日々の泡

「日々の泡」という言葉からぼくが思い浮かべるのは、透明な水の中で営まれる日常生活と、そこから日々浮かびあがっていく泡のイメージだ。ぼくは自分が吐いた泡が、遥か頭上の水面に向かってゆらゆらと昇っていくのを見あげる。誰かの吐いた泡が自分の脇をゆらゆらと通り過ぎるのを見つめる。頭上遙かな高みで泡がはじける。それを水面近くの誰かが眺めている。
 一方、「うたかたの日々」という言葉から思い浮かべるのは、ふわふわと風に流されるシャボン玉の中での人生。その世界は虹色の光を宿し、さまざまに形を変え、お互いに近づいてはまた遠ざかる。誰かのシャボン玉がはじけて水滴に変わる。惜しむ間もなく自分のシャボン玉もはじける。それでもたくさんのシャボン玉が、後からあとから、どこからともなくふわふわと漂ってくる。

 最初に読んだのは、新潮社の現代世界の文学「日々の泡」(曽根元吉訳)だった。早川書房のボリス・ヴィアン全集第3巻「うたかたの日々」(伊藤守男訳)を読んだのは、たぶん岡崎京子のマンガが出た時だったと思う。そして最近、光文社古典新訳文庫の野崎歓訳を読んだ。これまでにも、2人の訳者の翻訳を読み比べたことはあるけれど、3人を読み比べたのは初めてかもしれない。
 ぼくはフランス語が全然分からない(正確には、「フランス語も全然分からない」と言うべきか)。だけど、この小説の翻訳が難物であることは容易に想像がつく。造語や語呂合わせといった言葉遊びを日本語にどう移し替えるかという問題もあるし、多義的に受け取れるような独特の言い回しが多用されているのではないかと思う。翻訳によって意味が全く異なる部分、むしろ正反対ではないかと思われる部分が少なからずある。
 カポーティフィツジェラルドの翻訳でもそういうことはいくらかあるけれど、この小説ほど極端に異なってはいない。であればこそ、三つ目の野崎訳を買ってみる気になったのだ。


 そもそもタイトルからして多義的ともいえる。
 ヴィアンには不思議なところが多いが、小説のタイトルもその一つで、例えば「北京の秋」には北京のことなんかどこにも書いてないし、季節も秋とは思えない。心臓抜き(心臓鋏)というアイテムは、「うたかたの日々」にこそ登場するが、「心臓抜き」という小説には出てこない。
 それからすれば、この「L’ÉCUME DES JOURS」という原題は、むしろ素直な方であり、曽根元吉の「日々の泡」は、その直訳だという。しかし、ÉCUMEを英語にすると、scumなのだ。山本直樹の「Bellievers」で、自己嫌悪に陥ったvice chairmanに対して、operatorが、「…I TOO AM “SCUM”!」と叫ぶ印象的な場面があるのだが、まあ「人間のクズ」といったような意味らしい(思えば、山本直樹の「悪い奴らは皆殺し」とか「プノンペンの秋」といった短篇のタイトルはヴィアンに対するオマージュなのだな)。ヴィアンは、まるで根無し草のようなコランやシックといった登場人物を、ÉCUME=クズと表現したのだろうか。そうだとしても、そこに込められているのは批難ではなく逆説的な愛情なのだとは思うが。

 そういったもろもろの意味合いを含め、この「L’ÉCUME DES JOURS」を、「うたかたの日々」と翻訳した伊藤守男のセンスは素晴らしい。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。

 青春の輝きが瞬く間に色褪せていく儚さを、泡=うたかたと表現したこのタイトルは、それ自体として一つの傑作とも云える。岡崎京子や野崎歓もこの訳題を採用しているように、今後、新たな翻訳がなされたとしても、この「うたかたの日々」というタイトルは動かないだろう。

 しかし、翻訳全体からいえば、やっぱり、一番古い曽根元吉訳が最も優れているように思う。それは、ぼくが最初に読んだ訳だからということもあるかもしれないが、なんといっても、日本語としてのテンポがいいのである。

 コランはおしゃれの仕上げをおわるところだ。湯あがりにまとったゆったりした厚地タオルからは脚と上半身がはみでている。ガラス棚から噴霧器をとりだして色の淡い金髪に香料入り液体ポマードをふきつけた。その絹糸さながらの塊を琥珀の櫛でオレンジいろの長い線に分けると、それがまるで上機嫌のお百姓がフォーク一本で杏ジャムの中に作ってみせる畝溝のようだった。

 日本語として意味が理解しやすいという意味においては、最も新しい野崎訳が上かもしれない。あとがきに曰く、「全編にわたって画面の解像度を上げることに心を砕いた」という野崎訳は、その点においてかなり成功している。詳細な傍注とあいまって、はじめて意味が分かったと感じた箇所がいくつもあった。同じ文社古典新訳文庫「赤と黒」の野崎訳については誤訳論争が喧しいが、「うたかたの日々」については特に問題は指摘されていないようだ。
 しかし、ヴィアンの小説の味は、読者が勝手にイメージを膨らませるところにあるのであって、分からなければ分からないで別に構わないという気もするのだ。

