エピローグ

 桜前線が日本列島を過ぎ去り、町を薄桃色に彩っていた桜の花びらが散って行くと、ほのかに初夏の香りが漂って来るようだった。


 散り行く桜を見て、人々は春との別れを感じ、多かれ少なかれ感傷に浸るだろう。俺も毎年この時期はそのように感傷に浸っていたが、今年はそうならなかった。俺はそれよりももっと大切な人と再会し、そして結ばれたのだから。


 高校に入学してから大方怠惰であった俺が、今朝は珍しく早起きをして、拙くも朝食を作り、きちんと歯磨きやら何やらを済ませて、六畳間のアパートを後にした。この暮らしぶりを見れば、息子の一人暮らしを案じている両親も幾分か安心してくれるだろう。まあ、後はきちんと継続出来るかどうかだけが問題だが。とりあえず、三日坊主だけは避けるようにしよう。


 いつもより軽快な足取りで、俺は美礼学園にたどり着いた。入学したばかりでどこかふわふわしていた一年生も、この時期になるとある程度学園生活にも慣れて、地に足が付いているようだ。俺もまた同じだった。最も入学早々から少なからず厄介な目に遭って来たので、他の一年生達よりも強いハートを身に付けている自信があった。


 昇降口を上がり一年E組の教室へと向かう。いつもは欠伸をしながら自分の席へと向かうが、今の俺は登校して来た時の軽やかな歩調を維持している。ああ、何て気持ちの良い朝なんだろうか。


「おはよう」


 声をかけられて振り向くと、そこには千夏がいた。


「おう、おはよう」

「何か今日のあんた、いつもと雰囲気が違うわね」

「まあな。俺は改心して、これからはキビキビと学園生活を送ることにしたんだ」

「ふぅん、あっそ。何かいつもと違ってキモいわね」

「おいおい、千夏。人のことをそんなキモいキモいって言っちゃダメだぞ」


 暴言を吐かれた俺はしかし、にこやかに返した。そんなことをしているとやっぱりMなのと言われてしまいそうだが、それは大いに違う。今の俺の心は澄んでいる。ほんのちょっと罵倒されたくらいで怒ったり悲しんだりするようなヤワなメンタルではないのだ。


