ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 願わくば、こんな日々2012年11月4日 14:39ついこの間までの暑さが嘘のようだ。日が傾くと急に寒くなる。五月蝿く感じるほどに聞こえていた蝉の声は、気が付いたらパタリと止んでいた。青々と茂っていた森の緑は鮮やかな紅に染まり、見るものを魅了した後枯れ落ちる。すっかり寂しくなり始めた木々の枝や、時折頬を掠める冷たい風が、冬の訪れを知らせている。【願わくば、こんな日々】動物や虫たちも冬眠に入り始めた静かなゲゲゲの森に、カランコロンとお馴染みの音が響き渡る。相も変わらず黄色と黒のちゃんちゃんこに身を包み、愛用の下駄を鳴らしながら、鬼太郎は歩いていた。学童服の半ズボンからのびる足は子どもらしいといえばそうなのだが、素足に下駄という出で立ちは、寒くなってきたこの季節には些か不釣り合いにも感じる。まあ、この程度の寒さならば、彼にとってはなんら問題はないのだけれど。「うーん、やっぱり少し遅かったかな」辺りを見回して呟く鬼太郎の声に、反応するものはいない。普段なら髪の中にいる目玉だけの父親は、今頃家でのんびりと、愛用の茶碗風呂に浸かっているはずだ。冬に備えて木の実や山菜を求め出て来たはいいが、少々時期が遅かったようだ。食べられそうな木の実もなく、脇に抱えた籠は家を出て来たときと同じ重さのまま、中にはなにも入っていない。ここのところ立て続きに妖怪ポストに届く手紙に気を取られ、冬支度をすっかり忘れていた。幽霊族である鬼太郎も、その父親である目玉の親父も、食事をとらなかったからといって死ぬわけではない。だが腹は減るのだから困ったものだ。自分はよしとしても、せめて尊敬してやまない父にはひもじい思いなどさせたくはないのだが……鼠男を脅して、ラーメンでも奢らせようか、などと頭に浮かんだ物騒な思考は、木々の間をすり抜けて自分の名を呼ぶ聞き慣れた声に遮られた。「鬼太郎! どうだった?」「全然ダメだよ、猫娘。完璧に出遅れたみたいだ」喜ばしくない鬼太郎の返答に、猫娘はそっかぁと肩を落とす。頭につけたリボンがさらりと揺れた。「あたしも木の上とか探してみたけど、やっぱりだめだったよ。実は全部落ちちゃったみたい」「そっか。まあ仕方ないな。付き合わせて悪かったよ、ありがとう」向けられた感謝の言葉に、猫娘は頭をふりながら気にしないでと返した。例えどんなことでも、鬼太郎のためならば猫娘にとってそれは苦にはならない。むしろ、もっとお節介させてもらいたいくらいだ。ここのところ妖怪ポストに届く手紙が跡を絶たないことも、それに伴って鬼太郎が家を空けることが増えたことも知っていたが、まさか冬支度もろくにしていなかったとは。今日だって、鬼太郎に頼まれたわけではない。いつものように遊びに行くと、今まさに家を出ようとする鬼太郎に出くわし、なにか手伝えたらとそのまま引っ付いて来たのだ。鬼太郎も目玉の親父も、やたらと正義感の強いこの親子は、他人ばかりを優先して自分たちのことを蔑ろにする傾向がある。もう少し自分に気を使っても罰は当たらないだろうにと、猫娘は声には出さずに鬼太郎を見た。心配する気持ちは止められないが、この少年の、自分を顧みない優しさが大好きなのだ。「大丈夫よ鬼太郎、あたしがマタタビ餅たくさん作って持ってくるもの」「それは楽しみだなぁ」猫娘が得意とするマタタビ餅は、鬼太郎の大好物だ。それをたくさん食べられるのであれば、厳しい冬も乗り切れるというもの。