ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 たとえば、石鹸。今までは家に帰ってからすぐに手を洗うことなんて至極普通のことで、気にも留めるようなことでなくて、習慣といえばいいのか、とにかく日常のルーティンに組み込まれていることだった。 たとえば、歯磨き。食卓の準備には箸を用意すること。畳を踏む触感。眠るときはシングルベッド。 それらはすべて当たり前で、これからの人生においてもずっと変わらないでいるものだと思っていた。 それが今ではどうだ。 なにかよくわからない名前のついた香りの、おしゃれなボトルに入ったハンドソープ。歯ブラシが2本、同じコップに並んで立てかけられていること。食卓にはナイフとフォーク。つるりと冷たいフローリング。自分以外の体温を感じながら、広いベッドで眠ること。 不思議なことに僕の変わらないはずの生活はまるっきり変わってしまって、それはどう考えてもある一人が変えたもので、そしてなにより不思議なのは僕自身が作り変えられたことをまんざらでもなく思っているということだ。僕はそれが嬉しくて、日常のすぐそばに彼の気配がすることを心から愛おしく思っていて、本当に幸せだったのだ。 彼が僕を愛していないことを除けば。*** 僕はヴィクトルのことが好きだった。いや、だったというのはおかしい。今でも好きだ。好きにならなければよかったと何回も何回も思ったけど、どうにもこの恋心は消えてくれる気配がなくて、そのうち僕は諦めた。彼を諦めることを。ここでいう好きとはもちろんそういう意味で、要するにセックスしたい好きってこと。いや、別に恋愛がすべてセックスに結び付くとは思っていないけど、僕の好きはひとりでするときに彼のことを思い浮かべるような好き。自分でも最低だと思う。 でも、だって仕方ない。僕はずっと彼に憧れていて、神様よりも神様みたいに思ってて、そんな人が突然目の前に現れては僕をグランプリファイナルで優勝させるとか言い出して、つきっきりで僕だけのコーチとして毎日そばにいてくれて、結果的に優勝できなかった僕のコーチを自身も選手を続けながら兼業してくれることになって、挙句の果てにはロシアの彼の家に――本当にプライベートな空間に、僕という異物を組み込もうとしてくれるんだから。まったく、僕は前世で一体どれだけの徳を積んだのだろうか。 はあ、と僕はひとりため息をつく。世間一般の女の子たちからしたら、恋している相手、とくにあのヴィクトル・ニキフォロフと一緒に暮らせるとはなんて幸せなことだろうと思うだろう。実際僕も幸せだ。だけど、だけど何度も思う。彼に恋してなかったらよかったのにな。この恋が石鹸の泡みたいに消えてくれたらいいと思った。そうして排水溝に流し込んで、綺麗さっぱりなかったことにするのだ。そしたら僕はもっと純粋に、悩まずに彼と過ごせただろう。 恋は罪悪だ、とどこかで聞いた。まさにその通りだ。恋は罪悪だ。たしかその言葉はそういう意味ではないけれど、僕にとって恋が罪悪だと思う理由はひとつだけ。人間をより欲深くしてしまうから。もう十分与えられているのに、もっともっと欲しくなってしまうから。 「勇利」 「え、あ、ヴィクトル?」 「どうしたの、ぼうっとして。何考えてたの?」 考え事すると勇利はジャンプ失敗するから、リンクの外でやったほうがいいよ、と彼は笑う。そして僕の肩に腕を回す。出た、スキンシップ。これも僕を悩ます原因の一つだ。 「今日の夕ご飯かな。ヴィクトルは何がいい?」 「勇利随分余裕だね~? そうだな、久しぶりに和食が食べたいな」 この前買ったショウユでさ、とヴィクトルはいい思い付きをしたという風に嬉しそうに言った。 