日本でも有数のホテル、その客室。いずれ巨大な犯罪組織になるパンドラの、いまは小さな幹部が揃っていた。足となるカタストロフィ号は港に置いて、ホテルに潜伏している。伊号の脳を拾ってからはテレポートゲートで各国と行き来することができるようになるが、それはまだ先の話だ。この時分はカタストロフィ号は暮らすための家であり、長距離の飛行能力を持っていない者のための足でもあった。オークションのために来日したコッホのひまわりを狙うというのは表向きの理由、本当はここに彼らのボスがいるからだ。彼らのボスの顔を見に来たのだ。
フロントから電話が鳴る。三人はいぶかしんだ。この潜伏先を知っているのは仲間しかいない。しかし、ルームサービスの朝食が届けられて間もない。この時間に電話とは?
マッスルはまだ浴室から出てきていない。真木は組織をまとめる役割を与えられているが、ここではまだ子供として扱われる年齢を脱していない。フロントに怪しまれないように、マッスルに保護者役を偽装してもらった。
紅葉は目線で「真木ちゃんが出て」と訴える。スクランブルエッグをすくって口に運ぶのに忙しいらしい。真木とて葉に食事を与えてやらなければならないので手は空いていないのだが、彼女は頑として譲らない。やむなく真木が電話を取った。
「どちらさん?」
「やあ真木」
「少佐。あんたから電話なんて珍しいな」
電話の相手は彼らのボスだった。彼はいつになく上機嫌な様子である。真木は年下の弟の口にご飯を突っ込みながら電話を続ける。
「電話じゃないと伝えられなくてね」
「なんだ?」
「例の件の取引の品物を受け取るのを忘れてた。代わりに受け取っておいてくれ」
「別にいいけど。あんたが自分でやれよな、それくらい」
「僕はしばらくそっちを留守にするからさ」
「しばらくってどれくらいかかるんだ?」
嫌な予感がした。兵部はしばしば監獄を留守にする。姉である蕾見不二子が眠りに着き、安心してからというもの、監獄で大人しくしてくれるということがない。折角、会いに来たのに、留守にされては形無しだ。
「三か月くらいかな」
「場所は」
「アフリカ」
「なんで、そんなとこにいるんだよ」
「エスパー収容所に捕まる必要があるんだ。事情があってね」
「まさか」
監獄に暮らす兵部を想像する。
兵部は真木とは違う。集団生活には恐ろしく不向きな男だ。それが、他の囚人と同じような部屋を宛がわれて、食事にも事欠くような暮らしに甘んじていたとしたら、ぞっとする。食堂で配給を並んで待ち、縫製の確かでない衣服を身にまとい、この電話も順番を待ってかけていたとしたらと想像すると居ても立っても居られなかった。
頭を振り、嫌な想像を振り払う。
「なにとっ捕まってんだよ。不自由させられてないだろうな。まさか、他の連中と同じような場所で生活してるんじゃないだろうな?」
「僕が入るのなら特別監獄に決まってんじゃん。プール付きだぜ。この電話だって所長に頼んで回線引かせたんだ。ちょっと僕が脅かしてやれば簡単に済む」
まるで別荘に滞在しているようだ。
「風呂が狭い場所に逗留するなんて冗談じゃない。暇つぶしに本が読めなきゃ、退屈で死んじまう」
「ふっざけんじゃんじゃねぇぞ、おっさん! こっちがどんな気持ちで」
「あーはいはい、そういうわけだから、あとよろしく」
電話は勝手に切れた。
真木の心配をよそに、一方的な都合を押しつけてくるのはいつもの兵部である。真木は安堵した。しかし、その電話から三カ月が過ぎても兵部は戻ってこなかった。不吉な予感が到来する。真木は迎えにいくことに決めた。
◆
真夜中のことだった。
普通人用の収容所だった。といっても特殊な犯罪者ばかりを収容する、特別収容所である。アフリカ大陸の北端に位置している独裁国家は、権力者や体制に対する批判をした人間を容赦なくその収容所へと送る。形ばかりの略式の裁判は三日で終わった。
高い塀と電子鉄線でぐるりと囲われた丘の上に建つ円筒状の建築物である。上空から見る者があれば、さながらロールケーキのような形をしていると分かるだろう。腹を減らした鼠が囚人の手足を噛み、囚人が看守を殴り、さらに弱い者へとはけ口を求めて暴れる。そこは監獄だった。
国際連盟からの視察団や海外のマスメディアの来訪に備えて最低限の物資を備えた、形ばかりの収容所である。内実は、生きながら死を待つ家に過ぎない。脱獄を夢想した者は丘を下りた先の見渡す限りの平原を逃げ切れずに銃殺されていった。
建物の中には淀んだ空気が蔓延していた。腐臭、堆積した排泄物が処理しきれないため発生した悪臭、疫病の臭いだ。壁のペンキが剥がれて、ところどころ建材が剥き出しになっている。雨もないのに、天井から水が染み出し、床に水たまりを作っている。天井を走る配管が錆びついているのだろう。
先ほど例えに出したロールケーキの胴体部分には囚人を閉じ込めておくための監房が並んでいる。監房には囚人のために用意されたベッドと寝具、小さなテーブルと水差し、便器、それからプライバシーを保護する壁の代わりに一面に鉄格子がはめられている。
看守がふたり、手にしたライトの明かりを頼りに見回りを行っていた。監房の前に立ち、看守が番号を呼ぶ。呼ばれた囚人はすぐさま壁に手をつき、返事をしなければならない。
「百三十二番。返事をしろ」
