ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 【神様はじめました】神様、ダイエットをする【巴奈々】2012年11月27日 01:22 ――奈々生の様子がおかしい。 巴衛は目の前に座る奈々生を眺めながら、僅かに眉を顰める。しかし、当の本人の奈々生はそんな巴衛の視線に気付いているのか、気付いていないのか――鈍感な奈々生のことだから、間違いなく後者だろう――手にしている箸を箸置きに置いて「ご馳走様でした」と食事を終えた。彼女の前に並べられた食器には、まだ食べ物が半分以上も残っている。奈々生がこんなに食事を残すのは本当に珍しい。基本的に、奈々生は出されたものは綺麗に食す。ただし、椎茸を除いて、だけれども。しかし、本日は奈々生の大嫌いな椎茸を使った料理は一切ない。それなのに、奈々生がこれほどの量の食事を残すのは極めて稀だ。否、正確には初めてと言ってもいいだろう。 だからこそ、巴衛はどうしても解せない。奈々生が神になってからというもの、巴衛なりに色々勉強し奈々生の口に合うような食事を作るようにしている。実際、奈々生は巴衛の作る料理にいつも舌鼓を打ち、幸せそうな笑みを浮かべて「巴衛の作るご飯は本当に美味しいね!」と言ってくれている。それなのに、その奈々生が半分しか食事を口にしていないのだ。これは由々しき事態だ。「奈々生」「ん?」「食事がまだ半分以上も残っているぞ」「あー……うん。ごめんね。なんか、胃がもたれてるみたい。残りは明日の朝食べるから。せっかく作ってくれたのにごめんね」 巴衛の作った食事を残すことに申し訳なく感じているようで、奈々生は眉尻を下げて謝った。「いや、それは構わんが……お前、体調が悪いのではないか?」「……え?」「お前がこんなに食事を残すなんて珍しい。それに、今日の弁当も半分程残っていた」 奈々生から渡された弁当の中身もやっぱり夕餉と同じように半分程残っていた。やはり、奈々生は体調が悪いのではないだろうか。 人間は妖と違い、本当に弱い。すぐに風邪を引いて体調を崩すし、些細なことで怪我をする。だからこそ、巴衛は心配で堪らない。万一、奈々生の身に何かあれば一大事だ。「ち、違うよっ! 全然そんなんじゃないの! ただの胃もたれなだけだからっ」 奈々生は慌てた様子で、両手を横に振って巴衛の言葉を否定するが、そんな奈々生の言葉をすんなり聞き入れられる訳がない。奈々生は変な所で意固地を張るところがある。この少女ならば、巴衛に心配かけまいとして、平静を装うぐらいやりかねない。「それにしたって残し過ぎだろう。熱でもあるのではないか?」「そうだよぉー! 奈々生ちゃんがそんなに沢山ご飯を残すなんて、おかしいよ!」 奈々生の隣で食事をしていた瑞希もまた、心配げな眼差しで奈々生を眺める。「奈々生さまぁー! 体調が悪いのなら無理をしてはいけませぬ!」 鬼火達も奈々生を眺めるその眼差しはとても心配そうだ。 この社に居る者は皆、奈々生が大好きだ。だからこそ、奈々生に元気がなければ自分のことのように心配する。全てこの少女の人徳故だろう。「本当になんでもないの! 皆、ちょっと過保護すぎるんじゃない?」 奈々生は誤魔化すようにケラケラと笑った。しかし、その頬が僅かに引き攣っているのを、巴衛は見逃したりしない。伊達に四六時中奈々生を見守っている訳ではない。奈々生の些細な変化を見過ごす程、間抜けではない。「やっぱりお前、何か隠しているだろう。本当は体調がすこぶる悪いのではないか?」 巴衛は徐に腰を上げて前のめりになると、慌てふためく奈々生の額に自分のそれを寄せた。合わせた額から前髪越しに緩やかに熱が伝わる。その温もりはとても心地が良く、熱があるようには思えなかった。「ちょ、ちょっと……巴衛……顔ちか……」「うむ……。熱はなさそうだな」「あ、あの……離れて……」「ならば、本当に胃がもたれているだけか?」「離れなさいっ!」 奈々生に強く命じられ、言霊が巴衛を縛る。