ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 眠りの淵に咲く薔薇へ32017年5月7日 23:23※ 注意 ※※ くっつく頃にはギルアサギルに着地しますので両方のタグをつけております。リバが苦手な方はご注意ください。※ 消失に関する話も出たりします。話の中で消失はしませんが、苦手な方は避けてください。※ 人名呼び。※ 捏造過多。[newpage]「兄さん、今日はいい天気だ。こんな日に走ると気持ちいいだろうな」 静かにカーテンと窓を開けて光と新鮮な空気を取り込む。だが、話かけても答えは聞こえない。振り返っても、ベッドに沈む兄さんの唇は開かない。 只々静かに、不自然とも思える沈黙が降りている。 部屋の中すらこんなにも光に満ちているのに、兄さんの夜は明けないままだ。 兄さんが眠ったまま起きなくなったのは、忌々しい壁が崩壊し、東西の統一を再び成して、さあこれからだという時だった。 確かに、体調は酷く悪そうではあった。あの体制下にあり、更に東の西への編入だ。兄さんの体はかなりの痛手を受けたであろうと容易に推測される。 こちらも、東を受け入れる事で相当に体に異変が出るだろうと覚悟したが、実際は思っていた程ではなく、後々やって来るのだろうかと首を傾げていた折に兄さんの体調があまりに悪いと遅まきながらに気付いたのだ。 血の混じる咳とひどい熱に魘されながらも良くある事だと笑う兄さんに何故俺は気付かなかったのかと悔やんだが、再統一の為に互いに慌しく動いていた為にろくに顔を合わせていなかった事、そして、兄さん自身がそれを隠していた事もあっての結果だった。そんなに俺は頼りないのかと憮然とし憤慨もしたが、へらへらと軽薄に笑う兄さんに頭をぐしゃぐしゃと撫でられて『お前はほんと良くやってるよ、流石は俺様の弟だぜー!』と心底から嬉しそうに言われてしまえば詰れる訳がない。 それからも、俺は極度の不調に襲われる事は殆どなく、まるですべての負荷が向かったかのように兄さんの体調は悪化していった。 あの夜、頼むから安静にしていてくれとベッドに押し込んだ兄さんの手が大丈夫だとでも言いたげにひらひらと振られたのを呆れたように見ていたのを覚えている。続く高熱に時に意識も危うく、繰り返される激しい咳に声帯を痛めて声も出せない癖に何が大丈夫なものか。寧ろこちらこそ大丈夫だから大人しく寝ていろと返せば、兄さんは目を細めて満足そうに笑っていた。そして、そのままだ。次の日も、また次の日も、一週間、一月と経っても、兄さんの瞼は静かに降りたまま。 朝になっても起きて来ない兄さんに、何度呼んでも揺すっても目覚めの気配すらない姿に、恐ろしく低い体温に、まさかと青ざめて脈を確認し、結局は矢も盾も堪らず俺はローデリヒに連絡を取っていた。ローデリヒばかりか、丁度連絡した場に居た兄さんの腐れ縁だとも幼馴染だとも言えるエリザベータにも『大丈夫よ、落ち着いて』と宥められた事を思うに、俺は些か取り乱していたらしい。 幼い頃から何くれとなく俺を気にかけてくれていた二人だが、兄さんとは反りが合わない。だが、それでも信頼関係はあるのだ。長きに渡る縁の中で培ったものだろう。そして二人は俺の知らない兄さんを知っているし、解っている。その事に些か燻るものがないとは言えないが、子供じみた嫉妬だと苦笑いをする程度のものだ。兄さんの事は自分が一番知っている筈だと信じて疑わなかった子供は疾うに大人になっている。本当は何を考えているのかが解りにくい相手だと気付いたのはいつだったろう。 忙しいだろうに連絡して直ぐにこちらに来てくれたローデリヒとエリザベータにも、事情を話せば急遽休みをくれた上司にも感謝する他ない。 ローデリヒは兄さんの状態を確認すると眉間に深く皺を刻み、不機嫌そのものの表情を作りながら『このお馬鹿さんが』と兄さんに向かって小さく呟いていた。極度の不調が眠りという形で国の体に出る事は珍しくないとはその時に聞いた事だ。国を医者に診せた所で仕方なく、目覚めるまでそっとしておく他はないと結論付けられ多少は落ち着いたが、こう言う時に俺はまだまだ若輩者なのだと痛感するのだ。「もうじき……一年だぞ。そろそろ起きてもいいだろう」 今日も、答えは返らない。 そして、俺の罪がひたひたと降り積もって行く。 今日の会議には珍しくバイルシュミットが来ているのだとは、極東の友達が教えてくれた。自国開催の時すら滅多に出て来ない男がどうしたと思っていれば、部下の何人かがインフルエンザにやられた為に急遽助っ人に出向いたらしい。 