心無圭礙(しんむけいげ)わだかまりと「空」の気持ち

 人間の心はどうしてこうも弱いのだろうと情けない気持ちになることがよくあります。このようなことは多分私だけでなく、多くの人に共通していることだと思います。さらに弱気になってしまうのは、五十路を過ぎても少しも成長しない自分の姿を見る事ほど情けないことはありませんし、さらにこの状態は絶望感に近いのではないかと思うことが多々あります。

 

 過去に失敗したことを嫌と言うほど味わっているにもかかわらず、また同じ失敗をしてしまう自分がいます。そしていつも悔やんでばかりいます。このような状態にあるときは心にわだかまりがある時で、いつも心のどこかにそのことが引っ掛かっているのです。

 

さらにどうでも良いようなことをずっと考えてしまいますが、時間が経つとともに忘れてしまい、また元の状態に戻るのです。この繰り返しが私の人生そのものであると、情けない話ですが最近特に思うようになりました。

 

 一方で歳をとるにつれて自分の本質がだんだん分かるようになってきました。若いときは何でもチャレンジすれば道は開けるとの熱い想いがあったので、何とか物事を前に進めならここまで来ました。

 

 さらに自分の終着点がほぼ見えてくる年齢に達する頃までには、必然的に世の中の裏の話や人間の醜いものも一応経験し本当の姿が分かってきます。人間の愚かさや弱さ、さらに煩悩に支配された人間の生き様が感じられます。

 

 このような状態になって最近感じていることの中で、不思議なことがあります。それは、たとえ物事に対して怒っていても暫くすると心の中からそんなに怒ってどうするの?怒ってもなにも変わらないし、自分自身がそのような心の状態を続けていること事態意味がないような感じを持つようになりました。

 

 そして自然と許す気持ちが出てきます。人に対する寛大さあるいは優しさとでも言うのでしょうか。自分でも不思議なくらいに素直な気持ちになります。この辺の気持ちの変化は、歳をとってから出て来たもので若いときにはなかったものです。しかし、決して物事に対し諦めたという訳ではないのです。

 

 無限の可能性から命という有限の世界が分かると、自ずと命の大切さやそれを大切に思う心が芽生えてきます。また、自分の失敗に対してわだかまりを持ち続けることに対しては、時間という解決策により心を解き放つことが出来るのですが、この時間をコントロールすることが非常に難しいと思います。

 

 短い時間にわだかまりから解き放つことが出来るようになれば大したものですし、この状態が般若心経等で著されている「心無圭礙」であり、もっといえばこの状態が「空」の状態だと思います。

 

 もっと前から仏教の精神というか教えを学んで生きていれば、明らかに今の自分と異なった人生が送れたような気がしています。しかし、このまま仏教を学ばずに人生を終えなくて本当によかったと思います。そのような意味から、私にとって仏教との出会いは限りある命の下で生きるひとつの救いでもあります。

 

 今後の生き方として、「心無圭礙」で著されている心からわだかまりを解き放ち、本来の「空」のこころを持つようにすることが大切だと思うこの頃です。また情けない話ですが、五十路を過ぎてもまだまだ精神的に子供だと改めて反省しています。


人としての逝き方

 先日立て続けに職場の方に不幸があり、それぞれの葬儀に参列しました。今年還暦を迎え
る身である自分にとって、人としての死は以前に増して身近に感じる出来事になってきまし
た。また、凡夫の愚息に言わせると、「親父はすでに自分の棺桶に片足を突っ込んでいる状
態じゃないの」と、とても息子の言葉とは思えないような発言が出だしている時期でもあり
ます。

 

 確かに還暦を迎える年となれば、自分の身にいつ最悪の事態が生じても動じないような覚
悟をもって生きていかなければならないと思います。確かに頭の中ではそのように整理され
ていますが、煩悩で溢れている心のなかは、欲望で埋め尽くされているのが凡夫の悲しいと
ころでもあります。

 

 しかし凡夫なりに仏教を学びそして可能な限り日頃から仏教に接する努力をしています。
毎晩寝る前には般若心経を唱えその日の反省をするようにもなりました。このような行動を
続けていると、自然に仏教の教えが流れるように入って来る気がします。実際には何も変わ
らないのですが、勝手にそのように思い込んでしまう自分に苦笑してしまいます。

 