意思に反して勝手に身体が奈々生から離れた。「もうっ! 巴衛は心配しすぎだよっ! とにかくっ! 私はなんともないの! 分かった!?」 奈々生は早口で捲し立てるように言うと、そのまま自室に籠ってしまった。奈々生が出て行った後、部屋には何とも言葉では形容し難い空気が流れる。「怪しい……」 閉じられた障子を眺めながら、ボソリと巴衛の薄い唇から低い声が零れ落ちた。 ◆ ◆ ◆ 風呂の準備が出来、奈々生を呼びに部屋に向かった巴衛は、障子を開けた瞬間、目の前の光景に固まった。「……お前は何をしているのだ?」 部屋の中の奈々生は、いつの間に着替えたのかジャージ姿だった。そのジャージには巴衛も見覚えがある。奈々生の学校で指定されているもので、いつも体育の授業の際に着込むんでいる。学校ならいざ知らず、このような夜遅くに着るようなものではない。「あーっと……ちょっと食後の運動を……。胃もたれしてるから、運動すれば調子戻るかなー……と……」「……は?」「私、ちょっとランニングしてくるね!」「はあ!?」 奈々生は誤魔化すように笑いながら、巴衛の横をすり抜けて社を出て行こうとする。慌てて手を伸ばして奈々生の腕を掴むと、巴衛はその動きを制した。「馬鹿か、お前はっ! こんな時間に出歩くなんて死ぬつもりか!?」「大丈夫だよぉー! ちょっとそこら辺走ってくるだけだから」「お前はいつになったら自分が神である自覚を持つのだっ! こんな時間に結界の外に出てみろ! たちまち妖に襲われるぞ!」「大丈夫だって! ほんと少しだけだから……」「駄目だ。断じて許さん」 非力な人神など、妖にとって格好の餌食だ。まさに鴨が葱と鍋を背負って歩いているようなものだと、何故この娘は気付かぬのか。前から阿呆だとは思っていたがここまで阿呆だと、いっそ尊敬に値する。全く羨ましくないけれども。 このまま行かせて堪るか、と告げるように、奈々生の腕を掴むその指先に力を込める。そんな巴衛の思いが伝わったのだろう。奈々生の唇から諦めの溜息が漏れた。「分かったわ。じゃあ、ランニングはやめる。その代わり、結界内ならいいでしょ?」 奈々生は茶目っ気たっぷりに笑う。「この社、階段結構急だから、上り下りするだけでいい運動になると思うんだよね」「……」「ね? 巴衛、いいでしょ?」 結界内ならば、これ以上口出しをすることは出来ない。正直、奈々生の様子がおかしいのは明らかなので、早く風呂に入って寝て欲しいのが本音だが、可愛く上目遣いでおねだりされてしまうと、巴衛は今にも飛び出しそうな苦言を飲み込むしかない。どうも奈々生のこの顔に弱い。このように奈々生に上目遣いでおねだりをされてしまうと、どうしても強く突っ撥ねることが出来ないのだ。これも惚れた弱みか。「……分かった。その代わり、絶対に結界の外には出るなよ?」「うん! ありがとう、巴衛っ!」 奈々生の顔に満面の笑みが広がり、その笑みの愛らしさに巴衛は思わず息を飲む。花が咲き綻ぶようなその笑みを見るだけで、胸が甘く軋むのだから、自分も相当末期だ。 破壊力満点の笑みを巴衛に落とした鈍感少女は、ヒラリと手を振ると社を飛び出した。しかし、奈々生のことが心配で堪らない巴衛は、つい縁側に腰を下ろし奈々生を見守る。本当は朝餉の下ごしらえをしておきたいのだが、やはり奈々生から目を離すのが怖い。奈々生は、そのように心配する巴衛を余所に、「いっちにっ、いっちにっ」と跳ねるような声音でリズムを取りながら、長い階段を上ったり下りたりを繰り返した。「……ったく……あの阿呆は何をしたいのだ……」 頬杖をついて溜息を零しながらそんな奈々生を眺めていると、不意に「ダイエットだね、あれは」という声が上から降ってきた。その声に弾かれたように顔を上げれば、すぐ後ろに瑞希が立っており、巴衛同様、階段を駆ける奈々生を眺めている。「……ダイエット……?」「うん、あれは間違いないよ。この間、ワイドショーで見たんだよね」 瑞希は巴衛と違いテレビが大好きで、暇があるとよくテレビを見ている。