| 古典を読んでいて解らないことが多々あります。高校時代の古文の授業で解らなかった事の一つが「何故光源氏はかくもモテモテで次から次に女性遍歴が出来たのだろうか?」言う事でした。男子校のニキビ顔には刺激が強い上に一夫一妻制しか知らないのですから古代の性のおおらかさや一夫多妻は理解できなかったのでしょう。朝後の歌とて。全く理解の外でした。「男性が女性の部屋を訪れて翌朝別れる事が惜しくて名残惜しさを歌に託するなんて時代も変わりすぎていますし、若干17歳のニキビ顔には理解しろ、」と云うのが無理と云うモノです。 1,明けぬべく千鳥しば鳴く 白妙の君の手枕いまだ飽かなくに 万葉集 2 しののめのほがらほがらに明けゆけば をのが衣ぎぬなるぞ哀しき 古今集 1の歌は「君の手枕でもっと寝ていたい」等「よく言うよ」としか思えません。チドリ(夫婦仲が良いので有名)鳴き声で目を覚ましたらもう明け方になっていた。 昨夜お互いの衣を掛け合って同衾したのだが今朝は自分の着物は残して別れなくてはならない。妻の寝顔を横目に見て着物を残して(朝後して)帰らなくてはなりません。 2の歌は妻の気持ちになって歌った朝後の歌でしょう。 「 しののめが明るくなって夜が明けたので目を覚ましてみると、あなたの衣がお布団に掛けてあった。貴方の優しさと残り香を嗅ぐと愛おしい」なんて歌が理解できる高校生がいたら不良です。 清少納言は「春は曙」と指摘しましたが。男運が悪かった彼女の事、こんな歌は知らなかったか、知っていても「いい気味だ!」意地悪叔母さんだったことでしょう。 高校の授業では古代の結婚の講義はありませんでした。古代は家の中核は母親で、結婚は「通い婚」だったので、男は、女のところに通って行きました。娘の部屋に忍んだ男は、互いの衣を相手に重ねて掛けて寝る。そして、朝早くその衣を残して、娘の元から別れて行かなければならなかった。これを『後朝(衣ぎぬ)』といいました。 娘はは、今度いつ会えるかるのかもわからない。男もしかとは約束できない。そこに恋々たる情趣が生まれ、歌ができたのでしょう。別れは哀しいもの。そして「明日も来てくれるかもしれない」期待も重なります。後朝の歌は、概ね「哀しみ」と「期待」が織りなしているのです。 因みに通いが3晩続くと二人は結婚したものと見做されます。三日目が終わると、露顕(ところあらし)が行われます。現代の被露宴のようなお祝会です。男の従者や家の奉公人等全員に祝の食事とお土産が配られます。 これは源氏物語絵巻の東屋です。薫は亡くなった父(光源氏)の面影を宿した浮舟(左上)に心を寄せます。浮舟も母の6条の君(左下髪を梳いて貰っている)も身分の違う二人の結婚に反対します。6条の君は動揺する浮舟を部屋の奥に囲い物語を読み聞かせて慰めます。 これは源氏物語絵巻宿木です右の御簾の陰に居るのが匂宮と浮舟です。匂宮は浮舟に通い続けて三日が過ぎると隣の部屋には女房や6条の君が集まっています。これから露顕(ところあらし/結婚被露宴)が行われるのです。こうして二人は結ばれるのでした。たとえ身分が女が低くて男が高くてもこの図式は変わらず。費用は総て女の家が負担します。こうして匂宮は6条君の婿になるのです。 手に摘みていつしか見む紫のねに通ひける野辺の若草(若紫63) これは源氏が美しい少女(稚児)を見つけて歌った歌です。大意は源氏が若紫について、野辺の若草に擬えて ”早く手に摘み入れて、早く見たいものだ”歌ったものです。 光源氏は桐壷の更衣の子で母の顔は知りません。桐壷の面影を求めて藤壺の女御に恋します。藤壺が里帰りした機会に密通を果たします。藤壺は男子を出産します(この子は次の帝になります。源氏の桐壷更衣への執着は継続して若紫を育てて「紫の上」として迎えるのです。 古代は根本的には母系社会です。母を核にしてイチゴや里芋が小芋や子株を増やす様にして氏族を拡大して行きます。天皇家の祖先も同様だったのでしょう。だから天照大神と云う名の女神を親芋にして一族を拡大した。女性の御名たる所以は子供を産む事です。子供を産んで氏族を拡大していったのに対し男は戦いに秀でています。古代社会は不比等が整備した律令制度の様に国土も国民も天皇家のモノだとしました(公地公民制」。 一方政争が増えて荘園の私有が認められると社会は父系社会に転じます。母系社会が「通い婚」「婿取り婚」であったのに対し父系社会は「嫁取り婚」に180度転換します。変革期が院政時代であり、平家が天下を獲った時代でした。 変革期に残された最高の文学が道綱の母が残した蜻蛉日記です。 舞台は最高権力を思ひの儘にした藤原北家。藤原兼家は妻に30歳も年上の時子を迎えます。更に兼家は本朝三美人と評判で和歌の妙手道綱母を迎えます。兼家は摂政就任に際し紫宸殿に似せて東三条邸を築きました。そして時子を北の館に迎えます。館には東の館もありました。道綱母は東の館に迎えられるものと期待します。でも東の館に迎えたのは道綱母よりズット若い藤原国章の娘でした。蜻蛉日記の名は「世の女房達よ。女房は三Kを夢見ます。光り源氏のような白馬の貴公子が何時か迎えに来てくれる…。私もそう夢見ていました。でも光源氏は物語の世界で現実は惨いモノです。私は誰しも羨む摂政の妻に迎えられまあしたが。夫の浮気性好色は私を地獄に落しました。私は髪を切って抗議したのでしたが空しいモノでした。そこでこの日記を蜻蛉日記と名付けました(かげろうは蜻蛉か陽炎の掛詞でしょう。) これは蜻蛉日記の一場面絵は石山寺縁起絵巻です。この場面は道綱母(先頭の市女笠の女性/多分髪の毛を落としています)が養女と従者を連れて逢坂山を越える場面 ブログランキングに参加しています。 応援クリックお願いします。 |
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