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駄文が多いです。
プロローグ微睡みの意識の中、初めて“彼女”と出会った。
夜天に佇む月陽を目一杯吸収したかのような眩い光を放つ金色の髪。
そして、
降る雪のように淡い透明な肌。
翡翠の瞳は正しく磨かれた宝石のようであり、揺蕩うその儚い瞳を見ているだけで吸い込まれてしまいそうになる。
何もかもが完璧で
何もかもが整えられている。
その姿はまるで美麗な人形そのものに近く、果たしてこの世の者なのだろうかと疑ってしまう程であった。
「――問おう。」
彼女は蒼竜が奔る星々の下、勇猛な声色を響かせた。
心根にまで浸透していくかのような確かな響き。
その沁みは全身を駆け巡り、心臓を鷲掴む。
「貴方が私のマスターか?」
かつてない色に
かつてない光景。
まるで絵本の世界に足を踏み入れたかのような
現実であることを忘れてしまうかのような
そんな錯覚に陥ってしまう。
そっと彼女の元へと手を伸ばす。
彼女は薄汚れた手を麗しい両手で抱くように
優しく、包むと、聖母のように朗らかに微笑んだ。
いつもの風景に
いつもの帰り道。
そんな
いつ、
どこにでもある、
当たり前の情景に抱かれながら、上条当麻はちょっとだけ肌寒い夜の街を歩いていた。
もう、今日が終わる。
上条は頭天に煌く星々を見やった。
雲一つない夜天はどこまでも衝き抜けるように澄んでいた。
そんな澄み渡る夜天を切断するかのように蒼竜は脈動した波を上げ、宙の彼方まで駆け昇っていた。
今日もまたとない不幸の連続だったな。
上条はそんな夜天に相反するようににそっと溜息を零した。
吐かれた白い息は世界に同調し、液に沈められた水溶紙の如く溶けてゆく。
一日に溜め込んだ疲労と困憊は中々なものであり、上条の精神を密かにだは、蝕んだ。
蓄えたエネルギーなどゼロに等しく、もうとっくの昔に底にさえをついていた。
そう言えば、
今日一日、何も口にしなかったよな。
思い出したかのようにお腹が鳴った。
上条は市内の高校に通う普通の学生である。
決して成績が良いわけでもなく
スポーツが人一倍に出来るわけでもない。
特殊な実績もなければ、
そのような経験もない。
当たり障りのない単なる学生である。
ただ、少し周りと違うと言えば、親がいないこと。
厳密に言えば、数十年前に起きた災害により家族を失い、育て親に引き取られた。
だが、その育て親もまた、数年前に病気で亡くなり、現在一人暮らしをしている。
勿論、親の遺産を無駄に食いつぶすわけにはいかない。
なので、家からは少しだけ遠いが、とあるコンビニでアルバイトを行うことによって何とか生計を立てている。
親の遺産もそうだが、出来るだけ貯金に回すことで未来における大学への費用の足しにすることを考えているのである。
上条は気が付くと、住宅街の曲角にあるもの寂しげなカーブミラー中を見つめていた。
そこに映ったのは、かつての生気を失った老人のような自身の姿だった。
頬は錆びれ、皺もまた何層にも刻み込まれ、細胞は一途な衰退の運命を辿っている。
若さの象徴である弾むような肌さえも朽ち果てた世紀末のように変わり果て、何よりも弾力味を失っていた。
眼窩を染める隈は特にひどく、難病を患った病人の如く気のどくである。
長い時間を共にしていた学生服は、棄てられたかのように埃が積り、みすぼらしくなる程に汚ていた。
自身の存在を示す、生まれつきの海栗のような髪もまた、へし折られたかのように、しな垂れている。
実に憐れであった。
こんなにも、骸の如く変貌していようとはまるで思いもしない。
鏡を見ること自体、
久しぶりであり、
ともあれ、
そんな風に映る自分が怖くて、
たまらなくて、
危ぐするように避けてきた。
現実に映る光景など直視するのも辛く、
瞳に押し込みたくもなかったのである。
かつてある何時ぞやの自身の姿を味噌に浮かべ、何とか笑い顔を作り出す。
けれど、くすんだ鏡に映るのは口角の引きつった助平野郎の面だけであった。
上条の背中には悲壮という重しが圧し掛かり、内側の殻に閉じこもるよう然許りに項垂れた。
呪う、
憎むは、
この異質な己の人生“それ”である。
零れそうになる目頭を堪えるようにして、滲んだ夜天を見つめた。
星々煌く欠片さえも、ましてや月陽までもが、全て、霧に呑まれたかのようぼやけて見える。
思わず、我慢しきれない白い息が結ばれた口元から零れ出た。
微かな色は朧気に宙へと奔り、その残り火は涅の天井へと刻まれると、悲しげな風によって流されてゆく。
上条はちょっとだけ肌寒い風に染められながら、寥々たる街の中を歩いた。
捨てられたように佇む孤高の街灯が弱々しく仄かな光を放つ。
照らされているはずの暗がりのアスファルトも、
また、淡く、
消えてしまうかのようであった。
上条に際立った特徴を一つ付け加えるのであれば、
それは、絶望的なまでにツイていないということである。
例えば、
朝、目が覚めるとエアコンが壊れていた、といった電化製品のストライキなどザラではない。
