法華経幻想(2)
法華経幻想
――秘められた生命のメッセージ――
小幡照雄
目次
第四章 十界論の展開(2009.9.22)
第五章 現代文明の両義性(2009.9.24)
第六章 裁く心の陥穽(2009.9.26)
第七章 調和と連帯をめざす生命(2009.9.28)
第四章 十界論の展開
両義的な生命の働き
文明社会は権力者階級に都合のよいものを善、その反対のものを悪として体系づける傾向がある。それは、あらゆる国家、集団、組織に通底している。しかも人間は所属する組織の価値観に自分の価値観を順応させることによって、初めて集団生活が可能になるのだ。それは一種のマインドコントロールにほかならない。私たち日本人の価値観もまた、明治、大正、昭和、平成という時代の流れの中で何回も揺れ動いてきた。一例を挙げれば、かつて美徳とされていた倹約を全国民が実行すれば、国家経済は衰退の一途をたどらざるを得ないという時代が出現している。
今は生活必需品ではなく余暇を楽しむための商品、いわば贅沢品が売れなければ景気はよくならない時代なのだ。おまけに、私たちは贅沢ができなければ幸せになれないと錯覚させられている。戦時中の価値観のほとんどが、戦後大きく転換したことを忘れてはならない。戦争を批判するようなことを一言でも洩らせば非国民とさげすまれ、裁かれた時代があったのである。
アメリカのベトナム侵攻がベトナムの民衆にもたらした惨害は、第三者の目で見た場合、まさに悪魔の所行といわなければならない。しかしアメリカの指導者にも民衆にも、自分たちがベトナムの民衆にとって悪魔の化身だったという実感はないだろう。多くのアメリカ人が自分たちは正義の味方であり、自由の守り手だったと思い込んでいる。権力の座に着いた未熟な正義の味方は、自分を善、相手を悪とみなす一義的な価値観によって、かけがえのない民衆の生を切り刻んでしまう。アメリカが展開してきた世界戦略には、人間同士の対話を阻む深い宿業がのぞいている。
私たちは自分が文明社会の中でマインドコントロールされていることに気づかない。それは、与えられた環境の中で生きようとする生命本有(ほんぬ)の働き、言い換えれば宿業なのである。生きようとする努力は習慣となり、習慣はいつの間にか本質となる。人間はみな宿業を背負って生きる以外にないのだ。その宿業をどうとらえ、どのように転換するのか。それこそ人間に与えられた永遠の課題なのかもしれない。その解決への糸口は日蓮が提起した法華経、すなわち森羅万象の文底を開く方法的原理なのである。事象の表層から深層へと物事を成り立たせている連関とその両義性に迫る視点。そこに友愛と連帯の世界を開く鍵が秘められている。
仏法は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界論を説いている。しかし、そのとらえ方は法華経と爾前権経では大きく異なる。爾前権経は仏界を最高、地獄界を最低とする別々の境界として十界をとらえている。爾前権経(にぜんごんきょう)が説く仏道修業の目的は、六道(地獄界から天界までの境界)輪廻(りんね)を断ちきり、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の境界を開くところにある。この爾前経の十界論を根本的に転換したのが法華経なのである。法華経方便品第二で初めて十如実相が説かれ、十界互具の原理が明かされる。十界互具とは、十界のそれぞれに十界の働きが備わっていることをいう。法華経は十界を位の異なる別々の境界とする爾前権経の虚妄(仮説)を打ち破り、十界はいずれも生命本有(ほんぬ)の平等な働きであることを開示しているのだ。十界論について日蓮は次のように説いている。
「数数(しばしば)他面を見るに、或る時は喜び、或る時は瞋(いか)り、或る時は平らかに、或る時は貪(むさぼ)り現じ、或る時は癡(おろか)現じ、或る時は諂曲(てんごく)なり。瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろか)は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於いては六道共に之有(これあ)り。四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現れざれども、委細(いさい)に之を尋ねば之有るべし。…中略…世間の無常は眼前(げんぜん)に有り。豈(あに)人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり。但(ただ)仏界計(ばか)り現じ難し。九界を具(ぐ)するを以て強(し)いて之を信じ、疑惑せしむることなかれ」(『観心本尊抄』)
地獄から仏界までの十界は生命の種々相であり、それぞれに働きを持っている。十界を要約すると、①地獄は瞋り②餓鬼は貪り③畜生は愚か④修羅は諂曲(自分の意志を曲げて、こびへつらうこと)⑤人は平らか⑥天は喜び⑦声聞は知識欲⑧縁覚は三昧境⑨菩薩界は慈愛⑩仏界は現じ難し――となる。この十種の生命の働きは、宇宙全体にも個の生命の場にも備わっているのである。仏法の目的は生命の本質を説き明かし、真の生きがいを開くことにある。その仏法の極理である森羅万象の実相、生命の本質を理論的に体系化したのが、天台大師が説く理の一念三千の法門なのだ。
法華経方便品第二には「唯(ただ)、仏と仏と、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。所謂(いわゆる)諸法の如是相(にょぜそう)、如是性(しょう)、如是体(たい)、如是力(りき)、如是作(さ)、如是因(いん)、如是縁(えん)、如是果(か)、如是報(ほう)、如是本末究竟等(ほんまつくきょうとう)なり」と説かれ、如是相から本末究竟等までの十如是が挙げられている。十如是の如是は、生命の中道実相の義を表す。十如是の内容を要約すると、①如是相=森羅万象の外面の姿②如是性=内面の性質③如是体=実体(当体)④如是力=森羅万象に内在する力⑤如是作=力が他に及ぼす作用⑥如是因=果をもたらす原因⑦如是縁=果を招く外界の助縁⑧如是果=因が外界の助縁と相まって生む結果⑨如是報=果によって受ける報い⑩如是本末(ほんまつ)究竟(くきょう)等(とう)=始めの相を本とし、終わりの報を末として、本末は究竟して等しいこと――となる。この十如是のうち、前の三如是(相性体)が本体で、三諦(三身)に対応する。相は仮諦(応身)、性は空諦(報身)、体は中諦(法身)となる。後の七如是は三如是の用(ゆう)(働き)である。十如是について日蓮は次のように述べている。
「第六如我等無異(にょがとうむい)如我昔所願(にょがしゃくしょがん)の事 御義口伝に云く、我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり。此の本門の釈尊は我等衆生の事なり。如我の我は十如是の末の七如是なり。九界の衆生は始の三如是なり。我等衆生は親なり、仏は子なり。父子一体にして本末究竟等(ほんまつくきょうとう)なり。此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱うる者是(これ)なり。(中略)南無妙法蓮華経を指して、今者已(こんじゃい)満足(まんぞく)と説かれたりと意得(こころう)べきなり。されば此の如我等無異の文肝要なり。如我昔所願は本因妙、如我等無異は本果妙なり。妙覚の釈尊は我等が血肉(けつにく)なり、因果の功徳骨髄(こつずい)に非ずや」(『御義口伝巻上』方便品八箇の大事)
法華経方便品第二に「舎利弗(しゃりほつ)当(まさ)に知るべし、我本誓願(もとせいがん)を立てて、一切の衆(しゅ)をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲(ほっ)しき、我が昔の所願(しょがん)の如きは、今者(いまは)已(すで)に満足しぬ、一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とある部分の御義口伝である。「我」とは釈尊という他者性の仏ではなく、妙法に随順する己心に開く釈尊、すなわち色心不二・自他不二の仏である。「我が如く等しくして異なること無からしめん」とは色心をもって妙法に帰すること、すなわち発心による唱題である。「我が昔の所願(しょがん)の如きは、今者(いまは)已(すで)に満足しぬ」とは妙法に命(もと)づく心法をもって色法を開くこと、すなわち生の場における慈悲(心法)の振る舞い(色法)の展開である。「因果の功徳」は心法の成仏、「妙覚の釈尊」は色法の成仏を示している。妙法に境智冥合する自己の色心が妙法の当体と開かれるとの文である。天台大師は、方便品第二の十如実相の文に理の一念三千(心性所具の三千)を読み取り、日蓮はそこからさらに、色心不二・久遠即末法の事の一念三千(妙法)を読み取ったのである。
法華経は宿業転換の方法的原理の一つとして、すべての事象に善と悪の両義性を読み取る。十界もまた、それぞれに両義性を秘めているのである。文上の法華経には、十界を差別する面が残っている。しかし仏だけを特別な境界と錯覚すれば、仏法の生命論はたちまち権威主義化し、破綻してしまうだろう。十界の衆生は本来、それぞれに色心不二の生命を守り、育み、成長させる生命本有の働きの譬喩なのである。
例えば、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は四悪道(四悪趣(あくしゅ))と呼ばれている。しかし地獄界(苦痛)の本質は善でも悪でもなく、生命が痛みを感ずることによって自らを守ろうとする働きなのである。同じように餓鬼界(貪)は飢えを感ずることによって生命が必要とするものを摂取する働き。畜生界(癡)は環境の変化に素早く対応しようとする生命の働き。修羅界(瞋・慢)は危険と感じたものを排除しようとする生命の働きにほかならない。その生命本有(ほんう)の働きが調和と連帯を失うとき、両義性のマイナス面が浮上する。生命の真実を把握するためには、常に十界の両義性を自覚しなければならない。三悪道、四悪趣、六道、四聖という一義的な呼び方には、偏った生命観を助長する危険性がひそんでいる。
〈地獄界〉
地獄界には極めて重要な役割がある。人間が生きるために苦痛はどのような意味を持つのだろうか。精神的、肉体的に大きな傷を受けたとき、生命は外からの情報や物理的刺激をできるだけ遮断することによって自己の生命空間を縮小し、ひたすら傷の回復に全力を上げるのだという。そこに苦痛を感ずることの重要な役割がある。私たちの日常的価値観は、苦痛をマイナス・イメージでとらえがちだが、その本質は生命を維持し、より力強くよみがえるための智慧(内在的活力)にほかならない。
痛みの感覚は生命を保障し、人間性を形成するための不可欠な情報源なのである。母と子はその出会いの初めから、生命の連帯に支えられた痛みの共感を持つのだという。産む母と生まれる子供が共有する痛みの感覚に、人間としての連帯の原点を読み取ることができよう。現代社会の価値観は、その痛みの共感の場を切り裂く方向に偏ってきているのではないだろうか。家庭にも学校にも地域にも、痛みに共感してくれる人を見失った子供たちは、見えない地獄の責め道具(大人が考えた規則や制度)から逃れるために、自己と他者の関係を暴力的に変えようとするに違いない。現代社会は表面的にマイナス・イメージでとらえたものを、すべて切り捨てる方向に動いている、それは痛みが社会的に弱い立場の人たちに、一方的に押し付けられることを意味する。家庭や教育の現場にも同じ力が働いている。
痛みの感覚、つまり地獄界は生命を維持するために欠かせない働きなのである。年を取って痛感神経が鈍くなった人は、自分の足が囲炉裏の中で火傷をしても痛みを感じない。先天的に痛感神経の欠落した子供は、常にけがをしないように周囲の人たちが見守ってやらなければ生きられない。地獄界は人間が人間として生きるための重要な役割を担っているのだ。日蓮は地獄界の働きについて次のように述べている。
「第十六此(こ)の品(ほん)の時の不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の体(たい)の事 御義口伝に云く、不軽菩薩とは十界の衆生なり。三世常住の礼拝(らいはい)の行を立つるなり。吐く所の語言(ごごん)は妙法の音声(おんじょう)なり。獄卒(ごくそつ)が杖を取って罪人を呵責(かしゃく)するが体の礼拝なり。敢(あ)えて軽慢せざるなり。罪人我を責め成すと思えば不軽菩薩を呵責するなり。折伏の行是(これ)なり」(『御義口伝巻下』常不軽品三十箇の大事)
「不軽菩薩」とは十界それぞれの本来の働きである。「三世常住の礼拝(らいはい)の行」とは、生命を守りはぐむ本有(ほんぬ)の慈悲をいう。「吐く所の語言(ごごん)は妙法の音声(おんじょう)なり」とは、妙法より出ずる生命を守る働きの波動である。「獄卒」と「罪人」は痛みの感覚の両義性(能動即受動・肯定即否定)である。「罪人を呵責(かしゃく)するが体の礼拝なり」とは、痛みの感覚によって生命を守り、育むところに「罪人」を呵責する獄卒の本意があることを示している。「折伏」とは謗法を呵責することによって 自他の生命・人生を開く本有の慈悲(本化(ほんげ)の菩薩)の涌出(ゆじゅつ)である。獄卒の本意は折伏であり、獄卒を怨めば自分が獄卒、すなわち地獄の住人となる。日蓮は一人の生命の内に「獄卒」と「罪人」を見ているのである。「三世常住の礼拝の行を立つる」とき、すなわち妙法に随順するとき、十界互具、すなわち地獄本有の慈悲(抜苦与楽)の働きがよみがえる。
〈餓鬼界〉
餓鬼界の本質は、心身が必要なものを外界から取り入れようとする働きにほかならない。餓鬼界について「この道(どう)は余(よ)道と往還(おうげん)し善悪相通ずる」(『立世阿毘曇論(りゅうせあびどんろん)』)と説かれている。「余道と往還し」は十界互具を表す。餓鬼界がなければ声聞・縁覚・菩薩の向上心も生まれない。餓鬼道のおかげで人は身心ともに成長することができるのである。餓鬼界を一義的に悪と見て侮蔑し、排除する価値観は生命の法に違背する。「余道と往還」するのは餓鬼道のみではない。十界はいずれも「余道と往還」しているのだ。日蓮は餓鬼界の働きについて次のように述べている。
「経に云く、『一を藍婆(らんば)と名(なづ)け乃至汝等但能(ないしなんだちただよ)く法華の名を護持する者は福量(はか)るべからず』等云云、是れ餓鬼(がき)界所具の十界なり」(『観心本尊抄』)
引用されている経文は、法華経陀羅尼品第二十六の文で藍婆をはじめとする十羅刹女(じゅうらせつにょ)と、その母である鬼子母神(きしもじん)、その眷属たちが、末法に法華経を受持、読誦し、修行する者を擁護することを仏に誓い、仏が十羅刹女たちに成仏得道の印可を与えるところである。十羅刹女、鬼子母神は餓鬼界の働きを象徴している。この文は餓鬼界所具の仏界を表す。妙法に随順するとき、餓鬼界もまた慈悲を働きをよみがえらすのである。
〈畜生界〉
畜生界の本質は生きている場の変化に素早く対応しようとする生命の働きにほかならない。野生動物は危険に遭遇したとき、とっさに状況を判断して戦うか逃げるかを決める。人間は文明という檻の中で、戦うことも逃げることもできない状況に追い込まれやすい。その異常に長引くストレスは現代病の大きな原因となている。仏法はストレスの文底に難(なん)(逆境)をとらえる。難もまた両義的なのだ。畜生界所具の仏界について、法華経提婆達多品第十二に次のように説かれている。
「皆竜女(りゅうにょ)の、忽然(こつねん)の間(あいだ)に変じて男子(なんし)となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界(なんぽうむくせかい)に往いて、宝蓮華(ほうれんげ)に坐して、等正覚(とうしょうがく)を成じ、三十二相、八十種好(しゅごう)あって、普(あまね)く十方の一切衆生の為に妙法を演説(えんぜつ)するを見る」
この文は女人成仏(にょにんじょうぶつ)の証であると同時に、畜生界所具の仏界、すなわち十界互具を表している。畜生界の本質もまた、生命を擁護する重要な働きにほかならない。妙法に照らされた生命の場に、畜生界所具の菩薩界(慈悲の働き)がよみがえる。
〈修羅界〉
修羅界の本質もまた、危険なものを排除しようとする生命の働きなのである。敵の攻撃から身心を守るのは修羅界の働きにほかならない。免疫機能も修羅界の働きの一つと見ることができよう。免疫機能障害の一つである膠原病は、修羅界の働きが調和を失った姿なのである。日蓮は修羅界の働きについて次のように述べている。
「経に云く『婆稚阿修羅王乃至(ばちあしゅらおうないし)一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし』等云云。修羅界(しゅらかい)所具の十界なり」(『観心本尊抄』)
日蓮は法華経法師品第十の経文を引用して修羅界所具の十界を明かし、修羅界の生命の働きもまた妙法に随順するとき、本来の慈悲の働きを取り戻すことを教示しているのである。
四悪道のうち餓鬼、修羅、畜生の三つは貪欲(どんよく)(取)、瞋恚(しんに)(捨)、愚癡(ぐち)(選択)の三毒に対応している。貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)は、人生に無明をもたらす煩悩として、爾前経ではこれを消し去ることが仏道修行の目的とされた。しかし法華経はそれを転換して、三毒(どく)即三徳(とく)(法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ))の法理を説いている。法身・般若・解脱の三徳は、仏の生命を修行の面からとらえた概念である。法身は根源的な法の覚知(取)、般若は生命本有の智慧(選択)、解脱は煩悩の超克(捨)ととらえることができる。つまり三毒と三徳は生命が必要なものを取、捨、選択する働きの両義性にほかならない。
爾前経(にぜんきょう)には、この三毒を含めて貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)の六つの煩悩が説かれている。修羅界は、日蓮が「諂曲(てんごく)なるは修羅」と指摘するように、勝他(しょうた)の念にかられて他より劣ることに耐えられない心、すなわち慢を象徴している。煩悩の一つとされる慢は生命の主体性の現れであり、自他隔別の主体性は無慈悲に通じ、自他不二の主体性は慈悲に通じる。疑(ぎ)と悪見について爾前経には細かく説かれているが、これは両義的な癡(ち)の働きをさらに一義的に分析・体系化したものにほかならない。貪・瞋・癡・慢・疑・悪見などの煩悩を消し去れば、仏の生命の働きである三徳も消滅する。法華経には煩悩即菩提という根本的な法理が説かれている。煩悩がなければ、仏の生命を開くことはできないのである。
中道に見る辺境の智
法華経は煩悩即菩提・生死即涅槃という生命の両義性を自覚することによって、中道(生命の真実の道)を開く方法的原理を説いている。中道とは辺境への視点を失わない生命(智)にほかならない。辺境とは事象の両義性がせめぎ合う場である。それは両義性を止揚する場でもある。両義性の一方に偏った権力の座は、辺境の智によって慈悲の座へと止揚される。仏とは権力の座にあっても、辺境の智を失わない心である。日蓮は『当体義抄』の冒頭で、次のように述べている。
「問う、妙法蓮華経とはその体何物ぞや。答う、十界の依正即ち妙法蓮華の当体(とうたい)なり。問う、若(も)し爾(しか)れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか。答う、勿論なり。経に云く『所謂諸法乃至本末究竟等(しょいしょほうないしほんまつくきょうとう)』云云。妙楽大師(みょうらくだいし)釈して云く『実相(じっそう)は必ず諸法、諸法は必ず十如(にょ)、十如は必ず十界(かい)、十界は必ず身土(しんど)』と云云。天台云く『十如十界三千の諸法は今(こん)経(きょう)の正体(しょうたい)なるのみ』云云。南岳大師(なんがくだいし)云く『云何(いか)なるを名けて妙法蓮華経と為すや。答う、妙とは衆生妙(しゅじょうみょう)なるが故に、法とは即ち是れ衆生法(しゅじょうほう)なるが故に』云云。又天台釈して云く『衆生法妙』と云云。問う、一切衆生の当体即妙法(とうたいそくみょうほう)の全体ならば、地獄乃至(ないし)九界の業因業果(ごういんごうか)も皆是れ妙法の体なるや。答う、法性(ほっしょう)の妙理(みょうり)に、染浄(せんじょう)の二法有り。染法(せんぽう)は熏(くん)じて迷(まよい)となり、浄法は熏(くん)じて悟(さとり)と成る。悟は即ち仏界なり、迷は即ち衆生なり。此の迷悟(めいご)の二法二なりと雖も、然(しか)も法性真如(ほっしょうしにょ)の一理なり」
「十界の依正即ち妙法蓮華の当体(とうたい)なり」の「十界の依正」とは、自己の生命の内と外に広がる全体、すなわち依正不二(えしょうふに)を意味する。「即ち」とは妙法への信である。そこに色心不二・久遠即末法と開かれる生命こそ「妙法蓮華の当体」にほかならない。「一切衆生の当体即妙法(とうたいそくみょうほう)の全体」とは一人の生命がそのまま一つの宇宙であることを示している。依正不二の法理によって、個体と環境、環境と地球、地球と太陽系、太陽系と銀河、銀河と宇宙……へと、生命は入れ子構造になってつながっている。「地獄乃至(ないし)九界の業因業果(ごういんごうか)」とは、宇宙・生命本有の創造即破壊の働きの起滅である。「九界」の「界」は正報(主体)と依報(客体)の出会いの場ととらえることができよう。宇宙においてはすべてが連関しており、それ自体で存在しているものは何一つとしてない。子宮(宇宙)内の胎児(存在)は母と子と一体であり、すべての細胞を合わせて一つなのである。
「染浄(せんじょう)の二法」の「染法」は生命を汚染する働き、「浄法」は生命を浄化する働きである。同じ依正の出会いが、関係性の変化によって染法にもなれば浄法にもなる。言語に表示されたもの、すなわち体系化・制度化されたものは、すべて染法と浄法の両義性をはらんでいる。妙法に随順すれば浄法となり、妙法に違背すれば染法となる。「迷悟」の「迷」は妙法への違背、「悟」は妙法への随順である。「法性真如の一理」とは生命本有の働きにほかならない。
光に向かって進む人は常に影を背負っているが、影の部分が無価値とはいえない。むしろ現代社会が照らし出す価値から外れた部分にこそ、人間の世界を蘇生させる根源的な活力がひそんでいるのではないか。私たちがマイナスと思って切り捨ててきた物事の中に、人間が人間として生きるために最も大切なことが秘められているにちがいない。このようにとらえるとき、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)も、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)もすべて、両義性をはらんでいることが見えてくる。人には善と悪、天には繁栄と衰退、声聞・縁覚には自行と化他、菩薩には本化と迹化がある。仏にも此土(娑婆世界)と他土の仏、本仏と迹仏、実仏と権仏がある。法華経寿量品第十六には次のような偈頌が説かれている。
我仏(われほとけ)を得てより来(このかた) 経(へ)たる所の諸(もろもろ)の劫数(こっしゅ)
無量百千万 億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)なり
常に法を説いて 無数億(むしゅおく)の衆生を教化して
仏道に入らしむ 爾(しか)しより来(このかた)無量劫(こう)なり
(中略)
一心に仏を見たてまつらんと欲して 自(みずか)ら身命を惜しまず
時に我及び衆僧(しゅそう) 倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出(い)ず
我時に衆生に語る 常に此(ここ)に在って滅せず
方便力(ほうべんりき)を以っての故に 滅不滅有りと現ず
余国の衆生の 恭敬(くぎょう)し信楽(しんぎょう)する者有らば
我復(また)彼(か)の中に於いて 為(ため)に無上の法を説く
汝等(なんだち)此れを聞かずして 但(ただ)我滅度(めつど)すと謂(おも)えり
我諸(もろもろ)の衆生を見るに 苦海(くかい)に没在(もつざい)せり
故に為(ため)に身を現ぜずして 其れをして渇仰(かつごう)を生ぜしむ
その心の恋慕(れんぼ)するに因(よ)って 乃(すなわ)ち出でて為(ため)に法を説く
