第2話 みないで、



「愛しているって言わないのが愛の証拠って言いますけど」

 多々彦は、伊達眼鏡をかけている。

 眼鏡、と聞いて、誰もが最初に思い浮かべる形のフレームだ。黒くて、太めでガラスのレンズがはまっている。いま流行りの、洒落たデザインだ。

 ありきたりなものが、多々彦は、嫌味なほど似合う男だった。

 節くれだった手が、眼鏡に触れる度、僕は彼に、密かに見惚れてしまう。見ているこちらにはわからないズレを正す。曇りを取る。ゴミを取り除いて、眼鏡の奥で、瞬きをする。そんな動作が、彼は、本当に似合う男だ。

「本当に愛していようが、いまいが、愛しているとは、あまり口にする必要はないと思うんです」

 居酒屋の良いところは、一度座ってしまえば、相手の元には行けないところだろう。テーブルは動かせない。個室は狭い。彼の手に触れる為には、食べ散らかした皿を飛び越えて、腕を大きく、伸ばす必要がある。掘りごたつは、心地良く足を温めるが、行動は、その段差に制限されてしまう。

せわしのないノックのあと、勢いよく扉が開いた。店員が、いくつもの皿を携えて、疲れた顔を見せる。

「お待たせしましたぁ、ソースカツレツになりまぁす」

 居酒屋では、食べ合わせも何もない。主食に頼んだものが最初に来て、つまみにするつもりだったものが、あとから来る。忘れた頃に来る品は、どうして食べようと思ったのかも、忘れてしまう。そのうち、ビールが進んで、何もかもがどうでもよくなってしまう。僕と多々彦は、そんな居酒屋が、大好きだった。

 周りの目を気にせずに、二人きりになれるのも、良い。

「どうも。あ、この皿下げてください」

 多々彦が言うと、店員は不愛想に返事をした。手は器用に、何枚もの皿を重ねて、持ち上げる。遅くまで暖かい店にいられるのは、遅くまで働く人がいるからだ。多々彦は気分を害する様子もなく、出て行く店員に礼を言う。跳ね返りで隙間が空いた扉を、丁寧に閉めなおす。

 たった一枚の板きれだが、それだけで廊下の喧噪が遠ざかる。

 店員が絞り出す声。向こうの厨房でついている悪態。客の悪口。酔っ払いが、騒ぐ音。誰かの、笑い声。

 そんなものから切り離された小さな座敷で、僕達は二人きりだった。

「でも、そこを、愛しているという台詞で言い切ってしまう潔さと、説得力っていうんですかね。そこがどうしようもなくかっこよくて。最終的に、ああ、愛している、という言葉に辿り着くんです」

「口にしてるじゃん。カツ食っていい?」

「どうぞ。俺も三分の一ください」

「逆に難しいわ」

 カツは揚げたてのようだが、上等な肉ではない。箸を寝かせて、真ん中で分断しても、手ごたえがない。見た目だけの揚げだ。苦労にして半分にしたカツを、彼に差し出す。

 多々彦は無言で、口を大きく開けた。食わせろ、と言いたいらしい。しょうがなく、腕を伸ばしてやる。一口で頬張った彼は、満足そうな笑みを浮かべた。

「でもさ、多々彦がそうやって言っちゃうってことはさ、まだ本当に愛していない証拠じゃないの」

「家城、それは屁理屈と言います」

 半分残ったカツを、僕は、さらにもう半分に切り分ける。

 さっさとカツを片付けた多々彦は、残ったサラダを選り分けていた。ドレッシングの強い味が、僕は少し苦手だった。勧めると、彼はトングを使うのを止め、ボウルに直接箸を入れ始める。

「屁理屈を言ってみました」

「大体、俺ごときが全てを愛しているなんて、言えませんよ」

「多々彦程のマニアでも」

「どんなマニアでも、すべてを愛して把握することなんて無理だし、マナー違反です」

 年が明けると、僕達が言葉を交わすようになって、丁度二年が経つことになる。その間、僕らはこうして、取り留めのない話を何度も繰り返してきた。

 互いの思考は、大方披露したように思う。僕は多々彦の考えていることは顔を見ればわかるし、返事の調子で、彼がどんな機嫌なのか、察することが出来た。だが、それでも、僕が多々彦について知っていることは、ごく僅かだ。

 どんな音楽を聴いているか、どんな食べ物を好むかは知っていても、彼の生活リズムを、僕は知らない。いま、どんなアルバイトをやっているのか。どんな勉強をして、何を目指しているのか。どんなことを普段、胸の内で考えているのか。僕は、何も知らないし、知ろうとも思わない。

 互いの距離が保たれる居酒屋は、良い。それ以上近づくことが、出来ない。互いに腕を伸ばさなければ、知ることはない。

 多々彦の長い腕は、伸ばさなくても、僕に簡単に届くだろう。でも、彼は伸ばさない。彼は、上品な眼鏡が似合う。洒落た装飾があたりまえに似合う。美しい手は、いまも行儀よく、箸を持っている。

