《へ》 『変態生まれのザムザ』



 やけに寝苦しい夜だった。


 蒸し暑くて狭苦しい。昔父さんに無理矢理連れていかれたキャンプの時みたいだ。

 湿っぽい森の中、寝袋に包まって眠った日。夜中にトイレに起きたら、みっしりと蛾がへばりついてたときの恐怖と悪寒。……ああ、やなこと思い出しちゃった。


(……むう)


 声を出したつもりだけど、うまく言葉にならなかった。


 僕こと、遠野星太の朝は早い。

 寝るのが早いせいもあるけど、起きるのも早いのだ。朝食の支度や、毎日ではないにせよお弁当作り、その他朝の支度にはけっこう手間がかかる。


 古ぼけた目覚ましが鳴る十五分前には目を醒まして、まずコーヒーを淹れる。

 いつもそうしてきたし、今日もそうするつもりだったけど――


(……暑い……重い……)


 やけに布団が窮屈で、固く感じられた。夏も近い今の時期、寝具はタオルケットと薄い布団だけで、大したものは使ってないはずなのに。

 寝ぼけた僕は、あまりその事を深く考えないままに、強く体を起こした。お腹に力を込めて頭を上げると、ぐにょり、と液状の何かが掻き回されて嫌な動きを作る。


 僕がそれを不審に思うより先に、ぴし、と目の前が明るくなった。

 暗闇がまっぷたつに割れてさしこむ、鮮やかな陽の光――


(出口だ)


 体をそちらへ向けて、渾身の力をこめたとき。

 みしみし、と音を立て、僕を包んでいた何かが左右に割れて、光があふれる。


「どへっ!?」


 眼を覚ましたと想ったら、ベッドから転がり落ちた僕だった。

 何があったのか、いまいちよくわからない。とにかく寝苦しくて、いやな夢を見た気がするんだけど……子供じゃあるまいし、ベッドから転げ落ちるなんて。


「……今、何時だろ?」


 言った時、視界が妙に広いことに気付いた。普通、人間の眼は限られた範囲しか映さない。前方、左右合わせて斜め四十五度くらいだ。


 それなのに、ああ、それなのに。

 寝ぼけ眼で立ち上がった瞬間、僕は部屋の様子をくまなく把握していた。文庫本と漫画が大半を占める本棚も、昨日予習を済ませた教科書とノートも、趣味で作ってるガンプラまで、映りの悪い白黒テレビみたいな視界に納まっていた。

 前も後ろもほとんど全部見える。三百六十度、と言うには少し狭くて、真後ろだけはさすがに見えないけれど、それ以外はきっちりと(灰色だけど)見えていた。


「え……? え?」


 わけのわからない状況に、そう口にしたときだ。

 いやな感触が背肉に伝わった。その感触は……ひとことで言うなら、何と言うか……その、朝起きると男性には起きる、生理現象に近いものがある。


 体液が海綿体に集まる膨張感の、それも強烈な奴が背中の方から感じられる。


 振り向くまでもなかった。


 やたらと範囲の広い視界に、ばっちりとその光景が視える。

 産毛に似た細かい何かがびっちり生えた、翅。萎れた花のように力無く丸まっていたけど、薄い皮膜に走った血管に体液が満ち、みるみる膨らんでふわりと広がる。

 僕の体をすっぽりと包み込めるくらい、大きく、大きく――。


「え………!?」


 全力で、僕は。


「うわああああああああああああああああああ!?」


 悲鳴は、口ではないものから飛び出した。


 口の……と言うより、当たり前すぎて普段自覚していない、顎や舌、歯といった口腔の感覚そのものが無い。替わりに何かが自動的に、僕の意思を声に換えている。

 今自分がどうなっているのか、判らない。背骨が凍りそうな焦燥感に押されるようにして、僕は勃起しかけた翅にてこずりながら、クロゼットを開けた。


 中に吊るされた制服と若干の私服。

 そして扉の裏に備え付けられた鏡に姿を映そうとしたとき――


「星ちゃん………」


 突然背後からかかった声に、僕はびくりと身を竦ませた。


「かっこいいっ!ハリウッドからオファーが来そう!」


 パジャマ姿のまま、部屋のドアをばんと大開にして喜色満面。

 ぐるぐる眼鏡を額に乗せて、羽織った白衣は皺だらけ――寝起きそのものという姿の天才科学者、御堂鞠歌がいつのまにか、部屋に入ってきていた。


「……鞠歌」


 そう口にしたとき、びびっと天啓のように電気が走った。

 直感的にそう理解した僕は、ゆらりと彼女に振り返り、大きく両腕を広げる。


「これ、君の仕業だろ………!?」


 見せつけるように広げた姿は、素の僕とは似ても似つかぬ異形だった。

 

