第1話「出会いの春」
「んー、香ばしい匂いがするな」
パイプ椅子に腰を下ろしていた少女は、艶やかな黒髪のショートヘアを指先で梳きながら言った。
「ああ、香ばしい。それはまるで青春の香り。一歩間違えば、私の鼻をへし折ってしまいそうなくらいに。ああ、何と香ばしい匂いなんだろうか。狂おしい」
目を細めて、身体をくねらせて、少し大仰な様子で少女は言う。
素直に受け止めれば、褒めてもらっていると感じる。多少引っかかりを覚えるかもしれないが、普通に「ああ、どうもありがとう」なんてお礼をしたくなっちゃうくらいだ。
しかし、俺は気が付いている。目の前で感嘆の音を漏らしている彼女の言わんとしていることが。
「……汗臭いならそう言えよ」
俺がじとっとした視線を向けると、少女は「ん?」とわざとらしく首を傾げた。
それが非常にムカツクぶん殴りたい。
「スバルン、わたしに任せて」
ふいにあどけない声が発せられる。振り向くと、色素の薄いふんわりとした髪を持つ小柄な少女が、その小さな右手にスプレー缶を握っていた。
「おい、何をするつもり……」
「食らえ、マホリンショット!」
小柄な少女が握ったスプレー缶から勢い良く霧状の物質が噴出された。それが俺の体に命中すると、彼女の髪質同様にふんわりとした良い匂いが漂う。
「ふふ、どうだったミッキー。マホリンショットの威力は?」
得意げな顔で小柄な少女は尋ねてくる。
「どうもこうも……ただの制汗スプレーじゃねえか」
呆れた声で俺が言うと、小柄な少女はぷくっと頬を膨らませた。
「違うもん、マホリンショットだもん!」
「あー、はいはい。凄いねー、マホリンショット」
俺はわざとらしく口角を上げてあしらうように言った。
「むぅ~、ミッキーめ……」
小柄な少女は恨めしげな目で俺を睨んでくる。だが、正直全然怖くない。むしろ顎を反らして見下ろしてやる。そうやってささやかな優越感を楽しんでいた。
「もう怒ったぞ~!」
「お、今度は何をするつもりだ? まあ、お前みたいなお子様のやることなんて……」
「食らえ、マホリンジェット!」
次の瞬間、物凄い勢いで噴射された霧状の物質が俺の顔面を直撃した。それから数秒と待たぬ内に、口の中いっぱいに何とも形容しがたい苦い味が広がる。
「ぐえぇ!? ……お、おいお前……何をしやがった……?」
口元を手の甲で拭いながら、俺は小柄な少女に問いかける。
「ふふ、これを使ったのさ~」
小柄な少女はまたしても得意げな顔でスプレー缶を突き出す。だが、それは先ほどの制汗スプレーとは違う。『ギャースジェット』と書かれていた。その名の通り、噴きかけられた虫が「ギャース!」と悲鳴を上げて逃げるくらいに強力な虫除けスプレーだ。
「……っておい! 何でそんなもん俺に使うんだよ!?」
「え? だって、ミッキーがわたしのことをバカにしたから。ムカついたんだもん」
「ムカついたんだもんって……」
「謝って」
「は?」
「わたしに誠心誠意を込めて、謝って」
小柄な少女は言う。そのあまりにも澄んだ瞳で見つめられると、思わずたじろいでしまう。二の句が継げずに押し黙ってしまう。
「……悪かった」
しばらくして、俺は喉から声を搾り出すようにそう言った。
「悪かった、じゃなくて『ごめんなさい』でしょ? 謝る時はそう言いなさいって、小さい頃お母さんに言われなかったの?」
小柄な少女はそのほっそりとした人差し指を突き立てて俺に注意する。
「ぐうっ……! ご、ごめんなさい……」
俺はこの上ない屈辱に打ち震えながら、何とかそう言った。
「……ふふ」
直後、せせら笑う声がした。振り向けば、黒髪ショートヘアの少女は口元に手を添えている。
「おい、何笑ってんだよ?」
「ああ、すまない。君のカッコイイ姿を見ていたら、つい笑いが込み上げてしまったんだ」
「カッコイイだと?」
俺は片眉をひそめる。
「ああ。こんな小さい子相手にへいこら頭を下げるなんて、君は本当に素晴らしい男だよ。そんなこと、おいそれと真似出来やしない」
「普通に情けないって言ってくれて良いんだぞ?」
「はは、情けないなんて思っていないよ。君は最高にダサカッコイイぞ、柳田くん」
「今ダサイって言ったよな!?」
「違うよ、ダサカッコイイさ。ダサイようで、カッコイイ。それがダサカッコイイさ」
「よく分からんけど、とりあえず殴って良いか?」
俺は力強く拳を握り締める。一方、黒髪ショートヘアの少女は不敵な笑みを浮かべたままだ。
