ウェブブラウザのJavaScript(ジャバスクリプト)の設定が無効になっています。Javascriptが無効になっていると、サイト内の一部機能がご利用いただけません。 「藍。今晩の夕御飯はカレーにするわよ」「か、かれー……ですか? 何ですか、それ」 西に傾いた陽が、じんわりと裏山の端に暮れなずむ申の刻下がり。 仲秋の澄みきった夕空を染め込む朱色の陽光にマヨイガは包まれ、梨地の型板ガラス越しに差し込む陽射しが乱反射して、琥珀を詰め込んだ万華鏡のように映じる炊事場に、割烹着を掛けた藍が仕度で立とうとした矢先のことだった。「あら、知らないの?」唐突に話を切り出した紫は、少し意外そうな顔をしながら、「外界では最もポピュラーな料理の一つよ」「そりゃまぁ、外界のことは紫様と違ってそこまで詳しくはないですから……」 紫が座る畳の横でゴロゴロしていた橙も、全く知らないといった様子で、その場でキョトンとしていた。 藍はそれまでの紫の言動から、また主が気まぐれで何か良からぬ面倒事を引き起こすのではないのかと嫌な予感がしつつあった。 しかしながら、下手にここで聞きそびれて後々傷口を広げるようなことだけは避けたかったので、藍は潔く腹を括って改めて紫に尋ねることにした。「それで、何ですか? その、カレーっていうのは」「うーん、そうねぇ。物凄く簡単に説明すると、多種多様な香辛料を混ぜ合わせて味付けした料理ってところかしらね」 一瞬、藍が固まる。「……なるほど、香辛料ですか。それはまた調理以前に、調達に時間がかかりそうな代物ですね……」 藍の予感は既に的中しかけていた。なぜならマヨイガに香辛料がないことは勿論のこと、そもそも里で香辛料を扱っている食材店自体が存在しないのだ。幻想郷でそれだけの種類の香辛料を扱っているところで考えられるのは、せいぜい霧の湖近くに建つ紅魔館くらいなもので、それでも紫が望むような香辛料が全て揃うとは到底考えられなかった。「……かしこまりました、紫様。ひとまず、紅魔館へ香辛料の調達に急ぎ向かってきます」 やれやれといった様子で仕方なく藍が割烹着を脱ごうとすると、「あぁ大丈夫よ、藍。調理に必要なものは、ちゃんとこっちで用意してるから」 紫はあっけらかんと、ひらひらと手を振りながら言った。「しかも藍が料理しやすいようにね。ほら、じゃーん!」 そう言って紫はどこからかおもむろに、焦げ茶色をした薄平の四角い固形物を取り出すと、藍に見せた。「一瞬、板チョコにも見えましたが……。臭いからして全くの別物でしたね。これは一体何ですか、紫様」「これはね、カレールーと言って、要は香辛料や調味料といった、カレーを作る上で必要不可欠なモノを全て固めて作られたものよ。後は水を入れたお鍋の中に、適当に切って炒めた野菜や肉と一緒にこのルーを入れて煮込めばカレーの出来上がりって訳。ね、簡単でしょ?」「……本当にそんな簡単に出来るものですかね。第一、そんな適当に作ったものが美味しいとは、正直思えませんが」 眉をひそめ半信半疑な藍とは対照的に、紫は無邪気そうにニコニコと微笑みながら、「心配無用よ、藍。カレーはその全てを受け入れるわ。仮に煮込みが浅くて食材が全て生煮えであったとしても、逆に煮込み過ぎて食材を全て溶かし尽くしたとしても、あるいは水が少なくてルーが溶けきらずに固まったとしても、カレーはその絶大な包容力をもってパーフェクトにその料理を美味しく仕上げてくれるの。藍に限ってそんなことはまず有り得ないだろうけれど、大船に乗ったつもりで料理すると良いわ」「は、はぁ……そういうものですかね。―それはそうと、紫様」「うん、なあに?」「そのカレールー、どこから仕入れてきたんですか?」 今度は紫が一瞬、固まった。「まさかとは思いますが紫様、勝手に結界を緩ませて外界から密輸入してきた訳じゃないですよね?」 不意に藍から向けられた猜疑の目に、紫が目を逸らしながらひたすらに押し黙っていると、「そんなことだろうと思いましたよ」藍が呆れ顔をしながら、溜息をつく。「お願いですから、管理する私の身にもなって下さいよ」「平気平気、結界はきっちり張り直しておいたから。さっ、早くカレーを作りましょ、ね?」 