽生会         桜井ヒサとなりより植田祝いの餅貰ふ梅雨も明けいよいよ-一家の多忙なる風鈴や老ゆれば長く昼休み夏まつり輿かつぐ声そこまで来朝がほの竹垣にのぼりつめて咲く       遠藤楽生会           田代ちか明易く時計打つ音を数へけり竹の秋藪に影置く月の影初夏の陽を浴びつつ孫の水あそびあけ放ち部屋一杯に青葉風ベル押せど鈴の鳴る音ばかり      遠藤楽生会         長田孫太郎靖国の銀否並木に風かほる戦跡を尋ねて野菊供へけり史跡訪ふ人等花野を横切りて短か夜や雀の唄もうつふ間く夏草を踏みわけ史跡訪ねけり      遠藤楽生会         桜井兼吉入念に穂先揃えて筆けじめ思はぎる春雷ひとつ雨の中歩道橋ゆっくり渡り春の風鳴く蛙川の昼より夜に移り聯や水音の/へと峠茶屋      没落楽生会         笠原とく女犬安のよき日に春着裁ちはじめ久々に訪ひ米し孫とよもぎ摘む芽吹く木にたもとふれもし山路ゆく牧場の朝服ほぐれ陽炎ヘリ苔寺と云はれ清水の湧ところ    遠藤楽生会         宇野ミョがく紫陽花今日の茶席に剪りもしてあじさいの花毬さがり今日も雨庭によく動くや嫁の夏帽子初なりの茄子を供へて灯しけり桑の賓の色にくちびる孫いとし短歌      遠藤楽生金         青木義春芸能の百遊金に招かれて琴の音色   に耳澄ましけり琵琶弾きつ那須の与一を謡ふなり   興味をもちてじっと聞き入る寒月といふ曲を吹く尺ハの音に襟   首の冷ゆるを覚ゆ聘薬の花芯に蛇のひそみいて時折   出てはねを震ます代径きの終リしあとをはどヽに   水を張りおき植田待つなり         窪島美恵子ぜんまいの巻葉ほぐれる山の辺に   十七年生きし犬をとむらふ照りつける暑さをさけて電柱の描   く口影に友を待ち居ぬ法要が今日ある寺の前の田に芹つ   む女等桜花をあびつゝ  かぶと虫と孫         官治ゆき子家中で一番早起き今朝もまたかぶ  と虫捕へ孫はにこにこ買ったのではないと自慢する孫の  かぶと虫は全く強し結婚をさせてかぶと虫放ちやると  かなしかことを孫は言ふなり*************************************昭和54年 6月 1日

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(1) 第28号盛況でした  発行所藤   沢   市老人クラブ連合会,社会福祉協議会(事 務 局 内)  印刷所亜 紀 印 刷圃おとしよりの生きがいを高める             趣味の作品展m鳶老連主催の徊内蔵初の試みと会員の皆さんの投稿を、お待ちします催しました。            老入力こフプの会長きんや各地区 出品数は三一五点。絵画、書道 から次る実行委員さんの数ケ月前工芸、手芸、彫蜃、短歌、俳句、 からの御協力にょって、今回の成川柳左どで、訪れた人々の目には 功が屯たらされ、次回へのさらに少しも老を感じさせ々いょう々、 大き痙期待がょせられました。心のこもっ九作品ばかやでした。  作品数、絵両三六点、書道一七 会場には訃孫ざんづれの老夫妻 点、短歌七四首、俳句一回一句、や家族づれ、若い人たちの姿もみ 川柳一五句、工芸一四点、手芸四えて総数は約一千人を遡えました。○点、彫蜃六点、盆栽一点。 出品者はみ々さん、趣味を心の  地区別出品者数、東部一五、西糧とされ、それそれに創意やまた 部二二、鵠南A、鵠北一五、村岡訃金をかけない工夫をされる々ど、四、片瀬一〇、辻堂コハ、明治一して会員の趣味や腕自慢の芸術? 素朴さの中に手づくやの楽しさ、 〇、六会一〇、長後二三、御所見作品の展覧会を四月六日から三日 暖かさを感じきせるものが沢山あ 三一、遠藤一一。総数一六六入と間、藤沢名店ピルギごフリーで開 やました。いう盛わあがったものでした。昭和54年 6月 1日

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第28号(2)東京養老院を訪ねて渡内老人クラブ山本直之 よく請れた師走の一日、曾て当 を探査してからと、当タラブ企画ぞフブが年次計画にしていた、東 担当者である鈴水松之肋氏、笠原京養老院藤沢分院に訪問の日がき とみ女史に依頼して、十一月中旬だ。               頃事前協議の形で先方の意向打診 この慰問の字句の解釈をめぐっ と実施の際の要望事項、又此方側て種々論議され、慰問よカ訪問交 の各般希望と先方の要望事項など歓会の方が適切では:・の意見もあ 率直に聞き、直ちに役員会にかけって、その理由の根底を見るとo 訪問することに決定したのである。 若しか院生の中の誰かが、俺達はμ‥私達は、痙にも外部からの慰    ◇   ◇   ◇問を受け、又受けよう左そとそん  十二月三日(月曜)午前九時二植込みの手入が次され而も塵一ツ りました。因みに院生は入院を除々く清掃が行届いていた。その管 き九三名、院長ょや本会の主旨説理の良さに思わず、左るほどネ・: 明と開会のことばが述られ、次いと声をけずませた。       で山本会長の挨拶、笠原定雄さん さだめし’gQ¥任者指導者は、ょ力ヽ病気治療の体験談の発表が立派々方と想像しながら歩を院内 約五分開校で終力、つづいてヵこフに進めると、やがて出迎えてくれ ブ員の持参した、先方要望の品、た方がここの院長である川瀬得圖 古浴衣(オムツ材料)を十六枚噌師であった。 川瀬得圓師が笑顔で自己紹介され、やがて大広間に案内された。   ◇   ◇   ◇ 私の第二の印象としては正面ご本尊右側に「何人も働らくべからず」左側には「何人にも強制され左ことは絶対考えても見痙いし、 十分渡内ベハス停に希望参加者十六 左い」との看板らしきものが目に又それ程の惨めさは寸毛も左いか 人が集合間二十四分出発、所定の とまや、やは力此処にもデモぞフら、「大体我々は別に見世物でも 停留所にて下車、徒歩約五分位に シー思想の流れの中に見られる標々い。」々どと誤解され、皮肉ら て正門前に到着、門柱の看板は永 語であや教訓かと感じられた。案れる人があるとすれば訪問する事 い風雪に耐えてその古びた表には 内され九休憩室でI間少憩ののちの事態が認識不足で、かえって済 「東京養老院藤沢分院」が薄く読 やがて十時を告げる几詰が打鳴らま痙いと同時に無意味で中止すべ みとれた。私が門を入って強く感 されると、院生が自室よや銃身ときと察せられたので、先ずモの点 じた第一印象は、相当広い庭園の 集か、五~六分で全員の集合が終呈した後今度は院生の中に参カ五々割込んで持参の菓子を食べながら懇談に花を咲かせました。その間に院生とタラブ員の合同の歌と踊やで広い舞台を処決しと交歓したのであった。 私の第三の印象は、院生の中に歌や踊カが大変上手々入が多いことに驚かされ、隣席の院生にどうして覚えるのかと尋ねたところ、その老人の言われるには毎週一回鎌倉の人が教えに来て、好き々人が教わるということで、々る程とう左づかれました。 それにして屯私達が平素想像している以上に皆様が明るく朗らかであるのに驚き、極めて短かい時間であったが相互の中に尊い時を過せた事は、これはひとえに院長の川瀬さんの柔軟な人々やと理に強く而も気さく痙博識の人間像、仏心に近い良き指導にほかならずと痛感したのであった。   ◇   ◇   ◇ 十一時三十分予定された時間がきたので一同と又○再会を約して別れを告げて屋外に出た。外まで見送カ下された川瀬さんょや新らしい建物を案内するからとの釦言葉に甘えて逐次新装の成った患者収容病棟(現六四名収容)と炊事場、調理室、風呂場、食堂等,見て廻ったがいずれも近代風の建築施設、衛生と風紀面等至れj尽せやで殊にこれ等が整然と処理きれている点流石と目をみはやました。 いづれにしても収容中のご老入各位が良く完備された施設に而も良き指導者を頂き老後を楽しくのんびかと余生が過せることの率と将来も幸多かれと折々つつ意義深い訪問を終ったのである。1日6月54年昭和 藤沢市役所に「老人生きがい課 会生活の串に感じ取っていたわけ うことには複雑々事情があるよう」が設けられたのは、さほど古い である。             であるが、その根本には「公・熱性ことではない。とすると、それ以  ところが、その「効」の舞台の 」があるということである。それ前の藤沢市には生きがいを失った 幕が下かて幕の外へぽつんと取j は、因・縁・果の必然性である。老人は居左かっ㈹のだろうか。老 残されると、市役所の「老人生き 天体の運行、地球の自転と同じ公人という階層にそん々激変があ。がい課」の看板が目につぐのであ 然性である。因・緑・果の法則内たとは考えられ庖いとすれば、一 る。これは正に文明社会の美徳で にある「果」は必然なのである。課が新設されたいきさつは、老人 ある。生きがいを社会的「効」に 必然であるということは生れたその側にあるのでは々く、ご時勢が 求める心情は、悲しきまでの美徳 の事に意義があるということであ労働入口過剰の時代を迎えて、否 である。老人生きがい課は、この る。と私は考えるのである。たものとも解釈できるのである。 着物」である。入間の生きる本質つまや生れたというそのことの尊 からすれば、それは決して生きがさであるとすれば「生きる意義は、いの本すじでは産い。着物である生きるそのこと」に在ると考えら から二義的なものである筈であるれると思うのである6生きるモの が社会的にはそれが美徳と考えらことが、即ち生きがい産のである。れてしまったところにI義的産毛と結論すれば、生きがいの原点が、のと考えられてしまったのであるはっきj固定するであろう。 生きることに、生きがいの原点を置いて、周囲に迷惑を掛けずに  応無しにはみ出されてしま。た老 美徳に応えて様カ左施策を構じて  訟釈迦さまは、釦生まれになる 生きていれば、社会的には消極的