神通力是(じんずうりきかく)の如し 阿僧祇劫(あそうぎこう)に於(お)いて
常に霊鷲山(りょうじゅせん) 及び余の諸(もろもろ)の住処に在り
衆生劫(こう)尽きて 大火(だいか)に焼かるると見る時も
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり
園林諸(おんりんもろもろ)の堂閣(どうかく) 種種(しゅじゅ)の宝をもって荘厳し
宝樹華果(ほうじゅけか)多くして 衆生の遊楽する所なり
諸天天鼓(しょてんてんく)を撃(う)って 常に衆(もろもろ)の伎楽(ぎがく)を作(な)し
曼陀羅華(まんだらけ)を雨(ふ)らして 仏及び大衆(だいしゅ)に散ず
我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而(しか)も衆(しゅ)は焼け尽きて
憂怖諸(うふもろもろ)の苦悩 是(かく)の如く悉く充満せりと見る
是の諸(もろもろ)の罪の衆生は 悪業(あくごう)の因縁を以って
阿僧祇劫(あそうぎこう)を過ぐれども 三宝(さんぽう)の名(みな)を聞かず
諸(もろもろ)の有(あら)らゆる功徳を修し 柔和質直(にゅうわしちじき)なる者は
即ち皆我が身 此(ここ)に在って法を説くと見る
(中略)
我常(われつね)に衆生の 道(どう)を行じ道(どう)を行ぜざるを知って
応(まさ)に度すべき所に随って 為(ため)に種種(しゅじゅ)の法を説く
毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)さく 何を以ってか衆生をして
無上道(むじょうどう)に入り 速(すみや)かに仏身を成就(じょうじゅ)することを得せしめんと
ここに引用したのは寿量品の自我偈(じがげ)の一部だが、自我偈全体は「自我得仏来(じがとくぶつらい)」(我仏(われほとけ)を得てより来(このかた))の「自」で始まり、「速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)」(速やかに仏身を成就する)の「身」で終わる。この自我偈の文底を日蓮は次のようにとらえている。
「第二十二自我偈始終(じがげしじゅう)の事 御義口伝に云く、自とは始(はじめ)なり。速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)の身は終(おわ)りなり。始終(しじゅう)自身(じしん)なり。中の文字は受用(じゅゆう)なり。仍(よ)つて自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし。自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一念三千なり。伝教云く『一念三千即自受用身、自受用身とは尊形(そんぎょう)を出でたる仏と、出尊形仏(しゅっそんぎょうぶつ)とは無作の三身と云う事なり』云云。今日蓮等(ら)の類(たぐ)い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者是(これ)なり云云」(『御義口伝巻下』寿量品二十七箇の大事)
「自我偈」は自で始まり、身で終わっている。自と身の間の文はすべて仏自身(生命の法)のことを説いている。「自我」は無分別の一念三千、「偈」は分別の一念三千である。仏道とは分別の言語を戦略的に用いて無分別の一念三千に至る道なのだ。自我偈全体は無作の三身、すなわち妙法を顕わしている。文字は応身、象徴作用は報身、象徴する体は法身となる。自我偈とは妙法に境智冥合する自己が開く出来事の総体にほかならない。日蓮は、自我偈を含む寿量品全体を次のようにとらえている。
「一寿量品(じゅりょうぼん) 御義口伝に云く、寿量品とは十界の衆生の本命(ほんみょう)なり。此の品を本門と云う事は、本に入る門と云う事なり。凡夫の血肉の色心を本有(ほんぬ)と談ずるが故に本門とは云うなり。此の重に至らざるを始覚(しかく)と云い、迹門と云うなり。是を悟るを本覚(ほんがく)と云い、本門と云うなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は一切衆生の本有(ほんぬ)の在処(ざいしょ)なり。爰(ここ)を以て経に『我実成仏已来(がじつじょうぶついらい)』とは云うなり云云」(『御義口伝巻下』一廿八品悉南無妙法蓮華経の事)
「本門寿量品」とは生命の奥底に入る門である。生命の奥底、すなわち法華経の文底を開くとき、釈尊とは五百塵点劫成道の他者性の仏ではなく、〈今、ここに〉妙法を信受する主体的な民衆一人ひとりの「血肉の色心」であることが見えてくる。「一切衆生の本有の在処」とは、〈今、ここに〉現成する色心不二・久遠即末法の時空にほかならない。〈今、ここに〉「我本行菩薩道」(不変真如の理に帰する修行)即「我実成仏已来」(随縁真如の智に命(もと)づく証)の妙法を信受する一人ひとりの民衆の生命の場に、久遠の釈尊がよみがえる。それを「我実成仏已来」の「無作の三身」とも「南無妙法蓮華経」とも名づけるのである。一人ひとりの生命には無限ともいえる可能性が秘められている。価値観は宿業に染められながら意識の深層からマンダラ模様を描いて浮かび上がる。それを価値創造へと開くのか、価値破壊へと閉ざすのか、その選択と実践が問われているのである。さらに日蓮は自我偈(じがげ)の重要な文を選び、「時に我及び衆僧(しゅそう)、倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出(い)ず」について、次のように文底の意義を明らかにしている。
「第十四時我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)倶出霊鷲山(くしゅつりょうじゅせん)の事 御義口伝に云く、霊山一会(りょうぜんいちえ)儼然未散(げんねんみさん)の文なり。時とは感応末法(かんのうまっぽう)の時なり。我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆(しょうしゅ)を衆僧(しゅそう)と説かれたり。倶(く)とは十界なり。霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶(とも)に霊鷲山に出ずるなり。秘すべし、秘すべし。本門事(じ)の一念三千の明文(みょうもん)なり。御本尊は此の文を顕し出(いだ)し給うなり。されば倶(く)とは不変真如(ふへんしんにょ)の理なり。出(しゅつ)とは随縁真如(ずいえんしんにょ)の智なり。倶とは一念なり、出とは三千なり云云。又云く、時とは本時娑婆(ほんじしゃば)世界の時なり。下(しも)は十界宛然(じっかいおんねん)の曼陀羅(まんだら)を顕す文なり。其の故は時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出(れっしゅつ)するなり。霊山とは御本尊、並びに日蓮等(ら)の類(たぐ)い南無妙法連華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云」(『御義口伝巻下』寿量品廿七箇の大事)
「霊山一会儼然未散(りょうぜんいちえげんねんみさん)」(霊山一会儼然として未だ散らず)の「霊山一会」とは、十界三千の衆生が列座する法華経の虚空会の儀式が象徴する久遠即末法・色心不二の生命のことであり、「感応末法(かんのうまっぽう)の時」とは我本行菩薩道を実践する主体的な民衆(自己)が生きる場(時空)である。それを「霊山一会儼然未散」という。「時に我も及も衆僧も倶(とも)に」とは妙法に照らされた十界の生命の働きを意味する。倶(く)と出(しゅつ)の二字は十界互具の一念三千、すなわち妙法を表す。そして、事の一念三千の妙法の曼陀羅を信じ、南無妙法蓮華経と唱える民衆一人ひとりの生きる場が、そのまま「霊山」となる。さらに日蓮は、自我偈が説く「衆生劫尽(しゅじょうこうつ)きて、大火(だいか)に焼(や)かるると見(み)る時(とき)も」から「我(わ)が浄土(じょうど)は毀(やぶ)れざるに、而(しか)も衆(しゅ)は焼(や)け尽(つ)きて、憂怖諸(うふもろもろ)の苦悩(くのう)、是(かく)の如(ごと)く悉(ことごと)く充満(じゅうまん)せりと見(み)る」までの文について、次のように文底の意義を説いている。
「第十五衆生見劫尽(しゅじょうけんこうじん)〇而衆見焼尽(にしゅけんしょうじん)の事 御義口伝に云く、本門寿量の一念三千を頌(じゅ)する文なり。大火所焼時(だいかしょしょうじ)とは実義には煩悩(ぼんのう)の大火なり。我此土安穏(がしどあんのん)とは国土世間なり。衆生(しゅじょう)所(しょ)遊楽(ゆうらく)とは衆生世間なり。宝樹多華菓(ほうじゅたけか)とは五陰(ごおん)世間なり。是(こ)れ即ち一念三千を分明(ふんみょう)に説かれたり。又云く、上(かみ)の件(くだん)の文は十界なり。大火とは地獄界なり。天鼓(く)とは畜生なり。人と天とは人天の二界なり。天と人と常に充満(じゅうまん)するなり。雨曼陀羅華(うまんだらけ)とは声聞界(しょうもんかい)なり。園林(おんりん)とは縁覚(えんがく)界なり。菩薩界とは及(ぎゅう)の一字なり。仏界とは散仏(さんぶつ)なり。修羅(しゅら)と餓鬼(がき)界とは憂怖(うふ)諸苦悩(しょくのう)如是悉充満(にょぜしつじゅうまん)の句に摂(せつ)するなり。此等(これら)を是諸罪衆生(ぜしょざいしゅじょう)と説かれたり。然りと雖(いえど)も此の寿量品の説顕(あらわ)れては、即皆見我身(そっかいけんがしん)とて一念三千なり。今日蓮等(ら)の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是(これ)なり云云」(『御義口伝巻下』寿量品二十七箇の大事)
自我偈の文から、日蓮は十界互具・十如是・三世間の一念三千、すなわち久遠元初の妙法の曼陀羅を読み取っているのだ。「我此土安穏(がしどあんのん)」は国土世間、「衆生(しゅじょう)所(しょ)遊楽(ゆうらく)」は衆生世間、「宝樹多華菓(ほうじゅたけか)」は「五陰(ごおん)世間」となる。この三つの言葉は三世間を表す。「大火」は地獄界、「天鼓(く)」は畜生界、「人と天」は人天の二界、「雨(う)曼陀(まんだ)羅華(らけ)」は声聞界、「園林(おんりん)」は縁覚(えんがく)界、「及(ぎゅう)」は菩薩界、「散仏(さんぶつ)」は仏界、「憂怖(うふ)諸苦悩(しょくのう)如是悉充満(にょぜしつじゅうまん)」は修羅(しゅら)界と餓鬼(がき)界を表す。そこに浮かび上がるのは、事の一念三千の曼陀羅である。
このように寿量品の文底(事的世界像)が明らかになると、法華経全体が根源的な生命の法を説いていることが見えてくる。一人の男が無上宝聚(ほうじゅ)を求めて旅に出る。探しあぐねているうちに、やがて素晴らしい宮殿にたどり着く。宮殿のどこかに宝が隠されていると思って隈なく探すが、どこにも宝は見つからない。疲れ果てた旅人は宮殿の外に出て満天に星が輝く夜空を見上げる。そのとき自分を包んでいる宇宙、自分の生命・人生そのものが探していた無上宝聚だったことに気がつく。法華経を文上で読むかぎり、無上宝聚がどういうものか説明している文は見つからない。法華経全体が無上宝聚の象徴なのである。それは妙法が開く色心不二・久遠即末法の世界を顕している。
経文に文上と文底があるように森羅万象にも文上と文底がある。空間軸でとらえれば森羅万象の文底は諸法実相となる。さらに諸法の文底は色法、実相の文底は心法であり、諸法実相の文底は色心不二となる。時間軸でとらえれば森羅万象の文底は五百塵点劫成道(じんてんごうじょうどう)である。さらに五百塵点劫の文底は久遠実成、久遠実成の文底は久遠即末法、久遠即末法の文底は〈今、ここに〉となる。色心不二・久遠即末法なる存在を一極(いちごく)、すなわち妙法という。〈私〉という存在は、〈今、ここに〉因縁和合の波動を広げる生命の大海と一体不二なる存在なのである。日蓮は次のように語りかける。
「妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様(いかよう)なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり。されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、我が身頓(やが)て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり」(『十如是事』)
妙法蓮華経の体とは、わが心性の八葉の白蓮華にほかならない。わが生命の体性を(たいしょう)妙法蓮華経と呼ぶのである。従って、この凡夫の身が妙法と境智冥合するとき、そのまま三身即一の本覚の如来と開かれる。しかし南無妙法蓮華経は言語道断・心行所滅の法なのである。釈尊は法華経によって妙法を衆生に説き明かそうとした。しかし言語道断の法を言語によって直接説明することはできない。そこに文上の釈迦仏法の限界がある。天台大師は法華経の文を思索することによって妙法の構造を体系化して示そうとした。心行所滅の法を分類・体系化という形而上学的な思索によって把握することは不可能なのだ。そこに文上の天台仏法の限界がある。言語と思索が生まれ出る根源である妙法を、言語と思索だけでたぐり寄せることはできない。しかし言語と思索は仏法の原点であり、それを否定することはできない。言語と思索による分別の両義性を把握し、その限界を超克する方法的原理が問われているのだ。
日蓮は「自我得仏来」の「自」から「即成就仏身」の「身」に至る自我偈全体が妙法の曼陀羅を示していることを読み取った。互いに無関係に見える言葉や文字を対応させることによって、表層からは見えてこない深層の意味を浮かび上がらせる方法的原理。それはソシュールが晩年に没頭した神話・伝説・アナグラム研究と通底している。言語学者の丸山圭三郎氏は、ソシュールのアナグラム研究について次のように指摘している。
「ソシュールが関心を抱いたアナグラムとは、従来の〈言葉遊び〉としての文字(ヽヽ)の配置替えではなく、古代ローマのサトゥルヌス詩において、アソナンス(半階音=同一ないし類似の母音のくり返し)やアリテラシオン(畳韻法=同一ないし類似の子音のくり返し)以上に重要な意味をもった、詩法としての音(ヽ)の散種現象であった。彼はこの技法を慣習的・閉鎖的な言語コードの制約からの解放とみなし、神話的思考が既存のイメージを用いたブリコラージュであるのと同様に、詩人たちはアナグラムに導かれて詩作するのではないかと考えたのである。
そして研究の対象をホメロスやヴェーダまで広げていくにつれてますますその確信は強まった。その仮説によれば、詩のなかでは、すべての音的要素が偶数のペアに分けられて相呼応する内的(ヽヽ)な〈対比の法則loi de coupl aison〉と、その詩の首題(多くの場合固有名詞、とくに神の名)となる語が、あらかじめいくつかの音に分解されて散種される外的(ヽヽ)な〈テーマ語の法則loi de mot-theme)の二つがある。後者は、詩句の発想と成立にとって母型がミニチュアのような形をとって詩のなかに象嵌されている〈主題象嵌mise en abyme〉と言うべきものである。
現代の思想に大きなインパクトを与えたのは、いうまでもなく第二の法則であるテーマ語の散種が意味するものであった。特にテーマ語が語や文よりも広範囲な作品全体のなかに埋めこまれているパラグラムは、テクストの背後のもう一つのテクストを同時存在せしめることによって、表層言語を制約している線上性・不可逆性を破壊し、深層構造のもつポリフォニー性・可逆性を回復させるからである」(丸山圭三郎『コトバ・関係・深層意識』岩波講座 現代思想1、五四~五五ページ)
ここには日蓮の文底の方法的原理と通底する命題が、二つ示されている。一つは「詩のなかでは、すべての音的要素が偶数のペアに分けられて相呼応する」という内的な〈対比の法則loi de coupl aison〉であり、もう一つは「詩の首題(多くの場合固有名詞、とくに神の名)となる語が、あらかじめいくつかの音に分解されて散種される」という外的な〈対比の法則loi de coupl aison〉である。『御義口伝』の「速成就仏身の身は終りなり。始終自身なり。中の文字は受用なり」は内的な対比の法則と通底し、「自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし」は外的な対比の法則と通底している。むしろ、どちらの文もその両方をはらんでいるというべきであろう。
ソシュールが提起している「慣習的・閉鎖的な言語コードの制約からの解放」という命題は、言語による分析・統合化という形而上学的思考の限界を超克する方法的原理を示唆している。その文底に、仏法の譬喩と曼陀羅の法理を読み取ることができよう。「神話的思考が既存のイメージを用いたブリコラージュであるのと同様に、詩人たちはアナグラムに導かれて詩作する」という命題は、言葉の文底を開きその両義性を把握すると同時に、事象の多義性をイメージする方法的原理を示唆している。さらに「表層言語を制約している線上性・不可逆性を破壊し、深層構造のもつポリフォニー性・可逆性を回復させる」という命題は、直線的・並列的な因果異時・従因至果の論理を、因果倶時・従果向因の曼陀羅の法理へと開く方法的原理を示唆している。
ソシュールのアナグラム研究は、ユングのマンダラ研究に通底していた。精神分析学者のユングによれば、マンダラとは言葉と言葉、記号と記号が響き合い照らし合いながら、中心に向かって収斂する力と螺旋状に外に広がる力が同時に脈動する生命空間なのだという。ソシュールやユングの思索を日蓮の仏法によって依義判文(えぎはんもん)する(文底の意味をくみ上げる)とき、マンダラとはコトを象徴する文字や記号が互いに照らし合い、響き合うことによって、無限の意味と力をわき立たせている生命空間であることが見えてくる。地獄界のマンダラもあれば、修羅界のマンダラもある。十界それぞれのマンダラを言語によって説明しようとしたのが法華経以前の諸経であり、一念三千の生命のマンダラを譬喩によって説明しようとしたのが法華経だった。法華経の虚空会が象徴する「我即宇宙・宇宙即我」なる生命をトータルに顕わした日蓮の十界互具・一念三千の曼陀羅こそ、色心不二・久遠即末法のマンダラなのである。
文明の進歩は人間に多くの思い違いをさせてきた。組織の論理と行動は、その組織にとって最も効率的で有利なことを選択しようとする。たとえ、それが人間の倫理に違背している場合でも、そうせざるを得ない仕組みになっている。しかも人間は反省するが、組織自体は決して反省しない。それは現実の企業や組織、国家の行動が証明している。組織を運営する人間が歯止めをかけなければ、組織はどこまでも暴走する。その典型的な例は権力者が選ぶ国家間の戦争にほかならない。
釈尊も日蓮も組織(修行者の集団)の中で学び修行したが、生命の根源の法を組織の中で他者から学ぶことはできなかった。誰もが自分自身の生きる場で久遠の生命を悟る以外にないのである。「成仏は無師智」という言葉の意味は重い。組織の中で出世すればするほど成仏は難しくなる。出世という言葉もまた両義的なのだ。組織が大きくなればなるほど、民衆は組織内の権威に対して自己を抑制するようになる。上層幹部に対する民衆の批判の声は届きにくい。自己抑制装置が組織の階層ごとに働いているからだ。戒律化した建前の正義が横行し、民衆の真実は見えなくなる。組織の肩書は自由を束縛する金メッキの鎖になりやすい。金メッキの鎖が太くなっただけなのに、自分は偉くなったと錯覚している人たちが多い。組織の肩書や権力の座を生命の世界に羽ばたく翼に変えるには、根源的な意識革命が必要なのである。
浄土の三部経は逃れようのない不条理に翻弄され、苦悩する人々の心を癒すために、そういう人たちが願う理想郷を仮構して見せたのである。しかし、そこには方便を真実と錯覚させる陥穽があった。法華経の場合も文上にとらわれている限り、同じ陥穽が口を開くだろう。爾前権経も文上の法華経も、無量の慈悲と智慧によって衆生を救う仏を他者に幻想している。日蓮がとらえた法華経文底の法門はあくまでも、〈今、ここに〉我本行菩薩道を行ずる一人ひとりの民衆の生きる場に、久遠の仏がよみがえることを明らかにしているのだ。他者に仏を幻想し、その本果(色相荘厳の姿)を真似る心によみがえるのは、権威主義的ナルシストでしかない。権威主義にとらわれた人間の心は、他者を含め一切の事物を一義的に一刀両断に裁いてしまう。それは自他共存世界を破壊する行為にほかならない。
仏を自己を飾る権威にすれば外道となる。仏のそばにいる人ほど外道に陥りやすいという逆説も一つの真理なのだ。言葉でいう求道心も両義性を帯びている。利潤拡大、能率主義、他者支配の欲望を満たすことに生きがいを感じて、それを求道心と錯覚している場合もある。仏法の実践は、人間としての平等性に基づく色心不二なる自他共存世界の拡大の中にある。他者に仏を幻想し、その権威の前にひれ伏して、民衆に向き直ったとたんに居丈高になる心は虎の威を借る狐でしかない。そういう人たちは、日蓮が説く本因妙の仏法とは無縁なのである。
成仏とは仏の本因(我本行菩薩道の心)を覚知することにほかならない。日蓮は『百六箇抄』の中で「仏は本因妙を本と為し、所化は本果妙を本と思えり」と説いている。釈尊は「我本行菩薩道」の文底に秘められた妙法こそ成仏の本因であることを覚知していたが、弟子たちは釈尊の本果の姿を真似ることを仏道修業と勘違いしていた、との厳しい指摘である。一人ひとりが妙法への信を深め、自分の譬喩を語らなければならないのだ。
己心の観世音菩薩
仏道における師弟の道は、弟子が師の本因を引き継ぐことにある。師の本果を真似れば度し難い権威主義的ナルシストに堕してしまうだろう。日蓮は法華経文上を本果として退け、法華経文底を本因妙ととらえて、そこに生命の真実が秘められていることを明らかにしたのである。文底の方法的原理を用いて、すべての経文、すなわち森羅万象をとらえ直すところに日蓮の哲学と実践がある。法華経文上に説かれている色相荘厳の仏の前にひれ伏す人は、歴劫修行の陥穽に陥る。歴劫修業とは永遠に成仏を先延ばしすることを意味する。一つの事象を細かく分析すればするほど、分別虚妄の世界が広がる。言葉は分別を重ねるごとに世界を分断し、抽象した部分だけを拡大してみせる。捨象されたものは混沌へと拡散する。しかし分別虚妄といっても、仏法は人間の生命本有の働きである分別を否定しているわけではない。あらゆる現象は混沌が分別されることによって起滅しているのだ。分別という行為もまた、両義的にとらえなければならない。法華経観世音菩薩普門品第二十五には次のような偈が説かれている。
衆生困厄(こんやく)を被(こうむ)って 無量の苦身を逼(せ)めんに
観音妙智(かんのんみょうち)の力 能く世間の苦を救う
神通力(じんずうりき)を具足し 広く智の方便を修して
十方(じっぽう)の諸(もろもろ)の国土に 刹(くに)として身を現ぜざること無し
種種(しゅじゅ)の諸(もろもろ)の悪趣(あくしゅ) 地獄鬼畜生(じごくきちくしょう)
生老病死(しょうろうびょうし)の苦 以って漸(ようや)く悉く滅せしむ
真観清浄観(しんかんしょうじょうかん) 広大智慧観(こうだいちえかん)
悲観(ひかん)及び慈観(じかん)あり 常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし
無垢清浄(むくしょうじょう)の光(ひかり)あって 慧日諸(えにちもろもろ)の闇を破し
能く災いの風火を伏(ふ)して 普(あまね)く明かに世間を照らす
悲体(ひたい)の戒(かい)は雷震(らいしん)のごとく 慈意(じい)の妙は大雲(だいうん)のごとく
甘露(かんろ)の法雨(ほうう)を澍(そそ)ぎ 煩悩(ぼんのう)の燄(ほのお)を滅除(めつじょ)す
諍訟(じょうしょう)して官処(かんじょ)を経(へ) 軍陣(ぐんじん)の中に怖畏(ふい)せんに
彼の観音の力を念ぜば 衆(もろもろ)の怨(あだ)悉く退散せん
妙音観世音(みょうおんかんぜおん) 梵音海潮音(ぼんのんかいちょうおん)
勝彼世間音(しょうひせけんのん)あり 是の故に須(すべから)く常に念ずべし
念念に疑いを生ずること勿(なか)れ 観世音浄聖(かんぜおんじょうしょう)は
苦悩死厄(くのうしやく)に於いて 能く為に依怙(えこ)と作(な)れり
一切の功徳を具して 慈眼(じげん)をもって衆生を視る