 だから彼は、僕に触れない。

 ふと、僕はジンの声を思い出した。

 彼女の前で食事をした経験は、数える程しかない。忙しく働く彼女と、まだ学生の僕が合わせられる時間は、少ない。食事をするくらいなら、どこかのホテルで抱き合うのが、ジンとの距離だった。

 僕はいまのように、皿の上で口に入れるものを小さく切り分けた。ジンは感心した声を出して、僕をしつけの良い子供かのように褒めた。

「ナオくんは、上品ね」

 彼女の、ひっそりとした笑み。

 僕と彼女は、一回り程の歳の差がある。だからだろうか、時折、ジンは母親のような瞳を、僕に向ける。

 低く、抑揚が少ないジンの声は、お上品な僕を品定めしたのだ。しつけが良いとは、実際に言われた。僕はなんだか悔しくて、わざと豪快に、その後の料理を片付けたことを思い出す。

 彼女に褒められた時、僕は、裸で毛布にくるまった時のような、何とも言えない居心地の悪さを感じた。背伸びを見抜かれたようにも、品の良さという名の枷に囚われていることを、笑われたようにも思えたのだ。

 美しいものを前にして、思わず笑ってしまうのは、卑しいことだ。でも、どんなに焦がれても、その卑しさすら、手に入らない者もいる。

 僕が感じていたのは、本質を暴かれたような、後ろめたさだ。

 後ろめたさというのは、なかなか消えない。彼女の声も、消えることなく、僕を支配する。まるで、愛の言葉かのように、僕の耳に囁き続ける。

 僕の中で、愛と呼ばれるものは、全て、ジンの形をしている。

 ずっ、と鼻を啜った多々彦は、箸を揃えて、箸置きに並べた。多々彦の食べ方は豪快だが、美しい。食べることが好きで、調理の専門学校に行っただけある。彼の食事の所作は、見ていて感心する程だ。

 だらしなく置いていた僕の箸も、思わず揃えた。彼は、そんな後ろめたさに気づく様子もないまま、熱心に弁論をふるう。

「ファンは本来、与えてくれるものだけを受け取ればいいんです。音楽を与えてくれる彼らを求めればいいのであって、個人の人格まで求めてはいけない」

「ブログの更新が遅いのとか」

「そこがいいんです。催促して更新されたブログなんて、嬉しくありません」

 多々彦は、あっという間に空にしたボウルを、端に追いやる。あれこれ頼んだのに、その殆どが、彼の胃袋に消えてしまった。物足りないような、時間をかけて胃を膨らませた満足感があるような。僕は、中間の気持ちで腹をさする。

 酔いが回って来たのか、視界は、ふわふわと浮遊し始めている。狭い個室は、相変わらず囁き声のような音に満ちている。

 隣から聞こえるテレビの音。どこかから響く食器の音。笑い声。乾杯の音頭。それらから切り離されているのに、遮断はされていない。薄い扉の向こうには、日常が待っている。

 氷が溶けて、薄くなったカクテルをすする。

 多々彦が、携帯電話を取り出した。

 時刻を確認した大きな手が、居酒屋のテーブルを叩く。それは、彼が苛立っている時の癖だ。

「連絡、来ないな」

 試しに、声に出してみる。

 彼は、不機嫌さを隠しもしない瞳で、僕を睨んだ。

「俺は来るまで待ちますよ」

「で、何の話していたっけ」

「家城は、彼女にそういう言葉をかけていますかって話」

 たん。

 彼の掌が奏でた音は、隣のテレビの音をかき消した。

 多々彦が、日々子の帰りを待つと言ったから、僕は、それに付き合うことにした。どうせ、帰っても寝るだけだ。明日の予定もなく、外は雪が降っていた。バイトの予定もない。僕は、彼と飲むのが好きだ。

 のこのことついて来た僕を、彼ははじめ、胡散臭そうな目で見た。

「どうせ、途中で彼女に呼び出されたら、俺を放り出すのでしょう」

 僕がこう反論したのが、数時間前のことだ。

「どうせ、こんな雪の日に連絡なんて来ないよ」

 それでも、僕の手は、時折、携帯電話を確認せずには、いられない。それも、多々彦のように堂々とするのではない。こそこそと、ポケットに入れた機械に、時折触れるのだ。折りたたんだ画面に、着信があれば、表示が出る。確認せずにはいられないのに、期待に反して、表示はいつも、持ち主である僕に、何も与えない。

 僕はすっかり温くなったグラスに歯を立てて、テーブルの向こうで不貞腐れる多々彦を見る。

 今夜の多々彦は、やけに絡んでくる。

 妙に熱っぽいのも、何かがあったのかもしれない。バイトがうまくいかない。風邪をひいた。そんな愚痴を、最初の方は呟いていたような気がする。彼には彼の事情があって、感情がある。

