2007.02.21
妖怪記事まとめていたら、止まらなくなりました~^^;
この記事も、タメになりましたので、記録に貼り付けっっ☆
もののけの棲み処をみる
恐れとあこがれ映し
日本は古来、無数のもののけたちが跋扈(ばっこ)している国だ。
私たちが抱く恐れの原初的なイメージを凝縮した平安の言葉がある。「百鬼夜行」。闇夜、「様々ノ怖(オソロ)シ気ナル形」をしたものたちが列をなして都を徘徊(はいかい)している。見てはいけない。
「もの」の語源は、元来は霊的存在を表した「鬼」。物の怪(け)は鬼気であり、祟(たた)りをなす霊魂の遍在を示す。
この仮面は、京都・壬生寺の重要無形民俗文化財「壬生狂言」中でかぶる酒呑童子(しゅてんどうじ)の顔だ。平安時代、都の人を攫(さら)っては食らったという伝説の鬼。
眉間(みけん)に怒気がこもり、カッと見開いた眼(め)は射すくめてくるようだ。
2004年、赤外線調査で、面の裏に「文禄三年」(1594年)の墨書が発見され、安土桃山期の作とわかった。まだ酒呑童子の演目はなく、初めは地獄の鬼を表現していたらしい。
現代。もののけを扱った映画のヒットは続き、妖怪はフィギュア(人形)ともなってもてはやされる。
時代とともに姿を変えつつ、語り継がれるあまたのもののけの物語。そこに自然への畏怖(いふ)と、異界へのあこがれを映し出しながら、その棲(す)み処(か)は、私たちに迫ってきた。
百鬼 いつしか人間の内へ
(酒呑童子の首を埋めたと伝わる首塚大明神。柵の中央、盛り土の上に四角い石がまつられ、鬼の威力を封印するかのようだ。今では首から上の病に御利益があるとされ、祠(ほこら)には参拝の人が供えたらしいカップ酒が並んでいた(京都市西京区の老ノ坂峠で))
国道を脇にそれ、車1台がやっと通れる旧山陰道を奥に進んだ行き止まり。京都市と亀岡市の境界である大枝山の、陽(ひ)が射さない山中に、やっと、その塚を見つけた。酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を埋めたと伝わる、首塚大明神。
14世紀から15世紀に成立した絵巻『大江山絵詞(えことば)』に現れる酒呑童子の物語は、こうだ。
平安後期の正暦年中、都の姫や若君が失踪(しっそう)する事件が続発した。これを占った陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明は「帝都より西北にあたりて大江山といふ山有、かの所にすむ鬼王の所行なり」と告げた。武勇でならす源頼光らが退治に向かい、酒呑童子を毒酒で眠らせ、首を切り落とす……。
酒呑童子 疫病の具現か
後世、鬼=もののけの代表格となる酒呑童子とは、いったい何者なのか。
「大江山」が、先の大枝山なのか、北方・福知山市の大江山なのかも今なお諸説あるが、神戸大学の高橋昌明教授は大枝山説をとって、「酒呑童子は都に病をはやらせた疫神(えきじん)の象徴だ」と新しく読み解いた。
平安京ではたびたび天然痘などの疫病がはやった。なかでも正暦5年(994年)の大流行は記録にも残り、絵詞の「正暦年中」と合致する。疫病が都へ入ってくるのは、他国との境界からだ。大枝山はまさしく、隣国・丹波との国境だった。
「疫病でばたばたと人が倒れ、姿を消していく。目に見えないものが境界を越えてじわじわと迫ってくる恐怖が、酒呑童子の物語と造形を生んだ」
そう見れば、確かに、絵詞に描かれた鬼の顔は朱に染まり、赤斑が浮かんだ天然痘の症状を連想させる。
妖怪研究で知られる国際日本文化研究センターの小松和彦教授も、妖怪の“正体”を「人間の恐怖心が生み出した幻想。理解できない、得体のしれないものに形を与えることで納得し克服しようとした。妖怪を見れば人間が何を恐れてきたかが浮かび上がってくる」と言う。
