おじさん!あたしのおむこさんになりなさい!  

 縁があって養子にした、顔も見たことがなかった遠縁の少女。彼女のマイブームは夫婦ごっこのようだ。八つにしては、ませている。
「おじさん! あたしのおむこさんになりなさい!」
 時は晩夏。もうそろそろ学生は夏休みの宿題に追われる頃合い。
 由紀子も夏休みの絵日記をやっていたかと思うと急に顔をあげ、こじんまりした定食屋に子供特有の澄んだ声を鳴り響かせた。
 由紀子の近くにいたカウンター客はもちろん、テーブルの晩酌常連組もぽかんと呆気にとられ、直後大爆笑の波紋が広がった。現実の波紋とは違ってなかなか収まる気配を見せないそれを聞きながら、総二はため息混じりに返事を投げた。
「あーはいはい」
 おざなりな言葉を拾い上げ、鬱陶しくカウンター客が絡んできた。彼が手にした安物のグラスに、泡の消えたビールが危なっかしく揺れる。
「総二サンも隅に置けないねー、こんな可愛い子をさー」
「馬鹿言ってんじゃない。ゆっこはまだ八つだぜ、冗談きついわ」
「もうあたしはりっぱなレディです!」
「だってよー!」
 酔っぱらいが無責任な声をあげたせいで、そうだそうだと賛同の声があがる。
 いつの間にか、由紀子ちゃんはどれだけ可愛くていい子で今時の子なのにいかに挨拶ができるかという、養父そっちのけで由紀子自慢大会になっている自分の店を見て再度息を深く吐き出す。
「うちは居酒屋じゃねえんだぞ……」
 近所で定食屋といえばここ、料理もうまいし酒もある、という太鼓判を押されている「せせらぎ」。小さいながらも独力で築き上げた総二の城である。
 清涼感あふれる店名とは裏腹に、集まってくるのは主に近所のやかましい馴染み客たち。
 リピーターも多く、人情味あふれるのはよいことなのだが、あふれすぎるのも困りものだ。
「しかしゆっこちゃんは『お嫁になる』んじゃなくて、総二サンを婿にするんだな」
「だってそーくんはおヨメさんはいらないって言うんだもん。だったらおむこさんでしょ?」
 そーくん、おじさん、そーじおじさん、そーちゃん、そーおじさん。
 由紀子は気分によってころころ呼び名を変える。由紀子に始終振り回されっぱなしな総二を象徴しているような習慣ではあるが、それも悪くないなと思う自分がいることを総二は自覚していた。
 由紀子の答えに、そっかー、ゆっこちゃんえらいなー、という生暖かい声が次々あがる。
 酒の酔いが回っている面々も、絶対に「嫁」という言葉は口にしない。
 総二は女運が超絶に悪い。由紀子を引き取る羽目になったのも以前の婚約者が原因だった。ご近所ではかなり話題になったから、毎夜飲みに来る面子は知っている。
「煽らないでくれよ。大体歳の差いくつだと思ってるんだ」
「総二サンがよんじゅう……に? で、ゆっこちゃんが、はち、か。さんじゅーよん歳差ね! いけるいける!」
 呂律のまわっていない口でほざいた八百屋の親父がカウンターに突っ伏した。
 突っ伏したいのはこっちだよ、と注文されていた枝豆を盛りつけながら心の中で文句を言う。
「はい枝豆お待ち。ゆっこもその辺にして、宿題終わったならもう寝ろ。夜更かしするとお化けがくるぞ」
「……はーい」
 ふくれっ面で、それでも由紀子は絵日記帳をたたむ。
 ぶらぶらしている膝をきゅっと固定し、由紀子がもう三分の一程入りそうなカウンター下の隙間に足をおろす。ぐっ、と椅子を両手で掴む気配に周囲が固唾を飲む。
 手伝おうとした常連を笑顔と首振りで制止して、由紀子は見事に着地を決めた。
 オリンピック選手の金メダルが決定したような拍手が沸き起こり、由紀子は嬉しそうに手を振って応えた。
 手の届かなくなったカウンターに置かれた絵日記帳を、今度こそと手助けした常連に花の咲いたような笑顔を向ける。
「ありがとうございますっ」
「いえいえどういたしましてー」
 相好崩れてるぞ。
 総二は指摘できない言葉を飲み込んで、この客は独り身ながら大企業の部長だったことを思い出してなんとも言えない気分にかられた。
「歯磨きするんだぞー」
 定食屋の二階は住居になっている。厨房の横から続く階段をとんとん登っていく由紀子に声をかけると、うーん、という生半可な返事がふわふわ落ちてきた。
 直後、登る時の倍速で降りてきた由紀子が階段隠しののれん、そのはるか下から顔を出す。
「そーくんおやすみなさい!」
「おう、おやすみ」
 挨拶できて嬉しかったのか笑って再び階段をあがりはじめた由紀子に、大企業戦士がしみじみと呟いた。
「大きくなったなあ、ゆっこちゃん」
「まだ一年経ってないけどなあ」
「そりゃあんたは毎日身近にいるからさ。いいねえ、総二さん。子供がゆっこちゃんで」
 子供がいてよかったね、とは言わない。
 総二は気遣いと温かさを内包した言葉に、枝豆を盛った皿を突き返した。
「ん? 総二サン、頼んでないけど」
「頼んだだろう、さっき」
 素直にありがとうと言えるならおそらく実子がいただろう総二の性格に、戦士は笑いをこぼした。
「そうだったね。ありがとね」
 一人への贔屓ではないことを自覚している客一同は、その行為に気づきながらも何も言わない。
 心地良い温かさに包まれて、定食屋せせらぎの夜は更けていく。