ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 【読み切り】ドラゴンをやめます【痴話喧嘩シリーズ】2012年6月10日 01:54アンヘルは情が深いよね。人間みたいなドラゴンで大好き。「お前は、愛と殺意は決して交わらないと、言っていたのにな」微かに重い疼きの残る下腹をさするカイムの横には、赤い竜が作った影がねそべっている。今は瞑想を終えた僧のように穏やかで無心の彼を、先刻散々に煽り立て翻弄したドラゴンの舌は、おそらく各地に翼を広げる同胞もほとんど経験することのなかったであろう役目を終えて、牙に守られた口内で眠りについていた。人間の顔より大きく攻撃的な舌が、細やかに震え、ゆさぶり、撫でては離れていくもどかしい感覚。――まだ彼女が舐め続けているような余韻がある。カイムは無意識につま先へ力を込めた。「我とて考えを改めることはある。しかし、あの、無性に爪でおぬしを裂きたくなるような気分は、殺意そのものだ。反面、無性におぬしを守り抱き寄せたくもあった。今こうして思い返しても、我にはひたすら奇妙としか言えぬ」声と唸り声は、不機嫌そうな高低を繰り返す。「不器用な種族だな。それも含めて『愛』ではいけないのか」「馬鹿めが。矛盾は下等な種にしか持ち得ぬ呪いよ」愛や恋といった振れ幅の大きい感情に矛盾はつきものであって、それこそどのような物語を開いても、人間が誰かに好かれたり、嫌われたりする内容が入っているものには、必ず「憎い」「会いたい」のような、決して一致することのない戸惑いが、ページをめくればあちこちに縫い込まれてある。数十年の人生のうち、もう記憶の中では埃すらかぶらなくなってしまった、かつての幼い自分が読んだ本。キスをしたり、されたり、そうかと思えば騙されていたのだと涙を流す。短剣を向けて、脅すようなこともする。母から聞いた魔物の恋の話だって、最終的には自らが泡となって死んでしまった。あれだって、対象は違えど、殺意と愛だ。父も情念の話をするときには、必ず女の泣く様を語り草としていたし、中には自らを傷つける惨めさをもってまで、男の気を惹こうとする女までいるのだと笑っていた。カイムの周り、そしてその人間の周りでは、それもある種の愛だという認識で共通していた筈だ。だから、殺したいという感情と愛は、時と場合によっては交わる可能性もある。恋愛が、純粋で寸分の狂いもなく打たれた釘のような真っ当さを持っている方がおかしい。――カイムはそう反論をしようとして、無駄な労力だと、やはり思念を閉じることにした。(ドラゴンにとって、そんなおとぎ話は泥水のような不透明さを残すだけで、ただ単純に不快でしかないのだろう)なるほど、ドラゴンが恋をするというのは一大決心だ。これ程までに融通のきかない思考は、もはや頑固としか言いようがない。それなら、お前の思う愛というものを教えてくれ、と少しの棘混じりに返そうとしたカイムよりも早く、アンヘルが、その口から繰り出すにはあまりに頼りなく、思いがけない言葉を続けた。「だが……もっとも、我は既にドラゴンではないのかもしれぬ」想定していなかったセリフに、カイムは思わず横で遠くに光る山の輪郭を見つめているアンヘルを見やり、身体を向ける。掌の下でひしゃげていた草が、その勢いで葉の途中から千切れ、指の間の薄い皮膚を軽く傷つけた。「ドラゴンではない?どういうことだ。また深化をするのか。もしかして、今度は人間の女にでもなるのか」若干の期待が混じった焦りを無視して、アンヘルの首が唸りと同じリズムでぐるりと上下する。「決して抱くはずのない、相反する欲を抱いた。下賤な呪いが降りかかった。もう我にはドラゴンを名乗る資格がない」目を白黒させる、という表現を使うのに最もふさわしいような顔をして、カイムはうなだれた彼女の首を励ますように、何度目か分からない愛撫を施した。誇り高きドラゴン。そう形容すれば荘厳な音楽と共に大地を踏み荒らし、人間を食らい尽くすイメージで何とかまかり通るかもしれない。しかし、この赤い竜は時に脆い一面を見せる。それがドラゴンの性質なのかどうかは、カイムには分からない。特別彼女がそういうものだとしても、今回の発言には変に否定や励ましを行ってしまえば、余計に深刻な事態へ向かわせるような重みがあった。慎重に言葉を選択するという、慣れないあやとりに脳内を絡ませてしまい、カイムは眉をひそめた。「何だってそんなに極論を進みたがる。内面がどう変化したって、お前がドラゴンである事実は変わらないじゃないか」「おぬしは我の鱗や牙に、ドラゴンを見出しておったのか。それは違うぞ、カイム。ドラゴンは、摂理を生きてこそ、ドラゴンであることができるのだ」ひそめた眉は、また別の意味を持って、余計に皺を深くさせる。「意味が分からん、夢想家ぶるのも大概にしろ」「ドラゴンにとって必要なのは、信仰と闘いの二つだけということだ。カイム、そして、今の我はそのどちらも要らぬと言える」「だからなんだ」「ドラゴンではなくなったということだ」――今度こそ、カイムは糸を繰るのをあきらめた。この『女』相手に思策を尽くせば尽くすほど、言葉は次元を超えて理解の箱から砂のようにこぼれていってしまう。連れ添うような会話より、彼女にとっては自身の思想を語れるようなきっかけになる一言が欲しいのだろう。かつてのカイムであれば煩わしさを感じるような場面である筈なのに、不思議とアンヘルを触る指には温もりがあった。自分を振り回すぼやけた言葉遊びも、頭に響く溢れるような言葉も、背に跨り空を制したあの頃から何も変わらないように思えて、実際には幾分穏やかな空気を帯びていた。(自覚はないのだろうな)おそらく、アンヘル自身も気づかないほどひそやかな速度で、ドラゴンの鱗は柔らかくほぐれている。畏れられるために生えた牙や翼も、血を流し、流されるためだけに凛と張られた皮膚も、今はカイムひとりが指を滑らせ、寄りかかるために空気を受けているようなもので、分厚い革の絵本に描かれていたドラゴンの恐怖を、彼にはどこにも見つけることができなかった。それを、ドラゴンではなくなった、と表現するのであれば、カイムひとりの主観から言えば正解という結論に至るのだろう。しかし彼女がドラゴンという存在から外れてしまったとしても、影響を及ぼすような懸念が何一つ思い浮かばない。死という、生物が最も忌避する現象については不思議と好意的であるにも関わらず、概念の破壊をそこまで怖がる理由が、むしろカイムにとってはいまいち理解に苦しむ部分であった。「じゃあもう火を吐く赤いトカゲでいい。羽根の生えた蛇でもいいから、そう落ち込むな。欲情というのはそういうものなんだ、アンヘル」諭すつもりで放った最後の一言が、アンヘルの口を半開きにさせた。「今、よ……欲情と言ったのか、おぬしは」【つづく】