朝から菊と話せて穏やかな気持ちになった所で挟まれた大声は元弟のアルフレッドのもので、神経に来る音量に対しての小言を述べれば、打って返すように皮肉と『くたばれ』何ぞという暴言が飛んでくる。俺がそれを大嫌いだと知った上での所業だ。飽きるほどに繰り返している遣り取りだから流石にこれで死ぬほど落ち込む事はもう無いが、胸の内に苦い澱みが沁み出すのは止められない。言っとくが咄嗟に皮肉が出るあたりは確実に俺に似たからなお前ザマァみろ! 一気に下降した機嫌のままに言い合いになりそうになったが、菊の取り成しもあってその場を離れた。正直言いたい事は山とあるが、せっかく宥めてくれた菊に悪いと呑み込んだ。俺がムキになると向こうもムキになるので収集がつかなくなる事が多いという理由もある。アルフレッドが拍子抜けしたような、そして若干バツの悪そうな顔を見せたのは一瞬だったが、まあ多少は溜飲が下がったので良しとしよう……菊に呆れられてないといいが。 かつての相棒である彼とももう少し距離を詰めたいと思いながら随分と年月を経てしまった。俺たちにとってはあっという間でもあるが、じりじりとした気持ちを抱えたままではそれなりに長い。 時計を見ればまだまだ時間はあった。バイルシュミットが来ているならば悪友共がそれを逃す筈はないのでその辺りでつるんでいるかもしれない。騒がしい所を探せば居るだろう。 声はかけなくていい。ただ、無性に顔が見たかった。「おっと、悪い!」「っ、すまないっ」 考え事をしながら歩いていたせいか、角を曲がった所で危うく出会い頭の衝突と相成る所を互いに体をひねってかわす事で防ぎ、覚えのある声に視線を上げればそれは逢いたかった男で。「おう、カークランドか。おはよう」 それだけで、胸に落ちた重苦しい靄が霧散した。「……おはよう。本当に来てたんだな」「あー? ああ、そうか本田か……と、悪ぃ急ぐ。また後でな」「ああ」 片手を軽く上げて横をすり抜けて行くバイルシュミットに、ふと違和感を覚えた。 鼻を掠めたのは、けぶるアンバー。 思わず視線だけで相手を追った。動物的な重いアンバーグリスではなく樹木的でスモーキーなそれ。遅れて甘いムスクが鼻に残る。似合うが、らしくない香りだ。いつもは落ち着いた、その癖清しい。そんな香りを好んで付けていた筈だ。いつだったか、兄弟揃って同じ香りを纏っていた事もあるが、すっきりとした爽やな香りであれも良く似合っていた。まったく兄弟仲良くて結構な事だ腹立たしい。 さて、この気障ったらしい気配は髭の所の物だろう。最早勘でしかないがこれに関して外れたためしはない。 黙っていればストイックに見えるあの男の雰囲気を損なうことなく、セクシャルな面を覗かせる香りを選ぶのは流石だが、気に食わない。 あいつにはもっと潔癖で清冽な香りの方がいい。 ドイツの厳寒、早朝の森。イメージとしてはこれだ。 それにあれはバイルシュミットのイメージからすれば日中の香りじゃない。あれは夜の——ベッドの上でこそ相応しいだろう。ああ、それを考えるとやはり口惜しいが流石としか言いようが……待てよ? まさかあの髭野郎あいつを狙ってるんじゃねぇだろうな。よしんばそうだとしたらどんな手段を使ってでも絶対に邪魔してやる。幸せになってくれれば良いなんて思えるほど俺は心が広くないんだ。まあ、相手にもよるが……俺の眼鏡に適うのならばこの心に蓋をして接着して何重にも鍵をかけた上で微笑んで祝いの言葉だって述べてやるが髭は駄目だ。駄目な筆頭だ。 落ち着かない感情を持て余しつつも上司や部下との打ち合わせを終えて会議室へと入ると、扉の傍でしゃがみこんで談笑している良く知る姿が視界に入った。開始までにはまだ時間があるせいか、大人しく席についている者どころか姿が見えない者も多い。そもそも議長国のイタリア兄弟の姿が見えない。まあそれはいつもの事だが。けれど、今日は他の連中の集まりが比較的良かった。アルフレッドにしても、視線の先のラテン男にしても珍しい面子が時間前に揃っている。ふと、癖のある髪の持ち主がこちらを向いた。「あ? 何見とんねん眉毛」「てめぇなんぞ見てねぇよ。自意識過剰かトマト野郎」 何を楽しそうに俺のバイルシュミットと話してんだよクソがとか別に思ってねぇし。「したら何でこっち睨んどんねん紛らわしい。まあええわ。お前はとにかくトマト食べてその辛気臭い顔どうにかし」「紳士に向かって辛気臭いとはなんだてめぇ……いや、何だっていつもトマト持ってんだお前は……」 紳士、の所で鼻で笑いやがったが、突っかかる前に押し付けられた真っ赤なトマトを受け取ってしまった。だからなんでトマト持ってんだお前。 