 コランのあとについてシックは廊下に出て、ネズミに相手をし、それから通りすがりに、自分のライターに太陽の数滴をいれた。

 それまでにも、鼻の脇のニキビが自分の醜さを恥じて引っ込んだり、粗塩を振りかけられたバスマットが泡を吹き出したりといった不思議な表現はあるのだが、この「太陽の数滴」の部分で、これから始まるのがどういう小説なのかがはっきりしてくる。パタフィジックというのだろうか。この言葉、長い間、ビートルズの、「Maxwell's Silver Hammer」の歌詞でしか知らなかったのだが、どうやらこういうことらしい。
 Joan was quizzical studied pataphysical science in the home…

 クロエが病に倒れたという報せに、家路を急ぐコラン。

………力のかぎり彼は走っていた。すると、彼の目に入る人々がのろのろと前かがみになり大きなボール紙の箱を落としたような響きのない音をたてて、舗装道路に将棋倒しに倒れていくみたいだった。
 コランは走りに走った。家と家とのあいだにせばめられた地平線の鋭角が自分の方に突進してくるのだ。足もとは、夜になっていた。形の定まらない、無機物のような黒い線の夜で、空は色調のない、もっと鋭角の天井だった。そのピラミッドの頂点目ざして彼は駈けていた。

 こういう表現を何といえばいいのだろう。それこそ、岡崎京子のマンガをアニメーションにしたらこんな感じになるかもしれない。普通の意味でのリアリティは全くないのだが、コランの切迫感は痛いほどに伝わってくる。パタフィジカルなリアリティ、などというちょっと不思議な表現が頭に浮かぶ。

 カクテルピアノ、心臓鋏といった架空のアイテムも楽しい。均圧銃(ぶちのめしじゅう)、密偵切刀(でかきり)、無地皮(なしじがわ)。こういった言葉遊びになると、曽根訳は他を圧している。伊藤も野崎も、こういった曽根のアイデアをそのまま踏襲するわけにはいかなかったのだろうが、「虚無の皮」なんて翻訳はちと芸がなさ過ぎるのではないか。

 メインストーリーは、肺に咲いた睡蓮のために死んでいくクロエと、資産家でありながらクロエの治療のために全財産を使い果たして日々の労働に身を窶すコランの恋物語なのだが、ジャン=ソオル・パルトルに熱中するあまりに破綻していくシックと、その恋人アリーズのサイド・ストーリーも切ない。アリーズは、パルトルを心臓鋏で殺し、シックにパルトル所縁のガラクタを売りつけた古本屋に放火する。部屋の窓からその煙を眺めるシックは、パルトルの講演レコードを2枚同時に聴いている。
 この作品が書かれた1946年は、第二次世界大戦が終わった翌年だ。大戦中に「存在と無」で注目されたサルトルはまさに時代の寵児だった。シックとアリーズの物語は、ヴィアンからサルトルに対するオマージュでもあり、同時に、挑戦状でもあったのではないか。
 また、実際にそれだけの質を備えている作品であることも間違いない。書かれて50年以上を経た今、広く読まれているのは「嘔吐」よりも「日々の泡」の方だろう。意外と、100年後には、ジャン=ポール・サルトルの名前はジャン=ソオル・パルトルのモデルとしてしか残っていなかったりして。

 コランとクロエに可愛がられていたハツカネズミが、猫の鋭い歯並みに頭を差し入れて自殺を図る最終章には、この小説の優しさと残酷さとが凝縮されている。
 誰かが猫のしっぽを踏んづけた時にハツカネズミの命は消える。

「ねえ、あんた、けさ鱶を食べたんじゃない?」
「そんなこと」と猫は言った。「そんなことが気に入らなければ、ぼくはごめんこうむるよ。だいたい、こんな話は苦手なんだから。きみひとりでなんとかしなよ」
 猫は憤慨しているみたいだった。
「まあそう怒らないでよ」とハツカネズミは言った。


 小説家としてのヴィアンは、ヴァーノン・サリバン名義の「墓に唾をかけろ」の贋作スキャンダルで世間を騒がせただけで、正当な評価を得ないまま39歳で死んでしまった。ジャズ・トランペッターやシャンソン歌手としても才能を発揮したらしいが、日々の生活の糧は、音楽雑誌に書くエッセイで得ていたという。その一部は、早川書房のボリス・ヴィアン全集9巻「ぼくはくたばりたくない」で読むことができる。

 この小説のヒロインも、デューク・エリントンの「クロエ」からインスパアされたものだ。彼女に紹介されたコランの第一声は「…あなたは、デューク・エリントンに編曲されましたか」という質問だった。残念ながらぼくはビ・バップ以前のジャズのことをほとんど知らないので、この作品に名前が挙がっている曲で、メロディが思い浮かぶのは「ラブレス・ラブ」くらいしかない。いずれ、エリントンのアルバムを聴きこんだ上でまた読み返してみようかなと思ったりする。