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女性僧侶「山口依乗」が説く、「聞くということ」。
「傾聴」と「聴聞」
聞く能力は自然に身につくという思い込みを、私たちはまず捨てなければなりません。
「聞く」ことは、読んだり、書いたり、話したりすることにくらべて、受動的な活動だ、という誤解も正さなければなりません。
耳に「聞こえている」から「聞けている」、というわけのものではけっしてないのです。
「聞ける」ためには能動的な活動が必要です。
それを一般には、「傾聴」といます。
傾聴とは
1.感じ取る
2.注意を向ける
3.共感する
4.記憶する
という心のはたらきをともなった、「積極的な精神活動」に外なりません。
「話す」という活動は、声の調子や表情や身振りによる、話し手の感情表現をも同時にともなった、複雑なコミュニケーション活動です。
それを受け止め理解していくのが「聞く」という活動です。
しかも話し言葉は、話されるにしたがって、刻々消えていくものですから、「ほんとうに聞く」「正しく聞く」ということは至難のわざといってもよいでしょう。
さてここからは、真逆の「聞くということ」のお話
「仏説無量寿経」に
阿弥陀仏のお誓いは「聞其名号、信心歓喜」とありますように、聞いて信ずる者を助けるという御約束です。
聞くということが、阿弥陀仏に救われるに最も大切なことです、と教えられています。
ですから、親鸞聖人も蓮如上人も「仏法は聴聞に極まる」とまで言われています。
「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと云々。」(『蓮如上人御一代記聞書』(註釈版聖典p.1292))
このように蓮如上人が示されたことからも、「聴聞」ということばは、浄土真宗の「きく」ことの大切さを如実に示されたことばです。
さて、すでに聴聞といわれています。
聴もきく、聞もきくということですが、仏法では、聴というきき方と、聞というきき方とを厳然と区別されていることを、よく承知していなければならないと思います。
では、仏法では聴くということをどう捉えるのでしょう。
私は先ほど、「一般での傾聴」のあり方を、
1.感じ取る
2.注意を向ける
3.共感する
4.記憶する
という心のはたらきをともなった、「積極的な精神活動」とお話いたしました。
きいて、頭で理解し、記憶し、合点しているようなきき方を言います。
1+1は2、2+2は4、というように、きいて納得している状態をいいます。
庄松同行が
「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」
と言っていますが、このような「わかりました!」というきき方を「聴」といいます。
このようなきき方はいくらでもできます。
しかし、このようなきき方をいくら重ねていても、阿弥陀仏の救いには会えませんよ…。というのです。
耳にいくら千回万回の法話をきいても、それが、自分を満足させる「聴」のきき方であれば、助からないと言われています。
では、「聞」というのはどんなきき方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るように、「聞こえてしまった!」というきき方をいいます。
「聴」は上辺の心が法話をきいて、自分なりに合点して、有り難がっているきき方ですが、「聞」は心のドン底に、そのまま、阿弥陀仏の呼び声がきこえてしまった時をきこえたというのです。
妙好人浅原才市翁の歌に、
「あなたわたしを どうしてすくう
わたしゃひとつも がてんがいらぬ
がてんいらずば その機のままよ
ごおんうれしや なもあみだぶつ」
とあります。
また、24歳で早世した青年の歌に、
「聴聞で 固めた信をもぎ取られ、
土産もたずに かえる故郷 」とありました。
「合点しました!」「わかりました!」は、いらないのですね。
仏法を自分の意志で聴くことはとても大切ですが、その気になるのも難しいことです。
自分にとって満足度の高い話、おもしろい話は山ほどありますから、仏法よりもそちらの方に耳を傾けるのです。
また、聴く気になっても、その人が阿弥陀さまの願いをいただけるわけではありまん。しかし、聴く人には、阿弥陀さまの願いが聞こえてきます。また聴く気のない人にも聞こえてくることもあります。
「聴聞」は聴くことであり、聞こえてくるということでしょう。
この法は、すべて阿弥陀さまが準備してくださり、聴く気があってもなくても、関係無しに私に届けようとしてくださっていることが知らされます。
だから聞けるのです。
仏法を聞くには、傾聴という能動的な、そして、積極的な自らの心を働かせる精神活動は邪魔なのでしょうか?
それもまた、早合点ですね。
私の思惑は役には立ちませんが、阿弥陀さまの願いを聴こうと、阿弥陀さまと真向かいになることは大切なことです。
さて、私のような、DPAのカウンセラーは、「傾聴」というきき方と、「聴聞」というきき方の両方で、クライエントの心の声を聴きながら、その場に働いておられる、阿弥陀仏、如来様の声を「なもあみだぶつ」とお聞きかせいただきます。不思議なことです!
クライエントの本当の気持ちが、ストンと落ちて、聞こえるまで、聴きます。
今、クライエントのいのちを活きている、恒河沙の如来のいのちの響を聞かせていただいているのです。
なもあみだぶつ・合掌
山口依乗プロフィール
北海道帯広市出身。
胎教からお念仏に育まれ、熱心な門徒であった両親の影響で念仏者となる。
27歳から心理カウンセラー・音楽療法士として奉仕活動を続けている。
浄土真宗本願寺派布教使。