 クロゼットの扉についた鏡に極彩色の翅が映る。それは、ひとことで言うなら人間サイズの特大蛾男だ。六本の肢があり、下の二本は直立歩行に適応したヒトそっくりの形になっているが、尻の部分が尖って突き出しており、正に蝶類そのもの。


 上の二本は手になっている。

 これも五本指、肘があり、肩の形も人間のものと同じ。だが、みっしりと細かい毛が生えていて、まるでモコモコのヌイグルミか何かのようだ。

 首周りには分厚い毛がもこもこ盛り上がっていて、すっかり首を隠している。

 そこだけではなく胸からお腹、胴体のほとんどを同様の毛が覆っていた。指で触れてみると地味な枯れ葉色の鱗粉がベビーパウダーのように飛び散った。


「……うわぁ」


 我ながら、ドン引きだ。

 顔は完璧に無くなっていた。軟弱、貧弱、ほわほわ、そんな珍妙な形容詞でばかり語られるこども顔は骨格から完璧に組み替えられて、元の印象は微塵も無い。

 毛に覆われた小さな頭の半分を占める、ドーム状の巨大な複眼。

 口は無い。顎の感覚も、歯茎の感覚も、舌の感覚もすべてなくなっていて、頭から口と言う器官そのものがなくなって、眉毛のあたりにありありと何かを感じる。


 わさっ、わさっ、わさっ……。


 何というか。サンバを踊るお姉さんのお尻とかにくっついていそうな羽飾り。

 羽箒にも似た、なにか。無数の毛がわさわさと生えた大きなそれは、蛾の触角だ。静電気にも似たピリピリした感触が羽毛のすみずみにまであって―――


「……脳で直接においを嗅いだりことばをしゃべるのって気持ち悪いね……」

「フェロモントークは鼻があれば誰にでも通じるから便利だよ?」

「いや、そうかもしれないけどさ……!」


 ほんのちょっと頭を振るだけで、空気にふくまれた臭いの分子がわかる。

 それはいいんだけど、こうしてみるとぼくの部屋にもいろんな臭いがあるものだ。ベッドにのこる汗や体臭、ゴミ箱に入ったコーラの空き缶から揮発した香り、それに目の前にたつ鞠歌から香る女の子の風味まで細かく脳に入力されるのは、鬱陶しい。


「あれ? ……星ちゃん、怒ってる?」

「いや、朝からいきなり蛾男に改造されてたらふつう怒るよ!?」


 こくんと小首を傾げる鞠歌の顔も、何とも映りが悪い。

 複眼は微妙にピントが合わず、焦点が定まらないのに見える範囲は広い。

 数千だか数万だかの小さい眼が寄り集まってできた統合的な感覚で、つまり無数の眼のひとつひとつから得られた情報を僕の脳が統合して、ひとつの画像を作っていることになる。やたら物の動きが遅く見えるのも、そのせいか。