ワイドショーというものも、瑞希がよく見ている番組の一つだ。「何だ、それは」 聞き覚えのない言葉に、巴衛は眉根をきつく寄せ、すぐ後ろに立つ瑞希を睨み上げた。「簡単に言うと、食事を減らしたり運動したりして痩せようとすること。なんか、女の子は太りたくないみたいだよ?」「……奈々生は太ってなどいないだろう」「うん。そうだよね。僕も奈々生ちゃんは今のままでいいと思う。十分可愛いもんね。でも、痩せてる子程、痩せようとするみたいだよ?」 瑞希の言葉を耳にしながら、巴衛は必死に階段を駆ける奈々生を眺めた。「……フン。下らぬ」 今のままでも十分可愛いのに。 心中でそう呟きながらも、その言葉が空気を震わすことはない。「ふむ。ならば、ダイエットなど止めたくなるようにするまでだ」 一生懸命運動する奈々生を眺めながら、巴衛はニヤァ……と人の悪い笑みを浮かべて笑う。そんな巴衛の笑みを見た瑞希が、「うわー、巴衛くんの顔、極悪過ぎてとても神使のものじゃないよ。流石、元野狐だねぇー」と憎まれ口を叩いたものだから、巴衛は無言ですぐ後ろに立つ瑞希の足払いをし、すっ転ばせた。 ◆ ◆ ◆ 翌朝、制服に着替えた奈々生は、ちゃぶ台の上に並ぶ朝食を眺めながら、その顔を引き攣らせた。「えーっと……巴衛?」「何だ? ささっ、奈々生。今朝はお前の好物ばかり揃えたぞ! 沢山食べろ!」「いや……私……ちょっと……」 そうは言いながらも、食卓に並ぶご馳走にゴクリと奈々生の喉が音を鳴らした。そんな奈々生の姿に、巴衛は分からぬようにほくそ笑む。きっと奈々生はこれで降参するだろう。 そうだ。好物を前にしてさぞかし辛かろう? だから、さっさとダイエットなどという下らぬことは止めてしまえ。 ちゃぶ台の上の食事を眺めながら明らかに葛藤している奈々生を眺め、巴衛は心中で勝ち誇る。 伊達に長いこと、奈々生の神使をしていない。奈々生の食事の好みなど手に取るように分かる。 本日、食卓に並べたものは全て奈々生の好物だ。これらを前にすれば、奈々生の目論見も泡と化すだろう。「い、いただきます……」「ああ。たんと食べろ」 最初は順調に箸を進めていた奈々生だったが、昨日と同じように半分程食事を終えて、箸を置いた。「ご馳走様でした」「奈々生! まだ半分残っているぞ!?」「せっかく私の好きなものばかり作ってくれたのにごめんね? まだ胃の調子が悪いみたい」 あくまでもダイエットということは隠しておきたいのか、奈々生はまた胃もたれと嘯く。気付かれていないと思っているその浅はかさにほとほと呆れるが、そちらがその気ならば、こちらも応戦するまでだ。 奈々生! お前がその気ならば、こちらにもそれなりの手を使わせて貰うぞ! 心中で巴衛がそんな不穏なことを考えていることなど露程も知らない奈々生は、相変わらず誤魔化すようにヘラヘラと緩い笑みを浮かべて笑っていた。 ◆ ◆ ◆ 巴衛の奈々生の好物尽くし作戦は一週間程続いたが、どうやら奈々生も相当な決意でダイエットをしているようで、一向に折れる様子がない。相変わらず食事は普段の半分以下の量しか取っておらず、日に日に奈々生の顔色が悪くなった。成長途中の若干十六歳の娘がそのようなことをすれば、そうなるのも当然だ。だから、巴衛は必死に奈々生に元通りの食事を取らせようとするが、奈々生が白旗を上げることはなかった。 一時間目の授業が終わり休み時間に入るや否や、奈々生は友人達の元で楽しげに話しているが、その顔色は酷いものだ。いつか倒れるのではないか、と巴衛は心配で仕方がない。「おい、狐」 その声に誘われるように顔を声の方へ向ければ、奈々生を眺めている間に鞍馬が巴衛の席のすぐ横まで来たようで、剣呑な眼差しで見下ろしていた。「……なんだ」「アレ、何だよ」「……」「奈々生、明らかに顔色悪いだろ。お前、神使なのに何やってんだよ」 鞍馬の言葉に、巴衛は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。 