第6話「突き刺さる、真っ直ぐな想い」
六畳間の寂れたアパートに戻ってから、俺は敷きっぱなしにしていた布団に横たわった。どこか気の抜けた状態で、天井に吊るされている電灯を見つめていた。
放課後、夕日に照らされたあの部屋で去り行く彼女の姿を見た時、なぜだかそのまま放っておけないという感情が湧いていた。だが結局、あくまでもにこやかに去って行く彼女を追いかけることは出来なかった。
そうだ、彼女は強い女だ。わざわざ俺が助けるまでもない。
ふいに、テーブルの上に置いていたケータイが着信を告げた。
俺はおもむろに身体を起こすと、震えるケータイに手を伸ばす。
「……もしもし」
『もしもし。あたしだけど』
「おう、千夏か?」
『そうよ』
「どうしたんだよ。何か用か?」
『何か用か……ですって?』
途端に、千夏の声が鋭くなった。受話器越しにも彼女が眉根を寄せて睨みを利かせていることが分かる。俺はにわかに焦りを感じた。
『あんた、大事なこと忘れているでしょ?』
「大事なこと?」
焦った脳は回転が鈍く、彼女の気持ちを察することが出来ない。そうやって俺がモタついている内に、千夏が乾いたため息を漏らす。次の瞬間、
『あたしとデートする約束のことよ!』
キーン、と耳鳴りがした。俺は衝撃に思わず片目を閉じて、再び受話器に耳を寄せる。
「……あ、ああ。そういえばそうだったな。悪い、忘れていた」
『忘れていたですって? バカじゃないの? 死ね』
だから、そう簡単に死ね死ね言うもんじゃないですよ、という台詞が口を突いて出そうになるが、その結果として千夏の怒りの炎に油を注いでしまうことは目に見えているので、俺は大人しく謝ることにした。
「すまん……」
『全く、しっかりしなさいよね……まあ良いわ。それじゃ、明日デートしましょ。どこに行く?』
それまで刺々しかった千夏の声がふいに弾んだ。
「え、明日ってまた急だな」
『はあ? 先延ばしにしたら、あんたまたすっとぼけて忘れちゃうでしょ。それに明日はちょうど土曜で休みなんだから良いじゃない。それとも何? あたしとデートしたくないの?』
「いや、そういう訳じゃないけどさ……ていうか、千夏は何で俺とデートするなんて言ったんだ?」
俺は素朴な疑問を投げかける。
『はあ? そんなのあんたとデートしたいって思ったからに決まっているじゃない』
「あ、そうなんすか……」
答えになっているようでなっていないその言葉に、俺はすっかり気を抜かれてしまう。それからも相変わらず千夏主導で会話は進み、とりあえず待ち合わせ時間や場所を決め、通話は終わった。
『遅刻したらぶっ殺すからね』
最後の強烈な一言が耳の奥でこだまする。その言葉を聞いた時、俺の中で確かな恐怖の感情が湧いたことに、むしろ安堵した。もしここで喜びの感情が湧いていたら、俺は紛れもないM野郎だから。
「さてと……」
俺は気だるい身体を立ち上がらせる。
両手を腰に置いて、天井を仰ぐ。
とりあえず、明日のデートとやらに備えてさっさと風呂に入って寝よう。
◇
俺はここ最近走った記憶が無い。短い距離をダッシュしたことはあるが、それでも長距離を走る機会は無かった。例え朝寝坊して学校に遅刻しそうになっても、俺は大して慌てない。むしろある種あきらめの境地に至り、いつも通りダラダラと登校するふてぶてしさを持っている。そう、遅刻なんてさほど恐れないはずの俺が、今はそれによって猛ダッシュを強いられていた。
――遅刻したらぶっ殺すからね。
俺の耳の奥で再び千夏の鋭い言葉が蘇る。俺はその言葉に恐怖したし、その命令を忠実に守るために、早々に眠りに就いた。しかし、そこで予想外の事態に陥った。急に心臓が高鳴り始めたのだ。千夏と電話している時は正直事務的な感覚であったが、冷静に考えてみれば女の子とデートの約束なんて高校男子にとって相当ビックなイベントじゃなかろうか。俺の愚鈍な脳は電話を終えて数時間後、眠りに就いた時にようやくその事実に思い至り、そして俺をパニック状態に陥れた。顔が熱く火照って、夏でもないのに寝苦しいことこの上ない。何度も布団の上で寝返りを打ち、のたうち回った。そして俺は著しく体力を消耗し、その結果として予定していた起床時刻を大幅に過ぎてしまったのだ。
