平成28年(2016)9月30日

時空を超えて魅了する若冲の素顔と秘密に迫る時代小説?

伊藤若冲作襖絵《仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)》(寛政2年(1790作))


セントルイス万博で若冲を初めて世界に紹介した日本郵船のパビリオン

若冲居士像 (相国寺蔵)
■ 江戸時代中期に京で活躍した絵師・伊藤若冲正徳6年(1716)の生まれである。若冲の代表作約80点を一堂に会した待望の生誕300年記念「若冲展」が今年の4月22日から5月24日までの一ヶ月間、東京都美術館で開催された。若冲が京都の相国寺に寄進した《釈迦三尊像》3幅と若冲の代表作《動植綵絵》(どうしょくさいえ)30幅が一緒に展示されるのは、東京では初めての試みだった。

■ この企画展を待ち望んでいた若冲ファンは多く、入場するのに連日60分も待たされるほど盛況だった。若冲の絵に魅せられた筆者も、三回も見学に出かけている(4月28日付け橿原日記参照)

『遊戯神通 伊藤若冲』
■ 「若冲展」の人気もようやく下火になった今月の初め、「新しい若冲の本で出たよ」と、娘が手術入院中の筆者の気分を紛らわそうと、一冊の本を買ってきてくれた。今月6日に小学館から発売されたばかりの書き下ろし単行本『遊戯神通(ゆげじんづう) 伊藤若冲』だった。作者は河治和香(かわじ わか、1961年 - )、筆者には初めて聞く時代小説作家である。

■ 河治和香氏は、東京都葛飾区柴又生まれで、日本大学芸術学部卒業後、日本映画監督協会に勤めるかたわら、江戸風俗研究家の故三谷一馬氏に師事し、江戸風俗を学ばれたそうだ。2003年、『秋の金魚』で第2回小学館文庫小説賞を受賞し、小説家デビューを果たされた。『国芳一門浮世絵草紙』などの作品がある。

■ 本書のタイトルには「遊戯神通」という聞き慣れない4字熟語が使われている。気になって、少し調べてみた。遊戯は、佛教では「ゆげ」と読む。そして、遊戯神通とは「遊び戯れるがごとく人々の救済を楽しむこと」を言うようだ。京都市伏見区深草には、宝永年間(1701 - 11)に黄檗宗第六世・千呆(せんがい)が建立した石峰寺(せきほうじ)がある。寛政年間に若冲は当寺と草庵を結び、第七代密山修大和尚の協賛を得て、五百羅漢を作成している。

石峰寺の五百羅漢
■ 天明8年(1788)正月28日、すなわち京都の歴史上最大の火災「天明の大火」が発生する2日前に、京の儒学者・文人の皆川淇園(きえん)は、画家の円山応挙呉春らとともに、石峰寺を訪れた。あいにく若冲は不在であったが、彼らは後山をおおう石羅漢を見物した。淇園は「梅渓紀行」の中で、石像苑の入口の門に「遊戯神通」と書いた扁額があったと記している。

■ 石峰寺蔵の版画「城南深草百丈山石像之図」に描かれた入口の門にも、「遊戯神通」とある。また最近はじめて公開された若冲筆、石峰寺「五百羅漢図」には、門の扁額に「遊戯」とのみ記されていた。いまの石峰寺門には、扁額がない。

■ 「時空を超え魅了し続ける若冲の素顔と秘密に、江戸と明治の二つの時代軸で迫った渾身の書き下ろし小説」というキャッチコピーに惹かれて、本書を開いてみると、なるほど物語は3部構成になっていて、それぞれの語部(かたりべ)が異なる。Ⅰ部とⅢ部は明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした神坂雪佳(かみさかせっか)(1866 -1942)、Ⅱ部は八代目枡源を名乗る伊藤達四郎に嫁いだ極子(きわこ)という女性で、明治37年(1904)当時すでに91歳の高齢に達していた。

想像上の一角獣・ユニコーン
■ 物語は、日露開戦前夜の明治36年(1903)に神坂雪佳があるきっかけで、<若冲の妹>とか<>玉菜(たまな)と知り合うところから始まる。だが、作者は物語の冒頭で、なぜか西洋の想像上の一角獣ユニコーンの話から始めている。伊藤若冲の丸い印章<若冲居士>の印材は、ユニコーンの角、実際は海にいるイッカクという生き物の長い牙を材料とし、その鈕(つまみ)に獅子が彫刻されており、若冲はその鈕に紐(ひも)をつけていつも帯腰に下げていたという。

