ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 泡になれない人魚姫2015年6月28日 14:23極寒の北の海にも、人魚はいます。けれど、人間にはその姿を見ることはできません。「はあー、いいなあ、人間!」「ティノ、あんまり顔出すと人間に見らんべ」「泡になっても知らないから」人間に憧れる人魚・ティノは、今日も兄弟のノルとアイスから、静かにいさめられていました。彼ら人魚は、海の中で暮らしています。足が魚で上半身が人間。そんな特別な存在だから、人間に姿を見られると、彼らは泡になって消えてしまうのです。「あ、いた!あの人だよ。僕が言った“綺麗な瞳の王子様”!」ティノは、船の上を指さして声を上げました。それを、しー!とノルは怒りながらも、岩の影から船を覗き込みました。「ほら、見て見て。格好いいでしょう?とても綺麗な真っ青な瞳をしてるんだ」弾むようなティノの声に、ノルとアイスは渋々その姿をじっと見つめます。甲板の上には、青いロングコートを羽織った一人の男性。明るい金色の髪、真っ白な肌。眼鏡越しに見える瞳は、久しく見ていない青空のように濃い青色。そんな王子は、船の甲板から海を眺めています。とても背の高い人のようです。アイスは、小さい声で言いました。「ティノ、あんなのがいいんだ。意味わかんない」「あんなの、なんて言わないでよアイス君!とってもかっこいいって!」人魚たちは、男女問わず恋に落ちることができます。だから、この時のティノを見て、ノルは少しだけ表情を曇らせました。「ティノ、変なこと考えんじゃねーべ」「へ、変なことって?」「“人間になって、あいづのそばに居てえ”」「おひゃあああ!」その時、船の上の王子がこちらの声に気づいたようで、顎先を動かしました。慌てて三人の人魚は、海の中に潜ります。水の中で、アイスはため息をつきました。「意味わかんない。どうせ、すぐ人魚に戻っちゃうのに」「えーでも僕、一度でいいからあの人の瞳を近くで見てみたいんだ。真っ青で綺麗で、春の海みたいなんだ」「人間の男が、男にそんな近づかれたら、嫌に決まってるべ」ノルの淡々とした言葉に、ティノは肩を落としました。「そりゃ、そうだけどー…」遠くまで泳いで、三人は波の間から顔を出しました。船の上にいた王子の隣に、黒いロングコートの男性が立っていました。彼の声だけが、風に乗って三人の所まで届きます。「この船、ベールも気に入ったっぺ?」“ベール”というのが、王子の名前のようです。けれど、ベールの声は聞こえません。「今夜のお披露目パーティ、よろしく頼むべ!」二人は友達らしく、親しげな会話が(一人分の声ですが)聞こえてきます。その一方通行な会話に、ノルは呆れてため息をつきました。「あのあんこ…うざい」ティノは、声が聞こえないベールのことを、じっと見つめていました。“人間になりたい”というのは、好奇心旺盛で頭のいいティノにとっては、昔からの思いでした。しかし、ただの憧れだった思いは、あのベールの青い瞳を見た時から、強い願いへと変わりました。ティノは、この界隈の海の魔法使い・ローデリヒに、人間になる魔法をかけてもらいたいと、前から頼みこんでいました。あまりにもローデリヒのところに通うので、ローデリヒの護衛兼メイドであるエリザベータとも、すっかり仲良しになるくらいに。ローデリヒとエリザベータは、一見人間と同じ見た目をしています。しかし、ティノ達と同じように海で生きる不思議な存在でした。神経質だけど音楽好きなローデリヒと、可愛くて優しいけど本当は強いエリザベータは、なんだかんだでとてもお互いを愛していて、ティノにとってはとても羨ましい二人だったのです。「今日もダメだった?ティノちゃんも熱心ねえ」ローデリヒは、簡単な理由で魔法をかけてくれるような魔法使いではありません。ティノも何度も“人間になりたい”と頼んでいますが、ちっとも首を縦には振ってくれないのです。「また、“お馬鹿さんが!”