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第28号(3)ねて、老人福祉の一環として印加上げた屯の々のであろう。 その証拠には、過疎の農村々ど 下さるのである。八十を越した老人が家族に交って  そこで私は老人の生きがいを、立派に一役買って、それ々やの生 別の角度から探求してみようと思きがいを感じて生きて居るのであ うのであるo 「生きがい」の「生る。老人も有効入口に組み入れら き」の方を見直してみようというれているからであろう。     訳である。私は今、 老人も、それ々’りyに有効人口内 「訃前は何故生きているのか」に在れば、有効の「効」に生きが と改めて問いかけられるといを感じるのである。特に男性は、「生れて来たからだ」と答えたく社会生活の中で長い間有効人口と なるのである。実はそう言う考えして働き続けて来た経歴と誇わを 方もあるのである。持っている。つまj生きがいを社  入間がこの世に生まれ出るといだから、着古した着物はどんなに立派であろうとも一応脱いで、思い出の箪笥にでも納めて、一変どっかと座丿込んでみるのもいいではないかと思うのである。  生きがい謬ド会梅田幹生  。奈「竺あ1入。」ヘバ  家庭を含めて、複雑左社会の仕誕i誕蜃I鏝誕鏝誕鏝誕誕i。タしょうとする意慾たるや、美 組みの中に華4しい第一線の活躍とすぐに立ち上って四方に歩み、 徳であゎへ社’とすべきであるが、 を終った老人は、生きているとい右手を高く挙げて、       無理やjにバ″タして行くと、第 う原点に立ち帰って、改めて周囲  「天上天下唯我独尊」とか。し 一線の有効入口との間に、摩擦と を見廻し、築き上げて来た広い視やったと伝えられている。誕生掲 混乱を生ずる虞れが生ずるであう{ノ。野から、老人の位置を見定めた々といわれる詩句である。      習慣というものは恐しいもので ら、そこに分相応の生きる場所が  「世界中で、俺が一番尊い入間 働き盛ヽ夕には尻をたたかれて、働 見つけられるのでは左かろうか。々のだ」という解釈6できるので らかされることに内心反撥を感じ  「生きがい」は主観である。一ある。「如来宣言」という解釈の たものであるが、いつの間にかそ 度原点を見きわめて、そこから改しかた亀)あると思うべ 「唯我独 れが習性と々。て、それが又生き めて主観的老人生きがいの構想を尊」とは、            がいになるのである。この習性は 組み立てたなら、居心地のいい場  「我、独やにして尊し」と、人 入間の進歩が「集団社会」を形成 が出来上るのではあるまいかと、間の尊厳を高らかに歌い挙げられ する段階に到達して形成ざれた「 私は考えるのである。昭和54乍 6月 1日

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第28号(4)遠藤地区の民話と伝説々の四      楽生命青木義春滝の沢の 不動明王についてにちょこんと残され、あた力には多くの家屋が建ち並び辻堂用田線のバス停も近ぐにある。か様のわ丹沢、大山の山脈が晴れた日にはぐっきカと見え景色は粛清しい、滝の上には山桜の五六十年も経ったであろう棟立が教本冠さ・ゎへ其他常緑樹や落葉樹があ力で、桜の花の咲く頃よカ秋にかけては参詣かたがた母子迷れでの遊びには鏝 この社は矢尻町内の氏神様(小 けて、多く0人達が棲みつかれ、 適の場所と言えようo因に現在は官)であカ、御本尊は石造の不動 滝の沢自治会までが誕生している。前記のように周囲の土を削か取っ明王で寛永二布二月(一六比五布) 私たちのように以前の状態を知寺  右衛門が祀ったと伝えられ    は人家が数百米もは々れ前一」        で山林に囲まれた屏石暗いとても淋しいところで、女や子供では一入では来られない段どの場所であった。ハ、立米の高さから 一条の滝が’流れ落ち、その吾が却 て淋しさをかき立てるようにも思 えた。 現在は本市の西部開発の中に人か、周囲は削丿取られ前の田圃も埋めつくされ、不動様が祀られてある場所だけが几七十末位の高さっているとあまカの変カように、全ぐ夢のようである。不動様社殿0裏に立つと富士山を始め箱根、たために水が出々く々カ、ために水道の蛇口をひねれば滝と左るよう配慮されている。 扨てこの不動様は霊験あらたかと古くから伝えられ土地の人ょや ジエーメー・・工場の西側である。ト却て他地区の人沸ょぐ参詣される りさんは明治十八年生れであるかとも聞いて訃朽へ願かけに見えた ら恐らく日清戦争後の二十九年、カ滝に打たれてT心不乱に祈祷さ 三十年頃のことと思われるか果し                て北原にこの話が残っているかどれる人もあ力しとか、願かけて念 うか。幸いトリ様の生家に同級生願沸かない、塔を奉納したカ、或 の伊沢久重、更に近所に伊沢蔵吉は現在の社殿は氏子の官治安直氏 両氏が健在で居られるので何って沸病癒祈願がかない、昭和五十二 見た。両氏も父親から聞いている年二月奉納されたもので小宮とし が近所の当時伊兵衛という方が不てはまれに見る立派左建造物である。動様を借jて来て競馬をしたとい この不動様についてその昔か様 う。伊兵衛さんの家にも聞いて見                たが四代前のことでもあカ話は伝なことがあったという、私のとこ えて痙いらしい。ろへ茅ケ崎のあしかび学級の婦人  では氏子の矢尻町内の方々はこグループの三、四名の方が民俗の の話を知って居らるるかどうか長研究のためょく見えたが、当地の 老の官治関太郎氏を伺い聞いて見北原ょか圓市の西久保へ嫁がれて た。官治氏も先輩からたしかに北いる岩沢トリさんこ几十四才゛宅 原へか貸ししたと聞いているが、へも何うとの由でしたがそのトリ 其後矢尻の氏子に疫病が発生流行・                したので早速返して貰った由で、様の話にょると、私が十才位の時 蓋し神様を貸し借カしたとはめず私の近所の人が滝の沢不動様を借 らしいことだと思う゜ゎyて来て、北原よカ石川へ通する  然らば何故競馬をしたのか、目俗に十四枚という数百米位もある 的は何であったか全く判らない。うかこの道路で草競馬をIス三年 よく昭和の初期頃迄は、当地ではしたとのことヽ現在のプレス、ラ 小官のまつ力の余興として丸太で1日54年 6月昭和