■ 明治33年(1900)、京都の相国寺で行われた若冲の百回忌追悼会では、若冲愛用の印を遺族から借りて展示されていた。しかし、その後忽然と姿を消し行方不明になってしまった。実は、この若冲愛用の印章は物語の所々で顔を出し、若冲の隠された秘密を解き明かすキーワードになっている。物語の最後に、この印章を若冲が日頃大事に持ち歩いていた理由が明かされるが、さすがに映画の企画に長年携わりシナリオを手がけてきた作者だけあって、見事なプロットである。


■ 若冲百回忌の3年後、すなわち明治36年(1903)に、神坂雪佳は友禅の染屋の寄り合いの帰り道、祇園新地の<から子>という舞妓に初めて出会った。お座敷遊びの後酔い覚ましに暗い夜道を歩いているとき、路地から二人連れの男が芸妓と舞妓を連れて浮かび上がるように出てきた。男の一人は日本郵船のニューヨーク支店に勤める三原繁吉、もう一人は白人の男性だった。白人の男性はどうやらモルガン財閥の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンのようだった。雪佳と三原は知古の間柄で挨拶を交わしたが、その時三原が連れていた舞妓がから子であることを、同僚の岡島卯三郎が教えてくれた。岡島は美術工芸高校で染色を教えている京友禅で名の知れた<>

■ から子はたっぷりした黒髪、眉が濃く彫りの深い顔立ちに、吸い込まれるような大きな瞳をしていた。三原たちと別れたあと、その後ろ姿を見送りながら、岡島が雪佳にそっとつぶやいた。から子は若冲の末裔>で、今は没落したが、京都の台所「錦市場」で青物問屋を営んでいた「枡源」の娘だそうだ。まだ襟替えもしていないが、落籍されて異人に買われて行くという。三原は、一緒にいたモルガン財閥の御曹司にから子を落籍させてアメリカに連れて行かせるつもりのようだった。

セントルイス万国博覧会の会場
■ 明治36年(1903)の秋も深まる頃、雪佳は川島織物の二代目川島甚兵衛(1853-1910)との打ち合わせのため、堀川一条にある川島織場に出かけた。そこで、思いがけないことに日本郵船の三原繁吉に会った。三原は日本郵船社長の近藤廉平(れんぺい)の懐刀といわれたビジネスマンだったが、日本の文化にも造詣が深い国際人だった。

綴織額「紫陽花双鶏之図」
■ 当時、アメリカではルイジアナ買収100周年を記念して、翌年の1904年4月30日から12月1日までミズーリ州でセントルイス国際博覧会の開催が計画されていた。三原はその博覧会で日本郵船独自のパビリオンを展開し、若冲作品を海外ではじめて紹介しようと考えていた。若冲没後100年の歳月を経て、彼の名はほとんど忘れられつつあった。ごく一部の美術愛好者と京都の呉服協会で、<若冲はん>と呼ばれ、細々と語り継がれている存在にすぎなかった。だが、動植綵絵(どうしょうくさいえ)などに見られるように緻密な描写と美しい極彩色の若冲の絵画世界は、綴織(つづれおり)の壁飾り、すなわち西洋のタベストリー風に仕上げれば、西洋人にも受け入れられると三原は踏んでいた。

日本郵船のパビリオン「若冲の間」
■ 一方、川島甚兵衞も若冲の作品の魅力に取りつかれた1人で、若冲の作品を多くの織物のデザインに採用していた。万国博覧会が国威発揚の場であり、殖産興業のなかで織物が外貨稼ぎの頭であるという現実を考えたとき、「若冲をペダストリー」にするという発想は、当代一流の実業家と、織物の伝統技術を輸出というジャンルに昇華させた男の出会いによって、初めて実現可能になった企画だった。

■ 日本郵船のパビリオン「若冲の間」を飾った動植綵絵のペダストリ-は割杢(わりもく)と呼ばれる糸の濃淡による暈(ぼか)しの技術によって、より緻密に若冲の絵を再現していた。織物という特性から、絹本に描かれた本物よりも、別の妙な立体感があり評判になった。

舞妓玉菜(たまな)の祖母・極子(きわこ)が語る<若冲の妹>美以(みい)の女の一生

(*) あらかじめ断っておくが、以下の物語に登場する舞妓・玉菜もその祖母・極子も、さらには極子の昔語りに登場する若冲の妹・美以も、実在の女性ではない。作者の河治和香が本作品を執筆するに当たって創作した架空の女性である。若冲関連のいずれの史料にも彼女たちの名はない。