福聚(ふくじゅ)の海無量なり 是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし
ここには衆生の苦しみを救う観世音菩薩の広大な慈悲(苦しみを除き、楽しみを与える力)が説かれている。観世音菩薩は神通力(じんずうりき)を備え、悩める衆生が観世音菩薩を念ずれば、ただちに時空を超えて衆生の前に出現する。六道の悩みや生老病死の苦しみがたちまち解消するだけでなく、牢獄の苦しみや戦争の災害からも免れる。文上で読めば、観音菩薩は人智を超えた超能力者にほかならない。日蓮は「観世音菩薩」を次のように文底からとらえ直している。
「第二観音妙(かんのんみょう)の事 御義口伝に云く、妙法の梵語は薩達摩(さだるま)と云うなり。薩(さ)とは妙と翻(ほん)ず。此の薩の字は観音の種子なり。仍(よつ)て観音法華(かんのんほっけ)、眼目異名と釈せり。今末法に入つて日蓮等(ら)の類(たぐ)い、南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益(りやく)より天地雲泥(うんでい)せり。所詮(しょせん)観とは円観なり。世とは不思議なり。音とは仏機なり。観とは法界の異名なり。既に円観なるが故なり。諸法実相の観世音なれば地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見するなり。音とは諸法実相なれば、衆生として実相の仏に非ずと云う事なし。寿量品の時は十界本有(ほんぬ)と説いて無作(むさ)の三身なり、観音既に法華経を頂受(ちょうじゅ)せり。然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり云云」(『御義口伝巻下』普門品五箇の大事)
「薩(さ)とは妙と翻(ほん)ず。此の薩の字は観音の種子なり」とは、観世音菩薩の本因が久遠の妙法であることを示している。「観とは円観なり。世とは不思議なり。音とは仏機なり。観とは法界の異名なり」とは、観(法)・世(報)・音(応)の三身、すなわち久遠の妙法を表す。「地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見するなり」とは、十界の両義性を読み取り、そこに人間が人間として生きる場を蘇生させる働きにほかならない。観世音菩薩は法華経の会座(えざ)に参加し、生命の法である妙法蓮華経を頂受している。つまり観世音菩薩は十界の生命の連帯・調和をよみがえらせ、維持する働きなのである。根源の一法(妙法蓮華経)と境智冥合し、久遠の生命の場が開かれるとき、自他不二の己心の観世音菩薩が目覚める。さらに日蓮は観世音菩薩の三十三身利益(じんりやく)について、次のように説いている。
「第五三十三身利益(さんじゅうさんじんりやく)の事 御義口伝に云く、三十とは三千の法門なり。三身とは三諦の法門なり云云。又云く、三十三身とは十界に三身づつ具(ぐ)すれば十界には三十、本(もと)の三身を加うれば三十三身なり。所詮(しょせん)三とは三業(ごう)なり。十とは十界なり。三とは三毒なり。身とは一切衆生の身なり。今日蓮等(ら)の類、(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三十三身の利益(りやく)なり」(同前)
日蓮は「三十三身」の一つ一つの言葉を手掛かりにして、生命という現象の文底を開いているのである。経典の文底は森羅万象の奥底に通じる。「三身」は空(くう)・仮(け)・中の(ちゅう)三諦の法門、「三十三身」は一念三千の法門、「三」は三毒(どく)(貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち))即(そく)三徳(とく)(法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ))を表している。「三十三身」とは、法性之淵底玄宗の極地から涌出(ゆじゅつ)する十界の色心にほかならない。「三十三身の利益」とは、妙法の曼陀羅に唱題する生命の働きなのである。妙法に唱題する己心に観世音菩薩の三十三身がよみがえるのだ。
ハイデッガーは人間を現存在と名づけ、世界内存在と位置づけている。現存在は世界の内に投げ出されているという被投性の過去を有しているが、未来へ企投するという自己の可能性を自覚している存在でもある。現存在は自己を超えて自己の外へ出ていかなければならない。この現存在の在り方を実存と呼ぶ。
個々の〈私〉は存在の火口である。〈私〉という火口を媒介として現存在が噴出する。〈私〉による世界定位(現存在における事物についての断片的知識)が現存在の在り方を決定する。現存在の思索と行動が世界定位を拡大し、縮小する。実存の奥底(文底)への無限接近が〈私〉の内に超越者を覚醒させる。超越者とは法華経文底の妙法にほかならない。私たちは事象の意味を読み取り、語り、書き、行動することによって生命に十界の宿業を刻印するのだ。真の哲学とは思索と行動によって世界定位を拡大しつつ、超越的な実在に迫る実践ではないだろうか。
方便品の諸法実相は宇宙即我・我即宇宙を象徴し、見宝塔品の巨大な宝塔は生命の尊厳を象徴し、寿量品の(じゅりょうほん)五百塵点劫成(じんてんごう)道は色心不二・久遠即末法の生命を象徴し、神力品(じんりきぼん)の結要付属(けっちょうふぞく)は宿業転換、成仏への発心を象徴している。法華経はどの品も宇宙と生命の一体性、全体像を説いているのである。日蓮が『御義口伝』や『百六箇抄』に展開している思索と論理の過程をたどることによって、中道の方法的原理を学び取り、法華経の哲理を自分の生きる場に展開するとき、世界は新しい意味を提示するだろう。
第五章 現代文明の両義性
四天王と四箇の格言
人間の文明はよい方向へ展開しているのだろうか。科学技術が進歩したおかげで、私たちの生活は確かに便利になった。しかし文明社会は常にプラスとマイナスの両義性をはらんでいる。それは過去、現在、未来を通して変わらない。私たちが生きている現代は、管理化、能率化、情報化、権力化が最も進んだ時代である。いまや、ジェット機で世界旅行をしたり、コンピューター・ゲームを楽しむのは当たり前になっているが、そんな体験をした王様や皇帝は過去に一人もいなかった。文明の進歩は、さまざまな面で不可能だったことを可能にしている。それと同時に、文明が抱えるマイナス面もますます肥大化していることを忘れてはならない。日蓮は『御義口伝』や『百六箇抄』などの相伝書をはじめ多くの遺文で、法華経の文底を読み解く方法的原理を展開している。それはまた、森羅万象の文底を読み解く方法的原理でもある。人間が築く文明社会もまた森羅万象の一つの形にほかならない。文底の方法的原理に照らして現代社会の本質を読み解くとき、一体何が見えてくるのだろうか。
宇宙・生命の壮大なドラマを展開する法華経の舞台には、四天王(大持国天王(だいじこくてんのう)・大広目(だいこうもく)天(てん)王(のう)・大増長天王(だいぞうちょうてんのう)・大毘沙門天王(だいびしゃもんてんのう))が登場する。四天王は帝釈天の外将で、法華経序品第一で眷属(けんぞく)万の天子とともに列座し、同陀羅尼品(だらにぼん)第二十六では法華経の行者を擁護することを誓っている。四天王は須弥山(しゅみせん)の中腹にある四天王天の四方(東西南北)に住む護法神である。日蓮が顕した曼陀羅の四隅(東西南北)には四天王の名前が大きく書かれている。
①大持国天王は東方を守護する善神で、須弥山の第四層級、賢上戒に住し、安民の役目を持つ。乾闥婆(けんだつば)(香神・尋香等と訳す。天界の楽神で、酒肉を食わず唯香を求め、体から香を出すのでこの名がある)、毘舎遮(びしゃじゃ)(食血肉鬼(じきけつにくき)・?精鬼(かんしょうき)等と訳す。人間の精気を食う鬼といわれる)を眷属として従えている。
②大広目天王は西方を守護する善神で、須弥山の西面中腹に住し、浄天眼によって閻浮(えんぶ)提(だい)の衆生を見守り、悪を呵責する。竜、富単那(ふたんな)(臭穢(しゅうえ)、熱病鬼と訳す)を眷属として従えている。
③大増長天王は南方を守護する善神で、須弥山の第四層級に住し、不幸免離する役目を持つ。鳩槃荼(くはんだ)(陰嚢(いんのう)・形卵(ぎょうらん)等と訳す。人の精気を吸い、変幻自在の悪鬼といわれる)等の諸鬼神を眷属として従えている。
④大毘沙門天王は多聞天とも呼ばれる。北方を守護する善神で、須弥山の中腹、由?(ゆけん)陀(だ)羅(ら)山の北峰に住し、法を多聞して法座を守る役目を持つ。夜叉(やしや)、羅刹(らせつ)を眷属として従えている。
四天王が従える諸鬼神は両義的な精神作用を象徴し、法華経では善鬼として法華経の行者を守護する働きとなる。このように四天王が悪鬼魔神を眷属として従えていることからも、仏法が基本的にあらゆる事象に善と悪の両義性を見ていることが分かる。
この四天王の働きは文明社会のプラスの働き(①管理化→大持国天王②権力化→大広目天王③能率化→大増長天王④情報化→大毘沙門天王)を象徴している。四天王は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に配することができる。大持国天王は鼻根と舌根、大広目天王は眼根、大増長天王は身根と意(心)根、大毘沙門天王は耳根となる。
これに対応する文明社会のマイナス面を破折しているのが、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という日蓮の有名な四箇(しか)の格言(かくげん)である。これは日蓮が立宗宣言(建長五年四月二十八日)に当たり、当時最も流布していた四宗(念仏・禅・真言・律)を選んで、それぞれの教義の根源的な矛盾を簡潔に破折した言葉である。この四箇の格言は経典の内容を破折したものではない。各宗派による経典の位置づけの誤りと、その悪影響を破折しているのだ。
日蓮は経典の文底に森羅万象の心性を読み取っている。従って、四箇の格言は森羅万象の一つである社会現象にも当てはまる。仏教の根本的な精神が失われ修行も形骸化の傾向を強めている現代においては、四箇の格言はゆがんだ教義・価値観に染められた社会構造に潜む謗法への破折ととらえなければならない。四箇の格言を現代社会の現実に即してとらえ直すとき、文明社会における権力化(念仏)・能率化(禅)・情報化(真言)・管理化(律)のマイナス面を厳しく警告していることが見えてくる。四天王と四箇の格言は文明社会の両義性を照らし出す。日蓮が四箇の格言で、教典の位置づけを誤った諸宗を破折した根拠は、法華経の開経である無量義経にある。無量義経説法品第二には次のように説かれている。
無量義(むりょうぎ)とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相也(むそうなり)。是(かく)の如き無相(むそう)は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名づけて実相とす。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、是(かく)の如き真実の相に安住し已(おわ)って、発(ほっ)する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚(むな)しからず。衆生の所に於いて真(まこと)に能(よ)く苦を抜く。苦既に抜き已(おわ)って、復為(またため)に法を説いて、諸(もろもろ)の衆生をして快楽(けらく)を受けしむ。
善男子(ぜんなんし)、菩薩若(も)し能(よ)く是(かく)の如く一切の法門無量義を修(しゅ)せん者、必ず疾(と)く阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得ん。善男子(ぜんなんし)、是(かく)の如き甚深(じんじん)無上大乗無量義経は、文理(もんり)真正に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道(しゅまぐんどう)、得入(とくにゅう)することあることなく、一切の邪見生死の所に壊敗(えはい)せられず。此の故に善男子(ぜんなんし)、菩薩摩訶薩若(も)し疾(と)く無上菩提を成ぜんと欲せば、応当(まさ)に是(かく)の如き甚深、無上大乗、無量義経を修学(しゅがく)すべし。(中略)善男子(ぜんなんし)、我先に道場菩提樹下(どうじょうぼだいじゅげ)に端坐(たんざ)すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得たり。仏眼(ぶつげん)を以って一切の諸法を観ずるに、宣説(せんぜつ)すべからず。所以(ゆえん)は云何(いかん)、諸(もろもろ)の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲(しょうよく)不同なれば種種(しゅじゅ)に法を説きき。種種(しゅじゅ)に法を説くこと方便力(ほうべんりき)を以ってす。四十余年には未だ真実を顕わさず。
釈尊はまず「無量義は一法より生ず」と説き、無量の義すなわち森羅万象が根源の一法(妙法)から生ずることを明らかにしている。「其の一法とは即ち無相なり。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名づけて実相とす」とは、法華経方便品第二の諸法実相・色心不二の法理にほかならない。
「菩薩若(も)し能(よ)く是(かく)の如く一切の法門無量義を修(しゅ)せん者、必ず疾(と)く阿耨(あのく)多羅(たら)三(さん)藐三菩提(みゃくさんぼだい)を成ずることを得ん」とあるように、無量義経はまさに阿耨多羅三藐三菩提を成ずる法、すなわち唯一の成仏の法(妙法)を示しているのだ。そして衆生の性格や願望が不同であるために、四十余年にわたって衆生の機根に合わせて種々の法を説いてきたが、これらの諸経はいずれも方便の教えであり、真実の法はまだ解き明かしていないと宣言している。つまり、これから説く法華経こそ真実の生命、すなわち成仏の法であるというのである。
最初の「無量義とは一法より生ず」と最後の「四十余年には未だ真実を現さず」という文を深く思索した日蓮は、法華経が生命の全体観(無量義を生ずる一法)を説いているのに対して、法華経以前の諸経はそれぞれに生命の部分観(無量義)を説いていることを把握したのだ。日蓮は無量義経について、次のように文底の意義を明らかにしている。
「第五無量義処(むりょうぎしょ)の事 御義口伝に云く、法華経八巻は処なり。無量義経は無量義なり。無量義は三諦・三観(がん)・三身・三乗・三業(ごう)なり。法華経に『一仏乗に於て分別して三と説きたもう』と説いて法華の為の序分と成るなり。爰(ここ)を以て隔別(きゃくべつ)の三諦は無得道、円融の三諦は得道と定むる故に、『四十余年未顕真実(みけんしんじつ)』と破し給えり」(『御義口伝巻下』無量義経六箇の大事)
「法華経八巻は処なり」とは、宇宙とともに脈動する根源の一法(妙法)を示している。「無量義経は無量義なり」とは、生命・宇宙・森羅万象の移りゆく変化相である。「経」の一字は変遷を意味する。「無量義とは三諦・三観・三身・三乗・三業なり」とは、爾前の諸経がそれぞれに生命の部分的な働きについて、分析的に説いていることを示している。
三諦は空諦・仮諦・中諦で存在論、三観は空観・仮観・中観で認識論、三身は法身・報身・応身で仏身論である。これに三乗(声聞・縁覚・菩薩)と三業(さんごう)(身(しん)・口(く)・意(い))を合わせて無量義(森羅万象)を表す。
法華経以前の諸経は、こうした法理を従因至果の視点、すなわち抽象と捨象を繰り返す分析・統合の論理で説いてきたのである。そうした諸経(森羅万象の個々の変化相)を、法華経(妙法)の部分的な用(ゆう)(働き)と位置づける無量義経は、根源の一法(妙法)を説く法華経の開経(序分)となる。
「隔別(きゃくべつ)の三諦は無得道」とは法華経以前に説かれた諸経であり、いずれも三諦(空諦・仮諦・中諦)がばらばらに説かれているため、生命の真実を把握することはできない。「円融の三諦は得道」とは法華経(妙法)である。法華経には「円融の三諦」(三諦は全体で一つであるという生命の真実)が初めて明かされている。三諦円融・一身即三身の法理を明らかにした法華経のみが成仏の直道なのである。だからこそ釈尊は法華経の序分となる無量義経で「四十余年には未だ真実を顕さず」と宣言しているのだ。
部分観が全体観を覆い隠すとき、大きな陥穽が口を開く。民衆を犠牲にして利権をむさぼる政治家や企業家。民衆の生活よりも自分や組織の利益を優先する指導者や権力者。知識偏重の学歴競争社会を宣揚する教育評論家。文明社会にひそむ陥穽は大きく口を広げている。管理化、権力化、能率化、情報化といっても、文明社会がこの四種類に明確に区分されているわけではない。この四つの要素は複雑に絡み合い、相互に影響を及ぼし合っているのだ。
管理化社会の両義性
大持国天王は四天王天の東に住む護法神である。大持国天王の一つ一つの文字を生命論の視点からとらえると、「大」は森羅万象の広がりと関係性、「持」は調和と連帯を保つ働き、「国」は国家・社会・家庭・身体を表し、「天」は生命、「王」は中心にあって全体を統率する働きを表す。王という一字は「天・地・人を貫いて揺るがざる働き」を象徴している。大持国天王とは人間・宇宙・生命に備わる調和と連帯の働きの譬喩にほかならない。大持国天王が東に配されているのも面白い。東から昇る太陽は再生を象徴している。身体は新陳代謝、つまり再生によって維持されている。再生には調和と連帯の働きがある。六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のうち、身体を維持するのに象徴的な働きをするのは、鼻根(嗅覚)と舌根(味覚)である。鼻根と舌根は身体の維持に必要なものを取捨選択する。大持国天王はまさに、管理化社会の調和と連帯というプラスの働きを象徴しているのである。
これに対して、四箇の格言の律国賊は偏った価値観で民衆を裁断し、調和と連帯を破壊するマイナスの働きを象徴している。大持国天王と律国賊は管理化社会の両義性にほかならない。律国賊は、戒律を権威に掲げる律的価値観にひそむ魔の働きを警告しているのだ。
釈尊が小乗経や権大乗経で説いた戒律は本来、人間が人間として生きるための基本的な修行だった。戒律の本意は、身・口・意の三業より起こって成仏への善根を断とうとする邪念を防止するところにある。その根底には人間を魔の働きから守るという発想がある。しかし釈尊滅後、教団の組織化が進むに従って、戒律はそれを破った者を罰する裁きの面が強くなっていった。つまり人間を守る働きが人間を一方的に裁断する働きに変質したのである。
人間を守る働きは大持国天王であり、人間を偏った価値観で裁断する働きは律国賊にほかならない。偏った戒律や価値観で裁かれるとき、反逆心(国賊)が芽生える。日蓮は伝教大師の言葉を引用して次のように、律的価値観にひそむ魔の働きを厳しく警告している。
「教大師未来を誡(いまし)めて云く『末法に持戒の者有らば是れ怪異なり。市(いち)に虎有るが如し』」(『四信五品抄』)。
伝教大師は「末法に厳しく戒律を守る者がいれば、それはまさに社会を混乱させる魔物であり、町の中に放たれた虎のように人々の人生を食いちぎってしまうだろう」と警告している。ここで「末法」とは、価値観の交錯した今日の情報化・能率化・権力化・管理化社会にほかならない。「教大師」とは成仏、すなわち人間連帯の法理、「持戒の者」とは、偏った価値観で自他を裁く心である。「裁く心」は賞罰によって自己と他者の関係を選別する。「怪異」とは本有の生命のメッセージから離反することである。「市に虎ある如し」とは、そのような論理と行動は「飢えた虎」のように民衆の生命・人生を食いちぎり、人間の連帯を引き裂いてしまうとの厳しい警告である。
家庭内暴力、校内暴力、ゲリラ、血で血を洗うテロ、報復、戦争の根源には、人間の友情と連帯を引き裂く裁きの心がある。ヴィトゲンシュタインは「先入観を理想と取り違えるとき、哲学が簡単に陥ってしまうあの教条主義が生じる」と指摘している。このヴィトゲンシュタインの指摘は、律国賊への警告にほかならない。先入観とは現実に適合しない偏った価値観であり、あらゆる体験が先入観によって教条化・権威主義化する。ここに民衆抑圧の構造を生み出す根源がある。二十世紀は、イデオロギーの教条化・権威主義化が民衆を抑圧した時代でもあった。その抑圧の構造はいまだに解体されていない。
学歴社会が生み出した選別の基準(戒律)は、「飢えた虎」のように子供たちの人生を引き裂く。不当な裁きによって追いつめられ、希望を失った子供たちは自他の人生を食いちぎる虎に変身する以外にない。自分の未熟さを自覚しない教師は、愛情をもって叱るのではなく、国家権力を笠に着て簡単に子供に罰を与える。いじめの技に長けた悪鬼神がのさばるゆがんだ世界。管理化社会はいじめの社会に変質しやすいのである。
二十一世紀に入って最初にギリシャで開かれた第二十八回オリンピック大会では、世界各国からより抜かれた選手たちが華麗な技と力を競い合った。しかし金メダルを獲得した選手たちの華やかな栄光の陰に、薬物不正使用という不名誉なレッテルを張られて、一瞬にして栄光の舞台から消え去った何人かの選手たちがいた。近代化、合理化、組織化が進んだオリンピック運営にひそむ陰の部分。そこには、一人の人間の生を明と暗に分けるゆがんだ欲望・勝負・管理・賞罰の両義性が浮き彫りにされている。クーベルタン男爵の提唱によって発足した近代オリンピックは、その発展の陰に不条理なものを胚胎しているのではないか。
戒律とは正義の自己目的化である。正義は本来、自他共存世界を拡大する論理と行動を意味する。正義は両義性の一方の極を擁護し、他方の極を裁断する。それが制度化され、自己目的化するとき、人間同士の連帯を切り裂く悪を胚胎する。集団の論理は自己目的化しやすい。国家や組織、集団は同質のものを統合・支配し、異質のものを分析・排除しやすい構造を持っているからだ。「飢えた虎」が跳梁する社会では平和運動が平和を破壊し、人権運動が人権を踏みにじるという根源的な矛盾が噴き出す。
大国が独占する核兵器は二十世紀が生み出した不気味な戒律を象徴している。今ほど民衆の生きがいと連帯をはぐくむ対話が求められている時はないのである。組織のオルガナイザーとして民衆に対する者は、個々の具体的な人間の営みが見えなくなる危険な立場にいることを厳しく自覚しなければならない。命令や説明は対話ではない。対話とは新たな発見のための出会いといえよう。語る人と聞く人の双方に人間連帯への道を開く新たな発見の喜びがあれば、たとえ一方的な語りかけに見えても、そこに心と心の対話が成立する。
法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)第二十には、不軽菩薩の振る舞いが説かれている。無量阿僧祇劫(あそうぎこう)の昔、不軽菩薩は四衆(比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい))に会うごとに悪口罵詈(めり)され、杖木で打たれながらも、「我深く汝等(なんだち)を敬う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等(なんだち)皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べし」と礼拝してやまなかった。しかし、上慢の四衆たちは「そんな記別は何の意味もない」と言って、不経菩薩を罵り迫害したのである。日蓮は不軽菩薩の振る舞いについて、次のように文底の意義を説いている。
「第三十礼拝住処忍辱地(らいはいじゅうしょにんにくじ)の事 御義口伝に云く、既に上慢の四衆罵詈瞋恚(めりしんに)を成して、虚妄の受記(じゅき)と謗ずと云えども、不生瞋恚(ふしょうしんに)と説く間、忍辱地に住して礼拝の行を立つるなり云云」(『御義口伝巻下』常不軽品三十箇の大事)
「上慢の四衆」は教条化・権威主義化した言語・文化・制度を象徴している。「罵詈瞋恚(めりしんに)」とは異質とみなした他者を排除する心である。それは正義の制度化・権威主義化に通じる。「虚妄の受記(じゅき)と謗ず」とは事象の両義性を一義的に分節する心。「不生瞋恚(ふしょうしんに)」とは事象の両義性を読み取る心である。「忍辱地(にんにくじ)」とは自他共存の世界観。「礼拝(らいはい)の行」とは人間連帯の論理と行動である。「罵詈瞋恚(めりしんに)」の色心を「不生瞋恚(ふしょうしんに)」と転換するとき、人間疎外の世界は人間連帯の世界へと転換する。管理化社会の働きは鼻根と舌根に象徴される。鼻根と舌根について、観普賢菩薩行法経の偈頌(げじゅ)は次のように説いている。