こいつとは昔のあれやこれやが原因で今でも派手に喧嘩する事があるが、人前だと大体この程度で鎮火する。身の内に激しさと情熱を秘めたスペインの化身は快い事を優先するらしい。この場合はバイルシュミットとの会話だろう。『楽しくしている時に空気壊すの嫌やん?』なんぞと普段空気を全く読む気のない奴に言われると絶句するしかない。 ちらりとバイルシュミットを見れば喉を鳴らして笑っている。お前が楽しそうでなによりだ。カリエドの野郎の邪魔をしてやろうと同じようにしゃがみ込むが特に拒否されはしなかった。基本的には大らかに出来ているカリエドがたまに羨ましい事なんてない。絶対ない。「それにしても、お前早すぎないか?」 これだけで伝わったようだ。遅刻常習者の眉が困ったように下がる。人の良さそうな甘い顔をしているだけに何とも情けない。「俺、昨日からこっち来ててんけどな? 朝っぱらからギルちゃんに強襲されたんや……無理矢理とか酷いわー眠たいわー」「おい、言い方! 起こせっつったのお前だろ。起きるまで電話しただけだろうが」「携帯手元に置いとくん忘れたからえらい目みたわ……むっちゃ鳴りっぱなしやねんもん。ギルちゃんしつこいわー」「起きられたんだからいいだろ? ったく、次はぜってー起こさねえぞ」 バイルシュミットからモーニングコールとか俺に喧嘩売ってんのかこのトマト。そんな気持ちを押し殺してせめて話題を変えようと口を開く。「……そもそも、お前らこんなとこで座り込んで何やってんだ」 聞けば、二人とも顔を見合わせて曖昧に笑ってみせた。「うんー? 変質者に対する対応と対策について意見を取り交わしてる」「時々心配になるくらいアレやからなあいつ」 もうこれだけで誰の事だか解ってしまう。何でそんな下らない話をしてるんだお前らは。もっと有意義な話があるだろういくらでも。いっそトマトの話でもいいじゃねぇか。「……相当に今更な議題だな。あれは殺しても治らねぇぞ絶対」「知ってる」「まあ、もしもって事もあるし?」「カリエド、ないなって顔しながらもしもを期待するな……」 バイルシュミットの方は完全に呆れ顔だ。というか会議前にする話題じゃないだろお前ら。本当に話題は選べよ。「あの隙あらば尻だの胸だのに手ぇ伸ばしてくるのはホントどうにかなんねぇのかよ腐れ縁。調子乗って服引っぺがそうとしてくるしよー」 よし、あいつは殺す。任せとけバイルシュミット。お前の仇は必ず俺が討ってやる。「取り敢えず、殴れ。それか蹴り飛ばせ。あいつは沈めんのが一番手っ取り早い」「そうしてるけどなんか嬉しそうに悶えられるとな……いや、余計に容赦なく踏み躙れるけどよ」「いつもの事とはいえ何やってんだあの変態……」 頭を抱えたくなる。不本意ながらあいつとは腐れ縁で、腹は立つが色々と世話になった事もある訳で、ミクロン単位でなら認めたくはないが身内的な感覚もある相手で……そんな相手の奇行には時々物凄く居た堪れなくなる。「でもまあシスのことやから最悪でも脱がしたら気ぃすむやん? 俺の裸とか見慣れてるであいつ。せやからまあええかなーとも思うんやけどな」「お前はどっかに落として来た危機感を至急拾って来いっ」 大らかどころの騒ぎじゃなかった! この鈍感天然野郎がと思わず声を荒げたが、トマト野郎は不本意そうに唇を尖らせるばかりだ。「なんなんそれ。危機感くらい親分もちゃんと持ってんもん! あんまりしつこかったらちゃんとしばいてるもん!」「おい、カリエド。バイルシュミット見てみろ何とも言えない顔でお前見てるだろ!」「いや、まあ……あいつ俺らにはどんなセクハラしても許されると思ってる節はあるよな……」「ぼこられて終わりやと思っとんのは確かやなぁ……そういえば、ギルちゃんのそれ、シスから貰ったやつやろ? あいつ香水すらやらしい匂いするなあ」「やらしい匂いってなんだよ、他に言い方ねえのかよ。何か不名誉だぜ……」「いやらしいってゆーたほうがいい?」「一緒だろ!? いや、何かさっきのより嫌な響きだからやだ」「……その香水あいつからか」 唸るような響きになったが、髭に対する感情が露出したとでも思われたようだ。お前も大変やな、などとカリエドからの同情が届く。気に入らないと言う意味では間違ってない。「おう。押し付けられたんだけどよ、うっせーからあいつに会う時は一応付けてるわ。なんかルートヴィッヒには落ち着かない匂いだって言われるし、今日は今日で本田に恋人からですかその話詳しくとか言われるし、トーニョはそれだし。この匂い嫌いじゃねぇんだけど周りの反応は芳しくねえなぁ」 何が眉間皺凄えぞ、と付け加えられて自分で眉間を軽くほぐす。