第8話「引き剥がす」
静かな夜だった。いや、そもそも一人暮らしを始めてから、静かな夜が続いている。実家で暮らしていた頃は、二階の自分の部屋にいても下からテレビを見る家族の笑い声が響いて来たものだ。今はそれがない。そして幸いなことに、このアパートの住人はみなマナーが良い人ばかりなようで、やかましく騒ぎ立てることもない。そう、後は自分が黙っているだけで、静かなる夜が完成するのだ。そして静かなる夜というのは、取り留めもない思考するのには打って付けである。
俺は今日、長年追い求めて来た女の子と再会し、お互いに思い合っていたことを知って歓喜した。俺は神の御利益なんてロクに信じていないが、その時ばかりは「おお神よ」などと思ってしまった。だがしかし、やはり神は甘くなかった。有頂天に上り詰めた俺は、あろうことかその女の子にフラれてしまったのだ。まさに天国から地獄。神様はとことん持ち上げて、勢い良く落とすスタイルがお好きなのだろうか。見事にしてやられた。そして俺は、為すすべなくこうやってしょぼいアパートのしょぼい六畳間に敷いたしょぼい布団で寝転がっている。
「はあ……」
ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、今の俺は既に人生最大の幸福を逃したばかり。後は野となれ山となれ。煮るなり焼くなりして美味しく食べて欲しい。だが、こんな腐れ野郎の俺を食してくれる危篤な奴はいないだろう。ていうか、そんな俺の思考がヤバ過ぎる。
「マジでへこんでいるな……」
胸がじくりと痛む。人はいくらでも眠れる。取り分け、苦痛に苛まれた時、それから逃れるために睡眠機能が働く。つまり、このまま行けば俺は眠ってしまう。だから電気を消すべきなのだが、部屋の明かりを消してしまうと本当にそのまま深い闇に落ちてしまいそうで、情けなくもためらってしまう。暗いのが怖いとか小学生か。かと言って、このまま電気を付けっぱなしにしていると、またぞろそのまま眠ってしまい、中途半端な睡眠によって良いこと全くなしのロクでもない結果を迎えることになってしまう。完全に手詰まりの状態だった。
その時、ふいにテーブルの上で俺のケータイがブインブインと暴れ出した。
「……んだよ」
そのまま無視しようかと思ったが、しつこく暴れ続けるので電源を切るためにケータイを手に取った。すると、ディスプレイに千夏の名前が表示されていた。俺は通話ボタンをプッシュする。
「もしもし……」
『出るのが遅い! 彼女からの電話は三秒以内に取りなさいよ!』
開口一番、千夏は叫んだ。俺は耳がキーンとなった。
「悪い、ちょっと寝転がって寝そうになっていたんだ」
『ったく、相変わらずだらしないんだから。もっとシャキッとしなさいよね』
「悪い……」
『何で謝ってばかりいんのよ』
「悪い……」
指摘されながらも、バカみたいに同じ言葉を繰り返してしまう。俺の頭はこんなにも出来が悪かっただろうか。
『……あんたさ、今日あの性悪女の所に行ったんでしょ?』
ふいに剣先によって喉元を突かれたようで、俺は動揺してしまう。
「な……何で分かったんだ?」
『バカ。あんたの様子を見ていれば分かるわよ。あの性悪女が休んでいるって聞いて、明らかに動揺してソワソワしていたじゃない』
「それは……」
『……まあ良いわ。これ以上は何も聞かない』
千夏は言う。
「ありがとう……そうだ、何か用事があって電話して来たんじゃないのか?」
俺はふと思い至り、問いかける。
『ううん、用事なんてないわ。ただあんたの声を聞きたかっただけだから』
「へっ……?」
