ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 そんな感じでいいんじゃない2014年3月3日 22:22 お月様がきれいな夜でした。 さえざえとした空気は青白いお月様をより一層引き立てて、つかの間、お日様の苛烈で強烈な光をその身に移して地に下ろします。この世でもっとも古く美しい間接照明とは、もしかしたらお月様かもしれません。そのほの優しい月の光の下、てくてくとコンクリに足を擦るようにして歩くギザギザした男が一人。また、すたすたと踵を刻むように歩くヒラヒラした男が一人。 ぷわ、とギザギザの口から白いくらげが飛び出します。「さっむ」 肩を竦めぶるっと洗いたての犬のように震える成歩堂の鼻は真っ赤です。こんな寒い夜にわざわざ外を出歩かなければならないのは、全面的に彼のせいでした。「きちんと管理していればこんなことにはならなかったのに・・・・・・」 ぶちぶちと文句と棘のある視線を飛ばす御剣もまたひっきりなしに白いくらげを吐き出します。「まさか、水道管がおかしくなってるなんて気付かないじゃないか」「普通そんなの壊れたその日に気付くだろう」「んなことない」「そんなことはある」 ささやかな戯れのような応酬をしながら足早に目指す先は、古式ゆかしい銭湯。 今日は二人で成歩堂の家に仲良くお泊りをする予定だたのですが、さぁ一日の疲れを癒そうと風呂場に入ったところ、いくらコックを捻ってもお湯が出なかったのです。家主にお先にどうぞと勧められいそいそと風呂場に向かった御剣が、なんだこれはおかしいと言いながらきゅきゅきゅと捻り続けついにはコックをべきりとねじり取ってしまったので、ある意味この状態は彼のせいでもあるかもしれません。ぽっきり取れてしまったときの彼の顔は大変見物でした。 しかし計算高い彼なので、一瞬の後に何食わぬ顔でコックをちょんと元の場所に乗せ、タオルを腰に巻き、成歩堂を呼んで「湯が出ない」と主張しました。すると「えー? 回す方向逆なんじゃないの」と家主がいつも通りにコックを回してくれるのでここで歴史は書き換えられ、コックをねじり切ったのは晴れて成歩堂となってしまいました。どちらにしろ湯が出なかったことには変わりないのでわざわざ成歩堂に罪を被せなくてもよかったのですが、常日頃怪力だなんだとこのギザギザに言われていたのが即座に頭をよぎり、なんとなく後ろめたくなってしまったのでした。彼にとってリンゴがクッキーのように砕けるのはあまり珍しくないのです。 今から水道トラブル5000円を呼んでも相当時間がかかるので、じゃーいっそ銭湯でも行くかとなったのでした。「オマエどうせ一回も行ったことないだろ」「フン、どうせ旅館の大浴場と似たようなものだろう」 と、言いつつ少し不安です。旅館の大浴場も一、二度くらいしかありませんし込む時間をずらして入ったのでほぼ貸切状態しか経験がありません。「ばかだなー違うに決まってんだろ」「ほう」「まず入ったら挨拶しなくちゃなんないんだぞ。『お邪魔します』って」「・・・・・・ふム」 何気ない顔をして頷きながら頭はマッハで高速回転です。なんだそれは。まるで家ではないか。いやむしろ家なのか?とても大きな風呂のある家が好意で貸してくれるようなものなのか?営利目的ではないのだろうか?「それに、番頭って人がいるから、その人には絶対逆らっちゃだめだぞ」「・・・・・・聞いたことがある。地域に準じた特定のグループの中で一番の権力者の事をそう言うのだったな」 それはどちらかといえば番長ですが、成歩堂はもちろん指摘しません。「あーまあそんな感じ。あと、風呂は前を隠したら絶対だめ」「それはまた・・・・・・大胆な」「同じ風呂に入った仲間は家族みたいなもんなんだよ」「・・・・・・いわゆるハダカの付き合いという奴か」 郷に入れば郷に従えということか。やはり大きな邸宅の風呂を貸してもらうようなものなのだな・・・・・・。うんうんと得心がいったように頷く彼ですが、もちろん絶妙な嘘ばかりです。