ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 Out of sight, out of mind. 目に見えない物は忘れ去られるの故事通りだと火神大我は思った。近くにいなければ見えない、見えない物は忘れる、全くもってその通りだ。 ある日ふと気づけばスマフォに登録しているアドレスの半分は繋がらなかった。残り半分は仕事関係のもので、こちらは毎日のように連絡を取っているので音信不通になりようがない。休憩時間にひとつひとつ、数年連絡を取っていないアドレスを消去していく。いちいち許可を求めるダイアログが鬱陶しい。 結局の所、こうして指先ひとつの動きで消えていく縁だったのだろうと思った。 *** 「おめでとうタイガ、君のお陰でこのプロジェクトは大成功だった」 そうボスから褒められ軽く頭を下げる。やはり日本人だなと言われるのにももう慣れた。生れは日本でも人生の大半をアメリカで過ごし、先年、とうとうアメリカ国籍を取った。なんとなく国籍を移すのには抵抗があったのだが、周囲の勧めもあったし、顧みてみれば生まれた国という以外、日本にこだわる理由もさしてない。ならば仕事に便利な方を選ぼうと数年前に申請を出した。その時に何かを振り切ったような気持ちになっていた。 そして仕事に没頭し、順調に重要なポストを獲て、個人アシスタントと個室を得た代わりに失くした物は、かつての友人達との縁だ。連絡を取らないまま、連絡が入っても折り返さないままでいたツケだと思う。それも仕方ないと溜息ひとつで済ませられるようになったのは、大人になったという事だろうか。「ところでタイガ、次のプロジェクトまでまだ間がある。企画から入るにしても、少し休暇を取ってはどうだ? 数年バカンスなんて取ってないだろう。まぁ、実は厚生部から有給を消化させろと突かれていてな。私も来月取るつもりだから、先に休暇を取ってはどうだ?」 頼むよ、と髭の口元を少し情けなさ気に歪ませたボスの勧めにしたがって、大我は有給を申請し受諾された。それが昨日の事で、今日書類をまとめて引き継ぎしてしまえば、そのまま休暇に入る。「俺、無趣味だからな。ひと月食っちゃ寝してる訳にもいかねぇし、何したもんだか」「旅行にでも行かれればいいのに。一ヶ月のバケーションなんて、取ろうと思ってもそうそう取れませんよ?」「確かにそりゃそうだ。まぁおいおい考えるよ。それじゃひと月後に」「はい、いいバケーションを」 アシスタントのケリーが魅力的な笑顔を浮かべて見送ってくれる。帰りがけ、エレベーターで乗り合わせた同僚に「ケリーは二三日でもお前に旅行に誘ってほしかったんだよ」と言われ面食らった。未だに女という生き物はよく理解できない。 歳相応に女性とは付き合ってきたが、結局の所、深い所では彼女達とつながれずに別れを繰り返した。しかし喪失感だとかを感じた事は一度もなく、むしろ解放されたと思うばかりだった。その事を長年交流がある年上の女性に零した所、タイガはある意味奥手だからな、と笑い飛ばされた。 ふと思いついてビルを出た所でその彼女に電話を入れる。休みに幾らかでもつきあってくれないだろうかと思ったのだ。『Alex.Who's calling?』「Hi,Alex.This is Taiga」 タイガ! と底抜けに明るい声が耳に響いた。長年友誼が続いている数少ない相手だ。こちらが折り返ししなくても何度も掛けてくるし、突然押しかけてくることもある。その強引さが丁度良いといえば傲慢だろうか。そういう相手ではないと、もう長くつきあっていける気がしないのは事実だ。 『なんだよお前から掛けてくんの久しぶりじゃねーか! まーだ仕事であっぷあっぷしてんのか? ちったあ遊ばねーとあっという間にジジィになっちまうぞ、お前』「悪かったよ。実はひと月休みとれって言われてな。突然明日から暇になっちまったんだ。何していーのかわからねー」『どうしようもないworkaholicだなお前は。ジム行って根暗に室内で筋トレでもする気か? カビちまうぞ』「マジで何しようか途方にくれてる。アレックス、なんかおすすめの休暇の過ごし方ねぇか」『情けない奴だなー。ああ、そういやお前の会社からタツヤの会社近いんじゃないのか。とりあえず、タツヤと食事にでも行くとかどうだ。随分ご無沙汰だろ?』「……ほんとだ、最後に会ったのいつだ、覚えてねぇ。なんかオレすっげぇ怒られそうなんだけど」『自業自得だバカ。