2007/8/3
「空間は機能をすてる/代謝建築論」
菊竹清訓著「代謝建築論/か・かた・かたち」(1969年)
近代建築における機能主義の限界を実感した著者は、それを乗り越える新たな理論の必要性を唱え、「空間は機能をすてる」と主張し、機能変化に対する空間的アプローチを試みる。この発言は、ルイス・サリバン「形態は機能に従う」、丹下健三「美しきもののみ機能的である」、ルイス・カーン「空間は機能を掲示する」などを意識したものである。
<空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。
形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。
その要点は以下のように解釈できる。
時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。
そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。
<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。
か:思考/原理/本質論的段階/構想
かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態
さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。
また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。
最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。
空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである
ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。
さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。
ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。
機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。
これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。
最後まで読み通してみると、前述の原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか?
建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの
近代建築における機能主義の限界を実感した著者は、それを乗り越える新たな理論の必要性を唱え、「空間は機能をすてる」と主張し、機能変化に対する空間的アプローチを試みる。この発言は、ルイス・サリバン「形態は機能に従う」、丹下健三「美しきもののみ機能的である」、ルイス・カーン「空間は機能を掲示する」などを意識したものである。
<空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。
形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。
その要点は以下のように解釈できる。
時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。
そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。
<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。
か:思考/原理/本質論的段階/構想
かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態
さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。
また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。
最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。
空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである
ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。
さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。
ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。
機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。
これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。
最後まで読み通してみると、前述の原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか?
建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの
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