「酷いなぁ、そんな言い方。わたしは愛するマイサンをレスキューするべく、すごくがんばってるんだよ? 具体的に言うとビックリマンにおけるお守りくらい」

「知らないしわかんないし微妙だよ、それ……」

「前から思ってたけど星ちゃんってあれとかそれとか多いよね。具体的な名前が出てこないのって老化の前兆だと思うの。カルシウム足りてないんじゃないかしら」


 前略、お父さん。

 ………今日ばっかりは僕の拳が光って唸りそうです。


 今までけっこう色々酷い目には遭ってきたけど、さすがに今回は厳しいよ。

 こんな毛の色でどうやって生きろって言うのか。


「とにかく、元に戻してよ」

「大丈夫。ほっといても元に戻るよ。って言うか、星ちゃんは何も変わってないし」

「へ?」


 わけのわからない言葉に、僕は……瞬きしたかった。

 けど、できない(複眼)。それでも困惑は伝わったのか、鞠歌は得意げに微笑む。


「胡蝶の夢って言葉があるよね?」


 昔者、荘周夢に胡蝶と為る――。


 それは中国の思想家、荘周が考えたことだ。

 彼は蝶になった夢を観て、夢の中で荘周という人間のことを忘れて楽しく暮らした。しかし、突然夢は醒め、彼は元の人間に戻ってしまう。

 荘周という人間が蝶になった夢を観たのか。それとも、蝶が荘周という人間の夢を観ているのか、それは誰にもわからない……って話だ。


「確か、こないだの国語の授業でやってたよね?」

「うん。面白い話だったよ。だけど、オチがちょっとわかんなくって。だって夢は夢で、現実は現実でしょ? つまり潜在的な意識が睡眠時に、荘周さんの脳へ夢として表れたわけだから。どんな恐ろしい夢を観ても、人間は蝶にならない。だからこのおじさんが言ってることは、なんだかおかしいと思うの。だからね、星ちゃん」


 言い切ってから、鞠歌はにっこりと微笑んで言った。


「そんなわけで疑問を解決したくって、がんばってみました鞠歌ちゃん。星ちゃんの

睡眠中の意識をバイオ粘液に組み込んで再現する人工サナギ!」

「つまり、ぼくが蛾の夢を見たからこの謎の蛾男ができたってこと?」

「うん。実験結果は成功だね。荘周さん嘘ついてなかったよ!」

「……あほかああああああああああああああああああああああああっ!!」

「ひうっ!?」


 ふひーふひー。

 脇腹からまぬけな呼吸音を出しながら、僕は全力で壁ドンした。


「昔トイレにへばりついてた蛾の夢だったからまだいいけど、もし僕が変な夢見てたらどうするつもりだったのさ!? 危ないってレベルじゃないと思うんだけど!?」

「大丈夫だよ、星ちゃん本体は私の部屋に拉致って謎の液体にコポコポしてるから」

「……あの、漫画とかでよくある、泡がポコポコ出てる謎の水槽に入ってるの?」

「うん。成分的には食塩水、っていうか人間の体液とひとしい塩分濃度の塩水だけど脳波を中継して今のボディに送ってるから。大丈夫大丈夫、実害ないもん」

「わかったよ、もう……。まったく、どうせならいい夢をかなえてほしいな」

「大丈夫。もし星ちゃんが青春まっさかりの肉色ドリームを見るようだったら、責任もって保存しておいてあげるつもりだったから。お母さんつまんなーい」

「君は親にならないほうがいいよ。息子のデリケートゾーンに踏み込まないで!」

「踏み込まなくても知ってるよ? えっと、机の引き出しの奥……」

「すでに捜索済み!? ああもう、この際能書きはいいから早く戻してよね。このままじゃ学校行くどころか、人類扱いされないよ!」

「だから大丈夫だって。と言うより、今の星ちゃんはまだ、夢を視てるんだから」


 いつものように、怖いほどあどけない顔で、鞠歌は続けた。


「今の変身したその姿は夢の産物に過ぎないし、もちろん星ちゃんと話してるわたしも夢。ただ、これが夢であるという自覚を持ちつつ、現実と同様以上のリアリティを実現してる――ほぼ完全なかたちのシミュレーションだよ」

「……夢? これが?」


 そっと掌を広げる。

 複眼のぼやけた視界の中で、人間染みた外骨格がキシキシと軋んだ。

 皮膚の感覚。空気の感覚。視覚、味覚、触覚――何もかもが完璧だ。

 目の前に立ってる鞠歌のほのかな体臭や心音までもが、変化した感覚の中で完璧に再現されて、拡張された感覚に伝わってくる。


「どっちがどっちだか区別できない、なんて言うのじゃダメなの。それじゃどうしても不安になるし、偽物として拒絶してしまうから。実験はあくまで完璧じゃないと。『夢を現実化する』のは難しいから、『限りなく現実に近い夢を見てる』わけ」