 八つ当たりくらいなら、受け止めるだけの親切心。もしくは、同情と呼ばれるものが、僕と多々彦の間にはある。

「言葉は、かけないけれど」

 多々彦が、僕を見ている。

 ガラス越しの視線を感じながら、僕は、俯いたまま返事をした。

「そういうのって、伝わるものじゃないのかな。その、彼女の反応で」

「いきなり猥談ですか」

「違う。普通の会話とか、向かい合って食事をしている時とか。相手への気遣いとかで」

 多々彦の手は、とても綺麗だ。僕の目から見ても、そう思う。

節が浮き出ているのに、全体的に平らで、すっきりとしているからだろうか。水仕事に向いているらしい彼の手に、居酒屋の黄色い蛍光灯が反射している。

 猥談なら、その手だろう。

 彼の指で弄ばれる女性は、どんなにいいかと思う。

 僕の想像で、顔のない女はジンになる。彼女のようにふっくらと、丸い胸をした女。そんな女を触れる為にあるかのような、指。玩具のように曲線をなぞり、快感を与える時も、多々彦は、眼鏡を外さないのだろうか。

 そんな指からは程遠い、細く頼りない僕の指を見下ろす。彼を頷かせることの出来る言葉を、探しながら紡ぐ。

「ちょっとした好みを次も覚えていたり、エスコートのタイミングが合ったりするのは、離れている時にも相手のことを考えていた証じゃないかな。それって、その場の遊びだったら、出来ることじゃない。それが、自然と出てくるのが、気持ちというか」

「それが家城の愛ですか」

「僕と言うより、どんなものにでも当てはまると思う。多々彦も、よく言ってるじゃん」

 遠いから、愛しい。

 それは、彼が敬愛するアーティストに使われる言葉だ。

 多々彦が愛する相手は、多々彦だけに愛を返してくれる訳ではない。アーティストとして活動している以上、たったひとりの為だけに、愛を囁いている暇はない。全国に、無数に存在するファンの為、無数の愛を降り注いでいる。

 彼曰く、「ファンとして好意を抱いた以上、彼のすべてを知ることは、出来ない」のだそうだ。つまり、本当の意味ですべてを愛することなど出来ないのだ。

 もし、彼がアーティストの恋人になったとしても、同じことだ。恋人である彼を愛することは出来ても、もしかしたら、ファンへ笑みを向ける彼を愛せないかもしれない。彼と、音楽活動を切り離すことが出来ない以上、そこにはどうしても、現実が横たわる。すべてを手に入れることは、きっと、ない。

 それでも、知っているところを愛することは出来る。そんな不完全さも、愛の一つだ。

 多々彦はライブに行って、歓声の一つになることが出来る。

 僕のように誰かに夢中なら、その相手への仕草が、愛の証拠となる。それは、軽薄な言葉にするよりも、よほど重みがあって、誤魔化しが効かない。

 身体は正直だ。その不器用さを愛と呼ぶことを、僕に教えたのはジンだった。

 多々彦は、ジョッキのビールを飲み干すと、僕を睨むように見据えた。

「じゃあ、性欲はどうなります」

「それはそれ。相手を思う気持ちの延長というか」

「相手がやりたいと思ってくれなきゃ、やれないんですか? 自分は抱きたくても?」

「そこを堪えるのが男じゃないの」

 彼の顔は大真面目だから、冗談かどうかの区別がつかない。僕が茶化すと、彼はまた、子供のように鼻を鳴らした。

「どうせ、それも、誰かの請け売りでしょう」

 その通りだ。僕の愛は、すべてジンの形をしている。

 彼に語るのは、僕の想像でしかない。僕は、女心などよくわからない。多々彦がいま、どんな思いでいるのかもわからない。想像をするしかない。目で見て、その反応を嗅ぎ取る。それを具体的に見せてくれたのが、ジンの存在だった。

 彼女のことが頭に浮かんだ途端、それまでに並んでいて理屈や理論が、使い物にならなくなる。頭で考えることは出来ても、それを表現するのが、難しい人だ。よくある形容詞を彼女に使いたくない。なのに、僕の貧困な語彙力では、彼女をどこにでもいるような、薄っぺらな人に変えてしまう。

 でも、彼女は雄弁に僕を導いた。

 どこに触れたら、心地が良いのか。どんなことをされたら、嬉しいのか。恋を知っていたつもりだった僕に、彼女は恋を教えた。だから、多々彦や日々子とは違うのだ。

 僕は日々子からの連絡を待ちながら、ずっと、ジンからの連絡を待っている。

 曖昧な返事をして、食べ散らかした皿を見下げる。

 多々彦は、僕を見ていた。

 ちりちりと、痛い位の視線を感じる。彼の顔は整っている分、冗談と本音の区別がつきにくい。怒っているかどうかはわかるのに、それがどこまで本気かはわからないのだ。よく似た顔をした日々子も、同じようなところがある。だから二人は、いつも心を通わせているように見える。本当は違ったとしてもだ。

 僕は、彼の視線から逃れる。見ないでほしい。そう思う。同時に、その視線が、僕は本当は、嫌ではない。

 やがて彼は、掌を起こして、もう一度テーブルを叩いた。

 たん。

 美しい指は流れるように、隅に放置していたメニューを掴んだ。

「何か最後に頼みましょう。家城も今夜は呼び出されないようですし」

「あれ、もうそんな時間?」

「二時間飲み放題ですから、あと三十分です」

 多々彦の携帯電話は鳴らない。

 彼が日々子にメールをしてから、一時間半が経つということになる。同時に、僕らが結論の出ない話を始めて、一時間半。

 雪は、止んだだろうか。

 今夜、彼女は一人で眠れるのだろうか。

 窓のない個室では、外を確認しようがない。

 二人で相談した結果、二人分の茶漬けと、ビールをジョッキで頼むことにした。注文を終えた多々彦は、薄いメニュー表を放り投げる。もしかしたら、彼も、酔っているのかもしれない。店員もさほど迷惑がる様子を見せずに、個室を出て行く。