例えば、「小豆洗い」。深夜、人がいるはずのない川辺から聞こえてくる小豆を洗うような音におびえ、そこに妖怪がいるという物語を作り出した。例えば「カマイタチ」。突然、切り傷ができる現象を、つむじ風とともに現れて切りつけていく妖怪の仕業だと考えた。
「或(アルイ)ハ目一ツ有ル鬼モ有リ……或ハ手数(アマ)タ有(アル)モ有リ、或ハ足一ツシテ踊ルモ有リ」。平安時代の『今昔物語集』に語られた百鬼夜行のイメージだ。
人間の変形から出発した異類異形の恐れの対象は、やがて人工物にも広がっていく。
室町期の絵師・土佐光信作とされる『百鬼夜行絵巻』には、「つくも神」と呼ばれる古道具の妖怪たちが描かれた。桶(おけ)、つづら、鉢などの使い古しの道具類が粗末に扱われることに腹を立て、化けて人をたぶらかす。
土佐光信作とされる「百鬼夜行絵巻」(大徳寺真珠庵蔵)。ユーモラスな雰囲気も漂い、後の百鬼夜行のイメージに大きな影響を与えた 背景にあるのは、商工業の発達。ものをあっさり捨てるようになった後ろめたさが、万物すべてに霊魂が宿ると考えた日本人特有の精神文化と結びついて生まれたようだ。
そしてもののけは、江戸後期になって劇的な変化を遂げる。
18世紀後半、鳥山石燕(せきえん)の出した『画図百鬼夜行』にはろくろ首、雪女、犬神、姑獲鳥(うぶめ)などの姿がカタログのように並び、妖怪を一コマずつ描いた「化物双六」や「おばけカルタ」などの玩具(がんぐ)も登場した。いずれもおどろおどろしいだけでなく、どこか滑稽(こっけい)さも感じさせる。
兵庫県立歴史博物館学芸員の香川雅信さんは、これを「妖怪の娯楽化」と呼んだ。
「日本の歴史上で初めて、妖怪を人間が作った物だと認識した時代。妖怪は人間の完全な制御下に入ったのです」
平賀源内によるエレキテルの発明や、地動説の伝播(でんぱ)。社会は科学の時代を迎えていた。
近代に入ってさらに科学技術が進歩し、人間の支配力が自然界に行き渡るにつれて、もののけたちは、棲(す)み処(か)を失っていった。合理主義の精神が妖怪を否定し、存在を追いやった。
そして今や、妖怪たちはデータベース化されてインターネットの中に収まってもいる。
ところが一面で、妖怪に向けられる視線は再び変わってきた。現代人は、終わりのない欲望を抱え、自分の中に巣くう制御できない闇に気づき始めた。
「人間の外にいたもののけたちが、人間の内に棲みつくようになった。それはまた、妖怪のような未知の力があれば、という一種のあこがれでもあるだろう」と、香川さんはみる。
その闇から、「口裂け女」や「こっくりさん」といった都市伝説が次々と生まれている。ホラー映画の素材となったビデオや携帯電話は「現代のつくも神」とも言えるかもしれない。
2003年、国際日本文化研究センターで妖怪研究をめぐるシンポジウムが開かれた。さまざまな分野の研究者や作家らが集まり、「妖怪学」確立への幕が上がった。小松教授は言う。
「妖怪は人間たちの負の感情の分身。妖怪側の視点に立つことで、人間社会がより深く理解されてくる」
いつの世も、もののけたちが棲む異界への扉は、人間を引きずり込もうと至る所に口を開けている。
文・辻 美弥子
写真・大西 健次
<覚え書き>
国際日本文化研究センター(京都市)は、全国各地の怪異現象や妖怪伝承を集めたデータベースを作成し、インターネットのホームページ(http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/)で公開している。国内の民俗学雑誌や各時代の随筆などの記録を網羅的に調べ、約1万6000件を収録した。例えば「キツネ」にまつわる伝承は、最も多い約1400件。キツネに取り憑(つ)かれる怪談などを、伝わる地域や文書名とともに知ることができる。
db
<見どころ>
2月2、3日に演じられた壬生狂言「節分」。厄という見えない恐れの対象を、鬼の姿に託して追い払う
