『歴史秘話ヒストリア』(れきしひわヒストリア)は、2009年よりNHK総合テレビジョンで放送されているNHK大阪放送局制作の歴史情報番組である。
| 放送日 | 2012年11月28日(水) 22:00~22:45 |
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番組概要
episode1 不思議の街へようこそ!~武家の古都・鎌倉のヒミツ~ (バラエティ/情報)22:02~
鎌倉のシンボルといえば、高徳院の阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)。吾妻鏡によると、浄光という僧が大仏建立の寄付を集めたというが浄光がどういう人物なのかわかっていない。さらに鎌倉時代の紀行文には大仏は木像と書かれている。現在の大仏は金属製なので現在のものとは別である。大仏造立には鎌倉幕府が関わっていたとみられる。大仏が作られた頃、鎌倉幕府は武力だけでなく文化や宗教などでも朝廷や貴族をしのぐ力を示したいと考えたため、巨大な大仏を作る必要があった。
鶴ヶ岡八幡宮は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が建立した。源頼朝は鶴岡八幡宮を武士の世の精神的な柱にしたいと考えていた。正面の楼門には緻密な彫刻や絵が描かれている。ハトは八幡神の使いとされている。
鎌倉観光の人気スポット・北鎌倉周辺エリアには、建長寺や円覚寺、明月院などの寺が集まっている。光照寺の門をくぐると、「おしゃぶきさま」というせきを治す神様が祀られていた。鎌倉時代に描かれた一遍上人絵伝によると、一遍上人が鎌倉の関所に入れずに野宿した場所が光照寺だという。せきの神様は関の神様だったのではないかと言われている。北鎌倉の寺は鎌倉を守るための軍事拠点として活用できると専門家は話す。
鎌倉幕府は12世紀終わりに成立した最初の本格的武家政権だった。のちの豊臣秀吉や徳川家康も鎌倉を訪れていた。
鶴岡八幡宮の境内には源氏池があり、3つの島がある。島の数には源頼朝からのメッセージがあるという。大きい源氏池の島が「三」なのは「産」につながり子孫繁栄の願いがこめられている。小さい平家池には「四」の島があり、「死」に通じることから平家の滅亡を祈願している。
鎌倉の山並みには、大仏切通と呼ばれる山道がある。切通は道幅が狭いため敵は鎌倉に一挙には攻め込めないようになっている。道の両脇は人工的な険しい崖が作られている。鎌倉の山並みは城壁の役割をしていた。
オープニング (その他)22:00~
愛と哀(かな)しみの鎌倉~武家の古都はこうして生まれた~
episode2 父上なんか大っきらい!~源頼朝の娘・大姫の哀しき初恋~ (バラエティ/情報)22:16~
その後も大姫の体調は戻らず、頼朝は大姫に身分の高い貴族との結婚を持ちかけるが大姫は断った。そこで頼朝は大姫と後鳥羽天皇との結婚を計画した。しかし頼朝の思いは届かず、大姫は体調が悪化して死亡した。
鎌倉市の外れにある常楽寺には大姫の墓と伝わる塚がある。そこから少し離れた所に木曽義高の墓とされる木曽塚がある。
平安時代の終わり、現在の伊豆の国市付近で大姫が誕生した。母は北条政子・父は源頼朝。大姫が生まれた頃の頼朝は伊豆に流された罪人だった。
大姫が生まれる20年ほど前、13歳の源頼朝は家族とともに平清盛との戦いに挑んだが、源氏一族は敗北し頼朝は伊豆に流された。不遇の日々の中、頼朝は北条政子と出会い、2人は周囲の反対を押し切って駆け落ちして結婚し、大姫を授かった。
大姫が生まれてまもなく、全国各地の武士が平家打倒に立ち上がった。そして源頼朝が関東の武士のリーダーに選ばれた。源頼朝は鎌倉に入り本拠地と定めた。
