ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 蜂蜜の夢2017年5月9日 17:16「いっ……」 たい、と続きそうになった言葉は、どうにか飲み込んだ。鋭い痛みの走った左の人差し指。爪の白い部分が、ネイルベッドを僅かに巻き込んで、ほとんど剥がれてしまっている。今朝から爪の端に小さなひびが入っていて、たまに違和感を覚えてはいたのだけれど、どうやらカーディガンの繊維に引っかかってしまったらしい。深爪のようになってしまった指の先に、しぶとく残った爪がぷらぷら揺れている。「どうしたの玲ちゃん、指切っちゃった?」「何!?それは大変だ泉!!すぐに手当を!!」 隣からかけられた夏目くんの声に答えるより早く、ばたーん!と研究室の扉が開き、脱脂綿やらシャーレやらを持った由井さんが飛び出してきた。反射的に身を引いてしまうのは許してほしい。キラキラと輝く瞳から隠すように、胸元で握った左手を右手で覆う。別にこんな、すぐにゴミ箱に捨ててしまうような爪なんて、守る価値もないのだけれど。「なんで孝太郎さん今の聞こえたんですか。怖すぎでしょ」「彼女に関する発言を聞き漏らすわけがないだろう。さぁ泉、早く手当しないと書類やデスクにも血が」 自分の発言にはっとしたように、由井さんは素早く私のデスクに視線を走らせる。あいにく血がたくさん出たわけではないので、お目当てであろう染みはどこにもない。残念そうに眉尻を下げた表情に、なんだか脱力してしまう。 いつも物理的に由井さんを止めてくれる青山さんと、フォローを入れつつ私を逃してくれる今大路さんは、抱えているヤマの情報収集で外出中。さらに鶴の一声を放ってくれる大輔さんは、今朝からずっと会議会議そして会議。夏目くんはといえば、仕事の手は完全に止まっているくせに、微妙な笑顔を浮かべて傍観者の体だ。「あの、別に切ったわけでは。血も出てないですし」「じゃあその手は何?見せてみて」「いや……ちょっと爪が、アレなだけで」「アレとは?」「えーと……」 うろうろと視線を彷徨わせてみても、自力で由井さんから逃げられるようなスキルは持ち合わせていなかった。早々に観念して、謎の期待に満ちた両目の元へ、そっと指先を差し出す。「……痛そうだな」「へっ」 思ったよりもずっとまともなリアクションをされてしまった。由井さんの背後からひょいと私の手元を覗き込んだ夏目くんの眉間にも、薄く皺が寄る。「うわ、ほんとだ。地味に痛いやつ」「あまり深く剥がれていなくてよかった。この爪は…切ってしまおう」「孝太郎さんは爪が欲しいだけでしょ」「もうほとんど取れかかっているじゃないか。このままにしていても邪魔なだけだ」 無駄に恭しく私の手を捧げ持った由井さんは、どこからか取り出したミニばさみを爪に沿わせると、失礼、と一言告げてぱちりと刃を閉じた。指先から零れ落ちた爪の欠片を危なげなくキャッチし、密封パックに入れると、実に手際よく絆創膏を巻いてくれる。そうしてうきうきと楽しそうな白衣の背中は、再び研究室に消えていった。「あれはしばらく出てこないね」 呆れたように笑った夏目くんに、そうだね、と頷いてみせる。ただ爪を切るだけでこれだけ大騒ぎできるのは、世界広しと言えども由井さんくらいだろう。果たしてあのタンパク質の塊にどれだけの価値があるのか、私にはちょっとわからないけれども。 さて、とひとつ息を吐き、モニターに向き直る。今日は定時で帰れそうなのだ。遊んでいる暇はない。でもさぁ、と間延びした声を零した夏目くんに、んー?と相槌だけを返す。「勿体無いよね。玲ちゃん、手はそこそこ綺麗なのに」「……褒めるフリして貶してるよね?」「アハハ、まさか。ちゃんと褒めてるよ」「どうかなぁ……」 ぱちぱちとキーボードを叩きながら、夏目くん曰く、ちゃんと褒めてもらえた両手を見下ろす。