「和食ね。いいよ」 家事は分担制。火、木、土が僕の番。交互にご飯を作るのはけっこう楽しい。お互いアスリートだから、栄養バランスにも気を遣えるし。彼との同居生活はおおむね好調だ。僕が彼を好きで、彼が僕を好きでないという事実さえなければね。 練習を終えたら一緒に家に帰る。ヴィクトルの家はリンクから歩いて15分。なかなか立地のいい、きれいで広いマンションだ。ヴィクトルのことだからどんな豪邸に住んでいるのかと思ったけど、1人きりでだだっ広い家に住むのは嫌らしい。セキュリティがしっかりしてて、コンシェルジュサービスなんてものもついてるくらいだからきっと安くはないマンションなんだと思う。というかマンションにしてはほんとに広いし。だからこそ僕がひょいと転がり込めたわけなのだが。 「ただいま~」 「ただいまマッカチン。いい子にしてた?」 わんっ、と元気な声をあげてマッカチンが駆け寄ってくる。ヴィクトルはその毛並みをひと撫ですると、僕のコートをするりと脱がせ、自分のコートと一緒にハンガーラックへかけにいった。その間に僕は手を洗う。ポンプから出されるふわふわの泡。ごしごし、ざーっ。体調管理もアスリートの仕事のうちなので、手洗いうがいは欠かさない。僕の手の汚れを吸い取って石鹸の泡が流れ落ちてゆく。石鹸はいいなあ。全部きれいにしてしまえるから。僕にはとうてい無理そうだ。 いけない、いけない。無機物を羨ましがるのは落ち込んでいる証拠だ。今日の僕の調子は悪い。自分でもなんで今日はこんなに落ち込んでいるのだろう、と不思議に思いながらキッチンに立ち、夕飯を作っていく。和食ってリクエストがあったから、かれいの煮つけとかどうだろう。ヴィクトルは意外と渋い日本食が好きだから、気に入ってくれるかもしれない。こっちにきて日本と変わらない魚が食べられることは本当にありがたいことの一つだ。考えてみれば、日本のスーパーにはロシア産の魚が並んでいるのだから、当たり前と言えば当たり前だが。 そうそう、なんだっけ、今日の僕が落ち込んでいる理由だ。きっとあれだろう、あのゴシップ誌。よくある話だ。ロシアの有名女優との熱愛報道。そんな事実がないなんてことは一緒に住んでいる自分が一番よくわかってる。だけど、彼女は一体どんな付き合いなのか、どうして一緒にいるところを写真に撮られたのか、僕はそんなことを聞ける立場ではない。何より嫌なのはその記事に優越感を感じてしまう自分自身だ。あなたはパパラッチされたかもしれないけれど、彼の家に上がったことはないでしょう。彼と同じシャンプーで髪を洗って、同じボディクリームを使って、体の隅々から同じ香りをさせることなどできないでしょう。僕にはそれができる! 恋人でもないのにね。恋人以上に恋人らしい生活を僕たちはともに過ごしているのかもしれない。キスとセックスしないことを無視すれば。 十分に煮え立った鍋の火を消しながら思う。僕たち、セックスすればいいんじゃないの? そうしたら世の恋人たちが行ってること、いやそれ以上のことをしていることにならないだろうか。というかそろそろ僕が我慢の限界だ。彼が欲しい。夜な夜な彼と眠るベッドを抜け出してはひとりでするのに耐えられない。最近は男同士のやり方も調べて少しずつではあるが後ろを解している。今では2本入るようになった。決して気持ちよくはない。だが、男である自分が男を受け入れるために準備をしている、しかもその男と眠ったあとに! この事実がどうしようもなく僕を興奮させる。ふふ、僕って変態だな。 いけない、食事を作りながら考える話題ではなかった。ヴィクトルは僕がこんなこと考えながら料理をしているなんて夢にも思っていないんだろうなあ…。