学校に行くまでもが正しく修羅であり、道端に棄てられた空き缶でさえも上条に対しては、容赦なく、その研磨された牙を向けるのである。
人物なども決して例外ではなく、意味もなく襲われ、血飛沫が飛び散る喧嘩などが絶えることはない。
理由もなく“不幸”は嵐のように上条の元へ訪れると、
破壊の爪痕を残し、去ってゆく。
そのせいか、上条の精神を摩耗し、肉体も痛々しく打ちのめされていた。
歩けば、転び
また、歩こうとする前に転ぶ。
そんな日々の繰り返しであった。
疫病神の如き存在である上条は、
多くの人たちから煙たがれた。
今ではまともに会話出来る友人など片手で数える程度しかいない。
まるで、この世に蔓延る不幸を全て吸い上げているような
それを体現しているような
そんな男だったのである。
突如として、
揺れる瞳の世界に蒼紅の亀裂が奔った。
血のように生々しい紅焔がうねりを上げ
湧水のように澄んだ蒼焔に喰らいついたのである。
負け時と蒼焔も荒れ狂う紅焔を払い、場から吹き飛ばした。
一体、何が起こっているというのだろうか。
上条はその尋常ならざる光景に魅せられ、一歩も場を動くことが出来なかった。
蒼焔が奔れば、紅焔も奔る。
幾重にも重なり合い、高速で走る車体の如くぶつかれば、すぐさま距離をとり、また奔る。
空に鮮烈な爪痕を描けば、唯、互いの煌きを掻き消すように
何度も
何度も
色に染まった粒子を零しながら、憎しみ合った。
宙を飛び跳ね、地を駆け、辺りを蹂躙し、凌辱を繰り返す。
正しく、その壮観は熱を帯びる儚さを秘めた災厄そのものであった。
時刻は草木さえも臥所についたはずの丑三つ時。
上条は毎回の帰りの近道として利用している運動公園を、密かに通っていたことを後悔した。
まさか、真夜中の公園でこのような衝突が起こっていようとは意図すらしていない。
額からは冷却された粒が肌を滑り、頬を滑走するように伝った。
早くここを逃げださなければ。
そう思うのだが、
焦る気持ちのせいなのか
はたまた、恐怖のせいなのか
金縛りにかかってしまったかのように思うように身動きがとれなかった。
呼吸さえも滞り、
肺がこんなにも酸素を求めているというのに、沈殿する空気すらもまともに吸えない。
空いた口許から荒れ狂う吐息と涎が思わず零れた。
追い詰められた胸は天へと無念な、呻きを上げる。
頼むから早く動いてくれ。
肉体に縋るように念じ、両歯を砕けそうになるくらいに噛み締める。
瞼を絞り、唯々、停止した肉体に死に物狂いに鞭を打ち続ける。
けれど、
されど、
やはり、この体は動かなかった。
頬を伝う滴は、上条の元を呆気なく離れると暗がりの地面へと吸い込まていった。
暗闇の宙を奔り、その儚いは崩れ、微かな飛沫が地を濡らす。
辺りに滴の跳ねる音色が沁みていく。
その時であった。
世界は時間が止まったかのように一瞬にして色褪せたのだった。
上条の頭蓋に“不幸”と言う二文字が嫌らしくも蠢いた。
二文字は張られた神経を瞬時に駆け巡ると、細胞を次第に氷のように強張らせてゆく。
「やばい」という直感が上条の心臓を思いっきし握りしめた。
何か来る。
そんな感覚が戸惑う思考を更なる混沌へと導いた。
雑巾のように絞った瞼をそっと開く。
その眼前にあったのは狂奔にかられた光波と蒼き竜であった。
「動くな」
まるで澄み渡るような
秘境の源泉のような
その響きは、余りにも甘美なものであった。
だが、その鬼の影を伏した彩音は、上条の背後からその撥ねる心臓までも
いともたやすく貫いた。
余りにも突然の出来事。
そのせいか、思考もまた渦のようにかき乱され、揺れる瞳が中々定まらない。
「何故、ここにいる」
上条は戦慄し、膝を思わず震わせた。
己の背から感じるのは圧倒的な“殺気”である。
それは
“今からでもお前を殺すぞ”と、言うような
そんな只ならぬ“死”の臭気を放っていた。
「この場は、既に魔術師共によって人払いがされていたはずだが……。
貴様、何者だ!」
強烈なる一喝。
その怒気を含めた音は、上条を尚強く揺らすと同時に竦む難いを強張らせた。
空いた口許は逃げ惑う兎のようになってしまい、奥歯をガタガタと身震いさせるだけであった。
「まぁ良い。
貴様は秘匿された戦いを“視た”のだ。
ならば、
貴様はここで死なねばならぬ。
それだけだ」
魔術、
それに秘匿された戦いとは一体。
それによって何故己が死なねばならねばならぬのだろうか。
上条は鎧のように巡らされた筋肉を尚、顫動させている。
だが、どうにも少しだけ聞きなれぬ疑問が残った。
それでも、圧倒的な恐怖であることには変わりない。
しかし、思い切って、消え入るようではあるが、擦れた産声をこの理不尽な世界に向けて上条は鳴らすであった。
「……こ、殺すのですか」
余りにもちっぽけではあるが、世界に向けて唯一最期であろう微かな刻み。
儚く
また
泡沫の如く
衰弱する腥い響きは
“ふわり”と宙へと消えた。
「ああ、その通りだ。
全くもってその通りだ。
“ランサー”の言う通りだ」
蔓延る闇の奥底から悪魔の微笑みが響く。
闇夜に呑まれたアスファルトをコツコツと鳴らし、またブーツの彩りをこの尋常ならざぬ空間に共鳴させた。
鮮やかなる血月を抱えるように背負い、無限の影よりヌっと出づる。