『何よ、呆けた声出しちゃって。嬉しくないの?』
「いや、何て言うか……むしろ驚いて」
『あっそう……まあ、そういう訳だから、もう切るわね。あんたも眠たそうだし』
「お、おう。そっか。悪いな気を遣ってもらって」
『別に、気にすることじゃないわ。……じゃあ、おやすみ』
「あ、ああ。おやすみ」
通話を終えると、俺はケータイを手に持ったまま宙をぼんやりと見つめていた。
千夏は良い女だ。見た目だけでなく、性格も良い。ストレート過ぎる物言いが玉にきずだが、それさえも長所であり、つまりは素晴らしい女なのだ。そんな彼女を、俺は大事にしなければならない。
「……そうだよな」
俺は呟き、口元で笑みを浮かべた。
◇
良く晴れた空の下で頬張るパンは美味い。合間に飲むお茶もまた美味である。
「悪いな、今日も買って来てもらっちゃって」
俺は隣に座っている千夏に言った。
「別に構わないわ。それにあんたはボケっとしているから、熾烈な購買戦争で勝てる訳がないし」
「はは、この学園はお上品さがウリだけど、購買戦争は普通に勃発するからな。おっしゃる通り、俺なんて呆気なく敗北者になっちまうだろうよ。その点、お前はマジで強そうだよな」
「ええ、そうね。上級生相手だろうと手加減はしないわ」
「お前、本当に怖い物知らずだな」
「当たり前でしょ。ビビっていたら、何も出来やしないわ」
そう言って、千夏は手に持っていたパンをひとかじりする。
「……そうだよな。千夏の言う通りだ」
俺が呟くと、千夏は眉をひそめた。
「なあ、千夏。話があるんだけど、良いか?」
「嫌だって言ったら?」
「……きちんと聞いて欲しい」
俺は声のトーンを落とし、重々しく言った。千夏はそんな俺を、鋭い視線で見つめていた。情けなくもたじろいでしまうが、ここまで来たら止まる訳にはいかない。
「千夏、俺と別れてくれ」
誤魔化しても仕方がない。俺は今の自分の正直な気持ちを伝えた。
「……もしかして、あんたが好きだっていう子が見つかったの?」
「ああ、見つかったよ」
俺が答えると、千夏は目を丸くした。
「本当に? もしかして、この学園の生徒?」
「そうだよ」
「誰なの?」
「お前もよく知っている奴だよ」
「何よ、もったい付けないで教えなさいよ」
目を尖らせて千夏が言う。俺は数拍間を置いて、口を開いた。
「……昴だ」
まるで図った様に風が凪ぎ、沈黙が舞い降りた。
千夏はその青みがかった瞳を、目一杯開いていた。
「冗談でしょ……?」
「ああ。冗談みたいな、本当の話だよ」
千夏はあんぐりと口を開けている。
「……あんた、何で今まで気が付かなかったの?」
「あいつ、仮面を付けていたから」
「仮面?」
俺はこくりと頷く。千夏はそれ以上追及しなかった。
「……千夏。改めて言うけど、俺と別れてくれ」
苦虫を噛み潰すような思いだった。自分に好意を寄せて、そばに寄り添ってくれる女の子に別れを告げることがこんなにも辛いことだなんて知らなかった。しかも、こんな風に都合よく別れを切り出して。確かに彼女は好きな子が見つかるまで付き合ってと言ったが、だからと言ってその甘い条件に全面的に寄りかかって良い訳はない。仮にも男として、それなりにけじめをつけなければならない。
「ムカツクよな、俺のこと。良いぜ、思い切り殴ってくれ。いや、殴って下さい」
俺は地べたに座ったまま、深々と頭を下げた。
「あんた……」
千夏が声を発すると、俺はビクリと肩を震わせた。
「……やっぱりMなの?」
「は?」
「いや、だって自分から殴ってくれとか。ていうか、殴って下さいとか。とんだM野郎じゃない」
