ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 【キャスギルぐだ♂】難易度A++の休日2017年6月20日 00:08朝のうち空を覆っていた重苦しい雨雲が五月の風に東へ押し流されてゆく。今日は暦にふさわしい晴天に恵まれそうだ。ぐんぐんと湿気が追い払われていく気配に思わず背を伸ばして大きく息をつく。──[[rb:記憶にある通りの > ・・・・・・・・]]清々しい朝だ。この日、『藤丸立香』は高校の修学旅行に出かけていたはずである。現在時刻からして集合場所のターミナル駅からもとっくに出発した頃だろう。つまり今この街に『藤丸立香』は存在せず、その友人たちにも鉢合わせることはまずない。その日を狙って、立香は自分の住んでいた街へレイシフトしてきていた。目的はただの買い出しである。とはいえ働く人々が休日にふらっと出かけるそれではない。これはれっきとした任務のひとつ、世界を救う戦いの一環なのである──と立香は少しばかり気を張っている。人理焼却された2016年において唯一難を逃れたカルデア、その倉庫に十分な食糧が備えてあったとはいえそれはあくまでカロリー上の話であった。冷凍食品や缶詰にレトルト、レーションや乾物や栄養補助食品の類がいくらあろうと時には新鮮な生の食材もなければ士気が落ちる。健康維持の面でも心配だ。日用雑貨にも不足するものが出てきた。そこで一度まとめて買い出しに出よう、という話が持ち上がったのだ。むろん慎重論も出た。レイシフトとは本来、魔術協会と国連の承認を得なければできないはずの重大事項である。だがいずれの機関も既に無く、人類の全てはいまやカルデアにかかっている。ならば買い出し如きを渋ってスタッフらのパフォーマンスを落とすようで何になるのかという話である。とはいえ人理にこれ以上の傷をつけぬよう、そして無事人理の修正が叶った折には必要なレイシフトであったのだと証明できるよう、介入すべき時空は念入りに吟味された。なにせ最少の時間で大量の買い出しをひっそりとこなさねばならない。そうして決定されたのが、任務の遂行者である立香にとって最も身近で動きやすいこの街とこの日時だったのだ。「立香くん、おそらくこれは今までの中で最高難度のミッションになるだろう」出発前のブリーフィングで、ドクター・ロマニは立香の目を見据えて大真面目にそう言ったものだ。敵性サーヴァントも怪物も現れるはずのない買い出しの何が最高難度だろう。思わず目を瞠った立香を安心させるように、憂いを帯びた翡翠の瞳がふっと弛む。「キミにとっては、ね。でも構えないで。一種の──そう、休暇と思ってくれたらいい。忙しい日々の合間に取れた針の目のような休日に、キミは次の週を乗り切るための物資をまとめて買い出しに行くんだ。それだけの話さ。実際、買い出しさえきちんとこなしてくれたなら、空き時間は好きにしてくれていい。ショッピングセンターでソフトクリームを食べるのも、新しい服を買うのも、映画を見るのだって自由だ。……ただ、最後に無事に戻ってきてくれさえすればいい」淡い色合いの瞳がわずかに揺れている。ドクターも買い出しに行きたいんですか、なんて軽口をたたくのは憚られた。カルデアの外が全て焼却されたこの2016年においては、休日に外へ買い出しに出ることすらマスター適正を持つ立香だけの特権と言える。けれど彼が揺らいでいるのは恐らくそんなことではない。「行き先は2014年の日本、東京。キミが申告してくれた通り、確実にキミやキミの家族とは出くわさないはずの日だ。でもできるだけ人目に付かないように注意してほしい。近所の人たちはいるだろうしね。……さて、ではマスター・立香。準備はいいかい?」そうして送り出された先は立香の住んでいた街からそう遠くない繁華街だった。さほど大都市というわけでもないが複数の路線が交わる駅前には常に人混みがごったがえし、そっと紛れるには労しない。それでいて誰も目を向けない路地裏がないではない、便利な街だ。人目に付かないようレイシフト先の地点に選ばれたのはそう高くもないどこかのビルの屋上で、給水塔の裏に回れば近隣のビルからも完全な死角となった。レイシフトの残光が消えゆく中、きょろきょろとあたりに人がいないことを見渡してほっと息をつく。第一段階はまず成功だ。そんな立香を置いて同行者はさっさと屋上の縁へと歩いて行っている。慌てて駆け寄り様子をうかがうと、鉄柵越しにごみごみとした街並みと虫の大群のような人の群れを見下ろした彼はどう贔屓目に見ても不機嫌である。「いつ視てもぞろぞろと気色の悪いことよ……それで、目的地はどこだ」「えっと……あそこの赤い看板の」「さっさと行くぞ。着地は[[rb:我 > オレ]]に任せよ。そこの路地裏でよいな」「わっ、ちょっと待って、うわあっ!」猫の仔のようにベルトの裏をつかみ上げられたかと思うと、そのまま放るように空中へと投げ出されて思わず悲鳴を上げた。一瞬の浮遊感。次いで体中の血が一気に頭の先からすっぽ抜けるかのような強烈な落下の感覚がして、恐怖にぎゅうっと胃が縮こまった時にはもう地上に着いていた。ぐるん、と半呼吸遅れて脳内で上下の感覚が半回転する。一応死なない程度には扱ってくれていたらしい。小脇に抱えられたその腕の圧で朝食べたものをまるごと吐き出しそうになったが、どこにも外傷はなかった。とはいえ慣れているはずもない無茶な運動のせいで、後から襲ってきた眩暈につい膝をついたところを笑われる。「相も変わらず脆弱なやつよ。次は姫君のように抱きかかえてやろうか?」「け……、結構ですっ」ほとんど意地だけでふらふらと立ち上がって膝をはらう。そのやけに馴染んだ生地の感触に、ふっと妙な感覚が胸をよぎった。なぜか思い出してはいけないもののような気がして頭の中からその感覚を追い払おうと試みる。時刻は朝の10時。路地裏から覗く人波はやや落ち着いて、スーツ姿の男女や学生の姿が減ったかわりに子連れの女性や老人たちの姿が増えていた。今日の立香は、日本の高校の制服に似せた礼装姿である。現代世界へと潜入することを想定して作られたものらしいそれは立香の通っていた高校のものにもよく似ていて、カルデアという非日常で過ごす立香には着ているだけで妙な気分になる代物だ。それがこうして2014年の東京に帰ってくると尚更おかしな気分になった。──まるで、カルデアでの日々の方が夢だったようにすら思えてくる。「どうした?」「……いっ、いえ何でも」声を掛けられて立香ははっとした。思わず握りしめてしまっていた膝から手を離して顔を上げる。