鮮血を混ぜ合わせたような紅のハットに
鮮血を縫い合わせたような紅のコート。
血という概念そのものを現しているかのような、そんな恰好をした不気味な化物が上条の目の前に現れた。
「小僧。
お前は死なねばならぬ。
ここで、朽ち果て、醜い死骸を晒し
死なねばならぬのだ」
サングラスの奥より鈍の光を宿す眼がまるで見世物を愉しむかのような嘲け嗤った。
「それが、この秘匿されし戦いを“視た”という代償だ」
化物は紅のコートの中から、拳銃にしてみれば余りにも巨大である黒金の銃を、まるで死刑宣告でもするかのように取り出すと、容赦なく、冷汗で浸されたように滲んだ上条の額に“それ”を擦りつけた。
耳奥に木霊するのは自身の暴発する心臓の音だけであった。
あとは何も聞こえない。
辺りに散らばる世界さえも色を失い、上条の眼前には張り付くだけであった。
「実にツイてなかったな小僧。
お前たちが縋る神にでも見放されたか?」
上条は果てる世界の中、“不幸”を恨んだ。
勝手に現れては勝手に傷つけ、去ってゆく。
いつだってそうだった。
あの時さえも。
これさえなければ、己は
幸せに
平凡に
暮らせたに違いなかった。
「お前が何者であったかは知らないが、
せめてもの、哀れみだ
苦しみなく逝くとイイ」
化物は嗤った。
「ククッ」と牙のような歯をニカらせ、
亡霊のように青白肌の上に三日月のような笑みを描きながら、
残酷に、
冷酷に嗤った。
不意に眼から口惜しさに滲んだ滴が零れた。
もうどうしようもない。
為す術もない。
自分はここで、意味もなく殺される。
理解も出来ずに唯、殺される。
自身の命の価値など捨てられたゴミに等しい。
上条は諦めたかのように、静かに微笑んだ。
「さらばだ。
小僧」
巧みなエンブレムが施された黒金の銃は、その血染めの不気味な紋が印されし白磁の革手袋より、まるで切り抜かれた日常のワンシーンのように当たり前に何気なく撃鉄は下ろされ、慈悲もなく銃口は火を噴いた。
はずだった。
だが、
その僅かな瞬間、
灰に染まった上条の瞳の中に、熱と光による揺らめきとそれが暴発する力の奔流が映り込んだ。
災厄に呑まれた無人の運動公園の隅に佇む、仄かに包まれた公衆トイレが、ものの見事に爆発を起こしたのである。
その炸裂音は凄まじいものであり、上条の耳奥に空跡を残しながら鼓膜を意図もたやすく貫いた。
鮮血を背負う化物ハッと驚いたように黒金の銃を上条の額から下すと、火種|燻られ、無残にも崩れ落ちる建物の姿を見やった。
化物はその光景を満足気に見つめると、まるで今から始まるショーを楽しみに待つかのようにサングラスの奥の眼を爛々と輝かせ、口角が裂けたかのように歪ませた。
化物は妖しい眼を上空へと傾ける。
上条もその行動をまねるようにして上空へと褪せた瞳を傾けた。
そこには、傷ましい跡を刻まれた瓦礫と、それに憑りつくかつての幻影なる灰が、披裂な響きを轟かせながら、処刑台に立ち暗む上条たちへと迫る姿が映し出されていた。
ここに堕ちるのだ。
上条の跳ねる心臓に更なる負担が奔った。
脈と弾く鼓動がもう一つの生命の危機を告げる。
上条は無意識に錆びれた脚を動かし、その場を飛ぶように駆けた。
決して、後ろを振り返るな。
そのまま走り続けろ。
背後からの隕石が墜落したかのような轟音と、その衝撃が波を成し、ボロボロの上条に喰らいつく。
まるで、高速道路を奔る乗用車から振り落とされてしまったかのような、
そんな風に場を連続して転がってしまう。
そのせいか、腕も脚も擦り傷だらけ、大事な制服も泥だらけであり、もぐらが空けたような小さな穴が所々に彫られていた。
皮膚に滲む血が中地の服を軽くだが、拡散するように濡らしていた。
細胞が“ズキズキ”と痛む。
その悲鳴は頭蓋にも駆け巡り、確かなものとする。
苦痛により己の顔が、ざくろのように歪む。
けれど、そんな痛みなどに構っている暇はないのだ。
何せ、
このまま流暢に、この災厄地にいることが危ないのだ。
上条は奔る痛みを無理やり抑え込み、己を殺害しようとした蒼紅の影を、
眼を見開き、
凝らし尽くし、
必死に探す。
だがしかし、そこに在ったのは、かつての和やかな地域住民たちの憩いの場ではなく、
嵐が過ぎ去ったあとのような瓦礫の山と冷酷無常な爪痕だけであった。
炎は昇る。
煙も昇る。
曇天すら届き、
業火の太陽は
上条の瞳に翳ろう。
極度の緊張より解放された上条は無意識の枯れた眼から滴を零した。
上条は深夜の街を死に物狂いに駆けていた。
音の絶えた住宅街を駆け、ネオンが煌く眠らぬ繁華街を駆ける。
すれ違う人々からは奇怪や不思議といった目で此方を見つめるが、そんなことなどどうでもよい。
人一人がやっと通れるような非常に狭い路地裏を奔り、行く手を遮るように佇むゴミ箱を邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばす。
その際、腐敗の霰を頭から悲しくも浴びてしまい、スラムに住む人たちのように体が汚れるばかりであった。
灯りの乏しい人の影すら見当たらぬ、寂れたような道路を奔り、
上条はいつしか、見知らぬ港に辿り着いた。