って言われちゃいました…」あーあ、とため息をつくティノのことを、エリザベータはいつも励ましてくれます。「ローデリヒさんも、意地悪で断っているわけじゃないのよ?人魚を人間にする魔法をかけるときは、それなりの“何か”を預からないといけないから」「…そうですよね」人魚が魔法で人間の姿を保てるのは三日間だけ。でも、そのたった三日間のために“何か”を魔法使いが受け取らねばならないほど、人間になる魔法は強い物なのです。「でも確か、“誰かとキスをすれば人間になれる”んですよね?」「ええ、そうね。でも…」魔法をかけてもらって、戻ってこなかった人魚たちの行方。海の中にいるティノたちには、そのすべてを把握しきれません。中には、嬉しそうに二本足で立ち、海に手を振ってくれたかつての仲間もいました。でも、たくさんの人魚たちが、最後の姿を見せてくれませんでした。みんな泡になって、消えてしまったからです。「魔法をかけてあげた人魚を見送って、人魚が姿を見せなかった四日目の朝にね。ローデリヒさん、とっても悲しい曲を弾くの。口では、“お馬鹿さんですよ”なんて言うけれど。私、ずっとローデリヒさんのそばに居るから、彼の気持ちくらいわかるわ」だから、ローデリヒはなかなか、人魚を人間にする魔法を使ってくれないのです。[newpage]─その日の夜、ティノは波の間から顔を出して、船の方をじっと見ていました。甲板では、昼間の会話で聞いた“お披露目パーティ”の真っ最中です。「さー!みんな飲め飲め!」ベールの隣にいた、黒いロングコートの男性が嬉しそうに騒いでいます。その喧騒を聞きながら、ティノは暗い海の中を進み、少しずつ船に近づいていきました。「デン、飲み過ぎだべ」船の近くで、ようやくティノはベールの声を聞きました。「そーんなことねーっぺ!ベールヴァルドが飲んでねえだけだっぺ!」パーティの席だからか、昼間よりかしこまった呼び方をされたベールに、ティノは胸が高まりました。─ベールヴァルドさんって言うのか!そう思った時、「おっとっと!」“デン”の体が大きくのけぞり、船の上からこちらにぐらりと揺れました。ティノは、姿を見られまいと慌てて海の中に潜りこみました。深く、深く潜って上を見上げた時。水面が割れるような音と共に、大きな影が海に落ちてきました。「えっ!」ティノは、自分の目を疑いました。「ベールヴァルドさん!」青いコートの裾が、海の中で静かに揺れています。金色の髪が靡き、気を失ったベールヴァルドの体は、どんどん深く沈んでいくのです。『ティノ、あんまり顔出すと人間に見らんべ』『泡になっても知らないから』ノルとアイスの言葉が脳裏をかすめるより先に、ティノはひれを動かしていました。「ベールヴァルドさん!」沈んでいくベールヴァルドに向かって、ティノは必死に水を切ります。この極寒の海の中、人間が落ちてしまったら、生きていられるわけありません。「もいっと!」沈みゆくベールヴァルドの体を、ティノはぐいっと抱え込みました。もともと力持ちのティノでも、少しだけ大変に思うくらい、ベールヴァルドの体は大きく、洋服も重たい物でした。「頑張ってくださいね、もうすぐ陸ですから」真っ暗な海の中、ティノはベールヴァルドを抱えて水面に向かって進みました。その時です。「わあっ」波の動きが急に変わって、ティノからベールヴァルドの体が離れました。慌ててその手を掴んだ時、「あっ!」ベールヴァルドの瞼が開き、ティノは息を飲みました。真っ青な瞳は、暗い海の中でもわかるくらい深い青に輝いています。その曖昧な視線が、ティノのことを見て柔らかに微笑むのを、ティノはまるで夢の中の出来事のように感じました。─春の海みたい。姿を見られたことを忘れるくらい、ティノはその美しさにぼんやりとしていました。─僕、泡になっちゃうのかな。そうして、また瞼は閉じられ、慌ててティノはベールヴァルドを引き寄せます。─でも、この青い瞳の視線で泡になれるなら、いいや。そう思いながら、ベールヴァルドを波打ち際まで運びました。