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第28号(5)臨時の掛舞台を作j、歌舞伎芝居を挙行したhへ或は興行師が農家の庭を借jまわりを囲んで芝居を挙行、木戸銭(入場料)を取や金もうけのため行ったが、こと競馬と々るとまわやを囲ってやるわけにもゆかず、金もうけのためとは思え左い。とすると自分ちだのしみ満足し、入をも悦ばせ吾家の幸せを願われたのではあるまいか、とも思うが諸は依然解けない。勘兵衛 地獄について 当地区の刈込町内から矢崎町内にゆく旧道の矢崎寄やに、直経ハメートル深さ三メートル位の捨鉢状の、入呼んで勘兵地獄という昔から有名左淋しいところがあった。十散米もの低地、所謂土手山で、雑木が生い茂や当時小市川に添うての田圃は冬にでもなら痙ければ見えず、しかも道路は曲やくねや見通は利かず、うす気味のわるい道であった。新道路が出来ても山の尖端がニケ所ばかや恰もビラミ″トのように残っていたがこれも整理されIケ所えは家が建ちIケ所は畑と次っている。 以上のよう々わけで当時は地獄の脇を通るのは子供達は嫌っていた。地獄のあった所は三方山に囲まれ南傾斜の畑の下部にあり’雨が降るといやでも水が地獄に流れ込み、それで々くとも平素水が湧き出て芹や杉菜や、雑草が生えてい今は埋められ畑に変身、南側に辻 た。のぞき込むと吸いこまれるよ堂よわy用田ゆきのバスが走って訃わ、近くに三軒屯の家も娃ち曹のさびしさはどこえやらである。大庭東郷線の道路の完成した昭和三十九牛ごろまでは北側は凡そ三百米程の山つづき、南側は散米からう々感じさえしたものだ。勘兵衛地獄の名がつけられたのは、要するに矢崎の勘兵衛様の持地からであろう。今でも屋号で通っているが、当主飯島義治氏に双六故に遠慮なく聞いて見た。れ 君の家では誰かこの地獄に誤っ や或は記録にされたがだれかこのて出水の時にでも落ちて死んだ入 綿を糸につむぐ人は々いかと小林かあるという言い伝えがあゎyはせ 先生から依頼され、先生方もハ方ぬかと、いや言い伝えはないとい 手をつくして探されたが見あらたう返事であったが、前記の勘兵衛 いで困られていた矢先、妻がフト様の持地から名づいたものだろう。した縁で井出ざん(七十五才)と役立った経験糸つむぎを今に伝える 打戻の井出キミさん楽生会青木義春  一昨年の五月上旬、横浜民俗学会代表小林梅次先生始め、県立博物館、茅ケ崎市文化資料帆平塚市博物館よ力、綿を栽培して見てほしいとのことで私が心ょく引受け、十六・五平方米の畑と鉢で栽培、まず播種から発芽手入れの状況開花綿の収穫までを、克明に8々ヽリ知や合い、糸つむぎの話が出たところ、私は十「一丁四才の頃実家(茅ケ崎市円蔵生れ)で手伝ったことがあるとの事、経験は尊しでなんとか出来るのじゃ々いかと、早速小林先生に連絡、小林先生よ力改めて依頼して頂き、昨年の七月十日このBは茅ケ崎徊の文化資料館に保存されている糸車や綿くりy機が井出様の宅に這び込まれ実演開始軒先でキミ様が糸車を手でまわし綿から糸をつぐみ、糸をよると共に出来た糸を竹のタダに巻き取るまでの作業と、手だけではなかなか取れ痙い種子を二つの回転する本のローこフーにかけて(ロタロともいう)たくみに綿と種子を選別する作業が披露され成功したのである。関係者のよろこびは大きぐ、このととがテレビや新聞にも報導され井出様にも殊の外満足して頂きよろこんで頂けたのは幸であった。1日6月54年昭和

