ロベールとモローが活動していた時代
19世紀のはじめころ、ナポレオン・ボナパルトが没落した後、ヨーロッパはウィーン体制と呼ばれる時代を迎えました。この時代、イギリス、フランスなどの政権は帝国主義の色合いを強め、中東や衰えいちじるしい極東の大国、清への侵攻を進めていました。(アヘン戦争、アロー戦争など)
アジアやアフリカの植民地化に後れをとっていたプロイセンは鉄血宰相ビスマルクが主導し、ことあるごとにフランスと対立するようになっていました。1870年には普仏戦争が勃発し、翌年、勝利したプロイセンが盟主となってドイツ帝国が成立するなど、各国が利権をめぐって政治的・軍事的な駆け引きを続けている時代でした。
ヴィベールからロベール、そしてロベール・エ・モロー、さらにモロー=ロベールへ
ロベールはヴィベールの農場で1845年ころからヘッド・ガーデナーを務めていました。ファースト・ネームが不明のため、ムッシュー・ロベール(Mons. Robert)と呼ばれることが多いようです。
ロベールは、ヴィベールが活動の終わりころ熱心だったモス系品種の育種をそのまま受け継いで、すぐれたモスを数多く育種していましたが、1857年にモロー(Moreau)を共同経営者として迎え、以後ロベール・エ・モロー(Robert et Moreau)という名称で活動することになりました。
1863年、ふたりは現場から退き、農場はモロー=ロベール(Moreau-Robert)へ引き継がれました。モロー=ロベールは、1864年から1890年ころまで、ロベール・エ・モロー名義で数多くの品種を市場へ提供しました。そのため、モロー=ロベール名義の品種があまり記録されていません。
実際にはふたりはすでに一線では活躍していませんでしたので、ここでは、1864年以降、ロベール・エ・モロー名義の品種をモロー=ロベールによる育種としました。モロー=ロベールは名前から、ふたりの姻戚にある人物だと推察されますが、どんな関係であったのか明らかな資料が見当たりません。
1900年ころ、農場はシェダン=ギノワッソー(Chédane-Guinoisseau )に引き継がれました。ギノワッソーは1907年ころまで育種を行っていたようですが、その後農場は他の作物等に供されることになったのか、今日見ることはできません。
もっとも偉大な育種家とされるヴィベールの資産を受け継いだロベールはヴィベールが引退前に力を注いだモス・ローズの育種を極めたのち、共同経営者モローを迎えて、ブルボン、ダマスク・パーペチュアル、HPなど、返り咲きするすぐれたオールド・ローズの育種へ活動範囲を広げました。
はじめ、ロベール、そこへモローが加わり、さらにふたりの仕事はモロー=ロベールへ受け継がれました。彼らが活躍した1845年から1890年は、暮れなずむオールド・ローズからモダン・ローズの黎明にいたる時代だったと言えるのではないでしょうか。
ロベール育種の品種
グロワール・デ・ムスーズ(Gloire des Mousseuses)
これが本当につぼみなのかと思われるほど苔(モス)に覆われたつぼみから、ピンクの花弁が湧き出るように展開し、花弁が密集するロゼッタ咲きとなる花形になります。
花色はシルバーシェイド気味の明るいピンク、外縁部分が淡く色抜けしたり、花弁に班模様のようにピンクの濃淡が生じることもあります。
新枝が直立して先端に大輪の単輪咲きとなる様子はモス・ローズのイメージからは遠いものです。
1852年、ラッフェイ(Jean Laffay)によって育種されたという説もありますが、ここではロベールにより育種・公表されたとしました。交配親は不明のままです。
丸葉が多い、モス・クラスの中にあって、幅狭で非常に大きな葉であること、例外的はほどの大輪花を咲かせること、秋に返り咲くことがあると報告されていることなどから、交配には他の系列の品種が使われたことが想像されます。おそらく、モス・ローズの中でもっとも大輪花を咲かせる品種です。
ジョルジョ・ヴィベール(Georges Vibert)
花弁の並びがルーズな丸弁咲きの花形。
花色は鮮やかなピンク、花弁には濃淡がはっきり出て、ストライプとなることも多い花色です。
1853年に育種・公表されたガリカです。
ジョルジョ・ヴィベール(Jehan Georges Vibert ;1840-1902)は、育種家ヴィベールの孫にあたります。この品種が公表された当時はまだ少年でしたが、長じて、伝統を重んじた画風を守り、アカデミー派と呼ばれた画家たちのひとりに数えられることとなります。