 ラミネート加工されているメニューは、テーブルを滑って、僕の足元に落ちた。もう使わないから構わないが、使った場所を汚す趣味はない。身を屈めて、頭を下げる。

 足もとは、埃の匂いが充満していた。

「つまり城たんはあ、彼女に愛されているって言いたいんですよねえ」

 フン、と、多々彦が鼻を鳴らす音がする。

 日々子はもしかしたら、メールを無視して帰ってしまったのかもしれない。

 彼女にだって、友達がいて、付き合いがある。いつも、多々彦とばかり一緒にいる訳ではない。受け入れられない多々彦のそれも、愛と呼べるのだろうか。

 僕は、そんなことを虚ろに考えながら、頭をゆっくりと戻した。

 手には、メニューが掴まれている。

 どう拾ったのかも曖昧なまま、視線を、ぎこちなくテーブルに戻した。

「どうかしました」

「いいや。屈んだら、酔いが来た」

「わかります。立った瞬間に来るんですよね」

 酔っているようには見えない顔で、多々彦は笑う。僕は、うまく笑い返せた自信がないまま、崩した姿勢を立て直した。

 足が、妙に緊張した。

 見つけてしまったそれを、踏まないように、掘りごたつから足を抜く。

「しかし、良い言葉ですよね。本当に貴方を、愛しはじめるって」

 話の続きを上の空で聞きながら、僕は、この瞬間だけ、ジンのことも、多々彦が語ることも、忘れていた。

 足もとに、水色のハンカチーフが、落ちていた。

 誰からも見放された、憐れな塊。

 それは多分、僕のことだ。




 ジンは、ホテルの中で靴を履かない。

 備え付けのスリッパにも足を通さず、彼女の高いヒールは、クロークの中で転がっている。先ほど、直したのに、また倒れたらしい。不安定な靴は、彼女の足を包むとき、どんなものよりも彼女を護る。いまは役目を放棄して、力なくストラップを垂らしていた。ホテルの絨毯は、少し、柔らかすぎる。

 ジンのストッキングに包まれた足は、右に左に、往復している。

 小さくて細い。繊維の隙間から透ける肌は、健康的だ。骨が浮き出た足。くるぶしが大きいから、靴擦れをしやすいと聞いたことがある。美しくつまさきから降りた足は、ゆったりとかかとを降ろす。どんなに繰り返しても、質の良いホテルの床では、足音すら聞こえない。

 僕は、履いて来たスニーカーを、脱ぎかねていた。

 ジンの荷物が乗るベッドに腰掛け、彼女の脚を汚さないように、じっとしているしかない。外套すら脱いでいない身に、部屋の空調は暑く感じた。服の下でかいた汗が、じんわりと体臭を引き出す。身動ぎせずにジンを待つ間、僕は、とても泣きたくなった。

 美しいビジネスホテルだった。

 ただ眠る為ではなく、眠るまでの時間を楽しむ余裕が感じられる。部屋は狭いが、窮屈という程でもない。

 フロントは、通らなかった。

 僕を出迎えたのは、いまどきホテルでしか見ないような回転扉と、金と茶、そして紅で統一された、いかにもホテルらしい佇まいだった。

 清潔感のあるホテルに足を踏み入れると、自然と背筋が伸びる。歩幅もしおらしく落ち着き、自分が、何十歳も歳をとったような気分になる。このホテルに宿泊するだけの資格がある、落ち着いた振舞い。静かな口調。冷静な、目線。自然とにじみ出る礼儀に従って、ふかふかな絨毯を踏みしめる。

 あたかも宿泊客かのように。つんと顎をあげたままエントランスを通り過ぎるのは、慣れたものだった。彼女が、部屋で待っているのはわかっていた。僕はいつも、誰とも話さないまま、真直ぐに部屋に向かう。

 素通りを決め込む若い僕に、フロントマンが訝しげ視線を向けたのがわかった。だが、一般的な警備と違って、不躾な目をあからさまに向けることはない。それが、ホテルスタッフとしての矜持なのだろう。

 相当の接客を受けたければ、相当な報酬を払う必要がある。この場所は、スタッフが利用客の行いに、口を噤む理由があるらしい。僕は気がつかないふりをして、エレベーターに乗り込む。扉が閉まる直前、フロントマンが小さく会釈したのが見えた。

静かな廊下に出て、僕はようやく、息をつける。

 指定された階は、建物の中腹ぐらいに位置していた。コの字型をしているホテルは、すべての部屋から中庭が見えるようだ。ビジネスマンとなって日本中を回るようになると、景色でも楽しまないと、やっていられないのだろうか。