やっぱり気に食わねぇ。どうにかしてその香水を身につけるのをやめさせたい。「親分も貰てんけど、付けてたらロヴィに壮絶な顔されたわ。酷いわー」 はふーっと大仰にカリエドが溜息を吐いたが、お前の子分も大変だなという気持ちを込めて鈍感野郎の肩を軽く叩いておいた。「うわ、ガラ悪っ」 不意に飛んで来た言葉は良く知った声だ。というか議題になってる変態の声だ。「お前らそこは不良の溜まり場じゃないよ?」 やれやれとでも言いたげに無意味に髪をかきあげながら近付く姿に再度眉間に皺がよる。きらきらと光を弾く金色を流す様は客観的に見れば非常に絵になるのだろうが、俺には正直鬱陶しいばかりだ。「あ、元凶や」「諸悪の根源が来やがった」「根絶されろ」「何なのお前たち?! 俺何かしたっけ?」 言葉の矢が三本突き刺さったところで髭が喚いた。いつも何かしらやらかしてるだろうが自業自得だ。「シスは香水ですらセクハラして来るなぁって話しててん」「アレの事!? お兄さん頑張って調香したのにヒドイ! トーニョにいたっては付けてもくれない! お前たち素地が良いんだからもっとお洒落して! お兄さんの五感を楽しませて!」「お前のおらへん所では付けてるで? たまにやけど」「お兄さんにも嗅がせてくれないとヤダ!」「香水の瓶から直で嗅ぎ」「お前の体臭と混じって完成するの! それを嗅ぎたいの!」 うわあ。視線を流せば二人ともドン引いていた。鈍感トマト野郎ですらだ。せっかくの才能を自分で台無しにしてどうするんだお前と言ってやりたいが、芝居染みた動作で嘆く姿を見ていると褒めてもろくな事にならなさそうだ。「……嫌やわぁ、むっちゃ付けにくいわぁ」「……次から俺も付けるのやめるわ。言いたいことは解るけど何かヤダ」「そうしとけ。もうこれは付けるだけでセクハラされてるようなもんだろ……」「え!? ヒドイどうして?!」 芝居ががった仕草で抗議して来る髭を放置して、二人がしゃがんだままでそそそっと後ずさる。 何かもう、会議前にどっと疲れた。気に入ってる奴らにちょっかいかけたい気持ちは解るが、セクハラはやめとけよ。カリエドはどうでもいいがあいつへのセクハラを見つけたら本気でもぐぞ。 今日も踊りっぱなしの会議の中、アーサーやアルフレッドの意見に茶々を入れつつ、久しぶりに会議に出て来た悪友に目をやった。涼しい顔して補佐に徹してる端正な顔立ち、黒い細身のスーツに長い手足が良く映えて、黙ってさえいれば惚れ惚れするほど美しい。そして堅苦しい格好がつくづく似合うよね。スーツしかり軍服しかり祭服しかり。背徳を感じながら引ん剝いてやりたくなるよね! 恋人とかには願い下げだけど! うん、やっぱりあの香水は正解だった。男女に関わらず色気は大事だよ。なのに評判悪いのは何でかなー? 目が合ったのでそっとギルベルトに投げキッスを送るとあいつは口端だけを引き上げてみせた。げんなりした顔もせず、叩き落としもせずに受け取ってくれるのは珍しい。やだもう愛してる! と視線に込めてウインクをひとつ。ついでとばかりにルートヴィッヒにバレないようにハンドサインを送る。『今日の親睦会出る?』『出ない。事後処理にあたる。弟は出させる』『残念。今度飲みに行こう』『了解』 意訳するとこんなものかな。手早く済ませた後、まだギルベルトのサインが続いている事に気付いた。けれど視線は俺の方を向いてない。『今日は無理』『また今度な』『ごねるな』 内容が解る事と視線の向きで相手はトーニョだと察した。『ギルちゃん付き合い悪いわー。ないわー』と脳内のトーニョが唇を尖らせて文句を言う。 思わず、ふふ、と笑い混じりの息が漏れた。お隣から射殺されそうなおっかない視線を感じるけど今は無視。やめて顔に穴開いちゃう。しばらくそうやってやり過ごしてから隣に座る喧嘩仲間の古馴染みを盗み見る。さっきの視線も当然こいつ。会議に集中しろって視線のようで実は違うよね? お兄さんは騙されないよ? こっそり見てる俺に気付かないアーサーがちょっと目を細めて見る先にはギルベルトが居る。存在を強調する眉毛の間に皺を寄せて機嫌が悪そうにも見えるその表情。やだなぁその視線。他の連中はまず気付かないだろうけど俺は気付いちゃう。不機嫌な上っ面に紛らせた切ないような甘いようなそんな視線。どう考えても恋するそれだよ。よりによってギルベルトに。 確かに、最近ギルベルトと何となーく仲良くなったなとは思っていたけれど、どうしちゃったのお前。冗談は眉毛だけにしろよ海賊紳士。 ……ま、今日の親睦会の時にでも聞いてみようかな。私生活の事になると俺には割と口を滑らせるからねあいつは。