■礼儀と武士道■ |
恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは |
この短歌の中に、格の高い、丈(たけ)の高い、そして気高(けだか)いまでの情愛を感じるのは決して著者だけであるまい。
長年連れ添った夫婦が、倦怠感に陥って、互いに罵(ののし)り合って愚弄(ぐろう)したり、愚痴や愛想を尽かしているのとは正反対に、いつも新鮮であり、常に瑞々(みずみず)しさを失っていない。
そして、戦前の青年たちが、肉欲と愛欲を器用に分類して暮らしていたように、肉欲と愛欲の違いを分類し、それを強(したた)かに心得え、上手に使い分ける必要がある。
真の情愛とは、慎むことであり、身の程を知る事である。軽々しく言葉の応酬(おうしゅう)で、「愛の告白」に至り、安易な意思表示を、性器と言う肉体を通じてするべきではない。
特に日本人には、欧米人にはない、縄文人以来の以心伝心(いしんでんしん)の特異な機能が内蔵されている。日本人に内在される言霊は、「噂をすれば、影をさす」と諺(ことわざ)にもあるとおり、「言葉には霊が宿っている」という現象が認められているのである。
そうした言霊を駆使すれば、欧米人のように言語巧みにラブレターで迫らなくても、また大袈裟なアクションで、ジェスチャーの類いを乱発しなくても、以心伝心を遣えば、容易に思念は伝わる筈であった。
しかし明治以来、欧米化の波に翻弄(ほんろう)されて、こうしたものは回路機能が閉鎖され、切り返えスイッチは切替が出来ず、退化の一途にあり、その機能までが錆(さび)ついてしまったのである。今こそ、わが先祖から連綿として受け継がれた、こうした機能を復活させるべき時である。
「愛」だの、「恋」だのを告白の言葉とし、軽々しくこれを乱発してはならない。そういう言葉は禁語であり、ある意味において、「忍ぶ恋」の否定に繋(つな)がり、強いては武士道の否定にも繋がる。「忍ぶ恋」を否定して、武士道の実践はない。武士道の全(まっと)うは、安易に肉欲に耽(ふけ)る事ではない。
昨今はアメリカ風の自由恋愛術が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)し、快楽遊戯が日常茶飯事化されている。自由に恋をし、愛を打ち明けて告白し、歯の浮くような言葉を連発し、金品で釣り上げて肉体を要求し、ラブホテルに誘い込んで強引に奪い取るという、三段構造の求愛が展開されている。
「押し一手」と「強引さ」が、外へ拡散するのエネルギーを生み、外へ外へと膨張させ、それを益々膨らませて行き、一旦獲得したら、馴(な)れ馴れしくなって、この膨張は此処で止まる。膨張を失ったエネルギーは、今度は萎縮(いしゅく)の方向に向かい、萎(しぼ)み始め、やがて瑞々(みずみず)しさを失って、求愛のエネルギーは力を失ってしまう。そして互いの男女の肉愛が、墜落する危険性を持っている。
更に、飽きが来て、倦怠感に陥ってしまうと、顔も見るのが厭という事態まで起こる。これが昨今の自由恋愛術から始まった、愛の実態である。
アメリカでは現在、急速に離婚率が高くなっているという。日本もその後を追いかけている。そうした現象は求愛と発散によって、拡散されたエネルギーが、本来の中心軸からズレてしまったことを物語ったものであり、中心に有るべきものが、中心に無いという事からおこる現象である。
あるべき筈(はず)ものを見失い、中心から遠のいた拡散・膨張に、その元凶がある。最初の出逢いの中心軸が、拡散によって膨張し、これが急速に新鮮さを失う原因だと考えられる。
現代人は、まさに拡散と膨張の中に、総(すべ)てが縮図として組み込まれてしまっているのである。何もかも、膨張し、中心から遠のいて拡散するのだ。何もかも膨らみ、バブル状態になり、その膨らみ過ぎたバルーンは、やがて許容量の限界に達して爆発するか、あるいは急速に萎縮するであろう。そのメルトダウンに向かっての過程が、中心軸から遠く離れようとする拡散・膨張の状態なのである。
『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)に代表される日本式恋愛術は、「忍ぶ恋」の典型である。
これには『葉隠』の口述者・山本常朝(つねとも)も絶賛している。これを「丈(たけ)の高い恋「と力説している。
この物語の発端(ほったん)は、それまで平凡な生活をしていた醤油屋平野屋の手代(てだい)徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女お初の二人が、仮初(かりそめ)の恋に落ちたことが原因だった。そしてその焔(ほのお)は、炎上へと向かう。
二人は恋の焔を灯(とも)す事によって、その焔は巨大な火柱になって燃え上がり、一挙に悲劇のヒーローとヒロインに躍(おど)り出るのである。