消灯した後の見回りの時間は日によってまちまちで、そのために囚人はしばしば眠りを妨げられた。ときには寝ずの番を強いられた看守の八つ当たりのためにこん棒で背中を叩かれることもある。反対に、舐められている看守の場合は、囚人は一斉に鉄格子を掴んで音を立てて揺らし、看守を怯えさえ、あるいは、看守の衣服を掴んだり、殴ったりもした。
夜間の見回りは看守と囚人、そのどちらにせよ、緊張の一瞬である。
その日の見回りは特に何事もなく、半分が過ぎていた。だが、とある監房の前で看守は困惑していた。ある囚人が鉄格子の隙間から手を伸ばして、しきりに訴える。ここは地の底、闇の滞留。囚人が窮状を嘆くのも無理はない。しかし、彼が怯えているのはそれではなかった。
「助けてくれ、化け物がいるんだ。俺の部屋には化け物がいる」
「囚人二十八番。黙って壁に手をつけ」
「昨日は枕が飛んできて俺の頭にぶつかった」
「うるさいぞ」
「その前は靴だった。どんどん大きくなってきてるんだ」
囚人は看守の叱責に応じなかった。
「言うことが聞けないのか」
「場所を変えてくれ。化け物と同じ部屋はいやなんだ」
「黙らないのなら、こん棒で殴ることになるが、それでいいんだな」
「このままじゃ俺は化け物に殺されちまう。助けてくれ」
「黙れ!」
激しい殴打の音が響く。殴られた者のうめき声。訴えを起こした囚人はそれで黙った。こん棒の打撃は内臓を痛めつける。どんな人間でも声を失くす。
しかしながら、不審に思った看守は監房をライトで照らした。中にはもうひとり、囚人がいる。壁に両手をついている。そのせいで顔が見えないことを看守は不満に思った。監房の壁にかかっているプレートを見れば番号はすぐに分かる。
「囚人百四十二番、こちらを向け」
痺れを切らして看守は怒鳴った。
「呼ばれたらすぐ返事をしろ、このマヌケ」
「……はい」
青年が振り返る。異彩を放つ、月明かりによって白銀に照らされた髪。すらりと伸びた背丈に比べて、その身体の細さは何事かと思わずにはいられない。のぞく手首は力を込めればすぐに折れてしまいそうなほどだ。囚人服の袖が余っている。
青年だった。一目見ればすぐに知れる、その容姿の輝くばかりの美しさは只事ではない。肌は白い。石膏細工のように滑らかだ。深い彫りが刻まれている根元には長いまつ毛で縁取られた瞳がある。つんと上を向いた鼻は筋が通っている。頬骨はバターナイフですくったように、つるりとしている。
夜の底を覗かんと言わんばかりの深淵に似た瞳が、看守をじっと見上げる。涼しげな眼差しに、思わず看守はたじろいだ。
「何か?」
青年は小首を傾げた。その仕草の頼りなさに、圧倒されかけていた看守は自分を取り戻した。
「お前のことで訴えがあった。貴様が周囲の秩序を乱しているという噂だ。それは本当か、新入り?」
「僕、分かりません」
「嘘をついていたら承知しないぞ」
看守が手にした、こん棒を高々と掲げる。青年が大袈裟に肩を震わせた。看守の後頭部に衝撃が走ったのはそのときだった。
看守がのけぞる。誰に殴られたのかと慌てて振り返る。誰も立っていない。連れの看守が床を指さす。床を見ると、割れた水差しの破片が散らばっていた。テーブルの上にあったはずの水差しがない。尋ねると、
「水差しがひとりでに飛んだんだ」と証言した。
水差しが割れる音に驚いた青年は半ば恐慌をきたしていた。耳をふさいで目を閉じ、身体を丸めている。「やめて、こないで……」
青年を見下ろす看守ふたりの目が、異様な熱を孕んでいた。男の背中を汗が伝った。
「こいつ、まさか本当に化け物なのか」
「いや、違うな」
噂を耳にした囚人はそう否定した。
「ポルターガイストと呼ばれる現象がある。だが、実際は多感な思春期の未発達な超能力が原因だ」
精悍な顔つきの少年は万感を込めて嘆息した。
「やっと見つけましたよ、少佐」
◆
「これより身体検査を行う」
銀髪の青年が壁に両手をついた状態で待機している。
「昨夜起こした不気味な現象について貴様を取り調べる」
目元の涼しげな青年で、髪は光る銀で、目は深い藍色を湛えている。その顔形は手を伸ばしたくなる美貌を備えている。看守は最初に見たときから、ずっとこの青年に目を付けていた。男ばかりのこの空間では、オカズにも不自由をする。抱きしめるのにぴったりの体温は、稀だった。
看守は背後から青年の身体をまさぐった。無遠慮な手はしばしば衣服の下へと潜り込んだ。身体検査などは名目でしかないことは明らかだった。個室でふたりきりだ。誰に憚ることもない。
看守は己の欲望を満たすために、まず青年の背後に張り付き、身体の形を確かめるように衣服の上から手を動かした。腰を押し付ける。うなじに顔を寄せると、体臭が立ち上った。汗の酸っぱい臭いが混じって、ミルクのような匂いがした。
脱がせた結果、服の上からでも分かる通り、青年の身体は細かった。看守は体温に飢えていた。必死に食らうように、その身体を暴く。
虚空を見上げる青年はなすがままだ。白い腹を撫でられ、下着に手を差し込まれ、うなじを甘噛みされても、青年は胡乱げにただただその時間が過ぎるのを待つだけだった。
看守の熱を帯びた手が尻の上を這いまわる。尻肉は柔らかかった。
「女みたいだな」