鼻根(びこん)は諸香(しょこう)に著(じゃく)して 染(ぜん)に随って諸(もろもろ)の触(ぞく)を起す
此(かく)の如き狂惑(おうわく)の鼻 染(ぜん)に随って諸塵(しょじん)を生ず
若(も)し大乗経(だいじょうきょう)を誦(じゅ)し 法の如実際(にょじっさい)を観ぜば
永く諸(もろもろ)の悪業(あくごう)を離れて 後世(ごせ)に復(また)生ぜじ
舌根(ぜっこん)は五種の 悪口(あっく)の不善業(ふぜんごう)を起す
若(も)し自(みずか)ら調順(じょうじゅん)せんと欲せば 勤めて慈悲を修し
法の真寂(しんじゃく)の義(ぎ)を思うて 諸(もろもろ)の分別の想(おもい)なかるべし
六根のうち鼻根はさまざまな香りをかぐと、それに染められて心を揺り動かす。このように狂い惑った鼻根の働きは、さまざまな煩悩を引き起こす。そのときは大乗経を唱え、法の如実際を観すれば、再び悪業に染められることはなくなる。また舌根は悪口の不善業(悪業)を起こし、自他の福運を失う。その悪業を正したいと思うなら、慈悲の行を修し、分別の義にとらわれず、法の真寂の義を求めなければならない。
「鼻根(びこん)は諸香(しょこう)に著(じゃく)し、染(ぜん)に従って諸(もろもろ)の触(ぞく)を起こす」とは他者を利用して利権をむさぼる心。「悪口(あっく)の不善業(ふぜんごう)を起す」とは選別の両義性であり、他者の人生を踏みにじる言動である。こうした悪業を免れるには、「法の如実際(にょじっさい)を観じ、法の真寂(しんじゃく)の義を思う」心を取り戻さなければならない。「法の如実際」とは色法、「法の真寂の義」とは心法である。これは色心不二なる生命の法、すなわち妙法を示している。
仏法は他者の人生を豊かにする行為のなかに、自己創造の根源力が開くことを説く。管理化社会においては、組織を拡大・強化する行為と他者の人生を豊かにする行為は時に対立し、矛盾とジレンマにさらされる。それを打開する生命の哲理こそ、法華経の文底に秘められた妙法なのである。
情報化社会の両義性
四天王天の北に住む大毘沙門天王と四箇の格言の真言亡国は、情報化社会の両義性を表している。大毘沙門天王は多聞天とも呼ばれる。多聞天は常に仏の声に耳を傾ける。仏の声が示すのは、人間が友情と連帯の心をもって豊かに生きる道である。大毘沙門天王が北に配されているのも面白い。北の空に輝く北極星は、昔から空の道標とされたきた。六根のうち情報化社会で最も重要な働きをするのは耳根(にこん)である。大毘沙門天王は生命の正しい軌道を示す仏の教え、つまり、人間が最も人間らしく豊かに生きるために不可欠な情報を正しく選択する生命の働きを象徴している。これに対し、真言亡国とは情報をねじ曲げ、価値観を転倒させる歪んだ論理と行動にほかならない。
真言宗を開いた弘法大師空海(七七四~八三五)は、「大日経は法身無始無終の大日如来が菩薩のために真言を説いた経であるが、法華経は応身(おうじん)の釈迦が霊山(りょうぜん)で二乗のために説いた経にすぎない。法華は真言より三重の劣である」と主張している。空海はその著、『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中で、大日経や菩提心論を依所として十住心を立てた。十住心とは①異生羝羊(いしょうていよう)住心(凡夫悪人)②愚童持斎(ぐどうじさい)住心(凡夫善人)③嬰童無畏(ようどうむい)住心(外道)④唯蘊無我(ゆいうんむが)住心(声聞)⑤抜業因種(ばつごういんしゅ)住心(縁覚)⑥他縁大乗(たえんだいじょう)住心(法相宗に説かれる)⑦覚心不生(かくしんふしょう)住心(三論宗に説かれる)⑧如実一道(にょじついちどう)住心(法華経に説かれる)⑨極無自性(ごくむじしょう)住心(華厳経に説かれる)⑩秘密荘厳(ひみつしょうごん)住心(真言宗のみに説かれる)――の十段階をいう。第十住心の真言に比べれば、法華経は華厳経にも劣る第三の戯論だと空海は主張しているのだ。この真言的価値観にひそむ重大な誤謬を、日蓮は見逃さなかった。
「問う、何(いか)なる経論に依つて真言宗を立つるや。答う、大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっち)経並びに菩提心論、此の三経一論に依つて真言宗を立つるなり。問う、大日経と法華経と何れか勝(すぐ)れたるや。答う、法華経は或いは七重或いは八重の勝なり、大日経は七八重の劣なり」(『真言天台勝劣事』)
真言宗が依経としている大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっち)経はいずれも生命の部分観であり、真の成仏の法でないことは、法華経序分の無量義経で「四十余年未顕真実」と明言されている。日蓮は経典の内容ではなく、真言宗による経典の位置づけの誤りを破折しているのである。『十住心論』や『秘蔵法鑰』のように、人間の心を十段階に分類して差別を設けるのは、天台大師が法華経の文底に読み取った十界互具論を、法華経文上からさらに爾前権経に後退させた数段浅い観念論ということになる。
仏道修行に段階を設けて差別するのも、生命の真実とは無縁の方便にすぎない。爾前権教の十界論には仏界を最高、地獄界を最低とする差別感がある。『十住心論』や『秘蔵宝鑰』を著したときの空海は、爾前権経の従因至果の視点にとらわれていたのだ。本来、生命を守る平等な働きである十界を細かく分類したり、仏道修行に段階を設けて差別するのは、生命の如是(にょぜ)実相(じっそう)とは無縁の方便にすぎない。日蓮はさらに次のように破折している。
「今大日経並びに諸大乗経の無始無終は法身(ほっしん)の無始無終なり、三身(さんじん)の無始無終に非ず。法華経の五百塵点(じんてん)は、諸大乗経の破せざる伽耶(がや)の始成(しじょう)之を破りたる五百塵点(じんてん)なり。大日経等の諸大乗経には全く此の義なし。宝塔の涌現(ゆげん)・地涌(じゆ)の涌出(ゆじゅつ)・弥勒(みろく)の疑い・寿量品の初の三(さん)誡(かい)四請(ししょう)・弥勒菩薩・領解(りょうげ)の文に『仏希有(けう)の法を説きたもう、昔より未だ曾(か)つて聞かざる所なり』等の文是(これ)なり。大日経六巻並に供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地(そしっち)経等の諸の真言部の経の中に未だ三止四請(さんしししょう)・三(さん)誡(かい)四請(ししょう)・二乗の劫国名号(こうこくみょうごう)・難信難解(なんしんなんげ)等の文を見ず」(『法華真言勝劣事』)
真言宗が依経とする経論はすべて、法華経の開経である無量義経で未顕真実の方便権経に位地づけられている。さらに真言宗が崇める大日如来は、法華経を説いた三身即一身の釈尊とは根本的に異なる法身(唯心)仏なのである。それは言葉で虚構された現実には存在しない仏である。それは印・真言、すなわち言語や記号、スローガン、文化や制度、肩書が持つ力を象徴している。その大日如来という法身仏について説いたのは釈尊なのである。権大乗経が説く法身仏とは言葉だけの存在、一種の記号体系であり、メタ言語にほかならない。メタ言語を生み出す根源を説いたのは法華経である。
さらに大日経等には法華経で明らかにされた「宝塔の涌現(ゆげん)・地涌(じゆ)の涌出(ゆじゅつ)・二乗作仏・五百塵点劫成道」などの重要な法門、すなわち生命の尊厳、妙法流布の決意、諸法実相(色心不二)・久遠実成(久遠即末法)の哲理は説かれていない。「三止(さんし)四請(ししょう)」は寿量品第十六で重要な法門(久遠実成)を初めて説く時の儀式、「三(さん)誡(かい)四請(ししょう)」は方便品第二で重要な法門(諸法実相)を初めて説くときの儀式、「二乗の劫国名号(こうこくみょうごう)」は二乗成仏の記別(十界互具・如是実相)である。
真言的価値観が権威とする印・真言は、情報化社会を支配する記号・言語の機能を象徴している。印は社会的な格式・制度・規則を象徴し、真言の力によって格式・制度・規則が律するマンダラ的な社会構造を生み出す。印と真言は人間の歴史や文化の両義性に深くかかわっている。真言宗が説く印や真言の力は極めて重要には違いないが、生命の部分的な働きにほかならない。そのような部分観を絶対化して、生命の全体観を明らかにした法華経を軽んずる真言的価値観には重大な誤謬がひそんでいる。
文底の方法的原理に照らすとき、大日如来もまた妙法の働きの一面であることが見えてくる。経の表題はその経の心を表す。大日経(大日如来)の「大」は諸法(色法)、「日」は実相(心法)を表している。大日如来とは色心不二の妙法の力用の一面にほかならない。従って、印・真言の位置づけと運用を誤れば言葉や記号(制度や肩書)が権威化され、民衆の生命や人生が軽んじられることになる。そのような本末転倒は国家や地域、家庭、身体に混乱をもたらす。それを真言亡国という。日蓮は真言的価値観にひそむ魔のうごめきを警告しているのだ。耳根について、観普賢菩薩行法経には次のような偈頌が説かれている。
耳根(にこん)は乱声(らんしょう)を聞いて 和合の義を壊乱(えらん)す
是れに由(よ)って狂心(おうしん)を起すこと 猶(なお)癡(おろか)なる猿猴(おんこう)の如し
但当(ただまさ)に大乗を誦(じゅ)し 法の空無想を観ずべし
永く一切の悪を尽して 天耳(てんに)をもって十方(じっぽう)を聞かん
「乱声」とは権実雑乱の言動である。耳根は乱声を聞くと、生命の調和を破ってしまう。その心の狂える様子は愚かな猿のようである。そんなときは大乗経を唱え、法の空夢想を観ずべきである。そうすれば、一切の悪に惑わされることなく、正しい声を聞き分けられるようになる。「乱声」とは価値観の転倒を起こすゆがんだ情報を意味する。「和合の義」とは国家、地域、家庭、身体など民衆の生きる場の調和と連帯である。ゆがんだ情報がはびこるとき、国も人も滅亡の渕に追いやられる。国家や政治家、企業家、宗教家が偽の情報を流し、民衆の生きる場をゆがめている今日の状況。マスコミもまた、その両義的な力を増幅している。そこにうごめいているのは、情報化社会にひそむ真言亡国の魔の働きにほかならない。
「大乗を誦(じゅ)し、法の空無想を観ずべし」とは、色心不二・久遠即末法という生命の原点に帰ることを意味する。この偈頌は、情報化社会がはらむ大毘沙門天王と真言亡国の両義性を照らし出している。情報化社会は形式と本質が乖離しやすい。外道・権教の心は、あらゆる事象を表層的な形式で善悪(利害)に分別し、法華経(妙法)の心は事象の本質(両義性)に価値創造的にかかわる。外道・権教の心は生きる世界を幻想によって拡大しながら実質的に矮小化してしまう。妙法の心は自他共存世界を実質的に拡大する。真言亡国の魔を打ち破る方法的原理の実践が、今ほど問われている時はないのである。
能率化社会の両義性
四天王天の南に住む大増長天王と四箇の格言の禅天魔は、能率化社会の両義性を照らし出す。大増長天王は色心(身体と心)の働きを増長させるプラスの働き、禅天魔は色心のリズムを狂わすマイナスの働きを象徴している。技術の進歩によって能率化が進んだ社会は、人々の身心の力を一挙に増幅する。ジェット旅客機をはじめ交通機関の発達のおかげで、私たちは遠距離を短時間で旅行できるようになった。それと同時に大きな事故も増えつづけている。大増長天王が南に配されていることにも、古代の人々の智慧がうかがえよう。南の方角は植物の生長を増長する力を象徴している。日蓮はさまざまな角度から論理的に禅宗の教義の誤りを指摘しているが、特に厳しく破折しているのは禅的価値観にひそむ能率主義の危険な陥穽である。
禅的価値観もまた多義的であり、日蓮はそのすべてを否定しているわけではない。禅宗の中には釈尊や宗祖の心を誤解して、「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)・直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という教義を立てる者がいる。仏法の真髄は、煩雑な教理の追求ではなく座禅入定の修行により直接自証体得できるとして、①不立文字(文字を立てず)②教外別伝(教法とは別に伝えられるものである)③直指人心・見性成仏(仏の教法は月をさす指のようなものであり、教法などなくても禅法を修すれば直ちに人の心に仏性を見ることができる)――と主張しているのである。日蓮はこのような教義を厳しく破折する。
「不立文字(ふりゅうもんじ)と云う。所詮(しょせん)文字と云う事は何(いか)なるものと得心(こころえ)此(か)くの如く立てられ候や。文字は是(これ)一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡(およ)そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福(ひんぷく)をも相するなり。然(しか)れば文字は是(こ)れ一切衆生の色心不二の質なり。汝若(も)し文字を立てざれば、汝が色心をも立つ可からず、汝六根を離れて禅の法門一句に答へよと責む可きなり。さてと云うも、かうと云うも有(う)と無(む)の二見をば離れず、無と云わば無の見なりとせめよと、有と云わば有の見なりと責めよ、何(いず)れも何れも叶わざる事なり。次に修多羅(しゅたら)の教は月をさす指の如しと云うは月を見て後は徒者(いたずらもの)と云う義なるか。若(もし)其義にて候わば御辺の親も徒者と云う義か。又師匠は弟子の為に徒者か、又大地は徒者か、又天は徒者か。如何となれば、父母は御辺を出生するまでの用(ゆう)にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん、人の師は物を習い取るまでこそ用なれ、習い取つて後は無用なり、夫(そ)れ天は雨露(うろ)を下すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり、大地は草木を出生せんが為なり、草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し」(『諸宗問答抄』)
仏法が経文すなわち文字によって伝えられてきたことは誰でも知っている。その仏の教えの外に伝えられたものは魔なのか鬼なのか。不立文字・教外別伝という言葉は、舌足らずというより人心をゆがめる邪義そのものといわなければならない。経文は月をさす指のようなものだから月という本体が見えてしまえば、もはや無用の長物だと主張する者がいる。このような禅宗の教義の両義性のはざまに、能率主義的価値観の陥穽が大きく口を開いていることを、日蓮は洞察したのである。
最先端技術を駆使して生産される自動車は運転方法さえ習得すれば、自動車を製造する技術など全く知らなくても運転できる。コンピューターにしても同様である。現代文明社会は、製造されたものが便利でさえあれば、その生産過程や技術にひそむ欠点や危険性は人々の目から覆い隠されてしまう傾向を強めている。頻発する原発事故やコンコルド墜落事故、ロシアの原潜沈没事件、三菱自動車のクレーム隠し、大病院における医療ミスの続発などは、それを裏付けている。能率主義は心身の見かけの力を増幅する反面、心身自体のリズムを狂わせ、精神的、肉体的な障害や事故を増大させる。
日蓮が破折しているのは釈尊が説いた教典の内容ではない。あくまでも人師(にんし)による経典の位置づけの誤りを破折しているのだ。いつの時代にも、一つの宗派や宗教団体が組織として釈尊の心を正しく伝えるのは困難なのである。「白法隠没・(びゃくほうおんもつ)闘諍堅固(とうじょうけんご)」の文証・(もんしょう)理(り)証・現(げん)証がそれを証明している。両義性をはらむ能率化社会の働きは、意(心)根と身根に配することができる。意根と身根について観普賢菩薩行法経は次のように説いている。
心根(しんこん)は猿猴(おんこう)の如くにして 暫(しばら)くも停(とどま)る時あることなし
若(も)し折伏(しゃくぶく)せんと欲せば 当(まさ)に勤めて大乗(だいじょう)を誦(じゅ)し
仏の大覚身(だいかくしん)、力無畏(りきむい)の所成(しょじょう)を念じたてまつるべし
身(み)は為(こ)れ機関(きかん)の主(しゅ) 塵(ちり)の風(かぜ)に随(したが)って転ずるが如し
六賊中(ろくぞくなか)に遊戯(ゆげ)して 自在にして?礙(さわり)なし
若(も)し此の悪を滅して 永く諸(もろもろ)の塵労(じんろう)を離れ
常に涅槃(ねはん)の城に処し 安楽にして心憺怕(こころたんぱく)ならんと欲せば
当(まさ)に大乗経を誦(じゅ)して諸(もろもろ)の菩薩の母を念ずべし
心(意)根は木から木に飛び移る猿のように一瞬もとどまることがない。そのように乱れる心を調えたいと思うなら、大乗経(妙法)を唱え、仏の大覚身(だいかくしん)、力無畏(りきむい)の所成(しょじょう)を念ずべきである。身根もまた環境の変化にさらされて、風に吹き回される塵のように落ち着くところがない。狂った環境の中で悪に染められながら、それに気づかず遊び戯れている。このような悪を滅して、煩悩を克服し、欲望に振り回されることのない安らかな境界を得たいと思うなら、大乗経(妙法)を唱え、菩薩の母(慈悲の心)を念じなければならない。
「心根(しんこん)は猿猴(おんこう)の如くにして、暫(しばら)くも停(とどま)る時あることなし」とは、人間の心の状態を示している。これは能率化に対応しようとして休まる暇もない心ととらえることができよう。「身(み)は為(こ)れ機関(きかん)の主(しゅ)、塵(ちり)の風(かぜ)に随(したが)って転ずるが如し」とは、能率化社会の中で翻弄される身体をいう。「六賊中(ろくぞくなか)」とは、六根とその対境である六境(色・声・香・味・触・法)との関係が調和を失った状況である。「遊戯(ゆげ)して、自在にして?礙(さわり)なし」とは、そのような状況を自覚することなく、欲望を満たすことに夢中になっている人間の身体にほかならない。このような状況を打破するには、「勤めて大乗を誦(じゅ)し、仏の大覚身(だいかくしん)、力無畏(りきむい)の所成(しょじょう)を念じ」、さらに「大乗経を誦(じゅ)して諸(もろもろ)の菩薩の母を念ずる」ほかないのである。ここにもまた、法華経の文底に秘められた我本行菩薩道が示唆されている。
権力化社会の両義性
四天王天の西に住む大広目天王と四箇の格言の念仏無間は、権力化社会の両義性を象徴している。大広目天王は太陽が沈む西方を守護する。爛々と輝く目は闇の世界を見通す力を持つ。権力は目の力で味方を守ると同時に、敵とみなした者を射すくめる。権力者が互いに憎しみの眼でにらみ合うとき、地上は地獄の炎に包まれる。権力化社会は天国と地獄の両義性をはらんでいるのだ。眼で見守り、支配し、賞罰を与える権力者。権力化社会は眼根(げんこん)に配される。浄土宗が依経とする三部経(無量寿(むりょうじゅ)経、観無量寿(かんむりょうじゅ)経、阿弥陀(あみだ)経)は、阿闍世(あじゃせ)王一家の権力闘争の犠牲となった女性のために説かれた経典である。浄土の三部経と無量義経の「四十余年未顕真実」の文を対比して、日蓮は次のように述べている。
「華厳・方等(ほうどう)・般若・究境(くきょう)最上の大乗経・頓悟(とんご)・漸悟(ぜんご)・の法門・皆未顕(みけん)真実と説かれたり。此の大部の諸経すら未顕真実なり、何(いか)に況(いわん)や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや。其の上・経経ばかりを出すのみにあらず、既に年月日数を出すをや。然(しか)れば華厳・方等・般若等の弥陀(みだ)往生已(すで)に未顕真実なること疑い無し」(『唱法華題目抄』)
ここには、釈尊が法華経以前に説いた経々はすべて生命の部分観であり、成仏の直道(じきどう)を隠した未顕真実の教えであることが指摘されている。それを宣言した無量義経には、未顕真実の経々が説かれた時と場所まで記されているのだ。浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)は、阿闍世王(あじゃせおう)の母、韋提希(いだいけ)夫人のために説かれた教えである。阿闍世王が提婆達多(だいばだった)の甘言に乗り、自分の父・頻婆裟羅王(びんばしゃらおう)を幽閉して餓死させようとしたとき、韋提希夫人は体に蜜を塗って夫を養い、その命を守ろうとした。それを知った阿闍世王は激怒し、母である韋提希夫人をも殺そうとしたのである。絶望した韋提希夫人は釈尊に救いを求めた。一説によると、釈尊は直ちに王宮に赴き、韋提希夫人のために観無量寿経を説いたと言われている。
釈尊は韋提希夫人に、今世で幸せになることは諦めて、阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わることを願いなさい、と説いている。極楽浄土という幻想の世界を渇仰させる教えに、現実への対応力を麻痺させる麻薬が含まれていることは確かである。つまり観無量寿経は夫と息子の権力闘争の犠牲となり、地獄の苦しみの境界にあった韋提希夫人を救うための方便の教え、つまり一時の痛み止めの麻薬にほかならない。日蓮は次のように浄土の三部経を位置づけている。
「浄土の三部経とは、釈尊一代五時の説教の内(うち)第三方等(ほうどう)部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫く衆生誘引の方便なり。譬えば塔をくむに足代(あししろ)をゆうが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり、法華を説き給うまでの方便なり。法華の塔を説給(ときたまう)て後は、念仏の足代を切り捨べきなり。然(しか)るに法華経を説き給うて後、念仏に執著(しゅうじゃく)するは塔をくみ立て後、足代に著(じゃく)して塔を用いざる人の如し。豈(あに)違背の咎(とが)無からんや。然(しか)れば法華の序分・無量義経には四十余年未顕真実(みけんしんじつ)と説き給て念仏の法門を打破り給う」(『念仏無間地獄抄』)
方便の教えである浄土三部経は、法華経という塔を建てる際に使われた足場のようなものである。建物を建てるには足場が必要だが、建物が完成したときには足場はかえって邪魔になる。同じように、痛みを麻痺させる麻薬の使い方を誤れば人生を破壊する恐ろしい毒薬になる、と日蓮は警告しているのだ。仏法は極めて深遠な心理学でもある。浄土の三部経は、心理学的な治療法として正しく位置づける必要があるのではないか。さらに日蓮は、阿弥陀経に超権力への幻想がひそんでいることを見逃さなかった。阿弥陀経には次のように極楽の世界が描かれている。
これより西方(さいほう)、十万億土の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽(ごくらく)という。その土に仏ありて、阿弥陀と号す。(かれ)いま、現に在(い)まして説法したもう。舎利弗(しゃりほつ)よ、かの土、なにがゆえに、名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦しみあることなく、ただもろもろの楽しみのみを受く。かるがゆえに極楽と名づく。(『浄土三部経』岩波文庫)。
西方十万億土の彼方に極楽という世界がある。その仏の名は阿弥陀如来という。極楽という名前の由来は、その国の人々がみな、あらゆる苦しみを免れ、楽しみだけを受けていることにある。まさに極楽は〈肯定即否定=善悪不二〉〈能動即受動=因果倶事〉という生命の両義性を無視した幻想の超権力を象徴しているのだ。極楽も阿弥陀如来もメタ言語の世界にほかならない。日蓮は、言葉で虚構された仏の権威主義化を次のように厳しく破折している。
「当世日本国は人毎(ごと)に阿みだ経並に弥陀の名号等(みょうごう)を本として法華経を忽諸(こっしょ)し奉る。世間に智者と仰がるる人人、我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども、小善を持て大善を打ち奉り、権経(ごんきょう)を以て実経を失ふとがは小善還って大悪となる、薬変じて毒となる、親族還って怨敵と成るが如し。難治の次第なり」(『下山御消息』)