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第28号(6) 皆様ごきげんいかがですか。  事では有やません。逃げる事の出入はそれそれの生活の中で、良い 来ない崩壊に遭遇する場合、これ時ばかjあるとは言えません。  がその運合のもとに服するのです 私も、八月には七七才になやま から抱合といえます。した。長い歳月を省みて良い事、  考えて見ますと、私達の若い時悪い時、いろいろとあやましたo 代の生活は伺んといっても雑居家然し、退去と々ったいろいろの事 族の生活でした。祖父母、両親、も我が人生の生きてきた道ですか 子供と、少ら、今更ら悔いも々し、天台を待 ぐとも息子つというばか力です。      夫婦だけで それで、いつも釦目にかかる皆 も々く、両様の良いごきげん々訃顔に接する 親だけの生事は嬉しい眼力です。京時折、い 活でも左かままで踊った力歌った力していた った筈です。友達が、いつの聞にか、訃姿が見嫁、姑のいえ左く々られて非常に淋し右京こ ろいろの問み上げてきます。        題がその家家族の崩壊片瀬松葉会  飯塚あい 寿命とは言え人の一生の余やの 庭の中で起きていまし光。やがて果か左さを、まじまじと見つめる様 嫁の時代が姑の時代に左わましてに忿カましたo訟別れして行く釦 何年の昔から続いてきました。そ友達に涙ぐご回向いたします。  して代々の家族けニツの墓所に納 家族の崩壊など取カ上げました まゎへ何代も前からの家族を回向のは、地震とか火災とか、そ○他 してきまし九。の災害で家族が不宰にも崩壊する  今日はどうでしょうか、新夫婦は両親の側を離れ新しい世帯を待 も座いのですょ。嫁と姑との問題ちます。まづ一回目の家族の崩壊 も、それは各自が上べだけの我がが始やます。           ままを通そうとする。些細の出来 息子達は新らしい墓を買い、両 事で、家族が崩れる事は絶対にあ親の入る墓など無用孤座カます。 や得ません。子供が育てば先づ両親の所から離れ  祖父母が永眠すれば、自乙子、孫孫が成長すれば、父親の所から離 と墓所に訪れてぐれます。墓所はれて行きます。          笞むして古びますが列代の前から 丘の上の公園の様々美しい花に の先祖が永眠しています。墓参丿囲まれている墓所を各家庭は選ん とはそういう雰囲気の中にあってで永眠の地と定めます。家族が崩 常にぶさたの兄弟達が相寄る機会壊して肉身血の分け合った兄弟達 があってこそ、家族は平和であhyが別ヵになってしまう事々ど考え 一家は不滅と座hへ互いに睦み合てもみ座いと思います。     えます。 私達現在の老人が納まった墓地  処で多くの皆様、雑居家族のざに次の息子達はあとに続いてはく わめく中の生活と、静かな老父母れません。息子が家庭を待った時 の隠居生活とどちらを選びますかから、もう崩壊の一歩が始タます 崩壊をさけたかったら、選ぶ道は 実にたわいも座ぐ音も座くの崩 只一ツ、皆様も毎日の生活の中でれかたです。           充分に解っている事と思います。 そういう覚えは、皆様の家庭に どん座物でも崩れると言う事は、はあやませんか、雑居家族で毎日 いやですね。列んとかしてさけた毎日色カ座問題を起し乍ら生活し いものです。家族の一同が協力している家庭は、実は崩壊のゆるみ て訟互いに思いやj、助け合い、ダダそしてどん々事でも話し合えば必ず解決の付く事ばかjと思います立派な霊園も結構ですが私達老人にとっては公園の様な霊園に眠やたく左いです。親達の眠れる古い墓所に人わyたいと切に願っています。がこん痙考えは私だけでしょうか。私の自己満足を得ようとする馬鹿げた望みでしょうか。 皆様のご意見も伺わせて下さいでは今日は大変失礼々事を中上げ中沢あjませんでした。 寝言だと思って御間捨下さい。  ひとくちニュース  ねたきり老人へ幸運の鈴 藤沢市社会福祉協議会では、民生委員児童委員協議会と協力、郡内のねたき’タ老人三四一名に対して、このほど「幸運の鈴」を贈呈した。この鈴は美しい音色と意匠で病床のつれづれを慰め、家族への合図にも大いに役立つということで、喜ばれている。昭和54年 6月 1日

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第28号(7)短歌     西部相生町 松村老生 思はざる活字に左ゎyし知らせうけあjがたきか左更に精進     あカがたや心はすせし事々れど  まさかにも活字に生るとは                         遠藤楽生会 青木義春 雛壇の前にたちたる二才児の人形 に触れよくしゃぺること。美しく生きたく思ふ妻ならむ朝な朝なを髪を槐くなり膝ぬけて声へ走わし恋猫の三匹となりいがみ合ひおり          遠藤四四五 窪島美恵子 それぞれに夕光宿す茄子の実は降   りたる雨に息づくらしも     この年は睦月半ばに梅開きうぐいす  早やもささ鳴くを聞く       かにかくに福祉にはげみ表彰を  健康に受く有難きかな              遠藤 官治ゆき子義弟の果てたる沖縄空港に降わ立  ついまも身のひきしまる                       桜祭りも過ぎしとそきくきさらぎ  の那覇空港の陽はぬぐとくて  四人子を置きて征きにし兵卒の君   の死にたる摩文仁の丘か     沖縄のディコの花は未だしもブー   ゲンビリヤとポリンセチアの朱  義弟に供華も捧げてみちたりぬ  今日はフタフポリスの観光客        葛原 漆原嘉吉人は皆柳にちなむ心こそともに笑        顔心さわやか菊さくや赤白黄色とやどカに色香         と共に心えましき友々にまことの心つくし痙ば紅葉         と共に散るもおしまる  宮の森氏子のたんせい山さかえ新       らたな社笞の茂りを     時なりて皆の声にて言あらだ守ら   る神に心ささげ箱御正月新たな社初まいり老いも若     きも幸せたっぷり春きなば庭の紅梅ちらほらと我家    の思にさそう鶯桃節句ひ々の姿をしみじみと見あ    ぐるほどに今と昔は選らばれて皆のすいせん花盛り郷   土を思う責の山けわしき選挙にて各位の願いよくわかるは    かなきI票我にまかせて俳句  片瀬山わかやぎ会 伊藤胡星雨晴れてひまわカ高く輝けり炎天に網干す漁夫のたくましくこのあたゎy昔は螢ょかむけj曇空今日もせっせと梅潰けるトンネルをぬけて一望西瓜畑 片瀬山わかやぎ会 谷口喜太郎腹ばいて浪を聴きゐる居待か々秋風や旅屯果て々る天城越えふるさとは墓ある0みや秋つぼめ 見渡すや鎌倉山の落紅葉     鎌倉や訪ずる谷の秋寂びて                     片瀬松葉会 飯塚あい みんみんや今日の會の炎暑か痙  ひぐらしやブランコ漕いで子の一人わびしさやほたるも蚊帳杢」在し世夕立や三輪車濡れて子も濡れる  長き世や悪妻たけて菊花さく  遠藤楽生会  青木義春福寿草棚に咲かせて煙草売る   熱燗にして湯豆腐に心足る  春炬燵漫画の好きな孫といて      遠藤楽生会 青木スミ長閑さや風にゆらゆらアドバルン踏青やサyダラスかけ杖たよる踏青や歩き初めたる赤い靴    遠藤楽生会 長田孫太郎お彼岸や驀の声して深田中長閑きや孫の手引いてその辺り長閑さや伺を摘みいる団地妻     遠藤楽生会 田代ちか命ある限り倖せ針供養老人の若やぎ唄う声長閑夕月や書院の前の梅白し回覧を届くる直ぐ跡草萌ゆる      遠藤楽生会 桜井兼吉湯豆腐や妻が用意の酒肴夜空見つむ年頃の娘や梅匂ふ背広かえ出勤の子や春となり      遠藤楽生会 笠原トク     湯豆腐や雨戸を叩く風の音  背を丸め母に但し影春の月  夕月や書院の前の梅白し   遠藤楽生会 宇野ミヨ沈丁花香はしるところ歩を運ぶひなかざj灯せば更に華やげj病もつ身に冴え返り痛ましく     遠藤楽生会 日高勝男霜柱踏みつつ今朝も鍬肩にさくさぐと靴音のして今朝の霜霜ふみて道ゆく人の咳つづく(8)第28号