傷痕こそ無いけれど、特別色白なわけでもなく、指が細いとか長いとかでもなく、ごくごく平均的な女性の手だ、たぶん。それでもよく見ると、小さなささくれや、爪の脇の角質化が気になってくる。そういえば最近、忙しさにかまけて、ハンドクリームさえまともに塗っていないことを思い出した。[newpage] まずはハンドソープで綺麗に手を洗い、水分を拭き取ったあと、手の甲にスクラブを乗せる。反対側の指の腹を使い、くるくると、優しく円を描くように。 パッケージに書かれた使い方を忠実に守り、肌に指を滑らせる。目に見えてわかるものではないけれど、きっとこれで角質ケアができているんだろう。これくらいで十分かなと手を止めて、ジェルをしっかり洗い流す。次はたっぷりの化粧水で保湿を。水分補給ができたら、最後にハンドクリームでマッサージだ。 以前渡部さんがおみやげにと渡してくれた、肌に潤いを与えると謳うハンドクリームを、しっかり温めながら手のひらに伸ばしていく。乾燥しがちなフランス製ということもあり、保湿保水力抜群で、ネイルケアにも使える優れ物だ。香りも良いし、なんだか肌理が整ったような気がしてくる。甘皮ケアもできれば百点だったけれど、ついさっきからドライヤーの音が聞こえてきているので、そっちはまたの機会に。時間があれば、プロにお任せするのもいいかもしれない。 丁寧にクリームを塗り込んでいると、やっぱり気になるのは、今日不格好になってしまった左手の人差し指。だいぶ短くなった爪が、少し恥ずかしい。他の指も仕事に支障の出ない長さにしているから、すごく目立つというわけではないけれど。爪って、どれくらいで伸びるものだっただろうか。 左手を目の高さまで持ち上げて、ううん、と唸る。あとで爪を早く伸ばす方法を調べよう。そう決意していると、ドライヤーの音がふつりと途切れた。少し間があいて、リビングの扉が開く。お風呂上がりの空気をまとった大輔さんが、まっすぐ冷蔵庫へ向かい、缶ビールを二本持ってきてくれた。ぽすりと隣に座った彼の重みで、ソファの座面が少し傾く。差し出された缶を受け取ろうとしたけれど、まだハンドクリームが馴染みきっていない。「ごめんなさい、まだちょっと、手がべたべたしてて」「べたべた?」 私の言葉尻を繰り返しながら、大輔さんは不思議そうに首を傾げたけれど、テーブルの上のハンドクリームを見て納得したらしい。ビールを置き、代わりにそのチューブを手に取る。書かれているのはフランス語だ。もの珍しげにパッケージを眺める大輔さんの姿に、つい笑みが零れる。「それ、前に渡部さんから頂いたんです」「……渡部から?」「はい。フランスのおみやげで、すごく優秀で…、ほら、香りも」 言いながら、大輔さんの顔をぱたぱたと手で扇いでみせる。ハンドクリームとしては少し強めの香りだけれど、香水の類をつけない私にはちょうどいい。どうですか?と首を傾げると、空いていた大輔さんの右手が、私の左手をつかまえた。手のひらを合わせて、きゅっと握り込む。驚きつつ、条件反射のように握り返すと、出来上がった形は、恋人つなぎである。「……爪、どうしたんだ?」 はっとした。指が跳ねる。 まじまじと見られてしまうと、恥ずかしさと、行き先のわからない罪悪感みたいなものが湧いてくる。できればあまり注目してほしくない。けれど心配してくれているであろうその問いかけを、無視することもできない。「ちょっと、引っかけちゃって」「少し深いな。痛くないか?」「平気です」「…そうか」 今のは、安心半分、疑い半分の、そうか。もう大して痛くないのは本当だけれど、もやもやした気分が晴れないのは事実で、きっとそれが声やら表情やらに出てしまっている。 別に、こんなのは、取るに足らない出来事なのだ。最近ハンドケアをサボっていて、爪のひびを放置していたら、見事に割れてしまった。