タツヤ、番号変わったって言ってたけどタイガ判るのか?』 そういえばメールが来ていたような気もするが、よく覚えてない。仕事のメールに流されて消してしまったような気もする。流石に言い難く、あーだのうーだの言って誤魔化していると爆笑された。オレが仲介してやるよ、と待ち合わ時間と場所を決められ通話を終えた。随分と長らく忘れていた、気楽で楽しい会話だった。 一度アパートに帰宅しスーツを脱ぐ。考えればスーツ以外の服など、それこそジムに行く為のジャージか、あとはジーンズが一本にどうでもいいようなシャツが二・三枚しかない。買い物にでも行って、連絡が取れる相手と会って不義理を詫て、そして一週間位旅行に行くかと漸く長い休みの計画を頭に描く。学生時代以来の自由な時間は全く途方に暮れるばかりだ。 夕方と呼ぶには少し早い時間に、待ち合わせ場所である公園に来た。気づけばいつの間にか青々とした木々は色づき、快適な空調の中では感じなかった肌寒さを覚える。いつの間にか秋が来ていた。ベンチに腰を下ろし眺めやれば、ジョギングを楽しむ同年代の男性や、手をつないで散歩する老夫婦、心地よさそうに木陰で遅めの午睡を楽しんでいる若者たちが、思い思いに秋の一日を楽しんでいる。 子供が駆けて行き、振り返って親の名を呼んでいる。犬を連れて散歩している人には少しだけ身が竦んだが、よく躾されているのか、座る大我には興味も示さず目の前を歩いていく。その向こうには何やら広場でスポーツを楽しむ集団もいた。誰もが楽しそうに柔らかな笑顔で、都会の中の自然を満喫していた。 ――刷毛でさっと心の表面を撫でるように、すぅっと淋しさが襲う。どうしてもこの風景に溶け込める気がしない。彼らと自分の間に見えない壁があるような、この光景から拒絶されているような、なんとも言えない感覚だ。 ぽつんとベンチにひとりきり座り、ただ人々を目に映す。何が足りないのだろうと自分の中の虚ろに問うてみるが、答えが出る事はない。 「――おつかれのようですね」 突然声を掛けられ肩ところか身体全部で跳ね上がる。どこから声がしたのか判らない。左右を見てみるが誰もいない。幻聴かと思い、そこまで疲れてるかと頭を抱えたところで、再び声が聞こえる。「こっちです。横に座ってます」 ひっ、と情けない声が出た。ハードロックを刻む心臓をどうにか押さえつけ、今度こそそちらに目を凝らす。確かに人がいた。「……あんた、誰だ」「黒子テツヤといいます」 お久しぶりです、と続けられ小首を傾げた。取引先にこんな人がいただろうかと記憶をひっくり返すが思い当たらない。秋の空を落とし込んだような髪の色と眼の色は、恐らく一度会えば忘れられない物だろう。「いや、初対面じゃねぇ?」「そうですね」「おい」「いえ、話が弾むかと思いまして」「弾まねーよ! てか誰だ、何か用か?」 ですから黒子テツヤです、と繰り返され、そこで彼の話しているのが日本語だと気づいた。「日本人か。もしかして迷子か? 親はどこだ」「いえ、迷子じゃないですし親の庇護下にある年齢でもありません。ただあなたがとても疲れているように見えたので思わず声を掛けてしまいました」 返された言葉に鼻白んでしまう。どう見ても自分より幾つか年下、というか正直に言えばハイスクールの生徒にしか見えない。しかもそんな年下から疲れているように見えると言われてしまい、少なからずプライドに引っかき傷が付いた。「ガキがナマ言ってんじゃねぇよ。大人には色々あんだ」「それはそうでしょう。でもあなたは、特に疲れていて、そしてとても飢えてるように見えます」 どこかを鋭く針で刺されたような痛みを一瞬感じた。あのなぁ、と声を上げかけた時、タイガ、と良く知る声が名前を呼んだ。「久しぶりタイガ! ほんっと連絡くれないからな、お前」「タツヤ、久しぶり。悪ィな、忙しくってよ」「いいよ、アレックス経由だけど連絡ついたし。長期休暇取らされたって? 働きすぎだ」「長期休暇ですか」 一瞬の間を置いて公園に氷室の悲鳴が響いた。 昔良く通っていたグリル・バーに久々に顔を出した。店主は久しぶりだな、と大仰にハグをして、いつも使っていたテーブルへと案内してくれる。ちょっと古くさい店の調度も、並ぶメニューも酒にも変わりがなく、なんとなくほっとする。だがそこには予定外に黒子テツヤもいた。 氷室は本気で驚いた後、黒子が生きている人間かどうかを確かめ、面白いね、と笑いだした。