6日目 2015年12月1日  コザ 嘉手納 那覇

 モグリではなかった。宿泊施設としての許可を得ている証明書はなかに掲示されていた。隠れ家的なゲストハウスを考えたとオーナーは言っていたらしい。そういうことを、旅人ではない4ヶ月目の住人から聞いた。コザに来たらまたここに泊まるだろう。

 9:30頃、いちご屋をチェックアウトした。モスバーガーで朝ご飯のセットを食べた。部屋を出るのが遅かっただけではなくモスバーガーでもぐずぐずした。



 最近のコザはどうなっているのだろうと思っていた。コザの情報発信の中心であった「コザ漫遊国ブログ」「コザ・ショップなび」の2つのサイトが2014年8月31日に同時閉鎖されていたからだ。

 一番街周辺は変わっていなかったが、コザ十字路に行かないわけにはいかない。そこを見ないでコザを去るわけにはいかない。今までもずっとそうだった。

 コザには中心市街地循環バスが走っている。2010年から運行しているが、毎年国と市が1,300~1,800万円程度の経費を折半していたので、いつ廃止になってもおかしくないと思っていた。試験運転で走っていたときは無料だったが、2012年頃からは本格実施され、1回の乗車が100円になった。コザルートと胡屋(ごや)ルートがある。両ルートともに40分間隔ぐらいで、それぞれ1日十数本運行されている。コザルートのほうは銀天街、農連市場、コリンザ、一番街、ミュージックタウン、沖縄市役所を通るので使いやすいことはわかっていたが、乗ったことはなかった。

 コザルートの始発が沖縄市役所だったことを忘れていた。モスバーガーから10分ほどの距離である。そこまで歩いた場合、11:15発のバスに乗れそうもない。結局、胡屋バス停を通る路線バスに乗った。胡屋バス停に停まるバスはすべてコザ十字路を経由することを知っていた。行き先を気にせず最初に来たバスに乗った。7、8分ぐらいでコザバス停に着いた。そこがコザ十字路である。

 驚いた。変わっていた。コザ十字路の銀天街側に巨大壁画が登場していた。

 出現したのは2015年1月らしい。国道330号が拡張され銀天街入口の建物が壊され、背面のビルがむき出しになった。それを蔽う意味で、行政と住民が話し合い、歴史壁画が登場した。巨大壁画の制作の苦労や周辺のコミュニティの形成やコザの歴史を忘れてはいけないなどといったことがコザのパンフレットに書かれていたのだが、やや自己満足っぽい。

 壁画を俯瞰しようと思うと、国道330号の反対側(城前側)に渡らなくてはならない。ところが国道330号の中央に低い柵が100mほどに渡って設置されていた。どうやら壁画のある区間に限って国道を横断させないためのようである。日本の道路では珍しい。もちろん以前にはなかったものである。しかし壁画を見るのにじゃまになっている。壁画の下の部分に柵の線が横に入るようになる。せっかく巨大壁画を制作しながら、どうしてこういう馬鹿げたことをするのだろう。壁画を見るために横断することを禁止するのはよいが、柵が邪魔で壁画を見る気が失せるということを考えなかったのだろうか。この国の安全に対する感覚はときに過剰である。すべてを興覚めにする。これでは銀天街をPRできないだろう。

 巨大壁画の高さは3m~4mである。高さがバラバラなのは、それぞれの建物の高さに合わせたからで、それをモダンとかアートという言葉に置き換えてほしくはない。見にくいのだ。銀天街入口ともう1つある小路の入口を除いて、高さ3m横幅100mぐらいの長方形の薄い壁を作り、絵巻のようにしたほうがいい。下1mを開けた状態で設置すれば、つまり壁は高さ4mから1mのところに横長に造れば、反対側からでも柵に邪魔されずに見ることができるだろう。もちろん通行する車によって見えたり見えなかったりするのだけれど。

 巨大壁画はよくいえば華麗であるしよい意味でパンクである。しかし悪く言えばケバイ。行政とのコミュニケーションは十分であるとはいえなさそうである。制作の苦労やらコミュニティの形成やらコザの歴史を忘れてはいけないことを堂々と語られても鼻白む。改善の余地はあるだろう。巨大壁画はどの角度から見れば、一番よいのだろうかとうろうろしているのは私だけだった、周辺を人は歩いていた。設置から11ヶ月経っているということもあるだろうが、巨大壁画に関心のあった人は私以外にはいなかった。