俺は急いで着替えを済ませて家を飛び出すと、猛烈な勢いでアスファルトを蹴って走り出した。本当ならばもっと余裕を持ってチンタラチンタラ進む予定だった道を、自分でも驚くぐらいのスピードで爆走していた。中学までは割と活発だった俺は野球部に所属していた。その名残でまだ多少なりとも体力はある。それでもやはりぜえぜえと息を切らせ、下手をすれば泣きそうになりながらアスファルトを疾走する。ていうか、既に半泣き状態だった。時折、「ヤバイ、殺されるぅ!」なんて奇声を上げていた。
やがて前方に待ち合わせの駅前の姿が見えてきた。俺は息も切れ切れになりながら、最後の力を振り絞って向かう。この辺りまで来ると人通りが多くなる。しかも今日は休日ということもあり、いつも以上に混んでいる。俺は人ごみを掻き分け、かわしながら、ようやく待ち合わせの場所へとたどり着いた。ここで一息吐きたい所だが、生憎そんな余裕はない。結果として少しだけ待ち合わせの時間に遅れてしまっている。もう千夏から叱責を食らうことは決定している訳だから、後はどれくらい被害を最小限に抑えられるかが焦点となる。なるべく早く千夏の下に向かわねばならない。今日という日を、俺の命日にしないためにも。
俺は待ち合わせていた駅前の時計台に向かう。そこに千夏はいた。
だが、彼女は数人の男達に囲まれていた。
あれはもしかしなくてもナンパされているのだろうか。
当の千夏はナンパ男達に対して鋭く睨みを利かせている。
うーむ、どうしたものやら。千夏に遅刻したことを謝る前に、厄介なミッションが課せられてしまった。あのナンパ男達をどうやって追い払うか。俺は疲れ切った状態で必死に頭を回転させる。そうしている内に、時計台の下にたどり着いた。
「あの、すみません。そいつ、俺の連れなんで」
俺が声を発すると、ナンパ男達はぐりんとこちらに顔を向けた。
「あ?」
案の定の反応を取られてしまう。その容貌からケンカ上等な雰囲気が漂っている。やり方を間違えてはいけない。俺が今しがた考えたスマートな方法で、ここを切り抜けるしかない。
「ていうか、ちょっと俺を見て下さいよ。メッチャ汗かいているでしょ? 何でだと思います? 遅刻したらぶっ殺すってそいつに言われて猛ダッシュして来たせいなんですよ。で、俺は結果として遅刻しちゃったからこれからそいつにぶっ殺されなくちゃいけないんですよ。まあ、俺としてはそれが結構なご褒美だったりするんで全然ウェルカムなんですけどね」
早口でまくし立てる俺に対してナンパ男達は「お? お?」と明らかに困惑している。
「まあそういう訳なんで、俺ちょっとご褒美タイムいただくんで。ていうか、この女メチャクチャ狂暴だからきっとお兄さん達みたいな普通の人じゃ手に負えませんよ。俺みたいな寛大なM気質じゃないと無理っすね」
ナンパ男達は「お? お?」と尚も困惑していた。千夏もまた目を丸くしていた。
「じゃあ、そういう訳なんで失礼しまーす!」
直後、俺は千夏の手を引いて脱兎のごとく駆け出した。そのまま離れた場所まで移動する。
「……ふぅ、ここまで来れば大丈夫だろ」
俺は手の甲で額の汗を拭った。
「……ねえ、あんた。あたしに言うべきことがあるんじゃないの?」
ふいに、背後で千夏がドスの利いた声を発する。俺はびくりと肩を跳ねさせた。振り返れば、彼女はジーンズを穿いた腰に手を当てて、こちらを鋭く睨んでいる。
「あ、えーと……遅れてすまん」
「何がすまんよ! あんたが遅刻したせいで、あんな奴らに声かけられちゃったじゃない! しかも何よさっきの。あんたってやっぱりMなの? キモ! マジでキモ!」
「いや、あれは穏便に切り抜けるための方便であってだな……」
「分かっているわよ。でも、もっと男らしく助けられないの? 『こいつは俺の女だ!』……とか言ってさ」
「いや、まあ……何て言うか、揉め事になったら千夏が傷付いちゃうかなって思って。だから、なるべく穏便に済ませようと思ったんだけど……」