目の前の身体は青年のように見えるが、いまだ成長期を脱してはいないらしい。引きしまった筋肉で覆われた身体は、薄く、肩のあたりの筋肉は未発達だった。あるいは年のほうは少年と呼ぶほうがいいくらいの幼さなのかもしれない。
行為はエスカレートしていった。看守は己の欲望の塊を青年の腰にすりつけながら、青年から反応を引き出そうと、乱暴な行為に及んだ。固い胸板を撫で、その表面にあるしこりを指でしごく。肉体の反応だ。単純な刺激への応答だとは看守は考えなかった。これは愛撫を感じているのだと解釈した。
看守は、青年の耳元に囁いた。
「お前は俺のことを見ていたんじゃないのか。前に俺と目があったことがあっただろ。あのときお前は俺を探していたんだろう。分かってるよ。なあ、俺のことをどう思う?」
「別に何とも」
青年はそれだけ言うと、嵐が過ぎ去るのを待つように固く目を閉じた。頭に血が上りかけた看守も、それ以上のことはさすがに手出しができなかった。
「異状なしだ」
看守が解放を言い渡した。
解放された青年は収容所内にある作業工場へと戻された。囚人である彼らは膨大な時間を工場で働かされることで過ごしている。
守衛に見張られながら青年は席に着き、菓子用の紙箱の組み立てに取りかかる。印刷が終わった紙を折り目にそって加工していく。単純な作業だった。作り終えた菓子箱は奥の箱に無造作にしまわれる。山盛りの箱が壁に所狭しと並べられているが、反対側の壁にはこれから箱にする紙束がもっとたくさん用意されているのだった。青年と同じ作業に取り掛かっているのは老人か病人しかいない。(ちなみにベニヤ板の加工からは、無能であるという理由で外された)
黙々と作業を強いられ、娯楽は少ない。あからさまにワケアリな青年に対して、周囲の人間はじろじろと好奇の目で彼を見つめていた。兵部が着席すると、待ちかねていたように老齢に達した赤毛の男が隣に座った。
「なにかされなかったかい、私の天使」
それに対して兵部は素っ気なく答える。
「別になにも」
「あの看守は乱暴で有名なんだ。ひどいことをされたのなら、すぐに私に言うんだよ」
「分かった」
「ところで、本当に何もされなかったね?」
「ああ。そうだよ」
青年は素っ気なく返事をすると、作業に戻った。黙々と箱を組み立てていく。先ほどまで看守から受けていた熱烈な凌辱の気配など、露ほどもなかった。赤毛の老人は追及を諦めた。
菓子箱の組み立てからは距離が離れた場所に、ベニヤ板の加工場があった。運ばれた材木を、電動糸のこぎりで切断し、使いやすい大きさへと加工する。若い男のほとんどがそちらへ回される。重たい材木の運搬もさることながら、工具の扱いが疎かな人間の人体の一部が欠損をすることのほうが恐ろしい。だが、非常に単純な作業ではある。
ベニヤ板の木くずのゴミ捨て場が、菓子箱の製作所の裏手にある。浅黒い肌に濃い巻き毛をした精悍な顔つきの少年が、青年と赤毛の老人を睨んでいた。片手に木くずの詰まったゴミ袋を持ち、その眼差しは鋭く、緊張感を保っている。
真木司郎である。
果たして彼は消息を絶った兵部京介を追いかけて、はるばるアフリカまで捜索に来ていた。いまだ十六、七半ばといった年の彼は、見た目だけなら少年と呼ばれてもおかしくはなった。
「あの男の噂が知りたいかい、新入り」
少年に話しかけてきたのは、情報通を気取る男だった。ここでは煙草屋をしていると語る。
真木は彼から煙草を買い(煙草の値段として提示された金額は局地的にインフレーションを起こしているとしか考えられないほどの高値だった)、兵部京介と目される人物に対する情報を聞いた。
「化け物だ、という噂がある。あの男は不思議な力でもって、部屋の中のものを浮かばせて人を脅すそうだ。呪いだとも言われているが、俺からすれば違う」
ポルターガイスト現象だ、と煙草屋は説明した。
「なるほど。だが、それはポルターガイスト現象ではない。勿論、化け物でもない。あの人はエスパーだ」
真木は確信を持った。しかしながら、煙草屋は首を傾げていた。ここではエスパーに対する知識が不足しているらしい。おかしな話ではない。ここは普通人用の収容所だ。彼が念動力者であることを、どう説明すれば理解してもらえるのか、分からなかった。
「有難う。いい情報だ。俺は真木と言う」
「マギか。変な名前だな」
「はじめて聞いたときは俺もそう思ったよ」
諦めて、真木は尋ねた。
「ここでは囚人が自由に動くことが許される場合はあるのか? どうすれば、あの人に話しかける機会があるんだ」
「よしな。よくいるんだ。一目見て、あれに頭がぽーとしちまって、自分が何とかしてやろうと思いこむやつは」
「そんなに多いのか? そういう連中はどうなる」
「たくさんいるが、どいつもすぐに諦めるはめになる。あいつはロンバータの”女”だぜ」
その単語があまりにも意外で、真木の頭の中ですぐには結びつかなかった。あの兵部が、誰かの女と呼ばれるなんて、想像もつかなかった。そんな殊勝な人間ではないし、万が一そう扱われでもすれば、相手を血祭りにあげて受けた屈辱を晴らすだろう。
「あの人は」少佐は、と呼びそうになり、言いなおす。「あの人は本当にそうなのか。なぜ逆らわないんだ」
煙草屋は肩をすくめた。
「何も覚えちゃいなんだとさ」
「記憶がないのか」
「意思もない。自分の名前も覚えてねぇという大まぬけ野郎さ。その上天涯孤独ときている」