こういう時に変な肝の座り方と言おうか、妙な勢いがあるのが幼い頃から付き合いのある氷室という男だ。一見優男風でクールに見えるが、中にマグマのような感情を納めている。面白そうだと思えば勢いそのままで行動する事がよくある。弟のように育ってきた大我はいつも彼に引っ張り回された。それを不快と思ったことは一度もないが。 そしてそのまま、せっかくだから食事に一緒に行こうと誘い、黒子も特に用事はないのでとついてきた。全く予定外の夜を迎えている。 「まぁ確かに、タイガは疲れて見えるね」「ええ、公園の中で一人だけどんよりしてました」「働き過ぎなんだよ全く。変な所で日本人らしさが出てるから」「有給一ヶ月を強制的に取らされるって、普通じゃありませんね」「……なんで意気投合してんだよ」 ん? とワイングラスを片手に小首を傾げる仕草が嫌というくらいに様になる氷室は、黒子と目を合わせてから小さく笑う。 「いいじゃないか。オレは彼が気に入ったよ。友人になりたいね」「はい、僕も氷室さんとは気があうんじゃないかと」「お前、オレに声掛けてきたんじゃねーか」 おや、とでも言いたげに氷室が眉を上げる。黒子はそうでした、とナプキンで口元を拭い大我に向き直った。 「火神さん、ご提案があります」「何? なんかの集会に顔を出せとかそーゆークチか?」「宗教の勧誘でもグループカウンセリングへの誘いでもありません」 あのですね、とひとつ前置きする間に、手元にある酒に口を付け、「二十八日間、僕と付き合いませんか」 思い切り噴き出した。突然何を言い出すのかと口元を拭きながら睨みつける。巫山戯ているにしては初対面の人間相手に度が過ぎている。 しかし黒子の表情は出会った時から一切変わらない。まさにポーカーフェイスだ。そしてその目は最初から真っ直ぐに火神のそれを射抜いている。こちらが思わず目を逸らしてしまいたくなるほどに。 「前から思ってたけど、黒子くんはほんとに日本人らしくないね、そういう所」 確かに日本人は目を見つめられれば逸らすタイプが多い。同意しながらテーブルの上を片付けていると、氷室はニヤリと笑う。 「いいじゃないかタイガ、今フリーだろ? 仕事ばっかで抜け殻みたいだったから、せっかくだからつきあっちゃえよ。しかも二十八日限定の恋人だなんてロマンティックだ」「何がだよ! てかタツヤ、お前人事だと思って楽しんでんな? ……おい、お前」「黒子です」「黒子、お前一体何が目的だ? 言っとくけど金なんか大してねぇぞ」 そこを疑うんですね、と黒子は納得したように頷いている。 「判りました。じゃあ僕と付き合ってる二十八日間、あなたの衣食に関わるお金は僕が持ちましょう。一セントもあなたは使わなくて結構です」「Foo! タイガすごいな! 二十八日間限定のヒモだ!」「だからタツヤはもう黙ってろ! 頼むから!! ってか、お前に何の特になる事があんだよ、そんな事して」「それはそれなりにあります。あなたには判らないでしょうが。どうでしょう、二十八日経ったらお別れです。お金も掛からず後腐れもない、そして多分」 あなたは、二十八日後には変化できる。 何を考えているか判らない表情で、黒子はそう告げた。 [newpage] 十月十二日、休暇初日。 大我はアレックスの馬鹿笑いする様を眺めながら、相談する相手を間違えたと後悔していた。テイクアウトしてきたトリプルエスプレッソはアレックスの、スチームミルクの乗ったデカフェは大我の分だが、話をしているうちにすっかり冷めてしまった。 「いやー強烈な逆ナンだな! 男にもモテるとは大したモンだ! さすがだな!」「嬉しくねーよ! もータツヤは面白がって付き合えとしか言わねーし。アンタに相談するんじゃなかった、意味ねぇ」「あーこらこら、人生の先輩の言う事には耳を傾けろ馬鹿者。いいんじゃないか? お前、恋愛経験はそこそこあるくせに、いつもぶら下がり女ばっかり引っ掛けてくるし、そういう尽くすタイプと付き合ってみるのも人生経験になるだろ。しかも後腐れなしだ、何か問題があんのか?」「おおありだよ! 男だよ男!」「問題ねーじゃん。こっち(西海岸)じゃ東海岸よりはずっとメジャーだし、そこら歩いてれば同性カップルなんざ珍しくもない。何ビビってんだ、お前」 ビビってなんか、と言いかけて、止めた。なんともいえない恐怖感のような物を黒子に覚えているのは確かだ。