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昭和54年 6月 1日市老連この年の歩み昭和53年度月行               事4月o昭和52年度事務監査を執行したo県老連主催唐郡老達合会長及び事務担当者会議に出席5月o評議員(総会)を開催した。   任期による役員改選監事留任 欠員の副会長1名は吉村喜三郎(新任)o老友ふじさわ第26号発刊した6月o春の見学湯治旅行を実施した   栃木県塩原温泉、参加者1,433名o新設老人タラブ日-ダー研修会参加(県老連主催)   新設タラブ会長5名 外1名出席する9月o第18回老人福祉大会を開催した   敬老の日市民会館大ホール 表彰者19名o老友ふじさわ第27号発刊した10月o老人のための県民の集い(県差違主催)   不老違の表彰者3タラブ会長外4名参加したo老人タラブリーダー研修講座を開催した(県老違主催)   不労働会館ホール 参加者1 2 0名o第8回診としょわの生きがいを高める趣味の作品展(県老違主催)   横浜西ロステーシlンビル 参加作品11点o第10回老人スポーツ大会を開催した   秩父官記念体育館 参加者830名11月o県老連主催囲碁将棋大会に出福者各々3名参加するo老人の福祉を高めるための研究協議会及び関東ブロッタ老人.クラプ指導研修会に鈴木   副会長参加o秋の見学湯治旅行を実施した   静岡県長岡温泉 参加者946名o老人福祉センター主催の白寿大学講座へ   市老達北部地区会員参加を呼びかけた 期間3日間12月o老人福祉予算確保緊急全国大会に鈴木副会長参加1月o新年賀詞交歓会を開催した   各タラブから2名参加(老人福祉センター)o県老連理事、評議員及び事務担当者会議に岡村会長及び鈴木副会長参加2月o老人福祉センター主催の白寿大学講座へ   雨老迷南部地区会員参加を呼びかけた 期間3日間 受講者 約30名3月S4月o老人の生きがいを高める趣味の作品展を開催した   藤沢名店ビル6階ギ々ラリー   出品点数 3 1 5点o役員及び関係職員合同研修会を実施した   真鶴 やまほ旅館  参加者47名随時o地区老連の総会および研修会等に岡村会長、菊地事務局長随時出席o常任理事会 4回o理 事 会 5回*************************************昭和55年 3月 1目老 亙 ふ じ さ わ(1) 第29号“ひとり暮らじの心の支えに 地域福祉を育てる“友愛チーム"老人クラブ連作会 社会福祉協議会(恥 務 局「句)  印刷所亜 紀 印 刷 在宅の寝たきり老人やひとり暮らしの虚弱な老人のいる家庭に対し、老人クラブ会員等によって友愛チームをつくって訪問し、身のまわりの世話や生活上の相談を行っております。また活動費の補助もきており市内には現在次の七チームが活躍しています。 ことぶき(東部) 鵠沼地区 辻堂地区第一 六会 長後 御所見 長後若草 ことぶき友愛チームの一行は、今日は三富士町の池田テイさん(八十八戒)のお宅を訪問。ここのところの厳しい寒波で少し風邪気味の池田さん、ひっそりとこたつ満開になる頃にはこの寒さもかなり和らぐことだろう。民生委員でもある丸屋典子さんは、三富士町のお稲荷さんの初午でこしらえたお赤飯ににしめと玉子焼きをそえてかわいらしいお弁当をつくって来た。秋庭ナカさんも手際よく、部屋の中を片付けはじめる。 この友愛チームは昭和四十元年九月に結成。この池田さんのとこで、近い所に訪開先が集まっているので市内のチームでも一番恵まれているのではないか。何しろ始めた頃は奉仕員がモンペ姿で部屋の掃除をしたり、汚物で汚れたカ~ぺ’トを消毒したり航道にのるまではたいへんだった。奉仕員さんの決めて始めた以上は絶対やりぬこうという強い熱意と協力で現在に至っているが、このような友ろとは、もう六年になる長いおつ 愛チフムが市内各地域に生れ育ちき合いだそうだ。奉仕員も仲間が 老人の心の支えになっていくこと炭って、今は回一代目」になるが、を希望している。結成当初から小川周蔵さんの良き  肢田さんが一つだけ手離さずにお世話によってチームワータも披 持っている鐘がある。働いていた群。毎週月曜日を訪間日に決めて 頃フイスキャンディ売をしたこと五人のI人ぐらしの方を訪問している。六人の奉仕員が交代で続けているが、奉仕員同志もこうやって顔を合わせて歓談することを楽しみにしているという。話の花が咲くとつい予定の四十分間を過ぎてしまって、次の訪問先では、いに入って奉仕員さんたちが来るの まかいまかとお湯を沸して待ってを心待ちにしていた。奉社員の古 いることもしばしばあるそうだ。田初子さんが自宅に咲いた梅の花 小川さんに言わせれば、わたしを待ってきて早速花びんに活けた。らのチームは仲間の皆さんも熱心もあるという。部摩い真ちゅうの鋳物に永年の汗が浸みこんで黒光りのする木の柄がついた鐘は、病気で寝込んでしまった時など頼りにしている鐘だ。元気のよい頃高らかに嶋りひびかせた鐘の音のように、いつまでも達者でおられることを念じて訪問を終りました。 ことぶき友愛チームの仲間 小川周蔵 石田キン 秋庭ナカ 小菅ハル 古田初子 丸屋典子昭和55年 3月 1目

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(2)第29号おらがふるさとの自慢ばなしy昔ばなし士奏(その-)大正7,8年頃、長後相模屋雑貨店(現在長後四ツ角鈴木薬局) 永年にわたり親しみ暮らしてきた私どもの住むこのまちやむらの何百年にもわたる歴史の遺産は、今急速にその面影を失いつつあります。 僅かに残る社の森や寺院史跡、街かどの形や田畑の高低に昔をしのんで、地元の有志の方にふるさと自慢や激しい時代の移り変りなどを語っていただきました。ナナ  ギ七ツ木村と    センゾク    千束村三尾そもそも長後は肩肘などと中しかようですが、いかがでしょうか。井上あ齢と使っていだらしで出席者 岡村彦市 下土棚三九四    井土蛮貞長後三六三    遠藤憲雄高倉⊇O    広田俊夫 下土棚一四三    古谷一雄高倉一一二九    矢部弥市べ謬陽セン聴き手 長径だより編集員    三尾茂子 川井秀枝    猪熊文香    青木勝次 市老連事務局年十ご月からで、その前は七ツ木村と千東村に分かれていた。それがもっとさかのぼると七ツ木村ということで、七ツ木村から千東村が分れていたわけです。井上相模風土記ですとゴ高倉というのは、ないんですね。古谷千東村ですね、今の上筒音です。やっぱり昔のあれで、村名すな。それが、その後、長後にな をしてもよいということで、そのった。秩父六郎尉家がここに城を 時代に千東村が分割して、私の方築いた頃はヽ示硲ごった゜その後ヽが二十一戸か二十二戸ぐらい゜初いつのまにか長後になったようです。三尾高倉というのは、高見合としうとか。遠藤高倉といったのは、明治八めはそういうことで七ツ木村から分れて、そうして諏訪神社を建てそれから何年か経って、もうかれこれ二百何年ですからね。それから釣鍾堂をつくったり、昔の人だちは農作業などの忙しい中から、神社を建てたりして、その苦労は天変だったと思うのです。千重の由来は、何か切った枝が干重できたということで、ヤ勾ということのようです。 遠藤さんの前代が遠藤善九郎憲次さん、徳川様から刻印をいただいた古文書があるんですが、私が諏訪延‥社の由来記を書くにつきましてね、それを見せていただきました。遠藤この過程を話しますと「慶長十九年ヽ相模既爺七ツ木部のうち二百石のこハ訃ボかわんね。全く鎖知とすべきものなり、よってくだんの卸し」これが七ツ本の郷のうち二百石と一昭和55年 3月 1目