「違う。あの人は、そうじゃない」
「本当さ。お前も知っているだろうが、ここじゃ必要なものが足りないんで、外から差し入れを貰うのが通例になっている。ただ、あいつは誰からの面会もない」
監獄でも人は暮らしている。石鹸箱や歯ブラシや電気カミソリといった細々としたものが必要になる。兵部はそれを真木に伝えていかなかった。いつものように出かけるとだけ教えて、ふらりと姿を消した。
「必要なものはどうしてるんだ」
「ロンバータが用立ててやってるんだ。監房は奥の角のふたり部屋だ。一時は離れていたが、最近、また同じ部屋になった」
「あの人の隣にいる男だな」
「そうさ。俺の情報によると、悪い筋の男らしい」
「悪い筋?」
「マフィアなんだってよ」
真木は眼を細める。
マフィアの男が、どういう事情か知らないが兵部と親しくしている。見る者が見れば、あの状態でも彼が兵部京介であることは一目で見抜く。これはどう考えてもきな臭い。
「さっきの言葉は取り消す。あの赤毛の男についての情報が欲しい」
「煙草、もう少し欲しくはないか?」
「もう一箱貰おう」
「まいど」
看守の目を盗んで煙草と米ドルを交換する。こんな僻地でどうやって外貨と両替するかは知らないが、伝手があるのだろう。
真木が煙草を作業着の内側にしまうのを見届けると、煙草屋は説明を始めた。
「ロンバータというのは名前じゃない。あだ名さ。故郷じゃそう呼ばれていたんだと」
「どういう意味だ」
「肉の部位さ」
「なるほど」
「奴には誰も手を出さない。ここじゃ、監獄を取り仕切るドン・イグナティオスだって奴には一目置く」
「理由は。ロンバータってやつはアヘン畑の所有者か、裏社会のフィクサーなのか。それともマフィアのボスで組織が彼の命令通りに動くのか」
「どれも違う。奴は組織の忠実な始末屋なのさ。殺した人間の数は限りなく、ときには女子供でさえ躊躇なく殺したという」
「それで肉の部位か。気分のいい話ではないな」
真木の脳裏には、人間の死体が屠殺場のように並んでいる光景が浮かんでいた。
「ロンバータは枕元に聖書をいつも置いているんだ。朝晩欠かさず神に祈る。ある日誰かが尋ねた。「誰のために祈るか」と。奴はなんて答えたと思う」
「自分が殺した人間のためか?」
「違う。返事は、私の仕事を悔やんだことなど一日もない、だとよ。組織の力を必要とはしていないんだ。あいつなら、素手でも人を殺せる。看守が怯えるのも無理はない。冷酷な男さ」
「だが組織には必要とされていただろう。なぜこんなところへ?」
「組織があいつを庇い切れなかったんだ。政治家の暗殺計画がバレた。奴の罪状はな、とびきり重たい。政治犯だ。ここじゃ表でどれだけ悪をやったかで階級が決まる。覚えておくんだな、新入り」
「色々教えてくれて助かった。感謝する」
「ところで見ない顔だが、お前は何をやってここにぶちこまれたんだ?」
「住居侵入罪。誘拐罪及び殺人罪もつくかもしれん。しかし、今はまだ何も。だが、俺はロンバータと同じ意見だ。俺は、自分のこれからすることを悔やむつもりはない」
真木は決意した。
恐らく、手違いがあったのだと思う。いくつか計画に狂いが生じたに違いない。最初に兵部が潜入したのはエスパー収容所だったはずだ。目標が変わったのか、追いかけているうちに流れ着いたのか、アクシデントに巻き込まれたのか。
一時的なものであれ、兵部の身柄がロンバータによって拘束されていると考えてよいだろう。
兵部が記憶を失っているのは、作為的なものだろう。真木には、兵部のような強い人間が危害を加えられて記憶を失っているとは思えなかった。身分を隠す必要があったのか、それとも記憶と引き換えにしてでも得なければならない何かを入手したのか。真相は本人の口から確かめる他ない。
真木は、何があっても兵部京介を取り戻す。そのためなら何でもする。
◆
真木は仕事のあとに出された食事(茹でた豆、肉団子がふたつ、茹でたジャガイモにソースがかかっているだけの質素なもの)をしながら考えをまとめる。食事はまずかったが、空腹であるためか、食事が喉を通っていく快楽は得られた。
まずロンバータにまつわる噂の確認だ。
観察していると、確かに前情報の通りに、この施設の中では影響力を持つらしい。配給に並ぶ彼のトレイには平然とグリルされたステーキ肉が置かれていた。真木の食事とは大違いだ。看守に賄賂を渡しているのだろう。
兵部のトレイにも同じステーキ肉がのっている。だが、彼はあまり食欲がないようだった。
真木の知る兵部は食事の質を選ぶほど繊細な人間ではない。危惧した通り、集団生活には馴染めていないようだが、戦地を経験している彼は、腹を満たすことができればよいという健啖家としての側面も持っている。高レベルの複合能力者はそれほど脳への負担が大きいのだ、ともいえる。
よほど衰弱しているのだろうかと、真木は心を痛める。こんな窮屈な場所では心が落ち着かないだろう。身体も休まらないはずだ。ましてや、今はただならない事態が彼の身に起きている。
だが、食事を摂る元気さえなければ、彼の脳細胞へ影響が出かねない。否、すでに影響が表れており、その断片が本人の制御不可能なポルターガイスト現象なのかも。早急に連れ帰る必要があるのかもしれない。
