2014年 08月 16日
韓国歌謡 60年代(3) ペ・ホ |
韓国の60・70年代の歌を、引き続き、YouTubeでちょこちょこ聴いています。
まえに紹介した映像に、「ペ・ホ」(裴湖)という男性歌手が出ていました。
それで、はじめて歌手ペ・ホを知りました。
映像では、ペ・ホのうたう「0時の別れ」という歌が、午前0時からはじまる「夜間通行禁止(令)違反だ」という理由で、禁止曲になったと紹介されていました。
どんな歌かと、聴いてみると…
「0時の別れ」
ネオンの灯りがさびしく 消えていく 三叉路
別れをまえに おまえとおれは いつまでも泣いた
思い出だけを 残したままの
若かった日の 「火遊び」(プルチャンナン←日本語と同じ発想なのが面白い)
「原点」(始め)へ戻っていく 0時のように
愛よ さようなら
うーん、どうして「禁止曲」?
ところで、ペ・ホという歌手の、不思議な「こえ」と「うたい方」…おもしろい。
まえに紹介した映像に、「ペ・ホ」(裴湖)という男性歌手が出ていました。
それで、はじめて歌手ペ・ホを知りました。
映像では、ペ・ホのうたう「0時の別れ」という歌が、午前0時からはじまる「夜間通行禁止(令)違反だ」という理由で、禁止曲になったと紹介されていました。
どんな歌かと、聴いてみると…
「0時の別れ」
ネオンの灯りがさびしく 消えていく 三叉路
別れをまえに おまえとおれは いつまでも泣いた
思い出だけを 残したままの
若かった日の 「火遊び」(プルチャンナン←日本語と同じ発想なのが面白い)
「原点」(始め)へ戻っていく 0時のように
愛よ さようなら
うーん、どうして「禁止曲」?
ところで、ペ・ホという歌手の、不思議な「こえ」と「うたい方」…おもしろい。
歌の導入部で「ネオンプリ ススラゲ」(ネオンの灯りがさびしく)を「ネオンプリ ス/ス/ラゲ」、「コジョガヌン サムゴリ」(消えていく 三叉路)を「コ/ジョ/ガヌン サムゴリ」とアクセントを付けて(スタッカート?)、いっきに聴き手の興味をわしづかみする。
とてもおもしろく思ったので、他の曲も少し聴いて、ちょっと調べてもみました。
上の「0時の別れ」は、1971年夏に発売されたアルバムに収録されたもので、その年11月に、ペ・ホは29歳の若さで亡くなります。(すこし時代はちがいますが、キム・ジョンホさんも早世でした。)
上の「0時の別れ」は、1971年夏に発売されたアルバムに収録されたもので、その年11月に、ペ・ホは29歳の若さで亡くなります。(すこし時代はちがいますが、キム・ジョンホさんも早世でした。)
最後のアルバムの最初におかれた曲だそうです。
この曲が、他の多く歌手の曲とともに禁止指定になったのは、1975年。
この曲が、他の多く歌手の曲とともに禁止指定になったのは、1975年。
だから、ペ・ホさんはそれを知らずにすんだわけですね。
ペ・ホさんの略歴は…(ダウム知識百科による)
1942年 中国、山東省で生まれる。父が、光復軍(抗日独立軍)の一員として中国で活動していたためらしい。1945年、解放後、父母とともに帰国、仁川の引揚者収容所で生活する。ソウルで小学校を卒業後(小学校時代に朝鮮戦争を経験したはずです)、プサンの中学校に入学したが、家庭の事情(貧困)で2年生のとき(1956年)に中退。その後、楽団でドラマーをしながら音楽活動をつづけ、1963年(21歳)に歌手デビュー。1967年に「帰って行く三角地」を大ヒットさせた。このときすでに腎臓炎を煩い、のちのちも病とたたかいながらうたいつづけた。1971年11月に逝去。
1981年にMBSがアンケートをとった「いちばん好きな歌手」の一位に選ばれ、また2005年にはKBSが世論調査にもとづき発表した「国民歌手10人」のひとりに選ばれた。
…とあります。
韓国ではほんとうによく知られた歌手だとわかりました。
そして、病をかかえながら、うたい続けた歌手。
つぎに、大ヒットした「帰って行く三角地」の「こえ」を聴いてみてください。
「帰って行く三角地」
三角地ロータリーに 鬱々と雨がふり
なくした あの愛を 惜しんで
雨に濡れて ため息をつく
孤独な男が
わびしく たずねて来たが
泣いて帰る 三角地
三角地ロータリーを さまよう この足どり
去ってしまった あの愛を なつかしんで
涙に濡れ 呼んでみた
孤独な男が
人知れず 探しに来たが
帰って行く 三角地
出だしの「三角地ロータリー」のところ。
「サンガクチ/ロ/タリーエー」とうたっています。
ペ・ホさんの略歴は…(ダウム知識百科による)