「当世日本国は人毎に阿みだ経並に(ならび)弥陀の名号等を本として法華経を忽諸(こっしょ)し奉る」とは、自己の欲望を満たす超権力にあこがれ、煩悩即菩提・生死即涅槃という等身大の生命の価値、生命のメッセージを見失うことにほかならない。それは極楽という幻想の超権力に執着して、生命の真実を見失う謗法であり、小善どころか大悪となってしまう。阿闍世王一家と同じように、親族同士が権力争いで憎み合うのは避けられない。その謗法を正すのは極めて難しいと日蓮はいう。
「世間の智者と仰がるる人人」とは超権力への幻想にとりつかれ、そこに生きがいを見いだそうとする心である。「我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども」とは、色心不二・久遠即末法の法理に違背する言動である。「権経を以て実経を失ふとが」とは、生命の全体観を忘れて部分観にとらわれる錯誤である。「小善還って大悪となる、薬変じて毒となる」という言葉は、転倒した価値観に基づく選択の集積が、人間疎外、自然破壊、国家・組織悪、戦争につながることを示している。
阿弥陀はアミターバの音訳で、無量光あるいは無量寿と訳される。無量は諸法(色法)、光(寿)は実相(心法)を表す。文底からとらえ直せば、阿弥陀如来もまた色心不二の妙法の力用(りきゆう)の譬喩であることが見えてくる。三世諸仏はすべて妙法を師として成道する。阿弥陀如来も大日如来も例外ではない。妙法を見失うとき、いかなる優れた思想も生命の大地から切り離された根無し草となる。
大企業の管理職、特に机で事務を執る人たちの間に腰痛を訴える人が増えている。運動不足による筋力の減退が原因である。現代社会は一部の人間に(すべての人間にと言うべきかもしれない)、自分の身体を動かすことなく目で管理するだけで他者を支配し、選別する役割を与えている。人間の五感が機能する範囲は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の順に狭くなる。つまり、視覚は自分の身体から最も遠くにある物を識別できる感覚なのだ。 視覚以外の感覚を十分機能させるには、自分の身体を動かさなければならないが、視覚は自分の身体を動かさなくても一応間に合う。しかし、視覚は途中に遮蔽物があれば近くの物でも見えなくなる。そこに大きな陥穽がある。官庁や大企業では管理者や株主の目から隠れたところで不正事件が多発している。管理者自身が不正事件にかかわる場合もある。しかも他の感覚と切り離された視覚は、人間的な触れ合いを拒む他者支配と選別の論理につながりやすい。眼根について、観普賢菩薩行法経には次のように説かれている。
若(も)し眼根(げんこん)の悪あって 業障(ごうしょう)の眼不浄(まなこふじょう)ならば
但当(ただまさ)に大乗を誦(じゅ)し 第一義を思念すべし
是れを眼(まなこ)を懺悔(さんげ)して 諸(もろもろ)の不善業(ふぜんごう)を尽くすと名づく
眼根が悪に染められて悪業を積み重ね、その働きにゆがみが生じているならば、大乗(妙法)を唱え、第一義(根源的な生命の法)を思念すべきである。そうすれば眼根の働きを浄化し、不善業(悪業)を断ち切ることができる。「業障(ごうしょう)の眼不浄(まなこふじょう)ならば」とは、自己の利権獲得に狂奔するゆがんだ権力者の心である。権力的な政治は社会的に弱い立場の人々を切り捨てる。価値観のゆがんだ権力者の眼は支配・服従の関係を強化し、地上に戦争という地獄をもたらす。この危険な状況を克服する方法的原理もまた、我本行菩薩道の実践なのである。この経文には、「但当(ただまさ)に大乗を誦(じゅ)し、第一義を思念すべし」と説かれている。「第一義」とは久遠元初、すなわち色心不二・久遠即末法の妙法にほかならない。
文明蘇生の方法的原理
仏法は生命哲学であり、生命を言葉で囲い込むことはできない。デリダなどポスト構造主義の哲学者が形而上学を批判する根拠もそこにある。いかに膨大な言葉を費やして生命を分析・統合・体系化しようとしても、常に部分観にとどまらざるを得ない。法華経の文底には言葉で囲い込むことのできない無上宝聚が秘められている。それは人間・宇宙・生命の文底(奥底)にほかならない。人間は仮諦、宇宙は中諦、生命は空諦に対応し、人間・宇宙・生命は三諦円融となる。森羅万象に秘められた真実を自分の手で発掘することが、私たち一人ひとりに問われているのだ。そのためには、何よりも第一に日蓮が『御義口伝』や『百六個抄』『本因妙抄』の中で教示している方法的原理を学ばなければならない。それは法華経をはじめとする諸経の哲理、すなわち森羅万象の法理を把握すると同時に、それを現代に展開する方法的原理なのである。
法華経以前に説かれた諸経も、文底の方法的原理を用いて読み直せば、これまでとは違った新しい意味が見えてくるにちがいない。例えば諸宗が本尊とする阿弥陀如来(あみだにょらい)をはじめ大日如来(だいにちにょらい)、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、諸仏・諸菩薩はすべて法華経の虚空会(こくうえ)に参加している。その文底を開けば、諸仏・諸菩薩とは法性之淵底(ほっしょうのえんでい)玄宗の(げんしゅう)極地(ごくち)から涌出(ゆじゅつ)する妙法の力用(りきゆう)(力と作用)であることが見えてくる。さらに文底を開けば法性之淵底玄宗の極地とは妙法の曼陀羅となる。妙法の曼陀羅は人間・宇宙・生命のマンダラとなる。
日蓮の文底独一本門がとらえた諸宗の本尊の根源は、すべて妙法の曼陀羅なのである。妙法の曼陀羅に、阿弥陀如来の功徳も大日如来の功徳も諸仏・諸菩薩の功徳もすべて納まっているのだ。妙法の曼陀羅を信受する色心(しきしん)に法華経の虚空会が開かれる。己心の虚空会を開かなければ、諸仏・諸菩薩の色心はひ弱で、ねじれやすいのである。
釈尊が出現する以前にも、インドには論理学や哲学、宗教の分野で優れた思想家が輩出している。釈尊はそういう思想家たちから多くのことを学び、民衆との対話の中で自らの思索を深めていったにちがいない。日蓮もまた同じように民衆と対話し、試行錯誤を重ねながら晩年の著作に見られる深い哲理に到達したのである。それを忘れて、釈尊や日蓮を人智の及ばぬ超能力者のように崇め、その前にひれ伏すようなことをすれば、日蓮が厳しく破折した「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の陥穽が口を開くことになる。
日蓮は「かかる日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし」(『報恩抄』)と警告している。「国亡ぶべし」とは真言亡国、すなわち価値観?倒の謗法に対する破折である。「日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば」とは、日蓮を外道の神や真言の大日如来のような超能力者と勘違いして、その前にひれ伏すことである。仏法は人間を裁かず、謗法を破折する。「あしくうやまわば」の意味を取り違え、外道が神に仕える如く自己の宿業のままに幻想する日蓮を権威に振りかざして人間を裁くとき、仏法を外道にすり替える謗法を犯すことになる。
仏法は序(序分)・正(正宗分)・流通(流通分)の原理を説いている。薬に例えれば、序分は効能書き、正宗分は薬の本体、流通分は実践ということになる。妙法のみが慈悲の当体であり、私たちが受け止める日蓮の言動は他者性の流通分(るつうぶん)なのである。他者性の流通分は自己にとって序分(じょぶん)となる。他者の流通分で自己を飾れば、度し難い権威主義的ナルシストの心が浮上する。私たち一人ひとりが四大声聞と同じように自分の譬喩を語らなければならないのだ。釈尊や日蓮の言葉を暗記して、鸚鵡(おうむ)返しに叫んでも仏法の心は伝わらない。
この日蓮の警告は、私たち一人ひとりの自戒の言葉として胸に刻まなければならない。民衆が他者に仏を幻想して、その前にひれ伏し、民衆に向かって幻想の仏を権威を振りかざすとき、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の魔が目を覚ます。法華経は末法に生きる民衆への応援歌であると同時に、厳しい警告の書でもあるのだ。そこに「法華経を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし」という警告が秘められていることを忘れてはならない。
文明社会には技術や制度によって個人の見かけの力を増幅すると同時に、人間が人間として生きるために不可欠な等身大の心と力を弱めてしまうところがある。文明の進歩とともに人間の視野は地域から国家へ、国家から世界へ、広大な宇宙へと広がってきた。視野が広がることによって、身近な等身大の世界が相対的に小さく見えてくる。戦争はすべて、人間の連帯に必要な等身大の心を失った国家の論理を浮き彫りにしている。
人間は自己改革できるが、国家や組織にはそれができない。組織自体は自己改革の契機を持たないからだ。そこに組織の非人格性がある。国家や組織、肩書、地位を権威とする者は、この点で非人格的な組織の似姿となり、民衆との対話という人間的契機を喪失しやすい。組織的な運動によって世界を根源的に変えることはできない。世界を根源的に変えるのは、組織を支える一人ひとりの意識変革とそれに基づく自律的な行動だけなのだ。これまでの組織運動は必ず新たな対立と民衆抑圧の構造を生み出してきた。
現代社会において文明社会の四つの両義性に最も強く染められているのは、政治家や企業家、組織の指導者といえよう。我本行菩薩道の実践が最も厳しく問われているのは、そのような社会的影響力の強い人たちにほかならない。その自覚を忘れたとき、人間として生きる場は崩壊する。政治や企業、組織の運営に携わる者は、自分の肩書や社会的地位、組織を動かすオルガナイザーとしての立場が、自分の等身大の力を弱らせていないか、常に振り返る必要がある。
文明の進歩の中で等身大の心を失わないためには、自分の身体を動かし、民衆との対話と触れ合いの持続によって民衆が生きる場、地域を見るまなざしを強めなければならない。仏法が説いているのは、等身大にして無限大の力なのである。日蓮は法華経に説かれている修行を実践し、生命の真実は法華経の文底に秘められていることを悟った。そして、法華経文上をはじめとする釈尊一代の説法は、法華経文底の妙法の視点からとらえ直さなければならないと宣言したのである。日蓮は『下山御消息』の中で次のように述べている。
「法華経には『正直に方便を捨て但(ただ)無上道を説く』云云、涅槃経には『邪見の人』等云云。邪見方便と申すは華厳・大日経・般若経・阿弥陀経等の四十余年の経経なり。捨とは天台の云く『廃(すて)るなり』、又云く『謗とは背くなり』。正直の初心の行者の法華経を修行する法は上に挙ぐるところの経経・宗宗を抛(なげう)つて一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり。而るを初心の行者・深位の菩薩の様に経経と法華経を並べて行ずれば不正直の者となる」
この文はさらのその文底を読み取らなければならない。「邪見方便」とは法華経に秘められた生命のメッセージに違背する情報である。「華厳経」とは物理・科学・天文学など森羅万象に秘められた理の追究に最大の価値をおく生き方といえよう。「大日経」とは言語や記号・文化・制度などの力に最大の価値をおく生き方にほかならない。「般若経」とは心の不思議な働きに最大の価値をおく生き方である。「阿弥陀経」とは極楽浄土という超権力の世界に癒しを求める心といえよう。
「四十余年の経経」という言葉は、華厳・大日経・阿弥陀経等の爾前権経(にぜんごんきょう)が倶体倶用(くたいくゆう)の生命の一面を説いたものであることを示している。倶体倶用とは、生命は常に体(本体・実質)と用(ゆう)(働き・作用)が相即していることをいう。倶体倶用は色心不二と通底している。倶体倶用の生命をトータルにとらえず、体の一面あるいは用の一面からのみ見ている視点が邪見である。どんな優れた構想も制度も、その正しい位置づけと運用の方法が問われているのだ。「方便」とは生命の個別的・一回性の働きにほかならない。物事を改革する際には、常に倶体倶用・色心不二の視点が求められているのだ。
「初信の行者」とは本因妙、「深位の菩薩」とは本果妙である。本因妙は理(理論)を事(現象)に開き、本果妙は事を理に収める。生命の本質は本因妙である。「経経宗宗を抛って一向に法華経を行ずる」とは、妙法を根本に諸経を正しく位置づけることである。「経経(爾前権経)と法華経を並べて行ずれば不正直の者となる」とは、部分観を全体観と読み違え混同するとき、生きる場にゆがみが生ずることを示している。日蓮は法華経の心を次のように説いている。
「提謂(だいい)経と申す経は人天の事をとけり。阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う。華厳経と申す経は菩薩のことなり。方等(ほうどう)・般若(はんにゃ)経等は或は阿含経・提謂経にに(似)たり、或は華厳経にもにたり。此れ等の経経は末代の凡夫これをよ(読)み候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへども・くわ(委)しく・これをろむ(論)ずれば己(おのれ)が心をよむなり。己の心は本よりつた(拙)なき心なれば・はかばかしき事なし。法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆへに、たとい(仮令)・し(知)らざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし」(『衆生身心御書』)
「提謂(だいい)経」は二巻から成り、中国・北魏(ほくぎ)の曇靖の撰である。仏が弟子に対して五戒・十善などを説いた経で、阿含経と同じ小乗経に位置づけられている。華厳経、般若経等は権大乗経である。これらの経々はみな、末代凡夫の心性に合わせて説かれた随他意の方便権経であり、法華経文底の妙法のみが仏の心をそのまま説いた随自意の法門なのである。「此の経をよみたてまつれば」とは、法華経文底の妙法を信受して南無妙法蓮華経と唱えることをいう。「利益」とは、そこに開く随縁不変・一念寂照の境界、すなわち妙法との境智冥合である。
現代の西欧哲学者の中にも東洋思想に啓発され、形而上学を言語による生命の囲い込み、矮小化として厳しく批判する人たちがいる。だからといって、形而上学がすべて無駄だということにはならない。人間の知の歴史は、形而上学や儒教、道教、外道、爾前権経によって、森羅万象の文上から文底へと生命の真実に迫る思索を少しずつ深めてきた。その過程で文底を文上に還元する権実雑乱を繰り返している。どこか歴劫修行に似ているところがある。
私たちは文明社会の発展や科学技術の進歩の恩恵を受けながら生活している。そのマイナス面だけを見て全面的に否定すれば自己矛盾に陥る。今問われているのは、まず生命の原点に立って文明社会の両義性に目を凝らすことではないのか。日蓮は文底独一本門の方法的原理を用いて、法華経の文底を掘り起こしたのである。現代はまさに、価値観が錯綜した権実雑乱の時代である。混迷に陥った文明を蘇生させるためには、社会現象をはじめ森羅万象の文底を読み解かなければならない。
第六章 裁く心の陥穽
人間蘇生の方法的原理
二十世紀は科学技術が飛躍的に進歩した繁栄の時代であると同時に、その科学技術の成果を利用して人間同士が互いに殺戮を重ねた残酷な時代でもあった。一世紀の間に二つの世界大戦を経験したにもかかわらず、人類はいまだに根本的な宿業転換の方法的原理を学んでいない。戦争の根底には偏った価値観で互いに相手を悪と決めつける裁きの論理がひそんでいる。時代は二十一世紀の幕を開けた。しかし人類は価値観と利害の対立を克服できず、互いに裁き合いを続けている。
一つの国家を他の諸国が集団で裁くとき、その国家は一義的に裁くにふさわしい姿に仕立て上げられてしまう。一人の人間を集団が裁くときもまた、その人は必ず裁くにふさわしい人間に仕立て上げられてしまうのである。マスコミの憶測の一言が民衆の人生を破壊し、その命を奪うことさえある。「喧嘩」という言葉を「暴力事件」と言い換えただけで、事柄のイメージは大きく変わる。前者には等身大の人間の響きがあるが、後者には組織(集団)による裁きの論理がのぞいている。
マスコミ報道による人権侵害事件の反省も既に忘れ去られようとしている。出演者が憶測で語り合うテレビ番組を見ていると、この人たちは地獄の獄卒になる修業を積んでいるのではないかと思えてくることがある。そこに分別虚妄の魔力が働いていることに当事者たちは気づかない。国際紛争をめぐる話し合いが、こじれやすい理由もそこにある。正義の味方を権威に掲げる者が裁判官になるとき、平和運動が平和を破壊し、人権運動が人権を踏みにじるという根源的な陥穽が口を開く。言葉にすれば、どこかウソになってしまうのが民衆の生きる現実なのである。本来、法律や規則の目的は民衆の生を守り、豊かにすることにあるはずだ。しかし、法律や規則は言葉の虚構によって民衆の生を一方的に裁断する権威主義的なものに変質しやすい。偽の情報がはびこる時代には、そのゆがみはさらに増幅される。
無実の者が犯人として断罪される。誰しもそんなことは万が一にもあってほしくないと願うだろう。しかし、人間がつくる制度や機構は、時として民衆を思いがけぬ不条理へと追い込む。国家が行う戦争は無実の民衆に対する死刑の宣告に似ていないだろうか。いったん戦争に突入すると、国家は民衆の人権を一方的に剥奪し、それまで犯罪とされていた人殺しを命令するのだ。戦争を遂行する指導者たちは、すべて民主主義的な手続きに基づく決定なのだという。政・財・官の利権が絡んだ大企業優先の開発もまた、民衆の生活を一方的に裁断してはばからない。
フランスの文豪エミール・ゾラは、無実のスパイ容疑で終身流刑という悲惨な運命に陥れられたアルフレッド・ドレフュス大尉を救うために正義の論陣を張った。『真空地帯』の作家、野間宏氏もまた「狭山事件」の不条理を告発しつづけた。この二人が生きた時代と国は違っていても、そこには、文学を志す者に共通する眼と心があった。
日常生活の諸現象を、組織の論理で読み解くか人間の論理で読み解くか。そこに情報化社会に生きる私たちの根源的な姿勢が問われている。それは組織の中で生きる人間の宿命といえよう。情報化社会は人間の論理が組織の論理に覆われてしまう時代であり、ホンモノとニセモノが見分けにくい時代でもある。大集経(だいしつきょう)には釈迦滅後二千年を過ぎると、白法が隠没して大白法が起こると予告されている。白法とは文上脱益の釈迦仏法を意味し、隠没とは、その釈迦仏法の功徳が失われることをいう。大白法とは、法華経の文底を掘り起こした日蓮の文底独一本門にほかならない。この白法隠没(びゃくおうおんもつ)の法理は、現代の世相をそのまま映し出している。私たち一人ひとりに、それぞれの生きる場で法華経の文底に秘められた根源的な生命の法理、すなわち妙法をよみがえらす実践が問われているのだ。
その方法的原理は法華経提婆達多品(だいばだったぼん)第十二に説かれている。提婆達多品には、釈尊に反逆し、五逆罪を犯した提婆達多が登場する。提婆達多の五逆罪とは①五百人の比丘を誘惑して和合僧を破る(教団を分裂させる)②大石を落として仏身より血を出す③阿闍世王をそそのかして酔象を放ち仏を殺そうとする④拳をもって華色比丘尼を殺す⑤爪に毒を塗って仏足を礼拝するふりをして仏を傷つけようとした――の五つといわれている。提婆達多は大衆の面前で釈尊に叱咤されたことを恨みに思い、釈迦教団の分裂を策謀し、釈尊の命まで奪おうとした。その提婆達多を釈尊は過去世の師として讃え、天王如来という未来成仏の記別を与えているのである。法華経提婆達多品(だいばだったぼん)第十二には、次のように説かれている。
爾(そ)の時に仏、諸(もろもろ)の菩薩、及び天人四衆(しゅ)に告げたまわく、
吾(われ)過去無量劫(こう)の中に於いて、法華経を求めしに、懈倦(けげん)あること無し。多劫(たこう)の中に於いて、 常に国王と作(な)って、願(がん)を発(おこ)して、無上菩提を求めしに、心退転せず。六波羅蜜(ろくはらみつ)を満足せ んと欲するを為(も)って、布施を勤行(ごんぎょう)せしに、心に象馬七珍(ぞうめしっちん)、国城妻子(こくじょうさいし)、奴婢僕従(ぬびぼくじゅう)、頭(ず)目髄脳(もくずいのう)、
身肉手足(しんにくしゅそく)を悋惜(りんじゃく)すること無く、躯命(くみょう)をも惜しまざりき。時に世の人民(にんみん)、寿命無量なり。 法の為の故に、国位を捐捨(すて)て、政(まつりごと)を太子に任せ、鼓(つづみ)を撃って、四方に宣令(せんりょう)して法 を求めき。
誰か能(よ)く我が為に、大乗を説かん者なる。吾当(まさ)に身を終わるまで、供給(くきゅう)し走使(そうし)すべし。
時に仙人有り。来って王に白(もう)して言(もう)さく、
吾(われ)大乗を有(たも)てり。妙法蓮華経と名づけたてまつる。若(も)し我に違(たが)わずんば、当(まさ)に為に宣説(せんぜつ)すべし。
王、仙の言(ことば)を聞いて、歓喜踊躍(かんぎゆやく)し、即ち仙人に随って、所須(しょしゅ)を供給(くきゅう)し、果(このみ)を採り水を汲み、薪を拾い食を設け、乃至(ないし)身を以って牀座(じょうざ)と作(な)せしに、身心倦(ものう)きこと無かりき。 時に奉事(ぶじ)すること千歳(せんざい)を経て、法の為の故に、精勤(しょうごん)し給侍(きゅうじ)して、乏しき所無からしめき。
(中略)
仏、諸(もろもろ)の比丘(びく)に告げたまわく、
爾(そ)の時の王とは、則(すなわ)ち我が身是れなり、時の仙人とは、今の提婆達多(だいばだった)是れなり。提婆(だいば) 達多(だった)が善知識に由(よ)るが故に、我をして六波羅蜜(ろくはらみつ)、慈悲喜捨(じひきしゃ)、三十二相、八十種好(しゅごう)、紫磨(しま) 金色(こんじき)、十力(じゅうりき)、四無所畏(しむしょい)、四摂法(ししょうぼう)、十八不共(じゅうはちふぐ)、神通道力(じんづうどうりき)を具足せしめたり。等正覚(とうしょうがく)を成 じて、広く衆生を度すること、皆提婆達多(みなだいばだった)が善知識に因(よ)るが故なり。
諸(もろもろ)の四衆(ししゅ)に告(つ)げたまわく、
提婆達多(だいばだった)、却(さ)って後(のち)、無量劫(むりょうこう)を過ぎて、当(まさ)に成仏することを得べし。号(な)を天王如来(てんのうにょらい)、応供(おうぐ)、 正?知(しょうへんち)、明行足(みょうぎょうそく)、善逝(ぜんぜい)、世間解(せけんげ)、無上士(むじょうじ)、調御丈夫(じょうごじょうぶ)、天人師(てんにんし)、仏(ぶつ)、世尊(せそん)と曰(い)わん。世 界を天道(てんどう)と名づけん。
釈尊は無量劫の過去世に国王となり、常に法華経(妙法)を求め続けた。妙法を学ぶために、国王の位を捨てて阿私(あし)仙人に仕え、師のために必要なものをすべて整え、山の木の実を採り、薪を拾い、水を汲んだり、食事の支度をしたり、わが身を捧げて千年も仕えたという。そして、自分が師として仕えた阿私仙人こそ今の提婆達多であると宣言し、さらに天王如来という未来成仏の記別を与えているのである。この提婆達多について、日蓮は次のように生命論を展開している。
「第一提婆達多(だいばだった)の事 文句(もんぐ)の八に云く『本地(ほんじ)は清涼(しょうりょう)にして迹(しゃく)に天熱(てんねつ)を示す』と。御義口伝に云く、提婆達多とは本地は文殊(もんじゅ)なり。本地清涼(しょうりょう)と云うなり。迹には提婆と云うなり。天熱を示す是(これ)なり。清涼は水なり、此れは生死即涅槃(しょうじそくねはん)なり。天熱は火なり、是は煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉るに、煩悩即菩提・生死即涅槃なり。提婆は妙法蓮華経の別名なり。過去の時に阿私(あし)仙人(せんにん)なり。阿私仙人とは妙法の異名(いみょう)なり。阿とは無の義なり。私(わたくし)無きの法とは妙法なり。文句の八に云く『無私(むし)法(ほう)を以(もつ)て衆生に灑(そそ)ぐ』と云えり。阿私仙人とは法界(ほうかい)三千の別名なり。故に私無きなり。一念三千之(これ)を思う可し云云」(『御義口伝巻上』提婆達多品八箇の大事)