まだ少しだけふらつく足を叱咤して、路地裏から大通りへと出た。目指す看板の店はそう遠くない。できるだけ人目を惹かないよう、むしろ堂々と胸を張って歩道を歩く。学生服姿は平日の日中ともなれば目立つのが難点だ。それが不思議でなぜ制服にしたのかとロマニに尋ねたところ、逆に「えっ!? 日本の高校生は特に意味もなく毎日制服を着てるんじゃないのかい!?」と問い返されたものだ。ジャパニメーションの効用か、そのような先入観があったらしい。隣に立つ同行者ことキャスター・ギルガメッシュは、背格好の近いカルデアの職員から借りたらしいラフな服装をしている。だが無難なシャツに無難なパンツ姿をしてすら人目を惹く容貌が災いしてこれもまた街からよく浮いていた。なぜ唯一の同行者が彼なのか。それは何度も訊いたのだが、マシュは外の世界に不慣れであるし立香の馴れた最古参のサーヴァントは彼だという以上の回答は得られなかった。きっとお目付け役として選ばれたのだろうと立香は踏んでいる。レイシフト前に、ロマニが彼に何か頼んでいるらしい様子を目にしていた。ギルガメッシュは立香の最古参のサーヴァントである。実力は折り紙付きで毅然とした質だが、尊大で気難しいところがあるため立香は少し苦手だった。まずもって彼は立香ら人間を雑種と呼ぶ。マシュによると彼は半神であるそうだから、多少見下したところがあったとしてもそういうものなのかもしれない。しかし何にせよそのような侮蔑を含んだ呼びかけをされて親近感をいだくのは難しかった。そもそも『雑種』というならば彼の方こそ神と人との混血ではないのだろうかと思うのだが、恐ろしいので尋ねたことはない。マシュは立香に気を遣ってか、古代シュメール人は自分たちのことを[[rb:混ざり合わされたもの > ウンサンギガ]]と呼んだそうであるからそのせいかもしれないと言っていたが、これは望み薄だろう。さらに言うなら彼は[[rb:魔術師 > キャスター]]である。他のクラスであったならばいざ知らず、明らかに自分より力量の劣る魔術師に使役されることとなった彼が、そのことをどう思っているのか立香は知らない。だが過去にはそのあたりがこじれてサーヴァントに殺されたマスターもいたという。おそらく並みの魔術師からしてみれば、[[rb:魔術師 > キャスター]]というのは良好な関係性を築くのに最も苦労するクラスなのではないだろうか。その点で言うと立香は、新米マスターにして魔術師の基礎もまるで知らないことから、己より格段に優れた魔術師であるギルガメッシュに何も思うところなどなかったのだから幸運と言えるだろう。ギルガメッシュの方もそんなひよっこ未満の立香を見かねたのか、日々厳しく指導してくれる毎日だ。それに元はウルクという[[rb:市 > まち]]の王であったという彼は、軍事方面でも有能な指揮官であったらしい。魔術のみならず、戦術面でも教わることは多かった。彼の助言は的確であり冷静であり辛辣である。そのようなわけで、腹の底はともかくとして一応の良好な関係はできている。だが彼が時折苛々とした目をしているのも確かだ。彼は魔術王の行いに腹を立てているようであるし、恐らくはそのせいでウルクという[[rb:市 > まち]]に危機が迫っているそうだから、そのせいなのだろうとは思う。だが彼の大事な[[rb:市 > まち]]を間接的に救うことになるのだろう立香がこのような素人とあっては、彼も苛立ちを覚えるのではなかろうか。──というのは立香の推測でしかないのだが、何にせよ彼は今日も不機嫌だ。口元は笑んでいるもののその苛烈な目は笑っていない。特にこの人混みは彼のお気に召さないようだ。ウルクとは栄えた都であったらしいが、流石にこれほど人口が密集してはいなかったのだろう。いかにもうんざりしたという顔だが、しかし街並みに興味を惹かれるものもあるらしく、歩きながら時折立香に質問を投げてくる。「あれは何だ。随分とみすぼらしい雑種どもが集まっているようだが」「あれはえーっと……遊技場というか……お金をかけて玉入れゲームをして、運が良ければ儲かるんですけど」「王侯貴族でもないくせに昼間から遊興に耽るとは……ふむ、ではあれは何だ。妙な外装をしているな」「あっ、あれは……何でもないです! きゅ、休憩するっていうか……」「庶民の娯楽を知るのも王の務めよ。隠さず答えよ!」……ただ、彼の興味を引くものが悉く説明のしづらいもので立香は困っていた。果たして最高難度とはこのことだったのだろうか、街を見回すギルガメッシュは意外に好奇心旺盛なようだ。思えば、オケアノスやロンドンも割と楽しんでいたように思える。高層建築を興味深そうに眺めはじめたギルガメッシュの背を押すようにして入った目的の店はネットカフェだ。買い出しの品目が多岐にわたり量も生半可ではないため、予めほとんどのものをネットスーパーで購入する手はずになっていた。平日の午前中に現れた学生服の立香とどうにも堅気の雰囲気のないギルガメッシュだが、しかし店員は子供とその保護者とみなしたのか何も言わずに二人用の席を手配してくれた。俗に言うカップルシートだがそこには何も言うまい。個室に入ってすぐに立香はPCの電源を入れた。予めスタッフらが目星をつけていた店のサイトへアクセスし、持参した異様に長い買い物メモを開く。立香の次のゴールは12時までにこの山のような注文の全てを入力することだ。昼の12時までに入力された注文は当日配送される。支払いは預かってきたロマニのカードだ。曰く「あの頃は使う暇がなかったので給料が貯まる一方だったし、利用履歴もチェックしてなかったから問題ないよ」とのことで、渋る立香に半ば無理やり握らされたものである。もちろん本来ならばカルデアの資金を使うべきなのだろうが、この時代のカルデアの資金を動かしてはすぐに不正使用がバレてしまうし、利用履歴から立香らが割り出されればこの時代の『藤丸立香』が逮捕されてしまいかねない。よって不本意ながら、ロマニの個人資産を使うことになったのだった。気は進まないが他に手だても思いつかない。長大なリストと画面を見比べながら、猛然と入力を開始しようとしたところでピピー、と軽い電子音が響いた。「無事に着いたみたいだね、立香くん。リストの読み上げをしようか?」「ドクター! お願いします!」ふっと横手に現れたのはドクター・ロマニの[[rb:立体映像 > ホログラム]]だ。ありがたく申し出を受けて、入力に専念することにする。その横でむっとした顔をした者がいることに立香は気づかなかった。買い出しの品目は多岐にわたる。食糧に下着、ボタンと糸、紙製品、コンピュータなどさまざまな機器の修理部品。