700年の歴史を持つ京都・壬生寺の「壬生狂言」は、仮面を着けた演者がカネや太鼓に合わせて身ぶり手ぶりで演じる無言劇。酒呑童子が登場する「大江山」のほか、「土蜘蛛(つちぐも)」「鵺(ぬえ)」など、もののけを題材にとった演目も多い。公開は毎年節分と春、秋の3度。今年の春は4月21~29日、秋は10月7~9日にある。
<この一冊と歩く> 天狗笑いと いう奴だろうか お岩様の祟りか
何処じゃ――どなたじゃ――余茂七は立ち上がった。ははは、ははははと笑い声は続いた。稲荷社。朽ちた鳥居。西陽に透けた破れ蚊帳。廃屋には人影はおろか生き物の気配もない。余茂七はまだ陽が落ちてもいないというのに俄かに怖じ気づき、及び腰でそろりそろりと根太を渡り、草を掻き分け玄関から律儀に出て、一目散に逃げた。
鬼か、もののけか。世にいう天狗笑いという奴だろうか。
――お岩様の祟りか。
京極夏彦「嗤(わら)う伊右衛門」より
「お岩様」とは「東海道四谷怪談」のお岩。もとは歌舞伎作家・4代目鶴屋南北の作品で、文政8年(1825年)に江戸で初演された。
南北の「四谷怪談」は、美しいお岩が夫の伊右衛門に毒を飲まされて悶死(もんし)し、怨霊(おんりょう)となって伊右衛門らに襲いかかる、という筋書き。江戸・化政期の繁栄を背景に、世にはびこる悪意やいやらしさ、したたかさを霊の恐ろしさに託して描いたとされる。
濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられ殺されたお菊の亡霊が恨めしげに皿の数を数える「皿屋敷」、幽霊になったお露が夜ごと男のもとに通う「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」などが登場したのも、江戸後期。妖怪を作った物だと認識するのと同様、怪異な現象を客観視し、文芸や芸能作品に昇華できるようになったと言える。
(2006年02月14日 読売新聞)
この記事も、タメになりましたので、記録に貼り付けっっ☆
もののけの棲み処をみる
恐れとあこがれ映し
日本は古来、無数のもののけたちが跋扈(ばっこ)している国だ。
私たちが抱く恐れの原初的なイメージを凝縮した平安の言葉がある。「百鬼夜行」。闇夜、「様々ノ怖(オソロ)シ気ナル形」をしたものたちが列をなして都を徘徊(はいかい)している。見てはいけない。
「もの」の語源は、元来は霊的存在を表した「鬼」。物の怪(け)は鬼気であり、祟(たた)りをなす霊魂の遍在を示す。
この仮面は、京都・壬生寺の重要無形民俗文化財「壬生狂言」中でかぶる酒呑童子(しゅてんどうじ)の顔だ。平安時代、都の人を攫(さら)っては食らったという伝説の鬼。
眉間(みけん)に怒気がこもり、カッと見開いた眼(め)は射すくめてくるようだ。
2004年、赤外線調査で、面の裏に「文禄三年」(1594年)の墨書が発見され、安土桃山期の作とわかった。まだ酒呑童子の演目はなく、初めは地獄の鬼を表現していたらしい。
現代。もののけを扱った映画のヒットは続き、妖怪はフィギュア(人形)ともなってもてはやされる。
時代とともに姿を変えつつ、語り継がれるあまたのもののけの物語。そこに自然への畏怖(いふ)と、異界へのあこがれを映し出しながら、その棲(す)み処(か)は、私たちに迫ってきた。
百鬼 いつしか人間の内へ
(酒呑童子の首を埋めたと伝わる首塚大明神。柵の中央、盛り土の上に四角い石がまつられ、鬼の威力を封印するかのようだ。今では首から上の病に御利益があるとされ、祠(ほこら)には参拝の人が供えたらしいカップ酒が並んでいた(京都市西京区の老ノ坂峠で))
国道を脇にそれ、車1台がやっと通れる旧山陰道を奥に進んだ行き止まり。京都市と亀岡市の境界である大枝山の、陽(ひ)が射さない山中に、やっと、その塚を見つけた。酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を埋めたと伝わる、首塚大明神。