[newpage] 早々に皆を纏めるのを放棄したイタリア兄弟をルートヴィッヒが叱咤しながら会議は進み、ようやく小休止となった頃には俺は色んな意味でどっと疲れていた。 会議が踊りまくった上に、慣れた様子で手元のサインだけで遣り取りをする連中がモロに視界に入ったせいだ。仲が良さそうだなお前ら。お陰で俺の心中は雹が混じる暴風が吹き荒れている。紛うことなきこの妬心をどう処理すればいいんだ。周囲に気づかれない程度の溜息を落とし、皺を刻んだままの眉間を指で揉みほぐす。 まあいい、燻るこの苛つきは会議にぶつけてやろう。毎度のごとく軌道修正やら舵取りやらに忙しいルートヴィッヒには悪いが、俺は自重しねぇからな、荒れるからな。覚悟しろよ。 発散する目処が付いた所で、ふと、密やかな声を拾った。 一つ飛ばした向こうの席で鎖国したい鎖国したいと舌打ち付きで呟く、呪詛のような低音を。 声の主は慣れ親しんだ相手だ。だが、非常に声をかけにくい。そちらから漂う空気まで重いせいで顔を向けるのすら躊躇する。 原因はアルフレッドだな? アルフレッドだろう。また無理難題吹っ掛けられてたもんな。俺の事……もあるような気がしなくもないが。それに関してはすまないとしか…… 頭が痛い、と片手で顔を覆うと同時に、どろどろとしていた空気が動いた。「おい本田」「……ギルベルト君にしか聞こえてませんから何ら問題ありませんよ」 いや、聞こえてるぞ菊……と思わず心の中で突っ込みを入れる。ちらりと盗み見ればバイルシュミットが菊の隣に佇んでいた。少しばかり困ったように眉が下がっているのが可愛い。「そういう問題かよ」「あ、ちょ、何をするんですかもう」 ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜられて菊が抗議するが、拒絶するようなそれではなく、ほんの僅かばかり甘さが滲んでいた。証拠に、感情の見えにくい射干玉の目を細めてバイルシュミットにされるがまま頭を撫で回されている。いつの間にか重力を伴いそうな空気は霧散していた。「お前の髪はいまいちふわっとしてねーよな」「何と。爺の髪はお気に召さないとか申されますか。どういう事ですか」「つやつやさらさらしてるからこれはこれで好きだぜ? 因みに俺好みなのはルートヴィッヒな。あれで猫っ毛だから触り心地いいんだ。お前も今度撫でてみろよ」「いやいやいや、出来ませんよ。気軽に言わないで下さい」「孫みたいなもんなんだろ? 撫でとけ撫でとけ」「それとこれとは話が別ですからね? 撫でやすい孫と撫でにくい孫がいるんですよ」「そこは分け隔てなく可愛いがれよな!」「爺はシャイなんです! 知ってるでしょう!」 何だろう、菊の受け答えに硬さがない気がする。後、多分遠慮もない。俺との会話には緊張が混ざる事が良くあるのに。あれか。性格か、性格の問題なのか。それとも元師匠というのは元相棒よりもアドバンテージがあるというのか。 喉の奥で唸りながら思考がネガティブ方向へ進路を取り始める。このままだと寄り道せずに真っ直ぐ落ちて行ってしまう。「……それはそうと、誰なんですか恋人。教えて下さってもいいじゃないですか」 はっとして思わず二人の方を向きかける。まさか、と青褪めたが、同時に先刻の会話を思い出した。「まだ言うか。ちげーっつの。あれはシスに貰ったんだよ」「え、まさかフランシスさんがお相手だったとは」 解りにくいが菊の言葉は笑い含みで、冗談で言っているのだと解る。だが、髭は後で目潰しの刑に処そうと思う。「お前、解って言ってんだろ」「まあ、ギルベルト君の好みといえばアレですしね」「胸のでかさは大事だぜ!」「相変わらずで何よりです」「お前はどうなんだよ」「貧乳は正義、と言いたい所ですが形ですよ形。あと、女性の胸というものは大体において良いものです」「お前ら何の話をしてんだ……」 思わず突っ込みを入れてしまったのでついでに傍へ向かう事にした。取り敢えずギルベルトの好みは聞かなかった事にする。女の好みとは言えど聞いているとうっかりヘコみそうで怖い……ああそうだ、菊を遊びに誘おう。そうしよう。現実逃避のような案だが一応前から考えていた事だ。何となく誘いあぐねていたが、今日こそは。「お、エロ大使が来たぞ」「おっと、聞いてらしたんですか。すみません妙な話を……」 慌てたように目を見開く菊に、咄嗟に否定するように慌てて手を振った。「いや、お前がそういう話をしてるのが珍しいってだけで、咎めたい訳じゃないし。別に際どい話でもなかったろ」「だよな。この程度で、会議中に堂々とエロ本広げてる奴に文句言われる筋合いはねぇもんな」「うっせぇ。