真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)石室の両側に羨道を持つ特異な構造だったはずの円墳

貝吹山から南に延びる尾根の先端に築かれた真弓鑵子塚古墳 (撮影 2012/05/06)

平成20年2月9日の雪の日に開催された現地説明会に長蛇の列

真弓鑵子塚古墳の所在地
 弓鑵子塚古墳は、明日香村大字真弓に所在する6世紀後半頃の古墳である。標高210mの貝吹山から南に伸びる尾根の端の瘤状の地形を利用して作られている。さらに、周囲の棚田に囲われるような位置にあるので、一目で古墳とわかる。 近鉄吉野線の「飛鳥」駅の近くから真弓峠を越えて越智へ抜ける県道がすぐ脇を通っているのだが、標識がないのでどれが古墳か分からない。

 子塚の鑵子(かんす)とは、青銅や真鍮などで作られた湯沸かしのこと。鑵子塚とはその形状が湯沸かしに似ていることから漬けられた小山の名前だろうか。近くの高取町与楽には与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)古墳があり、御所市柏原には掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳がある。

 弓鑵子塚古墳にアクセスする遊歩道が整備されている。上記の県道が真弓丘陵の峠にかかるあたりに、毎週土曜日の午前中だけ開かれる「あすか峠の朝市」があるが、その横から鑵子塚古墳と牽牛子塚(けんごしづか)古墳へアクセスできる遊歩道が築かれている。その遊歩道をたどっていくと、途中で道は二股に分かれ、左へ下っていく道を降りてゆけば、鑵子塚古墳の標識と案内板が置かれている場所に出る。

遊歩道の途中にある鑵子塚古墳方面の標識鑵子塚古墳近くの標識と案内板

 弓鑵子塚古墳は、6世紀後半に造られたと推定されている直径23m、高さ5mほどの円墳である。昭和37年(1962)に、末永雅雄氏を中心とした後期古墳研究会によって石室の実測調査が行われた。調査は石室内を埋め尽くしていた土砂を搬出して行われ、石室の規模が判明した。当時のデータによると、玄室は長さが6.33m、幅が4.23m、高さが4.8mだった。興味深いことに羨道(せんどう)が2つあり、北側の羨道は幅1.92m、高さ2.35m、長さ3.9m、南側の羨道は幅2.26m、高さ2.28m、長さは現長で約5mで、各羨道は玄室に対して片袖式の構造になっていた。

古墳の近くに置かれた真弓鑵子塚古墳の案内板
 らに、玄室の東壁は直線に築かれていたが、西側の壁は約2m張り出しており、壁面は巨石を7段積み上げているが、3段目以降は急激な持ち送り(穹窿式)となっており、天井部分は3石が架構されていることが明らかになった。石室からは金銅製装飾金具や金銅製馬具の一部が見つかっている。凝灰岩の破片なども見つかっていて、家型石棺が安置されていたと考えられている。当時の調査報告の要旨をまとめた案内板が古墳近くに立てられた標識の横に置かれている。

 日香村教育委員会は、真弓鑵子塚古墳の国史跡指定を目指して、平成19年度に初めて本格的に発掘調査を実施し、平成20年(2008)2月7日には、以下の内容の調査結果をマスコミに発表した。

●出土土器から、真弓鑵子塚古墳の築造時期は6世紀半ばで、墳丘は直径約40mの円墳、石室の床面積は約28平米と判明した。石室の規模はこの時期としては最大規模で、渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の墓との見方が有力である。
●石室北側には、長さ約4m、幅約2mの奥室が設けられていた。石室内には奥室を含め、2つの石棺と1つの木棺が納められていたとみられる。
●渡来系の特徴とされる非実用的なミニチュア土器も出土した。