「いやいや、違うんだ。俺は決してそんなつもりで言った訳じゃない!」
俺は両手を振り、慌てて否定をした。
「じゃあ、どういうつもりで言ったの?」
「それは、男としてけじめをつけるためっていうか……」
俺は口ごもってしまう。
「そう、男としてけじめを付けたいんだ。だったら……」
千夏の目が鋭く光る。俺は殴られることを覚悟し、目をぎゅっと閉じた。
直後、顎をぐいと持ち上げられる。
「……だったらそんなしょげた顔していないで、好きな子にきちんと思いを伝えなさい」
その真っ直ぐな瞳が、言葉が、俺に突き刺さった。
「千夏……」
「何よ?」
「お前、やっぱり良い女だな」
「はあ? いちいち当たり前のこと言わないでくれる?」
「だよな、悪い」
俺は自然と笑みをこぼした。それから、おもむろに空を見上げる。
ここまで来たら、やるしかない。確かな決意を胸に抱いていた。
◇
放課後になると、静まり返っていた学園内がにわかに活気づく。部活動に行く者、友達と連れだって遊びに行く者、あるいは真面目に勉強会を開く者。そんな生徒達の喧騒を脇目に俺は一人廊下を歩いて行く。やがて突き当りにたどり着くと、そこには今の俺の居場所である言研の部屋がある。その扉の前に立つと、軽く息を吐いた。意を決して扉を開く。
「やあ、柳田くん。来たね」
そこにはいつも通り、我らが言研の長である昴がいた。相変わらず椅子に腰かけて佇む様は凛としており、学園の女子達から「スバル様」と呼ばれるのも納得が行く。
「もう体調は大丈夫なのか?」
「ああ、おかげ様でね」
昴は微笑んで言う。その隣には麻帆里が座っていた。いつもなら「やっほー、ミッキー」なんて気軽に声をかけてくるが、今日はその目でじっと俺を見つめているだけだ。あどけないようでいて、その瞳でしっかりと物事の真実を見つめてきたんだろう。分かっている、そんな風に見つめなくても。俺がやるべきことはもう決まっているんだ。
「どうした、柳田くん? そんな風に突っ立ってないで、椅子に掛けたまえ」
「そうだな」
俺は昴に促されて、素直に座った。そして、彼女を見つめた。
「……しかし、本当に出来の良い仮面だな」
強者に挑む際、不意の先手必勝は有効な一手となり得る。堂々と挑むことなんてない。こっちから勝負を吹っかけて、相手が戦闘モードに入る前に押し切ってしまえば良い。
「それだけ出来の良い仮面を作るのに、お前はどれだけの苦労を重ねて来たんだろうな? 想像するだけで、ゾッとしちゃうぜ」
「……君は、いきなり何を言っているんだい?」
昴は微笑みながら聞き返してくる。
「とぼけるなよ。昨日、お前が話してくれたことじゃないか。まさか普段賢ぶって偉そうな態度を取っておきながら、実は昨日の自分の発言も思い出せないくらいに残念なおつむの持ち主なのか?」
「はは、どうした柳田くん? 今日は君の分際でやたら歯向かって来るじゃないか」
「当たり前だろ。俺は今日、決着を付けるためにここに来たんだ」
「決着って、何のことだい?」
「恋の決着だ」
俺が言い放つと、昴は一度目を丸くし、それから大仰に笑った。
「あははは! おいおい柳田くん、来て早々、君は何を口走っているんだい?」
「青臭いとでも言いたいのか?」
「ああ、臭いね。君の汗よりもよっぽど臭い。鼻がへし折れてしまいそうだ」
「そうか、そりゃ良かった。俺はお前の鼻っ柱をへし折りたいからな」
俺はにやりと口の端を上げて笑って見せる。
「……なるほど。私は今、君にケンカを売られている訳だね?」
「ようやく気が付いたか。お前にしちゃ察しが悪いな」
「いや、君程度の男がまさかこの私に挑んで来るなんて思ってもみなかったからね」