奈々生にあのような顔をさせてしまっているのは、神使である自分が不甲斐ないからだ。反論の余地が全くない為、巴衛は閉口する他ない。「あの調子じゃ、その内倒れるんじゃないのか?」「そんなことは分かっている」「だったら、どうにかしろよ、アレ」 どうにか出来るものならば、どうにかしたい。しかし、どんなに巴衛が手を尽くしても、奈々生が頑なに食事を口にしようとしないのだから、巴衛もお手上げ状態だ。「どうにか出来るものならば、俺だって……」 どうにかしたい、と続けようとした矢先、二時間目開始を知らせるチャイムが教室を駆け抜けた。鞍馬はまだ言いたいことがあったようだが、チャイムに遮られ、チッと舌打ちを一つ零すと自分の席に戻っていった。奈々生もまた友人達に軽く手を振り、自分の席に向かう。そんな奈々生の様子を眺めていると、不意にぐらりと奈々生の身体が傾いた。 理屈じゃなかった。巴衛は弾かれたように椅子から立ち上がると、崩れ落ちそうな奈々生の元に駆けつけ、その身体を支える。「奈々生っ!? 大丈夫かっ!?」 巴衛は腕の中の奈々生に必死に声を掛けるが、その瞳は閉じられたままで血の気が全くないその顔がいつもの笑みを浮かべることはなかった。 ◆ ◆ ◆ 結局、奈々生が瞳を再び開けたのは、意識を失ってから一時間程してからだった。長い睫毛が微かに震え、ゆるゆると瞼が持ち上がる。まだ睡んでいるのか、現れた瞳はおぼろげだ。脆弱な瞳がゆっくりと動き、すぐ横でパイプ椅子に腰を下ろしている巴衛を捉えた。「……とも……え……?」「目覚めたか?」「あ……れ……? ここ……保健室……?」「こんの……阿呆……っ!」 巴衛の怒声が、静寂に包まれた保健室を駆け抜ける。目覚めたばかりなのに怒鳴られ、流石の奈々生も驚いたのか、二重の黒目がちな大きな瞳が一層見開き、皿のように丸くなった。「だから、あれ程ちゃんと食べろと言ったのだっ!」 結局自分の予想通りの結果になり、腹の底から爛れるような怒りが込み上げる。「あ……あれ……? もしかして……私……倒れたの……?」「軽い栄養失調だ」「……え」「ダイエットなど下らんことをするからだ」 吐き捨てるように言った刹那、奈々生の瞳から瞬きが消えた。「……え? もしかして……巴衛……気付いてたの……?」「これだけあからさまで気付かぬ訳ないだろう」「そっか……そうだよね……」 奈々生は自嘲気味な笑みを浮かべながら、困ったように笑う。「まったく……お前は本当にどうしてそう考えなしなのだ。大体、ダイエットなどして、ただでさえ貧相な身体を一層貧相にしてどうする」「……っ」「お前はいつもそうだ。俺の進言を無視して、結局俺の言った通りのことになるではないか」「……よ」「は?」「巴衛には分からないよっ!」 先程まで押し黙っていた奈々生から怒声が上がり、奈々生は頭の下の枕を引っ掴むと、そのまま巴衛の顔に投げつけてきた。予期せぬ攻撃に、全く身構えていなかった巴衛の顔面に、パスンと乾いた音を立てて枕が炸裂する。「お前……っ! 枕を神使の顔に投げつけるとは、一体どういう了見だっ!」「巴衛には私の気持ちなんて絶対に分からないわよっ!」 奈々生の大きな瞳から溢れるように涙が零れ、その光景に流石の巴衛もぎょっと目を見張る。「お、おい……。奈々生……何も泣くことないだろ……」 奈々生の涙に弱い巴衛は慌てるが、奈々生の頬を濡らす涙は止まるどころか激しくなる一方だ。「大体っ! 元はといえば巴衛が悪いんだからねっ! 巴衛の料理が美味し過ぎるから食べ過ぎちゃって……だから、私太っちゃったんだよっ!」「お前は別に太っていないだろう……」「前よりも太ったのっ! それに私、自分の身体が貧相なことぐらい分かってるもんっ! 私だって少しはタヌ子さん達みたいに色っぽくなりたかったの! ……だから……だから……」 奈々生はぐすぐすと鼻を鳴らして涙を零しながら、巴衛から涙を隠すように手の甲で乱暴に涙を拭う。