心臓が破裂しそうに痛む。
肉体の感覚は喪ったかのように朽ちてゆくばかりであった。
呼吸も辺りに散らばる空気を貪る如く非常に荒く、血液と痰が絵具のように混じりあったような唾と息を吐いてしまう。
「落ち着け」と必死に自分に語り掛け、焦点もままならぬ瞳を必死に現実へと合わせようと試みる。
視界が揺れる。
意識は既に混濁しており、生と死の境界線すら感じられない。
まだ終わってなかった。
先ほどの出来事も
“殺される”かも知れないという事実さえも。
“不幸”は決して上条の元をまだ去ったわけではなかったのである。
上条は疲れ切った渋面を上げ、とりあえずにどこか逃げる場所を模索した。
妖しい雰囲気に蝕まれた港を、
上条はあらゆる液を崩れた顔面から垂れ流しながらも、苦痛に対し必死に耐え抜くように歯を噛み締め、
また、亡者の如く練り歩いた。
つい先まで作業していたのだろうか褪せたコンテナは乱雑に放置されており、作業車もまた乗り捨てられたかのように場に置かれたままである。
不気味な電灯も点けられたままであり、さざ波の音と磯の臭いのみがやけに充満しているようであった。
上条は煙のように現れたコンテナに死ぬように寄りかかる。
冷たく、ゴツゴツとしたアスファルトに老人のように腰を下ろすと、僅かに感じられる時を貪った。
瞼を眠るように閉じる。
それだけの行為なのだが、
どうしてだろうか、
己の人生において最も“幸せ”な時であった。
毎日が追われる日々、
今日もまた、そんな一日の内に過ぎない。
しかし、今日は一段とその“桁”が違った。
正しく、絶対絶命。
そんな有触れた言葉が正しく相応しいのではないか。
あれだけ破裂しそうだった心臓は今では落ち着きを取り戻し、安らかになりつつある。
あと少ししたら家に帰ろう。
着いたら美味しい御飯を食べて、スヤスヤと床に就くんだ。
上条は眠りこけながらも光に導かれるように微笑んだ。
絶望から脱却し、希望を見出す。
“不幸”は終わり、
明日はきっとまたいい日になる。
「“最期の時”はもう済んだか」
上条は己の頭上を褪せたように見やった。
凡そ現代とはかけ離れたような格好した美麗な男がコンテナ上から、禍々しい槍に寄り添いながらも、それを支えに屈み込み、まるで家畜を見つめるように冷酷に此方を見下ろしていた。
男は宙で体操選手のような華麗な回転を繰り出すと、天使のように上条の前に降り立った。
「もう、“良い”のか」
響く程、麗しい声であった。
だが、その響きは人とは思えないほどのドス黒さも秘めていた。
上条は為す術ない“運命”に嗤った。
そして、
男のことを恨むように睨んだ。
「貴様は“視た”のだ。
俺を恨むのならお門違いだ」
竜を象徴しているような甲冑に、
衝き抜けるような蒼天を背負っているのだろうか、そんな蒼々とした波動を体から零している。
全てが研ぎ澄まされたかのように筋肉の肉付けも完璧である。
顔から下半分の整った口許は何とか目視することが出来るのだが、上半分は竜の頭蓋のような兜によって隠されており、目元や髪形などまでは確認はできない。
だが、その藍白の肌や、骨格からも、素人でもわかるほどの美貌を秘めていた。
極めつけは、男が片手に持つ背丈を悠々と超えた長槍である。
竜の骨でも削り出し生み出したのだろうか、尋常ならざぬ蒼き色と、歪んだ恐ろしさを放っていた
「あんたは一体……?何者なんだ?」
“最期”の振り絞った質問。
だが、それは男には届かなかった。
「答える必要はない。
貴様は今から“死ぬ”のだ 。
最早、答えなど聞く必要もあるまい」
まるで本当に“不幸”な一日だったな。
救いもなければ、その可能性すらない。
上条は虚に打ちひしがれたように突っ立ってままであった。
男はそんな諦めた上条の姿を無表情に見下ろすと、
そのまま、禍々しい槍を上条に向かって突き刺した。
腹部に焼けるような痛みが奔る。
よくよく見ると己の腹に残酷なまでに槍が突き刺さっていた。
上条はその憐れな自身の姿を遠くから観察するかのように見ていた。
男はその美麗な口を結んだまま、粗末なものを扱うように上条に突き刺さる槍を引き抜いた。
赤黒い血飛沫が宙を舞い、霞月を赤く染める。
蒼天の男を紅一色へ。
煌くアスファルトを血雨で濡らしてゆく。
上条は眼前に立つ“不幸”にひれ伏すように前のめりに倒れ込んだ。
鮮血は止め処なく溢れ、水溜りのよう上条の周りを囲んでゆく。
つくづく、自身というのはツイていなものだ。
呪われた人生に張り付いた不幸という二文字。
なんて、残念なのだろうか。
この世に生を受け、慌ただしい人生という名の情景が、
走馬燈が
脳内を駆ける。
家族との思い出。
大切な人たちと過ごした日々。
初めて笑ったあの日。
泣いた日も
全て、覚えている。
あの時、こうすれば良かったなんて後悔も、勿論ある。
自身の人生というものは実に間違いだらけだったと
そんな気もする。
口許から逆流する鮮血が苦しそうに零れた。
血に浸された細胞は垂れ下がってしまい、上条の顔は悲し気に包まれていた。
上条は絶えゆく体を引き摺った。
男と反対の方向へと無意識に這い続けた。
哀れな涙が頬を伝う。