何を考えているのか判らないポーカーフェイス、初対面の人間に突然期間限定で付き合わないかと持ちかけてくる突拍子のなさ、しかも金銭面全て面倒を見ると断言する胡散臭さ。これでホイホイ乗って行く奴のほうがよっぽど問題がある。 「つうかオレが極悪人だったらどうすんだよ、あいつ」「いやー、極悪人はお前みたいな呑気なツラしてねぇよ。その辺見て判ったんだろ」 半ば呆れたような表情で、コーヒーを飲み干しながらアレックスは続ける。 「どっちかが女ならガキつくって認知させてとかあるかもしんねーけど、それもない。気になるなら貴重品は全部オレの所の金庫に入れておけ。いいじゃないか、休暇中の楽しそうな一つの経験として付き合ってみれば」「タツヤもあんたもその辺、温いってーか緩いってーか……」「逆に聞くが男同士だっていう以外、なんか問題あんのか? 顔が生理的に無理だとか、ものすごい不潔だとか、気持ち悪いとか、チューバッカーみたいに毛深いとか」 言われて大我は、昨日会った彼の姿を思い浮かべる。年齢は五・六歳は下だろう。背は低い、というか日本人らしい体格だ。髪の毛と目の色は秋空を落とし込んだような珍しい色、顔立ちは清潔感があった。白いほっそりとした輪郭の中に大きな透き通った目が嵌めこまれていて、人形のようにも見える。かといって辰也のように整いすぎている訳でもない。庶民的な顔、というのが一番当てはまる。 しかし何といっても印象的だったのは、目だ。何の感情も浮かべていないように見えて、酷く力強い意思を感じさせる水面色の瞳。あの目は悪くなかった。 「小奇麗な奴だったよ、小せぇし細ぇし、アレックスより背は低い。毛深くもねぇし、目が綺麗だった」「おお、いいじゃないか。何を戸惑ってんだ、お前。ホントに股ぐらにアレ付いてんのか」「ちゃんと付いてるよ! って何言わせんだよアンタ!! ああもう、判ったよ! 付き合ってみる! 気が合わねぇでも二十八日間だけのことだしな!!」 おおー、とアレックスは陽気に拍手などしてきて、なら今連絡しろ、と囃し立ててきた。もうどうにでもなれとその場で彼に連絡し、自宅の住所を告げる。そこに一時間後に、と約束してからアレックスの家を辞した。 アレックスは大我を見送りにドアの前まで来て、真面目な顔でタイガ、と名を呼んだ。 「あ? ああ、貴重品は明日持ってくるから、預かってくれ」「ああ、それは任せとけ。あのなタイガ、お前が心配すべき事はだな、気が合わなかったら、ということじゃないと思うぜ」 何を言っているか判らない、気持ちがそのまま顔に出たのだろう。宣託するかのようにアレックスは言った。 「気が合って、どうしようもなく楽しくて、本気で惚れちまった時の事を心配しろ――それでも、二十八日後にはお別れなんだからな」*** 黒子テツヤはぴったり一時間後にタイガの住むアパートのフロントに現れた。荷物は小さな革のトランクひとつだ。二階分をぶち抜かれた吹き抜けにぶら下がる大きなシャンデリアを物珍しそうに見上げている。 「よう」「こんにちわ火神さん、すごい所に住んでますね」「賃貸だよ。セキュリティもいいしドアマンもいるから色々と便利でさ。これスペアキーな、あとドアマンにも紹介しとく」 大我の住むアパートメントは築年数は古いが、内部はリノベーションされ高級賃貸として人気の物件だ。会社に近くセキュリティがしっかりしている所、という条件で不動産業者にピックアップさせ、内覧もせずに決めた物件だった。引っ越しも業者任せでインテリアもプロに丸投げしたそれは、週に三回やってくるハウスメイドのおかげもあり、未だにショールームのように美しく保たれている。アレックスと辰也ですら数える程しか来たことはないそこに、これから二十八日間、この正体のしれない相手と恋人として共に過ごすのだ。有為転変は世の習いとは言え、一昨日の自分に言った所で信じはしないだろうとしみじみ思った。「……殺風景な部屋ですね」「いきなり言うな」「……インテリアは厳選されてますし、お金も掛かってるのは判ります。ここ、中心部ですしアパート全体を見てもかなりの賃貸料だろって事は予想がつきます。部屋も綺麗だ。でも生活している感じがありません」「そりゃまぁ、帰ってきて寝るだけだしな」「……お金はあっても、あなたは随分と寂しい人だ」「お前は大人しそうな見た目と違って、大胆で気が強くて、口が悪いな」 初めて黒子の表情が、小さな笑みに崩れた。見慣れ始めたポーカーフェイスとは全く別人の表情に、不覚にも一瞬だけ見とれてしまう。 