納得してはいけません。成歩堂は生真面目な彼を非常に面白がっているのでこういったどうでもよい嘘を積極的につきました。細かく説明するのがメンドくさく大体のことは適当吹くという元来の性質もおおいにありますが。 その他にも、タオルは持っていってもいいが湯船に入るときは絶対に頭に載せなければいけないだとか、風呂から上がるときはその濡らしたタオルで股の間をスパーンとはらわなければいけないだとか、ふむふむと律儀に相槌を返す、銭湯に対して赤子のごとく無垢な御剣にどうでもよすぎるオヤジマナーを吹き込んでいるうちに銭湯の暖簾が見えてきました。 昔ながらの藍染の暖簾の向こうに擦りガラスの引き戸。とっぷりと暮れた紺色の夜道に、暖簾の隙間から漏れる橙の明かりがことさら暖かみをもって広がっています。そこだけぽかりと温度を持って浮いているようでした。御剣は見るのも寄るのも初めてでしたが、なんとなく、ここはなんだか安心のする場所だな、と感じていました。「ついたついた」「ム」 二人で白字で「ゆ」と描かれた暖簾をかき分け入ってみれば客足は上々のよう。目の前のむき出しの下足箱にはさまざまな靴が雑然と並んでいます。 さっさと靴を脱いで適当に入れた成歩堂は後ろで律儀にお邪魔しますとお辞儀している御剣を当然のごとく無視して番頭さんのところへ歩み寄りました。「おとなふたりで」 番頭さんは口をもぐもぐさせたお婆さんでした。「400円」「はい、よろしく」 差し出されたしわしわの手に硬貨を乗せていると後ろからどすどす不穏な音をさせて御剣がやってきます。「成歩堂!」 見た目の印象から意外だとよく言われる垂れ目がちな眼をこれでもかと吊り上げて彼は成歩堂に詰め寄りますが、マナー違反を咎めようとしたところでハッと気付きました。 御剣の肩くらいの、地面よりはるかに高い台に座るお婆さん。両の脇に男・女という暖簾を従える様子は彼女こそこの場の門番であると伺わせるに十分です。 しわくちゃで目か皺かわからないような顔をしながらもきちんと結った白髪の、赤いちゃんちゃんこを着た小さな老婆は見ようによっては俗世間を離れ超然と世を儚む仙人のように見えなくもありません。ただならぬオーラを感じます。あくまで御剣の視点では。「まさかこの方が」 知らず御剣も声が潜まります。「そうだよ」 何がそうなのかこれっぽっちも考えてないくせに適当に同意をするのは成歩堂の悪いクセです。 ですが銭湯に精通している成歩堂がそう言うのですから、もう御剣には躊躇する理由も疑う理由もありません。改めて背筋を伸ばし礼をしました。「御剣怜侍と申します。本日はお湯殿をお借り致します。こういった事には不慣れ故、ご迷惑をお掛けするかもしれませんがどうぞ宜しくお願い致します」 大変美しい四十五度のお辞儀を見ているのかいないのか。番頭さんは「ん」と頷いたきりまた口をもぐもぐさせて沈黙してしまいました。 その場違いな折り目正しい挨拶に成歩堂は噛み締め過ぎた唇が裂ける思いです。湯殿って! 沈黙を守ったきりの老婆にもしや今の挨拶すらも何か不手際があったのだろうかと挙動不審になり始めた御剣を引きずり、『男』の暖簾の奥へと二人はようやく侵入を果たしました。「これは」「大盛況だね」 人、人、人。ついでに人。 肌色を惜しげもなく晒し、ついでに薄くなった頭髪も堂々と晒した老若入り混じった男性の群れ。まさにそれでした。 上がり立てほやほや、ゆでたまごのような人やこれからいざ行かんと股間にタオルを当てからりとガラスの引き戸を開ける人、また一台しかないマッサージチェアでぶるぶると揺れる人や、ベンチにタオルを敷いて世間の野球リーグの行方を論じ合う人などなど。 みな思い思いに心休まる一時を過ごしています。「ほらじろじろ見ない」 初めて見るまさに異世界の様子に目を白黒させている御剣に成歩堂はさっさと籐の籠を渡しました。やはり銭湯と言えばこれ。巷ではプラスチックになり変わっていたりそもそもロッカーしかなかったりしますが、ここは今でも藤の籠一筋。