 ついでに書いておく。コザには観光パンフレット類が多い。市の規模に比して、多方面に情報が発信されている。広告料を取るタウン誌なども含めると街の情報発信量は普通の街の3倍くらいはあると思う。女子向けの雑誌のテイストを持つ小冊子も発行されていた。デザイナーが作ったお洒落なパンフレットだ。それはつまり、多くの店が広告に金をかけていることを意味する。いかにもコザらしい。店の出店と同じである。コザに来ると必ず新しい店ができている。問題なのは、あまり時間を空けずにやって来ても、ついこの前見つけた新しい店がすぐに閉店になっていることだろう。新陳代謝があまりにも激しい。街のスクラップ&ビルドを体験したければコザに住むのがよい。昨日できた店が明日あるとは限らない。うかうかできないのがコザである。

 多くのパンフレットに掲載されている銀天街はあいかわらずぱっとしなかった。2年前に閉まっていた店はしっかり閉まっていた。コザ銀天大学が開いているのを見たことがない。初めて行く人が、がっかりする場所にならないでほしい。しかしこっちはそんなことは百も承知で行くわけだから、その意味で期待はまったく裏切られていない。





 巨大壁画が銀天街にもたらした商売上の効果はおそらくないだろう。

 もう1つの変化を発見した。アーケードのなかに止めている車の数は増えていた。商店街の活性化を図るためのアーケード撤去費用を捻出できない地元商店街が、アーケードの活用方法としての「屋根付き駐車場」という、ありそうではあるが、前代未聞の活用方法をひねり出したのは称賛に値する。もちろん皮肉である。アーケードのなかは誰かの車が勝手に止まっているわけで、駐車場としての賃料が徴収されているわけではない。



 下の6枚は2013年2月10日の銀天街とその周辺。













 下の3枚は2012年1月31日の銀天街とその周辺。







 銀天街の近くに映画館跡がある。



 下の1枚は2008年1月29日の映画館(上と同じ場所)。



 下の1枚は2006年5月31日の映画館(上と同じ場所)。



 下の1枚は2004年10月29日の映画館(上と同じ場所)。



 下の1枚は2004年5月29日の映画館(上と同じ場所)。



 銀天街の奥のほう、つまり照屋を歩いてみた。おもしろさとしては中程度である。









 胡屋周辺とコザ周辺はコザの現在と過去でもある。コザに来たとき私は必ずこの2つに寄る。泡瀬ベイストリートのほうもコザの一角であるが、そちらのほうは具志川や石川(ともにうるま市)から続く道路沿いの延長に過ぎないのであまりおもしろいわけではない。それなら具志川や石川を歩いたほうがよい。

 コザ十字路に来たのだから、吉原にも行っておく。恒例行事だから仕方がない。坂の上にあるのがこのエリアのよいところである。

 2015年の吉原は復活の兆しがあるかもしれない。それはわからないが、4軒の店から声が聞こえた。カラオケの音も漏れてきていた。吉原のなかを3台のタクシーが抜けていった。今まで1、2台を見かけたことはあったが、3台は多い。ミニパトが回遊していた。吉原でパトカーを見かけたのは初めてだ。何かの事件か事故が発生したのだろう、途中でミニパトは急にサイレンを鳴らし吉原を出て行った。



















 関連記事[死にかかっている吉原。生きている栄町]2013年12月14日

 下の3枚は2013年2月10日の吉原。







 下の3枚は2012年1月31日の吉原。







 下の3枚は2008年1月30日の吉原。







 国道330号の西側の地名は城前である。その奥には越来(ごえく)という地名がある。その場所を歩いたことがあった。思い出すためにパソコンのなかの写真を探ってみた。

 最初にコザに来たのはたどうやら2004年5月29日のようである。私の記憶ではもう少し前だと思うが、それ以前の沖縄の写真のなかにコザの風景はなかった。

 コザの写真のある年月日は以下のようになる。

 ➀2004年5月29日
 ➁2004年10月29日
 ➂2006年5月31日

 ➀~➂のいずれの年月日にも銀天街の写真はあったが、吉原の写真はなかった。両者の直線距離は150mほどであるにもかかわらず。

 最初に来たときのことを覚えている。たまたま那覇で手に入れたパンフレットをもって胡屋バス停で降りた。このとき初めて沖縄市がコザであることを知った。胡屋バス停で降りるときに、ここがコザの中心であることをバスドライバーに確かめたはずだ。何の知識も持っていなかったのだから。バスを降りたとき、中学生が道路のあちこちに坐っていた、煙草は吸っていなかったけれど。その姿はとくに不良っぽかったわけではなかった。おばあもところどころに坐っていた。こちらのほうは歩くのに疲れたから座っていたのだろう。本当に驚いた。多くの人が座っていたのだ。今では座っている人はほとんど見かけない。

