「セルゲイ・ディアギレフ」だから『セルゲイ』。
当たり前です。皆『セルゲイ』って呼んでます。でもなんかチギちゃんがオヅキのこと『セルゲイ』って呼ぶの、なんか…フフって感じ(なんでだ)。
雪バウ「ニジンスキー」。
すごかった…いろいろ。
まず、オープニング曲が「シェヘラザード」ってところで反応する私。
ちょうど1年前位、この曲で銀橋を渡ってすれ違い、片方がもう片方を静止しようとして振りほどかれてた人たちがいましたね…
と、まったくストーリーと関係ないところでちょっと切なくなる。
チギちゃんヴァーツラフ(ニジンスキー)のダンスが美しかった。技術的なことはわからないけど、跳躍力が「空中に静止しているように見えた」という伝説を持つニジンスキーにピッタリ!
踊ってるときの表情もすごくよくて。「ただ心のままに踊りたいだけ」と繰り返し言うように、踊ってるときが一番心が満たされてるというか、素のヴァーツラフのように見えた。
「ただ心のままに踊りたいだけ」なのに、周りから賞賛される栄光の人生にもかかわらず、実際にはなかなかそれを実現できないことへの苛立ち、『セルゲイ』との確執…ちぎヴァーツラフの見せる危ういバランスで保っている(最終的には保てなくなる)精神みたいなものが、なんだか常に黒板に爪を立てて「きぃ~~」と引っかく音が鳴っているのが聞こえてくるように痛烈に舞台から感じられて、なんだかみてるこっちが悲鳴を上げたくなるような気がしました。
2幕、どんどん壊れていくヴァーツラフにマジで目を覆いたくなって。
「ニジンスキーといえばディアギレフ、ディアギレフといえばニジンスキー」というように、それぞれの人生を語るにあたっては、お互いの存在は外せない不可欠な存在というのが実際のところだった…のは、簡単にネット調べただけでもわかるけど、それを舞台上で表現するにあたり、あそこまでどストレートにくるとは思わず、1幕最初の方の「顎を持ち上げてキス~ヴァーツラフのリボンタイを外す」にびびった。
いや、貸切のチケットを譲っていただいたので、周りの席にはごくフツーのおっちゃんおばちゃん夫婦とかいたもんで余計に。
そういう関係って、ストーリーの遠景としてちょっとした仕草や台詞の端々で匂わせるという演出もありだと思うんだけど(上述のキスシーンだって「セルゲイがヴァーツラフに背後から顔を寄せる」位で止めても十分に関係性は伝わったと思う)、そもそも原田センセは「ニジンスキーとディアギレフの愛と確執」を全面的に書きたかったんだろうな~。
ロモラ(ニジンスキーの奥さん)とのことは、はっきり言ってニジンスキーの人生を宝塚で舞台化するに当たっての言い訳みたいなもんだと。
いつも計算ずくで行動をするディアギレフ…がたった一度冷静さを失ったとヴァーツラフが語るのが、場末の汚い安宿でヴァーツラフに膝を付いて「僕と一緒に暮らしてくれ」と言ったときだとか。
二人がどんな出会い方をして、その場面に至ったのか、なんてことを頭の中で妄想しだすと止まりません。
初めて踊るヴァーツラフを目にしたディアギレフの受けた衝撃ってすごかったんだろうな…「絶対自分の手でコイツをパリ一、ヨーロッパ一、世界一のバレエダンサーにする、そして生涯自分の手元に置いておく!」みたいな。
そんなセルゲイ・ディアギレフを演じるオヅキがなんだかすごいことになってます。なにあの貫禄!なにあの迫力!なにあの髭の似合いっぷり!ディアギレフの形容に使われる『稀代の』という言葉に全然負けてません。看板に偽りなし。
この話は「ニジンスキーの半生」であり、確かにチギヴァーツラフは輝いていたけれど、ディアギレフも「もう一人の主役」っていってもいい位の存在感で。
ヴァーツラフの心が壊れてゆく過程を表すのに出てくる「ディアギレフ・コラージュ」。もう舞台上どこみてもオヅキだらけ(笑)。
ロモラに「セルゲイはあなたの恋人?」と聞かれて「いや、違う」と否定するニジンスキー。でもすぐ後に「自分はセルゲイの愛人」というようなことを言う。
「恋人」でなくて「愛人」なのは、対等に愛し合う関係じゃなくて(いや、確かに愛してはいると思うよ、お互い…いや、ヴァーツラフはセルゲイを「愛してる」のではないか。いつも読ませてもらってるブログに、セルゲイの庇護と芸術への理解を感謝してるって書いてあって、それがぴったりだと思った。)、「セルゲイにすべて支配されている」従属的な関係だ…と思っているからなんだろう。
「売女!」と罵られるヴァーツラフ。フランス語やロシア語でなんて表現するのかは分かりませんが、要するに英語で言えば「bi●t●h」ですよねえ?