14世紀から15世紀に成立した絵巻『大江山絵詞(えことば)』に現れる酒呑童子の物語は、こうだ。
平安後期の正暦年中、都の姫や若君が失踪(しっそう)する事件が続発した。これを占った陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明は「帝都より西北にあたりて大江山といふ山有、かの所にすむ鬼王の所行なり」と告げた。武勇でならす源頼光らが退治に向かい、酒呑童子を毒酒で眠らせ、首を切り落とす……。
酒呑童子 疫病の具現か
後世、鬼=もののけの代表格となる酒呑童子とは、いったい何者なのか。
「大江山」が、先の大枝山なのか、北方・福知山市の大江山なのかも今なお諸説あるが、神戸大学の高橋昌明教授は大枝山説をとって、「酒呑童子は都に病をはやらせた疫神(えきじん)の象徴だ」と新しく読み解いた。
平安京ではたびたび天然痘などの疫病がはやった。なかでも正暦5年(994年)の大流行は記録にも残り、絵詞の「正暦年中」と合致する。疫病が都へ入ってくるのは、他国との境界からだ。大枝山はまさしく、隣国・丹波との国境だった。
「疫病でばたばたと人が倒れ、姿を消していく。目に見えないものが境界を越えてじわじわと迫ってくる恐怖が、酒呑童子の物語と造形を生んだ」
そう見れば、確かに、絵詞に描かれた鬼の顔は朱に染まり、赤斑が浮かんだ天然痘の症状を連想させる。
妖怪研究で知られる国際日本文化研究センターの小松和彦教授も、妖怪の“正体”を「人間の恐怖心が生み出した幻想。理解できない、得体のしれないものに形を与えることで納得し克服しようとした。妖怪を見れば人間が何を恐れてきたかが浮かび上がってくる」と言う。
例えば、「小豆洗い」。深夜、人がいるはずのない川辺から聞こえてくる小豆を洗うような音におびえ、そこに妖怪がいるという物語を作り出した。例えば「カマイタチ」。突然、切り傷ができる現象を、つむじ風とともに現れて切りつけていく妖怪の仕業だと考えた。
「或(アルイ)ハ目一ツ有ル鬼モ有リ……或ハ手数(アマ)タ有(アル)モ有リ、或ハ足一ツシテ踊ルモ有リ」。平安時代の『今昔物語集』に語られた百鬼夜行のイメージだ。
人間の変形から出発した異類異形の恐れの対象は、やがて人工物にも広がっていく。
室町期の絵師・土佐光信作とされる『百鬼夜行絵巻』には、「つくも神」と呼ばれる古道具の妖怪たちが描かれた。桶(おけ)、つづら、鉢などの使い古しの道具類が粗末に扱われることに腹を立て、化けて人をたぶらかす。
土佐光信作とされる「百鬼夜行絵巻」(大徳寺真珠庵蔵)。ユーモラスな雰囲気も漂い、後の百鬼夜行のイメージに大きな影響を与えた 背景にあるのは、商工業の発達。ものをあっさり捨てるようになった後ろめたさが、万物すべてに霊魂が宿ると考えた日本人特有の精神文化と結びついて生まれたようだ。
そしてもののけは、江戸後期になって劇的な変化を遂げる。
18世紀後半、鳥山石燕(せきえん)の出した『画図百鬼夜行』にはろくろ首、雪女、犬神、姑獲鳥(うぶめ)などの姿がカタログのように並び、妖怪を一コマずつ描いた「化物双六」や「おばけカルタ」などの玩具(がんぐ)も登場した。いずれもおどろおどろしいだけでなく、どこか滑稽(こっけい)さも感じさせる。
兵庫県立歴史博物館学芸員の香川雅信さんは、これを「妖怪の娯楽化」と呼んだ。
「日本の歴史上で初めて、妖怪を人間が作った物だと認識した時代。妖怪は人間の完全な制御下に入ったのです」
平賀源内によるエレキテルの発明や、地動説の伝播(でんぱ)。社会は科学の時代を迎えていた。
近代に入ってさらに科学技術が進歩し、人間の支配力が自然界に行き渡るにつれて、もののけたちは、棲(す)み処(か)を失っていった。合理主義の精神が妖怪を否定し、存在を追いやった。