そう考えると、おかしいやら、かなしいやら、もうなんだかわけのわからない感情が僕を支配した。僕がどんなこと考えながら料理してるかなんて、ヴィクトルは考えたことないだろう。僕はいつも考えてるけど。ヴィクトルが何を考えてるのか。 10分ほどで火を止めて余熱で煮詰めたら完成だ。心なし綺麗に盛り付けできたほうはヴィクトルのもの。コップとお箸はヴィクトルがすでに準備しているから、あとはこのお皿を持っていくだけ。それで今日のご飯は完成する。 「いただきます」 「イタダキマース!」 ヴィクトルは外国人のくせに箸使いがとても綺麗だ。どこで学んできたんだろうと思う。彼の食べる姿はうつくしい。丁寧に骨から身をとりわけ、かたちのいい唇に運ぶさまが息をのむほどうつくしくて、僕はいつも見とれてしまう。 「ねえ、ヴィクトル」 「なんだい?」 やっぱり和食でよかったな。ナイフとフォークを使う彼の姿も大好きなんだけれど、やはり自国の食器を当たり前に使う想い人の姿にときめくのは仕方ない。僕も食べ始めなければ、と無理やり視線を手元の皿へと戻した。 「僕とセックスしてみない?」 がちゃん。音がした。何事かと思ってヴィクトルのほうを向く。今の音は…彼が箸を落とした音だ。その事実を目で見て初めて、自分が何を口走ったのかということに気づいた。 「え、え、まって、ヴィクトルちがうの、これは」 「今夜」 ヴィクトルはなにか苦いものでも吐き出すように僕の言葉を遮った。 「今夜、お前を抱くから」*** 柔らかな朝日が差し込んで、僕は呻きながら目を覚ました。……昨夜はひどかった。僕は体の痛みを和らげるべく軽く伸びをして、隣で眠る男を恨めし気に睨んだ。最後のほうは意識がなかったが、どうやら後始末はされていない。体にまとわりつくべたべたとした何かよくわからない体液を洗い流すべく、僕はシャワールームへ向かった。 昨日の彼の僕に対する扱いはひどかった。 僕が少なからず期待してしまったのもいけなかったと思う。だって期待してしまうだろう。自分が口走ったとはいえ、ムードもへったくれもなかったとはいえ、セックスしよう、の言葉にいいよ、と応じられたのだから。僕は好きって言ってないけれど、もしかしたら伝わってたのかも、なんて。そんな自分の都合のいいように考えてしまったのは仕方ないと思う。ただの性欲解消の相手、セフレって可能性は考えなくもなかったけれど、僕の知るヴィクトルはそんな扱いを僕にする男ではない。想像したくもないけれど、きっとそういう時はそういう仕事の女の人にお願いするんだろう。 だから、僕は嬉しかった。どん引かれて嫌悪されると思ったのに、いいよって言ってもらえたから。嫌いな相手とセックスしようなんて普通思わない。応じられたってことは、僕のこと少なくとも嫌いじゃないんだって思った。いや、嫌いじゃないことなんて前からわかってたんだけど、少なくとも彼は僕のことを性的な対象として見ることができるんだって嬉しくなった。実際彼のは勃ったし。自分で言うのもなんだけど、僕はヴィクトル以外だと男相手に勃つとは思えない。 だけど、彼はひどいことをした。 すぐにでも挿れられるように後ろの準備をしてきた僕を、下卑たものをみるかのような冷たい目で見やって、ぶっきらぼうに愛撫を施した。あれを愛撫と言っていいのかわからないけれど。悲しいことに、僕はどうやらそっちの気があるようで、好きな男からもたらされるものなら多少の痛みでも快感ととらえてしまったから、彼は余計に僕を軽蔑したようだった。胸の飾りを乱暴につまみ、引っ張り、こねくり回されて、その一つ一つに涙目で嬌声を上げてしまい、自身の先端から蜜をしとどに溢れさせた僕を見て、彼は吐き捨てるようにこう言った。 