記録媒体に医薬品、そしてカルデアでは不足しがちな大量の野菜類など。それをひとつひとつ入力していくと、途中で音もなく伸びてきた手が不意にテンキーを押した。勢い余って333箱カートに入れられてしまった包帯の注文に目を剥いて慌てて修正する。余計な手の持ち主はその様子を見て何やら得心したようにふむふむと頷いているようだ。「ちょっ……しばらくそっちのマシンで遊んでてくださいよ。なんなら上の階に漫画もありますから」「くだらん。[[rb:我 > オレ]]は暇だ」「こっちは忙しいんですってば!」右手を塞げば左手が出てくる。立香のPCを弄るのが楽しいというわけでもなかろうに、放っておかれるのは嫌いなのが彼だ。操作の知識はないくせに、無駄に洞察が良いせいで的確に作業妨害をしてくる。「ちょっ……そこ押しちゃ駄目なやつ! 駄目ですって!」「ここが最も重要なぼたんであるのだろう。この[[rb:我 > オレ]]が手伝ってやろうというのだ」「重要すぎて駄目です! 電源落ちますから! そこもダメです! あああかな入力になってる~~……」「ふむ、面妖な仕組みよな」「ちょっ画面が上下反転したんですけど!? そんなショートカットキーあったんですね!? あああ戻し方がわからない!」さんざん余計な手を出され、立香の声がだいぶ大きくなった辺りで面倒くさそうにやってきた店員にもう少しお静かにと注意をされてようやくギルガメッシュは立香のPCから手を離した。何とか作業を開始して、没頭すること約50分。随分と静かになったと思って見やると、彼は自分が登場するゲーム動画を真顔で見ていた。「……何見てるんですか?」「[[rb:我 > オレ]]を物理で殴れば万能の霊薬エリクサーが出るなどと流言飛語が出ていたのはこやつのせいか……。ふむ、しかし背負った音曲は悪くない。貴様も聴いてみるがよい」「ちょっ、ヘッドフォン抜かないでくださいよ……!」止める間もなくケーブルを引っこ抜かれたPCから古びた三和音のゲームミュージックが流れ出す。また店員がやってくる前にと立香は慌ててケーブルを差し直したのだが、今度はどこからか女性のすすり泣く声が聞こえてきた。聞こえ方からしてこれはカルデアだ。レイシフトとその後の立香の存在証明のため、管制室に詰めているスタッフの声に違いない。「どうしたんだ!? 大丈夫かい?」「……ご、ごめんなさいっ……うっ……懐かし、くて……」通信に立つロマニのずっと背後の方でそんな声が聞こえる。[[rb:立体映像 > ホログラム]]の中からロマニの姿が消える。つられたようにもうひとつ別の泣き声。ぐすり、と誰かが鼻をすする音。その感情に共感したらしい誰かの慰める涙声。元々今日のレイシフトは、必要最低限のスタッフのみで支えることになっていた。それはこれが原因だ。目の前に広がる手の届かない日常、消えてしまった当たり前の世界を見るのは堪えるだろうとロマニが判断したからだった。席を立って彼本来の仕事をこなしていたらしいロマニがやがて[[rb:立体映像 > ホログラム]]の光の中に戻ってくる。沈痛な表情で額を押さえたその姿を見れば状況が芳しくないのは明らかだった。一度決壊したものを修復するにはしばらく時間がかかるだろう。「……ごめん、立香くん。そちらの映像と音は、こちらのスタッフにはちょっとキツいみたいだ。しばらく映像と音声を切るよ。大丈夫、キミのバイタルはきちんとモニターしているし存在証明だけは絶対に揺らがないようダ・ヴィンチちゃんに頼んである。──羽を伸ばしておいで。それで無事に帰ってきてくれ」そう言ってぷつりと[[rb:立体映像 > ホログラム]]は消えてしまった。郷愁を催すものを排除して、スタッフ陣の立て直しとどうしても必要不可欠なタスクの遂行に注力をするということだろう。立香もギルガメッシュも何も言わないまま、立香は作業に戻った。しばしキーを打つ音だけが静かな個室に響く。さほど頭を使わない単純作業というのは人に余計な思考をさせるものだ。立香は悶々と、自分と彼らのおかれた状況について考えていた。常に危険が付きまとうとはいえ、やることがあるというのは幸福なことだ。もし人理修復という手段も目的もなく、ただカルデアに数十名が取り残されていたらと考えると怖ろしい。その時はいったい何が起こっただろう。「お、終わったー! 間に合った!」そうして立香が最後の注文を終えたのはタイムリミットである正午のぎりぎり10分前であった。眠っていたのか瞑想でもしていたのか、腕を組んでわずかに顔を伏せていたギルガメッシュがぱちりと目を開ける。この後は立香の実家へと向かい、そこで荷物を受け取ってカルデアへと転送するだけだ。それで任務は完了になる。配送は14時から16時までを指定したので早めに家に着いておいた方が良いだろう。薬事法がらみでネットでは買えなかった医薬品があるが、駅までの道すがら購入すればよいはずだ。立香の家では、立香の修学旅行に合わせて親たちもきょうだいも今日は外泊しているはずだった。鍵は2016年から持って来ていたものがあるので問題ない。あとはただ、家へ帰ればよいだけだった。 ◆「ところで昼食はどうするのだ」「あっ……」目当ての医薬品を首尾よく手に入れて、近所の人の目につかぬようそっと実家へ滑り込んだのちに、立香は昼食のことをすっかり忘れていたことに気づかされた。気を張っていたせいかここまでまるで空腹も覚えなかったが、気がついてしまうとなかなかに腹がすいている。近くにコンビニはあるが店員とは面識があるので避けたいし、飲食店のある少し離れた大通りまで行くのも面倒だ。つかの間考えこんでキッチンを見渡し、もう一度腹具合と相談をして心を決める。「……作っちゃおうかな」「ふむ。当然[[rb:我 > オレ]]の分もあるのだろうな?」ふたり分となると後でバレないようにするのが難しいが、しかしこの頃の立香の両親は食べ盛りの自分たちきょうだいのために常に簡単に食べられるものを置いておいてくれていたはずだ。旅行中となればその備蓄量も減らされているが、ないではない。ならば多少ちょろまかしてもバレないものはあるはずだ。冷蔵庫と食品かごの中を覗いて、多少減っていても気づかれなさそうなものを探す。かごに入っていたのは二枚ほど残った食パンだ。卵もたくさんストックされているので少しくらいいただいても問題ないだろう。冷凍庫には小分けにしたベーコンがたくさん入っていて、これもひとつやふたつ失敬したところで気づかれそうにない。旅行を前に買い控えたのか、野菜は根菜類しか残っていなかった。ならばベーコンエッグでも作ろうとフライパンを引っ張り出す。