雑記帳
●ウチワサボテン
仙人掌
海南島三亜の養殖場の周りには、垣根のように植栽されていたり、海岸のモクマオウ林の中にウチワサボテンがよく見られます。
9月下旬から海南島へ行くようになり、その後1月までずっと花の咲いているのがみられ、下の写真のように実も付けています。
下右の写真は花の中にバッタがいたので撮りました。
ウチワサボテンの実は食べることができ、甘酸っぱく、水分豊富で私としては好きな部類の果物です。
ただ、初めて食べたとき、実の外側についている針はとってから半分に割り、かぶりついたところ、舌がチクチクとして、針が刺さっていました。とりあえず、指でつまんで簡単に針を抜くことができたので、ホッとしました。
かぶりついた時に外側に気がつかないような小さな針が残っていたのかと思いましたが、後で地元のスタッフに話したところ、内側にも針があるのだと教えてもらいました。下右の写真の矢印のところにあります。実の中にたくさんの種があるので、口にいれてモグモグしなくてはいけないのが幸いして、針を飲み込むことはなく、魚の骨のように喉に刺さっていたらやっかいだったろうと思います。
実の赤い色素は強烈で、食べた後は口紅を塗ったように唇と手が紅く染まってしまいます。
春節の観光シーズンに三亜の街中で観光客相手に1パック2個入りで30元(450円)で売っていたそうで、それはボッている価格だろうけど結構貴重品なんだろう。ちなみに、ジュースを飲むための椰子の実は1個2元が相場です。
サボテンの本体の中身も皮をむいて食べてみましたが、水分は豊富でヌルヌルして苦くないアロエのような感じで、けっしておいしいものではありませんでした。こちらは料理して食べると聞きましたが、三亜のレストランで見かけたことはなく、今後の宿題です。(2003.02.27)
小学館の「食材図典」によると、ウチワサボテンの果実は「ツーナ」と言うそうだ。以下食材図典より、
ツーナ(カクタスペア)
サボテン科ウチワサボテン属
英名:Indian fig, Cactus pear
スペイン・メキシコ名:Tuna
フランス名:Figue de Barbarie
熱帯アメリカ原産。果物として利用するウチワサボテン属の果実を広くツーナと呼ぶ。果実は果頂部が平たく、長さ5~8cm。果皮には一般に束状の刺が点在する。のこ屑と果実を混ぜ、コンクリートミキサーのように回転させて刺を除き、販売用に調整する。熟果は淡緑色、黄色、帯紫赤色など、果肉は淡緑色、黄色、赤色など。果肉の分析例では、水分47%、糖質36%、たんぱく質6%、灰分0.7%、脂質0.02%、種子6%を含む。甘く水分に富み、盛夏に炎天下にスイカを食べるときの味に似る(私が食べたものは甘酸っぱかったので、スイカの味とは程遠く感じた)。生食のほか、サボテン蜜、糖果、ジュース、ゼリーなどを作る。果実はメキシコでは2~3月に多く出回る。
●布袋弥勒
上海の西北部に水産市場があって、よくその銅川路へ行くのですが、いつも市場からみえる塔のあるお寺が気になっていて、昨年10月、ふと、そこへも行ってみました。
このお寺は真如寺といって、こじんまりとしてはいますが、元時代の様式を残す建物だそうです。
ご本尊さまは普通の仏像?なのですが、その後ろ側に上右の写真のように真っ黒な布袋様が安座しておられました。
なんで、七福神の布袋様だけが祭られているんだろうと不思議に思いながら、とりあえず写真を撮っておきました。
もう2年前になりますが、中国での養殖の仕事を始めたのが浙江省寧波市寧海県で、いわゆる江南とよばれている所だったので、行く前に司馬遼太郎さんの「江南の道」を読みました。
その時はまったく印象に残っていなかったんですが、この正月にたまたま実家で父がビデオにとってあったNHKの「司馬遼太郎の街道を行く」シリーズを見て、本の方ももう一度読み直してみると、杭州での話の中に、布袋様のことも書いてありました。
以下、司馬遼太郎著「中国・江南の道」より
”元以後とみられる仏像のなかに、大きな布袋さんの像があった。気球のように肥満した腹をつき出し、あぐらをかいて大臍(へそ)を出し、二重にあごをくびれさせて満月形の顔を笑みくずしている。
「弥勒菩薩です」
と、私どもを案内してくださった忻志英(きん・しえい)女史が、言われた。忻さんは、美術史にあかるい人である。
