その昔、まだ石鹸というものの無かった頃、人々は泡と言うものを知らなかった。泡といえば、水中でブクブクと息を吐いた時に出る泡、もしくは、それが水面にポコポコ浮かび上がってきたもの、はたまた、隣のオヤジが怒鳴り込んできたその口の端っこについた、白くて粘々した泡、くらいのもので、今で言うシャボン玉のように空中をフワリフワリと泡玉が漂うなんてこたぁ誰もが想像も及ばない。
そんな時代にこの泡玉坊主が現れたんだからそれはそれは大騒ぎ。街中の人がこの空中を漂う泡とやら一目見んがために神社の境内に集まった。
●:「サァごらん!見るも不思議!右の穴から左の穴から、穴という穴から泡玉が飛ぶ!風が知らせた泡玉坊主タァこいつのことよ!」
裾をたくった胡散臭い髭面の男が人ごみの中心で語り始めた。その隣には薄汚れたホッカムリをした少年が一人ポツンと地べたに座っている。年の頃、十二・三といったところだろうか。
●:「まぁまぁ、そんなにあわてるこたぁねえ、ちゃんと泡玉飛ばしてやるから、ちょいとその前にアッシの話を聞いとくれ」
人々は少年を気にしながらも、男の話に耳を傾けた。
●:「ここに鎮座ましますこの坊主。こうは見えても生まれも育ちもハッキリ知れた坊主でございやす。アッシには姉が一人長崎におりやして、その姉の落とし子、つまりこいつぁアッシの甥っ子ってヤツですぁ。なんでまたこいつとアッシが二人してこうして歩いてるかってぇと...」
客:「そんなこた聞いてねえ!早く泡玉飛ばせ!」
客:「そうだよ、早く見せなさいよ」
●:「だから慌てるんじゃねぇよ。ちゃーんと後で見せてやるから、聞きたくなかったら耳ふさいで、御ひねりでもつくっときねぇ」
●:「えっと、そうそう、なんでこの甥っ子とその叔父のアッシがこうして旅をしてるかってぇと、そう、こいつの母親、つまりアッシの姉だねぇ、そいつが消えちまったからなんですぁ。消えちまった、といっても泡みてぇに弾けちったわけじゃぁなくて、男と逃げちまったんだぁねぇ。」
客:「そんなハッタリ話で御涙頂戴かい?」
●:「しかしただの駆け落ちじゃぁねぇよ。その相手の男ってのがバテレンの宣教師ときたからたいしたもんだ。アッシがいうのもなんだがね、その姉ってぇのがえらく美人で評判の女でね。スッと筆先でかすめて書いたような、細~い線の美人画みてぇいな、蜻蛉みてぇな美人だよ。風呂上がりなんざぁ、弟のアッシでさえ、そのもちもちっとした肌に触れたくなったってもんよ。そりゃぁいくら赤毛の坊主が頑張ったって、ヨロっといっちまうのもしょうがねぇってもんよ。」
客:「まったく、だからその手には乗らないよ」
●:「ほう、この辺は疑いぶけぇ土地柄かねぇ、昨日もそんなこと言われたっけなぁ...」
そう言うと男はとなりに座っている少年の薄汚いホッカムリをパッと取り上げた。
客:「おおっ!」
●:「こいつを見てもハッタリだっていうやつがいるかねぇ。ご覧の通りこいつはその姉と赤毛の坊主との間にできた子供だよ。」
少年の赤い髪の毛が真夏の太陽に鮮やかに照らし出された。少年は自分の頭の赤毛が人々に晒されても特に変わった様子も見せず、ポツンと下を向いて座っている。
●:「去年の今頃だっけなぁ、旅の途中でちょうど長崎に差し掛かったとき、そういやぁ姉の家があったっけなぁと思い出し、ちょいとばかし銭を借りようと、姉の家を訪ねたのが運の尽き、引き戸を引いたらこいつがセミみてぇにミェンミェン一人で泣いていやがったんでぇ。そこでずらかりゃぁ良かったんだが、また運悪く隣のばばぁに見つかっちまって、しょうがねぇからアッシはしばらくそこで暮らすことにしたんでぇ。」