エロスの探求は不変の浪漫だろ」「お前はオープンだよなあ……」 けどせめて場所は選べ、と言いながらバイルシュミットが俺を見て、菊を見てから緩く肩を竦めた。言いたい事は解る。絶対むっつりだよな菊は! 視線で解りあっていると素知らぬ顔で菊が俺に話を振って来た。曰く、「せっかくですので、アーサーさんの好みの程をお聞かせ願っても?」と。 好みか。好みな……さりげなくギルベルトの全身を眺めてから結論を出す。ムキムキの弟と並んでると分かりにくいが胸板厚いよなお前。「胸、はそこそこで別にいいかな」 寧ろ問題は感度だろう。まあそこはじっくり開発すればいい話だし、それはそれで楽しめるからな。感じるようになって戸惑う姿ってのは中々そそる。それを揶揄しながら羞恥に悶える身体を貪りつくしたい。「おお、意外だな。お前は乳重視だと思ってた」「確かに意外ですね。メリハリのあるスタイルの方を好まれそうですのに」「お前ら俺をなんだと思ってんだ」 心底驚いたような顔で言われたが、今俺が夢中なのは男の胸筋だから驚きという意味では間違えていないかもしれない。「エロ大使だし。揉みがいのある方が好きそうだなと」「てっきりグラビアの表紙を飾るような方がお好みだと」「いや確かにそれは大変にいいもんだが、あーあれだよ。小さい方が感度いいって言うだろ……おい、ヒソヒソすんな! 言いたい事があるならハッキリ言え!」「うん、歪みなくエロ大使だったなと思って」「自分に正直なのは良い事ですよね」「お前らも自分に正直になれよ、カマトトぶってんじゃねえぞ。おら、バイルシュミット、他に好きな部位を言ってみろ」「ええー俺かよ。つーか、食肉の好みみたいに言うなよお前は」 菊に振ったら可哀想だろうが! それにヘコむヘコまないはさて置いて単純にお前の好みが気になって来たんだ。「んーそうだな、手とか好きだぜ? こんな綺麗でエロいもんもなくね?」 おい何だよ手かよ。と思ったが、バイルシュミットが俺の手を掴み上げた事で息が詰まった。肌に吸い付くような温かい手の平がするりと滑り降り、手首の丸い骨を親指でくすぐるようになぞる。背筋を駆け上ったのは悪寒に似たそれ。痺れるような対極の感覚が脳を揺さぶった。 な……っんて触り方しやがる! お前の触り方の方がよほどエロいわ! 誘ってんのか? 誘ってなくてそれなのか?! 脳内で嵐のように喚き立てれば眩暈でも起こしたかのようにくらくらとして来た。「ああ、ギルベルト君は足首も好きですよね」 そんで何で菊はそんな事知ってるんだ!「おう、手首でも足首でも首でも掴み心地がいいと尚いいよなー」 手首を掴まれたまま固まってしまっていたが、不穏な単語が聞こえた気がして我に帰り、バイルシュミットから手を逃した。簡単に放された事をやや残念に思いながらも、何となく不満そうな表情をしている事に気付いて単語に対する疑問を投げかけるのが遅れた。何でそんな顔するんだ。何が嫌だったんだ。若干混乱したまま、俺は菊へと視線を流した。「まあ、そんな話はいいんだよ、ええと、菊、その……あれだ。お前、今週末は時間空いてるか? もしあれなら、うちに遊びに来ないか?」「あ……申し訳ありませんが、今週は……」 かあっと顔が熱くなるようだった。これは羞恥に似ている。余計な誘いをかけてしまったと後悔をする。菊に誘いを断られるのが苦手なのは、俺との友人付き合いを嫌になったのではないか——何て、どこまでも後ろ向きな事を思ってしまうからだ。「あ、いや用事があるならいいんだ。また次の機会にでも——」「カークランドも誘えばいいじゃねぇか」 顔に上った熱を持て余しながら何の事だとバイルシュミットへと視線を向け、再度菊を見る。ぽかんとした顔は珍しい。「……いいんですか? あの、もしアーサーさんが宜しければ、ですが。週末うちに来られませんか? 丁度、ギルベルト君も泊りがけで遊びに来るんです」「え」 思いがけない誘いに、ぴしりと思考が止まった。 会議後恒例の親睦会も二次会ともなるとぐっと人数が減る。そして泥酔率はぐぐっと上がって、壮絶に絡むは暴れるわ脱ぐわの三拍子揃う奴が降臨してもおかしくない頃合いなんだけど、妙に大人しくって持ち悪い! 毎回生贄に捧げられるお兄さんとしては助かるけどね! 流石イタリア兄弟お薦めのお店だけあって食べ物も酒も文句無し。しばらくは舌を楽しませるのに忙しかったけれど、腐れ縁が隅の方のテーブルでワインをチビリチビリと嗜んでいる所にお邪魔する事にした。本田が二次会に参加しなかったから格好つける相手もいないのをいい事に盛大に羽目を外すと思ってたんだけどやっぱり存外に大人しい。「よう、アーサー。