悲しみが、
感情が零れた。
「すまん、許せ……」
男は上条に留めを刺した。
夜天に佇む月陽を目一杯吸収したかのような眩い光を放つ金色の髪。
そして、
降る雪のように淡い透明な肌。
翡翠の瞳は正しく磨かれた宝石のようであり、揺蕩うその儚い瞳を見ているだけで吸い込まれてしまいそうになる。
何もかもが完璧で
何もかもが整えられている。
その姿はまるで美麗な人形そのものに近く、果たしてこの世の者なのだろうかと疑ってしまう程であった。
「――問おう。」
彼女は蒼竜が奔る星々の下、勇猛な声色を響かせた。
心根にまで浸透していくかのような確かな響き。
その沁みは全身を駆け巡り、心臓を鷲掴む。
「貴方が私のマスターか?」
かつてない色に
かつてない光景。
まるで絵本の世界に足を踏み入れたかのような
現実であることを忘れてしまうかのような
そんな錯覚に陥ってしまう。
そっと彼女の元へと手を伸ばす。
彼女は薄汚れた手を麗しい両手で抱くように
優しく、包むと、聖母のように朗らかに微笑んだ。
いつもの風景に
いつもの帰り道。
そんな
いつ、
どこにでもある、
当たり前の情景に抱かれながら、上条当麻はちょっとだけ肌寒い夜の街を歩いていた。
もう、今日が終わる。
上条は頭天に煌く星々を見やった。
雲一つない夜天はどこまでも衝き抜けるように澄んでいた。
そんな澄み渡る夜天を切断するかのように蒼竜は脈動した波を上げ、宙の彼方まで駆け昇っていた。
今日もまたとない不幸の連続だったな。
上条はそんな夜天に相反するようににそっと溜息を零した。
吐かれた白い息は世界に同調し、液に沈められた水溶紙の如く溶けてゆく。
一日に溜め込んだ疲労と困憊は中々なものであり、上条の精神を密かにだは、蝕んだ。
蓄えたエネルギーなどゼロに等しく、もうとっくの昔に底にさえをついていた。
そう言えば、
今日一日、何も口にしなかったよな。
思い出したかのようにお腹が鳴った。
上条は市内の高校に通う普通の学生である。
決して成績が良いわけでもなく
スポーツが人一倍に出来るわけでもない。
特殊な実績もなければ、
そのような経験もない。
当たり障りのない単なる学生である。
ただ、少し周りと違うと言えば、親がいないこと。
厳密に言えば、数十年前に起きた災害により家族を失い、育て親に引き取られた。
だが、その育て親もまた、数年前に病気で亡くなり、現在一人暮らしをしている。
勿論、親の遺産を無駄に食いつぶすわけにはいかない。
なので、家からは少しだけ遠いが、とあるコンビニでアルバイトを行うことによって何とか生計を立てている。
親の遺産もそうだが、出来るだけ貯金に回すことで未来における大学への費用の足しにすることを考えているのである。
上条は気が付くと、住宅街の曲角にあるもの寂しげなカーブミラー中を見つめていた。
そこに映ったのは、かつての生気を失った老人のような自身の姿だった。
頬は錆びれ、皺もまた何層にも刻み込まれ、細胞は一途な衰退の運命を辿っている。
若さの象徴である弾むような肌さえも朽ち果てた世紀末のように変わり果て、何よりも弾力味を失っていた。
眼窩を染める隈は特にひどく、難病を患った病人の如く気のどくである。
長い時間を共にしていた学生服は、棄てられたかのように埃が積り、みすぼらしくなる程に汚ていた。
自身の存在を示す、生まれつきの海栗のような髪もまた、へし折られたかのように、しな垂れている。
実に憐れであった。
こんなにも、骸の如く変貌していようとはまるで思いもしない。
鏡を見ること自体、
久しぶりであり、
ともあれ、
そんな風に映る自分が怖くて、
たまらなくて、
危ぐするように避けてきた。
現実に映る光景など直視するのも辛く、
瞳に押し込みたくもなかったのである。
かつてある何時ぞやの自身の姿を味噌に浮かべ、何とか笑い顔を作り出す。
けれど、くすんだ鏡に映るのは口角の引きつった助平野郎の面だけであった。
上条の背中には悲壮という重しが圧し掛かり、内側の殻に閉じこもるよう然許りに項垂れた。
呪う、
憎むは、
この異質な己の人生“それ”である。
零れそうになる目頭を堪えるようにして、滲んだ夜天を見つめた。
星々煌く欠片さえも、ましてや月陽までもが、全て、霧に呑まれたかのようぼやけて見える。
思わず、我慢しきれない白い息が結ばれた口元から零れ出た。
微かな色は朧気に宙へと奔り、その残り火は涅の天井へと刻まれると、悲しげな風によって流されてゆく。
上条はちょっとだけ肌寒い風に染められながら、寥々たる街の中を歩いた。
捨てられたように佇む孤高の街灯が弱々しく仄かな光を放つ。
照らされているはずの暗がりのアスファルトも、
また、淡く、
消えてしまうかのようであった。
上条に際立った特徴を一つ付け加えるのであれば、
それは、絶望的なまでにツイていないということである。
例えば、
朝、目が覚めるとエアコンが壊れていた、といった電化製品のストライキなどザラではない。
学校に行くまでもが正しく修羅であり、道端に棄てられた空き缶でさえも上条に対しては、容赦なく、その研磨された牙を向けるのである。