意識を失ったままのベールヴァルドを、ティノは心配そうに覗き込んでいましたが、誰かの足音が聞こえて慌てて姿を隠しました。「ベール!」その声の主はダンで、ダンが体をゆすれば、ベールヴァルドが息を吹き返すのを見て、ティノはほっと溜息をつきました。そうして、自分が泡にならない理由も、すぐにわかりました。「これがねーと、何も見えねーべ!」「ああ…すまねえない」ダンに渡された眼鏡をかけて、ベールヴァルドはようやく状況を理解したようでした。「…俺を助けてくれたのは、おめえか?見た目より、だいぶやっけえ体だない」「ん?何のことだっぺ?とりあえず帰んべ。みんな心配してっからよー」ダンに支えられながら歩くベールヴァルドの後姿を、ティノはいつまでも見送っていました。「そっか。僕のこと、ベールヴァルドさん…」─だから僕は、泡になれないんだ。「ローデリヒさん!」気がつけば、ティノはものすごい勢いで海の中を駆け抜け、ローデリヒのお屋敷にたどり着いていました。ローデリヒはいつも通り、貝殻のお屋敷の中でピアノを弾いています。「またあなたですか。このお馬鹿さんが!」ティノを見るなり、ローデリヒは眉間にしわを寄せてぽこぽこ怒りだしました。ピアノの演奏も止まってしまいます。それを不思議に思ったエリザベータが部屋を覗いて、突然現れたティノの姿に驚いています。「ローデリヒさん!僕、これで最後のお願いだと思って来ました!ベールさんの瞳を近くで見たいんです。青い海みたいで、空みたいで、とっても綺麗なんです。だから、僕を人間にしてください!」ぎゅっと目をつぶって、ティノはローデリヒに頭を下げました。すると、眉間のしわを緩めたローデリヒが、ふう、とため息をついたのです。「…それでは、あなたの夢をかなえてあげましょう」「本当ですか?!」「よかったね、ティノちゃん!」「ですが、条件があります」ピアノの椅子から立ち上がると、ローデリヒはティノに近づきました。「あなたの声を、私にお預けなさい」ティノが目を丸くすると、ローデリヒは眼鏡越しの茶色い目で、じっとティノのことを見つめました。「人間の姿でいられるのは三日間だけです。その間に諦めて戻って来るか、想い人とキスをして人間の体を手に入れるかが出来なければ、あなたは泡になって消えてしまいます」知っていることとは言え、それを魔法使いのローデリヒの口から聞くと、ティノの体に緊張感が走りました。「それと…」そこでローデリヒは、こほん、と一つ咳払いをして後ろにいたエリザベータを見ました。「今回は、あなたを監視役に付けましょう。エリザベータ、あなたをティノの想い人のメイドとして、潜り込めるようにしておきます」「わっ、私ですか?」エリザベータは驚いたように声を出して、こちらにやって来ました。すると、ローデリヒは顔を真っ赤にして、目をそらしがちに続けたのでした。「あなたは、人間から愛を告げられたら消えてしまうのですよ。十分気を付けて、ティノを監視なさい」「…わかりました。ローデリヒさん」その会話の記憶を最後に、ティノの意識は遠のいていきました。[newpage]─目を覚ませば、そこはふわふわしたベッドの上でした。─ん…。目をこすって体を起こすと、ベッドの脇の椅子には、うとうと眠っている一人の男の人がいました。─ベールヴァルドさん!思わず声を上げて、口を閉じて、ティノは気付きました。─…本当に、声、出なくなってる。布団の中で、ひれをじたばたさせました。それはひれと違う感覚で、ティノは思わずベッドから飛び出しました。─僕、本当に人間になってる!鏡に映る自分を見て、二つに分かれた足に触って、ティノは大喜びして飛び跳ねました。「おっと」慣れない二本足によろけた時、力強い腕がティノの体を支え、後ろから声がしました。「あぶね」自分を抱きとめる大きな気配に振り返れば、ベールヴァルドの姿が見えました。─ありがとうございます!口をパクパクさせるティノを見て、ベールヴァルドは首をかしげました。「あ?」─おひゃああああ!