提婆達多について、天台大師は『法華文句』の八で、「悪逆の提婆達多の本地は清涼であり、迹に天に熱悩を生ずるような悪人の姿を示したのである」と述べている。日蓮はその文底を開いて、提婆達多を両義的な生命の働きとしてとらえる。提婆達多の本地は文殊菩薩であり、その両義的な働きのもう一つを提婆達多というのである。「文殊(もんじゅ)」は自他の関係性の両義性を読み取る智慧、「提婆達多(だいばだった)」は他者を恨む被害者意識を象徴している。被害者意識は物事を一義的に読み取る。その提婆達多の本地(ほんじ)は文殊なのである。「本地(ほんじ)」は善悪不二「迹(しゃく)」は善悪隔別、「清涼は水」は善悪不二(妙法)を意味する。釈尊在世は色法、過去・未来世は心法である。過去の阿私仙人と未来の天王如来は心法、在世の提婆達多は色法となる。阿私仙人・提婆達多・天王如来は色心不二の法、すなわち妙法の別名にほかならない。「私無きの法」とは自他不二の一念三千である。妙法の智水に浴するとき、自他の色心ともに妙法と開かれる。
提婆達多と阿私仙人は人間関係の両義性を象徴している。自分に理不尽とも思える試練を与える人物を提婆達多と思って怨むか、人生の師として感謝し天王如来と讃えるか。そこに仏法の勝負が問われているのだ。釈尊と提婆達多の出会いによってさまざまな出来事が展開する。釈尊と提婆達多は出会いの両義性を示している。提婆達多に天王如来を見て讃える心が釈尊であり、阿私仙人に提婆達多を見て恨む心が提婆達多なのである。
森羅万象に慈悲を感ずる心を仏という。他者を恨む前に自己の加害者である部分に気づかなければ、根源的なところで自己を支えている他者の存在を切り捨てることになる。提婆達多は分別することの両義性と、正義の味方が陥りやすい被害者意識の権威主義化を象徴している。日蓮は、現実に人間の生きる場をゆがめている悪に対して無抵抗で耐えろと言っているのではない。言論をもって生命の根源にひそむ悪を厳しく破折するところに、仏道修業の根本がある。「若(も)し我(われ)に違(たが)わずんば、当(まさ)に為(ため)に宣説(せんぜつ)すべし」について、日蓮は次のように説いている。
「第二若不違我当為宣説(にゃくふいがとういせんぜつ)の事 御義口伝に云く、妙法蓮華経を宣説(せんぜつ)する事を、汝(なんじ)は我に違(たが)わずして宣説すべしと云う事なり。若(にゃく)の字は汝(にょ)なり。天台の云く『法を受けて奉行(ぶぎょう)す』と。今日蓮等(ら)の類(たぐ)い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、日蓮に違(たが)わずして宣説す可きなり。阿私仙人(あしせんにん)とは南無妙法蓮華経なり云云」(『御義口伝巻上』提婆達多品八箇の大事)
「我」とは師の本果ではなく本因である。「日蓮に違(たが)わずして」とは、日蓮の本果の姿を真似ることではなく、その本因をわが生命に引き継ぐことである。「若不違」の「若」の文底に開く「汝」とは、その決意と実践にほかならない。師の本果を真似る者は権威主義的ナルシストになり、本因を引き継ぐ者は仏界を開く。本因とは妙法にほかならない。「宣説(せんぜつ)す」とは自他の関係性を価値創造へと開く言動である。妙法の曼陀羅を信受して南無妙法蓮華経と唱えるとき、法華経の虚空会が象徴する色心不二・自他不二・久遠即末法の生命の場が開かれる。「菓(このみ)を採(と)り水(みず)を汲(く)み、薪(たきぎ)を拾(ひろ)い食(じき)を設(もう)け」について、日蓮は次のように文底の法門を展開する。
「第三採菓汲水拾薪設食(さいかぎゅうすいじゅうしんせつじき)の事 御義口伝に云く、採菓(さいか)とは癡煩悩(ちぼんのう)なり。汲水(ぎゅうすい)とは貪(とん)煩悩なり。拾薪(じゅうしん)とは瞋(じん)煩悩なり。設食(せつじき)とは慢(まん)煩悩なり。此の下に八種の給仕之(きゅうじこ)れ有り。此の外(ほか)に妙法蓮華経の伝授之れ無きなり。今日蓮等(ら)の類(たぐ)い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、即ち千歳(せんざい)給仕なり。是れ即ち一念三千なり、貪瞋癡慢(とんじんちまん)を対治(たいじ)するなり」(『御義口伝巻上』提婆達多品八箇の大事)
「採菓(さいか)とは癡煩悩(ちぼんのう)なり」とは利益を求める心、「汲水(ぎゅうすい)とは貪(とん)煩悩なり」とは自己に必要なものを取り入れようとする心、「拾薪(じゅうしん)とは瞋(じん)煩悩なり」とは煩悩の炎、すなわち怒りの象徴であり、自己に不要なものを排除しようとする心を表す。「設食(せつじき)とは慢(まん)煩悩なり」とは他者を支配しようとする心の譬喩である。「此の下に八種の給仕之れ有り」とは、その時の給仕の仕方に「菓を採り、水を汲み、薪を拾い、食を設け、花を摘み、燈を点(とも)し、席を清め、庭を掃く」という八種があったことをいう。
物本事迹の視点を事本物迹の視点に転換して「八種の給仕」の文底を読み取れば、煩悩即菩提の修行を示唆していることが見えてくる。いずれもプラスとマイナスの両義性をはらんでいる。その究極の文底は妙法蓮華経という法の伝授となる。妙法を信受することを「千歳給仕」といい、それが煩悩即菩提の修行となる。妙法に命(もと)づく生命は自他の関係性がはらむ両義性を価値創造へと開く。この経に説かれている「提婆達多即(そく)阿私仙人」と「提婆達多即(そく)天王如来」の譬喩は、さまざまな出会いの両義性にほかならない。
法華経には此土(しど)と他土(たど)の仏が登場する。他土の仏とは他者の両義性であり、それは此土(自己)にとって価値創造の助縁にもなれば価値破壊の助縁にもなる。此土の仏を覚醒させる主体的な実践だけが、他土の仏が発する破壊力を創造力に転換する。提婆達多が釈尊の過去世の師・阿私仙人であり、天王如来の記別を受けたことは、提婆達多が他土即(そく)此土(自他不二)の仏であることを示している。釈尊と提婆達多は生きる場の両義性となる。師とは弟子の生命・人生を創造的に開く存在であると同時に、弟子の生命・人生を閉ざし、破壊する存在でもある。この両義性のねじれを、自己の責任で振りほどく方法的原理を、日蓮の文底独一法門は説いている。
分別の両義性
文明は台風の季節に似ている。多くの文化的便宜という果実を実らせる重要な役割を果たすと同時に、人間が生きる時間と空間を暴力的にひずませる。人間が生きる空間とは、自己と他者(人間・自然・物)の出会いの場であり、そこに生まれる相互作用のダイナミズムこそ人間が生きる時間である。善の本質は民衆が豊かに生きる時空を生み出す働きであり、それを逆流させ破壊する働きこそ悪の本質といえよう。法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)第二十には、どんなに迫害されても、出会うすべての人を礼拝讃歎してやまない不経菩薩の振る舞いが説かれている、日蓮は不軽菩薩の振る舞いを通して、分別という働きがはらむ両義性を次のように指摘する。
「第二十三無明礼拝住処(むみょうらいはいじゅうしょ)の事 御義口伝に云く、自他の隔意(きゃくい)を立て、彼は上慢の四衆、我は不軽と云う。不経は善人、上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり。此(ここ)に立って礼拝の行を成す時、善悪(ぜんなく)不二・邪正(じゃしょう)一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云」(『御義口伝巻下』常不経品三十箇の大事)
「自他の隔意(きゃくい)を立てる」とは、物(モノ)にとらわれて事(コト)の奥行きが見えない心である。他者を上慢の四衆と見て軽蔑し憎む心が上慢の四衆となり、他者を「不軽」と見て尊敬する心が不軽菩薩となる。「善悪」「邪正」を自他の出会いがはらむ両義性ととらえ南無妙法蓮華経の唱える心に、法華経の虚空会が象徴する人間・宇宙・生命の調和と連帯がよみがえる。こうした経文とその文底の意義を読み返していると、釈尊を怨み反逆した提婆達多とは被害者意識の譬喩であることが見えてくる。相手を提婆達多と思い込んで恨む心こそ提婆達多なのである。被害者は一瞬にして加害者に変身する。日蓮は次のように説いている。
「第二十九法界礼拝住処の(ほうかいらいはいじゅうしょ)事 御義口伝に云く、法界に立(たち)て礼拝するなり。法界とは広きに非ず狭きに非ず。惣(そう)じて法とは諸法なり、界とは境界なり。地獄界乃至(ないし)仏界各各(おのおの)界を法る(のっと)間、不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り、上慢の四衆は四衆の界に法るなり。仍(よ)って法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり。其の故は不経菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆所具の仏性又(また)不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向って礼拝を成す時、浮べる影又我を礼拝するなり云云」(同前)
「法界に立て礼拝する」とは、事本物迹の視点でとらえた礼拝である。不軽菩薩と上慢の四衆の出会いは自他不二の礼拝というマンダラを描きだす。「鏡に向って礼拝を成す時、浮べる影又我を礼拝するなり」という法理は、さらにその文底を読み取らなければならない。そこには「鏡に向かって悪口罵詈する時、浮かべる影又(また)我を悪口罵詈する」という法理が秘められている。不経菩薩の礼拝、すなわち折伏は慈悲の菩薩界に法り(のっと)、上慢の四衆の悪口罵詈は憤怒の修羅界に法る。鏡が秘める悪の波動をどのように善の波動に転換するのか。自他不二の礼拝の意義を深く思索しなければならない。
邪正一如、善悪不二といっても、善と悪がそのまま等しいというわけではない。善と悪は一つの事象を成り立たせている両義性であり、両義性の調和が善となり、ねじれが悪となる。提婆達多即(そく)天王如来という法理は、天王如来即(そく)提婆達多という法理を示唆している。天王如来は他者性の仏であり、他者性の仏は仏と魔の両義性をはらんでいる。この両義性を中道に開くところに法華経の真意がある。提婆達多にそそのかされて父王を殺し、母まで殺そうとした阿闍世王について、日蓮は次のように文底の意義を説いている。
「第三阿闍世(あじゃせ)王の事 文句(もんぐ)の一に云く『阿闍世王とは未生怨(みしょうおん)と名づく』と。又云く『大経に云く『阿闍世とは未生怨と名づく』と。又云く『大経に云く、阿闍を不生と名づく、世とは怨と名づく』と。御義口伝に云く、日本国の一切衆生は阿闍世王なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。無量義経に云く『諸仏の国王と、是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生む』と。謗法の人、今は母の胎内に処しながら、法華経の怨敵たり。豈(あに)『未生怨』に非ずや。(中略)今、日蓮等(ら)の類(たぐい)は阿闍世王なり。其の故は南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛(とんない)・無明(むみょう)の父母を害して、教主釈尊の如く仏身を感得するなり」(『御義口伝巻上』序品七箇の大事)
阿闍世王は摩訶陀国(まかだこく)の頻婆娑羅(びんばしゃら)王の太子として生まれた。未生怨(みしょうおん)と名づけられた由来については次のような説話がある。世継ぎのなかった頻婆娑羅王が占い師に見てもらうと、山中に住む仙人が死後太子となって生まれてくることを告げられる。王は一日も早く世継ぎがほしいあまりに、その仙人を殺してしまう。間もなく韋提希夫人(いだいけふじん)が懐胎するが、占い師がこの子は生まれて王の怨になると預言したので、未生怨と名づけられたという。
この『御義口伝』の文は、阿闍世王を生命の働きの両義性ととらえている。まず、日本国の人々はすべて阿闍世王だという。それは「諸仏の母を殺し、法華経の母を害する」からである。「諸仏の母」「法華経の母」とは、生命の根源の一法(妙法)にほかならない。生命の法に違背する心を「阿闍世王」という。
次に「南無妙法蓮華経(妙法)の剣」を取って、「貪愛・無明の父母」を害して、「教主釈尊の如く仏身を感得する」者が阿闍世王となる。ここには貪愛即(そく)慈悲、無明即(そく)法性、三毒即(そく)三徳、九界即(そく)仏界の法理が示されている。ここで即とは妙法への信を表す。生と死、創造と破壊、上と下、表と裏、内と外、楽と苦、愛と憎しみ、喜びと悲しみを善と悪に立て分けることはできない。善も悪も主体の都合によって、一つの事象を呼び分ける記号に過ぎないからだ。しかし主体の都合というのは、まさに人生そのものなのである。自分の人生の一つ一つの出来事にどうかかわるか。その関係性の中に人生の価値が開かれ、閉ざされる。
国家や企業、組織による分析的な論理と行動は、自己と他者の対立点を際立たせ、民衆が生きる自他共存世界の生態学的連鎖を切り裂く方向に偏りがちなのだ。私たちは対象を分析する際に、事象の両義性をプラスとマイナスの要素に分別して抽象と捨象を繰り返す。
この場合、捨象された部分は常に無限大だが、抽象された部分は相対的に無限小に近づく。捨象されたものは混沌に拡散したままだからだ。ソフィスト(詭弁学派)の命題に出てくるギリシャの英雄・アキレスは、虚構の壁(競争相手の亀を追い越す境界線)の前で、時間と歩幅を無限に縮小しながら足踏みを続けるだけで、開かれた未来へ一歩も踏み出すことができない。分別は生の現実を虚妄の世界に閉ざす危険性をはらんでいる。
分析的論理は常に、総合へフィードバックする契機を見失ってはならない。分析的視点は総合へ立ち返る契機を見失った瞬間に他者を裁く論理を生み出す。分析主義は破壊の芽をはらみ、総合主義は創造の芽をはらんでいる。創造と破壊は事象の不可分な両義性なのである。いかなる事象もその文底を開けば創造と破壊の両義性が見えてくる。価値観を偏らせれば両極の一方の極だけが浮き彫りになる。邪正一如、善悪不二ととらえる自己への厳しさと他者への寛容が、虚構の壁を突き破り世界を変える。
人生の苦労を体験しながら自らの規範を発見し、創出した人はその規範を適切に活用し、状況に応じて規範を改革する柔軟性を持っている。しかし規範を権威として引き継ぐだけの人は、その規範によって他者を一方的に裁くようになる。釈尊一代の説法と仏教の歴史は、そのことを裏付けているのではないか。
誹謗や中傷に対する反論にしても、結果として自分を一義的に飾ろうとする姿勢につながらざるを得ないというジレンマをはらんでいる。この点に対する厳しい自覚を忘れると、自己変革(宿業転換)のバネを自分で外してしまうことになる。誰でも弁解するときには、自分に都合のよい解釈で現実を切り取り、本質的な問題を言葉の問題にすり替えがちなのだ。反論する言動に、両義性のねじれが映し出される。そこに浮かび上がってくるのは、さらに増幅された分別虚妄の世界である。従って、反論には自己変革への強い決意が必要となる。真の解決は未来における自分自身の実像で示す以外にない。日蓮は裁く心にひそむ陥穽を次のように警告している。
「六師同心して阿闍世(あじゃせ)・婆斯匿王(はしのくおう)等に讒奏(ざんそう)して云く、瞿曇(くどん)は閻浮(えんぶ)第一の悪人なり。彼がいたる処は、三災七難を前(さき)とす。大海の衆流(しゅる)をあつめ、大山の衆木をあつめたるがごとし。
瞿曇がところには衆悪をあつめたり。所謂迦葉(かしょう)・舎利弗(しゃりほつ)・目連(もくれん)・須菩提(しゅぼだい)等なり。人身を受けたる者は忠孝を先とすべし。彼等は瞿曇にすかされて、父母の教訓を用いず、家をいで、王法の宣旨(せんじ)をもそむいて山林にいたる。一国に跡(あと)をとどむべき者にはあらず。されば天には日月衆星変をなす、地には衆夭さかんなりなんどうつたう」(『開目抄上』)
「六師」とは釈尊在世当時、中インドに勢力を広めていた六人の外道論師をいう。六師外道には、その時代の文化・価値観が集約されている。瞿曇(くどん)は釈尊の呼び名。「阿闍世・婆斯匿王等」とは法律・制度・組織・機構、「讒奏(ざんそう)」とは裁き・排除である。この文には文明社会に構造的に組み込まれた謗法の陥穽が指摘されている。六師外道が心を合わせて釈尊を非難する「瞿曇(くどん)は閻浮(えんぶ)第一の悪人」という言葉は、偏った価値観によって人間本来の生き方を疎外する論理である。「忠孝を先とすべし」とは実質を無視した形式論理であり、価値観の転倒につながる。「一国に跡(あと)をとどむべき者にはあらず」の一言に、偏った価値観を振りかざして人間の連帯を引き裂く、国家悪・組織悪の本質が象徴されている。
被害者意識にとらわれるとき、私たちは自分の加害者である部分を見失い、相手を加害者として徹底的に分析しようとする。相手を敵とみなす者は対話の契機を失い、互いに相手の似姿になる。イスラエルが主張する予防攻撃の論理は、被害者意識の権威主義化と、そこから生まれる裁きとテロと報復という悪循環をもたらす。アメリカも同じ轍を踏んできた。
大国による国際的な経済活動は権力者間の利害関係がからみ、民衆の生活向上は二の次三の次に回されてきた。民衆の生活を最優先する視点が必要なのだ。アメリカが掲げる民主主義は自国の繁栄を最優先させ、他国に対する民主主義的配慮はつじつま合わせでしかないように見える。その意味では、戦後の日本は幸運だったのかもしれない。しかし次々と明るみに出る政治家や官僚、企業幹部の腐敗堕落には、挫折した発展途上国の権力者たちがたどった道と共通するものがある。
イスラエルの予防攻撃の論理は、被害者意識=加害者というパラドックスの典型といえよう。そこに被害者意識の悪循環が生まれる。そこに気づかなければ、現実に民衆の解放をめざすイデオロギーが民衆を抑圧し、平和をめざす論理と行動が平和を阻むという根源的な矛盾が噴き出す。それは二十世紀から二十一世紀の今日に至る世界の歴史が証明している。
保守も革新も、組織や機構自体にあるわけではない。民衆とのかかわりの中で生まれる運動・作用・影響性に保守、あるいは革新の本質が現れる。問題は組織を支える人間の心にある。大切なのは自分の主張を権威に振りかざしたり、固守することではなく、自らの内なる民衆の覚醒によって問題の本質を見定め、それを解決することなのである。
現代文明の危機を予告したインドの詩人・タゴールは、私たちが見失おうとしているものを鋭く指摘している。「善への感覚は、われわれの生に対するいっそう真実な見解から生まれる。つまり、生命の全領域に結び付いた見解、また、われわれの眼前に現存しているものについてだけでなく、眼前に存在していないもの、人間の判断ではおそらく存在しえないと考えられるものについても考慮する見解である」(『生の現実』)
私たちは自分の文化や価値観を基準にして他者を推し量ろうとする。人類の歴史は異質の文明の出合いがもたらした不幸な出来事に彩られている。東洋の世界観(事本物迹)と西欧の世界観(物本事迹)の優劣を一概に論ずることはできない。どちらの世界観にも光と影の部分があり、歴史の流れの中で相互に深い影響を与え合ってきた。西欧の世界観は科学技術の進歩をもたらす一方で、環境破壊や人間疎外などさまざまなひずみを生み出している。東洋の世界観にも事(コト)を共有できない他者を疎外する傾向がみられる。
被害者意識の陥穽
情報化が進んだ今日の社会状況は、国民総裁判官時代といった様相を呈している。政治は国民を裁き、国民は政治を裁く。政党は互いに裁き合い、国家も互いに裁き合っている。裁く心は飢えた虎に似ている。その視野にとらえられた者は、すべて凶暴な飢えの犠牲となり、肉体の威厳を保つための餌食となる。民衆を裁く者はいつか必ず民衆によって裁かれる。虎の命が同じ虎の命を呼び覚ますのだ。ナチス・ドイツは人間の心を失い、被害者意識をもってユダヤの民衆を裁き、殺戮したのである。ユダヤの民衆が建国したイスラエルもまた、同じ被害者意識をもってパレスチナの民衆を裁きつづけ、パレスチナの民衆の心にひそむ餓えた虎を呼び覚ました。
民衆が被害者意識にとらわれるとき、いかなる政治制度も危険な芽をはらむことになる。ボスニア紛争の当事国であるセルビア、ボスニア、クロアチア各共和国は、いずれも社会主義を標榜していた。互いに被害者意識にとらわれて、傷つけ合い、殺し合い、領土を奪い合う悪循環。被害者意識を膨らませた民衆は互いに裁き合うことによって被害者意識をさらに増幅する。
政治権力者の被害者意識は戦争の引き金となる。被害者意識こそ、この世に地獄をもたらす元凶ではないのか。ソ連の共産主義は、被害者意識を抑圧しながら増幅する制度だった。ソ連邦が崩壊したにもかかわらず、旧ソ連邦諸国をはじめ東欧社会主義諸国の民衆は、いまだにその心の奥底に共産主義のマイナスの遺産を引きずっている。
民主主義もまた民衆が被害者意識にとらわれている限り、正常に発展することはできないのではないか。被害者意識は諸刃の剣であり、結果的に自分を傷づけることになる。人間の心にひそむ被害者意識をいかにして転換するかという視点から民主主義制度をとらえ直すとき、その長所と短所がこれまでとは違った形で見えてくるはずだ。民主主義の最大の矛盾は、政治家や政治集団が民衆の被害者意識を利用して、自分の勢力や利権を拡大しようとするところにある。この矛盾を解決するには、根本的な意識革命が必要なのだ。その方法的原理が今問われている。
分析的論理には大きな陥穽がある。権大乗経や文上の法華経には歴劫(りゃっこう)修行による得道が説かれている。歴劫修行とは速疾頓成に(そくしつとんじよう)対する語で歴劫行ともいう。鈍根の菩薩と二乗が無量百千万億劫の長期にわたって修行することである。爾前経では、小乗の菩薩は三阿僧祇(あそうぎ)(阿僧祇は十の五十一乗ともいわれる)、通教の菩薩は動踰(どうゆ)塵劫(じんこう)(動(やや)もすれば塵劫を踰(こ)える)、別教の菩薩は多倶低劫(たくていこう)(多劫と略す。倶低は千万、あるいは億に相当する)等さまざまな修行の時節を定め、六波羅蜜(はらみつ)などの菩薩道を行ずることによって初めて成道できると説いている。文上の法華経でも、声聞の弟子たちは未来成仏の記別を受けるにとどまる。
六波羅蜜の波羅蜜は到彼岸と訳され、生死の此岸より解脱涅槃の彼岸に至ることを意味する。六波羅蜜とは檀那(だんな)(布施)波羅蜜、尸羅(しら)(持戒)波羅蜜、?提(せんだい)(忍辱(にんにく))波羅蜜、毘梨耶(びりや)(精進)波羅蜜、禅那(ぜんな)(禅)波羅蜜、般若(はんにゃ)(智慧)波羅蜜の六つをいう。
①檀那とは布施・施与のことで、これには財施と法施の二つがある。財施とは身命を含む己の財産をすべて他者に与える修行であり、法施とは自分が学んだ仏の善法を他者のために演説し、説法教化する修行である。
②尸羅(しら)は持戒を意味する。戒には出家の戒と在家の戒がある。それぞれにさまざまな戒が定められている。菩薩にも十重禁戒や四十八戒がある。こうした戒を菩薩が清浄な心をもって持(たも)つ修行を尸羅(しら)(持戒)波羅蜜という。
③?提(せんだい)は忍辱(堪え忍ぶ)と訳される。これには生忍と法忍の二つがある。生忍にも二種類あり、一つは恭敬供養を受けても驕慢にならない修行、もう一つは迫害に遭っても怒りや恨みを抱かない修行である。法忍も二種類ある。一つは非心法といわれ、寒さや暑さ、風雨、飢え、病いなどに動じない修行、もう一つは心法といわれ、さまざまな邪見や驕慢な言動にあっても心を動じない修行である。
④毘梨耶(びりや)は精進を意味する。これには身精進と心精進の二つがあり、この二つには六波羅蜜の他の五つの修行に精進するという意味がある。布施、戒の善法を修行することが身精進であり、忍辱、禅定、智慧を修行することが心精進である。
⑤禅那(ぜんな)は禅定と訳される。これには世間禅と出世間禅の二つがある。世間禅とは凡夫が行ずる四無量心(慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心)などの禅をいう。慈無量心とは衆生に楽しみを与える心、悲無量心とは衆生の苦しみを除く心、喜無量心とは衆生の喜びを自分の喜びとする心、捨無量心とは衆生の平等を念じて愛憎の心を捨てることをいう。
⑥般若とは智慧を意味する。声聞の智慧、縁覚の智慧、仏の智慧の三種がある。声聞の
智慧は学、無学、非学非無学の三つ。縁覚の智慧は声聞と同じだが、縁覚の場合は無漏善根純熟であるため自然に悟って禅定を得ることができるとする。仏の智慧とは六波羅蜜の修行によって無余涅槃(色心とともに煩悩を断じ尽くすこと)に入り、その智慧によって一切を了知することをいう。菩薩がこの三種の智慧(声聞・縁覚・仏)を修する行法が般若波羅蜜とされている。しかし、この三種の智慧はいずれも権経の偏った部分観であり、法華経で開示された色心不二なる生命の真実(妙法)と矛盾する。