俺がちらりと目配せをすると、千夏は口を引き結んで黙っていた。それから、小さくため息を吐く。
「仕方ないわね……」
呟いて、肩に掛けていた鞄からお茶のペットボトルを取り出す。千夏はそれを俺に差し出してきた。
「はい」
「え?」
「何ボケっとしてんのよ。早く受け取りなさい」
「もしかして、俺のために買っておいてくれたのか……?」
「そうよ。どうせあんたは遅刻ギリギリになって走って来るだろうから、喉渇くと思ってお茶買っておいてあげたのよ。感謝しなさい」
千夏は誇らしげに胸を張って言う。Tシャツを押し上げる豊かな膨らみに、つい目が行ってしまう。
「すげえ、お前……薄々気が付いていたけど、本当に意外なくらい気が利くんだな」
「は? 余計なこと言うとぶっ殺すわよ」
「すんません! そして、お茶いただきます!」
俺は体育会系の後輩のごとき勢いで頭を下げて受け取り、ふたを開けてペットボトルをぐいと傾けた。先ほどまで全力疾走していたこと、それからナンパを切り抜けるために喋り倒したことで極限まで乾いていた喉が、爽やかなブレンドのお茶によって一気に潤される。それはサラリーマンが仕事終わりに飲むビール並みに格別な味だと思った。ビール飲んだことないけど。
「ああ、ちなみにそのお茶、あたしも先に少し飲んだから」
瞬間、俺は口の中に含んだお茶を一気に噴き出した。
「ちょっ、あんた汚いわよ! ていうか、キモ! こんな所で何吐いてんのよ!」
「いや、だって、お前が突然そんなこと言うから……」
「何よ、あたし変なこと言った?」
「変なことっていうか……お前もこれ飲んだの?」
「ええ、そうよ。少しだけね。何か文句ある?」
「いや、文句っていうか……」
唐突に女子と間接キスを経験したことで、俺はにわかに動揺していた。たかだか間接キス、されど間接キス。とにかくキスと付くからには、思春期アホ男子にとって大いに刺激となってしまうのだ。ていうか、俺も結局思春期アホ男子なんだな。全く、情けないぜ。
「あたしと間接キスしたから、驚いたの?」
こいつ相変わらずストレートに聞いてくるなぁ。日本人にあるべき言葉のフィルターが壊れている、というか取り払われてしまっているんじゃないだろうか。まあ、彼女は純粋な日本人ではなく、アメリカ人のクォーターな訳だが。
「まあ、そんな感じだ」
「嫌だったの?」
「え?」
「あたしと間接キスして、嫌だったの?」
だから、そんなド直球で聞いてくるなって。
「……別に、嫌じゃないけど」
「じゃあ、嬉しかったの?」
「いや、そういう訳でも……」
すると、千夏は眉をひそめた。
「何よ、ハッキリしなさい! ムカツクわね!」
キッと目を尖らせて千夏は言う。俺は彼女の気迫に押されてたじろいでしまう。だが、千夏はその眼光を鋭く保ったまま俺を睨んでいる。これはそれなりにきちんとした答えを返さなければ逃がしてくれそうにない。
「……まあ、その何だ……ラッキーって思った……かな?」
俺は苦笑しつつ千夏を見た。すると、それまで険しい顔で唸っていた彼女は、ふっとその表情を和らげた。
「よし、それなら許す」
そして、にこっと弾けるような笑みを浮かべた。先ほどまでの怒りの表情とのギャップが激し過ぎて、ついドキっとしてしまう。もしこれを計算でやっているなら恐ろしい女だが、たぶん千夏は本能でそうしているのだろう。日頃の彼女の言動からそのように思えた。
「さてと、じゃあお昼時だしまずはご飯を食べに行きましょう」
「おお、ちょうど良かった。朝飯も食ってなかったから腹が減っていたんだ」
「ふん、本当にぐうたらなんだから。何なら、今度からあたしがあんたの家に叩き起こしに行ってあげるわよ?」
「いや、それは勘弁してくれ」
そんな調子で会話を繰り広げつつ、俺達は並んで歩き出した。
昼食を取った後、俺達は駅前を適当にブラついた。服屋に寄ったり、ゲーセンで遊んだり。思えば、高校生になってからこんな風に遊ぶのは初めてだった。今まで色々と忙しかったし、たまにはこうやって遊ぶのも良いかもしれない。ただ、一つ問題があった。