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第29号(3)いうことが、でてきます。十、横七丁令、長さ十二丁令。東七ツ木、千束二村。西上土棚村。南下土棚村。北本尊仇福田、下その次に和田三村。今土屋甚ル彰、朝岡は「寛永兵庫肋入国の後、拝賜すというが二年にはギ地なり。大山道、ハ王子道何れ相模国高 り、当行継立をなせり、犬山道は座郡七ツ 東鎌倉郡柏尾行へ二里、坤(ひつ本郷百十四石、九斗余、千東村(ここで初めてでてくる)七十五石、長後村うち十有余、以上二百二十石、この他十石七ツ本郷開発し、郷二百三十石のこと、扶助せしむおわんぬ。全く知行すべきものなり。」これを見ますと、慶じさる、西南)用m封ヘー里、八王子道は北下絵開封へ二里一町四十八間、南亀井野村三里を継送せり。高札場一〇、小名△下村乙山谷乙中村乙宿乙小谷。下村は今の下長後ですね。ただ今の上合がない。上合はあるいは福田の関係だったかも知れない。福mの山王様に、福田の蓮慶寺のいろいろ関長十九年(西暦ヱハー四年)と、 係のお札がある。上合は相模風土寛永二年(フ八二互年)ですから記にのっていない。それから「長この間に千束が変ったのではない 後川は福m用水の下流にて、村のかと思われます。 長後村は  江戸から十二里井上新編相模風土記、巻の六十三の村里の部、高座郡の巻の五の渋谷の庄に、こう書いてある。長後付江戸より行程十二里、戸数九中程を南北につらねて、上土棚川にそそぎ、下土棚川乱作う。○天神社は鎮守なり、例祭八月二十五日、氏子待ち。○水明寺 長福山と号す臨済宗、鎌倉円堂寺末、本尊地蔵を安ず。脇立正善童子、正悪童千共に行基作 開山情渓と言う至徳二年二月 うらに移転、墓碑に上棚の地名あ朔日寂す。境内に五輪塔あり、武 り。)のあれが初めてでてきたと徳院大覚禅珪居士、寛永三丙寅( しか考えられないんですね。ひのえとら)十一月吉日施主藤原岡村下土相と上土相があるが、心封宍とほる。中興開基朝岡氏の本来は上相で、上土相は綾瀬だと墓と伝う。           下土棚は六合村だと。そこでむこ○泉龍寺 無星山と号す。浄土宗 うの熊野神社と白山神社とは、も増上寺末、本尊三尊弥陀及薬師を ともと二つあったのか、もとはI安す。これだけ書いてある。だが つだったと、それがお祭りの度にらね、長後という名前は非常に・百喧嘩する、分かれるんだと言ってい。それから今言った長後のお天 分かれたと言う話がでていたけれ神様、あの秩父六部基家(渋谷重 ど、どうなんでしょう。国の祖父)が秩父から長後にきて 広田昔から上土相から流れてく初めてお城を築いた時に、守り神 る綾瀬川といわゆる蓼川とが合流様としてお天神様を築いた。そし して引池川になるまでのあの辺でて明治になるまで、ずIっと城内 綾瀬と下土棚とでは、上流下流ののお天神様だった。だから村の鎮 関係で絶えず水争いばかりよく操守様になったのは明治初年からで 返したらしいですね。そんなことすよ。             で、あるいは分村と言うことにな 忙 x    中土 んたんじゃなかろうかと思う。 フ争しと白山才ネ  それで綾瀬゜上土相の熊野神社三尾土棚という地名はいかがで は、上土相の一香南の方にある訳しよう。            です。それで下上相の方を向いて広田上相の歴史というのは、は いる。そういうところからみて、っきりしたところがないんですね。どうも熊野神社が昔の上相村の鎖あの竹尾(富士見合小の新設にと 守森であって、そうして分封したもない地頭竹尾一族の墓貪吝然寺 ために、上棚の白山神社が後になって下土棚の鎮守となったのではないかと想像される。 まあなにしろ喧嘩をしたっていうことについては、度々水争いがあって、幕末の江川太郎左衛門の頃、犬喧嘩したらしくて、頂度私の親戚でもあり、井上さんの親戚でもある土棚の5‐牡‐言の藤田顎市さんのお祖父さんの弟に藩府勘兵衛さんという元気のよい人がいて、綾瀬の方から上土棚の方に、水をくれない。水をIつかけ合いに行こうということで、十散人が組んで出かけていった。そうしたら上土棚の方のある竹藪の所で、待ち伏せしていた向うの連中がいきなり真っ先に行った於奈加居の勧兵衛の韻に鳶一一-一一一一-1目3月昭和55年

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第29号(4)口を突きつけて、大喧嘩になった。になって、裁判が落着いたそうで それが昭和五十二単四月藤沢市教そういうことでその争いを裁判すす。そんなようなことがあって絶 育委員会から文化財の指定をうけることで、上棚の白山神社で白洲えず上と下とが水争いをやってい ました。にして、江川太郎左衛門の配下が たようですが、これがいつ頃に上            nμきて、裁きをしたらしい。その頃 土棚と下上相に分かれたかという  永明寺と菊の律紋私の祖父の性衛門(父性兵衛の親記録は、ちょっと調べても、はっ  それから皆さんがお参りされて父)というのがその頃名主をして きりしていないようですね。   ふしぎに思われることがあると思おって、まわりの上土相と下土棚井上さつきお天神様の話がでて うのですが、長後の水明寺の仏具古谷それにまつわる明治天皇芦この辺に大演習にきて……井上その両方の名主が七・ハ人集まって きましたので、もう少ししますが、や祭壇などに十六弁の菊の御紋が れは明治記録係をしたらしい。ところが夜秩父六部基家が初めて長後にお城 ついています。このお寺を初めて 四十二年を築いたのが今から八百六十四年 つくられた住職の情渓禅士という です。前です。その頃に管公(菅原進貢公)を祀って、おやしろとしてつくったらしいですね。その後渋谷重国が亡びて、それで神社の大部分が痛んだんですが、それが徳川時代になって朝岡氏が再興したんですね。今の本殿は徳川時代(今から三百三十七年前)に作ったものです。非常に古い歴史かおるものです。古谷昔は村社とこういっていませんでしたか。井上いや昔は城内のお天神社で明治になって、初めて村社になりました。それからそこには、朝岡の丑之助か作った石燈筧がある。方が南北朝の当時、紫野(ムラサ古谷そキノ)の大徳寺の住職であられた。れで大へ永明寺長福山通しやったため、皆眠くなっていいかげんにやっていたが、作衛門の記録が一番よかったと江川太郎左衛門に誉められたと言うことを自慢話に聞かされました。それが最後の水争いの結末でありまして結局下上相村が正しいということいういわれがあると聞いているが。井上そういう言い伝えはありますが、それではどこにいけたとなると分っていません。三尾どんな言い伝えなんですか井上それは御意μあって、御輿をかつぐと疫病があった。はやり病気があって困った。それで御輿をかつがなくなった。その御輿をいけてしまったということで、どこにいけたか分からない。だからお御輿をかつぐとは言わないんです。今の若い人は御輿をこしらえ御醍醐天皇のいとこの光厳天皇の んなお荷物を水明寺にお預けした。ようじゃないかと言いますが、年学問のお師匠さんであった。それ その時の荷物番が上局倉から広田 寄りはやめうよという訳です。でもって十六弁の菊の御紋を許さ 某という人がでた。その人が亡く岡村新長後という名はもともとれた。それでもって長優に来て長明寺を作られて、菊の御紋をつけることを許された。 こんどの戦争で長後の駐在所のお巡りさんが気がついて、県の方に問合せたらしい。県の方でも、いろいう調べた結果、そのような歴史があるんで、さしつかえないなられて、功績があったというこ なかった。とで、菊水の紋を許されて、それが今石塔にあるん.ですよ。井上菊水圭呂えば、於余栄居の蔵の紋が菊水だけど、藤田義雄がよく言ったろう。 埋められたみこし’ということで県からも文書が来て 広田普天神様には、かなり立派います。その後普請をするんでも、な御輿があったものだが、それを屋根互に菊の御紋をつけています。天神様の境内かどこかにいけたと井上訴長後は小田急の駅ができて、あすこは六会村の訴屋敷の地区だった。だから初めから長後とする訳にはいかないので訴屋敷の訴をとって所長後とした。 以下次号に掲載します。1日昭和55年 3月