発掘を伝える朝日新聞朝刊
 日の新聞各紙は、地元の奈良新聞はもちろん、全国紙の朝日・毎日・読売・産経も、この教育委員会の記者発表の内容を大々的に伝えた。NHKテレビも、7日夕方の全国放送ニュースで鑵子塚古墳の石室が石舞台古墳より大きかったことを伝えた。朝日新聞は、炊飯器をかたどったミニチュア土器が見つかったことから、渡来系氏族の東漢氏の墓ではと推察される和田萃・京都教育大学名誉教授のコメントと当時の最高権力者・蘇我稲目を被葬者の候補にあげた京都橘大学の猪熊兼勝教授のコメントを併記して伝えていた。

 者発表では、その他にもさまざまな情報が提供されたにもかかわらず、いずれの新聞各紙もTVも、石室の巨大さを際だたせてセンセーショナルに報じた。上述のように、石室の規模の規模は45年前の調査で判明していて、なにも今更大げさに騒ぎ立てるほどのニュースバリューはない。それに、玄室の床面積だけで石室の規模を云々するのは理に合わない。ちなみに、玄室の床面積は見瀬丸山古墳では約34平米、真弓鑵子塚古墳では28平米、石舞台古墳では約26平米であり、国内最大規模とは言いがたい。

 のマスコミ報道を見て、おやっと思った。鑵子塚古墳のトピックスは二つの羡道を持つその特にな構造にある。横穴式石室に羨道が二つも築かれているのは非常に珍しく、古くから注目されていた。大正2年(1913)8月に奈良県史跡調査会が発掘したとき、石室が南北の両口で開いていることがすでに確認されている。 昭和37年(1962)に後期古墳研究会が墳丘や石室を調査したときも、上記のように北と南の羨道を実測している。

鑵子塚古墳の内部。奥に明かりが見える
 10年ほど前、なんの予備知識もなしにこの古墳を探訪したことがある。古墳の前に立つと、頂へ続く細い道があった。周囲に人影がなく異様な静けさがあたりに漂っているので少し不気味だったが、登ってみることにした。道の途中に小さな石室への入口が口を開けている。かがみ込んで奥の除くと、不思議なことに奥の方が明るい。石室を覆っていた封土が亡くなって、積み石の間から光りが漏れているぐらいにしか思わなかったが、石室の中に入って驚いた。内部は石舞台古墳よりひろびろとした感じで、しかも石壁の上部は自然石がアーチ状に積まれている。さらに、光が漏れていると思った箇所は反対側の羨道だった。つまり、この古墳の石室は南と北にそれぞれ羨道が作られていたのだ。特異な構造としか言いようがない。

 対側の羨道を通って地上に出ながら、この特異な石室の意味を考えた。石室は死者の住む空間であり、死霊がそこから迷い出て生きている人間に悪さをされては困る。横穴式石室の場合、死者を納めた棺を玄室に搬入するために羨道は必要だ。だが、いったん納棺を済ませれば羨道の入口を塞いでしまったはずである。こうして死霊を閉じこめてしまい、入口を再び開けるのは何かの事情で別の死者を追葬するとき以外はなかった。たとえ追葬の可能性があったとしても、羨道を二つも作っておく必要はない。この墳墓の被葬者は、定期的に親類縁者が棺の周りに集まって霊を供養することを遺言として残したのであろうか。大勢の人間が玄室の中で一定の時間を過ごすには換気が必要だ。必然的に吸気口と排気口を設けることを考えなければならない。

「あすか峠の朝市」の手前から並ぶ見学者たちの列

 地説明会は、平成20年(2008)2月9日、つまり記者発表の2日後に行われた。その日の奈良県地方の天気予報は雪、最高気温も摂氏3度程度で、この冬一番の寒さになるという。午前9時頃から明日香地方は曇りから雪になるという予報が、見事に当たった。10時頃には民家の屋根が白くなり、11時頃には本降りになった。

新聞に掲載された石室内部(南から北を見る)

 者は2つの羨道がどうなっているのか確認したくて、現地説明会に参加することにした。この雪の降り方では、本日は現地見学会に出かけて来る考古学ファンも少ないに違いないと思って、11時半頃飛鳥駅を降りたって、現地へ向かった。