------これは、日本でいう布袋さんじゃないか。
というふうに、同行者たちは驚いている。やがてそのうちのひとりが疑問を呈すると、
「そうです、布袋(ぷたい)」
しかし中国では弥勒菩薩がつまりは布袋さんなのだ、と忻女史は言い、一行が動くにつれて、その場を過ぎた。
やがて「雲林禅寺」という乾隆帝の筆になる扁額のあがった二層の建物のなかに入ると、その正面に、金で鍍金(めっき)された布袋さんが、大きな顔と腹を垂らして右膝をたててすわっていた。
「弥勒です」
忻女史が言う。
弥勒信仰というのは中国では古いが、むろん、本来は布袋さんではなく、いつのほどか、痩身の女性的な弥勒像が、布袋さんに変わったのである。
弥勒菩薩は、日本では七世紀の古仏像が多く遺っている。有名な広隆寺(京都)や中宮寺などの半跏思惟像が代表するように、岩上に腰をおろし、右脚を曲げ、瞑想して右手の中指をわずかに頬にあてて、いかにも救済と瞑想と慈悲という主題を象徴するような形である。
むろん、中国でも古い時代は、右のような儀軌(ぎき;仏像などの形の儀範)になっていたが、そのような象徴性や、形而上的相貌は、中国の民衆には適わなくなったのであろう。
弥勒菩薩は、インドで成立した。釈迦滅後、五十六億七千万年のちに地上に下生(げしょう)して、釈迦生前のその説法に洩れた衆生を救うという菩薩で、その日までは兜率天(とそつてん)にあって天人に説法しているという。この救済性のつよい菩薩についての信仰は、インドよりも仏教が東漸してから、中国、朝鮮、日本でさかんになり、この法身(ほっしん)への憧憬の心が、ほとんど肉体という感じを離れ、内臓も持たないかと思えるほどに透き通って象徴的な弥勒菩薩の像をひとびとにつくらせた。
が、布袋は、肉体そのものである。
さらにいうと、この人物は、後梁(907~23年)のころ(もしくは唐の末期)に、浮世にいたらしい。うまれたのは、この杭州からさほど遠からぬ、寧波(当時、明州)の奉化である。
名は、契此(かいし)という。禅僧であったというが、寺は持たず、居所も定めない。明州の奉化あたりで家をまわっては食を乞い、物をもらうと、杖にぶらさげている布袋(ふくろ)に入れた。いつもこのふくろをかついでいるところから、異名として布袋とよばれた。
------いろんなものが入っているぞ。
などといって、ときに人に袋の中を見せたりしたこともあったにちがいない。僧でありながら、肉を貰えば肉を袋に入れ、精進にこだわらなかった。
額(ひたい)が、せまかったという。腹が異様に大きく、しかもつねに半裸で、雪の中でもそのまま寝た。中国人には多分に異常人好みがある。布袋が異常人であったことは、以上のことでもわかる。人の吉凶を占ったというが、本来の仏教には、占いの思想などなく、道教にはある。布袋は道・仏さだかならざる人物であったろうか。
その死は、後梁の貞明三年(917)3月3日で、明州の奉化県の岳林寺という寺の東廊下で死んだというが、いわば、旅の者の行き倒れにも似ている。東アジアでは----日本でも中国でも----古代以来の信仰として、行き倒れの死者を宗教的に尊ぶ土俗があった。(古代日本では、異国人の水死体をも神として崇めた。)異人への畏敬と、行き倒れ信仰がかさなって、布袋の死後、
------布袋さんは、弥勒菩薩の化身だったのではないか。
という者が出てきて、やがてその像をまつって拝むものがふえ、ついには、むかしからごく一般化していた弥勒信仰が、布袋の姿をとるようになったかと思われる。
しかし、布袋さんが、骨に皮を張ったように痩せた人物であったとすれば、当時の中国の庶民の畏敬は得られなかったにちがいなく、弥勒菩薩にもなっていなっかたにちがいない。こんにちではちがうが、在来の中国では、肥満型の人を尊ぶふうがあった。大官や富豪にして肥満者でなければ威福がないとされた。布袋は乞食(こつじき)して暮らしていたが、ひとびとはその雄大な腹を見て福を内蔵している人と見たのではないか。
唐代からすでにそうであったが、中国仏教は、一面では大きな寺院の経営史でもあった。大官や富豪といった檀越(だんおつ)の寄進に頼るところが多く、そういう者たちが、寺に、金銭とともに俗臭を持ちこむ場合、寺の長老としては教学と経営との矛盾に悩んだにちがいない。道元が宋に入り、天童山の長老如浄に出会って大いに蒙をひらかれるのだが、そういう如浄の管理下の天童山においても、道元が師の寺門維持の姿勢に疑問を抱くほどに俗界の風儀が入り込んでいたらしい。