コンロに火をつけて、フライパンを炙る。十分に温まったところでベーコンを置けば、じゅうじゅうと空腹に沁みる音とうまそうな香りに涎が湧く。縁がカリリとするまで焼いて引き出した脂で卵を焼くと絶品だ。ごく普通の子供として生きてきた立香は特段料理の心得があったわけではない。だがレイシフト先で野宿を繰り返すうちに簡単な料理の仕方くらいは覚えた。ごく初期の頃に召喚に応じてくれたロビンフッドなどは良き旅の師だったと言える。野外で夜を過ごすときの注意点や野営の仕方、調理の初歩を立香はほとんどロビンから教わった。ふつふつと透明な脂が出てきたところで風味付けのバターをほんの少しだけ入れる。冷蔵庫から取り出した卵はかつんと小さく罅を入れて、ベーコンのすぐ上へ可能な限りそうっと静かに割り入れた。こうすると繊細な卵黄の膜が割れず、火を通してもぐにぐにとした粘っこい食感にならない。つるつるぷりんとした半熟卵を作るためには必須のコツだという。目玉焼きの極意は最近カルデアへ来たエミヤというサーヴァントに教わった。彼は不思議なサーヴァントだ。名前からして日本人ではないかと思うのだがそのような歴史上の人物には誰も心当たりがなく、鋼のように硬質な容貌のわりに家事一切を得意としているらしい。白身がある程度固まってきたら卵の周囲に少しだけ水を投入する。あとは弱火でじっくりと焼くだけだ。蓋をしてもいいが、そうすると黄身に白い膜がかかってしまう。ベーコンに塩気があるので塩は振らない。振る時は、予めベーコンの敷かれていない部分に卵を落とすより先に振っておくのがポイントだ。すると黄身の表面の水分を塩に吸われずに済むため、つやりと美しく仕上げることができる。今のうちに軽く食パンをトーストしておこうと袋の封を開けたところで、のしりと背中に圧を感じた。立香の肩の上で「ん」とわずかに顎をしゃくってみせるのは、恐らく味見に少し寄越せということだろう。ひとかけ千切って彼の口元へと持っていくとかたち良いくちびるに指先をかすめるようにして食いつかれた。もくもくと無言で咀嚼したのちにぽつりとつまらなさそうに感想が返される。「……味がせんな」「そりゃキャスターの時代のと比べちゃ駄目ですよ」レイシフト先での食料事情には大きな波があった。十五世紀のフランスで食べたパンは庶民の味たる黒パン、すなわちライ麦や全粒粉の混ぜられたものが主だったし、時には藁屑や籾殻の入った粗末なものにあたることさえあった。ローマ帝国はネロがいてくれたおかげで比較的豊かな食生活だったが、大航海時代の海賊の食事ときたらそれはそれは凄まじいものであったので描写に耐えない。といっても立香らはドレイクのお蔭で聖杯から無限に湧き出るご馳走の恩恵を受けることができたのだが。対して、産業革命後のロンドンときたら味気ないこと砂のごとしであった。けれどどの時代も、現代で食べるよりもずっと素材の味が濃く感じられたのも事実だ。あるいはそれは時空の旅というスパイスのなせるものだったのかもしれないが。「ウルクのパンはこんなものではないぞ、期待しておけ」「……? それって、カルデアに帰ったら作ってくれるってことですか?」「ハ。[[rb:我 > オレ]]が小間使いに手ずから食事を作ってやるなどあると思うか?」「ですよねー……」ついでにもうひと欠け千切って自分の口に入れてみる。久々に食べた馴染みの銘柄のパンは、気のせいか防腐剤に塗れた化学的な味がするようだった。けれどそれが優しい味だと今は感じる。よく精製された小麦に十分消毒された工場施設、数日放置しても黴が発生することはなく、まずもって食中毒の起こりようもない、清潔で守られた優しい味だ。人類の叡智はここにある。ちぎり跡のあるパンを二枚トースターに入れて、その間にコーヒーを淹れることにする。マグカップの上に据えたインスタントコーヒーのドリッパーへ静かにお湯を注ぐと、しばらく沈黙が落ちた。ぽたたた、とコーヒーのしずくが落ちる音と芳醇な香りがキッチンに満ちる。頃合いを見て、マグカップに落ちた分だけお湯を足した。「キャスターは、王様だったんですよね?」「──どうした。急に」沈黙がこそばゆくてそう水を向けた。ギルガメッシュと個人的な話をしたことはあまりない。もしかしたら、危険な場所でもないのにカルデアとの通信が途絶しているという滅多にない状況がそうさせたのかもしれない。ギルガメッシュはあの燃え盛る冬木の街で召喚に応えてくれて以来、ずっと立香とともに人理修復の旅をしているサーヴァントだ。元よりカルデアは英霊たちが集う場所であるが、その中でもまだ数の少ない玉座に座っていた英雄でもある。玉座とは孤高のものだと聞いた。だから少しだけ、訊いてみたくなったのかもしれない。「王様の責務って大変だったんじゃないですか……? 逃げ出したくなったことなんて、ありませんか」「フン。[[rb:我 > オレ]]に関しては好きでやっていたことだからな」出来上がったコーヒーをギルガメッシュに勧める。くいと片眉を上げた彼は香り高いそれに目を細めたのちふわりと立ち上る湯気に顔を埋め、ひとくち口に含んで──苦味に驚いたように酷い顔をした。立香が笑いをかみ殺しながら牛乳と砂糖とを差し出すと、明確にその意味が察せられたらしいあの紅い瞳できつく睨まれた。だが存外素直に受け取ってコーヒーへと流し込む。おっかなびっくり口をつけ直した彼は、あまくなったコーヒーを満足げに飲み始めた。「……ふむ。悪くない」意外なことに彼は甘党らしい。そういえばマシュの好みなのだとばかり思っていたが、レイシフト中の休憩に供されるのは蜂蜜を落とした紅茶が多かった。少しだけ砂糖を追加し直した彼は機嫌を直した様子で話を継ぐ。「とはいえ、執務の合間に小間使いを連れて息抜きに出たことが無いではない」「王様なのに?」「王であるゆえに、だ。それにこの[[rb:我 > オレ]]は魔術師であるからな」いつもよりもどこか楽しそうに語る彼は、気のせいか幾分優しげな視線を立香に投げている。けれど立香はその意味が分からなくて内心首を傾げた。思い当たるふしは無く、きっと生前の楽しかった記憶なのだろうと推測をする。彼の生前の話を聞いたことなどついぞなかった。もう少し聞いてみたい。不意にトースターがチン、と高い音を立てた。中をのぞけば食パンはうっすらときつね色の焼き色がついて良い具合だ。ベーコンエッグの方も白身はしっとりと固まり、黄身はぷるりとした半熟にとよい具合に仕上がっている。立香は仲の良い相棒のようにくっついたそれをターナーの先でぐりぐりと断ち切って、二枚の食パンの上へと乗せた。軽い昼食の出来上がりだ。