 ころが、近鉄電車の踏切を渡り、真弓丘陵の上り坂を半分ほど進んだところで、道路脇に一列に並ぶ人の群れが目に入ってきた。それが、雪をおして出かけてきた見学者の最後尾だった。古墳は丘陵の頂上から先のブッシュの中にあり、まだ700mほど先である。見学者の隊列を整理しているボランティアに聞いてみたら、一度に石室内に入れる人数を20人ほどに制限しているため、長蛇の列ができたという。どれくらいの時間で古墳までたどり着けるだろうかと聞くと、2時間から3時間は覚悟しなければならないでしょうと、平然と答えた。マスコミの威力をまざまざと感じさせられた一瞬である。

古墳に到達する手前でも長蛇の列
 室内は以前に見たことがあるので、今回は諦めることにした。見学者のいずれの顔も寒さと疲労で疲れた表情をしている。少しでも歩いているのなら、この寒さも耐えられるだろうが、雪が降り積もる中で棒立ちしているのは辛い。誰もが並んだまま無口である。中には、かなり年配の婦人の姿もある。寒さでトイレも近くなっているはずなのに・・・と人ごとながら心配になった。見たところ、簡易トイレが設置されているようにも見えない。黙りこくって列をなす人々の上に、雪は容赦なく降り注いでいた。見学の順番を待つ行列が、見ようによっては、被葬者の葬儀で焼香の順番を待つ弔問客のようにも思えた。

古墳の平面図
 方がないので、いったんアパートに戻り、橿考研付属博物館の情報コーナーに出向いた。情報コーナーで受け付けの女性がマスコミ各紙の考古学関連の記事を丹念に切り抜いておいてくれる。2月8日付けの新聞には真弓鑵子塚古墳の平面図が掲載されていた。それを見ると、北の羨道と考えられていた場所が、何故か奥室に変わっていた。だが、奥室の壁に積まれた石積みの高さは1.5mで、その上が地上へ抜ける空間になっている。奥室ならこのような空間を設ける必要がないはずだが、奥室と解釈した根拠は何も記されていなかった。

 ヶ月後に、真弓鑵子塚古墳を訪れた。現地見学会の喧噪などなかったように、古墳を周囲は静まり帰っていた。古墳の墳丘にはブルーシートが掛けられ人影はなかった。明日香村は隣町の橿原市や桜井市と共同で村内の史跡を世界文化遺産に登録する運動を進めている。リストに掲載された明日香村内の史跡は20カ所にのぼるが,その中には真弓鑵子塚古墳は含まれていない。二つの羨道を持つ特異な古墳であるのに、なぜかその特異性を無視し、単に国の史跡の指定を受けるために発掘調査を実施したようだ。場所は民有地なので、国の史跡に指定されれば、文化庁で土地を買い上げてくれるかもしれないが、その後とうするのかは聞こえてこない。

現地説明会から一ヶ月後の真弓鑵子塚古墳

 日香教育委員会は、発掘調査で出土した遺物を明日香村埋蔵文化財展示室で速報として展示している。現地説明会から2週間後にこの展示室を訪れると、ガラスケースに真弓鑵子塚古墳からの出土品がすでに展示されていた。

明日香村埋蔵文化財展示室に
展示されている真弓鑵子塚古墳出土品

 日香村教育委員会は、今回の発掘調査で陶棺片、土師器、須恵器、銀象嵌刀飾具、玉類、金銅製装飾金具、金銅製馬具、鉄鏃、鉄釘、凝灰岩片などが見つかったと発表しており、展示されていたのはそれらの出土品である。

 が、この古墳は盗掘にあっていて、めぼしいものはほとんど無くなっている。昭和37年(1962)の調査では金銅製装飾金具や金銅製馬具の一部、家型石棺の凝灰岩の一部などが出土しただけだと報告されている。だが、今回の展示品の中に獣面を模った金銅製装飾金具があった。前回出土したの金銅製装飾金具とは別に今回新たに獣面金銅製装飾金具したのか、それとも展示されているのは前回出土したものなのかなど、いろいろ質問してみたが、職員の説明は要領を得なかった。