鎌倉の頼朝一家には大姫の婚約者・木曽義高が加わった。義高の父は頼朝と対立する信濃の武将で、義高は鎌倉に差し出された人質だった。大姫は義高を慕っていた。その後、義高の父は平家を破り京都まで攻め上がった。しかし、義高の父と京都の朝廷が対立し、朝廷は頼朝に援軍を求めてきた。頼朝は京都に軍勢を派遣した。弟・源義経らの活躍で鎌倉軍は義高の父を討ち取った。父の死で人質としての価値がなくなった義高は難しい立場に追い込まれた。ある日義高は鎌倉を脱出し信濃に向かった。吾妻鏡によると、義高の脱走には大姫が関わっていた。信濃に戻った義高が鎌倉を攻め入ることを恐れた頼朝は義高を討ち取るように命じた。義高の死を知った大姫は水さえ喉を通らなくなってしまった。
源頼朝には北条政子との間に4人の子どもがいた。長女の大姫、のちの2大将軍・頼家、次女の三幡、のちの3代将軍・実朝。しかし頼朝には政子以外の女性との間にも息子が2人いたと言われる。源頼朝は浮気者で、起こった政子は武士に命じて浮気相手の住まいを壊させたというエピソードがある。島津忠久は源頼朝の隠し子だという伝承も残されている。
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episode3 息子のためにと思ったのに…~頼朝・3つの誤算~ (バラエティ/情報)22:29~
およそ150年続いた鎌倉幕府は、歴代9人の将軍のうち源氏の将軍は最初の3代までだという。頼朝は鎌倉を子孫に引き継げなかったのかを再現VTRで紹介。
寿永元(1182)年、頼朝36歳の時に後の2代将軍・ 源頼家が誕生。このころ鎌倉は新たな武家の都として建設が続いていて、そうした中でお世継ぎ誕生に鎌倉全体が大いに沸き立ちたった。周囲の期待に答えるように頼家は成長し、幼い頃から武芸に才能を発揮させる。
頼朝は将軍の座を脅かす源氏一族の有力者を排除。頼朝は平家との戦いで活躍した2人の弟を追放し、死に追いやったという。源氏一族の排除は頼家政権にとってマイナスだったと専門家は指摘している。
頼朝は幕府の有力武士の中から頼家の側近を選んだ。頼朝が特別な信頼を寄せていたのが比企一族で、比企は頼朝の乳母(教育係)を出した一族。頼朝が伊豆に流されていた時期も仕送りをして生活を支えてくれたという。比企一族の娘が頼家の妻になり、跡継ぎとなる男の子も生まれた。 しかし、頼朝・頼家のすぐそばに比企一族の存在を快く思わぬ者がいて、妻・政子の実家・北条一族が頼家と敵対するようになった。
まだ若く苦労知らずの頼家が将軍に就かせるまでにしっかりと帝王学を仕込まなくてはと考えてしたかもしれない頼朝だったが、頼家がまだ17歳の冬に落馬。翌年1月に死去。自らの早すぎる死のために鎌倉の未来をまだ18歳のより家に託さねばならなかった。頼家は幕府の有力武士たちによって領地争いなどを裁く権限を奪われ、この動きを主導したのは北条一族だったと言われている。
建仁3(1203)年、頼家の支え・比企一族の館が北条一族らの軍勢に襲われた。比企一族は滅亡し、頼家の妻と幼い息子も殺されてしまった。支えを失った頼家は、将軍の座を追われて現在の修善寺温泉に幽閉されてしまう。元久元(1204)年、源頼家は暗殺される。次の将軍・源実朝も若くして暗殺され、源氏の将軍は3代で途絶えてしまう。
関東大震災では鶴岡八幡宮の社殿が倒壊、戦後の高度成長期には宅地開発の波が鎌倉に押し寄せた。鎌倉を守ろうとする市民たちの努力によって、昭和41(1966)年に古都保存法が制定された。
市民たちが守り伝えてきた武家の古都・鎌倉の価値は、いま新たに世界に向けて発信されようとしている。今年、日本政府は「武家の古都・鎌倉」を世界遺産候補として正式に推薦。今年9月にはイコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査が行われ、鎌倉風致保存会による史跡「東勝寺跡」の美化活動も行われた。鎌倉市も史跡「永福寺跡」の整備を進めている。鶴岡八幡宮の境内にある研修道場では、鎌倉の未来を担う子供たちが武道に励んでいる。
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次回予告 (その他)22:42~
「歴史秘話ヒストリア 源義経 vs. 平家のプリンスたち ~最終決戦!壇ノ浦への道~」の番組宣伝。