「殴りたければ殴るが良い。それで君の大層ご立派な尊厳が満たされるのであればね」
「ぐぅっ……!」
更に強く拳を握り締めた。だがそれも束の間、すぐに脱力して解く。
「……分かった。俺が悪かったよ」
そして、頭を下げて詫びた。
「ほぇ~、今日もスバルンの皮肉りは絶好調だね」
小柄な少女が感心したように言う。
「ありがとう、麻帆里。君の方こそ、先ほどの柳田くんに対する物言いは見事だったよ」
二人は互いの健闘を称え合い、朗らかに微笑んでいた。
その様子を苦い顔で脇から見ていた俺は、ついため息を漏らしてしまう。
俺達がいるこの部屋は、私立美礼学園の一階にある一室。
数日前より『言語研究会』――通称『言研』の活動場所となっている。活動内容はその名の通り言語についての研究……なんて真っ当なものじゃない。もっと腹黒く打算的なものだ。
◇
失敗の始まりとなったあの瞬間、俺は呆然としながら彼女を見つめていた。
すると穏やかに微笑んでいたその瞳が突然こちらに振り向き、俺はどきりと胸が高鳴った。
「今、私に見惚れていたね?」
舞い散る桜に彩られながら、あるいはそれらを従えながら、彼女は軽やかに言った。
「あ、いや……」
図星を突かれて、思わずうろたえてしまった。男が女に見惚れる。そう言えば聞こえは良いが、下手をすれば視姦したと言われてもおかしくない。今のご時世、視線だけでもセクハラ扱いされてしまうこともままあるようだし、もしかしたら俺自身も入学早々セクハラ野郎の汚名を着させられるのだろうかと、一瞬の内に不安に駆られてしまった。
「……ご、ごめん。俺はそんなつもりじゃなかったんだ」
すぐさま頭を下げた。正直プライドに触ったが、そんなチンケなものいくらでも捨ててやる。セクハラ野郎の汚名を頂いてしまうくらいなら。
「今、私が何をしていたか分かるかい?」
唐突に、彼女はそんなことを尋ねてきた。
「……はい?」
きょとんとして俺は聞き返す。
「私はね、デトックスをしていたんだよ」
彼女の口から放たれた言葉を、俺はすぐに飲み込むことが出来なかった。
「デトックス……?」
つい小首を傾げてしまう。
「デトックスとは解毒を意味する言葉。近年、あらゆる健康法において頻繁に取り上げられているんだよ。体内に溜まった毒素を排出しましょうってね」
「あー、そういえば聞いたことあるな……もしかして、あんたはさっきの女子達に悪口を言うことでストレスを解消……デトックスしたって言うのか?」
「半分正解だね」
彼女はびしっとこちらに指を差して言う。
「確かに私も悪口……皮肉を言うことでデトックスした。けれどもそれと同時に、先ほどの少女達もまたデトックスされたんだよ」
不敵に微笑んで彼女は言った。
俺の脳裏に、先ほどのスッキリした少女達の顔が浮かぶ。
本当は気が付いていた。あの表情は穏やかな春風によって生じたのではなく、目の前にいる彼女の毒舌によるものだと。
「申し遅れた。私の名前は
彼女は自らの胸に手を当てて、恭しく名乗った。
「ところで、君の名前は?」
呆気に取られていた俺は一瞬反応が遅れた。
「……ああ、俺は
「そうか、柳田くんか……」
彼女は口元に微笑を湛えたまま空を見上げる。その様子を俺は黙って見つめていたが、しばらくして彼女は再びこちらに視線を向けた。
「なあ、柳田くん。君もやってみないか?」
「は? 何を?」
唐突な問いかけに対して、俺は眉をひそめてしまう。
「皮肉りデトックス」
これ以上ないほど満面の笑みを浮かべて、彼女――高良昴は言ったのだ。
◇
「人は欲望の生き物だ」
またしても唐突に、昴は語り出す。
「多くの欲望を抱えているが、その中の一つに嗜虐心がある。他人を傷付けたいと思う心だ。ただ、あからさまに罵詈雑言を吐く訳にはいかない。大きな摩擦が生じるし、何より美しくない。かと言って、そのまま我慢をすれば体内に毒素が溜まってしまう……だから遠回しに相手を非難するレトリック――皮肉を使うんだ。私は相手との摩擦を最小限にするために、皮肉で嗜虐心を満たそうとした。あくまでも自分のためだった。しかし、その皮肉には予想外の効果があったんだ」
昴は足を組んで椅子に腰かけたまま、顔だけぐりんとこちらに向けた。
「上質な皮肉は言う側だけでなく、言われた側もデトックスさせるんだ。その上質な皮肉によって互いが気持ち良くなれる。私はこれを『皮肉りデトックス』と名付けた」