巴衛はそんな奈々生の手首を掴み、その動きを止めた。「よせ。そんな風に擦ったら、目元が赤くなるだろう」「どうせ、赤くなったって巴衛は何とも思わないでしょっ。放っといてよっ」 奈々生の言葉が胸に刺さり、息が詰まる。 肺が何かで縛られているみたいにぎゅっと狭くなり、上手く呼吸が出来ず、巴衛は息を漏らすように震える唇をそっと開いた。「……頼むから……」 巴衛は腕を伸ばして泣きじゃくる奈々生の身体を抱き締めて、腕の中に閉じ込める。「……頼むから泣くな。俺はお前に泣かれるのに弱い」「……巴衛……」「すまなかった。思慮が足りなかった」 奈々生を宥めるように、奈々生の背中を優しく擦った。次第に落ち着きを取り戻したようで、腕の中の奈々生の身体から力が抜ける。「私も心配掛けてごめんなさい……。保健室に巴衛が運んでくれたんだよね? ありがとう……」「そんなことはいい。お前が目覚めて良かった……」「巴衛……」「お前が倒れた時、心臓が止まるかと思った。寝ている間も、お前の顔は真っ青で、このまま意識が戻らないのではないか、と思ったら、怖くて堪らなかった……」「ごめんね、巴衛……」 腕の力を抜いて奈々生の顔を覗き込めば、涙で濡れた瞳がぼんやりと巴衛を見上げた。涙の膜が掛っていることもあり、ゆらゆらと心許なく揺れる瞳がやけに艶っぽくて心が跳ねる。「お前はそのままで十分だ。だから、二度とダイエットなどするな」「……うん。本当にごめんね」 そんなことをしなくても、俺は十分お前に欲情しているよ。 その言葉は、心中で呟くだけに留めて、巴衛は再び奈々生の身体を抱き締めた。 腕の中の身体が温かいことを実感し、心が漸く落ち着きを取り戻す。 きっと自分は、もうこの温もりを手放すことは出来ないだろう。 この温もりが消えたら、自分はどうなってしまうのだろうか。 そんな疑問が胸を掠めたが、そんな思いを掻き消すように、掻き抱くその腕に力を込めた。 ◆ ◆ ◆「あーお腹空いたぁー! 今日もモリモリ食べるぞぉーっ!」 巴衛が夕餉の支度が出来たことを告げると、奈々生は跳ねるような足取りで姿を現した。 学校で倒れて以来、ダイエットを止めた奈々生は、もう食事を残すことはない。いつもと同じように綺麗に完食してくれている。そんな奈々生の姿に、巴衛も一安心だ。「今日の夕飯は何かなぁー……って、ゲッ。何これ……」 食卓に並んだ食事を見た奈々生の顔から笑みが消え、サーッと血の気が引く。 それもその筈だ。食卓に並んでいるのは椎茸尽くしの料理の数々で、椎茸嫌いの奈々生にとってはまさに拷問とも言えるだろう。「奈々生はダイエットをしたいみたいだからな。俺なりにダイエット料理を考えたのだ」「だ、だからって……なんで椎茸……?」 完全に奈々生の顔は引き攣っており、その浮かべている笑みはかなり歪で酷いものだった。「俺も色々調べてみたのだが、この世にはきのこダイエットというものがあるらしいぞ。きのこ類は低カロリーなのに栄養も沢山ある。まさにダイエットに最適らしいではないか」「え……で、でも……あの……」「痩せたいのだろう? さあ、遠慮せずにたんと食べろ。何せ俺の料理は美味しくて食べ過ぎてしまうようだしな?」「い……いや……絶対にいや……」 余程、椎茸を口にしたくないのか、奈々生はゆるゆると首を横に振って長い髪を左右に揺らしながら、ゆっくりと後ずさる。「そうか。ならば、この俺が食べさせてやろう」 巴衛は椎茸の姿焼きを箸で摘むと、不敵な笑みを浮かべながら、涙目で抵抗を示す奈々生の口元にそれを寄せた。「ほら、奈々生、口を開けろ。この俺が食べさせてやる。嬉しかろう?」「ご、ごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃっ! もう許してえぇぇぇぇぇぇっ!」 星が瞬く夜空に、少女の悲鳴が響き渡る。そんな少女の声で、また社に少女の幽霊が出るという噂が街を飛び交うのだが、その時は誰も知る由もなかった。 本日もミカゲ社は平和なり。 =おわり=