 眺望の分だけ、部屋の値段も上がっていく。彼女が、僕の為に用意した金額だ。眺めが良すぎる訳でもないが、低すぎる程でもない。見ようによっては中途半端とも言えるが、彼女は多分、身の丈を知っているのだ。彼女のものではない。僕が、彼女を許せる高さ。

 静かな廊下を進んで行くと、一つだけ、ストッパーで開いたままになっている扉を見つけた。斜めに小さく、明かりが漏れている。

 廊下とは異なる色が、漏れている。照明を絞った廊下の絨毯は、綺麗な真紅だったらしい。壁はリネンホワイト。照明は落ち着いたオレンジ。

 部屋の中は、淡いクリーム色だ。

 そろそろと近づいたその部屋が、ジンが指定した部屋だった。

 最後にもう一度だけ、部屋番号を確認する。内開きのドアにかける手を躊躇っていたのは途中までだ。最後は、重いノブを強引に押す。部屋にそっと入る。物音がしないそこは、廊下と同じくらい、人気がない。

 二秒だけ考えて、僕はドアストッパーを隅に蹴った。支えがなくなった扉は、ゆっくりと閉じられた。オートロックが作動する。カシャリと鍵が閉まれば、もう誰も開けることは出来ない。

 評判の中庭は、レースのカーテンでよく見えなかった。眩しい陽光で白く光る窓に目を細め、ようやく、室内を見渡す。よく見慣れたジンの靴が、備え付けられたクロークに転がっていた。摘み上げて起こしてから、扉が開いていた理由に微笑む。

 古い作りなのか、雰囲気作りの為にそうしたのか。玩具のような鍵が、ドレッサーの上に置かれてあった。その鏡に、彼女の豊かな黒髪が広がっている。

 ジンは、僕を待っているうちに、眠ってしまっていたらしい。ベッドスプレットさえ外さないまま、うつぶせに眠る彼女は、その豊かな身体をすっかりマットレスに沈めている。

 ベッドの横に、膝をつく。柔らかな絨毯の感触は、冷えた膝に心地良い。

「お待たせ、ジン」

 呼びかけは、囁き声になった。

 彼女の瞳が、見たい。でも、彼女に見てほしくはない。

 遠いから、愛しい。近いと、触れたくなる。触れられると、欲しくなる。

 僕は、眠る彼女を見るのが好きだった。

 その瞬間だけは、僕と彼女の間に横たわる月日を、意識しなくても済む。眠りに落ちた彼女は子供のようにあどけなく、見守る僕は、母親のような気持ちになれる。愛しい我が子を見守る母。

 母と眠るのは、腰抜けのすることだ。外国には、そんな言葉がある。僕はその響きが好きだった。いくら下品と言われても、僕はそうでありたいと思う。腰抜けにも、愛がある。そう思ったら、とても愛しい響きに思えるのは、きっと、僕だけだろう。

 ジンの涼しげな白いシャツが、清潔で上品なシーツで皺をつけていた。ゴールドのベッドカバー。羽枕とパイプ枕。硬くごわごわしているのに、不思議と心地よい寝具が、彼女の為に、静かに乱れている。

 ようやく触れたジンの身体は、とても暖かかった。

「ジン、ジンってば、待たせてごめん。起きてよ」

 彼女の熱。

 冷えた僕の指には、心地いい。

 彼女の暖かい身体に触れた途端、僕は、年相応の子供に戻る。フロントマンが眉を潜める程には、僕は、見た目も幼い。中身だって、大きな違いはない。口から出るのも、子供のような、甘ったるい響きだ。

「ねえ、僕をみて」

 おかあさん、僕をみていて。でも、みないで。やっぱり、みて。

 そう言って駄々をこねる子供のように、身勝手で、我儘な声が、清冽なホテルの部屋を満たして、温める。彼女の瞼が震える。やっと、彼女の顔が見られる。そうやって僕はジンを愛して来た。

 彼女が、寝ぼけた顔で僕に手を伸ばす。触れ合うだけの愛撫にも、僕はうっとりと、腰抜けになれる。

 僕がそう思った瞬間、どこかで、電話が鳴り始めた。


 ジンは珍しく、落ち着かない様子で歩き回っている。長い髪を振り乱した表情には、焦りのようなものが浮かべられていた。

 何かのトラブルがあったらしい。

 語る口調だけは、いつもの音を乱すことがない。ただ熱心な様子で、電話の向こう側に、同じことを繰り返し説き伏せている。

 低く、落ち着いたトーンの声。ハスキーとまでは行かないが、僕の語彙で表現するならば、アルトボイスと呼ぶのだろうか。

 それが、愉悦に高められたとき、鈴のように透き通るのを、僕は知っていた。

 女性の声帯は、酷使をするほど、低い音が出るようになると、聞いたことがある。女性は声変わりがないというが、少しずつ、声は変わっていくらしい。出るはずだった音が、出なくなる。日々、変化をしていくことに、僕はなんとなく、恐怖を覚える。