 仏教関連の本を読んでいますが、仏教はインド、チベット、中国、東南アジアの場所によ
って考えや教えが異なっています。ましてや中国から朝鮮を経由して入ってきた日本での仏
教の生い立ちもまた異なっています。素人なので本格的な仏教の研究をするわけでもないの
で、より多くの関連の本を読みながら仏教の奥の深さを感じながら、生き方の参考にしてい
ます。

 

 仏教を通じて自分として変わった点は、今まで以上に人に対する優しさが持てるようにな
ったことだと思います。まさに慈悲の心です。しかし、まだ怒りのこころは消えません。自
分にとって面白くないことに対しては怒りを感じるのが普通ですが、この怒りの心が最も悪
いのです。如何にして怒らないようにするかが、人にとっての最も大きな修行ではないかと
思います。

 

 ついつい何でこの人は誤った方向に進んでしまうのかと勝手に決めつけて対応してしまう
ことがありますし、自分の考えを押し付けてしまうようなことも多々あります。そして冷静
になった時に、あのような行動をとらなければよかったと思うことはこれまでに山のように
ありました。しかし、反省してもすぐに行動に結びつかないところが私のような凡夫の悲し
い性だと思います。

 

 今回葬儀に参列する際に時間を見つけて盛岡にある報恩寺を訪ね、羅漢堂に納められてい
る大仏盧舎那仏像や499体の五百羅漢像を拝顔しました。堂内入った瞬間にその空間に漂
うエネルギーのようなものを強烈に感じ、圧倒されました。久しぶりに心が洗われた感じを
受けました。

 

 良い人ほど早く逝くといわれていますが、私のような凡夫はこれからも悪行を続けながら
生きて行かなければならないような気がします。代われるものであれば早く逝く方と代わり
たいと思いますが、両親より早く逝くのはこれまた親不孝なので、せめて両親を見送るまで
は少しでも善い行いを続けたいと考えています。 合掌


小さな事をコツコツとひたすら真面目に生きること

 人間には生まれついた宿命というか、自分の力ではどうしようもないことがあるものだとこの齢になって認識するようになってきました。若いころは、この世に生まれたものは真面目に努力していればいつかは救われると思っていましたが、最近はそうでもないような気がして来ています。

 

 いくら頑張っても出来ないものは出来ないし、反対に自分でも不思議なくらいに余り苦労せずに出来てしまう事があります。これはいったい何なのだろうと考えますが、所詮、凡夫の浅はかな考えでは到底結論が出るものではなく、最後はまぁいいかといった諦めに似た状態で満足してしまいます。

 

 しかし、最近これでは人間としての成長が無いなぁと考えるようになり、どのようにしたら少しでも人間として成長できるのかと、考えた時に浮かんだ結論が、今回の標題に現わした「小さな事をコツコツとひたすら真面目に生きること」なのです。

 

 人間は例えその進み方が遅々としていようとも、コツコツと取り組む行動の中にから、大きな力が湧いてくるような気がしています。ただ頭の中で考えているだけの状態では、前に進みません。

 

 自分の手や体を動かすことを通じてその小さな行動の結果が積み重なり、ある時その力が自分を大きく動かすことに繋がると思うようになりました。その力は、自分自身の中にある「仏性」ではないかと思っています。

 

 仏教では、人間でも動物でも植物でも道端の石ころにも仏性があると考えています。自分では気づかないもう一人の自分の姿が仏性なのです。さらに、素直になればなるほどこの仏性に近づく事が出来るのです。この辺の考え方が他の宗教にないものであり、自分としても素直に仏教を受け入れられる大きな魅力だと思っています。

 

 生まれながらにして頭脳明晰で、若いうちから世間で脚光を浴びて活躍している方が多くいます。当初は羨ましくもあり出来ることなら自分も少しでも近づきたいと思った事がありましたが、凡夫には所詮無理なことが分かりました。

 

 それは決して負け惜しみでなく、個々の人間には個々に与えられた役割があることに気がついたからです。全ての人が先のように世の中で脚光を浴びる人間ばかりでは、世の中が成り立ちません。同じ人間でありながら世の中には階級や職業がさまざまあって、それで社会が上手く構成されているのだと思います。

 

 古くからあることわざで「箱根山 駕籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草鞋を作る人」がありますが、正にこの考えで社会が成り立っているのです。この考え方から行くと、凡夫は草鞋を作る人に当たると思います。

 

 ただここで忘れてはいけない事は、それぞれの立場での自信やプライドだと思います。このような想いがなく、ただ何かを行っているのでは意味がないと思います。自分に合った仕事があればそれは幸せだと思いますが、現在携わっている仕事が自分に合っていないのであれば、それは少し不幸かも知れません。