■ 神坂雪佳が、富田屋玉菜(とんだやたまな)と名を変えた<若冲の末裔>から子の姿をみたのは、堀川一条にある川島織物の工場で三原繁吉と遭ってからちょうど一年後の秋である。場所は、大阪の網島にある網島御殿と呼ばれている壮大な藤田傳三郎の邸宅の庭で、毎年行われる園遊会の会場だった。庭の片隅に設けられ緋毛氈を敷いた休憩所に腰を下ろして、ぼんやりと接待に駆り出された南の芸者衆を眺めていると、背後から可愛らしい菓子を盆に載せて、「おひとつ、どうどすか」と声をかけてきた芸者がいた。

モルガンお雪
■ 三原繁吉は当初、モルガン財閥の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに舞妓のから子を落籍させてアメリカに連れて行かせるつもりでいた。ところが、から子と一緒に雪香(ゆきか)という芸者を呼んだところ、モルガンは目が糸のように細い雪香に心を奪われて、当時4万円という莫大な身請け金を払って引き取り、横浜で結婚式をあげた。

■ ちなみに、雪香は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、その後は<モルガンお雪>の名で知られるようになる。結婚後はアメリカに渡るが、排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。大正4年(1915)、モルガンが心臓麻痺で44歳で死去すると、莫大な遺産を引き継ぎ、欧州に渡ってフランスで悠々自適の生活を送った。割をくったのはから子で、祇園で襟替えもせずにひっそりと消えてしまった。

■ しかし、から子は、今は大阪南の富田屋から<玉菜>と名を変え芸者にでているという。玉菜が富田屋の抱えになるとき、三原はいろいろ骨をおったようだ。そのうち藤田傳三郎という政商が玉菜に目をつけパトロンになったとのことだ。

神坂雪佳著『蝶千種・海路』
■ 休憩所に並んで腰を下ろした玉菜に、雪佳が一度舞妓時代の君に会ったことがあると言うと、もしかして岡重さんとご一緒された方では・・・と、あの夜のことを覚えていた。名前を聞かれて、「神坂です」と答えると、玉菜は「あのぅ、『蝶千種』という御本を出された神坂雪佳先生どすか・・・」と驚いた。

■ 雪佳は、その年の2月に山田芸艸堂から『蝶千種』という図案集を出していた。玉菜は『蝶千種』の中の絵から、着物を仕立てさせてもらったという。それから二人の間で会話がはずんだが、何を思ったのか、玉菜は突然、時間があるときに伏見の自分の祖母の家に一度来てもらえないかと頼んだ。玉菜の祖母の極子(きわこ)は、京の錦小路にあった枡源の家を始末して、今は実家のある伏見に隠棲しているという。錦の蔵にあった着物はほとんど売ってしまったが、着物の一部だった(きれ)を集めた裂帳を持っているので、興味があればお見せしたいという。そこで、雪佳は日を改めて玉菜の祖母を訪れる事にした。


[参考 京都錦小路の青物問屋「枡源」(ますげん)の系図]

・・・枡源3代目・(伊藤)宗清 -4代目・若冲 ー 5代目・白歳(宗巌) - 6代目・宗右衛門(?) - 7代目・清房 ー8代目・達四郎 ー 9代目・(?) - 10代目・大阪に出奔

■ 玉菜の祖母は八代目桝屋源左衛門を名乗る伊藤達四郎に嫁いだ女性で、今は91歳になるという。枡源が一家離散して孫にあたる若い当主は大阪に出奔し、孫娘の玉菜が花街に身を沈めたあと、一人伏見にある造り酒屋の実家に戻り、隠居所を建てて貰ってひっそりと暮らしている。

■ 雪佳が極子の隠居所を訪ねると、玉菜は奥から古い裂(きれ)を束ねたものを取り出してきた。若冲は、着物の図案みたいなものも描いていたようだ。若冲の妹とされる美以(みい)という女性が、若冲が描いたものを着物の図案にしていた。それが評判になって、美以はその図案を錦絵みたいに摺って残していた。雪佳は手元の古裂を見ながら、その鮮やかな色摺りの絵に驚いた。それは若冲が明和8年(1771)に制作した『着色花鳥版画』6図を裂に写したものだった。木版で摺った浮世絵というよりも、友禅のような気がした。関西では合羽摺(かっぱずり)という型友禅のような色摺の技法がある。