真木は柱の陰からふたりの会話に聞き耳を立てた。ロンバータが兵部を気遣ったように話しかけている。兵部は気のない相槌を打っているようだ。
「あまり空腹ではないのなら言ってくれて構わないんだよ」
「うん」
「食べきれないのなら、外の野良犬にでも食わせればいいさ。代わりに、なにか食べたいものはあるかな。何でも言ってくれ」
ロンバータは兵部を懐柔しようと、あれこれ話しかけているようだった。兵部はさほど興味を引かれた様子ではなかったが、強くうながすと、重たい口を開いた。
「アイスブランか、サバラン。それか、ホットチョコレート」
「おねだりは嬉しいが、さすがにそれは難しいよ。酒か肉か、あるいは麻薬ならいくらでも調達してこよう。だが、ここに子供はいないんだ」
「いいよ。言ってみただけだから」
ロンバータが兵部を慮っているのは事実らしい。兵部が今こうしていられるのも彼のお陰だろう。それは認める。だが、決してそれが善意から出ているものでないことは、真木にとっては疑いようもない推測であった。
ロンバータはどこかでパンドラのボスの素顔を知っていた。だから、兵部に近づいた。目的はパンドラから情報を引き出すため。明快な筋書きだ。
どこへいくのにもロンバータは兵部と行動を共にしていた。日中は看守の目もあり、真木も接触は諦めざるを得なかった。お膳立てを揃えて夜を待つ。
まず、ロンバータを兵部から引きはがす。彼は組織の構成員だ。となれば、マフィアから情報の受け渡しが行われるだろう。そればかりはロンバータも避けることはできないはずだ。
架空の呼び出しを作りだす。探りを入れれば、ロンバータの所属する組織はあっさり判明した。南イタリーの沿岸部を根城にしている伝統的なマフィアの一家だった。念のために調べるが、過去にパンドラと取引した形跡はなく、兵部の目的は明らかにならなかった。
調査にはパンドラの力を借りた。パンドラは家族だ。家族の力はこういうときに頼れと言われている。
次に、監房の鍵を看守から盗む。これは真木の能力があれば簡単だった。闇夜にまぎれて炭素繊維をひそかに看守のポケットに忍ばせれば、あっさりと鍵を盗むことができた。普通人用の収容所なのでECMがないことが幸いだった。扉を破壊することは容易いが、再び施錠するには鍵が入用だ。これで準備は整った。
夜を待って、真木は監房を抜け出した。同室者には眠ってもらった。廊下を歩けば気付かれる。天井裏に潜り込んで移動する。抜け目なく昼のうちに点検口を見つけていた。建物の内部の間取りは把握している。無事に建物の奥の監房へと到達した。ロンバータはまだ帰ってきてはいないようだった。息使いが、ひとり分しかない。
素早く天井裏からよじ降りて、監房の鍵を開ける。
「あんたの帰りが遅いから、迎えにきてやったぜ。兵部少佐」
一緒に持ち込んだ小型のライトで兵部を照らした。兵部はベッドから起き上がり、真木の姿を認めると拒絶する仕草を取った。
「思い出せない。それは僕の名前なのか」
「俺と一緒に来い。今のあんたが思い出せないのも無理はないが、いつまでもここにいるつもりはないだろ」
「君は僕をどうするつもり?」
「当面の暮らしは保障する。それくらいの金は持ってる。まず、ここを出よう。こんなとこにいたら、病気になるぜ」
「や、やだ」
兵部は身を丸めて、膝を抱えた。その怯えるような仕草が、真木を苛立たせる。つい真木の頭に血が上る。
「しっかりしてくれよ。兵部少佐!」
「僕は帰らない」
兵部が拒絶の言葉を吐いた瞬間に、部屋のあちこちに置かれていた物が真木を襲う。枕、靴、水差し、表紙が革の冊子。これはロンバータが毎晩読んでいるという物だろう。肩にぶつかって落ちたそれを一瞥する。
「ベッドは無理としても、テーブルくらいは動いてもいいはずだ」
ポルターガイスト現象の正体がこれではっきりした。兵部の強い意志がトリガーになって不随意に発動しているのだ。だが、あまりにも念動力が弱すぎる。能力者としてこれでは三流だ。
「君を怖がらせたくないんだ……!」
兵部は腕を振り払い、頭を抱えて床に伏せた。震えている。その姿は見たくなかった、と真木は素直に認めた。大げさに溜息を吐いて、兵部の肩に手を置く。
「これはあんたの能力だよ。落ち着け」
これではあべこべだ、と真木は思った。まるで初対面のやり取りを繰り返しているようだ。
「コントロールしようと思えば、できるはずだ。深呼吸をしてくれ、ほら」
兵部の呼吸は荒い一方で、落ち着く気配がない。
「無理だ」
「しっかりしてくれよ、少佐。俺が惚れたあんたはどこへいっちまったんだ?」
近づいてくる足音に耳敏く真木は腰を上げた。
「行かなきゃらならん。じゃあな」
残された兵部は、自分が見放されたのではと思うと、なぜか心がざわついた。
◆
夜になって思い返すと、その日は一日中、どうかしていた。
兵部の日常は波風立たなかった。だというのに、彼の真摯な懇願が、夢うつつにいる兵部の心を覆う。軽作業をしていても、手を止めた瞬間に昨晩の少年の顔が思い出された。
「昨日の彼のことが気になる」
今夜もあの少年はやってくるのだろうかと、そんなことばかりを気にしていた。
兵部少佐、と呼ばれた。鏡に映る自分の顔はほんの子供のように見えた。とても少佐と呼ばれるほどの肩書きに相応しいとは思えない。彼が言った言葉が引っかかる。自分は超能力者なのか?