「外見詐欺だって良く言われてました……あなたは、やっぱりとてもとても飢えている」 you're so very,very hungry. 英語で交わされる会話はそこまでだった。随分と下から小さな白い手を伸ばして、彼は大我の頬にそっと触れる。見た目よりも硬い掌をしていた。そのまま促されるように両頬に添えられた手が大我の頭を引き寄せ、こつん、と額を当てられる。 「大勢の中にいても酷くさみしそうで、飢えていて――あなたの飢えは、何で埋められるんでしょうか?」「……考えた事もねぇよ」 三十センチは身長差があるだろう。その距離を彼は背伸びし、大我が背中を曲げることに寄って近づける。水面色の目が大我のそれを射抜く。不思議と懐かしさを感じる色だ。 当てた額から体温がじんわりと伝わる。微かな呼吸音も耳に届いた。 「……あなたは、変われます」 更に背伸びしてきて口づけられる。子供のように触れるだけのそれは、しかし大人のキスよりもずっとずっと、心の奥に染み込んだ。 期待してみる。そう呟いて大我は、黒子の小さな身体を抱きしめた。 *** ゆったりと、ぬるま湯の中を揺蕩うようなセックスだった。キスを何度も繰り返し身体のあちこちに触れて触れられて、髪に頬に何度も母親のようなキスを落とされ、眠くなるような交わりだった。退屈だという訳ではなく、ただひたすら、羊水の中にいるような心地いい安心感が優っていた。 昼間から身体を重ねそのまま眠り込み、目を覚ますともう夕方だった。無駄に広いベッドの片側にいるはずの彼の姿がなく、はて俺は夢でも見ていたのか、と黒子の存在すら一瞬疑ったが、ノックの音で安堵した。 「おはようございます――というかですね、冷蔵庫、ビールしかないんですが」「あー……家でなんもしねぇからなぁ」「お腹すきました。何か作りたいんですけど、近くにスーパーとかありますか」「ああ、サードストリートの角に確か……いや、俺も行くわ」 昨日も着ていたジーンズに適当なシャツをTシャツの上に引っかけて部屋を出ると、黒子は既に玄関で待っていた。特に会話もなく部屋を出ると、黒子の方から手を繋いでくる。一瞬振り払おうとして、止めた。恋人関係は始まっているのだから、照れることもないし邪険にする必要も、あのセックスの後ではまったくない。 「つか食って帰ろうぜ、その方が早い」「だめです。アメリカは食生活が偏りすぎですし、量が多すぎます。でも火神さんはたくさん食べますね」「あー、昨日の? オレ大食らいだからな」「なら、なおのこと自炊しましょう。経済的じゃないですし身体に悪いですよ。今はよくても三十半ばを越えたらお腹が出て頭までも淋しく」「わーったわーった。スーパーな」 ドアマンに挨拶しながらエントランスを抜け、何年ぶりかでスーパーへの道を歩いた。その間もいろんな話をぽつぽつと雨だれのように交わす。 好きな食べ物、嫌いな食べ物、今まで食べた中で美味しかったもの、驚いたもの、作った事があるもの、作りたいもの、今から作るもの。昔学生時代に食べた四キロのステーキは食べがいがあったとか、この世のものとは思えないカレーを食べた事があるだとか、そんな些細な会話は、けれど互いを知る為の第一歩だった。 「てか、作ってくれんのか? 得意料理は?」「ゆでたまごです。ゆでたまごなら負けません」「何の勝負だよそれ。ハードボイルドなんだな、見た目に似合わず」「ええ、それもよく言われます」 また黒子が小さく笑う。大我は目を細めて彼を見つめた。 黒子が作ってくれたのは日本料理だった。簡単に、と買ってきたばかりの調味料の蓋を開け、肉じゃがとサーモンの塩焼き……つまり塩鮭、とんかつ、味噌汁、ほうれん草のおひたしに大量の温野菜サラダ。和洋折衷ではあったが、まさに昔、日本にいた頃に食べた事のあるものばかりだ。そしてそれに合わせて買ってきた米を鍋で炊いて、和食っぽい料理が滅多に使われないテーブルに並べられる。食器だけはインテリアを揃えた時にコーディネーターが共に揃えてくれていたので、困る事はなかった。しかし鍋とフライパンは買い足した。先に宣言した通り、支払いは全て黒子がカードで済ませた。 「すげーなおまえ、こんだけちゃちゃっと作れるとか」「まぁ昔は出来なかったんですけど、必要にかられてこうなりました」「うわ、醤油味なっつかしいな。