花鳥版画 青桐に砂糖鳥椿に白頭図 鸚鵡図

花鳥版画 雪竹に錦鶏図櫟に鸚哥図薔薇に鸚哥図

■ 極子が箱から次々と取り出す古裂は、すべて黒地に花鳥が浮かんでいる。その黒地が見事な刷り上がりだった。この黒色を出すのに、祖母の美以はえらい苦労したようだと、極子は美以から聞いた昔話をいろいろ語り始めた。

枡源に奉公するまでの美以の前歴

■ 若冲が飼っていた珍しい鳥の世話係として、美以が枡源の店に連れてこられたのは、宝暦13年(1763)12月20日の事だった。連れてきたのは、大阪鰻谷で薬種問屋を営む吉野屋の吉野寛斎という男だった。吉野屋は代々<五運>という名を名乗っており、寛斎は4代目である。享保の頃から<人参三臓圓>という薬で莫大な財をなし、今や浪速一の薬師問屋と言われている。五運はまた、長崎に渡来した珍獣・珍鳥を買い込み、桝屋の若冲には時折珍しい鳥を持ち込んでいた。その日も、唐丸篭に珍しい尾長の鶏を入れてきた。

砂糖鳥
■ 枡源の中庭では、男たちが注連縄を練り上げている最中だった。その様子をぼんやり見ていた美以の肩に、緑色の小さな鳥が止まった。砂糖鳥である。スズメほどの大きさのインコ科の鳥で、全身緑色、頭が青く、 のどが赤い。果物や花の蜜などを常食とし、枝に逆さにぶら下がる習性がある。美以の体からはほのかな芳しい匂いがする。五運は、「あんたの匂いにすいよせられたんだ」と笑った。

■ 美以の存在に気付いた若冲も、鼻をひくつかせて、クンクンと美以の体臭をかいだ。そして、美以の生まれは長崎か、どこか西国の方ではないかと聞いた。この美以の体臭が、やがて枡源に大きな悲劇をもたらす伏線となっている。

■ 美以が連れてこられたのは、錦小路の中魚屋町にある<枡源>という錦で一番古い青物問屋だった。荒い京格子の十間もある大間口の大店である。その店の奥に独楽カ(穴冠+果)という建物があり、若冲はそこで絵を描いていた。若冲はすでに五十近い年齢になっていて普段は茫洋としているが、絵筆を握ると別人のようになって、絹地を舐めるように顔を近づけ執拗に描いていく。絵を描いていくというより、写経をしているような、信仰に近い匂いがそこにあった。美以には、神に近づく修行をしているようにみえた。その若冲は普段は店に出ない。店は三つ違いの弟の白歳(はくさい)と、年の離れた末弟の宗右衛門が取り仕切っていた。

竹内式部の像
■ 本書では、美以は竹内式部(1712 - 1768)の娘とされている(*)。竹内式部は山崎闇斎の流れを汲む垂加神道の第一人者といわれ、公家から地下の庶民まで多くの弟子をかかえていた。特に若い公家の中には、式部の尊皇思想に感化され王政復古を唱えるものまで出てきた。そのため、危機感を抱いた摂関家から「幕府転覆の企てあり」と宝暦8年(1758)京都所司代に訴えられ、所司代は徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。式部も、京都所司代の審理を受け翌宝暦9年(1759)重追放に処せられ、故郷の越後へ追放された(これを宝暦事件という)。

■ 都で生まれ育った式部の妻は3人の子供を連れて、友禅の染物業を営む実家に戻った。母にはすぐ縁談が持ち込まれ、子供たちも一緒に婚家に引き取られるはずだったが、なぜか美以だけは祖父母の家に残された。13になっていた美以は、すでに妙な色香を持つ少女に成長していたという。宝暦10年(1760)に祖父母が流行病で相次いで亡くなった。その直後に、式部の弟子だった公家の高野隆古(たかふる)が「越後の式部先生を訪ねるから、一緒に行こう」と美以を連れ出し、気がつくと島原の遊郭に売られていた。

島原太夫の晴れ姿
(日本服飾史史料より)
■ 美以が島原の住吉楼で最初に見た郭の女は鬼鳥(きちょう)太夫といった。太夫は、美以が祖父の家で六枚の花鳥の図を友禅染で仕上げた打ち掛けを羽織っていた。それを見て、美以は無性に泣けた。だが、どういう気まぐれか鬼鳥に望まれて、美以は太夫の部屋につく引舟女郎(ひきふねじょろう)になった。鬼鳥は胡弓の名人だった。その哀切な細い弦の音を聴くために通い詰める客も多かった。それに鬼鳥は独特の体臭をもっていた。それが床につくと昂ぶるにつれて匂い立つという。