昴は指先でテーブルをトンと叩く。
「柳田くん、一つだけ忠告しておこう。今なら君がまたぞろアホなことを口走ったということで見逃してやろう。春の陽気に煽られてついつい調子に乗ってしまったと」
「俺は至って冷静で、真面目だぜ」
「君は愚かだな。私の好意を無下にするなんて」
「そうだな、俺は愚かだ。まあ、お前ほどじゃないけどな」
またしても不敵な笑みを浮かべる俺を見て、昴はため息を吐いた。
「そうか、分かった……じゃあ、君を本気でいたぶっても良いということなんだな?」
「良いぜ。まあ、そんなこと言って返り討ちに遭っても知らねえけどな」
「ふふ、今日の君はいつにもまして生意気で可愛いね。可愛くて、可愛くて……捻り潰してやりたいよ」
瞬間、室内の空気がピンと張りつめたような感覚を得た。目の前の昴は先ほどまでと変わらぬ姿勢で佇んでいる。しかし、その背後からただならぬオーラが発せられているようで、俺は思わず息を呑んだ。ダメだ、怯むな。向かって行くんだ。
「……ていうか、昴よ。お前は仮面を作り、それを身に付けているとか言ったけどさ。それって痛々しくないか。まるで中二病みたいでさ」
「中二病とは何だい?」
「は? そんなことも知らないのか? 賢い昴のくせに」
「生憎、そんな低俗な言葉なんて知らないからね」
「いや、その物言いからして絶対に知っているだろ? それをわざわざ隠すとか、実は隠れオタクだったりするのか?」
「残念ながらそういった趣味嗜好はなくてね。しかし、私は自らの見聞を広めるためにも、種々雑多な知識も仕入れておきたい。ここは一つ、その中二病という言葉に関してご教授願えないだろうか。柳田先生」
「せ、先生?」
俺はうっかり素っ頓狂な声を上げてしまう。
「ああ、柳田先生。さあ、その中二病という言葉の意味を教えてくれないか?」
いかん、思わず毛躓いてしまった。だが、このまますってんころりんと転ぶ訳にはいかない。
「はあ、仕方ないな。そこまで言うなら教えてやるよ。中二病ってのはな、マンガやアニメ、小説などに出て来る主人公を初めとしたカッコイイ存在になりきっちゃうことだよ」
「ふむ。つまり、演技をするということか?」
「その通り。まさに、今のお前のことだな」
俺はさりげに良いパンチを放ったと思った。しかし、昴は一切動じた素振りを見せない。俺はそんな彼女を見て、逆に心が乱れてしまう。
「ま、まあ、簡単に説明するとそんな感じだ。賢いお前なら、もう理解出来ただろ?」
俺は軽く鼻を鳴らして問いかける。
「いや、すまない。まだ理解が十分じゃないんだ。だから、もっと分かりやすく説明してくれ」
「は?」
「物事を説明する時は一般的な概略だけでなく、本人の実体験を下に説明すればより分かりやすくなるはずだ」
「何が言いたいんだ……?」
俺はかすかに声が震えた。
「つまり、君が中二病にかかったエピソードを聞かせてくれと言っているんだ」
そう言って、昴は口元に不敵な微笑を浮かべた。
「……いや、俺はそんなものにかかったことねえから」
「本当かい?」
ずい、と昴がテーブルに身を乗り出して来る。俺は少しだけ身を引いた。
「本当に、君は中二病にかかったことがないのかい?」
昴の瞳が逃げ惑う俺の瞳を追いかけて来る。まるで心臓を鷲掴みにされているようなプレッシャーを感じた。
「君は今この場において、私の先生だ。先生が嘘を吐いても良いのかな? そんなことでは、先生失格じゃないのか?」
「別に、俺は自ら望んで先生になった訳じゃねえよ」
「そんなこと言いつつ、さっきは随分と得意げに胸を張り、私に講釈を垂れてくれたじゃないか。えぇ、柳田先生?」