まったく紫様は、とぶつぶつ不平を言う藍をお構いなしに、半ば強引な形で紫は話を切り上げると、藍に早速カレー作りに取り掛かるよう命じた。 渋々応じた藍が、味見することなく指示された紫のレシピ通りに料理を始めること小一時間。 マヨイガの食卓には、三人それぞれ一枚の真っ白なプレート皿に熱々のご飯とカレーが半々にのせられた料理―カレーライスが並んでいた。「本当に笑っちゃうほど簡単に出来ちゃいましたね。料理する側としては非常に楽で助かりますが」「えぇ、そうよ。今回使った具材はじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、それに豚肉と、ごくオーソドックスなものばかりだけれども、トマトやかぼちゃといった他の野菜類を入れても良し、きのこ類やフルーツ類を入れても相性は抜群。食料庫の余り食材の一掃にも最適よ」「ですが、果たしてこんな大雑把に作った料理が美味しいのでしょうか? 見た目は思っていたほど悪くはなさそうですが……」 未だ信じられないといった困惑する藍と、今まで見たことも嗅いだこともないカテゴライズ不能な料理を前に当惑する橙に、「論より証拠よ」と紫から銀スプーンを手渡される。二人にとっては、これでは一種の被験者ではないかと内心、泣き出したい心持ちでもあった。 だが無常にも、三人が卓に囲うようにして座ったところで、いただきますと全員手を合わせて食前の挨拶があっさりと済まされる。 躊躇する二人は、まぁ騙されたと思って先に食べてみなさい、と紫から勧められるまま、恐る恐るカレーをスプーンで一掬いして口に頬張る。真っ先に藍が叫んだ。「滅茶苦茶美味しいじゃないですか‼ どうなっているんですかこれ⁉」 藍が衝撃的なカルチャーショックを受けてフリーズする一方、その横に座っていた橙はあっという間に完食すると、飛び出すようにしておかわりに向かった。「どう? これがカレーよ。インドを起点として東はアジアやオセアニア、西はアフリカやヨーロッパを突き抜けてアメリカ大陸までも含むほぼ全世界中で食され、何世代にも渡って受け継がれてきたこの料理の味は伊達ではないはずよ」「こんなものが外界にあったなんて……。驚きを越えて畏れすら感じるレベルです」「中国四千年の食文化も凄いけれども、インダス文明から始まるインド四千年の食文化も負けてはいないということよ」年頃と言うこともあって最近は体型を気にしてあまり多く食べようとしなかった橙だったが、今日ばかりは打って変わってバクバクと一心不乱に食べ続けていた。食べる速度は、まるで落ちそうもない。「でもね、藍。驚くのはそればかりじゃないわ。カレーの真骨頂は、この先にあるの」「この先――ですか。 それは一体、どういう意味ですか?」「明日になれば分かるわ」 そう言うと、それ以上カレーについて紫が話すことはなかった。 結局、その日は藍も珍しく三回おかわりをするほどに、カレーは大好評を博した後、みな大満足でそのまま床に就いたのだった。 その翌朝。 いつものように藍が朝餉の用意で炊事場に立とうとした瞬間、その横からひょっこりと紫が姿を現した。「お早うございます、紫様。珍しいですね、紫様がこんな朝早くから、それもご自身のお力のみで起き出すなんて。いつもなら私が何度も起こしに行ったところで、墓石のようにビクとも動かないというのに」「私だってやれば出来るのよ」紫はムスっと頬を膨らませながら、「それと、昨晩カレーを食べた甲斐あって新陳代謝が良くなったみたい。お陰で今朝はあっさりと起きることが出来たのよ」「それは良かったです。ただ紫様、そのカレーについてですが……」 藍は曇った表情を浮かべながら、昨晩あれほど三人して沢山食べたにも関わらず残ってしまったカレーの入った寸胴鍋を指差した。少なく見積もっても、五人前は優に超える量だった。「これ、如何致しましょうか……?」「ノープロブレムよ、藍。昨夜言ったでしょ、カレーの真骨頂はこの先にあるって」 紫はいつもと変わることなく自信満々に答える。だがそれだけに、藍は不安だった。 それもそのはず、いくら昨晩のカレーが美味しかったとはいえ、あれだけ食べたものと全く同じものを朝にも食べるのは、些か辛いように感じていたからだ。絶対に嫌というほどではないにしろ、出来ることなら避けたい、といったのが正直な気持ちだった。 