ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 よもやそんな言葉が出るとは。ついさっき、俺を連れ込み旅館(死語)に文字通り連れ込もうとしていた里美さんの口から。誘いを断ったから愛想を尽かされた? それともやっぱり俺、彼氏失格? 同じ考えばかりが頭の中をぐるぐる旋回して、どうしたらいいのかてんでわからず立ち尽くしてしまう。「桜田君のことを嫌いになったとか、そういうのじゃないし、桜田君はなにも悪くないよ」 フォローなんだろうか。びっくりしすぎて涙も声も出ない俺に対しての。「ごめんなさい」 そんな、謝られたら決定的じゃんか!「理由、聞いてもいいですか」 俺ののどからやっと声が出た。かすれていて、小さくて、自分のじゃないみたいだ。 里美さんは、うん、とうなずいた。「話さないといけないね」 俺の目をじっと見る。俺は視線を伏せたくなるのをこらえて、真相が語られるのを待ったのだった。 翌日のバイトは、木下さんとシフトが重なっていた。よりによってこんなときに。「さっくらだー! はーわーゆー?」 俺はI'm fineともthank youとも言いたい心境ではなかった。しかし木下さんは、and you? なんて聞き返さなくても一目瞭然なほど元気いっぱいだ。マジうっとうしい。けど……ありがたかった。俺の傷心に気づかないで能天気に接してくることが。 いや。 なんか、変だ。おかしい。「そんな接近しないでも! 俺の耳は遠くないんで!」 始業前のロッカールームで、やたらくっついてくる。コバンザメかよ。蓋にはりついた焼売かよ。火を通しすぎて金網からはがれない餅かよ。焼くの失敗してフライパンにこびりついた餃子かよ! うざすぎる。俺が早く出勤してきたせいで室内にはほかに誰もいなかったのだが、感傷に浸る隙はみごとになさそうだった。 昨日の情報は上書き更新していない。俺は、彼女と手を取り合ってめくるめく大人の花園へ飛びこんで、ラブラブでアツアツな交際をしていることになっているはずだ。じゃあなんで、こんなにべたべたしてくるんだ? ほらやっぱりこの人、単に馴れ馴れしすぎてフレンドリーすぎるだけなんですってば、里美さん。 昨晩里美さんからもたらされた真相は、恐るべきものだった。 以前、友達と一緒にうちの店に来たことがあるという。 俺の姿を遠くから発見して、里美さんは予期せぬ再会におどろいた。そのようすに、友達が「知り合い?」と尋ねた。「あ、同じ高校で」「へー。そうだったんだあ。まさかカレシじゃないよねえ」「なんでよ?」「だってあの子、このお店の男の人とアヤシイ関係だもん」「そーそ、さすがに売場じゃ堂々といちゃついてないけどさー、あれはただならない雰囲気だよねえ明らかに」 友人たちは俺のことを、そっち系だと信じて疑わなかったとか。なんということだ。「高校んときはどうだった? やっぱそんな雰囲気じゃなかった?」「えっ、よく知らないよー」 とっさにごまかしてはみたものの。そういえば、高校生のときも俺の押しはきわめてすこぶる弱かった。もしや、本当は俺は女の子に興味がないのではないだろうか、当時は無理してつきあっていたのではないかと、そんな疑念が頭をもたげたのだそうで。事実を追及すべく俺に近づいたという次第だったというのである。 そうだよな。おかしいと思った。 どこぞのエロゲでもあるまいし俺みたいに平凡でしがない冴えない人間が、いきなり彼女にしてほしいって申し込まれるなんて、違和感に気づくべきだったんだ。「俺は男に興味ありませんっ。内股気味の可愛い女の子がいいんです。それに! 木下さんだって、俺のことそんなふうに見ているわけじゃないですし! もしそうだったら、もっと隠れてこそこそとべたべたしてくるはずでしょう!」 俺は当然、強く強く訴えた。あの人の開けっぴろげすぎる性格のせいで、知らないところであらぬ誤解を受けてんのか! ああもう。 