ギルガメッシュの横手から皿を差し出すと、彼は質素な食事に文句も言わずそれを頬張った。「ん」と短く反ってきたのは恐らく、悪くないとのことだろう。立香も向かいの椅子に座ってベーコンエッグトーストに噛り付く。とろりと歯型のついた断面から流れ落ちそうなところでかろうじて耐える半熟の卵のまろやかさとベーコンの旨味と塩気が合わさって、手前味噌ながらなかなかの出来だ。先に食べ終わったギルガメッシュからは、褒めてやろうとの言葉を賜った。「それで? 貴様はこの程度でもう満足なのか」「えっ? それはまあ、他にも食べたいものはあったんですけど……」正直なところ、せっかく現代へとレイシフトするのだからカルデアではなかなか食べられないようなものをたらふく食べたいという気持ちがあったのは事実だ。けれど人の多い飲食店などへ出かけては知人に見つかる可能性があるだろう。これはれっきとした任務のひとつ、人理を守る戦いの一環なのである──と立香は少しばかり気を張っている。そんな立香にギルガメッシュは不満顔だ。コーヒーに再度口をつけた彼は、立香に指を突き付けて宣う。「貴様も嫌になったのならばやめればいいのだぞ? どうせ一度滅びた世界だ、あるかなきかの希望が失われたとて誰も恨みはすまいよ」「……でも。もし俺がいなくなったなら、この時代の近辺をシバで探されて」「見つかったとして連れ戻しにはこれまい。貴様以外にマスターはおらんのだからな」「でも」唐突に胸の奥の秘密を荒らされてどきりとする。誰にも言えないし、言うつもりもなかったことだ。人理を修復する旅、最後にして唯一のマスター。その重荷は一般人の立香には重すぎた。けれど他に誰もできないというならば、ひとりででも立ち向かうほかはない。最初は何もわからなかったのですぐにそう決断できた。だが詳しい現状やら何やらが分かってくるにつれて考えは変わる。──いまはひどく怖ろしい。先日のロンドンで出会った、[[rb:魔術王 > グランドキャスター]]ことソロモンの力はあまりに強大に過ぎた。存在するだけで領域を圧し潰す、あの圧倒的な支配力。今度こそ勝つとは言ったものの、とてももう一度あの前に立てそうにはなかった。……本当は、昼食をとりに外へ出なかったのも怖ろしかったからだ。これ以上懐かしい世界を見ていては、自分の決意がどうなってしまうかわからない。あとはもう外に出ず、ここで荷物を受け取ってカルデアへ帰ればよいのだ。そんな立香にギルガメッシュは悪童のような目をして囁く。「姿くらましの魔法くらいは[[rb:我 > オレ]]も心得ておるが?」「……政務からの、脱走用に?」「応とも。口うるさくて目端の効くのがいてな、出し抜いてやるのに大層役に立ったわ」軽口に少し心が軽くなる。このギルガメッシュでさえ時には息抜きを必要としたのだというなら、自分にもその程度は許されるのかもしれない。こっそり玉座から抜け出すために魔法を使う彼を想像するとなんだかおかしくて笑ってしまった。「どうせ奴らは年端もいかぬ貴様に全てを背負わせているのだ、無責任な話よな? 貴様が逃げたとてだれも異論は挟まぬだろう」「そうじゃない……そうじゃないんです。知ってるんです。それに、逃げたところで」つい頷きそうになって慌てて否定をする。カルデアはたった20人足らずに減ってしまったスタッフたちが、みな自分にできることをやって何とか回しているという状況だ。立香もその内のひとりである、ただそれだけにすぎない。この[[rb:聖杯探索 > グランドオーダー]]はもはや誰が欠けても遂行不可能な任務なのだ。自分だけが辛いものを背負わされたわけじゃない。それはわかっている。逃げだしたいわけじゃない。どうせ逃げ場もない。この時空に留まったところで、本来異物である自分には行くところもないし、何よりこれからあとしばらくすれば結局人理焼却の波に飲まれてしまうのだ。それがわかっているから、立香はただ大人しく任務だけをこなそうとしていたのだ。「……食器、片付けますね。座っててください。コーヒー、おかわり要りますか?」「……」ネットカフェから注文した様々な商品は、問題なく14時過ぎに全てが到着した。あとは帰還のための[[rb:円陣 > サークル]]を開いてこの山のような荷物をカルデアへ送り、自分たちも帰るだけである。受け取り時間指定は14時から16時としていたのに、まさかこれほど早く来てしまうなんてとつい考えてしまう。もっとも、遅く来たところでどこへ出掛けられるわけでもないのだけれど。そのような思いが顔に出ていたらしい。煮え切らない立香に苛々とした口調でギルガメッシュが口を開く。「まだ届いていないことにすればよいではないか」「そういうわけには……。早く帰らないと」「どうせカルデアにはこちらの音も映像も届いてはいない。観測されぬ事象は無いも同じことよ」「でもみんな待ち焦がれてるだろうし……やっぱり、帰るよ」そう言って良い子の仮面を外さない立香に、ギルガメッシュはついに我慢の限界が来たらしい。唐突に立香の腕を掴んで立ち上がる。「ええい面倒くさい奴め! [[rb:我 > オレ]]は[[rb:箱庭 > カルデア]]の生活には飽きた! [[rb:我 > オレ]]に貴様の遊び場を[[rb:案内 > あない]]せよ!」「えええええ!?」あまりに突拍子もない命令に、無理やり立ち上がらされた時には辛うじてキープしていたマグをとり落としそうになって、慌てて掴み直した。せっかく何の痕跡も残さずに立ち去ろうとしているのに、ここで床に染みでも作ってしまっては水の泡だ。危なっかしいそれを一旦テーブルにおいてギルガメッシュに向き合う。「でっでも、俺の遊んでたところなんて……」「嫌か。ならば、[[rb:我 > オレ]]をここへ連れて行け。熱湯でできた海などという珍妙なものがあるならば見てみたい」「は? 熱湯でできた海……?」あっさりと要望を切り替えたギルガメッシュが手に持っているのはどこかのサイトを印刷したらしい紙切れだ。どうやら先ほどのネットカフェでパソコンをいじっている間に印刷したものらしい。そう言えばそんな手順を聞かれたような気もする。だが必要物資の購入に必死になっていた立香は彼がどのようなサイトを見ていたかだなんてまるで注意を払っていなかった。さて一体何を見ていたのかと紙切れを受け取り目を通して──「これ[[rb:熱海 > アタミ]]ですね!?!? それはただの地名で……いや温泉はあるんですけど海ではなくて、っていうかなんでこんな」「そしてこれだ。ここへ征く」紙切れにはどうやら二枚目があったらしい。ぺらりと一枚めくられて出てきた文字に立香は絶句した。