こう言う部分が、成歩堂がここを御贔屓にしている所以でもありました。ところどころ千切れてたまに指先にひっかかるのがまた歩んだ時の長さを感じさせます。 あとは脱ぐだけ。さっさと纏った服を剥ぎとり籠に放り投げ裸になる成歩堂に対しなんとなく御剣はまごついています。こんなに人が多いとは思わず、まるで友人達と修学旅行にて裸を晒す小学生の如き心情でした。有体に言えば、ちょっと恥ずかしい。 また、客観的に見て某オバちゃんも太鼓判を押すほど目鼻立ちが整い、立派に均整のとれた体躯でかつ衣服も派手気味、とにかく目立つ御剣でありますから、おじさん達もおお場違いなイケメンだなぁとなんとなく目で追っています。それが御剣の不器用な指先に更に輪をかけてプレッシャーを与え、ボタンを外す手ものろのろと。「シャンプーはぼくの貸してあげるから」 そんな中唐突に、ん、と差し出されたのは白地に青でロゴの入った、メントール系シャンプー。それに御剣はちょっと顔を顰めました。実は彼はメントールのように清涼感のあるものはあまり好きではないのです。あの頭皮がスースーする感じが得意ではありません。特に今は冬ですし、外に出る度に頭の芯まで凍えてしまいそうです。成歩堂の家には既に刺激が少なくかつ高級なマイシャンプーを持ち込み済ですが、銭湯に来るに当たってうっかり持ってくるのを忘れてしまいました。「……それしかないのか?」「ゼータクだなお前」「その、妙な清涼感がどうも」「じゃー備え付けのが多分あるから、それ使えばいいよ」「そうするとしよう。すまないな」「いーよ別に。じゃ、先入ってるぞ」「え」 と、ぐだぐだと話している内に成歩堂は準備完了です。とっとと引き戸をがらりと開け湯けむりの中へ消えてしまいました。それを為すすべもなく見送るしかない御剣。当然です、待つ道理なんてありません。万事休すです。あっという間に取り残されたこの状態に愕然とするも、こうなってしまってはもはや迷う余裕などありません。きっと 眉に力を込め腹をくくりました。 男御剣怜侍、裸を晒して何が恥ずかしいというのか!皆同じ体、同じものがついている!人が人であり男性である限り当然だ!持って生まれたこの体、何一つ恥ずべき場所などない! ええいままよ! 心中吹っ切り全てを脱ぎ捨てた彼の勢いの良さと言ったらまるでこれから死地へ赴く戦士のごとき潔さです。ばさりと翻り籠へとダイブした白いシャツとヒラヒラがまるでマントのよう。 死に別れた誰かの形見の如く、白い手拭を万力込めて片手に握りしめ、さながら王の行進を見守る民草のような視線をひしひしと感じながら、裸一貫、未知なる大浴場へと堂々たる歩みを進めるのでした。「入る時くらい隠せよ。大胆だなお前」 入った途端そうしれっと言われ、もう御剣は白目を剥く寸前です。お前がそうしろと言ったのではないか! 怒鳴りつけたいのをすんでで我慢し肩をいからせつつ成歩堂が座る隣へと腰を降ろします。銭湯の独自マナーなんてこれっぽっちも知りませんでしたが、人が大勢いる所で騒ぎたてるのは不作法だという事はわかります。一般的な常識は大体わかるのです。少々俗世間に疎いのと、思いこんだら一直線なだけで。「もう貴様の話しなど一切信じない」「でもほら備え付けのシャンプーあったぞ」 指差す先のボトルを見て、ああ、ありがたい、と、ころっと素直にシャワーを使い始めましたが、成歩堂はこれだからこいつはなぁと思うわけです。「ムっ……これはボディソープではないか!」 案の定ひっかかった御剣に成歩堂はもう笑いが止まりません。よくよく見れば並べられた二つのボトルはどちらもBODYと書いてあるのです。勿論成歩堂がこうなることを見越して自分の所に置いてあったものとすり替えていたものです。まさかこうまで綺麗に引っかかるとは。もう信じないと言った癖に。これだから飽きないと成歩堂は一層愉快な気分になりました。 じとりとした目で見られてもこれっぽっちも効きやしません。