そこではたと、ある可能性が脳裏に浮かんだ。「ま、まさか、その友達に俺の調査結果を報告するとか、じゃないですよね?」「え、や、そんなことしないよう。純粋にあたしの単独プレイですよ。あのね、本当にごめんね?」 いいですよ、と俺は手を振った。真に受けてひとり相撲していた俺が馬鹿だっただけだ。里美さんが語を継いだ。「別れるとか、ふったふられたとか、そういうのじゃないんだよ。桜田君の経歴はまっさらで真っ白ですよ。ご心配なく」 はなからそういう関係ですらなかったってことか。闇に葬られるべき黒歴史ってことか。俺はがっくりしてしまった。ほんのひと月にも満たないお付き合いをカウントして歴史に残すよりは、最初からなかったほうが俺の経歴に傷がつかないっていう配慮だろうか。俺の彼女いない歴二十年という記録の塗り替えは、かなわぬ儚い夢だった。「勝手に舞い上がった俺が悪いってわかってます。でも……。正直言って、俺はなかったことにしたくないです」 こないだレイさんの車の中で涼平に言われたことを思い出した。木下さんとどんな関係になりたいのかって質問されて、人とのかかわりに将来の展望なんてあるんだろうかと不思議だった。でも里美さんとは、こうなりたいっていう願望があったんだ。それを教えてくれた唯一の人が彼女だった。「ありがと。やさしいね」 里美さんは少し笑った。ちがう、別にやさしさじゃなくて、わがままで言っているだけだ。だって、里美さんを困らせてしまうから。腕を組まれたぐらいの清い接触しかなくて、そんなの世間的には彼氏彼女って呼ばれないのはわかってる、けど。「でも、あたしは彼女失格だからね。それに……これはいやがらせなんだよ、木下さんへの。意地悪なの」「へ?」「木下さんが彼女を作れって言ったんでしょ? それには乗ってあげないよってこと。あたしだって、気前よくどうぞどうぞって笑顔で譲ってあげるほどお人よしじゃないんだから。あたしだって……」 里美さんがなにを譲渡するのかは知らないけど、そんなことより。「俺への疑惑は、きっちり晴れたんでしょうね? ちゃんと、友達にも言っておいてくださいよね」 俺が念を押すと、里美さんはおちゃめな顔して「ん?」と小首をかしげ肩をすくめてとぼけてみせた。あたかも、「暴れん坊将軍」のラストシーンで爺から見合い話を持ちかけられて逃げる吉宗のよーに。「ちょっ、ほんと、頼みますよー」 まったく、冗談好きなんだからー! 妖怪おばりよんか子泣きじじいのように背中に張りついている木下さんが重い。苦労してロッカーの扉を閉めながら、せっせと頭の中で受け答えのシミュレーションをした。「昨日言いましたよね? 彼女とうまくやってるって。だからくっつかないでください」 と言ったとしよう、「あれー? ひょっとして俺のこと意識してんのー? やっだーもう」 とか返されそうな気がする。あ。じゃあ、彼女と終わりましたってカムアウトしたら、木下さんはすんなり解放してくれるんだろうか。一筋縄じゃいかなそうだけど。「よそでうわさになってるらしいですよ? 社会的地位にかかわるから控えたほうがいいですよ」 なんて大人の余裕をかましながら諭してみようか。「だってお前には彼女がいるんだから関係ねーじゃん」 などと一蹴されて終わるかな。そうだ、木下さん自身が言ってた。俺の二十歳の誕生日祝いのとき。ふたりで出かけたって誰もデートだと思わないだろって。うんうん、わかってんじゃん、変な妄想する人のほうが特殊なんだ。よかった。いやよくない。この案もボツか。 はあ。 里美さんの言うように、彼氏彼女の関係は反故になりました白紙です、と教えたらそれは木下さんに意地悪することになるんだろうか。さっぱり意味不明なんだけど。 俺は木下さんのほうを見ずに、ほとんどつぶやきに近い小声を吐き出した。「もし……」「ん?」 木下さんは聞き漏らさず、顔をさらに寄せてきた。