 

 しかし、昔から「石の上にも3年」というように、最低でも3年ほど同じ仕事を行うとそれなりに自信を持てるようになるのが普通です。この段階でも真面目にコツコツ行う事が重要だと思います。

 

 これらの努力が必ず成果となって現われることを一度でも経験すると人間はより大きくなり、さらに成長するための次のステップに進むのです。継続は力に繋がります。

 

 この不景気で先が読めない時代ですが、毎日小さな事をコツコツとひたすら真面目に生きることを通じて、人間的に成長し心豊かな人生を過ごす事が、釈迦が教える人間としての正しい道ではないかと最近考えています。

「小さな事をコツコツと」は凡夫が好きな言葉です。 

 

 この齢になると、いろいろ想うことがあります。昔の年寄りは口うるさい人が多くて嫌いでしたが、まさかそのような年寄りと同じような考えを持つように自分もなってしまったことに、驚きと不思議さを感じています。

 

 最近特に感じることは、人と人とのコミュニケーションが非常に少なくなってきたことに危惧を感じています。何も言わないでいることが良いとするような風潮が特に強くなってきていると思います。例えば満員電車で人の足を踏んでしまった時であれば、素直に非を認め謝るのが普通ですが、最近は踏んだ者より踏まれた方が悪いような感じさえ受けます。

 

 何故このような状況になってしまったのかを考えてみると、携帯電話に象徴されるような個人主義にその原因があるような気がしています。電車の中での光景ですが、昔は新聞をひろげたりや読書をする人が殆どでしたが、いまは多くの人が携帯電話を片手にメールをしたりやインターネットから情報を入手したり、あるいはワンセグTVを見たりと、携帯電話が中心となっている行動様式になっています。

 

 このように携帯電話は個人を中心としたコミュニケーションをより強くする力を持っています。現在は、昔のようにある個人とコミュニケーションする際に間に他人が入らずにその個人と直接出来るようになりました。ある面では非常に便利になりましたが、反対に人と人との間の礼というべきものが失われ、全てが友達感覚に陥ってしまっている感じを受けます。

 

 個人と親しくなる事に異論はありませんが、たとえ親しい者であってもその間には、守るべき慣習があると思います。これなくして、単に友達感覚で付き合うのは問題です。このような状態では本当の友情を作り上げることが出来ずに表面的な関係で終わってしまいます。

 

 何事も簡単に出来てしまうものから得るものには限界があり、量的にもまた質的にも少ないものです。ある程度の苦労を伴うからこそ、その結果として得るものが充実するのが正しい考え方です。

 

 汗や涙や悩み、さらに心の痛みなしの個人の行動から得られるものが、大きなものであるのであれば、それは偽りのものであり、あってはならないものだと思います。全ての行為には人としての努力が必要なのです。

 

 法然が開祖となった浄土宗や親鸞が開いた浄土真宗では、どのような者でも念仏を唱えるだけで仏になれると説いています。当時の既存宗教からは敵対視されたようです。確かに念仏だけを唱えれば成仏できる教えには批判が集まり易いように思えますが、鎌倉時代の庶民の暮らしは現代の生活と比べると雲泥の差があります。

 

 すなわち、これらの時代背景を考えると、その当時の人々は生きる事それ自体が大変なことだったと思います。ですから法然や親鸞は、苦労している者を救う道を考え広めたものと個人的に考えています。

 

 これらのことと、今我々が生きている現代の生活レベルを考えるとどうでしょうか。確かに世の中は二極化する傾向がさらに強くなってきています。よって弱者を助けることは重要なことですが、本当にそうなのかということを考える必要があります。

 

 助ける前に、まず人間として行うべきことを確実に行動することが大切なのです。このような行動をとっている人には暖かい手を差し伸べる必要があると感じます。またこのような心があっても、実際に生きていく際に出来ない人も中にいます。

 

 まず心があれば良いと思いますが、その判断は非常に難しいと思います。これらを可能とするには、仏の心を持った人に判断してもらうしか凡人には成す術がありません。

 

 親鸞はどんな悪人であっても成仏できると言いきっています。凡人の私には、まだ理解出来ないレベルの教えです。理解出来るまでは自分の考えを大切に、また他の人の意見を謙虚に聞きながら、さらに自分の考えをブラッシュアップするしか凡人には生きる方法はありません。何事もその事実や事象を直視し、その中から自分なりに考えをまとめ、より良い方向に進むように対処するのが、今の自分の状況の最良な方法だと理解しています。

