ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 【完売】青黄プチ新刊「みずいろソーダの泡にはならない」2016年6月17日 21:53はやく、はやく。走らなくちゃ。じゃないと、もうきっと。後ろからいくつもの足音が追いかけてくる。体中、どこもかしこも痛い。走り続けて心臓も破裂しそうなくらいに苦しい。何よりも足が痛かった。慣れない二つの足で走ろうとして何度も転んだせいだ。気付けば靴もはいていない。頭が真っ白になりそうな鋭い痛みが足の裏から突き抜けてくる。それでも足を動かす。泥で汚れた足を必死に。後ろからは怒鳴り声が聞こえた。車がものすごい音をたてて、追いかけてくる。またオレはあそこに戻るのだろうか。狭苦しい水槽の中。何も見えない。空の青も雲の白さも真っ暗な空に輝く青白い星も見えないあそこに。痛みと、これからの自分の未来が頭をよぎって歯を食いしばったとき、ふいに水の音が聞こえた気がした。自分のいる遥か下。水の音が確かに聞こえる。いつのまにか自分は橋の上にいたらしい。手すりから下を覗き込めばそこに水があった。ざーざーと流れる水。真っ暗な闇がごうごうとうごめくだけに見えるけれど、それは川だった。黄瀬は酸素を求めるようによろよろと手すりにすがり、それを乗り越えようとふらつく足になんとか力を入れた。すぐ後ろで、飛び込む気だぞ、捕まえろと怒鳴る声が聞こえる。早く、早くしないと。手すりをつかんでいた左腕の肘が乱暴につかまれた。背後からいくつもの手が伸びてくる。それを振り払おうとした黄瀬の、夜の闇の中でもきらきらと輝く金色の髪が乱暴に鷲掴まれた。強い力で引っ張られ、顎が上を向く。真っ黒な空が見えた。星もない、何も見えない真っ黒な空。いやだ。絶対にあそこに戻るなんていやだ。黄瀬は体に残っている全部の力を振り絞って手すりを蹴った。体がふわりと宙に浮いた気がした。「落ちるぞ」という声を背中で聞きながら黄瀬の体は遥か下へまっすぐに落ちていく。あのままの終わりでなくてよかった。これで終わりならあのままよりずっといい。ようやく自由だ。黄瀬は瞼の裏の鮮やかな青を思って目をつぶった。橋の下で、大きな水しぶきが上がった。中略扉のむこうではシャワーがサーッと音を立てて、降りそそいでいた。が、その下には誰もいない。何を思ったのか男はシャワーを出しっぱなしにしたまま、浴槽の中に入っていた。しかも浴槽のふたをぎりぎりまで閉めて、首だけをちょこんとのぞかせている。「それ、お湯ためてねえけど……つーか何やってんだ?」男は首を覗かせたまま、なんでもないと首を振った。「水使ってないなら止めろよ」シャワーの湯を止めようと手を伸ばしたら、腕にかかったのは水だった。「おまえずっと水浴びてたのか?」水に濡れてますます金色を濃くした頭が小さく頷く。「さっき温度調節教えただろ」男は水のほうがいいからとぼそぼそと言って、それから青峰をちらりと見上げた。「ここに……」「ん?」「ここに、水ためられるっスか?」ここというのは浴槽の中だろうか。「おまえいままで風呂入ったことねえの?」男はぼんやりとした顔で首を傾げた。金色の髪から水滴がぽたりと落ちる。そんな人間いまの日本にいるだろうか。どうやら本当に日本人とは思えないやつを拾ってしまったらしい。「これをそん中に入れればためられっから」シャワーを隙間に突っ込んでもう一度水を出してやると男は強張った顔でシャワーを受け取った。「あ、待て待て。栓してるか?」「せん?」「この水を溜めるための栓だよ」男が首を出してるのとは反対側に排水溝がある。栓をしなけりゃ水はたまらない。「わかんないっス」と首を傾げる男にやってやるからと反対側のふたを開けて、中を覗き込んで、そして青峰は固まった。中に魚がいる。バスタブに魚が。しかも普通サイズじゃない。かなりの大物だ。どう見てもクロマグロよりもでかい。メジャーでサイズをはかって写真を撮るレベルだ。驚きのあまり口をぽかんとさせたまま顔を上げる。金髪男は「どうしたの?」とでも言いたげに青峰を不思議そうに見つめ返している。青峰のほうが聞きたい。こいつ、魚の存在に気付いていないんだろうか。きょとんしている男を見たら自分の見間違いだったような気がして、青峰はもう一度バスタブに顔を突っ込んだ。……やはりいた。魚がいる。