ひびに気づいた時点で、やすりがけでもして整えるなり、マニキュアで補強するなりしておけばよかったものを、忙しさに追われて睡眠を優先した私が悪い。自分の女子力の低下に、少し落ち込んだ、それだけのこと。 たったそれだけのことで、自分に自信のない私の心は、こんな女に大輔さんの傍にいる資格は云々だとか、どう考えても釣り合っていないだとか、どんどんネガティブ思考に陥ってしまって。大輔さんが私を大切にしてくれていることを知っているからこそ、未だにそんな風に考えてしまう自分が嫌になる。 じめじめとへこんでいるくらいなら巻き返せばいい。そう思ってのスペシャルハンドケアだ。珍しく夏目くんが褒めてくれた(と受け取ることにした、言い回しは気になるけれど)この手を、大輔さんが気に入ってくれている可能性もある。良い香りのハンドクリームに気分も上向いて、隣には大好きな彼がいて。それに、爪なんてすぐに伸びる。 それにしたって、あまり、じっくりと見てほしいものではないのだけれど。居心地の悪さに膝を擦り合わせる。そろそろ、解放してもらえると、嬉しい。けれど、お風呂上がりのしっとりした彼の手から伝わる体温は離し難くて、言葉にも、行動にもできない。「……小さい手だな」「え」「ほら」 指をほどいた大輔さんが、ぴたり、手と手を合わせる。ぴんと伸ばした私の指先は、彼の第一関節にも及ばない。手をつなぐたび、頭を撫でてくれるたび、肌に触れられるたび、大きな手だなぁとぼんやり思ってはいたけれど、こんなに差があるなんて。「それに、綺麗だ」「えっ」 するりと奪われた指先に、やわらかな唇が落ちる。軽く触れるだけの静かなキス。顔を伏せたまま、上目遣いで私を見上げる大輔さん。 爪の先から灯された熱が、顔にのぼる。きっと耳まで赤い。自由な右手で目を覆う。ああ、とても良い香りが。「隠さないで」 右手もやんわりと奪われる。目の前にはとろりと優しい大輔さんの笑顔。「……ちゃんと、見せて」 少し掠れた声が、空気を震わせた。吐息が混ざる。大輔さんはずるい。隠そうとしていたわけじゃない。こんな些細なこと、と投げ捨ててしまおうとしていただけだ。割れて剥がれた爪の欠片と一緒に、ゴミ箱へ。──あぁ、でも、あの爪は、マッドサイエンティスト先輩に持ち去られたんだった。ピンクの髪が脳裏をちらつく。余計なことを思い出してしまった。ふるふる、小さく頭を振ると、玲?と名前を呼ばれる。「…嫌だった?」 キスのことだ。慌ててもっと大きく首を振る。「あの、違うんですごめんなさい、ちょっと昼間のことを思い出して」「うん?」「その……爪、割れちゃっただけで、それは本当に大したことないんですけど……その爪、由井さん、何に使うんだろうって」 何って、研究でしかありえないのだけれど。思い当たる節がいくつも浮かぶであろう大輔さんは、あぁ…、と苦く笑う。いつもお騒がせしてすみません。私の顔にも渋い笑みが浮かんでいることだろう。「まぁ、きっと、君の身を守るのに役立つはずだから」「はい、それはもう、承知しています」「良い子だね」 よしよしと頭を撫でられる。良い子。大人になってからは、あまり縁のない褒め言葉だ。今日はどうしたんだろう、すごく、甘やかされているような。視線がくすぐったい。大輔さんの指先が、髪を滑り、耳殻に触れ、頬を包む。その手にそっと自分の手を重ねる。目と目が合う。甘い顔。「……大輔さん」「好きだよ、玲」 ちゅ、と触れるだけのキス。すぐに離れてしまった唇を追いかける。大輔さんが少し驚いたように、でも嬉しそうに笑う。「可愛い」 ぎゅっと抱き締めて、キスをくれる。首に腕を回したら、あとはもう、彼のことだけ考えていればいい。私の様子から、きっと何かを察して、全部知りたいと言いながら、無理に暴こうとはしない。優しい人。大好きな人。 今日はめいっぱい、甘えてしまおう。 テーブルに放置された、缶ビールとハンドクリーム。片付けるのは、明日になりそうだ。