1942年 中国、山東省で生まれる。父が、光復軍(抗日独立軍)の一員として中国で活動していたためらしい。1945年、解放後、父母とともに帰国、仁川の引揚者収容所で生活する。ソウルで小学校を卒業後(小学校時代に朝鮮戦争を経験したはずです)、プサンの中学校に入学したが、家庭の事情(貧困)で2年生のとき(1956年)に中退。その後、楽団でドラマーをしながら音楽活動をつづけ、1963年(21歳)に歌手デビュー。1967年に「帰って行く三角地」を大ヒットさせた。このときすでに腎臓炎を煩い、のちのちも病とたたかいながらうたいつづけた。1971年11月に逝去。
1981年にMBSがアンケートをとった「いちばん好きな歌手」の一位に選ばれ、また2005年にはKBSが世論調査にもとづき発表した「国民歌手10人」のひとりに選ばれた。
…とあります。
韓国ではほんとうによく知られた歌手だとわかりました。
そして、病をかかえながら、うたい続けた歌手。
つぎに、大ヒットした「帰って行く三角地」の「こえ」を聴いてみてください。
「帰って行く三角地」
三角地ロータリーに 鬱々と雨がふり
なくした あの愛を 惜しんで
雨に濡れて ため息をつく
孤独な男が
わびしく たずねて来たが
泣いて帰る 三角地
三角地ロータリーを さまよう この足どり
去ってしまった あの愛を なつかしんで
涙に濡れ 呼んでみた
孤独な男が
人知れず 探しに来たが
帰って行く 三角地
出だしの「三角地ロータリー」のところ。
「サンガクチ/ロ/タリーエー」とうたっています。
「0時の別れ」の冒頭もそうだったので、ペ・ホさんのうたい「クセ」かと思ったら…
その曲を収録したスタジオにいっしょにいた作曲家の話によれば、その「うたい方」は、不如意のなかでペ・ホさんの健康状態も悪く、息をするのも大変だったことからそうなったということです。
演歌系の歌手のなかには、嫌みなくらいビブラートを効かしたり、声をやたら伸ばしたり(ロングトーン)するかたがいて、???と感じることがあります。
ペ・ホさんは、肉体的制約からそんなふうになる「一歩手前」に踏みとどまって、それでいて肉体的限界ぎりぎりのところでうたっているように感じられました。
そして、その、すこし突き放したような、乾いたような「こえ」にはどこか柔和さもただよいます。
歌手は、ただの美声だけでは、魅力はないですね。
ペ・ホさんの歌を聴きながら、ほんとうに「こえ」の不思議を思いました。
ところで、「三角地」というのはソウルの龍山区にある場所(地名)です。
その呼称は、現在も、地下鉄の「駅名」として残っています。
「三角地」は、漢江(ハンガン)を渡ってソウル都心部にむかう道路(南北)と京釜線(鉄道、南西方向から北へ)に挟まれた三角形の形状をした地区を意味したらしいですが、そのなかに三方向からの道路が交差するところがあり、日本統治期からそう呼ばれ、1937年にロータリーになったそうです。
(http://blog.daum.net/kmb2274/5155614)
そして、1960年代後半、このロータリー周辺での交通渋滞を解消するため、「三角地ロータリー」を高架交差道路として建設することになりました。
竣工後の新聞記事(1968年4月)が上のブログに出ていました(↓)。
上の記事には「ソウル新8景 三角地立体交叉路」というタイトルが付いています。
韓国ではじめての立体交叉路は、「見る価値のある名物」(記事)となったのでしょう。
観光バスは「お上りさん」たちのために、この立体交差ロータリーをわざわざ何周も回ったそうです。
「帰って行く三角地」が発表されたのはこの立体交差道路が工事中で竣工する前の年ですが(パク大統領も竣工式に臨席)、竣工後ソウルの「新名所」となったこともあってさらにヒットしたといいますから、ペ・ホさんの歌も、イ・ミジャさんの歌と同じく、韓国の近代化、経済成長を時代背景としていると言っていいと思います。
イ・ミジャさんの歌が、地方(離島)で暮らす人びとのソウルに対するアンビバレントな心情をうたっているとすれば、ペ・ホさんの歌は、ソウルのなかでソウルの「変化」から疎外されていく人びとの心情に訴えている。
ソウルの「周縁」、しかも「三角地」という尖ったイメージに象徴される周縁部に暮らす人びとの、そして同じくソウルの片隅で生活苦にあえいでいたぺ・ホその人の、乾いた「ため息」がその歌のあいだから聞こえてくるようです。
演歌系の歌手のなかには、嫌みなくらいビブラートを効かしたり、声をやたら伸ばしたり(ロングトーン)するかたがいて、???と感じることがあります。
ペ・ホさんは、肉体的制約からそんなふうになる「一歩手前」に踏みとどまって、それでいて肉体的限界ぎりぎりのところでうたっているように感じられました。