そこには恋の新鮮さがあり、鮮明さがあって、恋に生き続けた男女の結びつきが、その中心に向かってエネルギーが収縮され、やがて永遠の生命が齎(もたら)され、それが力強く躍動(やくどう)していったのである。そして忍ぶ恋の特徴は、悲劇のヒーローとヒロインに躍り上がっていく過程の中のストーリーが、何とも言えない「切なさ」を湛(たた)え、これが人の心を打つのである。
現在はアメリカ指導型の民主主義に代表される、奔放主義的自由恋愛が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)している。以前に比べれば、性愛から肉欲まで、モノにするチャンスは一段と多くなった。
が、同時にそれは、性愛は肉欲を、その延長上に置いている為、恋愛自体は死同然の溺愛(できあい)の落とし穴に落ち込んでいる。そして鮮やかな新鮮さは、不透明(ふとうめい)な濁(にご)りに汚染されて、色褪(いろあ)せたものになっている。
恋は打ち明け告白し、求愛をしたと同時に、その新鮮さは急速に失なわれ、そして恋の生命は、やがて死んでしまうのである。
恋は、しっとりとした若葉のような潤(うるお)いを保っていなければならない。瑞々(みずみず)しい新鮮さが失われれば、恋は死ぬのである。しかし潤い過ぎると、ふやけて溺愛(できあい)となり、盲目となって盲(めくら)同然になる。盲目の愚は冒すべきでない。
この世での男女は、相対的な関係にあり、一方の格が低くなれば、もう一方の格も低くなるという表裏一体の相乗関係をなしている。それ故に、打ち明けた恋は格が低く、一生打ち明けない恋は格が高いというのが、その所以(ゆえん)である。そして、それはいっも新鮮で、鮮やかな瑞々しさを失わないのである。
『葉隠』の「忍ぶ恋」には、裡側(うちがわ)に秘めた儘(まま)で、絶対に「打ち明けない恋」こそ、新鮮で美しく、生き生きしていると断言しているのだ。
アメリカ式恋愛術のパターンで告白し、求婚して、長年連れ添った夫婦が、いつしか倦怠感に陥り、恋の生命が衰(おとろ)えて、消滅に向かっている現実を見ると、そこには決して、格の高さなど感じられないのである。
恋を打ち明け告白し、激しく迫って要求して、獲得するという三段構造は、急速に新鮮さを失うという欠点を持っている。
彼らの言うLOVEの実体は、精神主義ではなく、寧(むし)ろ肉欲主義が主体であり、男女が合体して享楽を貪(むさぼ)ることが、その実態のようだ。またそれが情愛であると、信じて疑わないのが、昨今の現代人の風潮のようだ。
少なくても今日の多くの若い男女は、戦後、デモクラシー教育の中でそう教え込まれ、そのように信じ、肉欲主義に陥る事こそ、健康な男女の性の姿だと教え込まれた。
女性は「十五歳までに処女を失え」とマスコミは嘯(うそぶ)く。教育現場でも、処女を人権的片輪扱いする現実がある。非処女こそが、健全な精神、健康な肉体であると、学校で教える性器教育は、矛盾だらけである。健全で健康な体躯は「非処女から」と嘯くのだ。
だから小学校高学年ともなれば避妊具が必要で、避妊の準備をしてセックスに励めと、保健体育の時間には教えている。果たしてこれが、健全な人間の営みを示唆する教育と言えるだろうか。
しかし若者をはじめとして、中年層の、不倫に趨(はし)っている大人まで、これを信じて疑わないようだ。
これこそ秩序の崩壊ではないか。
社会構造を破壊し、その社会構造が持つ秩序を破壊する時は、こうした「性器教育」の嵐が吹き荒れる。処世術と共に、恋愛術も歪んだ形で培養され、その培養の結果をもって、秩序を壊しに掛かる。そして庶民は、まんまと仕掛人の罠(わな)に嵌(はま)り、「恋愛」や「ラブロマンス」と言う大義名分をもって、秩序崩壊に加担する。
ここに、獣(けだもの)の世が出現し、誰もが自覚症状を伴わないまま、非常識が常識化されて行く。腐ったものと、新鮮なものを見分ける眼すら、失われてしまう。物事の実態を見抜く眼が失われたら、どんな現象が起るか。
それは、人間を表皮で判断し、中身を問題にしないという考え方が起こる。人間の物質化であり、封建時代に逆戻りする現象である。現に、東南アジアからは、多くの若い女性が「ジャパユキさん」として人身売買されているではないか。これこそ、女性を物質扱いする最たる現象ではないか。そして、彼女らを肉の塊として、買い付ける日本人の男どもがいるではないか。
安易に流行を追い、スタイルやファッションのみで判断し、身に付けた装飾品や金品の所有の度合いで人間を計ろうとする愚が生まれて来る。頭の中身など、お構え無しだ。
享楽に耽る事が最優先され、人間の所有する精神面を占める「魂」といったものは、殆ど無視される。したがって無視された一面は、直ぐには姿を顕(あら)わさないが、時が経てば浮上して来て、お粗末な実態を暴露してしまう。