口元に薄らと笑みを浮かべて言う昴を見て、俺はため息を漏らす。
「妙ちくりんなことこの上ないな」
「はは、そうかもしれないな」
じとっとした俺の視線を受けて、昴はむしろ快活に笑って見せた。
今彼女が話した内容は、有体に言えば荒唐無稽も良い所だ。本来であれば人を不快にさせる皮肉を言って逆にスッキリさせてしまう。そんなことはあり得ないと一蹴してしまいたい。
けれども、実際にこの目でその現場を目撃してしまったのだから、力強く否定することが出来ない。
「……一つ聞いても良いか?」
「ん、何だい?」
「お前はあくまでも自分の嗜虐心を満たすために皮肉を言っているんだろ? ただ、その結果として相手は逆に癒されてしまう。そうなったら本末転倒じゃないか? お前の嗜虐心は満たされないんじゃないのか?」
俺が疑問を投げかけた直後、昴はふっと鼻を鳴らした。
「何だよ?」
不快に眉をひそめて俺は問いかける。
「いや、すまない。中々に鋭い指摘だと思ってね。柳田くんのくせに、素晴らしいよ」
「そいつはどうも……」
俺は怒りで頬の筋肉がぴくぴくと痙攣するのを感じた。どうせ言うなら、上質な皮肉とやらを言ってくれ。
「ああ、そうそう。君の問いかけに対する答えだけどね……確かに私が編み出した『皮肉りデトックス』は、正直な所あまり嗜虐心は満たされない。相手は傷付かないのだから」
「じゃあ、ダメじゃねえか」
「ダメじゃないよ。皮肉を言うことで体内……正確には心に溜まった毒素はしっかりと排出される。曲がりなりにも、自分の不平不満を吐き出しているのだからね」
昴は自らの胸に手を当てて語り出す。
「皮肉というのは、元来とても危険なレトリックだ。遠回しに嫌味ったらしく相手を非難し、不快な気分にさせて、その結果痛いしっぺ返しをくらってしまうこともままある。だから私は試行錯誤を重ねて、絶妙な皮肉を言うように心がけてきた。その結果として、皮肉を言った相手がデトックスされるようになったんだ」
「もしかして、お前は人のために皮肉を言っているのか?」
俺が尋ねると昴は小さく吐息を漏らし、ふっと微笑む。
「君は愚かなお人好しだな。良いかい、私が『皮肉りデトックス』をするのはあくまでも自分のためだ。日々の生活で溜まった毒素を排出する。そのために皮肉を言い、結果として相手もデトックスされる。全く、素晴らしい相互関係だと思わないかい?」
昴は両手を広げて、少し大袈裟に言ってみせた。
「確かに……素晴らしく歪んだ関係だな」
冷めた口調で俺は言う。
「あっはっは! 言ってくれるじゃないか」
だが、昴は尚も快活に笑っていた。こいつ、もしかしてMの気があるんじゃないのか?
「その小生意気な唇を、包丁で斬り捨ててやりたいよ」
とんでもなく恐ろしい台詞を満面の笑みを浮かべてほざきやがる。
前言撤回。やっぱりこいつはSだ。ていうか、俺に対しては上質な皮肉とやらを言う気はねえのか、この野郎。
「私は小、中学生時代にかけてこの技術を身に付けた。その素晴らしい技術を、これから君に教えてあげよう。感謝することだな」
不敵な笑みを浮かべて昴は言う。
「いや、別にそんなこと頼んでねえから。それにやらなくちゃいけないこともあるし……」
ふっと脳裏に浮かんだとある少女の姿を噛み締めて、俺は右の拳を強く握った。
「へえ、君みたいな怠惰な奴にもやるべきことがあるのかい?」
心底驚いたように言う昴の顔面をぶん殴りたい。ちょうど拳を握っていた所だし、いっそ本気で殴ってやろうか。衝動が湧き立つも、まあ相手は仮にも女だからと言わんばかりに、左手が包み込むようにして右拳を押さえてくれた。
「……うるせえな。関係ないだろ」
そして上手い返答が思い付かず、ふて腐れたようにそっぽを向いてしまう。
「とにかく、俺はもうこんな訳の分からない同好会になんて二度と来ないからな」
俺は荒く鼻息を鳴らすと踵を返し、部屋の扉へと向かう。
「……ふふ、良いのかなそんなことを言って」
背後で昴の不敵な笑い声がした。
「あ? 何がだよ?」
俺は眉をひそめて振り返った。
「もし今後この『言語研究会』……『言研』に来ないのであれば、私が君に嫌らしい目で見られたと学園中で言って回るぞ。主に女子に対して」
「なっ……」