●:「で、しばらくたって去年の秋だ。縁側で何するでもなくボォーと雲を眺めてたときのことよぉ。ピカっピカって雲が光るんでぃ。あれーおかしいなぁ~、って目をこすっても、やっぱりピカっピカって雲が光ってやがる。真っ青に晴れ上がった秋の空に、真っ白な雲、雷様ってワケでもねぇだろうし...と思って目を凝らして良く見てみると、フワリ~フワリ~と泡玉が浮かんで、そいつがお日さんの光を受けてピカピカ光ってるじゃねぇか。
アッシもそんなもん始めてみたんで、アッケにとられて見ていたら、後ろから「うぅ、うぅ...」って不気味なうめき声が聞こえる。なんだって振り返ってみたら、こいつが、この坊主が泣いていやがる。
ホロホロと泣いていやがるこの坊主の目から、ポコポコってぇ具合に泡玉が飛び出して、そいつがフワフワと漂ってるじゃないかい。
それまでアッシに一言も口を利かなかったこの坊主が、初めてアッシに見せた「感情」ってやつよ。そこでアッシは気づいたんだな、口をきかねぇこいつも人の子、きっとお母ぁ恋しさに泣いてるんだなぁって、そう思ったらなんだか急にこいつが不憫に思えて、柄にも無くお母ぁ探しの旅に出ようってんで、今日ここにいるわけですぁ。」
いつの間にか男の話に聞きいってしまった客たちの中でも、若い娘なんぞはグスングスンと啜り泣きをはじめた。
●:「お嬢ちゃん、そんなに泣くもんじゃないよ。そんなに泣いちゃァこいつが可愛そうじゃないか...」
男は「ふぅ~」っと一息ため息をついた。
モクモクと湧いた入道雲が遠くで真っ白な光を眩しいばかりに反射している。
近くの木で鳴いていた油蝉が「ジジジッ」と飛び立っていった。
しばらくの間をおいて、男は再びしゃべり始めた。
●:「さ、そういうことで、そろそろ泡玉飛ばしといこうかね。おひねりなんてのはどうでも良いんでぃ。アッシの姉を探す旅、こいつのお母ぁを探す旅、明日の日銭さえありゃそれで充分ですぁ...。
泡が舞ったら拍手を下せぇ。そいつがこの坊主の、アッシたちの、明日の力になるってもんですぁ。」
すると、それまでただただジィーッと座っていた少年が、両の手で顔を多い、オイオイと大声を上げて泣き崩れた。
そして、まもなくその顔を覆った手の隙間から、ポコポコと泡玉が飛び出しはじめたではないか!
客:「おぉ!」
客たちはどよめいた。
次から次へと少年の顔から湧いて出てくる泡玉は、その頭上をフワリフワリと風に漂い、キラキラと日の光を反射し、入道雲をクリャリとよじって、風下へと流れていった。それは夢か幻か、この世のものとは思えぬキラメキと美しさを客たちの心に映し出した。
すべての泡玉が流れ去った後、髭面の男がうやうやしく頭を下げ、背負っていた傘を手に持つと、客たちは、拍手喝采、感嘆と励ましの声と共に、銭をその傘へと投げ入れた。
●:「ありがとうごぜぇやす。これでまた明日も旅が続けられるってもんです。ありがとうごぜぇやす、ありがとうごぜぇやす...」
客たちの歓声を背中に受けて、髭面の男と、赤毛の少年は足早に去っていった。
さて、それから数刻の後、夕暮れ時のカラスの鳴く頃、ある旅人がその近くの川で髭面の男と一人の赤毛の少女を見た。薄暗い向こう岸の岩の上で、丸裸で仰向けにされた少女は、まるで人形のように声も無く、、髭面の男は上から馬乗りになるとくねくねと腰をねじらせた。
しばらくすると、二人の重なった部分から、その下にあらかじめ用意されていた桶に、ドロリとした液体が落ちた。髭面の男がその液体を手に取り、慣れた手つきでプゥーっと息を吹き込むと、いくつもの泡玉があふれ出し、川下へ飛ばされて行った。
男はそれを満足そうに見送ると、桶を手に取り、中の液体を大切そうにトックリに移した。
旅人の視界がグニャリとねじれ、少女の短い赤毛が、涙に濡れたまつ毛が、夕焼けにキラキラと光った。
おしまい。