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(5)第29号渡 クラブの会旗調製山本 直 之 調製された旗をなぜ被露なんか と式場附近で持参した細長いバyするのか、とお笑いになられる  夕から取り出した旗を弔旗に仕立入もいるでしょうが、まだこの種 て、その場所に掲出しました。見のものが藤沢老連数多きといえど ると目黒区老人タラブ連合会と紫も才フブを表徴する旗があるのは 地に白字で染抜かれた文字を見てごく少数で、村岡地区連でも本夕 ああやっぱり老人タラブの役員のラブが初めてであります。まあ、代表が参列していたことの予感がくだらない事ながら一寸自慢気に的中しました。拙文ではありますが書いてみまし  以来わがカこフブでも是非調整した。              備えたいものと、ある役員会でこ 動機から中しますと、実は私が の話をして賛同も得たので、早速東京の親戚の告別式に参列した析企画係の鈴水松之肋、石井寅古画他の参列者の中に老人タラブ員ら氏も快諾引受けられ、調製に意見しい五六入の男女が見えられ、そ の一致をみて、昨年ナー月末、犬の人達の様子を端で見ております鋸二丁目の山本舗太郎商会に発注本年四月完成、四月定期総会で一般に披露しました。 掲出や保管について次のように申合せをしております。に走ってしまうのではないでしょ な苦難を晰わって生きていかなけスタラブ員の慶弔時に該当家に 掲出一、連合会行事の場合に掲出一、保管は常時町内会々館とする 犬きさは串四十二m、長さ七十 六mで、正絹紫地に白の染抜文 字、まわりは金モールでふちど られています。うか。 生きる事の難しさを解らない年だともいえましょう。死をえらんだ子供にたいして、可哀相にという母親もあります。私からみれば可哀相と思うのは、死に走った子供さんではなく、子供さんに死なれた両親の方だと思うのですが、,『9ss同ssaaaa 死んでいった子を、可哀相にと呟          死は易し、やいた時我が子の耳に入ったら、生きる努力片瀬松葉会  飯塚あい生は難しと その子は自分も可哀相な子になりか聞いてお たいと恩ったらどうなりますか、りますが正 アレを、コレをと強請った時、受にその通り けいれてもらえない、ふと、自分だと思います。 近頃、小さい子供がどの様な心持で死をえらぶか窺い知りませんが新聞紙上などで拝見しましでも年もいかぬ子供さんに生とか死とかをえらぶ道はどのように思っているのでしょうか。非常な想像力が手伝って死というものの空しさを考える余地など、勿論なくて死を可哀相だと思われたくて、小さな心に迷いを生じ、死に誘われるのではないでしょうか。自分の子供の前でそんな記事を発見したらけっしてその子供に同情してはいけないと思います。むしろその死を軽べつしてやった方が子供の無分別を止める手段になるのではないでしょうか。 それはさておいて、私達老人の考えとしても生きる事の難かしさをありありと体験しました。非常ればならぬと、休に笞を打ってきました。並々ならぬ努力の賜物が私達をここまで迎えてくれたのです。悲しいかなここまで生き抜いてきた感謝を忘れて、死をえらぶ老人の事もしばしば聞きます。生きてゆく努力との戦に負けたのです。ここまで生き抜いてもう一歩生きるという事を考えてくださったらと思います。そこでそれからは白身の努力にすがります。家庭内にあって良き爺々様、婆々様として長き人生を生きてきた手本を示さねば、余生を無駄に生きた事になりましょう。また多くのご老人がいろいろと趣味を通して余生を楽しむ事は一番よい方法だと思います。訳もなく家族に迷惑をかけたり、一家の平和を傷つけたりの生活では、余生を楽しむことにはなりません。 皆様の健康を祝してますます生きる努力をお互いにつづけて生きて行きましょう。1日3月55年縦目

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第29号(6)遠藤地区の民話と伝説その五      楽生会青木義春富±浅間神社にっぃ犬。に特づドレミ この社は矢崎、刈込、両町内の氏神にて、安永七半(一七七八)六月吉日、通称富士山と呼ばるる高台に、奉祀創建したるものにして、神社名につき新編相模風土記によれば富士浅闇汁とあり、祭神を本の花咲耶姫と言う。 境内に記念碑二基建つ碑文に 富士浅間神社は、安永年間の創建にして今を去る百六十今年、本の花咲耶姫を祀る、当社は元矢崎の氏神なりしが、刈込一同の崇敬するところとなり、明治三十年その氏子となる。明治四十三年其の筋の布告に依り、当社も御嶽神社に合祀されるあたり、隣地五四六五番地に遷し奉り以来二十八半、社殿の腐朽せるにより再建の儀起るや、御嶽神社総代より、元当社敷地の五四六四番地の地上権を譲受け再建奉還す。爰に記念碑を建 碑文の中にあるように、其の筋の布告により当社も御嶽神社に合祀されたのであるが、各地で賛否両論があり、決定されるまでには十二月氏子一同にて之を買受け永遠に鎮座まします地となす価て鉉に後世に伝へんとす 昭和二十六年三月 氏子二回 社殿の炎上 再建した社殿が、昭和二十八年一月炎上した為に、仮り社殿に祀り、年々宿に仮社殿を移し十年間ばかりは、宿において祭典を行っ迂余曲折が可成りあったようで、 たのである。各地で二社或は三社の鎮守様の合  炎上した苦い経験があるので、祀も行はれている。 いま一基の碑文には 富士浅間神社の境内は元官有地たりしが明治四十元年以来御嶽神社の所有となりしを昭和二十四年昭和三十九牛四月、社殿は鉄筋コンタリート造りの壮厳なものに再々建され、鳥居も同様に建立したことは当地区では最初のことであろう。  祭典について 当社の祭典は昔から三月ナ五日に必ず行はれていたのであるが、昭和十二単再建された時、記念にと吉野桜の苗三十本ばかり境内に楠えられたが幸い成育もよく、花も見ごとに咲くようになり、昭和二十二年頃より、花見を兼祭典を四月の初旬花の開き具合に依り、日曜に行うことになった。桜の木は育つに従い間引し天狗巣病にかかってる枝は伐りとりよく管理、現在は太さが四尺以上にもめぐるまでになり本数は十本ばかり満開の特は実に見事である。 扨て祭りは昔さながらの古い風習を伝へているわけで、神奈川県史各論編(五)民俗写真(ハ)にこの浅間様の祭り風景が掲載されており、「食物を持ち寄って共食するの祭りは古い姿を伝えている」とあり、市内でも他にこのような祭りが行われている様子だが筆者も氏子のフ貝であり、今少し詳しく述べさせて頂くことにした。 即ち祭りの当日は宿へ各戸からお米を持ち寄り、宿の町内の主として奥様たちが総出で小豆めしを炊く、そして重箱一杯だけは御神前に供へ他は全部にぎりめしとす 神官の御都合にもよるが十一時頃式を挙げ、式後境内に菰を敷きつめてここが宴会場となる。Kぎりめしの入ったお櫃が中央に、各戸から待ち寄った一品料理の重箱が取り囲むように並ぶ。お酒類、ジューム、お菓子等々馳走も充分に用夙 一戸何人参加してもよいのでなかなかの賑やかさ、神官や長老を上座に車座になって、まず御押‥酒を頂き神前に供へられたお赤飯を分け合い宴は本格的に始ま 一品料理等はお互にまわしながら食べ合う状は正に親睦そのものであり、花吹雪の下での酒宴は何と素請しく気分のよいことか、子供たちや老人にはお菓子が配られ酔うほどに唄も出て手拍子に乗っての唄やおとり、いよいよ佳境に入り、空にタ焼雲の見える頃、本年の家業の繁栄と一家の健康をひ昭和55年 3月 1目

