2007年06月20日

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

 子供の頃に「そんな事をすると“罰(ばち)があたるから、止めなさい」とか、仏様に尻を向けると罰が当たりますよ」とか、日常的に相手の行動に不快感を覚えている無智な者が相手の偶然の事故に呼応して、「ほら、罰が当たった」などという捨て台詞を俗世間では耳にした事が無くも無いが、寺では五十年此の方、只の一回も聞いたことが無かった。
 ところが、先日、遠くから寺を訪ねて来られた方の口から「罰(ばち)」という今や俗世間でも十年に一回聞くか聞かない死語が飛び出し、一瞬、面食らった。
 そもそも『仏教では天罰・仏罰・祟りなどなど』、超現実的というか嘘というか、己≒仏≒菩薩≒天然自然の一部を説いているし、“己の外に仏なし”とハッキリと言っているように、人間を超える力(超能力)など自然を除いては無く、故に人間に災いを与えるなどありえない訳です。そもそも仏教では“余程無智な者”に対して俗悪から身を引かせる為に“脅し”というような最終兵器(権力)を使わざる得ない場合なら『例え話』として使われるかも知れないが、先ずは、それも無いはずです。
 つまり、仏教と『因果論的な罰』の間には相関関係は無いと断言できます。そもそも『罰(ばつ・ばち)』
は“己の外の絶対者”の代理人を自称する教祖、巫女、神官、霊能者などが、専売特許でも持っているような顔をして“無智な人間を洗脳する手段”として使われている言葉であり、仏教から考えても、科学的に考えても『荒唐無稽』なのです。
 しかし、神仏を隠れ蓑にして教団を組成し集金構造を作るために『罰』という人間の弱み(恐怖感)に付け込むための切り口としての”罰”という概念を利用する者は後を絶たない。しかし、所詮は嘘であり、その内“刑事罰”という人間が考えた人間社会のための矯正教育手段を受けることになるだろう。その時、彼らは、それでも“遂に私にも罰が当たった」というのだろうか。聞いてみたいものである。
 釈尊は『一切皆空』であり『苦は己の外に願うことで内に生じる』という法則を発見し、“あるがまま”に生きる生き方を発明しました。達磨大和尚の二入四行も根っ子は同じ。“我”を通そうとするから“己”が苦しみ、“身”に報いが現れて四苦八苦する。苦の全ての原因は、己の汚れた姿である“我”にあり、自分以外に責任があるなどという愚かで無責任な責任転嫁は仏教徒なら絶対にしません。そんなことは“拝金教”の専売特許みたいなもので、それを侵害したら、それこそ相手に“罪を作らせ”て、結果的に刑事罰を受けさせなくてはならなくなるような無慈悲な事は出来ませんからね。ハッハッハッ。それこそ水戸黄門が転んで“見て肛門”になりますよ。
 さて、今の世の中にも“地獄だの天国だの”という迷信が生きているのだろうか。現実に生きている世界には地獄の様な、天国の様な、物語の世界が実現することは理解できる。しかし、それは人間にとっての不都合であり、地球にとっては新陳代謝の一環であったり、社会や個人にとっては“学びの機会”であり“脅威が人間を成長させる”という結果に結びついている偶然である。だから社会科学的には“確率論的分散”が成立しているので、災害(天才人災)は“保険”の対象として料率が計算でき、財務省がお墨付きを出しているのです。ところで、『生命“罰”保険、損害“罰”保険』というが有りましたっけ?アッ、そうだ。思い出しました。“バチ”は当たりますよ。先日、銀座のジャズ喫茶の一番前でジャムセッションを聞かせて頂いていた時、ドラムーのスティックが飛んできて足に当たったんです。つまり“バチが当たった”のです。そうしたら、店の社長が飛んできて、お詫びに何かリクエストを演奏させますということで、マイルス・デービスとジョン・コルトレーンの曲を演奏してもらった。そして、帰りがけには、神様か仏様か知らんがドラマーから声がかかり、CDと招待券も頂いた。いや、“バチ当たり”な事はするものですね。
 『地獄で仏』に会って見たいが、仏教は迷いや妄想の本質を明らかにして、イキイキと生きる道を発見させる支援をするものです。120%、恐喝や騙し脅しはしませんよ。そして諸行は無常。善悪は相対的幻想です。日々は好日です。罰でもバチでも何でも結構。有るがままの事実として受け取り、学び、人生に活かして行きましょう。そうしないと“バチ”が飛んできて恐縮しなければなりませんよ。

一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

投稿者 echi : 2007年06月20日 07:06

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