そうやって自分の行動であわあわしている彼を見れば見るほど面白くなってしまう成歩堂でした。気になる子についちょっかいを出してしまう小学生のようです。「ごめんごめん、ほら、シャンプー」 改めて渡されたボトルを警戒心も露わにじろじろと見聞してようやくOKランプがついたらしく、やっと二人揃ってわしゃわしゃと頭を洗い始めることができました。まったく神経質なんだから、と成歩堂はいけしゃあしゃあと言ってみせましたが大体自分のせいです。それにボディソープは体を洗う物ですから、神経質もなにも当然のことです。 御剣もこうなってはさすがに黙っていられません。頭皮をしっかり爪を立てず指先で揉むように洗い、こめかみやうなじの生え際近くも念入りに。毛先まで泡を伸ばしてから十分にすすぎ、耳まで入り込んだ泡まで綺麗に洗い流しすぱっと華麗にオールバックに整えたところで報復開始です。「背中を流してやろう」「え」 成歩堂はぎくり、と肩をすくませました。 前述の通り御剣の腕力は混じりけなしの本物です。検事になっていなかったら腕相撲大会で世界を取れるかもしれないポテンシャルを秘めています。林檎を握りつぶすなんて朝飯前。以前気まぐれに肩揉みを依頼したときの地獄を成歩堂は体で覚えています。筋肉が実際に悲鳴を上げることは、物理的に可能でした。なんてったって、水道のコックを苦も無く反対側に回し切れるのですから。「や、いいよいいよ、自分でやるし」「遠慮するな。いろいろ教えてもらった『礼』だ」 それはいわゆるお礼参り的な意味でしょうか。 冷や汗のままに逃げようとしてもむんずと掴まれ椅子に座らされ、アグレッシブに後ろを向かされます。背中を預け合うのが相棒とはよく言いますがどうみても今は背中を狙われています。あわあわとケロリンの黄色い可愛い桶を抱きしめることしか成歩堂にはできません。 因果はめぐる糸車。したことはすべて自分に返されるのです。「え、ちょ、ま」「まぁ、痛かったら右手でも上げてくれたまえ」 歯医者って手上げてもそのまま普通にするよね!意味無いよね! 成歩堂の情けない悲鳴がガッシュガッシュという血が出るほど勢いの良い音と共に暫く響くのでした。「「ああ……」」 ばしゃあ、と湯が溢れる音と共に二人とも空気の抜けた風船のような声。誰しも熱い湯に体を沈めた時は同じような声が出てしまうようです。半ば目を閉じて心地よくじわじわと染みる温かさに感じ入ります。 かぽーん、と間の抜けた音が天井の高くまで響きました。「なんだか背中がひりひりする……」「割合温度が高めだからな……」「どっちかっていうと沁みる系な痛みな気がするけど……」「ああ、そうだな、心身に染みわたるいい湯だ……」「……そうだね……」 後ろには大きな富士の絵。その中では年中季節を問わず桜が咲いて、湖面に映る逆さ富士も鮮やかです。まったく伝統的な銭湯です。富士を背負って湯にあたる、なんと贅沢なお湯でしょう。 成歩堂も御剣もお湯にふやかされてふにゃふにゃです。とがった髪も深いヒビもすっかり形を無くし、二人揃って頭にタオルを載せ、へりに頭を預け意識を飛ばす幸福に浸ります。そんな二人の前を誰かが浮かべた黄色いアヒル隊長が横切りました。なんとも気の抜ける光景です。こんな二人が実は法廷ではビシバシと異議を飛ばし合う凄腕弁護士&敏腕検事だなんて誰が知るでしょうか。 ですがそんなことは、バッジも服もパンツも脱ぎ捨て生まれたままの姿で湯を分けあう銭湯においてはまったく関係のないことなのです。ここでは誰もが平等なただの裸の人でした。「や、にいちゃんいい男だねぇ」「あ、どうも」 何時の間にか隣に来ていたおじいさんが御剣に話しかけてきました。つるりとした見事な禿頭から湯気が出ています。温泉卵食べたいな、と成歩堂は失礼なことを思います。「にいちゃん達みたいな若い人、珍しいねぇ。仕事帰りかい?」「いえ、風呂が壊れてしまって」「あ~そらしょうがあんめぇ、ゆっくりあったまってきな」「はい、ご一緒させて頂きます、ありがとうございます」「なんじゃかたっくるしい。