 

 電車の中で携帯電話で何かの行動をしている人々が、意味のある行為をしているのであれば良いのですが、いまの日本の状況や社会で起きている事象を見ていると、安易に流れてしまっている感じがあり、とても心配です。

 

 もっというなら日本の国が危ないと思います。危機感を持つ人がもっと多くなるべきですし、自分も微力ながら何らかの力になりたいと思っています。皆さん!日本の国を救いましょう!!そのためにはもっともっと個人レベルで切磋琢磨し、己を高める必要があると思います。人間は一生修行なのです。すなわち生きること自体が修行なのです。

 

 個人的に禅に関しては興味があり、今までに関連の本を読んでいましたが、最近道元の言葉をまとめた文庫本「道元「禅」の言葉」が発刊されたので、早速読みました。

 

 今回のこの本を読んで少し禅に関して整理が出来たことは良かったと思います。釈迦が説いた仏教ですが、時が流れる間に仏教もいろいろな考えや教えが生まれ変化しながら今日まできています。

 

 今回の本を通じて、仏教を学ぶ事(すなわち自分自身を分かること)に関する考え方に関して、いままで自分が考えていたものと少し異なっていたことが分かりました。

 

 自分にない知識や知恵や常識を自分以外の他者から学んで知ることを「学知」と言いますが、道元禅師が著した「正法眼蔵」の中で述べているのは、仏教を学ぶことはこの外に求める「学知」ではなく、自分の中にあるものを学ぶことだと説いています。

 

 一歩外へ出て学ぶのではなく、一歩自分自身の中へ入り込むことだと言っているのです。この世の中を含む全宇宙に存在するものには、それが石であれ花であれどのようなものにも仏性があり、深く自分を見つめ考えることにより光明が得られると言っています。すなわち自分の中に知があると言っておりこれを「生知」と言うのです。

 

 これまで、未熟な私は少しでも良くなる方法を常に外に向けて模索し、役に立ちそうなことを模倣しては自分を改善してきましたが、最終的には自分を深く見つめて考え、真理を求める行為を通じて、限りなく崇高な世界へ到達することが出来るのです。

 

 確かに自分自身で苦しんで苦しんで涙を流しながら越えてきた根底には、最後は自分しかいないという考え方があり、それに向かって長い道のりをたどりながら最終的にある状態に到達できるような気がします。

 

 これらの背景には、自分の能力が無くて深い悲しみの中で涙を流しながら過ごした時間が非常に大切であることがわかります。このように涙を思いっきり流したあとの清々しさは、経験した者だけが知ることだと思います。

 

 最終的には、自分自身の中で何かしらの解決ができる力を誰もが持っていることを仏教は説いており、素直にそのことを実践することが重要なのだと思います。このような行為を通じて、何か分からないけれど大きな力やエネルギーが得られるのです。

 

 自分と宇宙は一体であるということが素直に受け入れられるのであれば、その人は限りなく釈迦の仏教の教えに近づいていると思います。これらの考え方は、「灯台下暗し」に近い考え方で、本当に求めるものは自分自身の中にあるのです。

 

 求めるものが全て自分自身の中にあるということから、自分を他人と比較することなく自分の道を進むことが大切なのだと思うようになりました。若い時にこのような考え方が出来たのであれば、今の自分はもっと違った人生を歩んでいたと思いますが、このように悩みながら進む人生が、私の人生だと素直に思える心の安らぎが最近もてるようになりました。

 

 これも仏教を学んだお陰でした。この点から考えると「学知」も重要なのです。ただし、最後は「生知」なのです。 合掌

 


知ることと理解する悦び

 50年以上も生きている中で、恥ずかしいことですがこの歳になっても知らないことや分からないことが沢山あります。また知っているつもりになっていて、ふと自問自答した時に何故そうなっているのかが分からないことがよくあります。そんな時、自信がなくなり情けなくなるとともに落ち込んでしまう事があります。

 

 誰にでもこのような経験があると思いますが、その後どのようにしているのでしょうか。仕方がないことだとただ諦めるのか、あるいは何らかの努力をして少しでも理解するようにするのか、なにも考えずに過ごすのか、いろいろな対応方法があると思います。一般的に知らないほうが幸せだとよく言われますが、知らなければ確かに悩まずに済むので楽は楽ですが、この状態だといつまでたってもある一定のところから前進がありません。