その威圧感に、ティノは顔をゆがめます。ですが、特にベールヴァルドは怒っている訳でないようです。ティノの顔をじっと見て、聞きました。「おめ、声が出ねえのが?」もっともな質問に、ティノは大きくうなづきました。「言葉はわかってるみてえだない」─この人、近くで見るとなんか怖いなあ…。眉をひそめるベールヴァルドは、大きな手をぬっとこちらに伸ばします。─ぶたれる!と思って目をつぶった時、ふわりとその手が頭に置かれて、ティノは思わず目をベールヴァルドの顔を見ました。「めんげえやつだべ」ティノは、自分の心臓がどきんとするのに気づきました。─笑ってる。わずかばかりに和らいだ視線。青い瞳は、海の中で見た時のように、優しく微笑んでいます。「あっ、目が覚めたんですね」ドアが開いて入ってきたのは、メイド姿のエリザベータでした。手には、ミルク粥を持っています。「こいづ、声出ねえみてえだ」「そうですか…。でも、賢そうな子ですね。しばらく家で雇ったらいかがですか?」そう言ったエリザベータは、ベールヴァルドに気づかれないように、ティノにウインクを投げました。「おめがそうしたければ」ベールヴァルドはあっさりそう言うと、「命の恩人には、頭が上がんね」と続けました。─え?ティノの不思議がる顔に、エリザベータが慌てて答えました。「昨日、旦那様がお友達を助けようとして、海に落ちてしまったの。それを助けたのが私で、時々こうやってご冗談で“命の恩人”なんておっしゃるのよ」─えええええ!!ティノが声にならない声で叫ぶと、エリザベータの声が聞こえてきました。もちろん、二人の会話はベールヴァルドには聞こえていません。(ってことになってるみたいなの!この人の勘違いなんだけど、そう信じて疑わなくて…)(ええーっ!僕なのに、本当は!)(そうなんだけど、私も監視役でここに来てる手前、あまり事を荒立てられないの。ティノちゃんが助けたんだって、本当は教えてあげたいんだけど…)「…みったぐね」少しだけ頬を染めたベールヴァルドは、エリザベータから視線をそらしてしまいました。「そんなことありませんよ、旦那様。あの様子をご覧になっていたみなさんも、旦那様の友達思いで勇気ある行動を、褒めておいででした」エリザベータが言えば、ベールヴァルドはますます口を小さくして、黙り込みます。─あれ…。ひょっとしてこれって。その様子を見て覚えた嫌な予感を、ティノは気のせいだともみ消してしまいました。こうして、ティノはベールヴァルドの屋敷で働くことになりました。声は出ないけれど、身振り手振りでベールヴァルドと話せるのはとても楽しかったし、なにより、「おめ、声さ出ねえから仕方ねえけど、俺の目、見過ぎだべ」それを理由に、ベールヴァルドの青い瞳をじっと見られるのは、本当に幸せでした。ベールヴァルドは何人かの召使を雇っているだけで、家族はいないと教えてくれました。だから、何かを育て愛でたいと思い、中庭で植物を育てているのだそうです。海の中で生まれ育ったティノにとって、“中庭”というのはとても不思議な空間に見えました。色々聞いてみたいことはあるけれど、声が出ないので何も聞けないのが、ティノはとても残念でした。「春が来る前に、花壇さこせるとこだ。手伝ってくんちぇ」作りかけの花壇を指さして、ベールヴァルドは長いコートをベンチに置きました。「倒れてた翌日に力仕事でわりない。でも、きっとっとるよりは…」じっとしているよりは気も晴れるだろう、と言おうとしてベールヴァルドが振り返った時、すでにティノは、レンガをたくさん荷車に積んで、運んでいました。「あれま…。すごい力だない」そんなティノのことを、ベールヴァルドも気に入ったようです。一緒に庭の花壇を作ったり、椅子にペンキを塗ったりと、一日中ティノを自分のそばに置いていました。「これ、食わっせ」仕事が一段落して、ベールヴァルドはティノに甘いお菓子をくれました。