「……その、謎の人工サナギとやらの中で?」

「うん。ここは君が創った、君のための夢。あたたかいサナギの中の世界。君が望めば何でも叶う夢の中。実験協力のお礼に、楽しんでいくといいよ」

「な、何でも?」

「うん」


 ……それって、つまり、何というか。


「エッチなこともアリだと思うよ。よりどりみどり」

「僕まだ何も言ってないんだけど!?」

「隠さないの、男の子。グラビアアイドルから美少年、おばあちゃんから人妻まで。牛ヤギヒツジに豚ラッコ、ニワトリだって何でもおっけーだよ!」

「ちょっと待て! 後半明らかに違う! ラッコをそういう対象にはしないよ!?」

「えー? だって星ちゃん、『弱気なラッコが主人公のほのぼの動物アニメ』を同性愛的な視点でねっとり眺めてるんじゃないの? よく視てたじゃないアレ」

「言わない! 断じて言わない!」

「いいじゃない。ちょっと遊んでいこうよ。誰にも迷惑はかからないよ。楽しい夢がずっと続くんだよ。どんなことでもできるし、何だってしてあげるのにー」

「………」


 正直、ぐっときた。

 誰にも迷惑はかからない、ってあたりが特に。僕だって人並みの人間だし、好きな人だっているから。彼女の夢を観たいと思うけど……。


「何からいく?まずは美女に取り囲まれたハーレムの王さまで宇宙艦隊の司令官、宇宙海賊を薙ぎ倒し、顔はハンサム。スマートで背も高くて名前はコブ……」


 ぴた、と彼女の声が途中で止まる。

 毛むくじゃらの手のひらが、鞠歌の口を塞ぐように広がったからだ。


「いいよ」

「え?」

「いい。誰にも迷惑かからないし、いい思いができるのかも知れないけど」


 本音を言うと、ちょっとだけ惜しいけど。


「僕の夢は、僕が選ぶよ。夢まで誰かに創ってもらうわけにはいかないんだ」


 楽しい夢を見たい。誰だって当たり前にそう思う。

 けど、どんなにいい夢でも、それだけを見て生きることはできない。

 例え永遠に続いたとしても、どれほど幸せな夢だったとしても。


「そっか」


 思ったより冷静に、鞠歌はちょっと唇を尖らせたきりだった。


「……わたしは本物のわたしじゃない。君の夢の中の鞠歌。君の記憶から創られた、君の鞠歌だよ。他の誰の為でもなくて、君のためだけにいる、君のもの」


 そうなのかも知れない。おせっかい焼きで、何かとすぐ首を突っ込んでくる。

 そのくせ妙に素直だから、こちらが拒むと二度としない。


 そんな、奇妙な―――ぼくの、家族だ。


「またいつでも夢を見てね。あっちのわたしに言えば、いつでも幸せな夢を見せてあげる。辛い事があっても、苦しい事があっても、夢は決して裏切らないから」

「……うん。ありがとう」


 微笑んで、ぼくはそっと彼女に手を差し伸べた。


「飛ぼ、鞠歌」

「え?」


 背中の肉に意思を込める。

 産毛の下に隠れたキチンが反応し、折畳まれていた枯葉色の翅が大きく開くと、灰に似た醜い鱗粉をぱらぱらと散らした。


 手がそっと重なると、僕は翅を震わせる。

 少ししか力を込めていないし、羽ばたきの速度も眼で見えるほど。

 酷く遅くて鈍いのに、体はふわりと浮き上がった。

 体重が無くなったような浮遊感。


「……ごーいんだね?」

「何せ、夢だからさ」


 頬を摺り寄せてくる鞠歌を抱き上げたとき、空間に溶けるように周りの風景が消えていった。見慣れた部屋の壁が、本棚が、ベッドが薄く色褪せて消滅する。

 

 さすが夢、凄く便利だ。


 消え失せた部屋の替わりに広がった青空に向けて、僕は翅を広げる。


 往く先に広がるのは、ただ真っ青な空。

 雲ひとつなく、どこまでも澄んで、青く、高く。



「……蝶になるのも、いいかもね」



 ほんのちょっぴりだけ思った気持ち。

 家族を胸に優しく抱き締めながら、蛾らしく、ふらふらと揺れて。

 僕らは、ゆっくりと空の高みへ昇って逝った。





「はぐっ!?」


 突然頭に走った鈍痛に、とっさに頭を押さえる。


「いたたたた………う~」


 頭が上手く働かない。寝起きのせいか、どうにも不調だ。転がり落ちたらしいベッドは酷く乱れていて、寝苦しかったせいか布団が床に落ちてしまっている。

 とりあえず頭に手を伸ばし、ドーム状の眼球を擦る。埃のついた視界が鮮明に替わり、白黒の世界の中で、僕は朝ごはんの支度をするため、台所へ向かった。


「あれ?」


 玄関の前に通りかかり、来客を映すように壁に掛かった姿見に自分を映す。

 全身を覆う柔毛、頭から突き出した触角と複眼、異形の手足と、背中の翅――。


「……ま、いっか」


 どうやらまだ、夢の続きを視てるらしい。

 寝癖のついた触角を直しながら、僕は台所へ急いだ。