「秘宝館」凍り付いた立香に気づかぬようにギルガメッシュは話し続ける。己の財宝について語る時、彼はいくらか雄弁になるようだ。「秘宝を集めた館とはなんとも傲慢な名よ。我が蔵に比べれば大したものはないであろうが、どれほどのものがあるか[[rb:我 > オレ]]が見てやろうではないか」「いやっ あのっ それ絶対キャスターが思ってるのと違いますよ!?」「[[rb:我 > オレ]]の眼鏡に適わぬのは分かっている。構わんから早くせよ」「いやそうじゃなくて! そういう宝ではなく! ……もう、わかりましたよ!」俺の遊んでたところに連れて行きます、と言ったとたん顔を息がかかるほどに寄せられ、「二言はないな?」と言われてしまった。仔猫かなにかのように立香の礼装の首根っこをひっつかんで、引きずるように外へと向かう。その強い力には抗えるはずもなかった。[newpage]人目を気にしながらやってきたのは数駅離れたターミナル駅である。何しろギルガメッシュはいるだけで目立つので、立香としては気が気でない。遊び場と言っても高校生だった立香が遊んでいた場所であるから、普通にぶらぶら買い物をするくらいの場所である。カラオケやボーリング、映画館やゲームセンターといった施設も近くにはあったが、さすがにギルガメッシュを連れて行くには憚られた。とはいえ彼の目を楽しませるものなどあるだろうか、と思い悩んでいるとギルガメッシュの方からまずは服を買いたいと要望が出た。彼曰く、いずれ必要になるので夜の都心に出ても問題のないような服を買いたいと言う。なんのことだかさっぱりわからないが、彼は未来視の力もつという古代の英雄だ。もしかしたらまた何か先のことが視えたのかもしれない。彼が必要というからには本当に必要なのだろうとは思うが、しかし百貨店低層階の見るからに高級そうな店に入った瞬間にロマニのカードを奪われてヒヤヒヤした。一体どれほど値の張るものを買う気なのか。まずは吊るしのスーツを幾つか眺めたが、彼のお眼鏡に適うものなどまずその辺にあるはずもない。かといって一からオーダーするには日数がかかる。宥めて宥めて買ったのは、結局のところごくシンプルな三つ揃えだった。しかしシンプルなのはふわりと立体的に縫製された細身の型だけで、妙にてらりとなまめかしい生地なのがどう見てもそちらの世界の住人である。おまけに色が夜の闇のごとく光を弾かない漆黒ときてはどう見ても堅気の装いでない。「やっぱりちょっとおかしいと思うんですけど……」「たわけ、あの店ではこの生地こそ最良であったのだぞ。それに豹の柄は貴様が断固として拒否したではないか」「豹柄も腹出しも勘弁してください」どうやら服飾は彼の好むところであるらしい。スーツに合わせてあれやこれやと際限なく小物に凝るので店から引き剥がすのが大変だった。次いで訪れたのは流行りのソフトクリーム店である。ロマニの言に従ったわけではないが、通りすがりにギルガメッシュがあれは何だと聞くので、そう言えばちょうどこの頃に流行っていたなと立ち寄ってみたのだ。海外のどこかで話題の店の日本上陸一号店だとかで、休日ともなれば長蛇の列ができる店だ。平日の今日は見たこともないほど空いている。生前は贅を尽くしたギルガメッシュといえど、紀元前の中東に氷菓の類は無かったに違いない。ならばその冷たさと甘さに驚くかと思って、立香は軽い気持ちで注文をした。店の売りは旬の果物を大量にトッピングした贅沢さで、今の時期ならば春の名残のイチゴが特にお勧めだという。さらに今一番売れているのは日本限定の和風アレンジメニューだそうだ。ならばその一番人気の黒胡麻ソフトにイチゴ特盛をふたつ、と安易な注文したのが間違いだった。──たっぷりと炭を練り込んだように黒く捩じれた円錐に点々と赤い実の列が並んだその姿は、どう見ても先日辛酸を舐めさせられた魔神柱である。両手にそれを持った立香が店から出てきたのを見たギルガメッシュの顔といったらしばらく忘れられそうになかった。「……貴様、……良い趣味をしているな」「そういうつもりじゃなかったんです」「……よもや、[[rb:我 > オレ]]への嫌がらせか?」「そういうつもりじゃなかったんですってば!」まるで食欲のわかないソフトクリームを舐めながら近くの展望台へと案内をする。どこまでも続くビルの街は美しいとは言い難いが壮観だ。あのひとつひとつに人がいて、こまごまと日常を過ごしているのだと思うとようやく平穏な故郷へ帰ってきたのだという心地がした。──人理焼却など嘘だったのではないかと、ここに至ってさえ信じたくなってしまう。魔術王ソロモンを名乗る男と、つい最近死闘を演じたばかりであるのにだ。隣で眉根を寄せたまま街を眺めるギルガメッシュは何を考えているのか、あまり楽しそうな顔ではない。降り立った時からこのごみごみとした現代はあまり好きでないようであったから、付き添いをお願いすることになって申し訳なかったという気持ちがわいてくる。そういえばレイシフト先でよく見せる興味深げな、楽しげな表情を今日はまだ見ていない。「……すみませんでした」「何がだ」「あまり好きじゃなかったかと思って。この時代は」高い風に豪奢な金の髪を遊ばせながら、ギルガメッシュは遠くを眺めている。彼は眉根を寄せたまま何も言わなかったが、しばらくして囁くように答えた。「貴様が懐かしいと思うものを貶しはすまいよ。……それに、人の作るものはそう悪くはない。こうも地道で精緻な細工は神々の成すところではないからな。さぞ、己の分を一心に果たそうとしたものがいたのであろうよ」ギルガメッシュの言うことは時に難解だ。立香には分からないことも多い。けれどなぜかその言葉はちくりと胸に痛かった。と、急に眉間の皺を深くした彼がカッ! っと振り返って立香に告げる。「だがあのあたりは良くない。羨ましくも木造の家が密集し道幅は狭く、火事でも起これば容易に延焼しよう。数条おきに大通りを作るよう早急に建て直すがよい」「いや俺に言われましても……」「む、そうか……」展望台から降りたところに焼きそばの露店を見つけたのは偶然だった。立香の学校の近くにもよくワゴン車で出張に来ていた店だ。部活を終えての帰宅途中に毎日のように仲間と寄って、育ち盛りの胃を慰めたものである。その香りを嗅ぐと、急にぶわりと胸の奥に懐かしい何かが沸き起こった。鉄板で焼いたソースの匂いがじゅわっと腹の底にまで届く。久しく味わっていない味だ。使いこまれた鉄板に油を引いて、カツカツと小気味よく金属へらを鳴らしながら塗り広げる音がする。肉の焼ける匂いはいつだって蠱惑的だ。