人物なども決して例外ではなく、意味もなく襲われ、血飛沫が飛び散る喧嘩などが絶えることはない。
理由もなく“不幸”は嵐のように上条の元へ訪れると、
破壊の爪痕を残し、去ってゆく。
そのせいか、上条の精神を摩耗し、肉体も痛々しく打ちのめされていた。
歩けば、転び
また、歩こうとする前に転ぶ。
そんな日々の繰り返しであった。
疫病神の如き存在である上条は、
多くの人たちから煙たがれた。
今ではまともに会話出来る友人など片手で数える程度しかいない。
まるで、この世に蔓延る不幸を全て吸い上げているような
それを体現しているような
そんな男だったのである。
突如として、
揺れる瞳の世界に蒼紅の亀裂が奔った。
血のように生々しい紅焔がうねりを上げ
湧水のように澄んだ蒼焔に喰らいついたのである。
負け時と蒼焔も荒れ狂う紅焔を払い、場から吹き飛ばした。
一体、何が起こっているというのだろうか。
上条はその尋常ならざる光景に魅せられ、一歩も場を動くことが出来なかった。
蒼焔が奔れば、紅焔も奔る。
幾重にも重なり合い、高速で走る車体の如くぶつかれば、すぐさま距離をとり、また奔る。
空に鮮烈な爪痕を描けば、唯、互いの煌きを掻き消すように
何度も
何度も
色に染まった粒子を零しながら、憎しみ合った。
宙を飛び跳ね、地を駆け、辺りを蹂躙し、凌辱を繰り返す。
正しく、その壮観は熱を帯びる儚さを秘めた災厄そのものであった。
時刻は草木さえも臥所についたはずの丑三つ時。
上条は毎回の帰りの近道として利用している運動公園を、密かに通っていたことを後悔した。
まさか、真夜中の公園でこのような衝突が起こっていようとは意図すらしていない。
額からは冷却された粒が肌を滑り、頬を滑走するように伝った。
早くここを逃げださなければ。
そう思うのだが、
焦る気持ちのせいなのか
はたまた、恐怖のせいなのか
金縛りにかかってしまったかのように思うように身動きがとれなかった。
呼吸さえも滞り、
肺がこんなにも酸素を求めているというのに、沈殿する空気すらもまともに吸えない。
空いた口許から荒れ狂う吐息と涎が思わず零れた。
追い詰められた胸は天へと無念な、呻きを上げる。
頼むから早く動いてくれ。
肉体に縋るように念じ、両歯を砕けそうになるくらいに噛み締める。
瞼を絞り、唯々、停止した肉体に死に物狂いに鞭を打ち続ける。
けれど、
されど、
やはり、この体は動かなかった。
頬を伝う滴は、上条の元を呆気なく離れると暗がりの地面へと吸い込まていった。
暗闇の宙を奔り、その儚いは崩れ、微かな飛沫が地を濡らす。
辺りに滴の跳ねる音色が沁みていく。
その時であった。
世界は時間が止まったかのように一瞬にして色褪せたのだった。
上条の頭蓋に“不幸”と言う二文字が嫌らしくも蠢いた。
二文字は張られた神経を瞬時に駆け巡ると、細胞を次第に氷のように強張らせてゆく。
「やばい」という直感が上条の心臓を思いっきし握りしめた。
何か来る。
そんな感覚が戸惑う思考を更なる混沌へと導いた。
雑巾のように絞った瞼をそっと開く。
その眼前にあったのは狂奔にかられた光波と蒼き竜であった。
「動くな」
まるで澄み渡るような
秘境の源泉のような
その響きは、余りにも甘美なものであった。
だが、その鬼の影を伏した彩音は、上条の背後からその撥ねる心臓までも
いともたやすく貫いた。
余りにも突然の出来事。
そのせいか、思考もまた渦のようにかき乱され、揺れる瞳が中々定まらない。
「何故、ここにいる」
上条は戦慄し、膝を思わず震わせた。
己の背から感じるのは圧倒的な“殺気”である。
それは
“今からでもお前を殺すぞ”と、言うような
そんな只ならぬ“死”の臭気を放っていた。
「この場は、既に魔術師共によって人払いがされていたはずだが……。
貴様、何者だ!」
強烈なる一喝。
その怒気を含めた音は、上条を尚強く揺らすと同時に竦む難いを強張らせた。
空いた口許は逃げ惑う兎のようになってしまい、奥歯をガタガタと身震いさせるだけであった。
「まぁ良い。
貴様は秘匿された戦いを“視た”のだ。
ならば、
貴様はここで死なねばならぬ。
それだけだ」
魔術、
それに秘匿された戦いとは一体。
それによって何故己が死なねばならねばならぬのだろうか。
上条は鎧のように巡らされた筋肉を尚、顫動させている。
だが、どうにも少しだけ聞きなれぬ疑問が残った。
それでも、圧倒的な恐怖であることには変わりない。
しかし、思い切って、消え入るようではあるが、擦れた産声をこの理不尽な世界に向けて上条は鳴らすであった。
「……こ、殺すのですか」
余りにもちっぽけではあるが、世界に向けて唯一最期であろう微かな刻み。
儚く
また
泡沫の如く
衰弱する腥い響きは
“ふわり”と宙へと消えた。
「ああ、その通りだ。
全くもってその通りだ。
“ランサー”の言う通りだ」
蔓延る闇の奥底から悪魔の微笑みが響く。
闇夜に呑まれたアスファルトをコツコツと鳴らし、またブーツの彩りをこの尋常ならざぬ空間に共鳴させた。
鮮やかなる血月を抱えるように背負い、無限の影よりヌっと出づる。
鮮血を混ぜ合わせたような紅のハットに
鮮血を縫い合わせたような紅のコート。