富豪の檀越が、大金を投じて堂塔を寄進し、さらに大きな布袋さんにぎらぎらと金箔を張り上げて、
-----この弥勒菩薩をまつってもらいたい。
と持ち込んでくれば、
-----それは「儀軌」としての弥勒菩薩ではありません。
と、ことわりきれなかったであろう。道元の入宋のときに天童山に布袋さんがあったかどうかはわかりにくいが、いま、そこにも布袋さんは弥勒菩薩として祭られているのである。”
上の写真が、司馬遼太郎さんも見た杭州市にある霊隠寺の沿道の岩壁に彫られた「布袋弥勒仏」です。
私も、この2月6・7日と日本からやってきた友人と共に、上海から1泊2日交通費、ホテル、4食つきで380元(約6500円)のツアーに参加して、思いがけなく、司馬さんの足跡をたどることができました。
ここは、2日目に訪れたのですが、1日目にこれも思いもかけずに訪れた霊山のいうところに大鍾乳洞があり、鍾乳洞見物が終わって外に出ると下の写真のような布袋大仏がありました。
ここに着いた時、この大仏様をガイドの女の子が「ミロク」と言ったのが聞こえたときには、思わずニヤリと笑みがこぼれました。
1月に司馬さんの本を読み返していなければ、ガイドさんが「ミロク」といったのも、意味もわからず聞き流していたと思います。
私も中宮寺の弥勒像は拝観したことがありますが、あのお姿とこの布袋弥勒仏とのギャップはあまりにも大きく、どういうことなんだろうと考えあぐねます。しかし、この大仏様の福福しいお姿は、いかにもご利益がありそうで、この姿を見れただけでも幸運がやってくるのではないかと感じさせてくれました。(2002.02.16)
●為什麼甜蜜的夢 容易醒
中国の人達もカラオケ大好き人間が結構いて、私も歌を歌うのは好きなほうで、私の中国語の勉強はまずカラオケ画面の漢字を見ながら読みを覚えるところから始まったといっても過言ではありません。
中国での生活が始まったばかりのころは、田舎のカラオケでは日本の曲はないので、とりあえず皆に歌えと言われるのは「北国之春」でありました。中国語の訳も原曲に近いものなので、中国語の歌詞を見ながら日本語の歌詞を思い浮かべて歌っていました。あと歌えそうなのは喜納照吉さんの「花」と、どういうわけか私の好きな吉田拓郎さんの「襟裳岬」がありました。
それにしても3曲だけのワンパターンでは私自身面白くもないので、他人が歌っている歌でいいなあと思った曲は、題名を覚えておいて、後でカセットテープを買いに行って、その歌詞カードを見ながら辞書も引きつつ覚えていきました。
最初に覚えたのが「月亮代表我的心」という曲で、これがなんと、テレサ・テン(テン・リージュン)の曲で、このあと、テレサ・テンの曲を何曲か覚えることになりました。テレサ・テンは未だに根強い人気があって、10代の若者も彼女の曲は知っていて、よく歌われています。とりあえず私もこの「月亮代表我的心」を歌えばつかみはOKとなります。ちなみに、「襟裳岬」もテレサ・テンのレパートリーの1曲で中国のカラオケにも入っているということもわかりました。
カラオケといえば、小姐がつきもので、お互い言っていることは「ティン・プ・トン」で間がもたず、苦肉の策でデュエット曲を覚えていっしょに歌って楽しむことを思いつきました。スタンダードというべきデュエット曲も多いのですが、そのNO1は、ジャッキー・チェン(成龍)と陳淑樺という女性が歌う「明明白白我的心」でしょう。
この歌の中で、表題の「為什麼甜蜜的夢 容易醒(ウェイシェンモ・ティアンミー・タ・モン・ロンイ・シン)、なぜ甘い蜜のような夢は容易に醒めてしまうのだろう」という一節に巡り会いました。
この曲を覚えてからの1年半、ふと口ずさむのがこの一節で、これまでいくつの甜蜜的夢 容易醒があったことでしょう。そして、これから先いくつの甜蜜的夢 容易醒と感じることになるのでしょう。
しかし、甜蜜的夢がなくなったらおしまいだと、それを持ち続けることが明日への活力を生む源泉だと信じて、頑張ってみるしかないじゃないか。(2002.01.06)
●枸杞(クコ)