じゅうじゅうと豊満な豚肉が熱に踊って、流れ落ちる脂の音と香りが空腹を刺激する。続いて刻んだ人参とキャベツ、生の野菜はカルデアではなかなか手に入らない。瑞々しいキャベツの葉にじゃくりと歯を立てる妄想が脳裏をよぎる。人参は生でかじってさえうっすらと甘いはずだ。しゃきしゃきとしたもやしの瑞々しい食感。こしのあるたっぷりの中華麺。少し水を足して野菜で蓋をして、蒸し焼きにすればふんわりつるつるとした食感になる。そして熱い鉄板で音を立てて焦げるソース。香ばしくて複雑な旨味が胃袋を刺激する──「おい、どうした。何を泣くことがある」「──え。 あ、あれ?」少し驚いたようなギルガメッシュの言葉にむしろ立香こそが驚かされた。泣いている? 何のことかと思ったが確かに頬を伝っているのは涙だった。ちょっとすみません、と理由にならない言葉を置いて涙を拭く。あとからあとから流れ出てくるものは到底とまらなくて、うつむいて歩けなくなってしまった立香を置いてギルガメッシュはすたすたと屋台の方へ行ってしまう。「おい、男。これをひとつ寄越せ」「お客さん、カードはちょっと……」「ん?」屋台にクレジットカードを差し出して店主を困らせているギルガメッシュの元へ慌てて駆け寄り小銭を差し出す。近くの階段に座り込んで、箸をつけた焼きそばは熱くて、噎せるほどに懐かしくて、ぼろぼろとあふれる涙が止まらないほど美味しかった。懐かしい。焼き付くような郷愁に炙られて胸が焦げるほど懐かしかった。一度も言葉にしたことはなかったけれど、ここは立香が帰りたかった世界だ。──ここで生きていきたい。帰りたくない。その欲望を自覚して立香は絶望した。「ただ、最後に無事に戻ってきてくれさえすればいい」。ロマニの言った、それだけが唯一最も難しいことだったのだとようやくにして思い知る。帰りたくない。このこころをねじ伏せて成すべきことを成すことの、なんと難しいことか。身を縛る二律に身動きすら取れなくなった立香の耳に深い声が響く。さりげなく、どこか優しい声だった。この旅の初めから、ずっと立香を見守ってくれていた声だ。「泣くほど美味いか?」「……ふぁい」「どれほど美味い。[[rb:我 > オレ]]にもわかるように語ってみせよ」涙と口に入れたもので返事すらまともにできなかった。咀嚼して飲みこんで、ようやく開いた口で咳払いをして問いに答える。「すごく美味しいです。今まで、食べたことのないくらい、優しくて、美味しくて、力の出る味です。……こんなに美味しいもの、みんなにも……あっ」無意識のうちに出た言葉に胸の痛みが増す。これほどまでに美味しいものを、ともに苦労した皆にも味わってほしい。ごく自然にそう思った。カルデアでの生活はとても順調とは言い難かった。何をするにも苦労の連続だった。あの爆発以来、瓦礫で封鎖されてしまった食糧庫への道が通じるまでの数日間を立香らは備蓄されていた携帯食料で凌いだ。ブロック状に成型された水気のないクッキー状のそれは三日もすれば食べ飽きて、ティーバッグで淹れたお茶が唯一の憩いとなった。とはいえ冬木の街から帰還した立香らを待ち受けていたのは破壊されたカルデアの復旧作業と助けられなかった人たちの遺体安置作業であったから、むしろ味気のない食事で助かったともいえる。あまり生々しいものは受け付けなかっただろう。二回目のレイシフトまで、空いた時間は爆破された個所を修復して活動できる部屋を増やす作業に充てられた。特に給湯システムがやられていたのは致命的で、しばらくは風呂も使えなかった。ダ・ヴィンチちゃんの発案で外の雪を発電システムの冷却水に引き込み、循環させてお湯を沸かすことができるようになるまでは、厨房で沸かしたお湯で身体を拭くくらいしかできなかった。トイレが故障して、ああでもないこうでもないと言いながらカルデアにあるものを駆使して修理をしたこともある。単調な食生活を改善しようとして、研究しかしたことのないような連中が四苦八苦しながら各国の郷土料理を提供し始めたこともあった。今は料理の得意なサーヴァントらも増えて、食生活はずっとマシになっている。どれほどの苦労をカルデアのスタッフらと超えてきたことだろう。生きるということは皆で必死に繋ぐということだった。困難を知恵と努力とで取り除き、開拓をするということだった。美味しいものをみんなと囲みたい。今日の続きの明日がほしい。それを思えば、ひとりこの世界に逃げ延びることなどとてもできなかった。戻る時は、皆と一緒だ。後から後から涙がこぼれ出る。こんなに泣いたのはカルデアへきて、このグランド・オーダーへとなし崩しに巻き込まれて初めてだった。みっともないほどにぼろぼろと泣く立香のことを、ギルガメッシュは見ないふりをしてくれていたらしい。頬杖をついて遠く街を眺めたまま、ずっと待っていてくれた。やがて何とか食べ終わり、涙を拭いてようやく落ち着いた立香に何気ない素振りで尋ねてくれる。「──さて。次はどこへ征く?」「……帰ります。カルデアへ」涙の滲んだ声でようやく絞りだしたその答えを彼は否定しなかった。「よかろう。──[[rb:我 > オレ]]も些か、飽きたところだ」 ◆一度泣くと、随分と頭と胸の奥がすっきりとした。自分でも思ってもないほどに溜め込んでいたようだ。情けないとウルクの王に叱責されるかと思ったがそんなことは一切なかった。これも恐らくは初めてのことだ。もしかすると彼は存外親切なのかもしれない。そんなことを思いながら立香は家路を辿った。両手にはずしりと重たいビニール袋を提げている。詰め込まれているのは途中のスーパーマーケットで買いこんだ食材たちだ。それに問いかけるまなざしを向けたギルガメッシュへ少し羞恥に言い淀みながら答える。「これは、食材です。買い物リストにはなかったんですけど、俺の国の郷土料理っていうか。作り方も面白いし、みんなで作って食べられるものだから。あとは俺からみんなへのお土産とか」「ほう? 郷土料理とな。先ほどの毛束のようなものとは違うものか」「ちょっと違います。もんじゃ焼きっていうんですけど」「も、文者焼きだと……? 貴様顔に似合わぬ残忍なことを……いや、それはただの名前だな? どういったものだ。当然[[rb:我 > オレ]]にも捧げるのだろうな」「もちろん。みんなに作ってもらいますよ」喜んでもらえるだろうか。ひとりでは持ち切れないほどの量を買い込んだけれど、みんなで分けてしまえば屋台の一皿分にも足りないかもしれない。けれど、きっと喜んでもらえるだろう自信が立香にはあった。恐らくほとんどの者がまだ食べたことのないだろう味だ。それにみんなで分け合って食べるならきっとおいしいに違いない。