爾前権経に説かれている六波羅蜜の修行は、両義性をはらむ生命の真実と矛盾しているのだ。それは仏を絶対的な権威として一義的に分析し、体系化した形而上学的理論であり、言葉による生命の矮小化、囲い込みにつながらざるを得ない。六波羅蜜は論理的に考えても、永遠に実行不可能な修行なのである。
歴劫修行とは分析・排除の論理の譬喩ととらえることができよう。分析的論理は抽象と捨象を繰り返す。抽象するたびに捨象された部分は増大していく。こうした爾前権経の分析的論理は、三諦(空・仮・中)の空諦に偏った実行不可能な空論なのである。物事を分析するだけで問題の解決を図るのは、火をともさずに部屋を暖め、太陽の光を遮ったまま植物を育てようとするのに等しい。虚構の壁を幻想し、その前で永遠に足踏みを続けることにならざるを得ないのである。
提婆達多のように被害者意識を膨らませて「敵」をつくり出し、「敵」を抹殺しようとする者は、自らの生の基盤である自他共存世界を破壊していることに気づかない。文明の台風がもたらす、ねじれた時間と空間の中で、人間の生を否定しつづけているのだ。冷たい部屋を暖める火、植物を豊かにはぐくむ太陽は民衆の生命の中にある。民衆の未来創造の潜在的エネルギーこそ火であり、太陽にほかならない。子供が花を指さす時、人々の心に花の世界が広がる。大人が物質的富を指さす時、人々の心に貧しさが入れ替わる。権力者が「敵」を指さす時、人間の世界が壊れる。
無量義経十功徳品第三には「未(いま)だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然(じねん)に在前す」と説かれている。妙法に目覚めた生命は、六波羅蜜の功徳をすべて備えているというのだ。日蓮は観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五の「慈眼をもって衆生を視る 福聚の海無量なり」の文について、次のように文底の意義を述べている。
「普門品(ふもんぼん) 慈眼ヲモチテ視二給ウ衆生一ヲ 福聚(ふくじゅ)ノ海(福智)無量ナリ 此の文は、法界の依正(えしょう)妙法なる故に、平等一子の慈悲なり。依正福智共に無量なり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経福智(ふくち)の二法なり云云」(『御義口伝巻下』二十八品に一文充(ずつ)の大事)
仏の慈眼は、どんな人の生命にも無限の福運が湛えられていることを見抜いている。依報(えほう)(環境)の質を「福」といい、正報(しょうほう)(主体)の質を智という。わが生命・人生の福智ともに無量なることを悟る生命を仏と名づける。「慈眼ヲモチテ視二給ウ衆生一ヲ」とは妙法の価値観、「福聚(ふくじゅ)ノ海(福智)無量ナリ」とは妙法に照らされた十界の依正(えしょう)の働きである。「海(福智)無量ナリ」とは豊かな生命・人生にほかならない。己心の観世音菩薩を見失うとき、被害者意識を膨らませた人間同士が裁き合う地獄の世界が現出し、事象の両義性を如実に知見する己心の観世音菩薩がよみがえるとき、調和と連帯の豊かな生命・人生が開かれる。人間関係はすべて、提婆達多と阿私仙人の両義性をはらんでいる。自分に厳しい試練を与える人を提婆達多と見れば地獄が開き、阿私仙人と受け止めれば未来は天王如来の生命に照らされる。
観世音菩薩は、生の限界状況の中で希望を抱きしめ、事象の文底を開きつづける心の譬喩でもある。事象の文底を開くとき、事象の両義性が見えてくる。釈尊は八万法蔵を説き、事象の文底を幾重にも開くことによって、色心不二・久遠即末法という生命の真実を開示したのである。釈尊は法華経寿量品の自我偈で、末法の衆生に次のように呼びかけている。
衆生劫尽(しゅじょうこうつ)きて 大火(だいか)に焼かるると見る時も
我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり
園林諸(おんりんもろもろ)の堂閣 種種(しゅじゅ)の宝(たから)をもって荘厳(しょうごん)し
宝樹華果(ほうじゅけか)多くして 衆生(しゅじょう)の遊楽する所なり
生命科学者の柳沢桂子氏は、原因不明の難病という自らの生の限界状況の中で省察した心境を次のように語っている。
生き物であれば、壊れることがある。時とともに古くなっていく。行く着く先は死である。私たちは死ぬことを予知して恐れる。別離を悲しむ動物である。人生というものは過酷なものである。
けれども「人生は苦なり」と受け入れてしまえば、人生には喜びが満ちていることが見えてくる。風で一枚の葉がそよぎ、それを私が見ることができるということにさえ、どれだけの奇跡が満ちていることであろうか。
まして、私が人間としてこの世に存在していることを思うとき、それが苦しい人生であろうとなかろうと、その偶然の積み重ねの重さに圧倒されて自然の前に平伏(ひれふ)さざるをえない。
自然に対する畏敬の念、三六億年という生命の歴史の時間に対する畏れは私の心を無限の感謝で満たすのである。
苦しみに在り果つもまた一瞬(ひととき)のあそびならずや雪の音聴く
(『癒されて生きる』一三三ページ)
柳沢桂子氏の言葉は法華経寿量品の自我偈の言葉と響き合い、照らし合うかのようである。釈尊は生の限界状況に立たされた人々に、「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり」と呼びかけている。柳沢桂子氏もまた、「人生は過酷なものである。けれども『人生は苦なり』と受け入れてしまえば、人生には喜びが満ちていることが見えてくる」と語りかけている。
釈尊はさらに「園林諸の堂閣、種種の宝をもって荘厳し、宝樹華果多くして、衆生の遊楽するところなり」と呼びかけている。柳沢桂子氏は、風にそよぐ一枚の葉に奇跡を感じ、三十六億年の生命の歴史に畏敬の念を抱き、今、ここに、生きることに感謝する。そして「苦しみに在り果つも一瞬のあそびならずや雪の音聴く」と歌う心に、「衆生所遊楽」を告げる釈尊の心が寄り添う。物本事迹の視点を事本物迹の視点に転換するとき、事象の両義性が露わとなり、煩悩即菩提・生死即涅槃の境界が開かれる。
法華経文底の妙法は生命のありのままの法であり、言葉や思索で囲い込むことはできない。言葉や思索で囲い込むことのできないものを表現する方法的原理を曼陀羅という。小乗教や権大乗経はすべて生命の法の一部分を言葉で分析し、体系化しようとしている。分析・体系化されたものは、相対的に極小化せざるを得ないのである。言葉は混沌を分節して局部的な意味を浮かび上がらせる。
法華経は譬喩や陀羅尼を用いることによって言語を戦略的に展開し、生命の真実を伝えようとしているのだ。天台大師はその文底を理の一念三千として分析し、体系化したのである。日蓮が説く生命の全体像(事の一念三千の曼陀羅)と天台大師が説く生命理論の体系化(理の一念三千の法理)を混同してはならない。仏法を解説する言葉にも、分別虚妄という陥穽が潜んでいる。従因至果(じゅういんしか)は森羅万象(個々の事象)から妙法へ迫る視点、従果向因(じゅうかこういん)は妙法から森羅万象を開く視点である。
第七章 調和と連帯をめざす生命
躍動する生命の姿
厳しい冬を耐えつづけた草木は、春の訪れとともに一斉に芽を吹く。私たちの意識は、移り変わる季節の流れに従って生きる草木の姿をとらえている。しかし、物(モノ)的視点を事(コト)的視点に転換すると、草木は春の訪れを待っているのではなく、その生命の内側から春を開き、新しい季節を生み出していることが見えてくる。人間もまた、時代の流れのままに生きているのではなく、一人ひとりの価値観や行動の選択によって、新しい時代をつくり出しているのである。
春の野辺に萌え出ずる若草は、見る者の心に希望とやすらぎを与える。しかし私たちの目はあまりに近すぎるものや遠すぎるものを見ることはできない。もし人間の眼の倍率が電子顕微鏡ぐらいに高まったとしたら、春の野辺の情景は一変するにちがいない。若草や樹木は一斉に芽吹き、細胞分裂を展開する。大地からあふれ出る数限りない細胞群。法華経従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五は、地涌(じゆ)の菩薩が大地より涌出(ゆじゅつ)し、虚空に満ちあふれる場面から始まる。
爾(そ)の時に他方の国土の、諸(もろもろ)の来れる菩薩摩訶薩(まかさつ)の、八恒河沙(ごうがしゃ)の数に過ぎたるが、大衆(だいしゅ)の中に於いて起立(きりゅう)し、合掌し、礼(らい)を作(な)して仏に白(もう)して言(もう)さく、
世尊、若(も)し我等仏の滅後に於いて、此の娑婆(しゃば)世界に在って、勤加精進(ごんかしょうじん)して、此の経典(きょうでん) を護持(ごじ)し、読誦(どくじゅ)し、書写(しょしゃ)し、供養(くよう)せんことを聴(ゆる)したまわば、当(まさ)に此の土に於いて、広く 之を説きたてまつるべし。
爾(そ)の時に仏、諸(もろもろ)の菩薩摩訶薩衆(ぼさつまかさつしゅ)に告(つ)げたまわく、
止(や)みね善男子(ぜんなんし)、汝等(なんだち)が此の経を護持(ごじ)せんことを須(もち)いじ。所以(ゆえん)は何(いか)ん。我が娑婆世界に、自(おのずか) ら六万恒河沙(ごうがしゃ)等の菩薩摩訶薩(まかさつ)有り。一一の菩薩に各(おのおの)六万恒河沙(ごうがしゃ)の眷属有り。是の諸人 等能(よ)く我が滅後に於いて、護持(ごじ)し、読誦(どくじゅ)し、広く此の経を説かん。
仏、是(こ)れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩(まかさつ)有って、同時に涌出(ゆじゅつ)せり。是の諸(もろもろ)の菩薩は、身皆金色(こんじき)にして、三十二相、無量の光明あり。先より尽(ことごと)く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸(もろもろ)の菩薩、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の所説の音声(おんじょう)を聞いて、下より発来(ほつらい)せり。一一の菩薩、皆是れ、大衆(だいしゅ)の唱導(しょうどう)の首(しゅ)なり。各(おのおの)六万恒河沙(ごうがしゃ)等の眷属を将(ひき)いたり。況(いわん)や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙(ごうがしゃ)等の眷属を将(ひき)いたる者をや。況(いわん)や復(また)、乃至(ないし)一恒河沙(ごうがしゃ)、半恒河沙(ごうがしゃ)、四分の一、乃至千万億那由佗(なゆた)分の一なるをや。況(いわん)や復(また)、千万億那由佗(なゆた)の眷属なるをや。況(いわん)や復(また)、億万の眷属なるをや。況(いわん)や復(また)、千万、百万、乃至(ないし)一万なるをや。況(いわん)や復(また)、一千、一百、乃至(ないし)一十なるをや。況(いわん)や復(また)、五、四、三、二、一の弟子を将(ひき)いたる者をや。況や復(また)、単己(たんご)にして遠離(おんり)の行を楽(ねが)えるをや。是(かく)の如き等以(たぐい)、無量無辺にして、算数譬喩(さんじゅひゆ)も知ること能(あた)わざる所なり。
是(こ)の諸(もろもろ)の菩薩、地より出(い)で已(おわ)って、各(おのおの)虚空の、七宝(しっぽう)の妙塔の多宝如来(たほうにょらい)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の所(みもと)に詣ず。到り已(おわ)って、二世尊に向いたてまつって、頭面(ずめん)に足(みあし)を礼(らい)し、乃至諸(ないしもろもろ)の宝樹下の、師子座上の仏の所(みもと)にても、亦(また)皆礼を作(な)して、右に繞(めぐ)ること三?(さんそう)して、合掌恭敬(くぎょう)し、諸(もろもろ)の菩薩の、種種(しゅじゅ)の讃法(さんぽう)を以って、以って讃歎(さんだん)したてまつり、一面に住在し、欣楽(ごんぎょう)して二世尊を瞻仰(せんごう)す。是の諸(もろもろ)の菩薩摩訶薩(まかさつ)、地(じ)より涌出(ゆじゅつ)して、諸(もろもろ)の菩薩の種種(しゅじゅ)の讃法(さんぽう)を以って、仏を讃(ほ)めたてまつる。是(かく)の如くする時の間に五十小劫(こう)を経たり。是(こ)の時に釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、黙(もく)然(ねん)として坐したまえり。及び諸(もろもろ)の四衆(ししゅ)も、亦(また)皆、黙然(もくねん)たること五十小劫(こう)、仏の神力(じんりき)の故に、諸(もろもろ)の大衆をして半日の如しと謂(おも)わしむ。爾(そ)の時に四衆(ししゅ)、亦(また)、仏の神力(じんりき)を以っての故に、諸(もろもろ)の菩薩、無量百千万億の国土の虚空に?満(へんまん)せるを見る。是の菩薩衆(しゅ)の中に四導師有り。一を上行(じょうぎょう)と名づけ、二を無辺行(むへんぎょう)と名づけ、三を浄行(じょうぎょう)と名づけ、四を安立行(あんりゅうぎょう)と名づく。是の四菩薩、其の衆中(しゅちゅう)に於いて、最も為(こ)れ上首唱導(じょうしゅしょうどう)の師なり……。
従地涌出品の冒頭で、他方の国土から釈尊の下に参じた八恒河沙(ごうがしゃ)を超える菩薩(他土(たど)・迹化(しゃっけ)の菩薩)たちが、釈尊の滅後に娑婆世界で法華経を流布することを誓う。ところが、釈尊は他土・迹化の菩薩たちの誓いを制止して、此土(しど)・本化(ほんげ)の地涌菩薩を召喚する。その時、娑婆世界の三千大千の国土がすべて震裂して、大地の下から無量百千万億の菩薩(此土・本化の菩薩)が同時に涌出する。上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩を導師とする恒河沙の地涌の菩薩は、それぞれに眷属を随えている。眷属の数は、一から百、千、万、億、さらに六万恒河沙に至るまで、さまざまである。しかも、「是(こ)の諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)は、身皆金色(みみなこんじき)にして、三十二相(さんじゅうにそう)、無量(むりょう)の光明(こうみょう)あり」とあるように、地涌の菩薩はいずれも釈尊よりも尊い姿をしているのである。この地涌の菩薩の召喚は一体何を意味しているのだろうか。従地涌出品(じゅうじゆじゅつぼん)について、日蓮は次のように文底の法門を展開している。
「一涌出品(ゆじゅっぽん) 御義口伝に云く、此の品は迹門流通(るつう)の後、本門開顕(ほんもんかいけん)の序分なり。故に先(ま)ず本地(ほんじ)無作(むさ)の三身を顕(あらわ)さんが為に、釈尊所具の菩薩なるが故、本地本化(ほんげ)の弟子を召すなり。是れ又妙法の従地(じゅうじ)なれば十界の大地なり。妙法の涌出なれば十界皆涌出なり。十界妙法の菩薩なれば皆饒益有情界(みなにょうやくうじょうかい)の慈悲深重(じひじんじゅう)の大士なり。蓮華の大地なれば十界の大地も十界涌出の菩薩も本来清浄なり。所詮(しょせん)、悟道(ごどう)に約する時は従地とは十界の衆生の大種の所生なり。涌出とは十界の衆生の出胎(しゅったい)の相なり。菩薩とは十界の衆生の本有(ほんぬ)の慈悲なり。此の菩薩に本法の妙法蓮華経を付属せんが為に従地涌出(じゅうじゆじゅつ)するなり。日蓮等(ら)の類(たぐ)い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は従地涌出の菩薩なり。外(ほか)に求むること莫(な)かれ云云」(『御義口伝巻下』一廿八品悉南無妙法蓮華経の事)
安楽行品第十四までの法華経前半で迹門(不変真如の理)が説かれた後、いよいよ本門(随縁真如の智)開顕の序分として従地涌出品第十五が説かれる。文底からとらえれば、「迹門流通(るつう)の後、本門開顕(ほんもんかいけん)の序分なり」の「迹門流通」は他者の菩薩道の体験、「本門開顕(ほんもんかいけん)」は他者の体験を聞いた民衆一人ひとりによる主体的な我本行菩薩道の決意と実践である。それを「釈尊所具の菩薩=本地本化の弟子」という。「序分」は我本行菩薩道の決意を表す。「本(ほん)地(じ)無作(むさ)の三身」とは、主体的な民衆の生命の場に開く久遠実成の仏である。「従地(じゅうじ)=十界の衆生の大種の所生」とは十界互具・一念三千の生命、「涌出=十界の衆生の出胎の相」とはその用(ゆう)(働き)である。我本行菩薩道を実践するとき、すなわち妙法を信受するとき、自己の生きる世界の全体が妙法と開かれる。日蓮はさらに、「是の菩薩衆の中に四導師有り」について、次のように述べている。
「第一唱導之師(しょうどうしし)の事 御義口伝に云く、涌出(ゆじゅつ)の一品は悉(ことごと)く本化(ほんげ)の菩薩の事なり。本化の菩薩の所作(しょさ)としては南無妙法蓮華経なり。此れを唱(しょう)と云うなり。導(どう)とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり。末法の導師とは、本化に限ると云うを師と云うなり。此の四大菩薩の事を釈する時、疏(しょ)の九を受けて、輔正記(ふしょうき)の九に云く『経に四導師有りとは今四徳を表す。上行(じょうぎょう)は我(が)を表し、無辺行(むへんぎょう)は常(じょう)を表し、浄行(じょうぎょう)は浄を表し、安立行(あんりゅうぎょう)は楽(らく)を表す。有る時には、一人に此の四義を具(ぐ)す。二死(にし)の表(おもて)に出(い)づるを上行と名づけ、断常(だんじょう)の際(きわ)を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、五住(ごじゅう)の垢累(くるい)を超ゆる故に浄行と名づけ、道樹(どうじゅ)にして徳円(まど)かなり故に安立行と曰(い)うなり』と。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌(じゆ)の流類(るるい)なり。又云く、火は物を焼くを以(もつ)て行とし、水は物を浄(きよ)むるを以て行とし、風は塵垢(じんく)を払うを以て行とし、大地は草木を長ずるを以て行とするなり。四菩薩の利益是(りやくこれ)なり。四菩薩の行は不同なりと雖(いえど)も、倶(とも)に妙法蓮華経の修行なり。此の四菩薩は下方(かほう)に住する故に、釈に『法性之淵底玄宗之極地(ほっしょうのえんでいげんしゅうのごくち)』と云えり。下方を以て住処(じゅうしょ)とす。下方とは真理なり。輔正記に云く『下方とは生公(しょうこう)の云く、住して理(り)に在(あ)るなり』と云云。此の理(り)の住処より顕(あらわ)れ出(い)ずるを事(じ)と云うなり。又云く、千草万木、地涌(じゆ)の菩薩に非ずと云う事なし。されば地涌の菩薩を本化と云えり。本とは過去久遠(くおん)五百塵点(じんてん)よりの利益(りやく)として無始無終(むしむしゅう)の利益なり。此の菩薩は本法所持(ほんぽうしょじ)の人なり。本法とは南無妙法蓮華経なり。此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化(しゃっけ)の菩薩の所持に非ず。此の本法の体より用(ゆう)を出(いだ)して止観(しかん)と弘め、一念三千と云う。惣(そう)じて大師人師の所釈も、此の妙法の用(ゆう)を弘め給うなり。此の本法を受(じゅ)持(じ)するは信の一字なり。元品(がんぽん)の無明(むみょう)を対治(たいじ)する利剣は信の一字なり。『疑い無きを信と曰(い)う』の釈之(これ)を思ふべし云云」(『御義口伝巻上』涌出品一箇の大事)
法華経涌出品には、一貫して地涌の菩薩のことが説かれている。この経文の文底から釈尊が民衆に伝えようとしている生命のメッセージが浮かび上がってくる。四菩薩は生命を守り、はぐくむ力用(りきゆう)(力と働き)を象徴しているのだ。それは我本行菩薩道を決意し、実践する時と場に躍動する調和と連帯の生命にほかならない。
地涌の菩薩について、妙楽大師の弟子・道暹(どうせん)が著した『法華文句(もんぐ)輔正記(ふしょうき)』の文が引用されている。「上行」(じょうぎょう)は我(が)を表し、「無辺行(むへんぎょう)」は常(じょう)を表し、「浄行(じょうぎょう)」は浄を表し、「安立行(あんりゅうぎょう)」は楽(らく)を表す。四菩薩は常・楽・我・浄という生命(妙法)の力用(りきゆう)なのである。「二死(にし)の表(おもて)に出(い)づる」の「二死」とは分段(ぶんだん)の生死と変易(へんにゃく)の生死をいう。分段の生死とは三界六道の迷いの生死であり、不善業・煩悩・業の因縁で、それぞれの果報を現ずる。それに分限段落の差があるので分段という。変易の生死とは三界六道を出た生死で、見思(けんじ)の惑を断じた声聞・縁覚・菩薩の生死である。修行の過程で分段の身を変易(変も易も変えるという意味)して煩悩を断じ、智慧を開いていくので変易の生死という。どちらも爾前権教の知見を出ない。この二死の幻想をうち破り、色心不二の生命を覚知する働きを上行と名づける。
「断常(だんじょう)の際を踰(こ)ゆる」の「断常」とは断見と常見のことで、いずれも外道の知見である。断見とは心身ともにこの一生限りで、再び生まれることがないという考え方。常見とは心身ともに常住不滅であるとしながら、獣はいつも獣、人間はいつも人間に生まれると説く。断見も常見も因果を無視した偏見であり、生命を矮小化している。このような偏見を超克し、生命の真実に目覚める働きを無辺行と名づける。
「五住(ごじゅう)の垢累(くるい)を超ゆる」の「五住の垢累」とは五住の煩悩のことで、①三界の見惑(けんわく)(一切処住地の煩悩)②欲界の思惑(欲愛住地の煩悩)③色界の思惑(色愛住地の煩悩)④無色界の思惑(しわく)(無色愛住地の煩悩)⑤根本無明惑(根本無明住地の煩悩)の五つに分類されている。五住の垢累とは宇宙・生命の実相への覚知を妨げる働きにほかならない。こうした煩悩を克服し、生命の真実に導く働きを浄行と名づける。
「道樹(どうじゅ)にして徳円(まど)かなり」の「道樹」とは菩提樹であり、仏の成道の場を象徴している。個々の生命に成道の場を開き、仏の境界に導く働きを安立行と名づける。寿量品の「我此土安穏」という言葉は、安立行と照らし合っている。
菩薩はみな初発心のとき、必ず四弘誓願(しぐせいがん)を起こす。四弘誓願とは①衆生無辺(しゅじょうむへん)誓願度(せいがんど)②煩悩無尽(ぼんのうむじん)誓願断(せいがんだん)③法門無量(ほうもんむりょう)誓願知(せいがんち)④仏道無上(ぶつどうむじょう)誓願成(せいがんじょう)――の四つをいう。四弘誓願を四菩薩の働きに配すれば、衆生無辺誓願度は安立行、煩悩無尽誓願断は浄行、法門無量誓願知は無辺行、仏道無上誓願成は上行となる。さらに日蓮は四弘誓願を次のように法報応の三身に配立している。「衆生無辺誓願度は応身(おうじん)なり、煩悩無尽誓願断は報身(ほうしん)なり、法門無量誓願知は智法身(ちほっしん)なり、無上菩提誓願証(成)は理法身(りほっしん)なり、所詮誓願と云うは題目弘通の誓願なり」(『御講聞書』)。
この四菩薩は「法(ほっ)性之(しょうの)淵底(えんでい)玄宗之(げんしゅうの)極地(ごくち)」から涌現するのだという。「法性」とは生命、「淵底」とは奥底である。「玄宗之極地」とは生命の奥底に常住する妙法にほかならない。この四菩薩の働きが涌現しなければ、生命の奥底を開くことはできない。従地涌出品第十五は、寿量品第十六の直前に説かれている。つまり従地涌出品は、成仏には地涌の菩薩の働きが不可欠であることを告げているのだ。妙法から涌出する地涌の菩薩は、生命の連帯と調和をよみがえらす力用なのである。
妙法の大地から涌出するのは地涌の菩薩だけではない。久遠実成の釈尊もまた己心の法華を開いて涌出するのである。大地は色法、虚空は心法を表す。地涌の菩薩も釈尊も法華経寿量品の文底に秘められた色心不二の妙法から涌出する。それだけではない。法華経の地上会と虚空会、そして法華経の説法すべてが妙法から涌出するのである。妙法を受持して我本行菩薩道を行ずるとき、己心の釈尊とともに地涌の菩薩が目覚めるのである。
三十数億年の生命誌