そんな藍の心中を察してか、紫は藍の背中を優しくぽんと叩くと、「安心なさい、藍。今日のカレーは昨晩のとは全く別物だから。先ずは火を点けて十分に煮込んだ上で、鍋から三人分のカレーを取り出すのよ。火元は私が見ておくから、その間に氷室に保管してある冷凍うどんを三人分取ってきて頂戴」「う、うどんですか……? まさかとは思いますが紫様、そのうどんをカレーが入った蕎麦猪口につけて食べるとか言うんじゃないでしょうね……?」「惜しいわね。正しくは丼ぶりに入れたうどんの上からカレーをかけて食べるのよ」「どっちも殆ど変わらないじゃないですかぁ‼」 藍の悲痛な声が虚しく響き渡る。結局その日の朝御飯は藍の予想通り、カレーをふんだんに使い回す料理だった。「紫様ぁ、そんなことしなくたって新しいお食事くらい作りますよ! 料理することは私、全く苦じゃないですから!」「まるで分かってないわね、藍。一晩寝かしたカレーは、肉や野菜、香辛料に含まれる旨味成分でもあるグルタミン酸が更に引き出されるのよ。コクもしっかりと出て、前日とは比べ物にならないほど優しくまろやかな口当たりになっていて、とても食べやすくなっているわ。起き抜けの朝御飯には、正に打って付けの料理なのよ」 紫はいつになく真剣に、大真面目な口調で言葉を返す。冗談で言っているようには、到底思えなかった。「……本当ですか、それ。いくら何だって、出来過ぎた話じゃありませんか? 昨晩のカレーがただ冷えて固まっただけですよ、これ」「貴女は本当に心配症ね。私が大丈夫と言っているのだから、少しは信用しなさいよ。それにカレーにはお湯に加えてとっておきの顆粒ダシを入れるし、貴女が大好きな油揚げもちゃんと入れる予定だから」「そういう問題じゃないですって‼」 言いたいことは山のようにあったが、朝っぱらからこれ以上主と言い争う気にもなれず、がっくりと肩を落としながら不承不承、藍は紫の指示に従った。 そして調理すること僅か十数分。 またしても昨晩同様、いやそれ以上に手間暇のかからない料理―カレーうどんが完成した。「さっ、橙も布団から抜けだして食卓に着いたところだし、早く食べましょ、藍!」「はい……」藍は依然として憂鬱な面持ちだった。 一方の藍の横に座る橙はと言うと、はじめこそ今朝の料理に驚きはしたが、昨晩のカレーがよほど気に入ったのか、目を輝かせながら無邪気に喜んでいた。今の藍にとっては、それが唯一の救いでもあった。 いただきますの掛け声と共に、箸を手に取ってカレーうどんへと伸ばす。流石に昨日のような奇跡は二度も起きないだろうと、内心では思いつつ一口啜った藍は刹那、その場にひれ伏した。「どう? 藍。このカレーうどんのお味のほどは。このアレンジ力とポテンシャルの高さこそが、カレーの真骨頂だということ、身に沁みて感じたかしら」 紫の諭すような声に、藍は額を畳につけながら、「はい、返す言葉もありません。私めが間違っておりました」「いい? カレーはその固定概念に縛られることなく、世界中のありとあらゆるニーズやウォンツを拒絶することなくその身に受け止め、受け入れてきた懐深い料理なの。その点、肝に銘じておくことね」 蓋を開けてみれば、藍の不安は完全に杞憂に終わった。 事実、朝に出したカレーうどんも、更にその晩に残りのカレーを炒めて作ったカレーピラフやコンソメとお湯を加えて作ったカレースープも、全て非の打ち所がない、圧倒的なまでの完成度だった。 藍が予想していたその全てを、カレーはいとも容易く遥か上を越えていったのだった。食事を終え、二日に渡って余すことなく使いきり、ようやく空になった寸胴鍋を洗いながら、藍はしみじみと言った。「それにしてもこのカレーという料理、本当に素晴らしかったですね。あのカレールー、まだ残っているのでしょうか、紫様」 今では藍もすっかり、カレーに魅されていた。「ええ、ちゃんとあるわよ。食料庫には今年どころか、来年の春までは十分に越せる量はあるわ。私が眠っている間も自由に使って頂戴」「ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」 こうして八雲家に強力な食品が戦力に加わってから数日が経ったある日、ついに異変は起きたのだった。(続)