■ 鬼鳥は密かに飲んでいる生薬を美以にも飲ませた。それは丁子(ちょうじ)や零陵香、青木香など唐(から)から取り寄せたさまざまな薬に、麝香(じゃこう)を少し混ぜて粉末にし、密を混ぜて丸薬にしたものだった。同じ匂いの女に仕立てられた美以は、鬼鳥の客が立て込んでいるときは代理を務めさせられた。あるとき、大阪の吉野五運が島原にやってきて、住吉楼に登楼した。五運に生薬のからくりを話すと、「お前のことをきっと気に入るお人がいる」と面白がって美以を根引きし、枡源に連れてきた。

■ 枡源では、美以は庭に放し飼いにされている様々な鳥たちの面倒を見るのが仕事だった。庭にはさまざまな鶏やオウム、インコなどの極彩色の鳥や、この世のものとは思えぬ美しいクジャクが闊歩している。そのうち、若冲の画室で絵の具溶きなどを手伝うようになった。美以が画室に入ってくるたびに奇妙な体臭がした。赤ん坊の体から甘い匂いがするように、近寄ると何か甘酸っぱいような匂いがする。美以が画室にやってくるたびに、若冲は彼女の体臭を気にした。といって、彼女を引き寄せて抱こうとはしなかった。

■ 美以は、若冲の話から彼が初めて絵を習ったのは、御所近くの泉町に住む蒔絵の春敬だったことを知った。江戸時代のはじめから続く春正塗(しゅんしょうぬり)で知られる蒔絵師である。一応京狩野の流れを汲んでいたが、本業は蒔絵で、本格的に絵師を目指す者の師匠に足る人物ではなかったようだ。(**)

(*) 美以が竹内式部の娘だったことを裏付ける史料は存在しない。すべて作者が作り上げた架空の話である。

(**) 通説では、若冲は幼い頃から絵画に興味をもち、はじめは狩野派の町絵師・大岡春卜(しゅんぼく、1680 - 1763)について絵画の手ほどきを受けたとされている。その証拠に、若冲が「春教」と名乗ったという記録がある。春卜は大阪の絵師で、後に若冲が相国寺の大典顕常(だいてんけんじょう、1719 - 1801)を通じて交流を持つ大坂の木村蒹葭堂(けんかどう,1730 -1802)の最初の絵の師匠も、春卜だった。

明和4年(1767)、拓判画の淀川両岸絵巻『乗興舟(じょうきょうしゅう)』制作

乗興舟
■ ある日、浪速の吉野五運から早飛脚で書状が届いた。一読した若冲は、美以に向かって、
「早う旅支度をせぇ。大阪へ行くで」と訳も言わずせかした。今から伏見に急げば、夕刻の舟に乗って淀川を下り、明日の朝には大阪の天満橋に到着するという。京の伏見から大阪の天満橋までは、下りが半日、上りが一日がかりの乗合船が運航している。

■ しかし、船着き場に着いたときは、今日の船は出た後だった。ところが、所用で大阪に下るという大典禅師の特別仕立ての船が繋留されていた。若冲が頼み込んで、二人を大阪まで同乗させて貰うことにした。船が艫綱(ともづな)をとくと、若冲は大典に向かって、
「この者の父親が島流しになるそうや」と急ぎ旅の理由を明かした。その話を聞いて、驚いたのは美以である。宝暦事件で都を追われ故郷の越後に追放された竹内式部が、いつの間にか山城の国に舞い戻っていた。そのことが沙汰になって、今度は八丈島へ島送りになるという。淀川下りは、父親の最後の姿を一目見せてやりたいという、若冲の計らいだった。

■ 美以は目を閉じて波の音のまにまに聞こえる伏見の酒造り唄を聞いているうちに、うとうとと眠ってしまった。船の櫓の音で目をさますと、若冲が、月明かりに煌煌と照らし出されて漆黒の闇から浮かび上がる川岸の風景を描がいており、その場の感興にまかせて大典和尚が詠んだ詩句を添えて一巻の巻物(幅28.7cm、長さ1151.8cm)を作っていた。

乗興舟(部分)乗興舟(部分)