官展をおもな公表の場としていたため、アカデミー派とも、また、貴族などの集まるサロンによく出入りすることからサロン派とも呼ばれていました。このアカデミー派の保守的な画風に反発し、強い対抗心をいだきつつ近代絵画の幕開けを演じたのが印象派の画家たちでした。アカデミー派は印象派の画家たちの輝かしい成功の影に隠れて、長い間、返り見られることがありませんでしたが、最近になって、ようやく伝統的な技法が見直されるようになり、再び脚光を浴びつつあります。
ジェネラル・クレベール(Général Kléber)
ロゼットまたはクォーター咲きとなります。
花色はヴァーミリオン(朱色)のすこし入った明るい華やかなピンク。
花と樹形のバランスがとれていること、また全体的にはいかにも古い由来のものであるという印象を受けます。
1856年、育種・公表されました。交配親は不明です。
クレベール(Jean Baptiste Kleber;1753-1800)はナポレオンと同時代に生きたフランスの将軍です。
青年期には建築家になることをめざしていましたが、フランス東部のストラスブルグというドイツ語圏に生まれたことから、オーストリア軍の兵卒として軍務に就いたこともありました。フランス革命の際には一兵卒として革命軍に参加し、やがて将軍にまで昇進しました。
熱烈な共和制支持が災いしてか、やがて失脚して退役しましたが、ふたたびナポレオンに見出され、1798年のエジプト遠征へ同道します。当時のエジプトはオスマントルコ帝国の統治下にあり、マムルークと呼ばれる軍団に事実上統治されていました。アレキサンドロからカイロへ向け侵攻するフランス軍は、ギゼの大ピラミッド付近へ至ったとき、マムルークの騎兵の急襲を受けます。勇猛果敢に襲いかかる騎兵に対し、フランス軍は方陣という防御姿勢を敷いてこれを防ぎました。
方陣の前にはマルムークの死体の山が築かれましたが、それを越えて突撃してくる騎兵にフランス兵は恐怖し戦慄したと言われています。この戦闘は最終的にはよく防御したフランス軍の勝利に終りました。(”大ピラミッド前の戦い”)
クレベールはこの戦闘以前に行われ、フランス軍が勝利したアレキサンドロでの戦闘の際負傷してしましい、その地へ止まっており、この戦いには参戦しませんでした。
陸戦には勝利したフランスでしたが、ナイル河口付近で行われた海戦において、ネルソン提督が率いる英国艦隊によりフランス艦隊が殲滅されてしまうと(”ナイルの海戦”)、フランス軍は兵站を絶たれてしまい孤立してしまいます。
この不利な状況をうけ、ナポレオンは、少数の兵のみを率いてフランスへ帰還してしまいました。取り残されたクレベールは駐エジプト、フランス軍司令官として兵とともに駐留していましたが、1800年、カイロで回教徒の刺客に暗殺されてしまいました。司令官を失ったたフランス軍1万5千の兵は、翌1801年にオスマントルコ・英国連合軍に降伏することになってしまいました。信義には篤いと言われているナポレオンですが、エジプト遠征においては彼は多くの兵を見放してしまい、彼の経歴に汚点を残しました。
ロベール・エ・モロー育種の品種
コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)
カップ型、いかにもオールド・ ローズらしい、花弁が密集したクォーター咲きとなります。
ミディアム・ピンク、花芯が色濃く染まります。
植えつけ後数年をへてしっかり根付くと、返り咲きしますので、シーズンを通して楽しめるようになります。
ピンクのハイブリッド・パーペチュアルのバロネ・プレボ(Baronne Prévost)とポートランド・ローズのデュセス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland Rose)との交配により生み出され、1858年に公表されました。
花色、花形、香りなどばかりではなく、葉色、樹形など多くをバロネ・プレヴォから受け継いでおり、シングルの赤花を咲かせるデュセス・オブ・ポートランドの特徴はあまり見出すことはできません。
花の大きさ、樹形などはバロネ・プレヴォよりも少しだけ小ぶりになることが多いのですが、花はしっかりと直立することが多く、また、返り咲きする性質はハイブリッド・ティーなどの現代バラに遜色のない強さがあります。
花がときに葉の中に埋もれたりすること、また、頻繁な返り咲きする性質があることから、ハイブリッド・パーペチュアルではなく、ポートランド・クラスにクラス分けされクラスを代表する品種となっています。
シャンボール伯爵(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonne d’Artois, Comte de Chambord;1820- 1883)は復古王政時のフランス王シャルル十世の孫にあたります。