「ヤバ、金が……」
俺は自らの財布を覗き込み、その空っぽ具合に絶望した。今日は仮にもデートということで自分なりにきちんとお金を用意してきたつもりだったが、やはり幾分か足りなかったようだ。
「どうしたのよ?」
「あっ、その……もうお金が無くなりそうで。これ以上遊べないわ」
「はあ? 仕方ないわね、あたしが出してあげるわよ」
「いや、それは悪いって。この前もパンとか飲み物奢ってもらったし……」
「うるさいわね、遠慮なんてしなくて良いわよ。今日はあたしが誘ったんだから」
そう言って、千夏は躊躇なく俺に数枚のお札を渡そうとする。やはり美礼学園に通うだけあって、こいつも大概金持ちちゃんか。いや例えそうだとしても、女子からデート代を出してもらうなんて、男子として情けないというちっぽけな矜持が働いてしまうのだ。
「ダメだ、そういう訳にはいかないよ」
「ったく、頑固なんだから」
千夏は軽く憤りを露わにする。それから少し考える素振りを見せた。
「……そうだわ。確かこの周辺に公園があったはず。そこに行きましょう」
「公園……」
「そこなら、お金もかからないでしょ?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、行きましょうか」
千夏の後を追って、俺は歩き出した。
その公園は広いスペースを有しており、その中で緑豊かな木々や草地が美しく輝いていた。
「うーん。久しぶりに来たけど、結構良い眺めね」
千夏は軽く背伸びをして言った。
「あんたもそう思うでしょ?」
「ああ、そうだ……」
千夏に同意して頷きかけた時、ふいに俺の脳内で過去の情景が鮮烈に蘇った。
以前、俺はこの場所に来たことがある。遊んで歩き回って疲れている状態であったが、脳が高速回転する。そして蘇る、あの子の笑顔、その周りを彩る鮮やかな緑を。
瞬間、大いなる喜びと落胆を同時に味わった。そうだここはかつて、俺があの子と出会った場所だ。俺は日頃あの子の姿を頭に思い浮かべるばかりで、その周りが見えていなかった。おぼろげなままだった。そうだこの緑豊かな公園で俺はあの子と出会い、そして将来の仲を誓ったのだ。そんな思い出の場所に来られたという喜び。そして、なぜもっと早くその点に気が付き、この場所を訪れなかったのかという落胆である。あるいは情けなさだろうか。俺はあの子のことを思いながらも具体的に探す方法を模索していなかったのだ。自分の甘さを痛感する。
「どうしたのよ?」
隣に立つ千夏が訝しんで俺を見ていた。
「あ、いや。何でもないよ……」
俺はどことなく気まずくなり目線を逸らしてしまう。
「あっそう。ねえ、あそこに座らない?」
千夏が指差す先には手頃なベンチが設置されていた。
「そうだな」
その提案を特に断る理由も無かったので、俺達はそのままベンチに腰を下ろした。
今日は休日、そして天気は快晴ということも相まって、公園は多くの親子連れで賑わっている。小さな子供たちが無邪気に走り回り時折転んで泣きそうになるが、また走り出す。そんな子供達にかつての自分とあの子の姿を重ねて、少しノスタルジックな気持ちになってしまう。今この園内にいるのは自分達以外、親子連れがほとんどである。だがその他に誰かいないか、俺は視線を巡らせた。もしかしたらあの子も俺との思い出を今でも大切にしてくれていて、この公園を訪れているかもしれない。そんなアホみたいに淡い期待を抱いてしまう。
「ねえ」
その時、隣に座っていた千夏が俺に声をかけた。
「さっきから、何キョロキョロしてんの?」
「えっ? あ、いや……」
「ていうか、挙動不審みたいでキモいからやめてくれる?」
こいつは本当に言葉がストレートだな。キモいとか言われるとマジで傷付くから、そろそろ勘弁して欲しい。俺の繊細なハートは容易く砕けちまう。
「悪い……」
しかし何だかんだで返す言葉もないので、俺は平謝りをした。
「何で辺りをキョロキョロ見渡していたの?」
千夏が問い詰めてくる。俺は口ごもった。