■ 若冲は、石摺(いしづり)という手法を用いて、この絵を拓判画巻物に仕上げている。すなわち、まず絵柄を凹版で作り、その上に濡れた紙を置いて、凹んだ部分は紙を押しつけて凹せておく。その後、表から黒を塗っていくと、凹部が白く残り、黒のバックに絵柄が浮かび上がる。石の拓本をとるのと同じようなものである。拓本は黒地に白く抜けた文字だが、石摺絵は黒地に白く絵が抜けたものとなる。なお、ぼかしの部分は型友禅の技法を用いて柔らかく仕上げられている。

■ しかし、一行が大阪の吉野五運の家に到着した頃には、すでに新しい情報が入っていた。竹内式部が捕縛されて江戸へ送られたのは、もう半年も前のことで、すでに八丈島へ流されてしまっているだろうとの事だった。(*)

(*) 宝暦8年(1758)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門は、江戸に出て尊王論者・山形大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767)不敬罪として山形大弐を死罪に、藤井右門を磔刑に処した。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内式部にも累を及ぼして遠島に処した。これを明和事件という。しかし、若冲が大典和尚と船で淀川を下り、大阪に赴いたのは明和4年(1767)の春である。その時より半年も前にすでに竹内式部が江戸に送られたとするには、時期が合わない。

宝暦5年(1755)、次弟の宗厳に家督を譲り、隠居

■ 3代目枡源の父・宗清が42歳で亡くなったのは、元文3年(1738)である。23歳の若冲は家督を相続し、4代目桝屋源左衛門と名乗った。家業に追われ多忙な日々をすごしたが、好きな絵事の習得を怠ることはなかったという。その若冲が、次弟の宗巌(そうごん)に家督を譲り、通称を茂右衛門と改めて隠居すると宣言したのは、宝暦5年(1755)40歳の時だった。初老という人生の節目を迎えて、かねてから念願の作画三昧の生活に入ることを決意したのである。

『虎図』(1755年)
■ 念願の画家となった若冲が40歳の時に描いた作品が残っている。京都正伝寺に伝わる中国画『猛虎図』をもとに描いた『虎図』である。若冲は、自分が眼にできるもの、見て感じるものしか描かなかったため、ほとんどの作品は花鳥画である。しかし、虎は日本にいないため、中国画を写したという。

■ 3歳年下の宗巌は、実は若冲の実弟ではなかった。父・宗清がよその女に生ませて引き取った子供である。そのため、若冲の母は凄惨な継子いじめをしたが、若冲だけはこの弟をかばっていた。宗巌は俳句や描画が好きだったようで、自らは野菜の白菜に因んで白歳(はくさい)と名乗った。末弟の宗右衛門(*)はまだ歳も若く、若冲の養子となって桝屋を継ぐ事になっていたから、白歳はそのつなぎということらしかった。

■ さらに、若冲は美以を宗右衛門に妻合わせることにした。奉公人を嫁にするわけにもいかないから、吉野五運に仮親になって貰い、五運の養女として迎えることにしたという。その宗右衛門に関して、若冲は意外なことを美以に明かした。実は宗右衛門はわしの子だという。昔、若いとき、家業を放り出して2年ほど丹波の山奥に籠もっていたことにしてあるが(**)、実は明・清の絵を学びたくて長崎に行っていた。そのとき長崎で親しんだ女にできた子供だという。しかし、若冲は何も知らず京に戻り、それから数年後、風来山人と名乗る男が5歳になる男の子を連れてきた。それが宗右衛門だった。風来山人というのは仲間内での通り名で、本名は平賀源内、若冲が長崎にいた頃、同じ唐人に家に共に寄宿していたという。

■ 美以は、大阪の薬種問屋吉野五運の養女となり、家督を継いだ宗巌夫婦の媒酌で祝言をあげた。その婚礼の夜、美以は宗右衛門から意外なことを告げられた。
「大兄は偉い人で誰も逆らうことはできない。だから前から妻となる女は兄さんから勧められる女で、いいと思っていた。しかし、女のことは別の所で楽しませて貰う」、
と言って、遊郭へ出かけていった。そうした日々が何年も続いた。

■ 物語の後半で、宗右衛門が通い詰めた相手は、美以が太夫の部屋につく引舟女郎を昔つとめた住吉楼の鬼鳥(きちょう)太夫であると種明かしされる。しかも、その太夫は、若冲が長崎でかって付き合っていた女で、若冲は肌身離さずつけていたユニコーンの角で作ったという丸い印章は、長崎でその女と別れるとき女がくれた物であるというどんでん返しまでついている。