「うっ……」
「さあ、教えてくれよ。私は知りたいんだよ、君のことが。さあ、早く」
囁くような声で昴は言う。それは荒ぶる怒声よりも、有無を言わさぬ迫力に満ちていた。
「……中学生の頃に、一度だけ」
「うん?」
「一度だけ、無敵のヒーローになり切ったことがある」
俺が恥ずかしい過去を吐露した直後、昴が露骨に顔を歪めて身を引いた。
「うわ、ごめん。冗談で聞いたつもりだったのに、まさか本当にそんな過去があったなんて。いやはや、私としたことが気遣いが足りなかったようだ。しかし、君も大概気持ち悪いことで私に不快感を与えたからおあいこってことにしれくれよな」
昴は猛烈な早口でまくし立てる。それが無性にムカついた。
「うるせえよ! 確かに気持ち悪いかもしれないけど、その訳を聞いてくれ!」
「嫌だ、私は聞きたくない。他人様の黒歴史を聞いて喜ぶほど性格歪んでいないから勘弁してくれたまえ」
「良いから聞けって!」
俺が怒鳴ると、昴は肩をすくめた。
「分かった、分かったよ。哀れな君の話を聞いてあげよう。さあ、必死に考えた言い訳を今ここで並べたまえ。私はそれらをドミノの要領で倒してやろう」
「お前本当に減らず口だな。逆に感心するぜ」
俺は大きくため息を吐く。
「……昔、俺はお前をいじめっ子達から助けただろ? 可憐な女の子を悪い奴らから救い、その上結婚の約束までした。そんな自分は実は選ばれたヒーローなんじゃないかって、ふと思ったんだ。それで舞い上がって……む、無敵のヒーローになりきったんだ……」
訥々と自らの恥ずかしい過去を吐露する俺を、昴はあくまでも冷ややかな視線で見ていた。
「なるほどね……こんなことを言うのは何だけど、実におぞましいな。どこかの赤川くん風に言うならば、キモ……って感じだ」
いくら賢しく生意気な仮面を付けているとはいえ、相手は自分が心底惚れ、長年思って来た女の子だ。そんな彼女からキモなんて言われたら、俺の精神が大きく揺らいでしまう。現に激しいショックを受けて俺は倒壊寸前のアパートもかくやという風体だった。
「……さて、茶番もこの辺りで潮時かな。柳田くん、君のチャレンジ精神は買うがこの私にケンカを売るなんて百年早いよ。来世になったら出直してくると良い。まあもっとも、君のような愚かな人間は来世でも人間になれる保証はないがな。アリンコ辺りにでもなれば気ままな生活を送れるんじゃないか?」
立て板に水の如く喋る昴の言葉が、虚しく耳を通過して行く。空っぽになった胸に虚しく反響するばかりである。
「ふう、ようやく終わったな。すまないね、麻帆里。見苦しい所を見せてしまって」
「スバルン……」
麻帆里はどこか悲しげな瞳で、昴を見つめた。
「さてと、じゃあ気晴らしに飲み物でも買いに行こうかな」
そう言って、昴が椅子から立ち上がった直後、突如として扉が開け放たれた。
「――どこに行くつもりよ、性悪女」
その場にいた全員の視線を一手に集めたのは、千夏だった。彼女はその青みがかった瞳で昴を睨んでいる。
「おやおや誰かと思えば、愚かな柳田くんの彼女である赤川くんではないか。どうしたんだい、そんなに勢い切って。愛しの彼氏に会いにでも来たのかい?」
微笑みながら昴が声をかける。
「言っておくけど、あたしと幹男は別れたから」
「おや、そうなのかい?」
昴は目を丸くした。
「ええ。幹男から別れを切り出して、あたしがそれを了承した。今日の昼休みのことよ」
「何と、それでは君達は別れたてホヤホヤのカップルという訳か」
「だから、カップルじゃないって言ってんでしょ」