超能力者という単語は腑に落ちた。これまで感じていた不安は消え、その代わりに新たな不安が目の前に広がっていた。収容所では、エスパーは化け物だと耳にした。結局、自分は化け物に過ぎないのか。そう考えると憂鬱が深くなる。
「もう食べないのかい、私の天使」
「うん。いらない。それに、その呼び方もやめてくれ。僕には名前が」
「思い出したのか?」
「いや、違ったみたいだ」
あの少年のことを問い詰められでもしたら面倒だ。兵部は悩ましげな様子で溜息を吐いた。ロンバータはその横顔をいつまでも見つめていた。
兵部が看守の呼び出しから解放され、やっとの思いで監房に戻ると机の上に、見慣れぬコップが置かれていた。湯気の立つ液体がなみなみと注がれている。驚く兵部の様子に、ロンバータがほほ笑む。
「笑っておくれ、私の天使」
「まさか」
コップに口をつける。液体が胃に流れ込む。温かい。舌の上に甘さが広がる。久方ぶりの味だった。カカオ、溶けたバター、それにほんのりとリキュールが香る。しっかりした、ホットチョコレートだ。看守だってこんな贅沢はしていない。
「どうやって?」
「君のためなら、容易いことだ」
赤毛の老人は頬笑み、言葉を濁した。
「君が笑ってくれれば私はそれで満足している」
兵部は笑わなかった。代わりに、「……感謝する」
不器用なセリフにロンバータは苦笑した。
すっかり、くつろいだ兵部は、会話の糸口を探して、尋ねた。
「ロンバータ。なあ、神に祈るってどういう気持ち?」
「よく誤解されるが、私は神に何かを求めるのではない。自分が何かを為せることを、改めて確認するための時間だよ」
「それは本当の話じゃないだろ」
兵部は懐から写真を取り出した。
「あなたの聖書に挟まっていた。のぞき見するつもりはなかったんだけど、すまない。本当のところを教えてほしい。あなたが祈るのは彼女のためだろう」
「そうだ」
「この写真の女性は?」
赤毛の女の子が写っていた。この写真は、昨晩、少年の肩にぶつかった聖書から零れ落ちたものだった。
「私の娘だよ。十七歳だった。娘は殺された。敵対する組織による報復だ。死体は辱められ、妻には見せられなかった。なぜ神にすがると君は私に尋ねた。答えよう。彼女はまだほんの十七歳だった。彼女の魂のことを考えれば、私は祈らずにはいられない。……君はね、私の天使によく似ているんだ」
私の天使、と呼ばれたことを兵部は思い出していた。そう呼ばれてきたことがどれだけ尊いことだったのかを、ようやく知る。
「大切なことを話してくれてありがとう。あなたのことが初めてよく分かった気がする。この写真を見ていると不思議と心が温かくなる。僕にも大切な人がいたんだ、きっと」
コップが空になって、兵部の思考は昨晩の少年を追いかけなくなっていた。
◆
監獄では囚人は毎日、外で身体を動かすための時間が与えられる。これは国際法上の取り決めで決まっていることだったし、狭い場所に押し込めている血気盛んな連中の管理に必要不可欠なことでもあった。貴重な短い時間を使って囚人は思いのままに遊んでいる。
バスケットボールに興じている連中を離れたところから冷ややかに眺めているふたりがいた。ひとりはフェンスにもたれかかっている。
彼は煙草屋と呼ばれていた。監獄ではなにかと物入りだ。男はそれを用立てることで、他人から一目置かれていた。歯が欠けていて、目がくぼんでいるギョロリとした骸骨のような男である。彼は絶え間なく彼らを観察し、煙草を欲しがっていそうな人間がいないか探している。
その隣に腰をおろしているのは、褐色の浅黒い肌に、長い髪をした少年だ。身長の成長に横幅が追いついていないらしく、ひょろりとした印象を与えるが、その物おじしない姿勢は恐らくただものではないのだろうと思わせる。
退屈を持て余した煙草屋が喋りかける。
「あのお姫さん、最近はずっと監房に引きこもってお顔を見せにこないもんだな」
「……そうだな」
姫、という隠語が示すのはこの場所にはひとりしかいない。女はこの監獄にはいないのだから、女代わりということだ。
兵部の人目を引く容姿を嘲笑って馬鹿にしてそう呼ぶのだ。その呼称を耳にすると真木は落ち着かない気持ちになる。彼が自身の名前を思い出せないからだ、と納得しようとするが、困難だった。素の彼の性格はとてもそんなものじゃない。あんたたちは、凶暴な虎を猫と呼んでいるんだ。その滑稽さに対する、自覚が薄いことが心配だ。
煙草屋があくびをする。
「お前さんは心配してないみたいだな」
「そうでもない」
「前は随分とご執心のようだったが、さっぱりしたもんだな。諦めたのか?」
「いいや、違う。俺は夜明けを待つだけだ。そう約束したんだ」
帰る場所がないと言われたら諭すつもりだった。だが、兵部は帰らないと言った。なら、真木は兵部に従う。だが、そばを離れたりはしない。いずれ帰るときが来るまで真木は待つ。
「お前は見上げた奴だな。ヨーロッパの昔話にな、そういう女がいた」
「そうか」
「夫が戦争のせいで故郷を離れて、長く帰ってこなかったもんだから死んだと思われていた」
「その話は長くなるのか?」
「まあ聞けって。んで、再婚の話が持ち上がったんだが、夫を愛していた女は断った。理由は、死者に着せる衣装を縫い終わってからにしたいと口から出まかせを言った。女がけなげに衣装を縫い続けるところを男たちが見張って待った。だが、衣装はいつまで経っても縫いあがらなかった。夫を待つために毎晩、女は織糸を解いていたんだ」
「……ああ」
「なぜだか急に、そういうことを思い出したよ。俺の女房は俺を待っていちゃくれないだろうが、それでも早く帰りたいもんだな」
「そうだな」
真木は隣の煙草屋の顔をまじまじと見た。思いのほか、学がある。それに、こんな男にも妻がいて、早く帰りたいと願う場所がある。