 コザ十字路から胡屋にかけて長い坂になっている。➀~➂のすべての日の写真に坂の途中にあるハイビスカス・ビルの写真があった。その頃、コザ十字路と胡屋の間の1.5km強の距離を私は歩いていた。

 ➀~➂のすべての日に吉原の写真はなかったのには理由がある。コザに吉原という地域があることを知ったのは、コザに行き始めてから、少し経ってからのことある。沖縄について書かれた本を読んだとき、吉原の存在を知った。そのあと吉原を見つけにコザに来た。そのとき吉原の場所がわかっていたわけではなかった。「コザのバス停の奥のほう」という情報を持っていただけである。情報の出し手は意図的に所在を隠したと思われる。コザ十字路のバス停が3ヶ所あることをそのとき知らなかった。胡屋バス停で乗ったバスがコザ十字路で嘉手納方面に曲がったところにあるコザバス停でバスを降りた。

 そのとき私はまったく関係ない場所を探した。そしてかなり歩きまわったにもかかわらず、吉原を見つけることはできずにすごすごと帰ることになった。それが➂2006年5月31日のことである。

 私が吉原を見つけたのは、その次にやってきた➃2008年1月30日である。

 ➂2006年5月31日に、「コザのバス停の奥のほう」という情報だけを頼りに歩いた場所こそが「越来」である。下の3枚の写真である。越来にある越来小学校が写っていた。







 越来という場所を「越の国から来た人」が住んだ場所と考えることはできないだろうか? 越の国は「呉越同舟」の越である、つまり中国春秋時代の国名である。越南=ベトナムであるから、越はベトナムの北にある国を差している。「越来」の地名の由来を調べてみたが、わからなかった。しかし琉球王朝の交流や貿易が広範囲に及んでいたことを考えると十分あり得ると思われる。

 そこにはグスク(=城)があった。グスクがあった場所は丘の中腹で、その下のほうの地名は「城前」である。グスクの前の地名であるので、城前となっているのだろう。これも推測であるが、間違いなさそうである。

 9年半ぶりに越来と城前を歩いてみた。厳密にいうと住吉にある中部農連市場に2度来たことがある。そのとき川の反対側である城前には足を踏み入れているはずである。

 下の1枚は2011年1月30日の中部農連市場。



 城前の一角に城前公園があった。そのなかに越来グスクの拝所とされる場所が残されており「越来グスク跡」と記した標識があった。しかし公園入り口にはチェーンがかけられており、誰も見ていないからとおおっぴらに入ることはできなかった。周辺は住宅街である。











 城前公園の南を流れる比謝川沿いは越来城水辺公園では、夏の終わりに「越来城下まつり」が開催されている。

 ここで登場するのが伊是名島である。越来の奥のほうに伊是名島の尚円王の弟にあたる尚宣威(しょうせんい)の墓があるらしいが、行かなかった。尚円王の子供が幼かったという理由で、尚円死後、尚宣威が王位につくが、親族の策略により退位においこまれた王である。伊是名島に行っておいてよかった。

 さっき見た巨大壁画の南のほうには、その時代を描いた絵巻のような画があった。日本史では室町時代から戦国時代に当たる。私が吉原を探し回ったときに間違えて歩いた「越来」は歴史の舞台だった。





 62番バスで嘉手納に向かう。

 やまとんちゅうは普天間基地を知っているが、嘉手納にある米空軍基地がアジア最大の飛行場であることを知らない。太平洋戦争中、日本は沖縄に多くの飛行場を作った。嘉手納もその1つである。日本軍が撤退するときには飛行場を爆破した。太平洋の島々でも日本軍は同じことをした。米軍はそれをすぐに修復して使用し始めたので、摂取された飛行場からは予想されたより早く米軍機が飛び立つことになった。日本は米軍の土木技術を過少評価していた。

 数字を挙げておく。嘉手納町の83%が基地関係(嘉手納飛行場、嘉手納弾薬庫地区など)である。金武町59%、北谷町56%、宜野座村51%、読谷村45%、沖縄市(=コザ)36%、宜野湾市(普天間基地)33%である。これらは沖縄の基地を考える際には必要な数字といえるだろう。

 バスのなかから「道の駅かでな」が見えた。バスはその前で停まったが、今日は降りない。「道の駅かでな」の南がバスの走る通りで、その南側の壁の向こうに嘉手納基地がある。そこには「安保の見える丘」と名付けられた場所がある。壁の上に登り、「安保の見える丘」に立つことができる。しかし「道の駅かでな」ができてから、みんなその屋上から基地を見るようになった。道路を渡るだけで、「安保の見える丘」の上に立つことができるのに。道路を渡り「安保の見える丘」に来ればいいじゃないか。直線距離はたかだか50mである。決まった動きしかできない観光客の行儀のよさには恐れ入る。