地獄耳もはなはだしい。しかたなく先を続けた。「俺が彼女と別れたら、木下さんはがっかりしますか」 口にしたら思いがけず胸がきゅうっと締めつけられて、俺は唇を噛んだ。自分で傷口にすりこんでどーする。ブット・ジョロキア(辛さ世界一の唐辛子)並みの刺激物を。 木下さんの力が緩んだ。「なんかあったのか?」「た、たとえばの話です、もしも。仮に。if。ただ聞いてみただけです」 問われてあわてて取りつくろった。だって彼女と「別れた」ってのは事実と相違するわけで。「だって木下さんが付き合うように言ってくれたから、その、えっと、期待を裏切ったら甲斐性ないっつーか申し訳ないっつーか」 うう、木下さんにダメージを与えるどころじゃねーじゃんか。俺ばかりライフが激減してね? 自傷の傾向があったのかよ俺は。ここは一時退却だ。「じゃっ、お先に」 そそくさと部屋を出ようとしたら「まあ待てよ」 腕をつかまれ、くいっとひっぱられる。勢いがついて真正面から木下さんにぶつかり、「ぐげえ」と踏んづけられた蛙みたいな声を上げてしまった。なんと風情も情緒もない。捕捉ってか抱擁される格好になってしまったのに。 げ。ほ、抱擁?! 現状を把握したとたん、俺の心臓がやかましく32ビートを打ち始めた。俺と木下さんは身長にそう差がないから、胸の高さも同じくらいだ。鼓動の速さがばれそうで、俺は全身を硬くして及び腰になった。ひえー。なんでこんなことに! 木下さんにイケズをしようと一瞬でもたくらんだバチなのか?「俺、聞きすぎた?」 木下さんの唇が俺の耳もとに位置している。そこからささやかれる声が、雨粒みたいに鼓膜にぽつりと落ちた。「お前と彼女のこと、詮索しすぎた? じゃまだったの?」 俺は無言で首を振った。いつだって木下さんの取り調べを鬱陶しく感じていたはずなのに、ここでうっかり否定してしまった。 やさしくて低くて甘い、酔いそうな声が、痛い。しゃべれないほどの痛みが、俺の精神の装甲をえぐって溶かそうとする。虫歯と同じだ。蝕まれるからムシバっていうんだぞ。 たしかに、里美さんの存在を知って以来、木下さんは事あるごとに里美さんとうまくやっているかと質してきた。今日はこれからデートか? 昨日は? なにした? どこへ行った? なに食べた? どうだった? メールは? 電話は? 反芻しているうちに、里美さんと過ごした時間の記憶が俺の心になだれこんできた。う、またもや差しこみが……。持病のシャクってやつか?「俺が彼女と別れろって言ったら、お前、別れんの? らぶらぶなんだから、ちがうだろ。ちがうんだから、そんなこと言う必要ないだろ? な。俺のこと、そこまで気にしなくていんだから。ちゃんと自分の選択をすりゃいんだから」 ぽんぽんと俺の背中を軽くたたく。赤ちゃんをあやすみたいに。そしたら力がふわんと抜けて、無意識のうちにくたんと木下さんにもたれてしまった。瞬間、木下さんの体温と香りが密着する。 でも、あごが木下さんの肩に当たったはずみで俺は我に返った。泡を食ってがばりと離れたら、顔をまともにのぞきこまれた。「なんでそんな泣きそうなの」「わかりません」 誰が原因だ。里美さん? それとも木下さん? 木下さんはいつもの調子できししと笑った。「サトミちゃんとうまくいってて、幸せすぎて泣けちゃう? いーねいーね。めでたいねー」「ひやかしですかそれは。離れてくださいよってば」 再びぺったりくっついて俺の頭を撫でまわしてくるのを、がんばって振り払う。暑苦しいったらない。 なのになんで、さっきはほんの一瞬でも、体を委ねちゃったんだろ。きっとヒットポイントが下がって精神が弱ってるせいで負けたんだ。不可抗力だ。弾幕の薄い左舷だ、なにやってんの。 ああ毒だ。猛毒だ。体に悪いよあんなハグ。ご両親のこと言えないだろ木下さん。この一家はほんとにフグだ。フグのハグだなんて下手な洒落ははやめなしゃれ、と自分にツッコミたい。