こっちだと日本食レストラン、かなり高級な所行かないと日本人が作ってねぇから味がかなり違うんだよ」「お醤油もお味噌も売ってですから、便利な世の中になりましたね、ほんと」 久々に口にした手料理は胃にも舌にも優しく、大量に作った料理の大半を大我が、黒子はダイエット中のアシスタントのような量を食べた。そんだけで足りるのかよと尋ねると、燃費がいいんです、と返されて笑う。 食後にこれまた買ってきたデカフェの封を開け、ミルクを入れたコーヒーをソファに並んで飲む。こんなゆったりとした時間を味わうのは、本当に思い出せない位に久しぶりだ。 「ブラインド開けていいですか?」「? ああ、確かこれリモコンで」「電動リモコンですかこんなものまで。少しは自分で動いてやったらどうですか」「文句付けられてもインテリアコーディネーターがこうしたんだよ」 微かな機械音が部屋に響き縦型ブラインドが両側にゆっくりと引かれていくと、一面に設けられたピクチャーウインドウが顕になる。ハウスメイドによって週三回磨き上げられているそれは、目の前に広がる街の夜景を、大画面の映画のように映しだした。 「すごい……一望ですね」「……夜の風景って、こんななんだな」「見たことなかったんですか?」「……なかった。ここ開けた事、なかった気がする」 遠くに見える高層ビルの天辺で瞬く赤い航空障害灯は心臓の鼓動のようだし、ハイウェイを流れるヘッドライトは血液のようだ。街まるごとが人間そのもののように、呼吸し脈打っている。数多くの、それこそ星の数ほどの人間がその風景の中にいるはずだったが、大我はそれを実感したことなど、今まで一度もない。ここから見える夜景を自宅なのに知らなかった。見たことがなかった、いやそもそも、興味すらなかった。そういえば不動産屋が、夜景が素晴らしいExecutiveに相応しいお部屋です、等と言っていたのを今更思い出した。 夜景に目を向けたまま、黒子はリモコンで灯りを絞った。きらきらと煌めく夜景の光が部屋の中に溢れる。白い頬にその色を乗せたまま、黒子は大我の肩にそっと寄り添ってくる。頬をすりつけるようにしながら、大我の赤い髪を撫でた。 「本当に……あなたは、本当に飢えてるんですね」「……ああ、ほんとに……今、気づいた」 I'm hungry.So hungry. 身体ではなく、心が、こんなにも飢えていた。 昨日出会った黒子テツヤは、一日にも満たぬ間に大我にそれを知らしめた。 [newpage] 一週間目はほとんど自宅周辺で過ごした。この家に越してきて何年も経つのに、近所だからこそ行かなかった観光地に黒子は行きたがった。聞けば日本から仕事で長期滞在しているのだという。何の仕事かと尋ねれば、ライターのようなものだと答えられた。出版社勤務の辰也とは仕事面でも合うかもしれないと思う。「色んなものを書きます。旅行記を書いた事もありますし、スポーツ選手に張り付いて彼の事を書いた事もあります。小説も書いてますよ」 へえ、と素直に感心する。大我の生活からは随分と縁遠い仕事だ。「火神さんのお仕事はどんなんですか」「オレはスポーツ用品メーカーの企画・営業。結構商品化されてんだぜ」「どこかのお店で出会ってるかもしれないんですね」 そんな他愛もない話をしながら、日替わりであちこちへと出かける。サンディエゴ動物園、全米日系人博物館、グリフィス天文台でプラネタリウム。子供の頃に訪れた事がある場所も、何十年ぶりかに訪れるのだから初見とほぼ変わらない。「動物園って人生で最低でも三回行くって話、ご存知ですか?」「三回? なんで?」「一回目は子供の頃親に連れられて、二回目はティーンエイジャーの時にデートで、三回目は親になって子供を連れて。最低でも絶対に三回は訪れる、と言われるそうです」「デートで動物園行った事ねぇなぁ、そういえば」「じゃあ……これが二回目ですね」 パンダを眺めながら、黒子の目が懐かしいものを見るかのように細まる。「……お前は二回目か? テツヤ」 どこかに服の裾を引っ掛けたような感覚を覚えながら、思わず尋ねる。黒子は少しだけ目を瞠り小さく笑った。「やっと名前、呼んでくれましたね。……残念ながらこれが三回目です。高校の時に二回目を済ませました」「恋人?」「ええ……恋人です。大好きな人です」 口にはしなかったが、そのまろい目は雄弁に、今でもその相手が好きなのだと物語っていた。 歳――尋ねてはいないがおそらく年下だ――から考えても、誰とも交際したことがないとは考えにくいし、気配は恐ろしく薄くて一瞬で見失う程だけれど、一度知ってしまえば奇妙な存在感がある、そんな黒子には今でもそんな目をして語れる恋人がいたのだという事実が胸を苛んだ。