 

 自分の人生で周りが変化している中で、自分だけ取り残されたように停滞しているのはとても耐えられません。自分の体を構成している細胞ですが、脳細胞を除いてある一定の周期で生まれ変わっています。肉体が生まれ変わるのにその肉体に宿っている精神が変わらないのは、問題ではないかと思います。

 

 ほんの少しでもよいので昨日より今日、今日より明日と変化することが大切だと思い、何らかの行動を起すことが重要ではないかと最近特に感じています。そして行動を起すことが生きて行く上での基本であり、また重要なことなのだと思うのです。

 

 知ることにおいて手っ取り早い手段として、読書があると思います。個人的に往復の通勤時間は3時間と首都圏に通勤する人にとっては平均的な時間だと思いますが、この時間を有効に使うか使わないかによって大きな差が出てくるような感じがします。満員で混んでいる車内ではとうてい読書が出来ないので、このような時間はiPodのモーツァルトを十分に堪能しています。

 

 また、本が読める場合は読書をし少しでも自分が知らない世界を覗いたりまた、いままでの知識をさらに伸ばすために必要となるいろいろな情報を得て、さらに高度化させるようにしています。しかしいろいろな知識を得れば得るほど、さらに分からない未知の世界が開けてくるので、いつまでたっても終わりがない長い道のりが続いているのです。人は、死ぬまで勉強と言われますが、その通りだと素直に思ってしまいます。

 

 例えばモーツァルトに係わる本を読んでいて、モーツァルトが生きた時代の政治体制や貴族の生活、あるいは庶民の生活がどのようになっているのか、さらにこの時代のキリスト教と音楽はどのような関係にあったのかなど、知らないことや反対に知りたくなるようなことが多く出てきます。

 

 その時には、これらのことを少しでも分かるような書籍を探したりあるいはインターネットから情報を入手したりして、ある程度の概要を掴みますがこのような行動をとることによりさらに分からない分野のことや、新たに興味を持ってしまう分野が出てきます。

 

 ですから知れば知るほどどんどん範囲が広くなり発散してしまう傾向に陥ります。しかし、諦めて知る行為を停止させてしまうより、エンドレスになりますが継続的に知る行為を続けるほうが自分の性に合うので、今後も続けて行くつもりです。

 

 この知るという行為のほかに、もっと大切なことは知った事実をどこまで自分のものにするかということが重要であり、言葉を替えればどれだけ理解するかがポイントだと思うのです。ただ事実を知っているだけではあまり価値のないものであり、理解して自分のものにすることが最終的な目的だと思います。

 

 このような努力をして自分なりに理解すると、他人の人に話したり理解してもらうときに短時間で事が済みます。よく他人の話を聞いてよく分からないことがありますが、それは話している人が十分に理解していないことによる結果だと思います。自分でもあまりよく理解していないことを他人に説明する時は自信をもって話すことが出来ないので、結果的に分かり難い説明になってしまい、余計に聞いている人は理解しにくくなるのは当然だと思います。

 

 個人的には知らない事はできるだけ無くすように努力してある程度の知識を持つようにし、そしてこれまでに蓄積した知識を有機的に結びつけて全体の大きな流れの中で一つの事象を理解するような方法がとても有意義であると思っています。単に知るだけでなくさらに一歩上の理解するレベルまで高める努力を常に持ち続けることが大切だと思います。このような行動を続けることにより凡夫であってもさらに上の意識をもった凡夫のレベルになるのだと思います。

 

 話しが飛んでしまいますが、先日私のメルマガを読んでいただいている読者の方からこの凡夫に関してメールをいただきました。結論的に言うと私がメルマガのなかで自分のことを凡夫という表現で書いているのは良くないと言うものでした。その方は謙遜されて言っているのだと思いますが、私よりも低いと決めつけられているようで、その方の方が凡夫であるから私がメルマガの中で凡夫という言葉を使わずに、私や自分という言葉使うようにすべきであるとの忠告をいただいたのです。

 

 この方からの忠告はありがたいことですが、今回の内容にもあるように自分にとってまだまだ知らないことが多く、さらに理解し自分のものにしていない状況にある私は、正に凡夫(仏教でいう煩悩に迷っている人間であり、さらにただの平凡な男という意味からして、今の自分にぴったりだと思っています)だと思っているので、これからも凡夫という言葉で書くつもりです。ご容赦のほど!!