思わず息を詰めてしまう。この高良昴という女は、さながらタカラジェンヌの男役のような美貌と凛々しさを兼ね備えているため、入学して早々に学園中の女子達のハートを掴んだ。何やらファンクラブも発足しているらしく、「スバル様」なんて呼ばれたりしている。そんな人気者の彼女による発言の影響力は想像に難くない。例えそれが虚偽の発言だったとしても、ファンクラブの会員を初めとした女子達は信じて疑わないだろう。結果として、愛しの「スバル様」に害を為した俺は学園中の女子から嫌われて灰色の青春模様まっしぐらだ。それは辛い。この学園にはあの子もいるかもしれないのに……入学早々、そんな悪評が立っては困るのだ。
高速回転していた脳みそが一旦落ち着き、俺は改めて昴を見た。相も変わらず不敵な笑みを浮かべている。ああ、やっぱり殴ってやりたい。だが、俺は湧き上がる怒りの感情を深呼吸によって何とか押さえ込むと、おもむろに口を開いた。
「……分かったよ」
ぼそりと、掠れそうな声を発した。
「ん、何だい?」
「だから、今後もこの『言研』にいてやるって言ってんだよ」
苦虫を噛み潰すようにして俺が言うと、昴は天井を仰いだ。
「あはは! 随分と上から目線だね。君程度の頭脳でも、もっときちんとした物言いが思い浮かぶだろう?」
「は?」
「これからも愛しのスバル様のおそばにいさせて下さい……って、きちんとお願いしなくちゃダメだよ」
「いや、何でそこまで言わなくちゃいけないんだよ!?」
「え? だって、君のようなロクでもない男が私に屈服するのは当然のことだろう?」
淀みのない口調でとんでもないこと口走りやがるなこのクソ女。
「ほら、早くしてくれよ。愚かだけど物分かりの良い君なら出来るだろう?」
「お前……」
俺は尚も言い返そうとするが、これ以上続けても埒が明かない。それに悲しいかな、俺がロクでもない男であり、昴の方が遥か上位の人間であるという点は紛れもない事実であった。
「……れからも……させて下さい」
「え?」
昴は意地悪く小首を傾げた。
「だから、これからも……おそばにいさせて下さい」
「こらこら、柳田くん。肝心の部分が抜けているよ。もしかして焦らしているのかな? 焦らしプレイなのかな? 君ごときが小生意気だね、愚かな柳田くん」
昴は毒々しい笑みを浮かべていた。こいつ、この状況を思い切り楽しんでやがる。全く本当に、俺は何で一瞬でもこんな女に見惚れてしまったのだろうか。大切なあの子がいるというのに。我が人生最大の汚点と言っても過言じゃない。
「……お願いします。これからも……い、愛しの……スバル……様のおそばにいさせて下さい」
屈辱に震える声で俺は言い切った。何だか大事な物を色々と失ってしまったようで、ひどく脱力してしまう。
「ふふ、きちんと言えたね。偉いぞ、柳田くん」
顔を上げて見れば、昴が実に満足そうな笑みを浮かべていた。殴りたい、この笑顔。
俺は歯を食いしばり、怒りに震える自らの拳を必死に押さえた。
「実に良かったよ、うん……けど欲を言えば、もっと頬を赤らめて照れたような仕草が欲しかったな」
「は?」
「よし、そういう訳だからテイクツーと行こうか」
「はあぁ!?」
俺は目をひん剥いて絶叫した。だがそんな俺の様子に構うことなく、昴は嬉々として椅子の上で足を組み、踏ん反り返っている。
「よし、麻帆里。合図を出してくれ」
「分かったよ~」
のほほんとした声で麻帆里は答える。
「じゃあ、行くよ~。よ~い……アクション!」
一転した鋭いそのかけ声を受けても、俺は硬直したままだった。
「おい、柳田くん。君は何をしているんだ。麻帆里の合図が聞こえなかったのか?」
「そうだ、そうだ~。わたしがせっかくナイスなかけ声送ったのに~」
昴は呆れたように眉をひそめ、麻帆里は口の先を尖らせている。
「いや、お前らちょっと落ち着け。ていうか、これっていじめじゃね?」
「何を言っているんだい、柳田くん。いじめっていうのはもっと胃がキリキリするくらい陰険なものさ。今の私達はあくまでも君と楽しく戯れているだけだよ。なあ、麻帆里?」
「そうだ、そうだ~」
「いやいや、俺今メッチャ胃がキリキリしているんだけど……」
腹部をさすりながら、俺は情けない声を漏らしてしまう。
「あはは、そうかい。将来の辛い社会人生活に備えて、良い訓練になっているじゃないか」
「うるせえよ、バカ野郎」
「あっはっは!」
憎々しく睨み付ける俺に対して、昴は尚も快活に笑い続ける。
ああ、入学して早々にこんな奴と出会ってしまったなんて。
俺は自らの運の悪さを呪うしかなかった。