そして、その、すこし突き放したような、乾いたような「こえ」にはどこか柔和さもただよいます。
歌手は、ただの美声だけでは、魅力はないですね。
ペ・ホさんの歌を聴きながら、ほんとうに「こえ」の不思議を思いました。
ところで、「三角地」というのはソウルの龍山区にある場所(地名)です。
その呼称は、現在も、地下鉄の「駅名」として残っています。
「三角地」は、漢江(ハンガン)を渡ってソウル都心部にむかう道路(南北)と京釜線(鉄道、南西方向から北へ)に挟まれた三角形の形状をした地区を意味したらしいですが、そのなかに三方向からの道路が交差するところがあり、日本統治期からそう呼ばれ、1937年にロータリーになったそうです。
(http://blog.daum.net/kmb2274/5155614)
そして、1960年代後半、このロータリー周辺での交通渋滞を解消するため、「三角地ロータリー」を高架交差道路として建設することになりました。
竣工後の新聞記事(1968年4月)が上のブログに出ていました(↓)。
上の記事には「ソウル新8景 三角地立体交叉路」というタイトルが付いています。
韓国ではじめての立体交叉路は、「見る価値のある名物」(記事)となったのでしょう。
観光バスは「お上りさん」たちのために、この立体交差ロータリーをわざわざ何周も回ったそうです。
「帰って行く三角地」が発表されたのはこの立体交差道路が工事中で竣工する前の年ですが(パク大統領も竣工式に臨席)、竣工後ソウルの「新名所」となったこともあってさらにヒットしたといいますから、ペ・ホさんの歌も、イ・ミジャさんの歌と同じく、韓国の近代化、経済成長を時代背景としていると言っていいと思います。
イ・ミジャさんの歌が、地方(離島)で暮らす人びとのソウルに対するアンビバレントな心情をうたっているとすれば、ペ・ホさんの歌は、ソウルのなかでソウルの「変化」から疎外されていく人びとの心情に訴えている。
ソウルの「周縁」、しかも「三角地」という尖ったイメージに象徴される周縁部に暮らす人びとの、そして同じくソウルの片隅で生活苦にあえいでいたぺ・ホその人の、乾いた「ため息」がその歌のあいだから聞こえてくるようです。
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Commented by Kim at 2014-08-20 00:21 x
ペホ氏は私の好きな歌手ですが、彼の歌は、どの曲を聴いても似たり寄ったりしてたまに混乱された場合があります。やはり愛、懐かしさ、悲しさ、失恋、痛み、未練、物足りなさなど、明るく軽快なものとは距離がありますよね。彼はソウルのどこを歌った歌詞があるが、例えば、雨の明洞の街、霧の奨忠壇公園、帰る三角地、などがあるが、いずれも大ヒットした曲たちで、今でもたまにそこを通り過ぎてみるとペホの歌を連想させるんですね。私もフランク永井さんの歌有楽町で逢いましょうを好き東京に行った時に有樂町驛の前のベンチにしばらく座っていたことがあります。まぁペホ氏は韓国の50代以上のおじさんたちには最高のアイドルであり、最高の歌手です。あまりにも早く世を去ったことをファンに大きな物足りなでしょう。arirangさん、いつか機会があれば日本の昭和時代の歌手たちの文もお願いします。
ぺホさんの声とうたい方に魅かれました。Kimさんが教えてくださった「ピネリヌン ミョンドンコリ」をさっき聴いてみました。おっしゃるとおり、歌の情緒は「トラガヌン サムガッチ」と似ていますね。ソウルに行く機会があれば「奨忠壇公園」も訪ねてみたいと思います。
フランク永井さんの「有楽町で逢いましょう」は、有楽町に「そごう百貨店」ができたときのコマーシャルソングだったそうですが、ぺホさんの歌のそれぞれにも、いろんなエピソードがあるのでしょうね。
「昭和時代の歌手」…中高生のとき以後はほとんど歌謡曲は聴きませんでした。またいつか、西田佐知子さんとかについても触れてみたいと思います。「月がとっても青いから」は記事を書きました。http://tarirang.exblog.jp/11579398/
フランク永井さんの「有楽町で逢いましょう」は、有楽町に「そごう百貨店」ができたときのコマーシャルソングだったそうですが、ぺホさんの歌のそれぞれにも、いろんなエピソードがあるのでしょうね。
「昭和時代の歌手」…中高生のとき以後はほとんど歌謡曲は聴きませんでした。またいつか、西田佐知子さんとかについても触れてみたいと思います。「月がとっても青いから」は記事を書きました。http://tarirang.exblog.jp/11579398/