で、傷つきつつも否定できないのが…
しかし、CSの「稽古場の様子」は嘘つきだねえ。今日総集編見て思ったけど、巧みに肝腎なとこ外してる。もちろん、核心部分は劇場でどうぞってことなんだろうけどさ。
当たり前です。皆『セルゲイ』って呼んでます。でもなんかチギちゃんがオヅキのこと『セルゲイ』って呼ぶの、なんか…フフって感じ(なんでだ)。
雪バウ「ニジンスキー」。
すごかった…いろいろ。
まず、オープニング曲が「シェヘラザード」ってところで反応する私。
ちょうど1年前位、この曲で銀橋を渡ってすれ違い、片方がもう片方を静止しようとして振りほどかれてた人たちがいましたね…
と、まったくストーリーと関係ないところでちょっと切なくなる。
チギちゃんヴァーツラフ(ニジンスキー)のダンスが美しかった。技術的なことはわからないけど、跳躍力が「空中に静止しているように見えた」という伝説を持つニジンスキーにピッタリ!
踊ってるときの表情もすごくよくて。「ただ心のままに踊りたいだけ」と繰り返し言うように、踊ってるときが一番心が満たされてるというか、素のヴァーツラフのように見えた。
「ただ心のままに踊りたいだけ」なのに、周りから賞賛される栄光の人生にもかかわらず、実際にはなかなかそれを実現できないことへの苛立ち、『セルゲイ』との確執…ちぎヴァーツラフの見せる危ういバランスで保っている(最終的には保てなくなる)精神みたいなものが、なんだか常に黒板に爪を立てて「きぃ~~」と引っかく音が鳴っているのが聞こえてくるように痛烈に舞台から感じられて、なんだかみてるこっちが悲鳴を上げたくなるような気がしました。
2幕、どんどん壊れていくヴァーツラフにマジで目を覆いたくなって。
「ニジンスキーといえばディアギレフ、ディアギレフといえばニジンスキー」というように、それぞれの人生を語るにあたっては、お互いの存在は外せない不可欠な存在というのが実際のところだった…のは、簡単にネット調べただけでもわかるけど、それを舞台上で表現するにあたり、あそこまでどストレートにくるとは思わず、1幕最初の方の「顎を持ち上げてキス~ヴァーツラフのリボンタイを外す」にびびった。
いや、貸切のチケットを譲っていただいたので、周りの席にはごくフツーのおっちゃんおばちゃん夫婦とかいたもんで余計に。
そういう関係って、ストーリーの遠景としてちょっとした仕草や台詞の端々で匂わせるという演出もありだと思うんだけど(上述のキスシーンだって「セルゲイがヴァーツラフに背後から顔を寄せる」位で止めても十分に関係性は伝わったと思う)、そもそも原田センセは「ニジンスキーとディアギレフの愛と確執」を全面的に書きたかったんだろうな~。
ロモラ(ニジンスキーの奥さん)とのことは、はっきり言ってニジンスキーの人生を宝塚で舞台化するに当たっての言い訳みたいなもんだと。
いつも計算ずくで行動をするディアギレフ…がたった一度冷静さを失ったとヴァーツラフが語るのが、場末の汚い安宿でヴァーツラフに膝を付いて「僕と一緒に暮らしてくれ」と言ったときだとか。
二人がどんな出会い方をして、その場面に至ったのか、なんてことを頭の中で妄想しだすと止まりません。
初めて踊るヴァーツラフを目にしたディアギレフの受けた衝撃ってすごかったんだろうな…「絶対自分の手でコイツをパリ一、ヨーロッパ一、世界一のバレエダンサーにする、そして生涯自分の手元に置いておく!」みたいな。
そんなセルゲイ・ディアギレフを演じるオヅキがなんだかすごいことになってます。なにあの貫禄!なにあの迫力!なにあの髭の似合いっぷり!ディアギレフの形容に使われる『稀代の』という言葉に全然負けてません。看板に偽りなし。
この話は「ニジンスキーの半生」であり、確かにチギヴァーツラフは輝いていたけれど、ディアギレフも「もう一人の主役」っていってもいい位の存在感で。
ヴァーツラフの心が壊れてゆく過程を表すのに出てくる「ディアギレフ・コラージュ」。もう舞台上どこみてもオヅキだらけ(笑)。
ロモラに「セルゲイはあなたの恋人?」と聞かれて「いや、違う」と否定するニジンスキー。でもすぐ後に「自分はセルゲイの愛人」というようなことを言う。
「恋人」でなくて「愛人」なのは、対等に愛し合う関係じゃなくて(いや、確かに愛してはいると思うよ、お互い…いや、ヴァーツラフはセルゲイを「愛してる」のではないか。いつも読ませてもらってるブログに、セルゲイの庇護と芸術への理解を感謝してるって書いてあって、それがぴったりだと思った。)、「セルゲイにすべて支配されている」従属的な関係だ…と思っているからなんだろう。
「売女!」と罵られるヴァーツラフ。フランス語やロシア語でなんて表現するのかは分かりませんが、要するに英語で言えば「bi●t●h」ですよねえ?
で、傷つきつつも否定できないのが…
しかし、CSの「稽古場の様子」は嘘つきだねえ。今日総集編見て思ったけど、巧みに肝腎なとこ外してる。もちろん、核心部分は劇場でどうぞってことなんだろうけどさ。
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