「それは……ちょっとな」
俺は曖昧に言葉を濁す。
「何よ、気になるじゃない。教えてちょうだい。ていうか、教えなさい」
千夏の目が真っ直ぐに俺を見据える。その青みがかった瞳はやはりどこか日本人離れしていて、そのためか妙に迫力を感じさせ、俺はたじろいでしまう。正直この話は今この場においてあまりしたくない。俺自身が小っ恥ずかしいということもあるが、千夏にとってもきっと気分が良くないことだから。
「教えなさい」
それでも有無を言わさぬ姿勢で千夏は迫って来る。自然と距離が近くなる。俺は視線を脇に逸らそうとした。
「目を逸らさないで。あたしの目を真っ直ぐに見て、そして話しなさい」
千夏の顔が間近に迫り、俺はすっかり動揺していた。彼女の豊かな胸の膨らみが俺の腕に当たって、ひどく落ち着かない。そのまま冷静な思考を失い、自らの秘密を語るまいとする強固な意志が、砂城のように脆くも崩れ去ってしまう。
「……人を探していたんだよ」
俺はぽつりと声を漏らす。
「人って誰よ?」
「それは……好きな人を……探していたんだ」
言った直後、顔から火を噴き出しそうなくらいの羞恥心に苛まれてしまう。いきなりそんなことを言って、正直意味不明である。呆気に取られる千夏の顔が想像出来た。
だが俺がちらりと横目で見ると、千夏はあくまでも真剣な表情のまま俺を見つめていた。
「どういうことか、きちんと説明してちょうだい」
その声は怒気を孕んでおらず、あくまでも落ち着き払っていた。そんな千夏の様子を見て、俺は幾分か冷静さを取り戻す。
「……小さかった頃、俺はこの町に住んでいたんだ。その時、この公園で一人の女の子と出会って……俺は他の奴らに苛められていたその子を助けてあげたんだ。それがきっかけで仲良くなってそれで……」
俺は一旦言葉を切って、口を引き結ぶ。
「それで……何よ?」
千夏は尚も真剣な眼差しで問いかけてくる。ここまで来て誤魔化す訳にもいかないだろう。俺は観念して口を開く。
「……結婚しようって、約束したんだ」
しばしの間、沈黙が生じた。俺は頬の辺りが火照って仕方がなかった。今まで他の誰にも話したことのない秘密を喋ってしまったのだ。バカにされてしまうだろうか。所詮、お子様同士のおままごとと笑われてしまうだろうか。俺の胸の内で羞恥と不安が渦巻いている。
「……素敵な話ね」
千夏の口から放たれたその言葉を聞いて、俺は一瞬自分の耳を疑った。
「え……?」
目を見開いた状態で、千夏に顔を向ける。
「本当にそう思っているのか?」
「ええ。わざわざ嘘を吐く理由も無いでしょ? 本当に素敵な話だと思ったのよ」
「千夏……」
「本当に、素敵ね……」
わずかに掠れた声で千夏は言った。
数秒間、空白の時が生じる。
公園内で遊び回る子供達の声が、よく響いていた。
「……その子のこと、今でも好きなんだ?」
「え? あ、うん……実を言うと、わざわざ一人暮らしをしてまで美礼学園に進学したのも、その子に会えると思ったからなんだ。その子は可憐なお嬢様みたいだったから、きっと美礼学園にいるだろうと思って……」
「そっか、そうなんだ……」
呟いて、千夏はおもむろに空を見上げた。太陽の光が眩しいせいか目を細めている。俺はそんな彼女の様子をしばらくじっと見つめていたが、突然彼女が立ち上がった。
「ちょっと付いて来なさい」
「え?」
「良いから、早く立つ」
普段から千夏は勝気で命令口調が目立つが、今回は何か決意したような迫力を感じ、俺は戸惑いつつも彼女の言うことに従った。迷いの無い歩調で歩いて行く千夏の後を俺は追いかける。
しばらく歩いて行くと左手に公衆便所が見えた。すると、千夏はそちらへと向かって行く。もしかしてずっとトイレを我慢していたのだろうか。それ故に真剣な顔をしていた……なんてことはさすがにないだろう。そんなアホな思考をしていると、千夏は公衆便所の脇を通り抜けてその裏に回った。俺は訳が分からなかったが尚もその後を追った。
公衆便所の裏に回ると、千夏がこちらに背を向けていた。