「まあ、本当になにもなくなったら、鼠男でも脅してみるさ」鬼太郎が冗談混じりでそういうと、心配する気持ちから眉をハの字に曲げていた猫娘は、それいい! と、笑ってみせた。猫娘がようやっと見せた笑顔に、鬼太郎は顔には出さずに胸を撫で下ろす。身を案じてくれるのはとても有難いが、自分のせいで表情を曇らせる彼女を、見ていたくはないから。やはりこの娘には、軽快な笑顔が一番似合う。隣で揺れる赤いリボンを盗み見て、家路につく。出るときに足した茶碗風呂のお湯も、もうすっかり冷めてしまっているだろう。家で自分の帰りを待つ父の姿を思い浮かべれば、歩く速度は自然と早くなった。「なんであんたがいるのよ!」噂をすれば、なんとやら。鬼太郎と猫娘がツリーハウスへ帰宅すると、そこにはまるで自分の家のように寛ぐ鼠男の姿があった。つい先ほど(彼にとっては決して喜ばしい内容ではないが)話題に出たなどとは微塵も思わぬ鼠男は、気に入らない気持ちのありありと込もった猫娘の問いには答えず、よぉ、お二人さんなどと呑気な返事を返した。よく見ればその顔は赤く、お世辞にもいい臭いとはいえない体臭に混ざり、ほんのりとアルコールの香りがする。大木を切り取って作られたテーブルの上には、茶碗風呂の中で鼠男以上に顔を赤くし、舟を漕ぐ目玉の親父と、そのすぐ横に酔い潰れた原因であろう酒が置かれていた。「まったく、しけた家だなぁ。つまみのひとつもないなんてよ」「勝手にあがってなにいってんだよ。ああもうこんなに飲んで。父さん、風邪ひきますよ」「固いこというなよ鬼太郎ちゃん。ほらお前も飲め飲め」しきりに酒を勧める鼠男に、猫娘は厳しい視線を送ってみせる。「なーんか、怪しいのよね」「なにがだよ」「あんたが利益もなしに手土産なんか持ってくるなんて……またなにか企んでるんじゃないでしょうね」「かー、やだやだこの猫は! 人を疑うことしか出来ねぇんだから」「あんたの普段の行いが悪すぎるのよ!」「ぎゃー! その顔イヤッ」目を釣り上げ爪をギラリと伸ばした猫娘に威嚇され、鼠男は情けない声を出した。「俺はただ、最近景気がいいから、普段お世話になってる鬼太郎先生に感謝の気持ちを込めて差し入れ持って来ただけだっていうのによぉ……こんなに疑われて俺っち可哀想」「景気がいいって、なんで景気がいいのよ」「ぎくっ……まあそれはあれだ、気にしない気にしない」「やっぱりいえないようなことしてるんじゃない! 鬼太郎に迷惑かけたら承知しないよ!」今にも襲いかかりそうな勢いの猫娘と怯えて縮こまる鼠男は決して穏やかには見えないが、この二人の喧嘩はいつものことだ。鬼太郎は特に止めることもせず、湯船に浸かったままの父親を布団へと運ぶ。といっても、手の平ほどの大きさしかない彼の父親を運ぶことなど、造作もないことだが。「細かいこと気にすんじゃねぇよ。ほら飲め鬼太郎。よく寝かせた美味い酒だぜ」鼠男が鬼太郎に酒を勧める図は、どう見ても子どもに無理矢理飲ませようとする絡み上戸のおっさんであるが、妖怪である彼らには年恰好など関係のない話だ。見た目は幼い子どもの鬼太郎だが、生きている年数でいえば、人間の老人よりもずっと長い。あまり好んで酒を飲むことはない鬼太郎だが、嫌いなわけではない。美味いなどと勧められれば、飲んでみたいと思うのが本音である。「じゃあ、少しだけ」「鬼太郎!」差し出されたお猪口を受け取った鬼太郎に、こんなドブ鼠を信用するなんて! と猫娘は声を荒げた。「あ、本当だ。美味い」香り豊かで口あたりも自分好みだ。濃厚でいて、しつこくない。鼠男にしては、本当にいい酒を持って来てくれたらしい。これなら酒好きの父がつい飲み過ぎてしまったことにも納得がいく。身を案じ大丈夫かと問うてくる猫娘に、なんともないと頷いてみせる。