 子供のようなソプラノボイスを捨て、大人へと変化していく。

 その声がかつてのように透き通らなくなった時、彼女は鳴くのを止めてしまうのだろうか。そう考えると、成長とは、残酷なもののように思える。

 彼女の情熱的な声は、交わりの中だけでない。

 例えば、僕は、彼女の仕事をしている時の声が好きだった。

 普段はどちらかというと、おっとりとした、落ち着いた声を出す。のんびりと、撫でるように語るのを、彼女は好む。だが、一度仕事モードに切り替わると、彼女の声には、張りが出る。いくらか早口となって、聞き取れないほどの時もある。姿勢もいくらか前のめりで、全身で仕事をしているのが伝わってくる。

 以前、指摘したことがある。

 彼女は僕をたっぷり三秒眺めてから、ふいに、ルージュが乗った唇を隠した。その仕草が可愛らしくて、僕はいまでも、鮮明に思い出すことが出来た。

「恥ずかしい。そんなところを見ていたの」

 その日も、ジンの元に、突然の仕事が舞い込んだ。

 電話ではらちがあかなくなり、彼女はキビキビとした口調で「いまから向かいます」と告げた。僕もそれを聞きながら、腕時計を確かめた。

 アルバイトの時間まで、まだ数時間はあった。どこで時間を潰そうか、行き慣れた店を思い浮かべながら、だらしなく脱ぎ捨てたスニーカーを履いた。僕はもう、身体を隠していた。ジンだけがゆったりと眠り、乱れたシーツを指でなぞっている。そんな時間をぶち壊されたことに、腹が立たなかったと言えば、嘘になる。

 電話を切ったジンは、ふうと長い息を吐いてから、僕に向き直った。

 眉を下げ、唇は笑みを浮かべているのに、目は、切なげに揺れている。

 その表情は、ズルい。

 その表情を見ることが出来ただけで、僕は、彼女を許したくなってしまう。

 僕は、彼女の声が好きだと告げた。彼女を許す為の言葉だった。彼女は少女のように恥じらいを見せて、僕から顔を遠ざけた。

「恥ずかしいこと? 僕は好きだと言っているのに」

「誰だって、いいえ、私は恥ずかしいの。横顔を写真で撮られた時みたい」

「横顔も、ジンの顔だよ」

「けれど、私にとっては見慣れないものよ。私、三面鏡って大嫌い。化粧をしていても、卑しい女が視界の隅に映るの。どんなに正面から見ればいつもの完璧な私でも、横から見れば、目つきの悪い、ただの女だわ」

 吐き捨てるように言ったジンは、勢いよく立ち上がった。

 キャミソールだけつけた格好で、鏡の前に立つ。その日のホテルはとても小さく、ドレッサーも粗野なものだった。けれど、彼女の全身を映したそれは、濁ったまま、その美しい身体を歪ませる。

 だが、ジンは、満足そうに笑った。

 或いは、満足を自分に言い聞かせるような、笑みだった。

「仕事が出来る女って、かっこいいよ」

 ジンが、鏡ごしに僕を見た。

 彼女の後ろでぼんやりと腰掛ける僕の姿は、曇った鏡面の中で、ひどく幼く見えた。

「仕事が好きなの」

「うん」

「多分、スイッチが入ると、私は女じゃなくなるのよ。目の前の課題をクリアすることだけが、私の全てになる。飢えた獣のように、自分に正直になる」

「かっこいいね」

「だから、恥ずかしいのよ。ナオくん」

 ジンの長く伸ばした黒髪が揺れる。

 髪をまとめながら振り返った彼女は、まだ獣に成りきっていない瞳で、口角を上げた。

「貴方の前では、女でいたいの」


 彼女曰く、女でなくなったジンは、行ったり来たりを繰り返しながら、僕の知らない世界の言葉を話す。身振り手振りを交えて、情熱的に、時には苛立つように足を揺らす。なのに、その声は穏やかさを湛えていて、その深みに電話の向こうにいる者は、惹き込まれていくに違いない。

 僕も働き始めたら、ジンのように語るのだろうか。

 上着の前を開けながら、考える。まだ就職先さえ決まっていない僕は、手持無沙汰と後ろめたさで、靴さえ脱げない。

 目の前を行き来する獣が、時折、僕をちらりと一瞥した。

 だが瞳が映しているのは、彼女の仕事に関する情報だ。反射する光景は記憶に入り込まないまま、景色として処理されていく。

「ええ、では、そのようにお願いします。はい、とんでもございません。よろしくお願いいたします」

 流れるようにジンは言う。

 携帯電話のボタンを押して、その小さな機械を折りたたむ。その指を目で追って、時間を稼いでから、顔を上げる。

「ごめんね、ナオくん」

 その声を聞く為の覚悟が、僕には、必要だった。

「仕事?」

「ええ」

「忙しいね」

「年末だもの」

 僕にとっての年末は、クリスマスが過ぎてからだ。

 ジンは、十二月に入ったばかりの今日を、年末と呼ぶ。

 その違いが、僕らの距離に思えた。「そっか」と頷いて、その声が小さくなったことを自覚する。

 窒息しそうだ。

 ジンという空気がある。香りがあって、ぬくもりがある。彼女が触れたものは、全て、彼女の残り香を感じられる。

 なのに、それを僕は、吸いこむ暇もない。

「そっか。年末だものね」

 ジンの真似をして、穏やかに言った。彼女はいつもの眉を下げた笑みで、僕に手を伸ばした。暖かい部屋だ。外套の下で、汗が伝う。夏でもかかないような汗は、この季節、屋根の下で筋を作る。涙のように、ベルトのくぼみに溜まる。