「海で溺れてせづねえ目に合ったら、声が出ねえのもひしょねえべ」ティノの声が出ないのを、海で溺れて嫌な目にあったせいだと思っていたベールヴァルドは、こんなふうにティノを慰めては、「早ぐおめえの声が聞きてえない」と優しく頭を撫でてくれるのでした。─僕だって、あなたとたくさんお喋りしたいですよ。その度に、ティノは自分の胸が、押しつぶされるほど苦しくなるのを感じていました。「旦那様―、晩御飯の準備が出来ましたよ」そうしてそれと同じくらい、エリザベータの声が聞こえた時のベールヴァルドの表情にも、胸が痛くなりました。「ほれ、一緒にやばんしょ」一緒に行こうと言ってくれるベールヴァルドの青い瞳は、ティノではなく、エリザベータを見ていたからです。使用人の部屋で、ティノとエリザベータは二人で食事をしていました。(もしかしたら、ベールヴァルドさん、エリザベータさんのこと好きかもしれませんよ?)(ええっ!)他の人から見れば黙っているような食事でしたが、二人はだいぶ困った声を出していました。(大ピンチですよ!ベールヴァルドさんがエリザベータさんに愛を告げれば、エリザベータさんは消えちゃうんですよね?)(それに元々は、ティノちゃんがベールヴァルドさんのことが好きでここに来たんだものね。せっかく人間になったんだから、なんとかしなくっちゃ)がばっと突っ伏したティノに、エリザベータは言いました。「あと二日あるもの。がんばりましょ、ティノちゃん!」はっきり聞こえた声に、ティノはうなづきました。しかし、ティノとエリザベータの陸上での生活は、翌日で終わってしまうのです。[newpage]─二日目も、朝からティノはベールヴァルドと二人で花壇を作っていました。「ここには、スズランさ植えんだ」─スズラン?声の出ない口でティノがつぶやけば、ベールヴァルドはうなづきます。「おめ、スズラン知らねえのが。小さくて白くて」そこまで言って、ベールヴァルドはティノを青い瞳でちらりと見ました。「おめえみてえな、めんげえ花だない」そう言って立ち上がり、ティノに背中を向けるベールヴァルドを見て、ティノは顔を真っ赤にしました。─この人、どうしてそういうことさらっと言うのかなあ、もう。額の汗をぬぐいながら、ベールヴァルドは続けます。「春になれば花が咲ぐから、楽しみに待ってろい」そんなに長くここにいられないことは、わかっていたのに。ティノは思わず、うなづいてしまいました。「めんげえ、めんげえ」ベールヴァルドの青い瞳が、優しく輝いていたからです。けれど、午後になってティノは大慌てすることになりました。ベールヴァルドに呼ばれて応接室に行けば、そこには額に傷のある背の高い商人が来ていました。宝石商だとベールヴァルドはティノに言いました。見慣れないティノを見て、宝石商はパイプをくわえました。「このちいせえのは?」「昨日、海でがおっとったのかっぱらった」ふうん。と返事をして、宝石商はパイプに一口息を通すと、「ゆっくり選びねま」と言って、部屋から出て行きました。ティノは、生まれて初めて見た宝石に、目をキラキラと輝かせました。赤い石、青い石、黄色い石、黒い石…。海の中で見かける貝殻だって綺麗だけれど。─この石、ベールヴァルドさんの瞳みたいな色…。うっとりと見とれる石は、濃い青色をしています。ティノを見る時の優しい瞳。それを思い出すような色合いでした。石に顔を近づけるティノに、ベールヴァルドは言いました。「おめに聞くのもみったぐねえが、エリザベータに合う石、選んでくんちぇ」─えっ?!思わず驚いて顔を上げると、目に入ったベールヴァルドは、顔を真っ赤にしていました。「…あいづ、なんげえ間こごさ勤めどるし、俺の命の恩人だ。おっかになってもらおうかどもって」─おっひゃあああああああああああ!驚きすぎたティノは、立ち上がった拍子に尻もちをついてしまいました。─大変だ、大変だ!「おいっ、どこさ行ぐだ」慌てて立ち上がると、部屋を飛び出して駆けて行きました。メイドとして潜り込み、ティノの監視をしていたエリザベータでしたが、そのためにベールヴァルドの記憶の中で、“長く務めているメイド”であり、“海に落ちたベールヴァルドを助けた人”として刷り込まれていることは、エリザベータを悩ませていました。