アレックスの忠告を思い出す。本気で惚れた所で二十八日でお別れだ。それなりに、それなりに、深い所まで彼を招き入れてはいけない。呪文のようにそうつぶやきながら、パンダを眺めている黒子をじっと、見つめていた。 朝は遅くまで抱き合ってごろごろと眠り、遅めのブランチをとりながら今日は何をしようかを話し合う。お互いそんなに言葉が多い訳でもなかったが、静かなその会話の時間が大我はもうとっくに気に入っていた。黒子は確かにポーカーフェイスで感情を表に昇らせる事が極端に少ない。けれどその分、ふとした時に見せる笑い顔が酷く印象的だ。不機嫌な時も楽しそうな時も目を見れば大体判る。一週間を終える頃にはかなりの感情を彼から読み取ることが出来るようになっていた。「だってテツヤわかりやすいからな」「そんな事言われた事はありません。何考えてるか判らないとはちょくちょく言われますが」「んー、お前の目かな。目がすげえ、感情で変わる。目見てりゃなんとなく判る」「じゃあ、今何考えてるか判りますか?」 言って腕の中からじっと見上げて来る。大我は唇の端を引き上げ、彼を抱えるようにソファの上に倒れこんだ。「こうじゃね?」「……悔しいけれど正解です」「ホントに悔しそうだな」 眉間に僅かに寄った皺を人差し指で解きほぐすように触れれば、今度はふっと解けて小さく微笑み、大我の眉間に親指で触れてきた。「火神さん気づいてます? 眉間の皺がなくなってるの」「眉間に皺? え、オレあったか」「ええ、刻まれたみたいに深い皺が眉間にくっきりと。僕、思うんですけど、眉間にあんなグランドキャニオンみたいな皺を作っちゃう仕事は、良くないです」 ちゅ、とほどけた眉間にキスを落とされた。 「なんかダラダラしてるうちに昼回ったな。どうする、今日」「そうですねぇ……近所の公園にでも散歩に行くとか」「散歩な。引退した爺さんみたいな生活だな」「じゃあ来週はアクティブに行きましょう」 のろのろと抱擁を解いて、部屋着のまま外に出る。部屋着、といっても数日前とは少し違う。どうでもいいジーンズにどうでもいいシャツを数枚、それがスーツ以外の服装だったが、黒子に引っ張り回されて何件か服屋を回って、かなりましなカジュアルを購入した。見立てている黒子は楽しそうで、着せ替え人形のようになった大我はそれを見て楽しんだ。その時に選んだチノパンツにTシャツ、軽い上着を羽織った様子は、自分でも若々しくなったなと思う。 黒子に出会ったのとは違う、家の近所の公園に足を運ぶ。徒歩数分でこんな公園があったのかと半ば驚きながら、やはり穏やかな顔をして昼間の公園を楽しむ人々の中を、同じようにのんびりと歩く。これといった目的もなく歩くのなんてもしかすると初めてかもしれないと思った。「リスの餌とか売ってんだな」「本当ですね。やってみましょう」 いやに乗り気な黒子が出店に走る。片方だけの軍手とひまわりの種がセットになっていて、餌を上げる方の手に軍手をするらしい。見れば人のいないベンチの背や柵の所、あちこちにリスがちょろちょろと走っている。「リスこんなにいるのか」「結構数いますね……あ、火神さん来ましたよ」 しゃがみこんだ大我の足元にちょろりと尻尾を揺らしながらリスがやってきた。ぴくぴくと鼻を震わせ、手を差し出しても逃げる事はない。ふんふんと匂いを嗅ぐようにして、掌に乗ってきてひまわりの種をかりかりと一心不乱にかじりだす。あっという間に何匹ものリスが黒子と大我の元に集まってきた。「うお、すごい勢いで食うな」「……火神さんに似てますね、リス」「どこが。オレこんなに小さくねぇぞ。テツヤの方がよっぽどぐふっ」「僕は標準です。あなたやアメリカの人々が大きいんです」 脇腹に鋭い手刀を決められ痛みに呻く。一瞬だけぴくりとしたものの、掌に集まっているリスは構わず種を食べ続け、頬がぷっくりと膨らんできた。「これです、この食べ方。まさに火神さんです」「……そうか、オレこんな食い方してんのか」「ええ、肉食のリスですね」 思わずまじまじと見ていると、満腹になったらしいリスがぴょんぴょんと飛びながら肩まで登ってきて、そこで毛づくろいを始めた。黒子がスマフォを取り出して写真を撮ろうとするので、思わず困ったような顔を作ってみせる。笑いながら彼は写真を何枚も撮った。 餌袋が空になると興味を失ったリスたちは公園の中へと散っていった。