「そのいやらしい体で何人の男を咥えこんできたの、ビッチ」 僕は絶句した。何も言えなかった。そんな、まるで僕が尻軽女みたいなこと。僕にはヴィクトルしかいないのに。そう言っても彼は信じてくれなかった。 「俺だけだって? それと同じこと、今まで何人に言ってきたんだい。勇利にはがっかりしたよ。清純だと思っていたのに、まさかこんなにビッチだったなんてね」 ビッチ。昨夜の間だけで何回そう言われたかわからない。 「まあ、清純だと勝手に思い込んでいたのは俺が悪いけれど。今日は覚悟しておきなよ、今までの男のように優しくなんかしてやらないから」 そう言うと彼はそそり立った彼自身を僕の咥内に突っ込むと、受け手の僕のことなんかまったく考えていませんよ、と言いたげな腰使いで僕の中に精を流し込んだ。吐きそうになった。ヴィクトルのじゃなかったら飲みこむことなんてできなかったと思う。今でもこの腹の中に男の精液が入っているのかと思うと気分が悪くなってくる。何度も言うが、ヴィクトルのじゃなかったら今頃僕は死を選んでいる。まあ彼の腰使いは、どう頑張っても飲み込むしかないよう強制させるものだったのだが。 しかも困ったことに、その間に僕は一度いってしまった。恥ずべきことに、乱暴に扱われていることに興奮してしまったのだ。触られてもいないのに。本当にいやらしい体だと思う。知らなかった。自分がこんなにいやらしかったなんて。 「なに、乱暴にされていっちゃったの? ほんとうに淫猥だね」 そのころにはもうすでに、返す言葉も、体力も、ついでに言えば気力もなかった。ヴィクトルの触れ方はぶっきらぼうで乱暴なくせに、どこか壊れ物を扱うように繊細なのだから、それだけで僕の体はどろどろに溶かされてしまっていた。 そうして何度も彼の手によって頂点まで昇りつめさせられて、後ろがじんじんと彼自身を欲してたまらなくなったときも、彼は僕の中に挿れようとしなかった。彼自身だって、腹につくほど反り返っているくせに。僕が恥を忍んで、いれて、おねがいと頼み込んでも、彼は決して挿れてくれなかった。「なんで」 僕はぜえぜえ言いながら喘ぐように呟いた。 「どうして、挿れて、くれないの。あなただって苦しいくせに」 「なんでかって?」 彼は今まで見たこともないくらい冷たい表情をして言った。 「だってお前はこれが欲しいんでしょ? でも絶対あげないよ、このビッチ」 そうして甘い顔したら男が言うこと聞くと思ってるんでしょう? 僕はかなしくてかなしくて、涙も枯れるほどに泣いた。 そうして彼は僕を手ひどく扱って、僕がもうやめて、でないからって言ってもやめてくれなかったくらい僕のことをいかせたくせに、自分は僕の口の中と、一度だけ自分で擦って外に出しただけで、僕には触れさせてもくれないまま情事を勝手に終わらせた。そして意識のない僕を放置してシャワーを浴びて、シーツを取り換えて眠ってしまった。 なんてひどい男だろう、と思う。でも一番ひどいのは自分なのだ。それすら、そんな冷たい手すらも触れられることをこの体はあさましく喜んでしまうから。きちんと順をたどって、好きだってことを伝えずに、体の手段に頼って彼を自分のものにしようとしたから。だからいけないのだ。シャワーを浴びて、なにかよくわからない名前のついた香りのボディソープが僕の体にまとわりついた体液を洗い流すのを見て思う。この泡くらい真っ白な気持ちだったらよかったのかな。体はいくら汚れても、石鹸で洗い流せるからいい。でも心は、彼の中の僕の印象は、一度汚れてしまったらきれいになるのは難しい。いい香りだと思っていたこの家の石鹸の香りを嗅ぐのが、今は妙に辛かった。