ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 俺ガイル 願わくば、このまま(雪乃)「今日はいつにも増して暑いわね」「そうだな」 文明の利器は発達している。そう言ってしまうと少し大げさかもしれない。 けれど、空調もない暑い部室の中にあって、空気をかき回して冷風を送ってくれるUSB扇風機は文明の叡智を感じるのに十分だった。 ノートパソコンと線で繋がれた20cmほどの大きさの羽を持つそれは、うちわよりも強力な風を休みなしに運んでくれる。 夏休み直前の35度の部室で奉仕部員の命を保っているのはこの扇風機に違いなかった。 もちろん、この扇風機は万能というわけじゃない。小さな羽から発せられる風の届く範囲はごく狭い。扇風機に身体が近寄らないといけない。自分のポジションが限られる。 でも、扇風機の前を動けないというのも悪くなかった。「その、雪ノ下は……俺とこんなに至近距離にいて嫌じゃないのかよ?」「風の届く範囲がごく限られているのですもの。仕方ないじゃない」 今の私は寄り添うようにして比企谷くんの隣にいる。彼の右腕は私の左手に触れている。 夏服なので腕と腕が直接触れ合っている。汗を含んだ彼の匂いが鼻孔に伝わってくる。 意外とシャイな彼はこの状態をとても気にしている。触れ合った腕を、そして体臭が女性である私に嫌がられるのではないかと不安に想っている。 普段は私に対して尊大な態度を取る彼が今は気弱でなんだか可愛らしく思えた。「今は何も考えずに涼に浸っていればいいのよ」 彼と密着した体勢を維持したまま目を瞑る。 扇風機の性能のせいで密着していられる現状は私にとって悪いものでは決してなかった。 というか、女の子がこれだけ密着した状態でいることを許しているのだから。少なからず想われている程度のことは察して欲しい。彼は色恋沙汰だけは鈍すぎる。 今日は夏風邪でお休みの由比ヶ浜さんが現状の光景を見たら絶対に嫉妬するに違いない。比企谷くんに対してではなく私に対して。 彼と合法的に密着していられる今のシチュエーションは、認めてしまえば私にとってはとても嬉しいものだった。 [newpage]「それとも比企谷くんは、私の体臭が我慢できないとでも言いたいのかしら?」 鈍感過ぎる彼に少し意地悪を言ってみる。私は比企谷くんと密着できてこんなにも心を踊らせているのに。彼はそう思ってくれないのかしら?「……雪ノ下の全身からいい匂いはするが。嫌な臭いなんて全然しないぞ」「そ、そう……」 自爆だった。 比企谷くんの返答を聞いて私の方が恥ずかしくなってしまった。 私の体臭を比企谷くんは好ましく感じてくれている。でも、なんか匂いフェチっぽい感じ。素直に喜んでいいのか迷ってしまう。 でも、世間では体臭が原因で不仲になるカップルは存外に多いという。夏場などは特に互いの体臭を感じ取る機会が多くなる。 比企谷くんに私の体臭が嫌がられていないようでホッとした。別に、私と彼はカップルというわけではないのだけど。もし、そうなれたら……悪くない。嬉しいの、だけど。「雪ノ下こそどうなんだよ? その、俺の臭い。気にならないのかよ?」 比企谷くんは先ほどから感じていたに違いない不安を遂に口にした。 彼が体臭について懸念を抱いているのは小町さんに口を酸っぱくして言われているのか。それとも中学生自体に体臭で弄られたことがあるのか。おそらくは何らか心に傷があるからに違いなかった。 おっかなびっくりな態度を取る彼に対して私は素直に答えてみせた。「別に気にならないわ」 私の返答を聞いて彼はあからさまにホッとした表情を浮かべた。よほど気にしていたらしい。「由比ヶ浜さんが近くにいる時とは違う。男性の匂いが鼻孔に流れてくるのを感じるのは本当よ。場合によってはそれに嫌悪感を抱くかもしれない。でも、私の隣にいるのは比企谷くんだもの。だから、別に気にしないわ」 話しながら自覚する。隣にいるのが比企谷くんだから私が苦手のはずの男性の体臭が全然気にならないのだと。 比企谷くんだから。この部分で、この件に関する全ての問題はクリアしてしまっている。どうやら私は、自分が考えているよりもよほど深く彼に惹かれているらしい。「…………何とか言ったらどうなのかしら?」 普通の男であれば、今の私の説明は愛の告白にも似たものであると気が付くはず。それを意識するととても恥ずかしくなって、逆ギレみたいにして彼に意見を聞いてしまう。「俺も、隣にいるのが雪ノ下だから。今の状態がいいんだと思う」「それは私が女子高生だからかしら?」「雪ノ下雪乃だからだよ」「そ、そう」 また自爆してしまった。比企谷くんが私のことを異性としてどこまで意識してくれているのかよくわからない。 でも、私の方は彼の言葉を都合よく解釈してしまって胸の鼓動が高まって仕方ない。 彼は私のことが好きで、私と彼は相思相愛。 そんな都合の良い妄想から来る甘美な心地良さが全身に染み渡っていく。 認めるのは少し癪だけど。私は今、幸せを感じてしまっている。 彼と2人でいられる幸せを味わっている。「今日は殊更に暑いし。部活が終わるまでこのまま扇風機を浴びてるのもいいかもな」 比企谷くんの言葉は私の妄想を、ううん、願望を後押ししてくれてるみたいでとても嬉しい。「そうね。願わくば、このまま風に当たっていたいわね」彼の額に汗が滲んでいるのが見えた。ハンカチを取り出して顔と右手を更に彼へと近付ける。「じっとしてて。汗を拭いてあげるわ」「サンキューな」 彼の了承を得て、そっとハンカチで汗を拭う。 その際に顔を左右に動かし、彼の頬を唇で僅かに掠めた。「えっ?」 比企谷くんは目を大きく見開き、次いで頬を赤く染めていく。動揺しながら上半身を仰け反らせ呆然と私を見つめている。そんな彼に対して、微笑を浮かべながら返してみせた。「そんなに仰け反っていたは風が当たらないわよ。ほらっ。もっと近寄りなさいよ」「お、おう」 扇風機の位置を直しながら私が彼の肩に寄り掛かるように密着してみせる。 こうすると私にも彼にも風がよく当たる。 彼の体温は少し暑いけれど。 正面からの幸せな涼しい風と幸せな温かい体温の両方が私に幸福をもたらしてくれる。 今年の夏は暑くて幸せになる香りがしていた。 了