軍手を店に返してぶらぶらと歩いていると、道路に面したコートでスポーツに興じる少年たちがいた。一瞬だけ視界に捉え、目線を前に向ける。案内板によればこの先に大きな池があるらしかった。「スポーツはされないんですか、火神さん」「スポーツなぁ、昔はよくサーフィン行ってたけど、最近全然だ。てかボードも処分しちまったし」「どうしてですか?」「交通事故で足ケガしてな、こう、歩いたり軽く走ったりには問題ねぇんだけど、スポーツするとなるとちょっと恐怖感があって」「お医者様はなんて?」「趣味程度でやるなら問題はない、ってよ……来週、ロングビーチ行こうか」「ロングビーチ? ロスの南側ですね」「サーフィンのメッカだよ。なんか、久々やりたくなった。波に乗れるかわかんねぇけど」 いいですね、と呟いた黒子の表情は、なぜだか少し沈んで見えた。 *** 予約を取ったホテルはかなりのグレードで、部屋からはロングビーチが一望できた。宿泊代は黒子が何か言い出す前に大我が済ませてある。流石にここまで持ってもらうわけにはいかないという矜持だった。 白に近いクリーム色をベースにしてポイントで海を表すのだろう、ブルーが入ったインテリアは高級感がありながらも落ち着く雰囲気だ。何より、目の前に海が見えるというのがいい。バカンスに相応しい光景だ。「ハーバーが目の前! 夜はまた綺麗でしょうね」「おお、この横長の光景みると波に乗りてぇって思うわ」 チェックインして荷物を置いてすぐにビーチに繰り出す。昼の光の中、秋口だというのに肌を焼く人も多く、そしてサーファーが沖で波に乗っているのが見えた。何年かぶりにうずうずした気分になり、早速予約していたショップでショートボードとウェットスーツをレンタルする。 黒子はやったことがないというので、取り敢えず最初は見ている、とビーチに残った。大我は手慣れた動作で沖まで出て、波を待つ。オフショアの風で波もそれなり、コンディションは良い。あとは身体が覚えているかどうかだ。 うってつけの波がくる。周囲のサーファーも波に乗る動作に入るが、大我が一歩早かった。ひとつの波にはひとりだけというのがサーフィンの鉄則だ。身体を起こした瞬間に他のサーファーが引いていく。大我はドンピシャのタイミングで立ち上がり、波に乗った。 「すごいです火神さん! 格好良かったです!」「おう、ありがとな。結構覚えてた」 照れ笑をしながら手放しで褒める黒子の元へ戻ってくる。本当に久々だったが、思ったよりは出来た、と言った所だ。黒子は頬を赤く染める程に興奮して火神を褒め称える。「ほんとすごかったです……! 波にのるってあんな感じなんですね、すごい」「ん、オレ一時期プロ目指してたからな。怪我でやめちまったけど。親父がさもうスポーツなんて止めろって、今までになく口うるさく言われてさ、そんで、結局断念した」「……お父さんが。心配されたんですね」「その割にゃあここ数年は仕事でN.Y行きっぱなしなんだけどよ」「USA全国規模の家族離散ですね」「規模がでけーよな。高校の時もオレ、ほったらかしだったし」「高校はこちらで?」「いや、その三年だけ日本に戻ってた。その時は親父も日本に仕事の基盤を移す予定だったみたいなんだけど、結局とんぼ返りでこっちに戻って、オレは高校生で日本一人暮らしだよ。まぁあんまおもしろくなかったんで、覚えてねぇんだけど」 そうですか、と黒子は呟き目線を火神から海へと移す。水平線に結ばれているだろう彼の視線は、どこか淋しげで、思わず肩を抱き寄せた。「ここだとゲイカップルなんざ珍しくもねぇからな……なぁ、テツヤ。お前時々すっげぇ淋しそうな目ぇすんだけど、どうしてだ?」「淋しそう、ですか」「うん」 黒子は遠くを見ていた目を、すぐ隣の大我に戻して、それから目を伏せる。まただ、と思う。何度かこういう目を見た。裡に何か苦しい物を隠して、それを決して表に出すまいと必死に押さえ込んでいるような、そんな目の色。「……僕が昔付き合っていた人も、サーフィンをする人でした。一度だけ、一緒に行ったんです。僕は見ているだけでしたけど、その時の彼は、今のあなたのように波にすいすい乗って……そのまま、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかって、そう思って見てました」「……死んだのか、そいつ」「……そんな所、です」 もう帰ってこないかもしれません。 黒子の目線は、まだ水平線で結ばれている。