「ほーら、だからただの酒だっていってんだろ。お前も飲むか猫娘」「いらないわよ。ちゃんと見張ってないと、あんたなにするかわかんないもの」「けっ、可愛くねえの」少しだけといいつつ、酒瓶に伸びる手が止まることはなく、気付いたときには最後の一滴まで飲み干してしまっていた。「もう、結局こうなるんじゃない! なにが感謝の気持ちよ!」鼠男は酔い潰れ、大きないびきを響かせながら大の字で眠っている。鬼太郎が帰宅する前から飲んでいたようだし、先ほどの二人の飲みっぷりからしても、潰れるのも仕方がない。量は大したことはなくとも、臭いからして、随分と強めの酒だろうから。一緒になって飲んでいた鬼太郎も、いつもなら凛々しくあがった隻眼を、今にも閉じてしまいそうなほど、とろんと下げている。「鬼太郎、眠い?」「……いや、大丈夫だよ」「眠くなったらちゃんと布団入ってね」そういいながら忙しなく手を動かし、飲み散らかしたテーブルの上を綺麗に片付けている猫娘は、無駄がなくなんとも手際がいい。明日自分がやると制してみるも、やんわり断られてしまった。「君も飲めばよかったのに」「だってあたしそんなに強くないもの」「そうだっけ?」はて、と鬼太郎は腕を組み考える仕草をする。記憶を辿ってみたが、猫娘が酔った姿を見た覚えがない。というよりも、酒を飲んでいる姿自体、あまり見ない気がする。それも全て、鬼太郎の前で醜態を晒してしまうなんてことは避けたいという、猫娘の乙女心からくるものなのだが、そんなことを鬼太郎は知る由もなかった。「鬼太郎は、お酒強くなったよね。昔はすぐ真っ赤になってたのに」「……そうだっけ」「そうよ。最初の頃なんか倒れちゃって、みんな酔っ払って運べないから、あたしが鬼太郎をおんぶして帰ったのよ。大変だったんだから」「……」あまり思い出したくない記憶を掘り出され、鬼太郎の眉間に皺がよった。そのときの記憶があるかといわれれば、答えは否、だ。初めての酒の味に、身体が火照ったところまでは覚えているが、そこから先の記憶はない。だからこれは、後々口頭で伝えられた記憶。背も今よりずっと小さかった頃の話だが、それでも、女の子──それも、好意を寄せている相手に背負われただなんて、こう見えてプライドの高い鬼太郎にとっては、あり得ない話なのだ。「さすがにもう運べないかなぁ。背も大分追いつかれちゃったし」茶化すように笑う猫娘の瞳が、ほんの一瞬だけ寂しげに揺らいだことに、馬鹿にされたと眉を更に吊り上げた鬼太郎が気付くことはなかった。猫娘とは幼い頃からの付き合いだ。彼女の方が年が上であることと、元来の面倒見のよさから、まるで本当の姉のように接してくれた。母の温もりを知らない鬼太郎は、その優しさに甘えたものだ。それは今でも変わらないが、共に過ごした気が遠くなるような年月は、二人の間に変化を齎した。それは少しずつ、ゆっくりと。しかし、着実に。「背なんかすぐ追い越すさ」鬼太郎は少し強めの口調でそういうと、猫娘が片付けたテーブルに肘を付き、手の平に顎を預ける。不貞腐れたようなその態度に、猫娘は鬼太郎に聞こえないように小さく笑った。(そうね、きっとすぐに抜かされちゃうわ)最近の鬼太郎は、どんどん成長していくように見える。それは外見ではなく、中身の話だけれど。多分、そう。あの娘に出会ってから。猫娘の脳裏に浮かぶは、青空と同じ色のスカートに身を包み、天使のような笑顔を浮かべる夢子の姿であった。心優しくて儚い、人間の女の子。鬼太郎の隣が、よく似合う女の子。夢子は、妖怪と人間、違う種族でも手を取り合い、ともに生きることが出来るはずだと、そう信じて戦う鬼太郎の夢を繋ぐ、大切な少女なのだ。