呑んでる?」 グラスを片手に近寄れば嫌そうな顔で見て来るけど追い払おうとはしない。いやまあ話をしたいんだから願ったりなんだけど、やっぱり気持ち悪いよお前。何て音にしなかった事を我ながら褒めてあげたい。向かいに腰を下ろしてどう切り出そうか考える。「んー……なあ、アーサー。あの黒鷲は手強いんじゃないかなぁ」「あ?」 直球を投げかければ胡乱な視線とガラの悪い返事。「うわー怖い。威嚇するなよ。ま、お兄さんは解ってるからさ、話くらい聞いてやってもいいよ?」「意味わかんねぇよ、死ね」「お前ね、あんな目であいつを見といて俺にバレないとでも思ってんの?」 一瞬で空気が冷えた。気がする。「……ああ、忘れてた。お前に目潰しキメるつもりだったんだ」「ちょ、お兄さんそこまでされる事を今日はしてなくない?!」 食らえ! と身を乗り出して容赦なく目を狙って来る人でなしから慌てて逃げる。避けられたからって舌打ちすんなよ!「そのショッキングピンクな脳みそ洗ってこい」「何それヒドイ! ……じゃあお前邪魔するなよ?」「はぁ?」「ギルベルトの顔は好みだからね。ちょっと摘んでみようかなぁなんて……わっ、ちょっ、痛たたたた!!」 皆まで言わせず目の座ったアーサーの手が俺の顔面を掴んでギリギリと締め上げて来る。やめて顔の形変わっちゃう!!「この節操なしが、やっぱ脳みそ洗うか? 消毒も兼ねてウォッカでも目から突っ込んでやろうか?」「イヤー! お前ホントにやりかねない!!」 テーブルの下で思い切り足を蹴りつけてアーサーから距離を取る。お前本当にお兄さんに対して態度が乱暴だよね!「……あいつは俺の大事な友達だ。遊びで手ぇ出して見やがれ、二度と御自慢のソレを使えねぇようにしてやるからな」「人の大事な所を見ながら怖いこと言うのやめろよな! っていうかナニソレ、うわあナニソレ。大事とか言っちゃったよこいつ!!」 あーららこりゃ本物だ! カマかけて痛い思いした甲斐があったよまったく。「あぁ? 友達を大事にして何が悪いって言うんだよ」「お前さぁー……例えば本田の事を大事な友達だって普通に言える?」「言えるに決まってるだろ馬鹿にしてんのか」「じゃあ言ってみろよ。本田菊は俺の大事な友達です。はい復唱。言えないだろうけどな!」「んだとコラ言えるっつーの!! 本田菊は俺の大事、な、と……とも……」 勢い込んで言い出したはいいけど、途中で一気に耳まで真っ赤になったアーサーの目がウロウロと泳ぐ。ほら見ろお前友達って存在にやたらめったら弱いから照れまくってそんな事スルッと言えやしないだろ。「……カムフラージュだから言えたんだろ? 難儀だねお前」 苦笑しながら指摘すると、アーサーは、はくり、と口を開閉させてむっつりと黙り込んだ。 何だかなー。諸々の意味でやっかいな奴がやっぱり諸々の意味でやっかいな奴に惚れるなんて何でそんな面倒な事になってんの。似た所のある相手の方が確かに上手く行くものだけれど、それにしたって相手が悪いよアーサー。というかこの二人だととばっちりはどっちに転んでも絶対お兄さんに来るよね。うわあ理不尽!「なあ、アーサー。ギルベルトはやめときなよ」 改めて座り直してワインを口に含む。口の中で穏やかに弾ける微発泡の軽やかな飲み口はこのつまみにはちょっとあっさりしすぎたかもしれない。恋を諦めろなんて俺だって言いたかないけどね。ああ、舌に染み込むような香りの重い赤が呑みたいなぁ。「……だから違うっつってんだろうが!」「望み薄いと思うよ?」「人の話を聞けよ!」 だってあいつの何よりの一番は弟だろ。それにあいつ……あいつさぁ。あ、うん、口にしちゃうと本当になりそうで、言いたくないな。吼えてはみても御立派な眉毛がへんにゃりしてるアーサーを見て、やっぱり言えないなぁと俺は曖昧に笑うしかない。「まあまあ、取り敢えずはほら呑めよ」 促せば、アーサーはグラスの残りを一気に呷って、ついでとばかりに俺のグラスも奪って飲み干した。「ずっと見てた」「近付けてすげぇ嬉しかった」「……煙草吸う時の指とかエロいんだよあいつ」 テーブルに突っ伏したアーサーからほろほろと告白が零れて来る。相手の名前は頑なに言わないけれど、否定しない事で肯定してる。「何でだろうなぁ……何でこんなに」 ——好きなんだろう。 喧騒の中に紛れたけれど俺の耳は確かに涙声のそれを拾った。昔っから変わらない腰のしっかりした髪をぐしゃぐゃと撫でてやれば、髭ウゼェと可愛くない言葉が飛んで来た。でも手を振り払おうとはしない。「よし解った。言っちまいなよ」「いやだぜったい言わねぇ」「当って砕けてくればいいじゃないか。