よくよく見ればスーパーに売っている魚とは違う。やたらきれいな鱗と尾ビレは熱帯魚みたいにひらひらと柔らかそうだ。手を伸ばして、そろりと鱗を撫でるとそこは陶器のようなつるりとした感触だった。次の瞬間、びくんと尾ビレがはねた。生きてる。バスタブに頭を突っ込んだまま尾ビレの先を目でたどると、その先には水色の鱗に覆われた足にあたる部分があり、その途中で鱗は途切れうっすらとした肌色の腹筋があって、その真ん中には臍があった。さらにそのさきには二つの小さな乳首があって、ほっそりとした首があって、見惚れるほどに整った顔があって、その真ん中に金色のきらきらした目があって。青峰は風呂のフタの下で、男とばっちり目があった。バスタブにクロマグロがいたわけじゃなかった。信じられないし、どういうことかまったくわからないが、さっきは確かに人間の足だったはずなのに、魚の尾ビレはこの男のものだった。つまり、目の前に人魚がいた。唖然とした顔で自分を見ている青峰に不思議そうな顔をしていた男がようやく「あっ」と声を上げる。いや、遅い。どう考えても遅いだろ。「ぅ、わ―――!」男は叫ぶとシャワーヘッドを青峰に向けた。「おい、ばか冷てぇよ!」「なに見てんスか!」「なにっておまえ、全然気づいてなかっただろ!つーか」おまえなんなんだ?そう聞いた途端、男はびくりと体を震わせた。目の前の体が冷たい水でも浴びたみたいに竦むのがわかった。緊張している。男はその普通じゃない体をぎゅっと縮こまらせて、青峰を睨みつけていた。唇を引き結んで、青峰が次に何を言うのか身構えている。傷だらけの弱り切った体で、息も絶え絶えなくせに、それでも必死で負けまいとしていた。耳たぶに貼ったガーゼにはじわじわと真っ赤な血が滲んでいる。言いたいことが山ほどあったけれど、青峰はそれをなんとか飲み込んだ。「なにもしねえって」黄瀬はほんとう?と言いたげに青峰を見た、ハチミツ色の瞳が不安でゆらゆらと揺らぐ。青峰は息をついて、体を起こした。バスタブの中に落ちていた栓を拾って、それをはめる。「これで水たまるから、落ち着いたら呼べよ」この姿じゃ風呂場以外で話はできないだろう。男を置いて青峰はバスルームから出た。どうやら本当に厄介なものを拾ってきてしまったらしい。そういえば自分は昔から虫やら動物やらを拾ってきては親に怒られていたんだった。母親もまさか人魚を連れ帰るとは予想できなかっただろうけど。中略「おかえりなさいっス」ご機嫌な声とともに、黄瀬が覚束ない足取りでわざわざ立ち上がって玄関まで迎えにくる。黄瀬は青峰が抱えている包みを見て少しだけ不思議そうな顔をした。「大荷物っスね」「おう。これ土産」「えっ」大荷物と言われた袋を手渡すと黄瀬は反射的にそれを受け取りながら目を丸くした。「おみやげ?」黄瀬が繰り返す。「おみやげ」あれ?こいつおみやげがわかんねえのか?と思って「お土産ってのはな」と説明してやろうとしたら「知ってるっス!」と意気揚々とした声に遮られてしまった。どうやらテレビドラマで見たらしい。「青峰っちがオレにおみやげ買ってきてくれた――っス」黄瀬はまるで歌うように言いながら、その箱を持ったまま弾むように歩いた。黄瀬の歩き方は独特で人魚のときの癖が残っているらしく下半身を勢いよく動かして歩く。尾びれを強く動かしてくるりとターンするというのを海の中ではやるらしいのだが、まぁいまは海の中ではない。ので、大きい箱を持ったままの黄瀬はただでさえ歩くのが覚束ないというのに、ますますバランスが取れなかったのか大きくよろけてぐらりと体が傾いた。デジャブだ。何度目だと思いつつ、黄瀬の腕を掴んで引き上げた。「あっ……ぶねえから気をつけろっつーの!」黄瀬は元々大きい目をますます大きくして青峰の腕の中で固まってしまっている。それなのに腕には箱を抱えたままで青峰は笑ってしまった。「びっ……くりしたっス」青峰っちごめん、と申し訳なさそうに言う黄瀬の手をひいて座らせる。「開けてみろよ」そう言うと黄瀬は大喜びで箱をばりばりと開けた、出てきたビニールを手にとって首を傾げているから説明書の写真を見せてやると黄瀬は目を輝かせた。「これ、ここに置いたらいいんじゃね?」ここと言いながら青峰は黄瀬がいま座っているところを指さした。黄瀬はそのはちみつ色の大きな瞳で青峰をじっと見た。青峰っち、好き。黄瀬が青峰にぎゅっと抱き着く。