ケーサツかいな」 かかか、とよくわからないツボに入っておじいさんは笑います。世間話なんて苦手中の苦手とする御剣はしどろもどろですが成歩堂は助けに入る気はさらさらありません。「あれやね、あれに似てるね」「私が、ですか」「そうそう。誰だったかねー、昔のね、俳優のね、銀幕のうんたらみたいなこと言われてた人」「はぁ……」 頭の中のそれらしき人々を検索してみても、該当しそうな人は思い当りません。そもそもあまりそういう俳優だとか女優だとか、芸能界には御剣は疎いのです。限定的なアクション俳優は別として。「終戦してしばらくのことだがな、にいちゃんは知らんね」「そ、そうですか」 知らないのにどう返せと。反応に困る……と複雑な顔をして成歩堂を見ても、にへっと笑ってかわされるばかり。いいんじゃないかな、と目線で言われます。どうでも、という語尾が付き合いの長い御剣には手にとってわかるようでなんだかいろいろ失望です。 おじいさんはそんな御剣の様子も意に介さずのんびりとした調子で話しかけてきます。どうも御剣の隣に腰を落ち着けてしまったようで離れる素振りはありません。どうしよう、いっそ上がってしまおうかとも思いますがそれも失礼といえば失礼。礼儀を重んじる御剣には、おじいさんの話にしばらく付き合うしか道はなさそうです。「しかしまぁ、こうやってね銭湯がね、あるのはね、ありがたいことだなぁ」 しみじみとおじいさんは語り出します。正直突然の語りには付いて行けていない御剣ですが勿論そんなことを正面切って言ってしまったらおじいさんを大いに傷つけてしまうので大人しく黙って聞きます。それに相槌さえ打てばよいので勝手にしゃべってくれるのでまぁ好都合と言えば好都合でした。「わしらみたいなね、年寄りにはね、こういう憩いの場はあってもらわにゃーね、さみしいのよね」 ぱしゃぱしゃと皺の寄った手で肩にお湯を掛けながらご老人は言います。皮膚の上を湯がぺたっと這って流れ、弾かない様子こそに年月が感じられます。「知り合いとかが気付けばいるし、あと、にいちゃんみたいに若い子とたまーにおしゃべりできてな、嬉しいのよね。そうでもしねぇと、無いからね。機会が。ちゃんすが。」「はぁ、そうでしょうか」「そらそうだよぉ。年金暮らしだと余裕も無くてね、かふぇ、なんつって洒落てもねぇ」 いちいち時間合わせて会うのもどうも気恥しいっつうか、改まりすぎてるっちゅうか。 首を傾げておじいさんは続けます。「ここ、安いでしょ。あっこのタカハシさんは息子の嫁が鬼嫁でぬるい湯しかあたらせてもらえねえってんで週三回はいるし、あっこのスズキさんはもう子どもは家出ちまうわ嫁はおっ死んじまったわっつって暇さえあれば来てるし」 指差す先をそれぞれみれば、シャンプーハットで残り少ない髪を泡に埋めていたり、浴槽の中でこれは本当に魂が抜けてしまっているのではと思うくらいに恍惚としていたり。確かにどちらもかなりお年を召している感じです。こちらのおじいさんと同様に。 ゆるゆるとした時間をたゆたって過ごしているようでした。 なんとなくずっと聞くばかりなのも申し訳ない気がして、尋ねてみます。「あなたは?」「わし? わしはねぇ、いや、ありがたいことに嫁も子どももおるし、孫もいるけども。なんだかなぁ、申し訳ない気もしてね」「?」「二世帯ちゅうのはね、気を使うよね」 湯を手揉みしながらおじいさんは言葉を切ります。 嫁。子ども。家族。孫。おじいさん。二世帯。御剣も成歩堂も、遠く、目に見えないほど遠くにあるように思われる言葉です。あまり想像がつきません。なんだかほの温かくて、懐かしくて。誰もが持っていて、誰もがいつか持つであろうそれらの言葉。縁遠くなってしまった今でも、橙色の優しい明かりの灯るその言葉。 小さくて幼いひよこのようにいとおしむようなもの、くらいにしか思えぬそれらが不意に目の前にずいと現われて、ちょっと挙動不審になりそうです。「そういうものでしょうか」 思うままに呟きます。「なんだろうねぇー。大事なんだけどね。