 そんな俺の様子を見て、千夏は少しばかり顔を引きつらせている。


「まあ、あんたが張り切る気持ちも分かるけど……いつまで続くのかしらね」

「何を言っているんだ。俺はこれからずっとこの状態を維持して行く。もっと強くて良い男になるんだ」


 拳を握り締めて息巻く俺を見て、千夏は軽くため息を吐き、自分の席へと戻って行った。




 放課後になると、俺は速やかに席から立ち上がる。それから、ちょうど対角線上に位置する千夏の席に向かった。


「おい、千夏。早く言研に行こうぜ」


 俺が言うと、千夏は眉をひそめた。


「分かったわよ、落ち着きなさい」


 以前はどちらかといえば俺が千夏をたしなめる立場であった。しかし、昨日の一件をきっかけに、その立場はすっかり逆転してしまったようだ。


「そうだ、千夏。ありがとうな」

「何よ、突然」

「昨日のこと。お前が来てくれなかったら、俺はきっと昴の仮面を剥がすことは出来なかったと思う。だから、本当にありがとうな」

「そうよ、感謝しなさい。大体、好きな男が自分じゃない他の女と結ばれるための手助けをするとか、あたしも大概アホよね」


 千夏は大きくため息を吐く。


「そんなことねえよ。お前は本当に良い奴だ。良い女だと思う」

「そんなこと言って、もうあたしを彼女にはしてくれないんでしょ?」


 俺は一瞬言葉に詰まるが、


「ああ、ごめん。それは出来ないよ」

「知っている。言ってみただけ。まあ、あんなアホみたいな提案をして一時だけ彼女にしてもらったのは私自身だから、あんたはそんな負い目に感じることはないわ」

「千夏……ありがとう」

「別に、何度もお礼言わなくても良いわよ。キモいから」

「はは、お前本当にひどいな」


 俺達は並んでそんな会話をしながら廊下を歩いて行く。やがて、突き当りにある言研の部屋にたどり着いた。


 この扉を開いた先に、彼女がいる。そう思うと、胸が高鳴った。俺は彼女のために強くなると決めた。先は長いかもしれないけど、彼女を守れるくらい強い男になるんだ。


 軽く息を整えた後に、がらりと扉を開いた。


「やあ、来たね君達」


 扉を開くと、椅子に腰を掛けて凛と佇む昴がいた。俺はそのいつも通りの光景を見て、あんぐりと口を開けてしまう。


「おいおい、どうしたんだい柳田くん。そんな風に口を開けて。ここは動物園じゃないし君も動物じゃない。だから、エサを期待しても無駄だよ」


 昴は相変わらず軽やかに俺を皮肉ってみせる。


「いや、そうじゃなくて……お前どうしたんだよ」

「ん、どうしたって? 私はいつも通りじゃないか」

「違うだろ。だって昨日、俺はお前の仮面を剥ぎ取ったんだ。それなのに何で……」


 半ば呆然として俺が問いかけると、昴はふっと笑みをこぼした。


「うむ。実は今朝、仮面を外した素の私の状態で教室に行ったんだが……そうしたら『え、誰?』みたいなことを言われてしまったんだ。なあ、麻帆里?」


 昴が言うと、彼女の隣にちょこんと腰かけていた麻帆里は「うん、みんなスバルンって分からなかった」と言う。


「そうしたら、私は何だか無性に恥ずかしくなってね。仕方ないから、また仮面を付けることにしたのさ」

「何だそれ!? 昨日の俺達の苦労は何だったんだよ!?」


 俺は声を大にして叫ぶ。


「あはは。まあ、君には悪いと思うが、やはりもうしばらくこの仮面を付けていることにしたよ。ほら、君もまだ外さなくて良いって言ってくれただろ?」

「それは……」


 それまで俺を高めていたモチベーションが一気に崩れ去った。ついでに、何だかとても横になりたい気分。そのまま溶けてなくなってしまいたい。


「ちっ、結局こいつ性悪女のままか。昨日の泣きっ面した状態は、少しだけ可愛いと思ったのに」


 吐き捨てるように千夏が言った。


「あはは、そんな風に思ってくれていたんだ。赤川くんのくせに見る目あるな」

「うっさい、ぶっ飛ばすわよ!」


 千夏がぐっと拳を握り締める。


「まあまあ、落ち着きたまえ。我々は『言語研究会』の一員だ。そんな暴力ではなく、言語力を身に付けようではないか。取り分け、上質で美しい皮肉についてね」

「ちっ、何が上質で美しい皮肉よ……」

「はは。まあ、赤川くんみたいな勇ましいゴリラ女には無理だろうね」

「誰がゴリラ女ですってぇ!?」

「はいはーい、スバルン。わたしも皮肉言えるようになりたーい」

「あはは、麻帆里はそのままで良いんだよ。その天然ぶりが何よりも愛らしいのだから」

「わーい、スバルンに褒められた」


 そんな風に会話を繰り広げる彼女達を、俺は虚ろな目で見つめていた。


「さてと、それじゃいくつか依頼も来ていることだし、早速実践と行こうか。麻帆里、赤川くん、準備をしたまえ」

「はーい」

「ちっ、仕方がないわね」


 女子達が移動を開始したにも関わらず、俺はまだ呆然と佇んでいた。


「おい、柳田くん。そんな所で何を呆けている。そのまま置物にでもなりたいのか?」


 気が付けば、昴がそばに来ていた。


「まあ、大したインテリアにはならなそうだけどな」

「うるせえよ、バカ」

「あはは、バカにバカと言われるなんて、私もヤキが回ったもんだ」

「本当に減らず口だな、おい……」


 俺は辟易として言う。


「……なあ、柳田くん」

「あ、何だよ?」

「やっぱり、こんな私は嫌いかい?」

「え?」

「こんな皮肉ばかりでキザったらしい私なんか、嫌いかい?」


 昴はじっと俺を見つめて尋ねてくる。すると、虚ろだった俺の心情が色味を帯びた。


「……いや、そんなことないよ。だって、俺は入学した時、今のお前につい見惚れちまったんだから。確かに俺が惚れて大好きなのは素の可憐なお前だけど、でも今のお前も好きだぞ。ていうか、俺は昴の全てが好きだから」


 俺が言うと、昴は小さく顔を俯けた。


「……全く、よく言うよ。今しがた再び仮面を付けた私に対して落胆していたくせに」

「うっ、それは……」

「でも、嬉しいな……」


 ふいに、昴の声色が柔らかくなった。彼女は右手で顔を覆い、何かを取り払う仕草を見せた。


「……ありがとう、幹男くん。私もあなたの全部が大好きだよ」


 可憐に、儚げに彼女は微笑む。そして、そこには昔は感じられなかった力強さもあった。


「ちょっと、あんた達何してんの? 早くしなさいよ」

「おーい、スバルン。早く早く~」


 開け放った扉の付近で、千夏と麻帆里が声をかけてくる。

 すると、昴は再び仮面を付けた。


「分かった、すぐ行く」


 そう言って、昴は再びこちらに振り向いた。


「じゃあ、行こうか。幹男くん」

「……ああ」


 俺は力強く頷き、昴と並んで歩き出した。




 (了)