「しかし愚かだね、柳田くん。確かに赤川くんは粗暴な女だが、その見た目とスタイルの良さはこの私もミジンコ程度には認めている。君のように冴えない男にはそれなりにもったいない相手だと思うが。なぜフッたんだい?」
昴は顔だけこちらに向けて言う。その向こう側で、千夏が俺に対して頷いていた。
「……お前は賢ぶっているくせに、本当にバカだな」
俺はおもむろに椅子から立ち上がる。
「何だって?」
「そんなの、お前が好きだからに決まってんだろ」
それまでにこやかに微笑んでいた昴の表情に、わずかながら亀裂が生じたように見えた。
「……そうか、ありがとう。私も君のことが好きだよ。実にいたぶりがいのある男だからね。下僕として、君ほど最適な男はいないよ」
「俺は一人の女として、お前のことが好きだって言ってるんだ」
椅子から立ち上がって俺が言うと、それまで饒舌だった昴は口をつぐんだ。
「あんた、いい加減素直になりなさいよ」
千夏が言った。
「本当は幹男のことが好きでたまらないんでしょ? だったら、素直にそう言いなさいよ」
すると、昴は肩をすくめた。
「……これは参ったねぇ。愚かなコンビに挟み撃ちにされてしまったよ。そうやってまた私を打ち負かすつもりかい? 言っておくけど、この程度のことで私は揺るがないからね。何たって、私は華麗な強者なのだから」
昴は前髪を掻き上げ、誇らしげに言う。
「確かにお前は強者だ。でも、ずっと強者でいることって疲れないか? それが作り上げたものなら、尚更。俺ならそんな面倒くさいこと到底出来ないね」
「それは君が救いがたいほどに怠惰な奴だからだろう? 生憎、私は名家・高良家の跡継ぎなものでね。君のようにダラダラと毎日を過ごすことが出来ないんだ」
「まあ、そうだな。正直、俺ってこんなに怠惰な奴だったのかって自分で思う時も多々あるよ。けどさ、たまにはそんな風に過ごすのも悪くないぜ? 一緒に怠惰な時を過ごさないか?」
「はは、冗談はよしてくれよ。私の貴重な時間を、君のような男と怠惰に過ごすために使えだと? 良いかい、怠惰ってのはかの七大罪に上げられるほど大きな罪なんだ。生憎、私はそんな悪党になるつもりはないんでね」
「いや、あんたも大概悪党でしょ。ていうか、マジで性悪だし」
千夏が露骨に片頬を歪めて言う。
「ふっ、君に言われたくないな。人の好きな男を奪う奴に……」
言いかけて、昴はハッと目を見開く。その時、俺は千夏と視線がばちりと合った。そして、互いに頷く。仮面を被った昴がボロを出した。ここが攻め所だ。
「そうよ、あたしも嫌な女よ。だって、あんたの大好きな幹男をほんの一時だけど奪ったんだから。あんたと幹男の関係を知ったのはついさっきだけど、あんたが幹男に対して特別な感情を抱いていることは何となく察していたから、私はそれを知った上で幹男とコンビを組んで、そしてイチャつきもした。ごめんなさいね、嫌な女で」
千夏にしては珍しく、ねちっこく嫌味ったらしい物言いだった。
「幹男ってば、デートしている時ずっとあたしの胸を見ていたのよ。おかげで、ちょっとうずうずしちゃった。その点、あんたの胸はストンと真っ平だから見られる心配もないわね」
昴が小さく唇を噛み締めた。
「……赤川くんの分際で、随分なことを言ってくれるじゃないか」
「あら、怒っちゃった? ごめんなさいね」
「別に私は怒ってなどいないよ」
昴はあくまでも澄ました顔でいる。
「ふぅん、あっそう。ちなみに、あたしは幹男とキスをしたから」
瞬間、昴の眉がぴくりと跳ねた。
「……へ、へえ。そうなんだ。まあ、思春期のおめでたいカップルなら当然、そういった行為に走るだろうね。うん、ごく自然なことだ」