有難いことにみんなからも、大事にされてるなって、思うからこそね、こうやってちぃ~っと離れてみるのよ」「ふム」「血は水よりも濃いけどね、濃すぎたらあかんな。塩分過多でどやされるな。ってこりゃ違う話だわ」「はあ」「大事すぎて、あんまり、ぎゅっと握りしめてたら潰しちゃうでしょ。家族でも。そんな感じかな」 よくわからんけどね、感覚でね。大事だからこそ、ね。 湯をすくい、ばしゃりと顔を洗うおじいさんの左手薬指にはくすんだ色味になってしまった飾りも何もないそっけない、しかしとてもしっかりとした金色の指輪。「あんた独身でしょ」「はあ、まあ」「彼女さんと結婚して、子ども持って、孫持って、で一緒に住もうか、って言われたらわかるようになるよ」「……随分と気の長い話ですね」「人生長いかんね」 カカカ、とまた何かのツボに入って笑っているおじいさんを尻目に、なんとなく成歩堂を見てしまったら、成歩堂もだらりとしながらも御剣を横目で見ていて、目が合って。 そろそろでよっか、という成歩堂の言葉と共に、二人はおじいさんとお別れしました。「なんだか髪が軋んでいる気がする」「リンスインシャンプーだからなぁ」 月は何時の間にかそろそろ中天ほどにまで上り詰めていて、その下をてくてくと来た道と同じく歩く影が二人。来たときよりもゆったりとした速度は、ぬくまった体を程良く冷やしながらというのもあり、湯上りのふわふわした気分は家路を急がせるには優し過ぎるというのもあり。 二人のまだ乾ききっていない髪は夜気の風に晒されて少しずつ頭の芯を冷やしていきます。しかし銭湯は地下からの温泉を引いていたのか、体の中心はほこほこと未だ熱を持っていて、外側と内側の温度差が大層心地よい夜道でした。「初銭湯のご感想は」「なかなかに良かった」「感想が雑だなぁ」「他になにかあるか」「いや別に」 そうは言いながら、二人ともなんとなくおじいさんのお話が頭に残っています。 このようにお馬鹿な男友達二人みたいな雰囲気でも、二人は恋人でした。こう見えて。キスもそれ以上もしっかり場数をこなし気持ちもきちんと確認し合った一人前のカップルです。そんじょそこらのカップルじゃ太刀打ちできない程愛し合っている、とは成歩堂の弁です。紆余曲折はありましたが、今となっては波乱万丈な二人の軌跡を辿るのに必要不可欠だったいろいろなこと。こんなこともあったなぁと反芻することはありこそすれ、どうしようもなかった運命を呪うこともありこそすれ、それに伴った自らの選択に対する後悔は一ミリたりともありません。「なんかさぁ」「うム」「あれだよね」「うム」 言葉を切り、思案しているような様子。なんとなく御剣も目をやってしまいます。顎に手を当て、小難しい顔をして、口を開けば。「……別に結婚って、ゴールじゃないよね」 ぶふ。思わず吹き出す声が御剣から聞こえます。「なんで笑うんだよ」「いや、なんというか、君には似合わなさ過ぎる言葉だな、と」「ちぇ。ぼくなりに気をつかったのにさ」「そうなのか。気付かなかったな」「別にぼくは結婚とかそういうのどうでもいいし、子どももいたら、そりゃあ可愛がるだろうけど、必須じゃないし」 ドラマチカルな出会いを経た二人は勿論、お互いを離れる気は毛頭ありませんでした。なぜならこれ以上に失うことを恐れる存在など無いからです。それは人生における重要度の裏返しでした。相手がいなくなれば自分は無くなる。それは存在的な意味だけではなく、相手が自分の中に残しているものも加味してのことです。いわゆる、こいつがいなければ今の自分はいなかった、です。 そんな相手が、伴侶として自分を選んでいる。また二人でいれば、停滞するのではなくどんどんと仕事上でも高め合っていける。これ以上ないほどの、すべての意味を含んでのベストパートナーでした。 ただひとつ、個人ではなく種族、いやこの世に生を受けた全ての生物の使命である、子孫を残せない、という事実を除いて。「子どもが欲しいなどは、思わないのか」「うん。別にね。御剣は?」