「……ねえ、幹男。あんたに一つ聞きたいことがあるんだけど」
「な、何だよ、突然」
「あんた、今日のデート中にチラチラあたしの胸を見ていたでしょ?」
唐突なその指摘に、俺は一瞬で凍り付いた。
「……い、いやいや。そんなことないよ」
言いつつも、思い切り目が泳いでしまう。
「いいえ、あんたは見ていたわ。ていうか今日だけじゃなく、学園で一緒にいる時もずっと、あたしの胸をチラ見していたわ。言っておくけど、女子ってそういう視線に敏感なんだからね」
「うっ……」
俺は情けなくも呻き声を漏らしてしまう。
お前の胸なんて見ていないと堂々宣言をしたいが、先日クラスの男子から千夏の胸が大きいことを言われて、少なからず意識していたことは事実だ。千夏の胸のサイズを知りたがっていたそいつらをバカにしていたが、俺も少なからず興味があったことは事実だ。とんだ変態野郎である。
「……すまん、少しだけ見ていた」
「少しだけ?」
「いや、割かし見まくっていたかもしれない。ごめん」
何この誘導尋問。もう絶対に勝てる気がしない。俺はこのまま胸チラ見によるわいせつ容疑で逮捕されてしまうのだろうか。はは、全く笑えない。今のご時世、か弱い女性が被害を届ければ男はあっという間にお縄になってしまうのだから。
「ふぅん、あっそ。あたしの胸を見ていたって認めるのね」
「はい……すみません。謝るから許して下さい」
俺は今何の時間を過ごしているのだろうか。これは新手の羞恥プレイか何かだろうか。公衆便所の裏で胸チラ見の罪を問い詰められている。情けないことこの上ない。離れて暮らしている家族が知ったら俺は間違いなく勘当を言い渡され、天涯孤独になってしまうだろう。まあ、被害妄想が飛躍し過ぎかもしれないが。
「別に謝ることはないわよ。むしろ安心した。あんたはムッツリだけど、きちんと思春期の男子らしく性欲はあるのね」
「いや、性欲って……仮にも女子高生がそんなことを口走っちゃダメだよ?」
全く、どうして俺の周りの女子達はこうも羞恥心に欠けているのだろうか。
「だから、仮にもが余計なのよ。ていうか、どうせあんたらエロ男子は、あたしの胸のサイズとか知りたくてたまらないんでしょ」
鋭いな、こいつ。
「お前、少しはオブラートに包んで物事を喋れよ。ていうか、普通自分でそんなこと言うか?」
「うるさいわね、黙りなさい。あんたも知りたくて仕方がないんでしょ?」
「いやいや、そんな風に聞かれて『はい、知りたいです』なんて答える訳ないだろうが。大体、もし仮にそう言ったとして、お前は教えてくれないだろ?」
「87のEカップ」
俺は一瞬、言葉を失った。
「……は?」
「だから、あたしの胸のサイズは87のEカップだって言っているのよ。華のEカップよ」
「お前、バカじゃねえのか?」
俺は久しぶりにストレートな罵倒の言葉を発した。それくらい、千夏の発言がもうアホ臭かったのだ。
「うっさいわね。ていうかそう言う割に、顔真っ赤になっているわよ」
言われて、俺は自分の頬が熱くなっていることに気が付く。
「なっ……こ、これはお前があまりにもアホな発言をするから、こっちまで小っ恥ずかしくなって、それで顔が赤くなったんだよ」
「へえ、あっそう」
千夏は値踏みするように俺を見た。
「何なら、触ってみる?」
「へっ?」
「あたしの胸、触ってみる?」
俺はその言葉を飲み込むのに、しばし時間を要した。
「……お、お前。いきなり何言ってんだよ」
「だから、あたしの胸触ってみるかって聞いてんの。あんた耳悪いの?」
「いや、それは聞こえたよ。けど、何でそんなことを言うのかって聞いてんだよ」
「触りたいでしょ? あたしの胸」
千夏は俺の問いかけを無視して、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
「良いよ、触っても。チラチラと見るくらいなら、堂々と触って。男でしょ?」
正直な所、俺の心は激しく揺れていた。俺は決して胸だけで女性を判断したりしない。胸が大きければ良いという訳ではないし、例え小さくたって可憐な少女を愛する自信はある。