そっと立香の実家に帰り着くと、それからまた[[rb:わが家 > カルデア]]へと帰るための準備を始めた。引っ越し荷物のごとくうずたかく積まれた荷物を避けて、リビングの中央で[[rb:円陣 > サークル]]を展開する。今回はマシュがいないので、ギルガメッシュ頼みだ。片手に本のごとく粘土板を開いた彼が何やら読み上げると、金色に輝く文字がきらきらと足元に流れて円を作る。「……ふむ。……ま、こんなものか? だが急造にしては合格点であろう! 魔術師としての[[rb:我 > オレ]]の手腕、讃えても良い!」「なんかその……大丈夫なんです? 主に『だが』のあたりが気になるんですけど」「問題はない」恐る恐る不敬な問いをした立香にしかしギルガメッシュは怒ることもない。なんだそうだったんだ、と納得したような心地がする。試しに買い込んだ荷物のひとつを[[rb:円陣 > サークル]]に放り込むと、それは淡い光を上げてふっとどこかへ転送されていった。ほんのわずかな時間を置いて、電子音とともにロマニの[[rb:立体映像 > ホログラム]]が現れる。予定より遅くなったせいか、ひどく心配していたような様子だ。「立香くんかい!? あ、あー、聞こえるかな、今から帰るところなんだよね!?」「はい、ドクター。……遅くなりました、これから荷物を送って、それから俺たちもそちらへ戻ります」「わかった、こっちの体制は万全だ。気をつけて戻っておいで!」重たい荷物を次々に[[rb:円陣 > サークル]]へと放り込み、最後に立香の家へ余計な痕跡を残していないか最終確認をする。食器の類はきちんと片付けた。忘れ物もないし、大きく動かした家具もない。きっと誰も、ここへ何者かがやってきたとは気づかないだろう。それを確認して足元の金の[[rb:円陣 > サークル]]を見つめる。見慣れた絨毯の数センチ上を楔形文字に似た魔術文字が二重の円を描いてゆっくりと巡るそれは、非日常へ向けて開いたゲートだ。縁に立ち止まってじっと見下ろした立香にギルガメッシュがそっと眉根を寄せる。戻ればまた戦いの日々が待っている。ほんのわずかでもかつての平穏な日常を味わった後で帰るのは勇気がいるだろうと、実のところギルガメッシュはしばらく待っていてやるつもりでいた。もちろんウルクの王であるギルガメッシュには立香をどこかへ逃がしてやることなどできるはずもないのだが、待ってやることくらいは存分にできるはずである。ごくりと、立香の喉が揺れた。円陣からじっと目を逸らさぬままに立香が薄く震える声を上げる。「……ほんとに大丈夫なんですよね? この円陣……」「貴様心配するのはそこか! ええい不敬な奴め!!」「杖やめてください! だってなんかこれ回ってるし」立香の額5センチ前に開いた金色の波紋から顔を出した魔杖にすかんと小突かれて悲鳴を上げる。立香としてはいつもと違うレイシフトに戸惑っているだけなので、ギルガメッシュが突然怒り出した意味がわからない。一方で疑われたギルガメッシュは尊大に腕を組んで説教の構えだ。「たわけ、そこに意味があるのだ。この[[rb:我 > オレ]]の講釈、ありがたく拝聴せよ。 ……よいか、この二重の円を回転させることによりこちらの時間の流れとあちらの時間の流れの位相を合わせたまま同期させることに成功した。中央の図形が回転することによる面積変化を利用して、魔力エネルギーを回転動力に変換しているのだ。この機構が新しいゆえ[[rb:回転円陣 > ロータリーエンジン]]と名付けようと思う」「それなんか別のものじゃないですか?」「まあ行け、たとえ時空が多少ズレようとあとで[[rb:我 > オレ]]が『拾って』やろう」「やっぱり不安になるんですけど……」言いながら円陣の中へと足を踏み入れると、ずるりと泥に沈むような感触がして立香は円陣の中へと飲み込まれた。軽い浮遊感のあとに襲ってきたのはいつものレイシフトの感覚だ。螺旋を描く青い光の中、吹き飛ばされるように路を進んで──放り出される。「……くん、立香くん!」「先輩! 起きてください先輩!」聞きなれた誰かの呼び声に目を開く。ほっとした顔でコフィンを覗き込むのはドクター・ロマニだ。解錠され、コフィンの上に身を起こすとその目にうっすら水の膜がかかっているのが見える。隣には安心したようなマシュの姿もあった。「よく帰ってきてくれた」そう言うロマニの後ろから肩を抱くように現れたのはダ・ヴィンチちゃんだ。にやにやしながら立香におかえりと声をかけ、ロマニの胸に拳の背を入れるとドンッといい音がする。「ロマニは君が帰ってきてくれなかったらどうしようって泣いてたんだよ、自分が言い出したくせに」「ダ・ヴィンチちゃん!!!」慌てて叫ぶロマニの様子を見ればそれは嘘ではなかったようだ。楽しげな掛け合いに思わず頬が緩む。なんて[[rb:懐かしい > ・・・・]]のだろうか、それを見ていると自分の選択を後悔する気にはならなかった。「それにしてもたくさん買い込んだねえ。予定より多いんじゃないかい? ……もしかして、それで遅くなったのかい?」立香が送った荷物は全て管制室の隅にまとめて積んであった。大型の業務用段ボールが並ぶ中にまるまるとしたスーパーのレジ袋はいかにも場違いで、気になったらしい。口で説明するより早いかと立香はレジ袋を開けて、その一番上に潰れないよう収めたものを取り出す。「ええ! せっかくだから、みんなにお土産を買ってきたんです。ドクターにもお土産がありますよ。ほら、みたらし団子! 他のスタッフの人たちの分も!」透明パックに入った大量のみたらし団子を頭上に掲げてやると、ロマニが一瞬ぽかんとした顔をしたのちに今度こそ顔を覆って泣き出してしまった。「キミってやつは……!」「えっ泣くほど嬉しかったの!?」立香が帰ってきたことにか物資が補給されたことにか、うれしそうな顔をしたスタッフたちがどやどやと管制室に入ってくる。それにもみくちゃにされながら、立香はもうひとりの旅人の姿が見えないことに気づいた。「あれ、キャスター……」「先輩、ギルガメッシュさんなら先にお部屋へ戻られましたよ」「そう? そっか」いつも[[rb:我 > オレ]]に感謝せよと言っている割には、ありがとうと言おうと思ったときにはその姿はない。やはり不思議なひとだった。あとで彼の自室を訪ねて、叶うことならば改めて礼を言おうと立香は思う。実は彼にもこっそり「お土産」を買ってあった。はちみつをたっぷりと使ったパウンドケーキは彼の好みに合うだろうか。──そして願わくは、もう少し彼の休暇の話が聞けると良いのだけれど。/難易度A++の休日・完