母のピーラー

母がずっと愛用しているピーラーがある。
それはとても簡素な作りで、白いプラスチックの柄にステンレスの刃が付いている、シンプル極まりないデザインだ。
随分と長く母のキッチンにあり、途中で柄が折れて、先端の手持ちの部分だけしか残らず、白いプラスチックには洗っても取れない黒ずみが染み付いている。
母はそれを器用に使って野菜の皮をくるくると剥く。

私は何度か使いやすく、素敵なデザインのピーラーをプレゼントした。
ちょっと値も張るキッチンブランドのものばかりだ。
母は喜んでそれを使ってくれるが、しばらくしてふと気付くと、まな板の上には使い古して柄の無いあのピーラーがちょこんと乗っている。

ああ、またダメだったか…。

そう、このトライは数回行われ、引出しには使われないままの美しいピーラーがいくつか入っている。

私がイギリス在住時に使っていたピーラーは丸みのある木製の柄のもので、刃もしっかりしており、大変使いやすかった。
帰国時にそれと同じものを購入し、意気揚揚とプレゼントした。
これは自分が使って、その使い心地を実証済みなのだから、必ず気に入ってくれると自信があった。
適度な重量感が野菜とピーラーのバランスを取ってくれ、丸みのある木の柄は、滑らずとても持ちやすい。

ウッディなシンプルデザインを好む母はこのときも大層喜んでくれ、うきうきとしばらくそのピーラーを使ってくれた。
しかし、気がつくと…あのみすぼらしい、柄の無いピーラーが再び登場しているのだ。

私はとうとう新しいピーラー探しを諦め、母にキッチン用品を贈るときは、お鍋やフライパン、包丁などを選ぶことにした。
それらは何とか活用して貰っているが、実は新しい道具に馴染むのに、母は結構時間がかかるらしい。

ぴかぴかの鍋やフライパンを喜んで手にするのだが、大抵その後しばらく収納棚から出てこない。
何故使わないのか、と聞くと「勿体無いから」と言い訳し、古く底が剥がれて焦げ付くばかりの鍋やフライパンをせっせと動かしながら料理をしている。
手に馴染んだ道具を、中々手放せないのだ。

それでも次第に諦めがつくのか、古い道具を仕舞い、新しい鍋やフライパンを登場させる頻度が多くなってくる。
私が贈った新しい道具がコンロの常連になったときは、内心「フフフ」と思っている。

しかし、ピーラーについては依然完敗だ。

そんなある日、とあるファッション雑誌のキッチン道具を紹介するページに、小さく紹介されたピーラーがあった。
それは小さな写真で見る限り、母の使っているあの柄の無いピーラーにイメージが近く、私は密かに目をつけていた。
販売店が会社から歩いて行かれる距離の東急ハンズとなっていたので、私は内心小躍りしていた。
こっそりそのピーラーを携帯画像に撮り、近いうちに東急ハンズに見に行くつもりだった。

ところがその晩、母が「見て!これ、このピーラーに似てる!」と言い出したのだ。

殊、このピーラーに関しては主導権はどうしても母にあるらしい。

私は悔しくなって、近いうちに東急ハンズに行く機会があったら見てくるとぼそぼそ言い、天邪鬼にも早速翌日見に行った。

そのピーラーはすぐに見付かった。

リッター(ritter)というドイツのブランドらしい。
簡素な箱、そして525円(税込)という価格。
手に取るとカラカラと、いかにも頼りない軽さ。
本当に入っているのかと心配になり、箱を開けてみる。

正に、母のピーラーだった。

軽くて、シンプルで機能的で、柄がちゃんとある。当然である。
私は懐かしい人に巡り合ったような気分でそれを購入した。

その晩、母は大喜びで「これよ、これ!そっくり!」と柄の無い古いピーラーと並べた。
するとその黒ずんだプラスチックにはなんと「ritter」とロゴが入っているではないか。

そう、母の愛用ピーラーはリッターのピーラーだったのだ。
余りにも当たり前過ぎて、それをまじまじと観察することが無かった。
ちゃんと見れば、手に取れば、すぐ分かったことなのに、当たり前過ぎて見過ごしていることの何と多いことよ!

私はようやく母のピーラーと巡り合った嬉しさより、きちんと物と向き合ってこなかった、自分の心の浅さにしょんぼりとした。

母は懐かしそうにぽつぽつそのピーラーについて話をした。

その柄の折れたピーラーは、結婚当初に購入したもので、父の友人が当時輸入してきたものだと。
そして、父が仲介し、日本の輸入雑貨取扱店(母の記憶では現在のソニープラザらしいが、定かではない。)に置いて貰うことに成功した商品のひとつだったと。
だから、そのピーラーはなんと40年もの間、我が家の食卓に寄り添いつづけてくれたのだ。

毎朝毎晩野菜を剥き、果物を剥き、母の手の一部となって、あの美味しい料理を作り出してきてくれた。
晴れの日も、雨の日も、春の料理も冬の料理も。
私の誕生日も、妹の卒業式も、父と最後に見たあの夏の花火の夕食も、母とこのピーラーが美味しいごはんを食卓に並べてくれたのだ。

この小さな柄のないピーラーに、そんな歴史があったことを私は見てこなかった。
新しいピカピカの、見てくれの良いものを差し出せば、心がそちらに動くと思っていたのかもしれない。
自分の浅はかさと、自分をここまで作り上げてくれた歴史の深さを、私は525円のリッターのピーラーで思い知らされたのだ。

今、ようやく母は新しい、きちんと柄のある真っ白いプラスチックのピーラーを使ってくれている。
それでも何故か、それは既に母の手に馴染み、歴史を感じさせる。

母があの黒ずんだピーラーを捨てることは無いと思う。
ふとまな板の上を見れば、あの柄の無いピーラーがまたちょこんと登場している気がするのだ。





■[PR]