「迎えが来るといいな」
◆
一週間もしないうちに、兵部は食堂に姿を見せた。
昼の食事の時間に、真木が豆粥をスプーンですくって食べていると、入口のほうから囃したてる声や、指笛を鳴らす音が聞こえてきた。にわかに人垣ができている。囚人が集まれば、すわ乱闘かと看守が飛んでくるものだが、どうやらそういったこともないらしい。
食堂には下世話な野次が飛び交った。
「よう、お姫さん。もう元気になったのか」
「いきなりぶっ倒れたりはしないでくれよな」
「どいてくれ。トイレが受け取れない」
兵部は淡々と男たちのからかいを切り捨てている。
あれはいけない、お高く止まったような言い方をしては、余計に挑発するようなものだ。案の定、群れの中で先頭を歩く男が兵部の歩く通路を塞ぐようにテーブルに尻を置き、足を投げ出す。
「よう姫さん、こっち見てくれよ」
「僕は食事をしにきただけだ。君たちになにも失礼なことはしていないはずだ」
「おいおい、寂しいこと言うんじゃねぇよ」
「触れないでくれ」
兵部が通路を渡ろうとしたとき、男の足に引っかかり、蹴り飛ばしてしまった。「あっ」と驚く顔からして、わざとではなかったのだろう。だが、彼らにいい言い訳を与えてしまった。
「今俺の足を蹴ったのか?」
「アニキを蹴りやがったのか、この女」
「ろくでもない女だな」
「やめろ。今のは違う、そんなつもりじゃなかった」
「どこへいくつもりだよ。おい、誰か手伝え」
男たちが取り囲み、兵部の身体を背後から拘束する。談笑していた食堂中の人間がぴたりと黙り、固唾をのんで見守る。兵部は身をよじるが、勿論身体は動かせない。
ボス格の男が顎をしゃくった。
「おい、お前、あの姫さんをひん剥いてこいよ」
「で、でも、どこを脱がすんですか。男ですよ」
「どこだっていんだよ。とにかくやれ」
集団の中で最も弱く、虐げられている男が、ボスに言われて、すごすごと引き下がる。男の手が、兵部の着衣にかかった。兵部が声を荒げる。
「やめろっ」
衆人環境の中ではあるが誰も男たちの暴虐に異論を挟むことは許されていない。とばっちりがこないことを祈って目を伏せている。
兵部が身体をまさぐられていることは確かなようだ。真木からは見えない角度だ。だが、衣擦れの音、着ているものを脱がせるときの金具が外される音、男たちの下品なヤジの様子から、何が行われているのかは分かった。
「離せ、やめろ……」
「いい声じゃないか」
「んっ……」
もう真木はスープを飲むふりを続けていられなくなった。
立ち上がろうとした真木の肩を横にいた男に掴まれ、強引に座りなおされる。彼は、自分の力にそれなりの自信があったので、それができた相手を意外そうに見る。
煙草屋だった。
「触るんじゃねぇ。あれはドン・イグナティアスのとこの人間だ」
ひょろひょろの骸骨のような男が、声を潜めて忠告する。これまで距離を取っていた男の唐突な親切に、真木は振り払うことができなかった。この場の状況が、決して良くないことを理解する。恐らく、看守でさえ、この騒動を止めに入らないのだ。
男たちに囲まれ、誰が見ても不利は明らかなのに、兵部は背後の男を振り払おうと抵抗を止めない。殴られたとしても手足を振り回すことを止めない。頭を押さえつけられれば、噛みついてでも矜持を保とうとする。正面に男がやってくると、蹴り飛ばそうと足を上げた。
「やめろ、はなせ」と繰り返す声が耐えられなくて真木は耳を塞ぎたかった。
はじめはただの冗談だっただろう。姫というあだ名はただの揶揄だ。だが、兵部の拒絶する仕草は、あまりにも情欲を誘った。禁欲を強いられている獄中の男にとっては、娯楽だ。逃げるウサギを一方的に狩るような娯楽。場には、レイプが始まりかねない気配すら漂っている。
その場合、男たちの手荒なレイプは実質、暴力となにも変わりはしない。死ぬまで殴られるか、死ぬまで犯されるか、それだけの違いだ。
兵部が喘いだ。
「……っそこはやめろ、離せ」
誰かが生唾を飲み込む音が響く。
兵部の胸には傷跡がある。過去の裏切りの証、あれは触れさせてよいものではない。
やはり、あとで兵部に怒られようがここはあの男を殴る。と決めて立ち上がろうとした真木より先に、ドン・イグナティアスの部下に殴りかかる男がいた。
「私の天使に手を出したこと、地獄で後悔させてやる」
ロンバータだった。
仕事場で扱う工具を持ちだしてきたロンバータは鮮やかな手並みで、並みいる男たちを圧倒して見せた。それは確かに、元殺し屋、肉の部位という異名に相応しかった。血しぶきが飛び、床を濡らした。
腰が抜けて座り込んだ兵部の元へ駆け寄り、暴かれた衣服の代わりに上着をはおらせる。
「すまない、遅くなった。私の天使。無事かい」
「どうってことないよ。平気さ」
「よかった」
ようやくこの段になって看守がやってきた。倒れた男たちの手当のために、ロンバータは取り調べのために、それぞれ連れて行かれる。
真木は見ていた。制圧された男たちがロンバータのほうをねめつけていたのを。それは長く、彼らが食堂を出るときまで続いていた。
◆
地の底の監獄にも神の教えが届かないということはない。
日の光りが差さぬ場所に暮らす囚人も、等しく神の子だ。週に一度、神父がやってきて囚人に説法をして帰る。告解も受け付けるし、罪の告白に関するプライバシーは守られる。司法にも手のつけられない、ろくでなしでも神父は祝福を与える。
真木は神など信じてはいないが、兵部が行くのなら後を追いかけないという選択はない。
ロンバータは信仰深く、祈りを欠かさない。日曜のミサには必ず参列する。一緒に着いてくる兵部は、彼とは違い、祈るということはせず、ミサの間、ずっと後ろの席に座って黙っている。讃美歌を口ずさんだりもしないし、手には聖書さえ持っていない。それでも、その場にいる誰よりも静謐な空気が似合っていた。