黄瀬は嬉しくて仕方なくなるとそれしか言葉を知らないみたいに青峰に好きと言って青峰にしがみつく。青峰はそれが嫌いではなかった。黄瀬のまっすぐな気持ちは青峰の心臓の真ん中に飛び込んでくる。黄瀬の気持ちにふれた青峰の心臓は、黄瀬の「好き」よりもっともっと欲深くなり始めていて、少し困る。青峰が黄瀬の髪をつん、と引っ張ってふくらまそうぜと言えば黄瀬はようやく顔を上げて、泣きそうな顔で笑うから青峰はその高い鼻をつまんでやった。出来上がったビニールプールは思ったよりも大きくてベッドの前のスペースを占領してしまったし、ローテーブルは端に追いやられてしまった。でも黄瀬が大喜びしているので、まぁいいだろう。風呂場にホースをつなぎ、それを部屋に引っ張って水を溜める。「おまえは入っててもいいぞ」青峰がそう言うと黄瀬はえっと一瞬戸惑った顔をした。どうやら恥ずかしいらしい。もう人魚の姿を見たことあるのにいまさらじゃねえ?と思ったら黄瀬は「変わるところ見られたことはないんス!」と拳を握っている。言われてみれば確かに見せてもらっていない。人魚にとってもしかすると変身シーンを見られるのはなにかしらのものすごいタブーがあるのかもしれねえ。黄瀬は立ちあがるとさささと逃げるように風呂場へと行ってしまった。青峰はホースの水が溜まるのを待っていると風呂場から青峰っちーと呼ぶ声が聞こえてくる。なんだなんだと言ってみればバスタブにつかった黄瀬が青峰を見て、両手を伸ばしていた。「はこんでほしいっス」「……甘えんなっつーの」中略黄瀬は昨日、朝から張りきって掃除をした。仕事は早上がりにさせてもらい、青峰の好きなハンバーグを作って帰りを待とうと思った。それで家に帰ってから夕飯の支度をして、それから青峰が帰ってくる前にと思って風呂につかっていたらその最中に青峰が帰ってきてしまったのだ。出発する前に聞いていた帰りの時間よりも一時間も早くて、黄瀬は慌ててしまった。でもそれ以上に一週間ぶりに青峰の顔を見れたのが嬉しくて満面の笑みでおかえりなさいと声を上げる。人魚の姿じゃなかったら立ち上がって青峰っちに飛びつけたのになと黄瀬はバスタブの中で思った。手を伸ばせば青峰はにこりともせずに黙ったまま、黄瀬の手をとってくれた。あれ?と思ったら、青峰は何をするのかと思えば、黄瀬をタオルでくるんで、抱え上げる。「青峰っち?」青峰は黄瀬をぎゅっと抱きしめて「ただいま」と言った。青峰っちの声だ。嬉しくなってオレは「おかえりなさい」と言ってぎゅうっとだきつき返したら、青峰っちのクチビル攻撃がふってきた。「あ――― 死ぬとこだった」「えっ、なんでっスか!?」びっくりしてそう聞いたら、おまえの顔見れねえと死にそうって言うから笑ってしまった。でもそれはオレも。「オレもすごいすごい死にそうだったっス」言ったら怒られるかなと思ったけれど、黄瀬は不安だった気持ちを吐き出したくて口にした。「青峰っち帰ってこなかったからどうしようって思ったっス」「俺は帰ったときにおまえがいなかったらどうしようって思った」二人で顔を見合わせる。「青峰っちと一緒にいたいって言ったじゃないっスか」「オレはおまえのこと絶対海に帰さないって言った」二人で言い合って顔を見合わせて、それからキスをしたそのキスがどんどん深くなってセックスをしているときみたいなキスになるから慌てて青峰の体を押し返す。「なんだよ」「……だって足、青峰っちもっと遅くに帰ってくると思ってたから、まだ……」青峰は合宿所での現地解散にしてもらって、急いで帰ってきたと言った。「死にそうだってっ言っただろうが」青峰の眉間にぐぐぐと深い皺が寄って怖い顔になる。その顔を両手で包んでキスをした。何度も繰り返せば青峰の眉間の皺がもっと深くなる。息もフーフー言っていてとても怖い顔になっている。「青峰っちすごい顔してる」「……おまえのこと抱きたい顔」やらしい声で言われて、体がぞくぞくした。くちびるを合わせながら、ごはんは?と聞いたら、後でと青峰が黄瀬をベッドに下ろした。あっと思ったときには青峰もびっくりするくらいの早業で服を脱ぎ捨てていた。もう青峰のはちょっと硬くなっていて、黄瀬は笑ってそこに手を伸ばした。足が変わるまで、青峰っちのを舐めたい。青峰っちので、口の中をいっぱいにしてほしい。そう言ったら青峰はますます怖い顔になって、でも黄瀬のおねだりどおりに黄瀬の頭を引き寄せた。