2011年9月に「家庭菜園ブログ」としてスタートしましたが、いつのまにか道を踏み外してブレまくり、野菜作りとは何の関係もないことばかり書くようになりました。なお、このブログには農薬と化学肥料は使用しておりませんので、安心してお読みください。
敬語について農民オヤジはマジで考えてみた(3:終章)
人は誰でも、自分の世界を持っています。
その世界を、あるいは生活領域を、より居心地のよい場所にすることは、本人の気の持ちようで可能なはずです。
たとえば、あなたがA社の若い社員であると仮定しましょう。
取引先であるB社の、やはり若い社員の山田さんと、商談を兼ねて夕食を食べることになりました。
山田さんは、年齢も役職もあなたとあまり変わりありません。
初対面の挨拶と、名刺交換が済み、山田さんは堅苦しい敬語で仕事の話を始めました。
このときあなたは、たとえば、「山田さん、あなたさえよければ、ぼくたちの間では敬語は使わないことにしない?」と言うことができるでしょう。
そして、山田さんが意を体してくれれば、あなたと山田さんはそれ以降、お互いにあまり気を使う必要のない関係になれるかもしれません。
あるいは、次第に友人のような親しい間柄になることさえ考えられます。
このようなことが、つまり自分で自分の世界を居心地のよいものにする、ということです。
山田さんに限らず、あなたは、少なくともあなたに敬語を使わざるを得ない立場にある人に対しては、同じことを言ってやれるでしょう。
そのような機会は、あなたの人生に何度も訪れるはずです。
もちろん、これはビジネスの世界に限ったことではありません。
あなたがこの先結婚し、子供を作り、その子供たちが成長していつか結婚したとき、あなたは「しゅうと」、または「しゅうとめ」という存在になります。
あなたの子供が連れてきた結婚相手は、民法の定めによってあなたの家族の一員になるのですが、彼女は、あるいは彼は、当然のこととして、あなたに対して敬語を使うでしょう。
アメリカやヨーロッパの国々では、結婚した相手の両親をファーストネームで呼び、どのような形であれ敬語など使わないのが一般的ですが、我が国では、敬語で丁重に接するのが常識であり、不文律です。
しかし、それゆえに日本では、婚姻による義理の家族間の関係は、驚くほど他人行儀であったり、ときにストレスや緊張感に満ちていることがあります。
これはなあんとも馬鹿げたことではないでしょうか。
まがりなりにも家族同士になるのですから、もっとおおらかで、無碍(むげ=自由な様)で、リラックスした人間関係を築くことを考えるべきです。
そのためにあなたができることは、自分の子供が連れてきた結婚相手に対し、「私に対して敬語を使う必要などない」、あるいは「敬語は使わないで欲しい」と言ってあげることです。
相手は最初のうちは戸惑うかもしれません。
しかし、次第にあなたとその人との人間関係は、友人もしくは本当の家族に近いものになっていくことでしょう。
あなたは自分の意志で、自分の周囲から、不要な敬語を排除することができるのです。
少なくとも私は、これまでそのようにして生きてきました。
これからも、そうするでしょう。
かといって、私は必ずしも非常に気さくな人間というわけではありませんし、底抜けに陽気な農民オジサンというわけでもありません。
ただ、自分の周囲ぐらいは少しでも居心地のいい空間にしたいと思って、そうしているだけのことです。
そして、それは誰にでもできることです。
敬語は日本独自の伝統文化なのだから、本来の正しい形のままで後世に伝えていかなければならない、などと本気で考えている人もたくさんいます。
しかし、真に後世の日本人のためを思うなら、敬語を少しでも簡潔で明快なものにしてやるべきです。
ただ、政府機関が先頭に立ち、かつては三種類だった敬語を五種類に分類し、ことさらヤヤコシイものにしているような時代に、そんなことは望むべくもありません。
「言葉は生き物」と言われます。たしかに、わずか百年前や二百年前と比べても、言語は大きく様変わりしているようです。
刻々と姿を変え、時代に即した形に変化し、進化してきたのでしょう。
その変化を発信するのは、しかし、学者や政府ではなく、いつの時代も大衆だったはずです。
社会の片隅に生まれた小さな変化が、やがてたくさんの人に受け入れられ、いつか大きなうねりとなって、世の中に定着していくのです。
先ほども言いましたように、まずあなたが、自分の身の回りから、そのささやかな変化を発信してみてはいかがでしょうか。
敬語を使う必要などまったくない場面では、というより、むしろ使わないほうが仕事の能率が上がったり、創造性の生まれる余地が広がったり、人間関係に頗(すこぶ)る好ましい効果をもたらすような場面では、わざわざ敬語を使わないようにすればいいだけのことです。
そのような日本人が、たとえわずかずつでも増えていけば、やがてそれが大きなうねりになるときがくるかもしれません。
そして、我々の住むこの他人行儀で、窮屈で、無用なストレスと緊張感に満ちたヘンな社会が、もう少しおおらかで、自由で、居心地の良い場所に変わるときが、いつかやってくるかもしれません。
(おわり)
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