「……今は姿の見えない、未来にいるかもしれない私の孫子よりも、今確実に目の前にいる君の方が私は大切だよ」「へぇ~」 あれぼくいま凄い熱烈な告白受けてない? と気付いた頃には、二人とも銭湯だけではない理由で頬が真っ赤でした。 悩まないか、と言われたら二人ともそれは嘘です。 それなりに悩みはしましたし、しています。生きている限り思考は巡りますし、明日の自分は今日の自分と同じとは限りません。 過去に戻ることはできません。すべてを無かったことになんてできません。 成歩堂と御剣が事件によって引き離され、事件によって出会い、いろんな戸惑いや苦悩の中愛し合ってしまった以上もう戻れないのです。あちらの道もあったかもね、と思ったとしても今更歩めないことを二人ともわかっています。だってもうここまで来てしまって、そして歩き出してしまって、過ごした時間は確実に今も重ねられていっているのですから。 わかっていても、こうして折りに触れちょっと尋ねてみたくなることもそれもまたしょうがないのです。「案外、今に生きてたね」「取らぬ狸の皮算用は、あまりよろしくないからな」「未来への投資とかしないタイプ?」「すべきところにしている」「ぼくとか?」「言ってろ」 今ふと吹き抜けてしまったほんのすこしひやりとするような風も、振り返れば伸びる長い道のりに吹きぬけてきたいろんなものに比べれば一瞬のことです。思い返せばその程度。何度も考えて乗りきって自分の中の選択肢にケリを付けてきた筈の風。だけど吹く度それに揺れ惑ってしまうのも、彼らが毎日を確かに生きているからこそでした。「手」「ム」差し出された手はほんの少しだけ震えていました。きっと寒いのです。「手、ほら」「……ム」「誰もいないし」「……」「んーあったかい。やっぱ温泉っていいね」 伸ばした手も、同じくほんの少しだけ震えていました。しかし指と指とを組んでしっかりと繋いだらあっという間にそれは止まりました。やはり温かいのが一番です。繋いだ手の間には風すらも通り抜ける隙はありません。まったくもって最強です。向かうところ敵なし、といった感じです。現に、この二人がぶつかり合う法廷で解決しなかったものなどありません。実績あり、安心信頼安全のこの繋がりです。「別に夫婦ってみんな血繋がってないしね」「それもそうだな」「みんな手繋いでるしね、同じ同じ、やってること」「なんだ、慰めか? それとも自分に言ってるのか?」「や、なんかさー良く考えたら御剣もぼくもそういうのあんまり気にしないタイプじゃん、結婚とか」「よくわかっているな」「でもなんかこう、改めて確認というか、あ、だからかな、みたいな」「死ぬ時は一人で死ぬしな」「死ぬときになって、ベッドの上で手握られて、そのとき、あ、確かにーってみんな思うよ」「気の長い話だ」「人生長いからね、そんくらいしないとわかんないよ。おじいさんもそう言ってた」 きっとまたいつか、びっくりするほどの唐突さで自分達の関係性を見つめてしまうときは来るのでしょう。誰が悪いということもなく、勿論彼らが悪いということもなく、それは人がたくさんいる世界に生きる以上普通のことです。明日ロケットが落ちることも、車に跳ねられることも、急に銃を突きつけられて手を上げろ!と言われることも、確率はゼロだなんて誰にも言いきれません。 そんな中に自分はいて、少なからず大切なものがあって、それらを守る為であったり叱咤激励する為であったり、時にはいとおしむ為に毎日を重ねているということは忘れずに覚えておくべきで。他人ではなく、自分をこそ信じるべきであって。そして、いざというときに、節目節目に手を取るべき相手は、今手を取っているこの相手自身であるということ。 大事なことは、それを二人とも疑っていないということです。 新たな場所へ行くと、新たなことがわかる。 今まで知らなかった物に触れる。 それを一緒に見る事ができて、ちょっと動揺もしたけれど、まぁ、手を繋ぐ口実になったからいいか、と思いながら、家へ帰る二人なのでした。了