(*)  若冲の末弟の名は分かっている。宗寂(そうじゃく)といった。跡取りとして期待をかけられていた宗寂は、10年後の明和2年(1765)9月19日に亡くなっている。その年の11月11日には、若冲は宝蔵寺に宗寂居士の墓石を建立している。それなのに、作者はわざわざ別名を作って物語を展開している理由がわからない。

(**)  若冲が若い頃家業を放り出して2年間も長崎に留学したという事実はない。しかし、家業の経営に熱心になれず、丹波の山奥へ2年ほど逃げ隠れしていたと、平賀蕉齋(1745 - 1805)は伝えている。そのため、山師に枡源の営業権を奪い取られそうになり、訴訟にまで及んでようやく解決をみたとのことだ。

宝暦7年(1757)、10年がかりのライフワーク『動植綵絵』の制作に着手

『梅花小禽図』(1758年春)『芦鵞図』(1761年春)

■ 若冲が『動植綵絵』30連作の制作に着手したのは、家業を離れて2年後の宝暦7年(1757)頃のようだ。最も制作の早い絵は宝暦8年(1758)の春に完成した『梅花小禽図』である。明和2年(1765)9月、若冲は『釈迦三尊像』3幅と『動植綵絵』24幅を相国寺に寄進する旨の寄進状を送っている。10月7日、その返礼の手紙を受け取り、12月28日には、相国寺との間に、永代供養の契約を結んでいる。

■ 翌年の明和3年(1766)に、若冲は相国寺塔頭松鴎庵の墓地に自分の寿蔵(生前の墓)を建てた。その3面に大典の碣銘(けつめい)が彫られているが、それには『動植綵絵』30幅がすべて揃ったことが記されている。こうした資料を勘案すれば、『動植綵絵』は10年がかりの若冲のライフワークだったことがわかる。

■ その間、若冲は『動植綵絵』にかかりきりだったわけではない。宝暦9年(1759)には、鹿苑寺(金閣寺)住持の龍門承猷の縁故で鹿苑寺の大書院五室に水墨画による障壁画を制作している。

■ また、かって京都で若冲に絵を学んだ金光院別当の宥存(ゆうそん)の依頼で、明和元年(1764)には、讃岐の金刀比羅宮奥書院の障壁画を制作している。上段の間には『花卉図』、二の間には『山水図』、三の間には『杜若図』、広間には『垂柳図』を描いたが、弘化元年(1844)に修理のため上段の間のみを残し、あとの三室の障壁画は撤去された。

鹿苑寺大書院一の間の「葡萄図」金刀比羅宮奥書院の「花丸図」

錦市場再開をめぐって活躍する町年寄・若冲

■ 若冲の生家"枡屋”は京の台所"錦小路通り”にあった。錦小路通りとは、現在の四条通りから一筋北、東は新京極通りから西は高倉通りまでの約400mの通りで、魚屋、青果店、豆腐屋など南北両側に食料品が軒を並べる錦市場として栄えてきた。

錦小路の所在地
■ 隠居後の若冲は、作画三昧の日々を送っていたと見るのが、長年の定説であった。ところが、隠居後も枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めるなど町政に関わりを持っており、特に錦高倉市場の危機に際しては市場再開に奔走していた事が最近の研究で分かってきた。事の発端は、明和8年(1771年)12月、京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来たことに始まる。

■ 奉行所に赴くと、奉行所から市場の営業を認められた時期や、「棒銭」の使い道、百姓たちの商売許可の有無、などを返答するよう命じられる。早速書類を作成し提出したが、免許状宝暦5年(1755)の大火で焼失してしまっていた。そのため、年が明けた明和9年(1772)正月15日、帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下った。市場の営業停止の沙汰は、その後の交渉で冥加金を年16枚上納することを条件に解除され、一旦市場は再開された。

■ この事件の背景には、五条通の青物問屋の明石家半次郎が商売敵の錦市場を閉鎖に追い込もうとする策謀があったようだ。五条問屋町は、冥加銀30枚を上納する代わりに錦高倉市場を差し留めてもらいたいという誓願をおこなったことで、7月3日に再び市を開くことを禁じられてしまった。病気を患った若冲が医名の高い原洲菴の所に薬を買いに行った時、町年寄としての苦しい胸の内を打ち明けると、江戸の勘定所の下役で、来阪中の中井清太郎なる人物に知恵を仰ぐことを薦められる。 そして、幕府代官や奉行所与力らの助言を受け入れながら、青物出荷者が居住する村々とともに市場再開の請願運動を続け、ついに安永3年(1774)8月29日、冥加銀35枚を上納することで、青物立売市場として公認された。