 

 知ることとそしてそれを理解できた時の喜びは、経験したことのある人にしか分からない特別なものだと思います。ある事象のことが自分になりに理解できた時は、頭の中のもやもやがすーと消えて、それはちょうどモーツァルトを聴いているような爽やかな気分になります。


組織の活性化には八方美人とバランス感覚が必須

 人にはいろいろなタイプの人がいます。神経質だったりあるいは超大雑把だったり、何事にも突進する型の人もいれば手広く何事もそこそこに処理をしてしまう型の人がいたり、融通が利かない頑固で堅物のタイプやその反対に誰にでも柔軟性を持って対応することが出来るタイプの人がいます。

 

 このようなタイプの人がある程度混じり合って出来た組織は一見まとまりがない様に思われますが、ある面では団結力があって硬い絆で結ばれ力強い行動がとれる場合があります。常識的な考えの持ち主だけで構成された組織は、ある面でまとまりがあり素晴らしい成果が出そうな感じを受けますが、意外と分裂し易く弱体化した組織になってしまうものです。

 

 昔、新しい組織を立ち上げる仕事に就いたときに経験した教訓は、全て出来る人間だけを集めた組織にすべきでないということです。純粋性や均一性は一見強そうに映りますが、半面でとても弱い面を持っているのです。

 

 反対にちょっと外れた異端児のような感覚の持ち主を入れておくと組織に活力が湧き、いつまでもさらさらと流れる組織が出来上がります。もっと単刀直入に表現すれば、組織を構成する人材が皆同じ色に染まらないような環境にすべきだと言うことです。

 

 全員が同じ色に染まると、その時点で個性が埋没してしまいます。個々の人間がある色を中心として少しずつ異なった表現をする独自の色を出すべきだと思うのです。さらに皆同じような優秀な人材を集めると、必ずといって良いほどその中にある割合で腐って機能しなくなる人間が出て来るのです。

 

 玉石混淆という言葉がありますが、このを考えを取り入れた組織にすべきと思います。ただし、この玉石混淆ですがただ混じり合わせればいいというものではありません。何らかのきっかけを起さずにそのままの状態をずっと続けるだけでは組織の活性化は進みません。

 

 玉と石という相反する対極にあるものは当然のことですが、自然と反発する関係になるのが順当な流れです。この微妙な力関係の調整を行う時に役に立つのが、八方美人的な役目をする人材です。八方美人とは、だれに対しても如才なく振る舞う人で、一見悪い代表のように思われる方が多いようですが、人間よくよく見つめなおしてみると心のどこかで誰もが八方美人の願望や要素があるのではないかと思います。

 

 いろいろなタイプの人で構成されている組織では、これらの人間の間において円滑な調整が出来るか出来ないかによってその組織が活性化するかあるいは停滞するかが決まります。組織をまとめあげる人材を早く見出し、八方美人的な調整行動を行いながら組織内のベクトルを合わせ、然るべき方向にまとめ前進させることがどうしても必要となります。

 

 組織をまとめなければならない立場にある人であれば、自ら八方美人になるかあるいは側近のもので八方美人的な行動をとれる人材を見出し、行動させることが必要です。組織も男と女でも微妙な緊張感や緊迫感さらに危機感のような環境を設定する必要があります。このような微妙な環境が出来ていると、組織でもまた男女の関係でも不安定の中に安定な状態を維持する事が出来るのです。

 

 すなわち、あらゆる要素の間で如何にしてバランスを取りながらコントロールするかが大きな問題となります。簡単に言えば絶妙なバランス感覚を身に付けて行動することが求められるのです。ある一方だけに片寄った行動をとったり、あるいは相反する勢力に対して常に敵対した行動をとり続けるとバランスが崩れるので、必然的に組織は崩壊の道を辿ります。

 

 バランスのとれた組織運営が確立して初めて、強いリーダーシップを持った人が現れると組織は最強の軍団に変貌するのだと思います。しかし、世の中は良くしたもので、平家物語で述べられているように永遠と続く組織はないのです。ある時点で組織は縮小、崩壊、合併、拡大などを通じてまた別の組織に変貌しながら維持していくのだと思います。

 

 どちらにしても、組織の活性化には八方美人とバランス感覚が必須であるというのが、過去の経験から学んだものです。このような経験が生かすことが出来ないのが悲しいかな凡夫なのです。所詮、凡夫は凡夫の枠をはみ出すことが出来ない宿命にあるのです。どなたか共感される方がいたら是非とも実践し成功していただきたいと思います。