血という概念そのものを現しているかのような、そんな恰好をした不気味な化物が上条の目の前に現れた。
「小僧。
お前は死なねばならぬ。
ここで、朽ち果て、醜い死骸を晒し
死なねばならぬのだ」
サングラスの奥より鈍の光を宿す眼がまるで見世物を愉しむかのような嘲け嗤った。
「それが、この秘匿されし戦いを“視た”という代償だ」
化物は紅のコートの中から、拳銃にしてみれば余りにも巨大である黒金の銃を、まるで死刑宣告でもするかのように取り出すと、容赦なく、冷汗で浸されたように滲んだ上条の額に“それ”を擦りつけた。
耳奥に木霊するのは自身の暴発する心臓の音だけであった。
あとは何も聞こえない。
辺りに散らばる世界さえも色を失い、上条の眼前には張り付くだけであった。
「実にツイてなかったな小僧。
お前たちが縋る神にでも見放されたか?」
上条は果てる世界の中、“不幸”を恨んだ。
勝手に現れては勝手に傷つけ、去ってゆく。
いつだってそうだった。
あの時さえも。
これさえなければ、己は
幸せに
平凡に
暮らせたに違いなかった。
「お前が何者であったかは知らないが、
せめてもの、哀れみだ
苦しみなく逝くとイイ」
化物は嗤った。
「ククッ」と牙のような歯をニカらせ、
亡霊のように青白肌の上に三日月のような笑みを描きながら、
残酷に、
冷酷に嗤った。
不意に眼から口惜しさに滲んだ滴が零れた。
もうどうしようもない。
為す術もない。
自分はここで、意味もなく殺される。
理解も出来ずに唯、殺される。
自身の命の価値など捨てられたゴミに等しい。
上条は諦めたかのように、静かに微笑んだ。
「さらばだ。
小僧」
巧みなエンブレムが施された黒金の銃は、その血染めの不気味な紋が印されし白磁の革手袋より、まるで切り抜かれた日常のワンシーンのように当たり前に何気なく撃鉄は下ろされ、慈悲もなく銃口は火を噴いた。
はずだった。
だが、
その僅かな瞬間、
灰に染まった上条の瞳の中に、熱と光による揺らめきとそれが暴発する力の奔流が映り込んだ。
災厄に呑まれた無人の運動公園の隅に佇む、仄かに包まれた公衆トイレが、ものの見事に爆発を起こしたのである。
その炸裂音は凄まじいものであり、上条の耳奥に空跡を残しながら鼓膜を意図もたやすく貫いた。
鮮血を背負う化物ハッと驚いたように黒金の銃を上条の額から下すと、火種|燻られ、無残にも崩れ落ちる建物の姿を見やった。
化物はその光景を満足気に見つめると、まるで今から始まるショーを楽しみに待つかのようにサングラスの奥の眼を爛々と輝かせ、口角が裂けたかのように歪ませた。
化物は妖しい眼を上空へと傾ける。
上条もその行動をまねるようにして上空へと褪せた瞳を傾けた。
そこには、傷ましい跡を刻まれた瓦礫と、それに憑りつくかつての幻影なる灰が、披裂な響きを轟かせながら、処刑台に立ち暗む上条たちへと迫る姿が映し出されていた。
ここに堕ちるのだ。
上条の跳ねる心臓に更なる負担が奔った。
脈と弾く鼓動がもう一つの生命の危機を告げる。
上条は無意識に錆びれた脚を動かし、その場を飛ぶように駆けた。
決して、後ろを振り返るな。
そのまま走り続けろ。
背後からの隕石が墜落したかのような轟音と、その衝撃が波を成し、ボロボロの上条に喰らいつく。
まるで、高速道路を奔る乗用車から振り落とされてしまったかのような、
そんな風に場を連続して転がってしまう。
そのせいか、腕も脚も擦り傷だらけ、大事な制服も泥だらけであり、もぐらが空けたような小さな穴が所々に彫られていた。
皮膚に滲む血が中地の服を軽くだが、拡散するように濡らしていた。
細胞が“ズキズキ”と痛む。
その悲鳴は頭蓋にも駆け巡り、確かなものとする。
苦痛により己の顔が、ざくろのように歪む。
けれど、そんな痛みなどに構っている暇はないのだ。
何せ、
このまま流暢に、この災厄地にいることが危ないのだ。
上条は奔る痛みを無理やり抑え込み、己を殺害しようとした蒼紅の影を、
眼を見開き、
凝らし尽くし、
必死に探す。
だがしかし、そこに在ったのは、かつての和やかな地域住民たちの憩いの場ではなく、
嵐が過ぎ去ったあとのような瓦礫の山と冷酷無常な爪痕だけであった。
炎は昇る。
煙も昇る。
曇天すら届き、
業火の太陽は
上条の瞳に翳ろう。
極度の緊張より解放された上条は無意識の枯れた眼から滴を零した。
上条は深夜の街を死に物狂いに駆けていた。
音の絶えた住宅街を駆け、ネオンが煌く眠らぬ繁華街を駆ける。
すれ違う人々からは奇怪や不思議といった目で此方を見つめるが、そんなことなどどうでもよい。
人一人がやっと通れるような非常に狭い路地裏を奔り、行く手を遮るように佇むゴミ箱を邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばす。
その際、腐敗の霰を頭から悲しくも浴びてしまい、スラムに住む人たちのように体が汚れるばかりであった。
灯りの乏しい人の影すら見当たらぬ、寂れたような道路を奔り、
上条はいつしか、見知らぬ港に辿り着いた。
心臓が破裂しそうに痛む。
肉体の感覚は喪ったかのように朽ちてゆくばかりであった。