「あんた、やっぱり怒っているでしょ?」
千夏が少し意地悪く尋ねると、昴は満面の笑みを浮かべた。
「いや、私は全然怒っていないよ」
「そう、私はめちゃくちゃ怒っているけどね」
瞬間、千夏が鋭く目を尖らせた。昴は軽く身じろぎする。
「あんたは好きな相手から好きだと言われて、それを受け入れないでいる。変なプライドか何かに邪魔されて。それがすごいムカツク。あたしだって幹男のことが好きなのに、結ばれたくても結ばれなくて……あんたのその余裕ぶちかましている感じがムカツクのよ!」
「私は別に余裕などかましていない。余裕なんてありはしない。今の自分を保つことで精一杯だ。だから……彼と結ばれることは出来ない」
「だったらそんな仮初の自分なんてとっとと捨てちゃえば良いじゃない。そして、好きな人の胸に飛び込めば良いでしょ!」
「簡単に言うな。君に私の何が分かるって言うんだ……!」
昴は俯き、その拳をぎゅっと握り締めた。
「あんたねえ……」
続けて言葉を放とうとする千夏を、俺は手で制した。
「……なあ、昴」
俺が呼びかけると、昴は顔を上げた。
「こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど……俺、お前がその仮面を外したがらない気持ち、分かるんだ」
「え……?」
「お前、怖いって言っていたもんな。本来臆病者のお前が、名家の跡取りとなるために必死で作り上げたその華麗な強者の仮面。今更それを取るなんて、中々出来ないよな。それに、もしお前がその仮面を外した所で、俺はお前を守ってやれるかどうか、正直自信がない。無知だったガキの頃と違って、今は少しだけ賢しくなって、自分のちっぽけさを痛感しているからな。本当に、情けない話だけど」
昴は黙って俺の言葉に耳を傾けている。
「でもさ、俺もいつまでも情けない自分のままでいるつもりはない。いっぱい勉強して、色々なことを知って、そして強くなりたいと思っている。強くなって行きたいと思っている」
俺はそこで改めて、昴を見つめた。
「昴、今はその仮面を外さなくても良い。俺がいつか強くなって、お前を守れるようになった時に外してくれれば良いよ」
「……っ」
一瞬、昴の瞳が揺れた。
「だからこんなケンカはもうおしまいにしよう。俺から仕掛けておいてなんだけどさ」
俺は乾いた苦笑を漏らす。
「…………嫌だ」
ふいに、昴が震える声を漏らした。
「昴?」
俺は首を傾げる。
「……君が強くなるまで待つなんて、嫌だ」
俺はその言葉を聞いて、暗にフラれてしまったのだと思い、にわかに絶望へと突き落とされそうになる。
だがその直後、途端に駆け出した昴が俺に抱き付いて来た。
「うおっ……昴?」
昴は俺の胸に顔をうずめていた。
「……嫌だ、君が強くなるまで待つなんて、嫌だ」
「そっか……そうだよな」
「……だから、私も一緒に強くなる」
「え?」
俺は戸惑った。次の瞬間、昴が顔を上げた。
「私は……私は幹男くんと一緒に強くなる! だって、ずっと一緒にいたいから。ずっとそばにいたいから。だから……」
固い仮面はいつの間にか剥がれ落ちていた。
大粒の涙を流すその可憐な顔は、間違いなく俺が惚れた女、高良昴の素顔だった。
そんな彼女が愛おしくて、俺は思わず抱き締めていた。
「……幹男くん、好き。大好きなの……」
涙に濡れたその顔はぐちゃぐちゃになっていて、でもそれがまたたまらなく愛おしい。
「俺も、昴のことが大好きだよ」
優しい声で囁き、俺は涙を流し続ける彼女を抱き締めていた。
強く、強く。二度と手放さないように。