ヤケ酒にくらい付き合ってやるよ」「おい、おことわり前提か」 声音は不機嫌。けど、やっぱり涙混じりだった。ああ、嫌だなぁ。恋愛絡みでお前が泣くのってお兄さんちょっと嫌だなぁ。身内に恵まれなかった分、せめてもって思っちゃうのかな。「……あのね、お前には幸せな恋をして欲しかったよ」「……てめえまで、おんなじ事をいう」「なあにそれ。誰に言われたんだよ」「しらねえ」 呂律の回らない声が、寂しそうに呟いた。[newpage] 換気の為に開けた窓から外を見ればちらちらと雪が舞っていた。冬はとかく日照時間が短いお陰で朝食の準備を始めるこの時間はまだまだ暗いし家を出る時も暗い。家の中はセントラルヒーティングで温度調整がなされている為快適な温度を保っているが、今年の冬は例年よりも寒いようだ。「兄さん、今週末は本田の所に泊まると言っていたが、カークランドも来るんだな?」 親睦会で些か呑み過ぎた為に記憶は曖昧だが、本田がそう言っていのは確かだ。鼻歌交じりにコーヒー豆を手挽きしている兄さんに確認を取る。「おう、昨日誘ったら来るって言ってたぜ」「くれぐれも本田とカークランドに迷惑をかけないように」 本田も心配だが、気難しいカークランドには特に余計な事をしてくれるなと言外に滲ませれば、兄さんは呼気だけで笑う。「心配性だよなお前」 是非とも我が身を省みて欲しいものだ。溜息を吐きながら兄さんが気に入りの店で買って来たブレートヒェンを各々の皿に取り分ける。今日のブロートヒェンは全粒粉とカボチャの種入りのようだ。カボチャの種の方はジャムを塗ろうか。サクランボと木苺のジャムの瓶とバター、チーズに生ハムと小ぶりの林檎を二つ用意する。「私生活において、俺の胃痛や頭痛の原因は七割方が兄さんだとは知っておいてくれ」 残り三割はだいたいフェリシアーノが占めている。ずっとこの二人に振り回され続けているのでもう慣れてしまったが、なかったら寂しいなどとはとても言えない程度には迷惑を被っている。そろそろ落ち着いて欲しいものだ。「おう、愛されてんな俺様」 言葉の割ににやける事もなく真剣な顔をしながらドリッパーに湯を注ぐ姿に、思わずこめかみを抑えた。何故一足跳びにその結論になるんだ。「何故そうなるんだ……」「違わないだろ? ほれ座れ座れ。直ぐコーヒー持って行ってやるから。美味いぜ?」「兄さんの淹れるコーヒーが美味いのは良く知っているが……まあいい」 気にかけるからこその心労だと解っているなら自重してくれ。本当に。 自分の席に着き、焼きたてのブレートヒェンの匂いと混じり合って空腹を刺激するコーヒーの深い香りに目を細めた。当たり前のような、穏やかな日々の光景。これらが途轍もない幸福であるのだと俺は身に沁みている。 人の気配のない家も、ただ一人で摂る味気ない食事も、冷たく胃の腑に落ちる重石のような後悔も。どれももう味わいたいものではない。「ほれ、お待たせ」「ああ、いい香りだ。ありがとう兄さん」「おう」 淹れたてのコーヒーを受け取って、共に食前の祈りを済ませる。ブレートヒェンにナイフを入れて切り割った所でふと思い出した。昨日本田が兄さんの香水について言っていた事だ。個人的にはどうにも兄さんの印象にそぐわない気がして苦手な香りだが、本田は良く似合っていると微笑んでいた。そして、恋人からの贈り物でしょうか、と彼にしては珍しく揶揄いを含んだ言葉を兄さんに投げていた。「兄さん」「うん?」「兄さんはその……あれだ、好ましく思っている相手はいないのか?」「フェリシアーノちゃん可愛いな!」 即答か。だが、兄さんがフェリシアーノを可愛がる様子は俺を可愛がる様に似ているのでこれは俺の求めた回答ではない。「いや、そうではなくてだな。恋人が居るとか恋人にしたい相手が居るだとかの話だ」 その人が、兄さんを繋ぎ止める鎖になってはくれないだろうか。俺では駄目なのだ。兄さんにとって俺は未練になりえない。ああ、ずっと俺の身の内で燻り続けている不安がドロリと顔を出しそうになる。 いつまで兄さんはここに居てくれるだろう。いつまで、この日々の幸福は続くのだろう。俺はいつか来るだろうその日を思って、けれどそこから目を逸らし続けている。まだ、受け入れる事は出来そうにないのだ。だから。「珍しい事聞いて来るな?」 俺の心中など知らぬ兄さんは、不思議そうな顔で指に付いたジャムを舐め取ってから首を傾げた。そのまま暫し思案していたが、ふと、ひどく楽しげに笑むと唇の前に人差し指をそっと立てた。 思わず居るのか居ないのかはっきりしてくれと言いかけたが、その笑顔が何故かちぐはぐにも少し寂しげに見えたせいで追撃は出来なかった。