 下の6枚は2011年1月30日に撮影したもの(道の駅かでな、安保の見える丘、「安保の見える丘」から見た嘉手納基地)である。













 嘉手納基地の北側から嘉手納に入る周辺の道路はよく整備されている。嘉手納バス停で降り、嘉手納郵便局のほうに行ってみた。

 嘉手納郵便局周辺は以前よりあっさりした感じがした。といっても、もともとそれほどディープな場所だったわけではない。









 下の2枚は2011年1月30日の嘉手納郵便局の周辺。







 嘉手納郵便局から少し歩いたところに、40mほど続くディープな雰囲気の一角がある。そちらのほうは4年前のままだった。そこに入る手前にカフェや新しい店が2、3軒できていたが、その一角だけは以前のままだった。以前のままということは4年分古くなったということである。ディープといっても普通の通りに飲み屋が密集しているだけである。飲み屋はまだ現役のようだが、脇の通路を入ったところの飲み屋は営業を止めたところもあるようだ。

















 下の3枚は2011年1月30日の嘉手納のディープな一角。







 食堂を探しながら歩いたが、ほとんどは閉まっていた。みよ家という蕎麦屋で沖縄そばを食べた。みよ家の隣の新しいカフェも閉まっていた。14:30頃というのは、お昼に開いていた食堂が一度、店を閉める時間帯ではある。





 この2日間、基地巡りの旅になってしまった。那覇にもどろう。

 20番バスに乗った。おそらく今回の旅で乗る最後の路線バスである。重くなるので嫌だなと思ったが、2012年に手に入れた沖縄県バス協会が発行したバス運行時刻表を持ってきていた。県内の平日・土休日のすべてのバスを網羅した184ページの冊子である。毎年発行されていると思うが、容易に手に入れることはできない沖縄バス旅の完全バイブルである。私にとって永久保存版であるが、石川の琉映前バス停の名前が異なる名称になっていたのはどういうわけだ。と書いてみて、今、気が付いた。前述のように私の持っていたのは2012年版だった。

 嘉手納を出たバスはもちろん国道58号線を走った。北谷を抜けたあと、宜野湾の東を南下した。昨日の日記に書いた2012年1月30日の普天間一周の旅で歩いたところをバスは走った。北前のパンクなバーのほとんどはなくなっていた。詳しい場所を特定はできたわけではないが、北前バス停の北側辺りから南にかけて、びっくりドンキー、マクドナルド、すき家、ガスト、CoCo壱番屋などができていた。あのとき普天間基地を離れ、北前に足を伸ばしたのは正解だった。

 キャンプ・フォスターの西側を走っていたバスは、伊佐交差点から普天間基地の西を走るようになった。右の窓に沖縄アクターズスクールを探したが、見逃した。

 屋冨祖バス停で降りようかとちらっと思ったが、面倒くさかった。

 上之屋バス停で降り、おもろまちの真ん中をめざして歩き始めた。上空からバリバリバリという音がした。オズプレイが飛んでいた。15分ほどの間の3機のオズプレイを見た。空を見上げていたのは私だけだった。周りの人は空からの音さえも気にすることなく歩いていた。



 10分ほど歩いてホテルストークにチェックインした。新しいタイプのホテルである。個室のドアを開けると狭いスペースがあり、ドアの左横に机があった。パソコンで旅日記を書くには困らないスペースの机である。部屋の奥はシャワー室とトイレになっている。シャワーとトイレはカーテンでさえぎられている。ベッドはシャワーの上にある。つまりロフトになっている。天井は高いのでシャワー室は一定の高さがあり、ロフトのベッドの上もある程度の空間は確保されている。特に困ったことはなかったが、ロフトの階段を登るのは面倒くさかった。2泊で6,360円。外国からの宿泊客が多くいた。スタッフの1人は日本語の敬語を話せる外国人だった。





 少し休んで外に出た。雨が少し降っているが、傘を差すほどではない。

 おもろまちを歩いた。ゆいレールのおもろまち駅近くの東横インに泊まったとき以来である。

 サンエー那覇メインプレイスに入ってみた。リニューアルされているようだったが、どこがどう変わったのかわからない。少なくとも以前は、あまり人がいなかったと記憶している。とんかつの店で夜ご飯を食べた。

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