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第29号(7)俳句     遠藤楽生会 青木義春喜寿傘寿重ね祝ぐ日や風かほる若竹にのみ風青く動き居り産声は大きく男の子明易し父祖の地を引継ぎ畦を塗る子なり洞窟を出て山吹の黄がまぶし     遠藤楽生会 青木スミ大網を張って待ちおり蜘蛛夕べせせらぎの水音かくし青苔雨戸引く闇にくちなし白く浮く青田凰胸をひろげつ入れて佇つ夏祭り揃い伴天勇ましく     遠藤楽生会 田代ちか老農夫畦ぬる腕のたくましく手作りの湯呑撫でつx新茶酌むあじさいの生き生きとして雨けむる命あるかぎり生甲斐夏の旅花柘榴真紅に燃えて夕づく陽     遠藤楽生会 桜井ヒサ雪洞に詩情ゆたかに夜の桜宮詣ふで早葉桜となりにけり竹の子やいつか費か丈越しにける鯉のぼり風あればこそ泳ぐなりバス旅行茶摘み姿も乙にして    遠藤楽生会 長田孫太郎たしなべば梅酒の味も舌にしみ去年の夏作りし梅酒メノj色梅雨時や庭へなつめの葉の光り陶土練りなれない志野の型作り車上より見る白蝶は後へとび     遠藤楽生会 笠原トク旅の留守杓薬見ごと咲き初め捕虫網するりとぬけて揚羽蝶空模様気になる柿の消毒口孫帰りゆとり戻りぬ春の宵朝戸繰るサボテンの花まだ覚めず     遠藤楽生会 桜井兼吉池に泡生れては消し若葉風ぬけぬけとよくぞ揃ひぬ葱院主長閑さや牧場の牛の声太し眼を細め山羊横たはる小春土手赤蜻蛉夕焼けているちぎれ雲遠藤楽生会 日高克夫 あじさいの花毬見ごと雨の中腰撫でつ叩きつ田権タ迫る新じゃがをゆでて塩添へ十時の菜種除き西瓜あたへる先の笑顔西瓜割り真二つとなり拍手湧く     遠藤楽生会 宇野ミヨ茄子紫紺つやめき昼の雨上り宵盆や尋ねて来たる二人の娘はやばやと施敏栽の知らせお寺まち興れ上り若葉ひときわ艶めきて窓全開夕べの凰涼しけれ   片瀬山わかやざ会 伊藤胡星八十を二つ越したる今朝の春団地成りて蓬野遠くなりにけり新緑の姥子の宿の才フス会うす紙を解きて虫干す亡母の薦湯に透けて水着のあとのくっきり  片横山わかやぎ会 谷口喜大部首とも見え杓薬にかがむひとひとり居の裸の昼餉見られけり手花火を縁よりのぞく爺と婆踊の輪夜毎に小さく寺の冷え秋めくや子猫は毬に戯れて    片瀬松葉会 飯塚あい花あやめ秘語のもれくる破土塀くちなしの匂を散らす凰無情遠耳や良きも悪しきもすだれごしタかげり甘き風待月見草うつうつと団扇の風の無に流れ短歌     遠藤楽生会 青木義春眼のわるきことはこんなに哀しき  か陶器の桧付意のまヽならず千作の湯呑茶椀の焼上りいく度も  撫でまわし見るなり待ちかねしハ寸咲の朝顔の今朝咲  きければ妻を呼ぴたり若竹にのみ凰青く動きいて只静か  なる耶の昼なり老ひぬれば老ひたで夫婦の情愛の  いたわり合ふて生くる尊さ       遠藤 官治ゆき子傘さして孫が迎へに来るごとくふ  と思はるるかんぞうの花浜木綿の色に出づるを待ちわびつ  固きつぼみに今朝もふれたりおみこしの拍ぎての中江をみな居  りわがふるさとも変り果てたり    遠藤四四五 窪島美恵子自決せる乙女の塔を老いて我来た  りて于向の花をさiげる我箪笥作ると亡父が植えくれし桐  の花咲く故郷に佇つやヽ黄ばむ禅若葉の細き枝くぐり  て渡る片割れの月昭和55年 3月 1日

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(8)第29号月)心月4(市老連の歩み昭和54年度月行  事  の  内  容4 月o昭和54年度第1回市郡老達事務担当者会議5 月o昭和53年度決算事務監査の執行o評議員会(総会)の開催o老亙ふじさわ第28号の発行7 月o新結成老人タラブリーダー研修会に参加(県衰運主催)    新結成タラブ会長5名出席o春の見学湯治旅行の実施    群馬県老神温泉参加者1,3 1 6名o単位老人クラブ実態調査(県老運)8 月o昭和54年度第2回事務担当者及び会長会議9 月o第19回老人福祉大会の開催(敬老の目)    市民会館大ホール 表彰者15名10月o第11回老人スポーツ犬合の開催    秩父官記念体育館参加者約1,000名o第1回老人タラブゲートボール大会(県老連)    県立体育センターサ・・カー場 長後地区長亙会会員6名参加11月o老人タラブリーダー研修会の開催(早市併催)o早老迷主催囲碁将棋大会に出場者各3名参加o老人のための県民の集い(早老連主催)    車窓達表彰者4名 外に参加者4名o秋の見学湯治旅行の実施    静岡早熟川温泉参加者987名o老人性痴呆防止講座の開催(労働会館)o第8回全国老人クラブ大会に早老達派遣理事として岡村会長参加    広島市公会堂1 月o昭和5 5‘年新年賀詞交歓会の開催    単位タラブごと2名参加(老人福祉センメー)o早老達者章の配布(購入希望申込者のみ)銀製347,メッキ243,合汁590ケ心副辿必辿ふ心血uぶ泳泌副ぶ沁会詞4嶮徊冷徊嶮揃咳吻剣第十九回老人福祉大会で  表彰された方々勤続年数十五年 斉 藤 常太郎 長 島 正 之勤続年数十年 杉 浦 コ勤続年数丑年市七口稲川 高声野菜 道石 県藤 田渡 辺佐 藤吉 打消 水川 高高 畑落 合鵠北清水高砂会西部第ニ長寿会ト 鵠北たちばな老人タラブ徳勇和情 吉常 雄萬 蔵甚 吉喜三郎長 三高 蔵庄 治源 一東部第六ことぶき会西部福寿会西部本町睦会鵠南東楽生会鶴北仲東笑話会鵠北和楽会辻堂富士見丘青葉会辻堂第一不老会辻堂西灘岸喜友会明治第二ほほえみ会六会亀茸野和薬会御所見菖蒲沢長生会mm会員の皆さんの投稿をお待ちします