鬼太郎が夢子を守るというのであれば、その背中を守るのは自分の役目。鬼太郎の想いを守るためならば、なんだってしよう。そう、猫娘はとうに覚悟を決めている。しかし、時折考えてしまうのだ。鬼太郎の夢が叶ったとき、あの子と鬼太郎が手を取り笑い合う世界に、自分の居場所はあるのだろうか。──ああダメよ、暗い顔しちゃ。つい影を落としそうになる猫娘を止めたのは、意外にも鼠男の寝言であった。先ほど思考を占めていた少女の名を、だらしのない寝顔で呼んでいる。暗い思考から救い出してくれたのが、このどうしようもない男であることに僅かな悔しさを覚えながら、それでも、ほんの少しの感謝を込めて。「まったく、だらしないんだから」そういいながら、勝手知ったる鬼太郎の家、迷うことなくかけ布団を拝借し、鼠男にかけてやった。その様子を、ひとつしかない目で鬼太郎が見つめている。顔を合わせれば喧嘩ばかりするような相手にすらみせる、猫娘の分け隔てない優しい性格を、鬼太郎は気に入っている。気に入っているが、それを面白くないと思ってしまうのもまた事実。余裕のない嫉妬心を止められるほど、大人ではない。自分に背を向ける猫娘の表情が、ひどく気になった。彼女は今、どんな顔を、鼠男に向けているのだろうか。──こっちを向けよ瞬間、無意識に動いた手は猫娘のリボンに触れた。ほんの少しの力のつもりが、酔っているせいで加減が出来なかったのか、猫娘の赤いリボンは引かれるがままに、いとも容易くするりと解けて、鬼太郎の腕に垂れ下がった。「き、鬼太郎……?」「……あ、こ、これは、えっと」驚いて振り向いた猫娘に上手い言い訳が思いつかない。猫娘はどもる鬼太郎を暫く見つめていたが、そのうちくすくすと笑い出した。「変なの。なんで鬼太郎が驚いた顔するのよ」「え、いや……」「やっぱり、鬼太郎も酔ってるんじゃない。もう遅いし、強がってないで眠った方がいいよ」「……」まただ。またそうやって、子ども扱いをする。昔から負けっぱなしの身長は、まだ彼女を越していないけれど、それでも距離は縮まった。それに伴い腕力も妖力も増し、俊敏な猫族である彼女より、走るのも早くなった。それでも尚、弟として接してくる猫娘に、鬼太郎は軽い苛立ちと焦りを感じていた。いつか彼女を追い越すくらい成長出来たら、この関係も、なにか変わるだろうか。「……きたろう?」自分の名を呼ぶ、愛しい声。鬼太郎は返事をせず、目線だけを猫娘に向けた。こんな風に君と過ごす日常が、なによりも大切だと思うから。今はまだ未熟だけれど、君の手を借りてばかりだけれど、いつか誰の力も借りなくとも、仲間を──君を守れるくらい、強くなってみせる。そのときは、胸に抱くこの想いを、全て伝えよう。だから、それまでは。「……鬼太郎……酔ってるんでしょう……?」「……少し」飲んでなどいないのに、未だに消えない酒の臭いに、あてられてしまったのだろうか。猫娘の頬が、熱を持つ。(そうよ、きっとあたしも、酔ってるんだわ)自分を見つめる鬼太郎の隻眼に、熱が込もって見えるは、だから、きっと、そのせい。猫娘はそういい聞かすも、今鬼太郎の目に写っているのがあの人間の少女ではなく、自分なのだと思うだけで、その小さな胸には淡い期待が広がってしまうのだ。胸が高鳴る。頭が、くらくら、する。夢子にほんの少しの後ろめたさを感じながら、それでも、この時間が続けばいいのにと願う気持ちを止めることは出来なかった。向かい合いながらもすれ違う二人を、部屋の灯りが照らしている。まるで今の二人の心境を表すかのように、ランプの中の小さな炎が、ゆらりと揺れた。