「千草万木、地涌(じゆ)の菩薩に非ずと云う事なし」という言葉は、春の日差しを浴びて一斉に芽を吹く草木をイメージさせる。大地から涌出する本化の菩薩の大集団は、連帯と調和を保ちながらマグマのように分裂・増殖する草木の細胞と、そこに脈動する遺伝子の働きをイメージさせる。地球上の生物の痕跡は三十億年以上前の岩石から発見されている。それは原核生物と考えられているが、その生物が誕生した原初の海を見た人はいない。激変を繰り返す原初の海に単細胞生物が発生する。単細胞生物は遺伝子情報を交換し合いながら、やがて植物と動物に分かれて多細胞生物へと進化を遂げてきた。海中で進化した生物の一部は、やがて海を離れて陸上生物に進化する。
こうした進化の過程で人類の祖先が登場したのは、五百万年前のアフリカである。やがて人類の祖先は木登りをやめて二足歩行を学んだ。樹上生活から地上生活への転換である。しかし、獲物に追いつくことも天敵から逃れることもできなかった。その代わりにサバンナの大地に立ち上がり、二本の手を解放したのである。まさに、生存をかけた新たな挑戦だったにちがいない。そこから飛躍的な頭脳の進化が始まった。六根・六境・六識(主体と環境の関係の奥底)が描き出すマンダラの世界、仏法が説く十八界の深化・拡大である。
「火は物を焼くを以(もつ)て行とし、水は物を浄(きよ)むるを以て行とし、風は塵垢(じんく)を払うを以て行とし、大地は草木を長ずるを以て行とする」。ここには四大の徳が説かれている。四大とは四大種の略称で地(ち)、水(すい)、火(か)、風(ふう)をいう。この地、水、火、風は、いずれも空を依所とし、五大(地、水、火、風、空(くう))と同じ意味で使われる場合が多い。四大に譬えられる四菩薩は妙法の力用(りきゆう)にほかならない。
火山活動は環境に大変動をもたらし、大河の流れは大地の有機物やミネラルを大海に運ぶ。大海は巨大な潮流を生み出し、潮夕活動を繰り返す。そそり立つ山脈と深く切り込んだ渓谷は、風の動きを複雑に変化させる。直射日光が降り注ぐ赤道付近の海洋では局部的に上昇気流が発生し、風が渦巻く。渦巻く風は気圧を低下させ、周辺の空気を誘い込む。小さな風の渦巻は、やがて巨大な台風に変身する。風の流れは生物環境を活性化させ、火山活動や河の流れが生み出す土壌は草木をはぐくむ。地球の進化の歴史にも、四大すなわち四菩薩の働きがかかわっていることが分かる。四菩薩の働きもまた、創造と破壊の両義性をはらんでいる。
涌出品の経文を文底からとらえ直すとき、法華経が伝えようとしている生命のメッセージが浮かび上がってくる。生物は個体発生の過程で系統発生を繰り返す。人間の受精卵はすべて、発生・分裂・増殖の過程で地球上の生物の進化の歴史を短期間に凝縮して繰り返す。そこに秘められた生命の不思議な智慧。四菩薩を唱導の師とする地涌の菩薩は時空を超えて〈今、ここに〉満ちあふれているのだ。
理論物理学や医学の分野でも、東洋思想が見直されている。これまで森羅万象の基本構成を四大ととらえる東洋思想の世界観は、西欧科学を学んできた人たちから軽視されがちだった。しかし新時代の科学者たちは、西欧の物を中心とする要素還元主義的世界観に地球を破壊する危険なものがひそんでいることに気づき、物(モノ)ではなく事(コト)を中心とする東洋の世界観に活路を求めている。
物質を分子から原子へと細かく分析してとらえる西欧科学の目で見ると、東洋思想の四大という概念は極めて幼稚で粗雑に思えるだろう。そこに重大な錯誤がある。四大は物質的要素だけでなく、相関性の質を表しているのだ。四大の概念を正しくとらえるとき、位置・距離・運動・変化など四大の相関性の変化が、転変極まりない森羅万象とトータルに対応していることが見えてくる。一方、西欧科学の目で見る分子や原子は常に森羅万象の極小部分にとどまる。そこに人間をも一要素に還元してしまう発想の芽が隠れている。
西欧の並列的・直線的論理に対して、仏教はマンダラ的法理を展開する。医学の分野でも心と身体の関係性を研究している人たちがいる。絶望や苦しみ、栄養のアンバランスが身体の自然治癒力を低下させて癌細胞を増殖させること、生きがいや喜び、栄養の調和が身体の自然治癒力を強化し、癌細胞を消滅させることなども分かってきた。
心が身体を動かし世界を変える。身体が動き世界が変わることによって、新たな心が生まれる。西欧の科学は、この心と身体の相関性を正しくとらえる視点を欠落させてきた。根源的な危機をはらんだ時代の転換期に立って、私たちは心の奥底にこびりついた歪んだ価値観・世界観を振り払う「生命の文化革命」を要求されているのだ。
進化の歴史の一瞬一瞬に、色心不二・久遠即末法の始源の時が開かれている。原初の海にあふれ出た細胞群は、まさに天文学的な数字だった。今も、この一瞬一瞬に、陸と海で増殖を続ける細胞群。法華経に登場する六万恒河沙(ごうがしゃ)等の地涌の菩薩群は、生命本有の智慧と、その躍動を象徴している。地涌の菩薩が象徴する調和と連帯こそ、宇宙・生命の本質なのだ。法華経は民衆一人ひとりに、その生命の真実に目覚めよと訴えているのである。 法華経の地上会と虚空会は生と死を象徴している。死を見つめるには勇気がいる。死という現象は生という体験の外にあるからだ。死を自覚的に体験した人はいないだろう。多くの人々が臨死体験を語っているが、それをそのまま死の体験とすることはできない。一方、生を認識しているつもりでいても、錯覚でしかない場合が多いのではないか。生と死の本質は存在を成り立たせている両義性であり、生もまた死と同様に自覚的に認識することは難しい。
私たちの生に対する認識は、将棋や囲碁を習い始めた人が全体的な見通しを持つことなく、駒や石を動かしているのに似ている。自分の生命を支えている細胞の働きは、知識として理解できても実感が伴わない。自分がかつて母の胎内で一個の受精卵だったという事実は、体験として自覚することはできない。巨大な太陽の存在も銀河や宇宙の存在も、自分の生を支える実在として実感するためには、根源的な意識革命が必要なのである。生死の一体性を実感すること、生の連関の全体像を自己の生命に刻印するところに仏界が開かれる。
「法性之淵底玄宗之極地(ほっしょうのえんでいげんしゅうのごくち)」とは、宇宙のあらゆる力が調和し、自然治癒力がよみがえる始源の時(場)を意味する。それは色心不二・自他不二の生命が躍動する場にほかならない。主体的な民衆が我本行菩薩道を決意し実践するとき、始源の時が開かれる。自涌の菩薩は、〈今、ここに〉生命の大地からあふれ出ているのである。地涌の菩薩の導師である四菩薩は、民衆一人ひとりの向上心と慈悲心の譬喩でもある。自分を磨き深めなければ、生命の真実に出合うことはできない。四菩薩に率いられた八万恒河沙を超える地涌の菩薩は「法性之淵底玄宗之極地」に常住している。色心不二・久遠即末法の生命の場に、八万恒河沙を超える地涌の菩薩群が歓喜に包まれて躍り出てくる。日蓮は涌出品の文底に生命の真実を読み取ったのである。
しかし、ここには心しなければならない重大な陥穽がひそんでいる。自分を地涌の菩薩、他者を地涌の菩薩に救われるべき度し難き衆生と分別する心は、文底(事本物迹の視点)を文上(物本事迹の視点)に還元してしまう。それは権威主義的ナルシストの心にほかならない。言葉で説明するかぎり、文上と文底は無限多重構造とならざるを得ないのである。言葉を手段とするかぎり、文底はさらに文底の読みを必要とする。その究極に浮かび上がるのは、諸法実相(色心不二)・久遠即末法(久遠は今に在り、今は久遠なり)という生命の真実である。『百六箇抄』の末尾には「又立つ浪、吹く風、万物に就いて本迹を分け、勝劣を弁ず可きなり」と記されている。物事の本源を見極めようとする心に、調和と連帯が蘇る。
供養(布施)の両義性
生物の存在と進化を支える食物連鎖は、自分の身を犠牲にして、より高い法理を求める権大乗教の菩薩の働きを連想させる。植物は動物のためにその身体の一部を布施(供養)し、草食動物もまた肉食動物のためにその身体の一部を布施(供養)している。その動物は生を終えた後、その身をすべて大地に施す。古代の人々はそうした食物連鎖の中に、生命の哲理を読み取ったにちがいない。
金光明(こんこうみょう)経には、飢えに苦しみながら七匹の子を育てようとする虎を哀れんで、わが身を虎に与える薩?(さった)王子の説話がある。薩?王子とは釈尊が過去世に菩薩行を修行していたときの名前である。また菩薩(ぼさつ)本生鬘(ほんじょうまん)論には、鷹に追われた鳩を救うために、わが身を鷹に与える尸毘(しび)王の話が載っている。この尸毘王もまた、釈尊の因位(仏果を得るための修行)の姿なのだという。過去世における因位の姿とは、色心不二なる心法の譬喩にほかならない。いずれも六波羅蜜(はらみつ)の一つ、檀(だん)波羅蜜(布施行)の譬喩とされている。この布施の本義は法華経で説く供養に当たる。法華経法師品第十には、供養について次のように説かれている。
若(も)し善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)、法華経の乃至(ないし)一句に於いて、受持(じゅじ)し読誦(どくじゅ)し、解説(げせつ)、書写(しょしゃ)し、種種(しゅじゅ)に経巻(きょうがん)に、華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)、焼香(しょうこう)、繒蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、衣服(えぶく)、伎楽(ぎがく)を供養し、合掌(がっしょう)恭敬(くぎょう)せん。是(こ)の人は、一切世間の当(まさ)に瞻奉(せんぶ)する所なり。応(まさ)に如来の供養を以って、之を供養すべし。当に知るべし。此の人は是(こ)れ大菩薩の、阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を成就して、衆生を哀愍(あいみん)し、願って此の間に生まれ広く妙法華経を演(の)べ分別(ふんべつ)するなり。
ここには法華経文底の妙法を受持し、菩薩道を行ずる人の功徳が説かれている。経巻に供養する「華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)、焼香(しょうこう)、繒蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、衣服(えぶく)、伎楽(ぎがく)」とは、妙法を信じ行ずる色心のさまざまな働きの譬喩にほかならない。「是(こ)の人は、一切世間の当(まさ)に瞻奉(せんぶ)する(仰ぎ見る)所なり。応(まさ)に如来の供養を以って、之を供養すべし」とは、妙法を信じ、行ずるとき仏と同じ功徳が開かれることを意味する。妙法に命(もと)づく調和と連帯の生命の現出である。「是(こ)れ大菩薩の、阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を成就して、衆生を哀愍(あいみん)し、願って此の間に生まれて広く妙法華経を演(の)べ分別(ふんべつ)するなり」とは、己心の四菩薩の涌現である。功徳を与える仏も功徳を受ける衆生も、色心不二・久遠即末法なる己心に開かれる。その己心は宇宙の色心と連帯している。
この供養という行為にも功徳と奪(だつ)功徳の両義性が読み取れる。功徳の功とは福利の効能をいう。善行には幸福と利益が得られるという功がある。また徳は得に通じる。功を収めた結果、得るところを功徳というのである。さらに功徳は慈悲に通じ、苦しみを除き、楽しみを与える働き(抜苦与楽(ばっくよらく))でもある。その反対の働きが奪功徳(無慈悲・抜楽与苦)となる。日蓮は奪功徳者について、次のように文底の意義を明らかにしている。
「第十二悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)の事 御義口伝に云く、悪鬼とは法然・弘法等(ら)是(これ)なり。入其身とは国王・大臣万民等の事なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり。鬼とは命を奪う者にして奪功徳者(だつくどくしゃ)と云うなり。法華経は三世諸仏の命根(みょうこん)なり。此の経は一切諸菩薩の功徳を納めたる御経なり」(『御義口伝巻上』勧持品十三箇の大事)
これは勧持品に「濁劫(じょっこう)悪世の中には、多く諸(もろもろ)の恐怖(くふ)有(あ)らん、悪鬼其の身に入りて、我を罵詈(めり)毀辱(きにく)せん」とある部分の御義口伝である。「悪鬼とは法然・弘法等(ら)なり」の鬼とは精神作用であり、悪鬼とは偏った思想や哲学、生命の位置づけが人々の価値観を狂わすことをいう。奪功徳者とは奪命(だつみょう)者ともいい、悪鬼・鬼・悪鬼神などと訳される。餓鬼道に住し、人の功徳や命を奪い、病気を引き起こす働きとされている。人の命を文底からとらえれば、その人が費やすかけがえのない時間にほかならない。時間を費やして得た財産を供養することは、自分の命を供養することに通じる。逆に人の財産や時間を奪うことは、その人の命を奪うことにほかならない。それを仏法は奪命者・奪功徳者と見ているのだ。政治家や企業家、組織のオルガナイザーは、功徳と奪功徳の両義性が最も増幅された立場にある。純粋な理想の実現をめざしていた若者が、いつの間にか姑息な奪功徳者に変身していたという実例は多いのである。「三世諸仏の命根」とは法華経文底の妙法の曼陀羅にほかならない。供養と功徳の両義性について、日蓮は次のように述べている。
「善根と申すは大なるによらず、又ちいさきにもよらず、国により時により、やうようにかわりて候。譬(たと)へばくそ(糞)をほして、つきくだき、ふるいて、せんだん(栴檀)の木につくり、又女人、天女、仏につくりまいらせて候へども、火をつけて、やき候へばべち(別)の香なし、くそくさし。そのやうに、ものをころし、ぬす(盗)みをしてそのはつを(初穂)をとりて功徳善根をして候へども、かへりて悪となる。須達(しゅだつ)長者と申せし人は月氏第一の長者、ぎおん(祇園)精舎をつくりて仏をいれまいらせたりしかども、彼の寺焼けてあとかたもなし。この長者もといを(魚)を、ころしてあき(商)なへて長者となりしゆへに、この寺つゐにうせにき。今の人人の善根も又かくのごとく、大なるやうなれども、あるひは、いくさ(戦)をして所領を給(た)び、或はゆへなく民をわづらはして、たから(財)をまうけて善根をなす。此等は大なる仏事とみゆれども、仏にもならざる上、其の人人(ひとびと)あと(跡)もなくなる事あり。又人をも、わづらはさず、我が心もなを(直)しく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり、いは(弱)くよきたね(良種)を、あしき田にうえぬれば、たねだにもなき上かへりて損となる。まことの心なれども供養せらるる人だにも、あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候」(『窪尼御前御返事』)
供養はその形ではなく、実質が問われるのである。供養の両義性について、日蓮は分かりやすく譬喩を用いて説いている。「ものをころし、ぬす(盗)みをしてそのはつを(初穂)をとりて功徳善根をして候へども、かへりて悪となる」という文は、従業員の福利を考慮せず、自分だけの利益を図ろうとする経営者や、民衆の目をごまかして自己の利権拡大に狂奔する政治家や官僚の心を浮き彫りにしている。「須達(しゅだつ)長者と申せし人は月氏第一の長者、ぎおん(祇園)精舎をつくりて仏をいれまいらせたりしかども、彼の寺焼けてあとかたもなし。この長者もといを(魚)を、ころしてあき(商)なへて長者となりしゆへに、この寺つゐにうせにき」という文は、供養の形ではなく供養の本質をわきまえなければ、悪しき宿業の転換は不可能であることを示唆している。「いくさ(戦)をして所領を給(た)び、或はゆへなく民をわづらはして、たから(財)をまうけて善根をなす」という文は、武力で他国の領土を奪い、家臣に分与する権力者や、民衆に負担を強いる慈善事業で名声を博する一方で、保身のために権力と手を組んで仏法をねじ曲げ、日蓮を迫害した僧侶たちを破折すると同時に、価値観のゆがんだ今日の競争社会を予告している。
こうした文はさらに、その文底を読み取らなければならない。仏法は人間の生きる場をより豊かに開くために説かれている。現実の状況の中で、人間が人間として友情と連帯を切り開く道を求めているのだ。文上にとらわれて、一義的・戒律的な読み取り方をすれば、律国賊の魔が目を覚ます。供養には宿業転換の意義がある。供養とは自分の色心を施すことにほかならない。六道に染まった色心を妙法に施すことによって、六根清浄の色心を取り戻すことができるのだ。過去の心法を読み替えるとき未来の心法が変わる。その変化は、〈今、ここに〉現れるのである。日蓮は次のように語っている。
「弁房(べんのぼう)の便宜(びんぎ)に三百文、今度二百文給(た)び畢(おわ)んぬ。仏は真に尊くして物によらず、昔の得勝童子(とくしょうどうじ)は沙(いさご)の餅(もちい)を仏に供養し奉りて、阿育(あそか)大王と生れて一閻浮提(いちえんぶだい)の主たりき。貧女(ひんにょ)の我がかしら(頭)をおろ(剃)して油と成せしが、須弥山(しゅみせん)を吹きぬきし風も此の火をけさず。されば此の二三の鵞目(がもく)は日本国を知る人の国を寄せ七宝の塔を?利天(とうりてん)にくみあげたらんにも、すぐるべし。法華経の一字は大地の如し万物を出生す。一字は大海の如し衆流(しゅうる)を納む。一字は日月の如し四天下を照らす。此の一字変じて仏となる」(『王日女殿御返事』)
これは金銭を御供養した女性の信徒に対する消息文である。「沙の餅」とは土で作った餅をいう。初めてインドを統一した阿育大王(前二六七~二三二頃)は、過去世に得勝童子として土の餅を仏に供養した功徳によって大王と生まれることができたという。この説話は雑阿含経に説かれている。「土の餅」の「土」は色法、「餅」は心法を表す。仏(妙法)を慕う心法の力が大きな功徳をもたらすのである。また自分の髪を売り、油を買って仏に供養した貧しい女の灯火は、須弥山を吹き抜ける風にも吹き消されなかったという。「我が頭をおろして油と成せし」とは色法、「須弥山(しゅみせん)を吹きぬきし風も此の火をけさず」とは心法である。「法華経の一字」とは寿量文底の妙法を意味する。妙法を信じて行学に励み、人間の友情と連帯を支えることが色心不二の供養となる。なぜなら、妙法は万物を生み出し、森羅万象を統括する根源だからである。
第二次世界大戦の末期に物資が欠乏したため、日本の軍部は寺院の釣り鐘を接収して武器に変えた。多くの人々が、こうした軍部の行動を自分の目で見ているのだ。人々の功徳を開く仏の色心が、人々の功徳を奪う魔の色心に変えられたのである。供養する相手を間違えれば、信ずる信じないにかかわらず地獄の門が開く。この生命の哲理は過去、現在、未来を通じて変わらない。供養の本義は生命の連帯と調和を増幅することにある。それはすべて自分自身に還ってくる。法華経受記品第六には次のような偈頌が説かれている。
我が此の弟子 大目?連(だいもっけんれん)は
是(こ)の身を捨て已(おわ)って 八千二百万億の
諸仏世尊(しょぶつせそん)を見たてまつることを得(え)
仏道の為の故に 供養恭敬(くようくぎょう)し
諸仏の所(みもと)に於いて 常に梵行(ぼんぎょう)を修し
無量劫(こう)に於いて 仏法を奉持(ぶじ)せん
諸仏の滅後に 七宝の塔を起てて
長く金刹(こんせつ)を表わし 華香伎楽(けこうぎがく)をもって
而以(も)って 諸仏の塔廟(とうみょう)に供養し
漸漸(ぜんぜん)に 菩薩の道を具足し已(おわ)って
意楽国(いらくこく)に於いて 作仏(さぶつ)することを得
これは釈尊が十大弟子の一人である大目?連に成仏の記別を与える偈文である。日蓮は「捨是身已」(是の身を捨て已って)という語句について、次のように文底の意義を説いている。
「第三捨是身已(しゃぜしんい)の事 御義口伝に云く、此の文段(もんだん)より捨不捨(しゃふしゃ)の起(おこ)りなり。転捨(てんしゃ)にして永捨(えいしゃ)に非ず。転捨は本門なり、永捨は迹門なり。此の身を捨つるは煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)・生死(しょうじ)即涅槃(ねはん)の旨(むね)に背くなり云云。所詮(しょせん)日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、捨是身已(しゃぜしんい)なり。不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)の故なり云云。又云く、此の身を捨(ほどこ)すと読む時は、法界に五大を捨(ほどこ)すなり。捨つる処の義に非ず。是(こ)の身を捨てて仏に成ると云うは権門(ごんもん)の意(こころ)なり。かかる執情(しゆうじよう)を捨るを捨是身已と説くなり。此の文は一念三千の法門なり。捨是身已とは、還帰本理(げんきほんり)・一念三千の意なり。妙楽(みょうらく)大師の『当(まさ)に知るべし、身土(しんど)一念の三千なり。故に成道の時、此の本理に称(かの)うて、一身一念法界に遍(あまね)し』と釈するは此の意なり云云」(『御義口伝巻上』授記品四箇の大事)
法華経授記品(じゅきぼん)第六に「我が此の弟子、大目?連(だいもっけんれん)は、是の身を捨て已(おわ)って、八千、二百万億の、諸仏世尊を見奉ることを得(え)」とある部分の御義口伝である。ここには供養の本義が説かれている。「転捨」とは仮に捨てる意で本有常住の生命観をいう。「永捨」とは永久に捨ててしまう意で無余(むよ)涅槃(色心の煩悩を断じ尽くすこと。灰身滅智(けしんめっち)ともいう)などがこれに当たる。永遠の生命観を隠した方便の低い生命観である。煩悩を断じて生死を離れるという考え方は「永捨」で、煩悩即菩提・生死即涅槃の開覚が「転捨」となる。
南無妙法蓮華経と唱えることこそ「不惜身命」、すなわち「捨是身已」なのである。「捨是身已」の本意は、煩悩・生死の色心を捨てるという偏見を無くすことにほかならない。「是の身」とは主体としての自己の生命である。本来無始無終である生命を捨てることはできない。それを「捨てる」と文上で読むのは虚妄である。「捨是身已」とは妙法の世界への復帰、すなわち自行化他の実践によって、自己の生命を妙法のリズム・色調に染め直すことである。わが身は地水火風空の五大からなる。この五大を妙法の大地に施すこと、すなわち妙法に随順することを「捨是身已」という。日蓮は私たちに、相対的な価値(爾前権経・法華経文上)を絶対的な価値(法華経文底の妙法)と錯覚するゆがんだ一念の転換を求めているのである。
法華経には、目に見えない根源的な生命の法と同調するための方法的原理が説かれている。その方法的原理を説明する手段として、法華経は譬喩とマンダラ的言説を用いたのである。この譬喩とマンダラ的言説を正しく読み解くことは極めて難しい。現実に多くの誤読・誤解が生じている。天台大師は法華経の文底を読み取り、その設計図という形で一念三千の法門を体系化した。そして理の一念三千を心に思い描く観念観法を説いた。しかし一念三千の法理を観念するには、日常生活を離れた環境と修行が必要となる。一般的な人間の絆、欲望、生活を捨てなければならないのだ。それは一種のエリート主義であり、仏を他者性の権威に位置づけることになる。開かれた文底を文上に還元してしまうからだ。そのような仏の本質は外道の神と変わらない。そこに天台宗が次第に権威主義的な観念論に堕していった原因がある。
鎌倉時代に、真実の仏道を蘇らそうと試行錯誤する宗教改革者たちが出現する。しかし、その多くは経文の文底に迫りながら、さらなる文底を開く視点を失っていた。そういう時代背景の中で、日蓮は法華経の譬喩と天台大師の理の一念三千の法門を妙法の曼陀羅の設計図と読み取って、仏の色心を事の一念三千の曼陀羅として顕したのである。その仏の色心は法華経方便品の諸法実相(色心不二)と法華経寿量品の久遠実成(久遠即末法)の法理に示されている。この一念三千の曼陀羅に余念なく唱題するとき、〈今、ここに〉法華経の虚空会が象徴する生命、すなわち妙法の色心が現成する。〈今、ここに〉とは、一人ひとりが生きる日常的な生活の場である。〈今、ここに〉生きることは、〈私〉の部分でも属性でもない。〈今、ここに〉生きること自体が〈私〉であり、そのほかに〈私〉はどこにも存在しない。〈私〉は仮諦、〈生きる〉は空諦、〈今、ここに〉は時空の統一、すなわち中諦である。色心不二・三諦円融なるを一極(いちごく)(妙法)という。
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