そして今や、妖怪たちはデータベース化されてインターネットの中に収まってもいる。
ところが一面で、妖怪に向けられる視線は再び変わってきた。現代人は、終わりのない欲望を抱え、自分の中に巣くう制御できない闇に気づき始めた。
「人間の外にいたもののけたちが、人間の内に棲みつくようになった。それはまた、妖怪のような未知の力があれば、という一種のあこがれでもあるだろう」と、香川さんはみる。
その闇から、「口裂け女」や「こっくりさん」といった都市伝説が次々と生まれている。ホラー映画の素材となったビデオや携帯電話は「現代のつくも神」とも言えるかもしれない。
2003年、国際日本文化研究センターで妖怪研究をめぐるシンポジウムが開かれた。さまざまな分野の研究者や作家らが集まり、「妖怪学」確立への幕が上がった。小松教授は言う。
「妖怪は人間たちの負の感情の分身。妖怪側の視点に立つことで、人間社会がより深く理解されてくる」
いつの世も、もののけたちが棲む異界への扉は、人間を引きずり込もうと至る所に口を開けている。
文・辻 美弥子
写真・大西 健次
<覚え書き>
国際日本文化研究センター(京都市)は、全国各地の怪異現象や妖怪伝承を集めたデータベースを作成し、インターネットのホームページ(http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/)で公開している。国内の民俗学雑誌や各時代の随筆などの記録を網羅的に調べ、約1万6000件を収録した。例えば「キツネ」にまつわる伝承は、最も多い約1400件。キツネに取り憑(つ)かれる怪談などを、伝わる地域や文書名とともに知ることができる。
db
<見どころ>
2月2、3日に演じられた壬生狂言「節分」。厄という見えない恐れの対象を、鬼の姿に託して追い払う
700年の歴史を持つ京都・壬生寺の「壬生狂言」は、仮面を着けた演者がカネや太鼓に合わせて身ぶり手ぶりで演じる無言劇。酒呑童子が登場する「大江山」のほか、「土蜘蛛(つちぐも)」「鵺(ぬえ)」など、もののけを題材にとった演目も多い。公開は毎年節分と春、秋の3度。今年の春は4月21~29日、秋は10月7~9日にある。
<この一冊と歩く> 天狗笑いと いう奴だろうか お岩様の祟りか
何処じゃ――どなたじゃ――余茂七は立ち上がった。ははは、ははははと笑い声は続いた。稲荷社。朽ちた鳥居。西陽に透けた破れ蚊帳。廃屋には人影はおろか生き物の気配もない。余茂七はまだ陽が落ちてもいないというのに俄かに怖じ気づき、及び腰でそろりそろりと根太を渡り、草を掻き分け玄関から律儀に出て、一目散に逃げた。
鬼か、もののけか。世にいう天狗笑いという奴だろうか。
――お岩様の祟りか。
京極夏彦「嗤(わら)う伊右衛門」より
「お岩様」とは「東海道四谷怪談」のお岩。もとは歌舞伎作家・4代目鶴屋南北の作品で、文政8年(1825年)に江戸で初演された。
南北の「四谷怪談」は、美しいお岩が夫の伊右衛門に毒を飲まされて悶死(もんし)し、怨霊(おんりょう)となって伊右衛門らに襲いかかる、という筋書き。江戸・化政期の繁栄を背景に、世にはびこる悪意やいやらしさ、したたかさを霊の恐ろしさに託して描いたとされる。
濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられ殺されたお菊の亡霊が恨めしげに皿の数を数える「皿屋敷」、幽霊になったお露が夜ごと男のもとに通う「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」などが登場したのも、江戸後期。妖怪を作った物だと認識するのと同様、怪異な現象を客観視し、文芸や芸能作品に昇華できるようになったと言える。
(2006年02月14日 読売新聞)