だから、ティノから、(やっぱりベールヴァルドさん、エリザベータさんのこと好きみたいですよ!と言うか、プロポーズしようとしてます!)というタレこみを聞いた時には、手元の箒を折らんばかりに驚いて声を上げました。「なんですって!」それは思わず、口から出る声で叫んでしまうぐらい。(た、大変ですー…。プロポーズされる前に、逃げてください。エリザベータさん!)「でも、私はティノちゃんの監視をローデリヒさんに頼まれてるから…」人間に愛を告げられると消えてしまうエリザベータは、顔をひきつらせています。ティノは、エリザベータの両手を掴みました。(帰りましょう、海へ。僕と二人で)「でも、ティノちゃんの思いは遂げられてないでしょう?…って、私が言うのもおかしいけれど」その言葉に、ティノは苦笑いを浮かべました。(いいんですよ、エリザベータさん。僕、ベールヴァルドさんの瞳をたくさん近くで見られましたから。好きになってもらって、キスしてもらって人間になってそばに居ようなんて、贅沢な願いでした)「ティノちゃん…」二人はぎゅっと手を握りうなづくと、そっと屋敷を後にしたのです。─さようなら、ベールヴァルドさん。白くて小さいスズランの花は見られなかったけれど、濃く深い青の瞳を見られただけでも満足しなくちゃ。ティノは自分の気持ちを押さえながら、海に戻って行きました。─あのまま四日目の朝が来て、彼の視線で泡になれたら、それはそれで幸せだったのかな。─ローデリヒの貝殻の屋敷に向かい、一連の話をすると、ローデリヒはほっと胸をなでおろしました。「まさか、ティノの想い人の記憶がそんな風になるとは思いませんでしたが…。二人とも無事戻って来てくれて、安心しました」久々の足ひれに、ティノは最初慣れずによろけてしまいますが、それを支えてくれる力強い腕はこの海にはありません。「そうだ、ティノ。あなたに声をお返しします」ローデリヒはそう言って、ティノに何かを握らせました。手を開いて、ティノはその石に見とれてしまいました。「これが、あなたの声ですよ」“ティノの声”は、綺麗な青い石に閉じ込められていたのです。それを飲み込めば、「わあ、久しぶりにしゃべりました」ティノの口からは、またいつも通りの声がします。「あなた、本当にこれでよかったんですか?エリザベータを助けてくれたことは、とても嬉しいのですが…」ローデリヒが困ったような顔でこちらを見ています。だから、ティノは言いました。「ええ、もちろんですよ。だって僕、ベールヴァルドさんの瞳をたくさん見られましたから」声が出ても、たくさんの言葉を飲み込み続けることに、変わりはないのでした。「あと一日分だけ、魔法の効き目は残っています。魔法が完全に抜けるまで、ゆっくり過ごしてください」珍しくローデリヒに気遣われて、こそばゆい気持ちがしながら、ティノは帰って行きました。そこに現れたのは、大慌てでこちらに泳いでくる、ノルとアイスです。「おめ、なにノコノコ帰って来てんだべ!」普段ポーカーフェイスのノルが、随分語気を荒くして言ってきます。「いやあ、いろいろ事情が…」「その話は後で聞ぐげど、とりあえず、あれなんとかしねえど!」「あれ?」ティノが首をかしげると、二人は水面に向かって勢いよく上昇しました。水面から顔を出して、ティノは思わず叫びました。「ベールヴァルドさん!」船の甲板に立っているのは、ベールヴァルドでした。じっと海を眺めて黙り込むその顔には、影がさしています。青い瞳は輝いているのに、それはどこかうつろです。「あの人、多分死のうとしてる。意味わかんない」「ティノが一緒にいねえが探しでたら、おめ、人魚に戻ってんべ」アイスとノルの声が聞こえなくなるくらい、ティノはその光景に混乱していました。「もしかしたら…エリザベータさんがいなくなったから、あんなこと…」ティノの脳裏には、この二日間のことがよみがえってきました。