■ 以上のように、若冲が隠居後も帯屋町の町年寄を勤めて町政に関わり、錦高倉市場の危機に際して市場再開に奔走していたことが明らかになってきたのは、最近の美術史家の研究の成果である(中村勝責任編集『市と糶』(中央印刷出版部、1999年)、宇佐美英機著『「近世後期の京都錦高倉青物市場の動向』(『東北学院大学 経済学論集』第177号、2011年所収)など)。

(*) 本書では、作者は錦市場閉鎖の事件を、何故か若冲が讃岐に出かけている間の出来事としている。しかも、事件が起きたのは明和5年(1768)としている。上記のように、若冲が讃岐の金刀比羅宮奥書院の障壁画を制作に従事していたのは明和元年(1764)、すなわち4年も前のことだった。さらに、明石家半次郎との交渉には末弟の宗右衛門があたっていたが、交渉の席でトリカブトで毒殺されてしまったとしている。だが、跡取りとして期待をかけた末弟は、3年前の明和2年(1765)9月にすでに亡くなっているのだ。

作者は、さらに奇妙な設定をしている。宗右衛門の死を讃岐の若冲に知らせようとしているとき、金刀比羅宮の障壁画の仕上げを弟子たちにまかせて、若冲が早々に引き上げてきた。その理由として、制作半ばの『動植綵絵』のことが気がかりだったとしている。そして、その後は鴨川の西岸に建てた心遠館に引きこもり、寝食を忘れて残りの動植綵絵の制作に没頭したというのだ。しかも、動植綵絵30幅を完成すると、今度は釈迦三尊像の制作に没頭したという。

何故作者がこのような設定で物語の展開を考えたのか、筆者には理解できない。上に述べたように、明和2年(1765)9月に、若冲は『釈迦三尊像』3幅と『動植綵絵』24幅を相国寺に寄進し、翌明和3年(1766)には残りの『動植綵絵』6幅を納めたことが、多くの若冲研究家によってすでに明らかにされている。

まともな時代考証もされていないお粗末な歴史小説

西福寺の襖絵《仙人掌群鶏図》
■ 筆者は、錦市場閉鎖の事件の顛末を読んだあたりで、本書を閉じた。この後、物語は天明8年(1788)1月天明の大火で、若冲の旧宅や家作が焼失し、一時大阪に身を避けたとき、吉野五運の依頼によって同家の菩提寺・西福寺の襖絵として《仙人掌群鶏図》を制作するエピソードや、京に戻って伏見の石峰寺の一隅に庵を構えて、石仏の絵を描いていたエピソードなどが語られるのは分かっていた。

■ しかし、あまりに史実を無視した創作にはとても付き合えないというのが、正直な気持ちだった。参考までにこのブログに伊藤若冲年表を添付しておいた。この年表は、太田彩著『伊藤若冲と動植綵絵』の巻末に添付の「年表=伊藤若冲とその時代」からの抜粋で、多くの若冲研究家が積み重ねてきた研究の成果が盛り込まれている。この年表と読み比べてみるとき、本作品の時代考証がいかに杜撰であるかがわかるであろう。

石峰寺
■ 「あとがき」の中で、小説は虚構の積み重ねであるが、嘘を積み重ねていくうちにひょっこり真実に近づくことができないだろうか、と思っていると作者は語っている。そのため、虚構と現実が交差するような不思議な世界を描きたかったのかもしれない。その言葉通り、多くの実在の人物や事件に架空の人物を絡ませて独特の物語を展開する作者の技量はさすがである。

■ だが、”時空を超え魅了し続ける若冲の素顔と秘密に迫る”とのキャッチコピーに示されれば、誰しも新しい若冲像を描いてくれているものと期待して本書を手にするであろう。読者の多くは、最近の若冲ブームで若冲の生涯についてそれなりの知識を有する人たちである。したがって、タイトルから若冲の新しい伝記物と勘違いした読者は、筆者のように期待が裏切られることになる。

■ 本書で語られるのは、若冲の伝記ではない。実態は、遊女あがりの、しかも実在の女性ではなく、作者のイメージが作りあげた架空の女性の物語である。ただ、物語の中で登場する女性たちの会話は見事な京都弁で、読んでいても実に耳に心地よい。関東生まれの著者がこれほどうまく京都弁を綴れるはずがなく、京都在住の関係者のチェックが入っているようだ。主人公の美以や芸者玉菜の行く末を知りたい方は、本書を完読されればよい。