呼吸も辺りに散らばる空気を貪る如く非常に荒く、血液と痰が絵具のように混じりあったような唾と息を吐いてしまう。
「落ち着け」と必死に自分に語り掛け、焦点もままならぬ瞳を必死に現実へと合わせようと試みる。
視界が揺れる。
意識は既に混濁しており、生と死の境界線すら感じられない。
まだ終わってなかった。
先ほどの出来事も
“殺される”かも知れないという事実さえも。
“不幸”は決して上条の元をまだ去ったわけではなかったのである。
上条は疲れ切った渋面を上げ、とりあえずにどこか逃げる場所を模索した。
妖しい雰囲気に蝕まれた港を、
上条はあらゆる液を崩れた顔面から垂れ流しながらも、苦痛に対し必死に耐え抜くように歯を噛み締め、
また、亡者の如く練り歩いた。
つい先まで作業していたのだろうか褪せたコンテナは乱雑に放置されており、作業車もまた乗り捨てられたかのように場に置かれたままである。
不気味な電灯も点けられたままであり、さざ波の音と磯の臭いのみがやけに充満しているようであった。
上条は煙のように現れたコンテナに死ぬように寄りかかる。
冷たく、ゴツゴツとしたアスファルトに老人のように腰を下ろすと、僅かに感じられる時を貪った。
瞼を眠るように閉じる。
それだけの行為なのだが、
どうしてだろうか、
己の人生において最も“幸せ”な時であった。
毎日が追われる日々、
今日もまた、そんな一日の内に過ぎない。
しかし、今日は一段とその“桁”が違った。
正しく、絶対絶命。
そんな有触れた言葉が正しく相応しいのではないか。
あれだけ破裂しそうだった心臓は今では落ち着きを取り戻し、安らかになりつつある。
あと少ししたら家に帰ろう。
着いたら美味しい御飯を食べて、スヤスヤと床に就くんだ。
上条は眠りこけながらも光に導かれるように微笑んだ。
絶望から脱却し、希望を見出す。
“不幸”は終わり、
明日はきっとまたいい日になる。
「“最期の時”はもう済んだか」
上条は己の頭上を褪せたように見やった。
凡そ現代とはかけ離れたような格好した美麗な男がコンテナ上から、禍々しい槍に寄り添いながらも、それを支えに屈み込み、まるで家畜を見つめるように冷酷に此方を見下ろしていた。
男は宙で体操選手のような華麗な回転を繰り出すと、天使のように上条の前に降り立った。
「もう、“良い”のか」
響く程、麗しい声であった。
だが、その響きは人とは思えないほどのドス黒さも秘めていた。
上条は為す術ない“運命”に嗤った。
そして、
男のことを恨むように睨んだ。
「貴様は“視た”のだ。
俺を恨むのならお門違いだ」
竜を象徴しているような甲冑に、
衝き抜けるような蒼天を背負っているのだろうか、そんな蒼々とした波動を体から零している。
全てが研ぎ澄まされたかのように筋肉の肉付けも完璧である。
顔から下半分の整った口許は何とか目視することが出来るのだが、上半分は竜の頭蓋のような兜によって隠されており、目元や髪形などまでは確認はできない。
だが、その藍白の肌や、骨格からも、素人でもわかるほどの美貌を秘めていた。
極めつけは、男が片手に持つ背丈を悠々と超えた長槍である。
竜の骨でも削り出し生み出したのだろうか、尋常ならざぬ蒼き色と、歪んだ恐ろしさを放っていた
「あんたは一体……?何者なんだ?」
“最期”の振り絞った質問。
だが、それは男には届かなかった。
「答える必要はない。
貴様は今から“死ぬ”のだ 。
最早、答えなど聞く必要もあるまい」
まるで本当に“不幸”な一日だったな。
救いもなければ、その可能性すらない。
上条は虚に打ちひしがれたように突っ立ってままであった。
男はそんな諦めた上条の姿を無表情に見下ろすと、
そのまま、禍々しい槍を上条に向かって突き刺した。
腹部に焼けるような痛みが奔る。
よくよく見ると己の腹に残酷なまでに槍が突き刺さっていた。
上条はその憐れな自身の姿を遠くから観察するかのように見ていた。
男はその美麗な口を結んだまま、粗末なものを扱うように上条に突き刺さる槍を引き抜いた。
赤黒い血飛沫が宙を舞い、霞月を赤く染める。
蒼天の男を紅一色へ。
煌くアスファルトを血雨で濡らしてゆく。
上条は眼前に立つ“不幸”にひれ伏すように前のめりに倒れ込んだ。
鮮血は止め処なく溢れ、水溜りのよう上条の周りを囲んでゆく。
つくづく、自身というのはツイていなものだ。
呪われた人生に張り付いた不幸という二文字。
なんて、残念なのだろうか。
この世に生を受け、慌ただしい人生という名の情景が、
走馬燈が
脳内を駆ける。
家族との思い出。
大切な人たちと過ごした日々。
初めて笑ったあの日。
泣いた日も
全て、覚えている。
あの時、こうすれば良かったなんて後悔も、勿論ある。
自身の人生というものは実に間違いだらけだったと
そんな気もする。
口許から逆流する鮮血が苦しそうに零れた。
血に浸された細胞は垂れ下がってしまい、上条の顔は悲し気に包まれていた。
上条は絶えゆく体を引き摺った。
男と反対の方向へと無意識に這い続けた。
哀れな涙が頬を伝う。
悲しみが、
感情が零れた。
「すまん、許せ……」
男は上条に留めを刺した。
処女です