真木が礼拝堂に入ったとき、兵部はいたが、ロンバータの姿は見えなかった。珍しいこともあるものだった。深く考えず、兵部から付かず離れずの席に腰かける。ミサが始まるまでにはまだ時間がある。
礼拝堂の長椅子に座る人間を、用心深く目を走らせる。案の定、食堂で騒動を起こした男のひとりが、兵部の近くに座っている。
男はだらしなく腰かけていた。手には聖書を持っている。だが、それはロンバータの持ち物だ。男のものであるはずがない。間違いない。真木は監房にまで押し掛けて見たのだから、その革の背表紙を見間違えるはずがない。どうしてロンバータがここにいないのか、真木には分かってしまった。
男は聖書を持ち上げた。
億劫そうに片手だけで持ち上げられた聖書は、しどけなく開き、ページがはらはらとめくれていく。そんな持ち方をしては本が痛む。そう思った真木は驚く。聖書の間に挟まっていた紙きれが、その拍子に長椅子に零れ落ちたのだ。それはどうやら写真のようだった。縁が欠け、年季の入った様子から、それがロンバータの宝物なのだと真木には理解できた。
男はその写真を無造作に眺め、下卑た動作で写真に頬ずりをした。
「こいつは可愛い女の子じゃねぇか」
「おい、その手を離せ」
男を止めたのは、兵部だった。兵部は立ちあがり、男に向かっていく。
「それは貴様のような人間が触れていいものではない」
「俺が拾った写真だ。俺がどうしようが勝手だろ」
「その写真の価値は、貴様のような男には一生分かるまい」
突然、罵声を浴びせられた男は逆上し、兵部に殴りかかろうと腕を振り上げる。まずい。真木は炭素繊維の刃を作った。
が、それは杞憂だった。
殴りかかろうとした男はもんどりうって横転した。長椅子にしたたかに頭をぶつける。写真が男の手を離れ、風に乗って兵部の手に収まった。明らかに物理法則を超越している。あらぬ力が働いている。疑う余地はない。念動力だ。この場にそれを使うことができるのはひとりしかいない。
「この写真は返してもらう」
記憶が戻ったのか、と真木は喜んだ。だが、それはぬか喜びだった。
「なんだ今のは」
「よかった。ちゃんと使えるかどうか分からなかったんだ」
「お前が?」
兵部は己の能力に実感を伴っている様子ではなかった。くすり、と唇が孤を描く。青い双眸が、男を見据える。
「これは僕の力らしい」
「な、なんだ」
「お前を今から殺してやるよ。幸い、僕にはそれをする力があるようだ。お前には散々いいようにされたから、お返しにとびきりユニークな殺し方をしてやるよ」
「ひいっ」
「今なら見逃してやるから、とっとと失せろ」
「……ば、化け物だ」
「そんなの、僕だって知ってるさ」
男は大慌てで逃げていった。兵部は追いかけなかった。彼は、まだ自身の超能力を制御する自信がないのだ。
監房で見せたのと同じ。気が高ぶって、能力が発動したのだ。不随意の発動。ただのまぐれだ。恐らく、先ほどの口上はあわよくば向こうから逃げてくれないかと期待したのだろう。事態は兵部の期待通りに動いた。
兵部は誇りを守るために立ち上がった。それで十分だった。記憶を失くしても兵部は、真木の信頼する兵部京介としての輪郭を保っている。満足だった。
兵部は大事そうに写真を懐にしまった。
真木は、ロンバータの元へと去っていくのであろう兵部の後ろ姿を黙って見送った。
◆
夜明け前。白み始める前の空に明けの明星が浮かんでいる。吸いこむ空気が湿っぽい。ロールケーキのような収容所の前に広がる平原に、真木は立っていた。銃を構えた監視を今しがた倒したところだった。今頃、収容所では騒動が起きているだろう。
彼は現れた。
闇夜を切り裂くその銀髪、強い意志を感じさせる青い瞳。空を飛行する超能力。喪服を思わせる学生服。今度こそ、記憶を取り戻したことは疑いようもない。兵部京介である。
兵部は一度、収容所の上空へ飛翔したあと、真木を見つけると、滑空しつつ高度を下げた。兵部は眼下に広がる一面のケールの草原の表面をそよがせてやってきた。
真木は尋ねずにはいられなかった。
「あいつはどうしたんだ」
「殺したよ。彼がしてきたことに比べれば、安らかな死とよんでいいだろう」
「そうか」
ロンバータの亡骸を兵部はどうしただろう。それも真木には知るよしもないことだ。
「目的の情報は頂いた。どうやらロンバータのいるマフィアを使ったのは、例の組織らしい」
「敵対する政治家の暗殺のためにマフィアを動かしたとは。正気とは思えない奴らだな」
「闇の武器商人さ。それだけのことをする集団なんだ。君だって、カダレが殺されたことを知っただろう?」
「ああ」
それだけではない。カダレの他に日本の政治家の死体も東京湾に浮かんでいるところを発見された。共通点は、連中の組織と関わりを持ったことだ。連中は自分たちの組織の商売の邪魔をする政治家の暗殺を、とある普通人のマフィアに”依頼”した。実際は脅迫を伴っていただろう。その仕事に失敗をした上に、情報を明かしたロンバータもいずれは例の組織によって消されていただろう。
「死ぬしかなかったんだよ、彼は」
「でも」
ロンバータはあなたを娘のように愛していた。真木は続きの言葉を言えず、黙った。
「くどい」
兵部は一蹴した。
「僕らにできることは、せめて彼の魂が安らかに眠れるように祈ることだけだ」
「ああ」
「君、祈るかい?」
「俺はあなただけのものだ。神に祈る言葉は持ち合わせていない」
「僕も同じだ。神がいるのなら、なぜあのとき。いや、いいさ」
「帰りましょう、少佐」
「そうだね」
「お迎えに上がりました。帰りましょう。俺たちの家へ」
ふたつの影が連れだって、ケールの草原の上を昇りゆく太陽から逃げるように飛んでいった。