即ち、新鮮さが急速に薄れて、新鮮な眼で恋愛を捕らえる観察眼が疎(うと)くなっていくのである。観察眼が疎ければ、浮上して来た魂すら、それが何者か、検討をつける事すら出来ないであろう。
そしてこうした観察眼の代わりに、肉欲眼だけが発達して、互いの欠点だけを論(あげつら)い、そこに「離婚」というトラブルが発生する。観察眼が疎ければ、裡(うち)に秘めた格の高い精神面すら見落としてしまうのだ。
目につくものは表皮的なものばかりで、スタイルがいいとか、あるいはファッション感覚や、肉体的なセックスアピールとか、スマートさだけが問題にされる。その上、人間が単純に判断されてしまい、物質化した外面的視野のみで眺める眼しか育たなくなる。
また金銭や財産を、その評価に置くべく、人間の肉体そのものもを、評価の対象に入れてしまう。その人のもつ、精神性を否定して、外面的な容姿端麗と言う基準だけを評価の対象にすり替えてしまうのだ。
そして昨今の肉欲眼の評価は、精神的な面は、一切相手にされないというのが現実が待ち構えているのである。
昨今は、こうした片手落ちに、益々拍車がかかっている。
若者の恋愛は性愛に代わり、性愛の延長上の愛欲ならぬ、不埒(ふらち)な性器目当ての肉欲が鎮座(ちんざ)している。欧米にかぶれて、進歩派文化人を気取る多くの「性の解放論者」は、性教育と称して、人間の躰(かだら)が、まるで生殖器のみで出来ているかのように力説する。
現代は、性の生理だけが追求され、「異性の性器」だけを求めている場合が少なくなく、快楽遊戯のみを求めようとする傾向が強い。
男女の性は異性に対し、客体物として接し、欲望の一時的享楽の為の道具として扱われる傾向が強く、それはあたかも売春に類似している。
その最も悪名高き例が、週末ごとの過ごし方などを満載した、男女選び方を記載した「肉欲情報誌」や「エロ・スポーツ紙」などである。
上は結婚対象のブライダル情報から、下は男女斡旋の俗悪な情報まで、溢れるばかりの男女の肉欲情報を載せ、営利本位の記事と広告が、若者の恋愛問題に矛盾を押しつける。そして、自分が「今何をしなければならないか」も分からない無能な読者に、男女の一時の過ごし方や、自由恋愛という疑似(ぎじ)恋愛術を教えている。
日本の一億総中流の恋愛不感症は、実はここに由来する。
人間生活の構造は、『欲・触・愛・慢』の四つから構成されている。
その中に、男女の事実をあるが儘(まま)に認め、それを実現し体現して、その中の人とならなければならない。これが人生修行の現実である。
それを無視して、例えば一年前、いや半年前でもいい。その結婚した女性が、その一年前もしくは、半年前の娘の魅力を持っているだろうか。
多くは、そこに見えた、いつもながらの慣(な)れ合いと、既に定まってしまった、彼の(男性の)人生行路に、少なからずの将来性に懸念(けねん)を抱き、倦怠期の前哨戦(ぜんしょうせん)として、人間の奥底に混迷(こんめい)する擾乱(じょうらん)を演じようとしているのではあるまいか。
つまり崩れてしまっているのだ。
その結果、不倫に趨(はし)り、逢引(あいびき)の約束に、一時(ひととき)の慰安を覚え、期待と翹望(ぎょうぼう)を侍(じ)して、快楽遊戯(かいらくゆうぎ)の肉感に侵食されていく。そこに魂的な愚を冒している世俗的な疑惑が見隠れするのである。
涜神(とくしん)の恐ろしい歓(よろこ)びを、一種の官能(かんのう)に摺(す)り変える疑似(ぎじ)への幸福感。そして一時の快楽遊技を目的にした慰安への逃避。あるいは性に溺れる現実逃避。
これが、自由の名の下(もと)に、押し進められてきた色欲の実態ではなかったか。そして人々を惑わす自由主義を、更に公正化した詭弁(きべん)ではなかったか。
白痴的に汚染を受け続ける、われわれ日本人は、陰(かげ)の仕掛人から、あらゆる洗脳を強いられている。その罪悪や背徳や無智は、まさにアメリカ式恋愛術のパターンの代表的なものと言ってもよいのではなかろうか。
そしてどこまでも、アメリカナイズすることを誰もが、善(よ)しとしている。
果たして、この見据えた先に、魂が安住(あんじゅう)する境地は控えているのだろうか。
かつての古人の智慧(ちえ)であった「忍ぶ恋」を忘れてしまった日本人は、現代と言う時代の濁流の中で、アメリカ文化の雪崩込みを歓迎し、その智慧すらも無用の長物にしてしまおうとしている。元来、日本において、「乙女の夢」と言われるものは、処女のまま嫁に行くことではなかったか。こうした夢も、今は遠い昔のことになっているのである。智慧は放棄されたのだ。
では、この智慧の放棄は何に繋がるか。
これは紛れも無く、ストーカー行為の被害者であり、加害者を強要される、現実の中に突き落とされる事を意味するのだ。
誰もが被害者であり、あるいは加害者なのだ。教養や地位、学歴や学閥には一切関係なしに……。
以下、つづく。
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