だがしかし、胸というのは古来より女性のシンボルとさえ言われている。その部位が大きく目立っていれば女性としての魅力を強調することは確かだ。そして、健全な思春期アホ男子であればその大きな胸に少なからず興味を引かれ、出来ることなら触れたいと思ってしまうだろう。
気が付けば、浅い呼吸を何度も繰り返していた。公衆便所裏で影に覆われているというのに、こめかみから汗が噴き出す。俺の視線はTシャツを押し上げる豊かな双丘に釘付けになっていた。
「ほら、早くしなさいよ。こんなこと言うの、今だけなんだから。金輪際ないわよ」
今だけの限定サービス。人々はその限定という言葉に得てして弱い。そして俺も所詮は人の子である。今だけしか触れないと思うと、ただでさえ魅力的なそのお胸が、とてつもない価値を持った物に思えてくる。どこぞの偉いんだか偉くない人が貧乳は希少価値、巨乳は資産価値と言ったが、今俺の目の前にあるお胸は資産価値に加えて希少価値も得た。つまり、最強のお胸ということになる。それをこの千夏はただで揉んで良いと言うのだ。わずかばかり、そのお胸へと手が伸びてしまう。
「ああ、そうだ。あたしの胸を触るに当たって、一つだけ条件があるから」
「え、条件?」
「そう。胸を触ったら、あたしと付き合ってもらうから」
瞬間、俺は呆気に取られた。
「……お前と、付き合う?」
「ええ、そうよ。あたしをあんたの彼女にしてくれたら、この胸だって好きな時に触り放題よ。とても魅力的な提案だと思うけど、どうかしら?」
「あの……もしかしなくても、今俺って告白されてんの?」
「そうだけど。何よ、文句あるの?」
「いや、その……」
「ていうか、気が付いていたでしょ? あたしがあんたのことを好きだって」
正直な所、何となく感付いてはいた。しかし、こうやって面と向かって改めて気持ちを伝えられると、にわかに動揺して焦りを覚えてしまう。
「……何で、俺のことが好きなんだよ?」
困惑しつつも、男としてその点が少なからず気にかかったので、尋ねてみた。
「あたしのこと、助けてくれたから」
「え……?」
一瞬、その場は静寂に包まれた。そのわずかな時の間に、俺の脳内であらゆる思考が駆け巡る。予期していなかった事態が到来するやもしれぬという、期待と不安が同時に湧き上がって来た。
「お前、まさか……」
「……あの時、教室であたしのこと助けてくれたでしょ?」
千夏は言った。
「へっ……?」
俺はつい拍子抜けした声を漏らしてしまう。
「あたし、あの時すごく嬉しかった。あたしはこんな性格だし、昔から仲の良い友達なんてほとんどいなかった。だから、周りから煙たがられて無視されることも別に平気で慣れっこだった。……けど、やっぱり心のどこかでは寂しいって気持ちがあって……そんな時、あんたは周りの目を気にすることなく、あたしのこと助けてくれたよね」
「べ、別に……ただ筆箱の中身を拾っただけだよ。そう何度もお礼を言われることじゃない」
「そうかもしれないけど。でも、あたしは嬉しかったよ」
にこりと、満面の笑みを浮かべて千夏は言った。
俺は不覚にも、その笑顔に胸がどきりと高鳴ってしまう。
「もう一度言うわよ。あたしは幹男のことが好き。だから、あたしと付き合って」
いつも勝気で強気な彼女。今この告白の場においても、堂々としている。だが、やはり頬を赤らめている所が少し可愛いと思ってしまう。そんな彼女に最大限の礼儀を払うために、俺も彼女のことを真っ直ぐに見つめ返した。
「……ごめん。俺は他に好きな子がいるんだ。だから、千夏とは付き合えない」
苦い物を吐き出すような思いだった。自分に対して好意を寄せてくれている相手に対して、きっぱりと断る。それがこんなにも辛いことだなんて。今までモテた試しのない俺は知らなかった。
「……そう、それがあんたの答えなのね」
「ああ、すまない。だから……」
「――お断りするわ」
唐突なその物言いに、俺は目を丸くした。
「はい?」
「あんたがあたしの告白を断るということをお断りするわ」
「いや、お前……何言ってんだ?」
