ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
金峯山寺
きんぷせんじ
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百科事典マイペディアの解説
金峯山寺【きんぷせんじ】
→関連項目毛彫|山伏|吉野山
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世界大百科事典 第2版の解説
きんぷせんじ【金峯山寺】
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
金峯山寺
きんぷせんじ
当寺の創建年代は明らかでないが、寺伝では、673年(天武天皇2)役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角(えんのおづぬ)、神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ))の開山と伝える。古来の霊山であった金峯山上で役行者が苦行のすえに金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を感得し、これをサクラの木に彫って本尊としたのに始まるという。古代からの山岳信仰と相まって、奈良・平安時代には多くの高僧や修験者の修行の地となり、また黄金浄土の聖地として歴代天皇に帰依(きえ)された。以後、桃山時代にかけて寺勢は隆盛を極め、山内には百数十に及ぶ塔頭(たっちゅう)寺院が建ち、僧徒は吉野大衆(よしののたいしゅう)とよばれて高野山(こうやさん)に対抗する勢力となった。南北朝時代には後醍醐(ごだいご)天皇の南朝(吉野朝)が寺内に置かれたことは著名である。1595年(文禄4)には豊臣(とよとみ)秀吉の寺領寄進も得ている。しかし、明治維新の神仏分離策によって、山内の塔頭寺院の多くは廃寺となった。吉野山の蔵王堂は数度の焼失ののち1455年(康正1)に再建されたもので、木造では東大寺大仏殿に次ぐ大建造物であり、二王門とともに国宝に指定されている。金銀鍍金双鳥宝相華(ときんそうちょうほうそうげ)文経箱、金銅(こんどう)経箱台付、千手千眼観音画像などの国宝や、金銅装笈(おい)、木造童子立像、青銅大灯籠(とうろう)などの国の重要文化財など、寺宝が多い。蔵王堂境内に、1333年(元弘3)に護良(もりなが)親王が北条勢に攻められて吉野落城を決意し最後の酒宴を開いたという四本桜があるほか、後醍醐天皇の遺愛品も多い。2月3日の節分(鬼火の祭典)、4月11、12日の花供会式(はなくえしき)、7月7日の蓮華会(れんげえ)(蛙(かわず)とび)などの行事がある。[中山清田]
世界大百科事典内の金峯山寺の言及
【吉野】より
…一方,山上ヶ岳の南方小篠から北西吉野川にいたる一連の峰を金峰山(きんぷせん),小篠から南熊野までを大峰山(おおみねさん)(現在は山上ヶ岳をいう)といって,奈良時代以来修験の霊場となった。金峰山には金剛蔵王権現がまつられ,平安時代中期には寺院の形態を整えて蔵王堂以下多くの坊舎が建ち,金峯山寺と総称,院政期にかけて貴紳の御嶽詣が盛行した。中世には金峯山寺は興福寺の末寺となったが,天台宗聖護院系(本山派,または寺僧派),真言宗醍醐寺系(当山派,または満堂派)の坊舎も多かった。…
【吉野山】より
…大峰山脈の北端で,金峰山(きんぷせん)(青根ヶ峰)から北西方向につらなる約8kmの山稜部分を称する。大峰山の入口で,金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(蔵王堂)があり,また源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地に富む。役行者(えんのぎようじや)によって蔵王権現の神木とされたという桜は,参詣者などの献木により一山を埋め,吉野神宮付近の下千本,如意輪寺付近の中千本,吉野水分(みくまり)神社付近の上千本,西行庵付近の奥千本として有名。…
【吉水神社】より
…後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。天皇の没後,後村上天皇が天皇の像を安置して奉斎したことに始まり,1875年神社とし,89年その像は吉野神宮創建とともに移されたが,当社は天皇ゆかりの地として存続。…
※「金峯山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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