お菓子をくれた声、頭を撫でてくれる手、こちらを見る時の優しい瞳。青い青い、瞳。「だめだ…。僕がわがまま言って、人間になったせいで…」絶望の淵に立たされても、ベールヴァルドの瞳は青く綺麗で、ティノは唇をぎゅっと噛みしめました。「ノル君もアイス君も、隠れてて。お願いだから」「ティノ、何する気?」「…いいから。僕は大丈夫。ベールヴァルドさんを助けて、ちゃんとお別れを言わなくちゃ」心配する二人は、そのまま海に潜って行きます。その様子を見届けてから、ティノは息を吸い、叫びました。「ベールヴァルドさん!眼鏡を外してください!」海の中から、ノルとアイスが驚く声が聞こえました。けれど、ティノはそれに構っていられません。ハッと我に戻ったように、ベールヴァルドは辺りを見渡します。「誰の声だべ…。俺もいよいよ気がおかしくなったんだべか」「お願いです、眼鏡を外してください!」「…わがっだ」ベールヴァルドは、眼鏡を外してコートの中に仕舞いました。眼鏡のないベールヴァルドは本当に周りが見えないようです。「ベールヴァルドさん」ティノが甲板に上がって声をかけるまで、そこにティノがいること自体、気づいていませんでした。[newpage]「おめ、誰だべ?天国から迎えにでも来たのが?」「違いますよ、ベールヴァルドさん。あなたが天国に行かないように、海から来ました」「んじゃあ、悪魔がい」目をこすりながらも、ベールヴァルドはティノがいるのと違う方向を見ます。「悪魔でもありません。でも、人間でもありません」「…難しいない」「ベールヴァルドさん、あなた本当に、死のうとしていたんですか?」率直にティノが聞けば、ベールヴァルドはバツが悪そうに眉をひそめて、座り込みました。「みったぐね」だから、ティノは続けました。「どうして、そんなこと」するとベールヴァルドは、寂しげに目を細めました。「おっかにしようと思ってだ人ど、弟みてえに可愛がってた奴が、いなぐなってな」─僕がいなくなったのも、理由だったんだ…。ティノは、ベールヴァルドの返事に黙り込んでしまいました。「家族だと思っでたらいきなりいなぐなっで、もう、頭ん中がしっちゃがめっちゃがになっだんだない」家族がいないから、と言っていたベールヴァルドのことを、ティノは思い出しました。中庭で花壇を作るベールヴァルドは、確かに幸せそうでした。その幸せそうな顔の理由の一つに“弟みたいに可愛い”自分がいるからなんて、ティノは考えもしませんでした。「…ごめんなさい、ベールヴァルドさん」「なして、おめが謝る」ティノの顔が見えてないベールヴァルドは、おかしな方向を見ながら首をかしげました。「僕があなたに会いたかったせいで、こんなことになるなんて」「…あ?」眉をひそめたベールヴァルドはとても怖かったのですが、ティノはそんなことどうでもいいと思いました。「僕、ずっと海の中からあなたのことを見ていました。目が綺麗な人で、もちろん、それ以外も格好良くて。だから人間になって、あなたに会いに行きました。あなたはとっても優しくて、素敵な人でした。僕は、ずっとそばに居たいと思いました」ベールヴァルドは、困ったような顔をしています。「…何の話だべ」「ううん…なんでもありません。独り言です」ティノは、ベールヴァルドの顔をじっと見つめました。青い瞳が、見えない瞳が、ようやくこちらを向きました。「やっぱり綺麗な青ですね。最後に見られてよかったです」ティノはそう呟くと、ベールヴァルドをぎゅうっと抱きしめました。「…これからも、僕は海の中であなたを見守っています。あなたは一人じゃありません。だから、生きていてください。ベールヴァルドさん」突然のことに、ティノの腕の中でベールヴァルドは体をこわばらせました。─ああ、本当にこれでさようならなんだなあ…。ティノがそう思っていた時、ふと、低い声がしました。「なんだ…おめえがい」「え…?」思わず体を離すと、ベールヴァルドはぷす、と笑いました。