 彼女の電話の相手は、彼女の旦那だ。もしくは、その部下、同僚だ。二人は同じ会社で仕事をしている。

 名前は知らない。ジンが言わないからだ。

「風邪引いてない?」

ストッパーを蹴飛ばしたのが、もう、こんなにも遠い出来事に感じる。すぐにエントランスに顔を見せた僕を、フロントマンは、どんな顔で見送るのだろうか。

少しでも引き延ばしたい為の問いかけは、間抜けな響きで、塵ひとつない絨毯に落ちた。

「ナオくんは?」

「僕は平気。学校では流行っている」

「嫌ね。私も平気」

 うちの会社でもそうよ。流行っているの。

 そう彼女が一言告げれば、僕は流れのまま、「どんな会社?」と聞けるだろうか。事業内容を聞いて、彼女の部署を知る。旦那がどの立場にいて、彼女とどんな関係でいるのか、知れただろうか。口慰めに「僕もそこで働こうかな」などと言って、彼女を、困らせることが出来るだろうか。

 獣に返る彼女の思考にも、留まれるだろうか。

 だが、彼女は言わなかった。

 ただ黙って、乱した衣服を整え始める。その美しい脚に靴を履いたら、帰る時間だ。せめてそれまでの時間を壊さないように、僕は再び、ベッドの上で小さくなる。

 彼女がそういった会話を望んでいないのは、わかりきっていることだ。

 僕は、彼女のメールアドレスと、その名しか知らない。あとのことは、どれも、彼女と交わした短い逢瀬の中で知った。

 ジンは、甘いものが好きだ。

 どんな食事でもコーヒーを飲み、アルコールのあとはチョコレートを食べる。

煙草は吸わないが、匂いは嫌いじゃない。副流動を愛していると言ってもいい。

 手足は細いが、身体はどちらかと言うとふっくらしている。流行の服よりも、好きなブランドの服を買うのが好きで、エスコートが出来ない男を軽蔑している。

 映画が好きなのに、観に行く暇がないと嘆いていること。休みが出来ると、一人でフランス映画を見に行くこと。

 美術館もレストランも一人で平気なのに、スターバックスコーヒーに一人で入れないこと。

「僕を置いて行くことも、平気なこと?」

 僕のセンチメンタルな問いかけに、ジンは、悲しそうな笑みを見せた。

 ジャケットを羽織る。僕の横を通り過ぎて、クロークへ近寄る、美しい足。ストッキングが絨毯に擦れて、背後で布ずれの音が鳴る。

 コツン。彼女の鋭利なヒールが、クロークの扉を、静かに蹴った。

「貴方は? ナオくん」

 ジンの聞き方は、ズルいと思った。

 それが、僕達の間に横たわる、距離だった。



「家城?」

 気が付くと、彼が避けたボウルは片付けられていて、目の前には湯気の薄い茶づけがあった。僕がしらすで、多々彦が明太子だ。ビールのあとのお茶漬けなんておっさん臭い。そう言いながら、僕達はこのさらさらと食べられる食事が好きだった。

 ガヤガヤと、実体のつかめない喧噪が耳に戻ってくる。

 僕の足もとには、まだ、水色のハンカチーフが落ちている。

もう何時間も、そこに落ちているのだろう。掘りごたつの中で僅かに作動する暖房が、その繊維をくたくたに温めている。

「ぼうっとしていた」

 正直に答えると、多々彦は笑って眼鏡を外した。すっかり乾き始めているおしぼりで、こびり付いたドレッシングを拭き取り始める。

「彼女のことでも考えていたのでしょう」

「そっちこそ、日々ちゃんから返事は来ないの」

「来ませんね。そっちがそのつもりなら、こっちは朝まで待つのみです」

「何の戦いなんだよ」

 あの日のあと、ジンからは一度も連絡が来ていない。年末だから、しょうがない。その言い訳も、あと数週間で出来なくなる。

 それも愛の形であると断言出来たのは、過去のことだった。

 愛に形はない。でも、愛には香りがある。匂いがあり、感情がある。思いがあって、景色がある。彼女の傍にいるとき、僕は愛を、理解していると思っていた。彼女の愛に溺れている。そう思い込んでいた。

 でも、彼女から離れた僕には、何もない。

 僕は多分、誰かを愛する勇気が、ただ、欲しかっただけなのだ。

 テーブルに頭をぶつけないように、身を屈める。腕を伸ばして、ハンカチを摘まんだ。酷い汚れはなさそうだ。安心して、茶漬けの横に並べる。箸を取る。

「どうしたんです、それ」

 携帯電話を確認していた多々彦が、すぐに気がついて、僕に訊ねる。

「落ちてた」

「あれま。あとで誰か来たときに届けましょうか」

「そうだね」

 誰のものかわからないハンカチは、もう二度と、持ち主の元に戻ることはないのだろう。二度と本来の色を取り戻すこともなく、ゴミ箱に放棄される。ならば、ずっと暗闇で放置されていた方が、幸せだったのかもしれない。