斬新過ぎだろ、それ。
「あんたに好きな子がいるのは分かった。小さい頃の約束を今も大事にして、その子を思っているって。そして、今もその子を探している最中だって。でも、その子はまだ見つかっていないんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「だったら、代わりで良いわよ」
「代わり?」
「あんたが好きなその子が見つかるまでの代わりで良い。だから、あたしと付き合いなさい」
「いや、そんなのって……ていうか、お前は本当にそんなことで良いのかよ?」
「良い訳ないでしょ。本当はきちんとした彼女になりたいわよ……でも、あんたのことが好きだから。そんな形でも一緒にいられれば良いなって思う」
千夏の表情が一瞬切なく歪むが、またすぐに強気な表情に戻った。
「だから、幹男。あたしと付き合いなさい!」
「いや、でも……」
ただでさえ初めて告白されたことで動揺しているのに、その上そんな提案までされるなんて。俺の平常心は最早崩壊していた。そんな腑抜けた俺の姿を見て痺れを切らせたのか、ふいに千夏が迫って来た。至近距離でとんでもない罵詈雑言を浴びせられてしまうのだろうか。俺はとっさに身構えた。
次の瞬間、唇に柔らかい感触が走った。直後に、甘い香りが漂う。
ああ、こいつ、こんな良い匂いしてんだな……いや、そうじゃない。
しばらくの間、俺の唇は塞がれていた。呼吸もままならず、というか呼吸をすることさえ忘れていた。永遠のように感じる一瞬が本当にあることを、俺はこの時初めて知った。
やがて、千夏は俺からすっと身を離す。
「……お、お前。何してんだよ?」
俺は震える声で尋ねた。
「何って、キスしたのよ。文句ある?」
照れて頬を染めながら言う千夏を、俺はただ呆然と見つめることしか出来なかった。
「……ねえ。あたしと付き合って、幹男」
普段強気な彼女の切なげな顔を見ると、胸の奥底が疼いてしまう。守るべき一線を越えて、歩み寄りたくなってしまう。
「……分かった。そこまで言うなら、良いよ」
直後、そんな言葉が口を突いて出た。
「本当に……?」
千夏は目を見開いている。
「ああ……そんな告白をされて、無下に断ることなんて出来ねえよ」
「嬉しい……ありがとう、幹男」
千夏は今日一番の笑顔を浮かべた。それはとても素敵な笑顔で。
俺は直視することが出来ず、目を逸らしていた。
◇
六畳間のアパートに戻ってから、俺は例のごとく敷きっぱなしの布団に寝転がった。
今日は本当に色々なことがあった。初めて女の子とデートをし、告白をされ、おまけにキスまでした、というかされた。
「つか、人生初の告白される場所が公園の便所裏とか……」
ロマンの欠片もねえ。ていうか、普通に便所裏とか臭いだろ。まあ、あの公園の便所はきれにしているみたいだったから、さほど臭いはしなかったけど。ただ、もし仮に便所が臭かったとしても、千夏から漂うあの甘い匂い、それからキスによって口に広がった得も言われぬ甘い感覚に溺れていたため、俺はまるで気にすることはなかっただろう。
おもむろに指先で唇をなぞった。今もまだ千夏の唇の感触が残っているようで、何だかこそばゆい。正直驚いて何も考える余裕は無かったけど、今思えばとても心地よい感触だった。もう一度、してみたいとさえ思ってしまう。
そこまで考えて、俺はふいに自己嫌悪に苛まれる。
俺には好きな子がいる。かつて将来を誓った、あの子がいる。今でもあの子の好きだ。それにも関わらず、別の女の子とデートをして、キスをして、そして変則的ではあるが付き合うことになった。それはもしかしたら今でもあの約束を覚えてくれているかもしれない、あの子に対する裏切り行為ではないだろうか。俺はハッキリ言ってモテない。モテた試しがない。そんな俺がさながら女泣かせのジゴロのようになってしまうなんて、夢にも思わなかった。他の思春期アホ男子達からすれば羨ましいことこの上ないのかもしれない。けれども、当の本人になってみれば案外苦しことも多くて。俺は考えている内に眠くなった。