「このやっけえ体、俺を助けてくれたやつん触り心地と同じだない」「な…」少しだけ和らいだ目元が、まるでティノを見ているようでした。ティノの頭をぽん、と撫でた後で、ベールヴァルドは言いました。「おめ、あのめんげえのか。声出るようになったべな」ベールヴァルドは、ティノの頭の撫で心地で気づいたようでした。目の前にいるのが、あの日海で倒れていた、声の出ない男の子だったと。「おめが命の恩人がい。なして早ぐ言わねえんだ」「そ、それは…」ティノの頭を、大きな手がもう一度撫でてゆきます。そうして、見えない青い瞳が、ティノの方を向いて優しく笑いました。「…戻って来てくれて、ありがとない」ティノの瞳からは、涙があふれました。だってティノは、戻ってきたのではなくて、お別れを言いに来たのですから。「…ごめんなさい、ベールヴァルドさん」その青い瞳に、ティノはかすれそうな声で言いました。「僕があなたのこと、好きになったばっかりに…」ティノの頬の上を撫でるように、涙が流れていきます。「泣ぐな」まるで涙の筋を見たかのように、ベールヴァルドの声がしました。「めんげえ顔が、台無しだない」「ベールヴァルドさん…」ティノの頬に手を添えた後で、ベールヴァルドはぷすっと笑います。「俺のおっかになってくだっしょ」それが冗談なのか本気なのかと聞く前に、ティノは何も言えなくなりました。声が出なくなったからです。ベールヴァルドとティノの唇は、重なっていました。その時、ティノのひれが急に光を放ち、ティノの体を包み込みました。「おひゃああああああああ」驚いたティノは叫びながら、光の中で目を開きました。そこには、海の魔法使いの姿。「ロ、ローデリヒさん?!」「お伝えした通りですよ、ティノ。魔法の効き目は、残っていると」光の中で、ティノは自分のひれが二本の足になって行くのを見ました。洋服を纏い、自分が人間になるのを見ました。「幸せになりなさい、お馬鹿さん」「ローデリヒさん…!」最後の最後まで変わらない口ぶりのローデリヒに、ティノは叫びました。「僕のわがままを聞いてくれて、ありがとうございます!皆に伝えてください!大好きだって!」光が消えると、ティノはベールヴァルドの正面に座り込んでいました。「ああ、やっぱりおめが」「おっひゃあああああ」眼鏡をかけたベールヴァルドがこちらを見ていて、人魚の時の癖でつい、ティノは大慌てしました。けれど、当然ながらもう、ティノは姿を見られても泡にはなりません。「おめえの名前、教えてくんちぇ」「あ…ティノです」「俺は、ベールヴァルド・オキセンスシェルナだ」「知ってます」「んだが」そう言うと、ベールヴァルドはコートのポケットを探って、その手をティノに差し出しました。「これ、おめに」「え?」握らされた手を開くと、ティノはその美しさに目を奪われました。「青い石だ…」「おめが気に入ってだから、買っだ。そしたら、おめえがいなぐなって。もういらねえと思っでたけんじょも、捨てなぐてえがった」「ありがとうございます、ベールヴァルドさん」ティノが笑えば、ベールヴァルドは少しだけ頬を赤く染めて目をそらしました。「…さすけね」その顔は、かつてエリザベータにプロポーズしようと思っていた時の彼の顔と同じです。─もしかして、僕のことも好きになってくれたのかな。でもそれを確かめるよりも、今は二人でいられる喜びをかみしめたい。そう思ったティノは、ベールヴァルドの胸に飛び込みました。「僕、これからもずっと、ベールヴァルドさんのそばに居ますからね!」「…ん」言葉少なにティノの頭を撫でると、「わあっ」ベールヴァルドは、ひょいとティノを横抱きにして、歩き出しました。「ややこさ代わりに、スズランこでっしり植えるべな」そう言ったベールヴァルドの声は、いつもと変わらず低いけれど、どこか明るく聞こえました。「そうですね、ベールヴァルドさん」腕の中で見上げたその瞳は、ティノが大好きな青い色でした。こうして二人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。(おしまい)