王政、共和制とめまぐるしく変転する19世紀フランス政界にあって、ブルボン家の家督を嗣ぐ者として王政復古派のシンボルに祭り上げられた人物ですが、この品種が捧げられたときはフランス国内にはおらず亡命中でした。
後のことになりますが、1870年、ナポレオン3世は宰相ビスマルクが率いるプロシャとの間で行われた普仏戦争において、自ら出陣した戦闘において捕虜となってしまうなど屈辱的な敗北を喫し、同年、退位を余儀なくされてしまいます。
1871年、ナポレオン3世が英国へ亡命した後、1873年にはシャンボール伯爵は王政復古派にかつがれ王位へ就く寸前までゆくことになります。
王として議会へ導き入れられ、議員たちからも賛同の拍手をもって迎え入れられました。しかし、フランス革命の象徴である三色旗(青=自由、白=平等、赤=博愛)の承認を求められたことに対し、白色旗(ブルボン家の白百合の紋章)に固執し承認をを拒絶したことから議員の失望を買い、最終的には王位へ就くことはありませんでした。
シャンボール伯には嫡子がなく、1883年、彼が死去したことにより、ついにブルボン家は絶え、フランスの王政復古のもくろみはその根拠を失い潰えさることとなってしまいました。
モロー=ロベール育種の品種
コマンダン・ボールペール(Commandant Beaurepaire)
オープン・カップ形の花形。
クリムゾンとホワイトの対比が鮮やかな、ストライプとなりますが、どちらかといえばクリムゾンが勝って、全体としては赤が前面へ出てくるといった印象を受けます。
細いけれど固めの枝ぶり、そのため花はしっかりと上向きに咲くことが多くなります。
1864年に育種され、1874年に一季咲き、ガリカの枝変わりによるストライプ品種として公表されました。(公表当時はパナシェ・ダングレ-Panachée d’Angersという品種名だった)
しかし、5年後の1879年に弱いながらも返り咲きする性質のものが現れ、それが今日ブルボン・クラスのストライプ種のひとつとして、コマンダン・ボールペールという品種名で流通しています。
コマンダン・ボールぺール(Nicolas Joseph Beaurepaire;1740-1792)はフランス革命時代、王党派であるプロシャ軍の侵攻に対峙したフランス軍将校でした。
1792年、ルイ16世の架刑に憤慨したプロイセンは革命阻止のためフランス国内へ侵攻してきました。フランス軍はフランス北部ヴァルダンに駐留していましたが、司令官であったガルヴォー将軍(General Galbaud)はもともと王党派であり、プロイセンの侵攻に敵対する気持は強くありませんでした。指揮をまかされたボールペール中佐は抗戦を試みたもののプロイセン軍の包囲に窮して自害し、軍は降伏してしまいました。
しかし、その後、フランス軍には国の存亡の危機を感じ取った多くの義勇兵が加わり、プロイセン軍をヴェルダン近くのヴァルミーで迎え撃ちました。戦闘は砲撃戦を主体とした小競り合いと言ってよい程度の小規模なものでしたが、プロイセン軍は兵站の不足などもあり退却し、フランス義勇軍の勝利となりました。この勝利は戦闘という意味では小規模な勝利でしたが、フランス革命にとっては王党派を打ち破ったという点でメルクマールになり、革命運動は嵐となってフランス中を席捲することになりました。
ムスリン(Mousseline、別名;アルフレッド・ド・ダルマ-Alfred de Dalmas)
オールド・ガーデン・ローズとしては例外的に大輪、丸弁咲きの花となります。
花色は淡いピンク。花弁の縁は退色して白く抜け、濃淡がでることがあります。
萼や若枝にモスが生じますが、密生するというほどではありません。モス・ローズとされるのが通例ですが、頻繁というわけではないものの、返り咲きする性質があることから、ダマスク・パーペチュアルへクラス分けされることもあります。
1855年、ラッフェイ(Jean Laffay)nが育種・公表したとも、また、ポルトメール(Portemer)が作出したとも言われていますが、ここではモロー=ロベールにより作出されたとしました。
さらに、この品種はアルフレッド・ド・ダルマ(Alfred de Dalmas)の名で呼ばれることもありますが、ムスリンとアルフレッド・ド・ダルマは別品種とする説もあり、誰が本当の育種者なのか、また、淡いピンクとピンクの2品種は同じものなのか、違うのかなど大きな混乱を招いています。
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