 ジンの声を、思い出す。

 彼女に見抜かれたのは、僕が本当は、相手が女性でなくても構わないという、僕の本質だ。

 彼女が僕を誘ったのは、ただ、寂しかったからだと思う。遠く、故郷から離れた地で一人になった彼女は、経験したことのない寒さに震えた。熱を与えてくれる者なら、なんでも良かったのだ。

 同じくらい、僕も、ジンでなくても構わなかった。学校で知り合った日々子でも、日々子が紹介してくれた多々彦でも、クラスのどの人間でも、構わなかった。ジンだけが、僕に手を差し伸べた。ジンだけが、僕に、愛を教えてくれた。それだけの話だ。

 僕達が出会ったのは、毎年開催されている祭りだった。なんとなく参加したのは、街が虹色に染まるのが綺麗だと思ったからだ。彼女は当たり前のように僕に近づいたし、僕も、当たり前のような顔をして、彼女の誘いに応えた。彼女は、僕を愛してくれた。僕も、愛の形をジンに作り替えていった。

 でも本当は、ジンから連絡が来なくなって、僕はほっとしていた。

 先日、面接を受けた会社から、連絡が来ていた。少し早い研修が、年明けから始まるらしい。多分これから向かう先では、雪が積もらない。そう思うと、降り続ける雪も、去年より鬱陶しいと思わないから、不思議なものだ。

 ジンには、告げていない。

 多々彦には、真っ先に知らせた。あと一年、学生でいる必要がある彼は、この寒い土地に、来年も残る。

「多々彦、明太子三分の一頂戴」

「切り分け難しいので却下」

 はは、と声を立てて笑った彼の笑みは、眼鏡をしていないからか、とても幼く見えた。愛嬌のある顔を、どうして隠すのか。聞いたことがないまま、彼との付き合いは、もうすぐ、二年で、終わりを告げる。



 終電まで駅で粘っても、日々子は現れなかった。

 彼女は、最近、恋人が出来たらしい。僕にはそっと打ち明けてくれた。アルバイト先で知り合った男で、優しい人だと、彼女ははにかんでいた。

 いつまでも姉離れ出来ない多々彦は、わかっていて、無駄な闘いを繰り返す。しつこいメールも、ストーカーのような行動も、彼の気が済むまで、させてあげたいと思う。

 家族同士でも滅多に言わない愛のフレーズを、彼は御守りのように口ずさむ。本当に愛しているから、言わないのだと、彼は自分で唱えながら、なかなか認めようとしない。

 居酒屋を出た時は、あたり一面が真っ白だった。

 吹雪の中、駅まで走る。駅の中も、凍えそうに寒かった。ホームは風を避けてか、駅員の姿すらない。三十分後にやってくる終電を待って、僕達は誰もいないホームのベンチを占領した。

 自動販売機が、小さく音を立てて揺れている。

 人間も、しかるべき対価を与えて、しかるべきところを押せば、素直に欲望を吐き出してくれるといいのに。そんなことを考えながら、僕は雪がうっすら積もったホームに足あとを付けた。

 ベンチで殆ど寝転がっている多々彦が、僕を呼ぶ。

「うちしろなおこぉ」

「何だよ、酔っ払い。うるさいなあ」

「そんな短いスカートを履いたら、風邪を引きますよお」

 つけたばかりの足跡をなぞって、なおも喚いている酔っ払いの元へ戻る。彼のシスコンが加速しているのは、僕の所為だろう。それか、日々子はただの口実で、彼は僕の傍にいたいだけかもしれない。

 目を閉じたままだった多々彦の顔に、先ほど拾った、ハンカチーフを広げた。店員に渡すつもりだったのに、持ってきてしまったのだ。突然水色に染まった視界に慌てた彼は、大げさな程身動ぎをしてそれを避けた。ふわりとホームに落ちたそれに、舞い上がった雪がかかる。

「うわ、気味わるい。拾ったやつでしょう、それ」

 ベンチに寝転がったまま、彼は、僕を見上げる。

 ガラス越しに笑みを浮かべた笑みだけが、僕を、真直ぐに見つめている。

 みないで。

 そう思うのに、彼の美しい指が、僕を誘う。

「家城、愛していますよ」

 僕には必要のない言葉を、今夜も酔っ払いは、囁き続ける。

 僕は、本当は、多々彦と二人きりになれるのが、嬉しかった。

 全てを知れないから、愛しいのではない。

 全てを知らなくていいから、僕は、彼を愛することが出来ている。そう僕に気がつかせた携帯電話は、今日も、鳴らない。

 誰も、僕を見ないでほしい。

 自己欺瞞に満ち溢れた愛が、僕の中で燻り続けている。ハンカチのように見捨てられて、最初から、なかったことになってしまえればいいと思う。

 いつか、誰かを愛することが出来る。

 そう思い込んでいるよりは、幸福だ。